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世代間の争い3(星)

ある経営者の方と話していたときに、成功した経営者の中には、運だけで成功している経営者がいると言われたことがあります。その方は社会的に成功されている方に自分は運だけで成功しているのかと尋ねられた際に、「運だけだと!」と断言されたそうです。勿論、会社経営には運も必要であり、運に恵まれなければ成功は困難と言えますが、運だけで成功できるかとなりますと、少しばかり疑問が残りましたが、その経営者の言いたいことは分かります。

 

成功された経営者の中には、思い付きとは言いませんが、何か人と異なる手法で成功される方がいます。その多くは、時代を先取りした方法であったり、時代の潮流に乗ることで業績を伸ばされた方が多いようです。勿論、それが分かっていても果敢に挑戦するには、それだけの実力が必要なだけでなく、財政的な基盤や人脈など様々なことが必要になります。

 

随分と前の話ですが、今から40年近く前の話となりますが、レンタルビデオチェーン店に出入りしていた知り合いがオーナーから出店の誘いがあったそうです。今でこそレンタルビデオは斜陽産業となってしまいましたが、当時は急成長の業界であり、社員旅行が海外旅行とかなりの収益を得ていたようです。知り合いは、出入り業者であったことから出店すれば、確実に儲かると分かっていたが、出店費用を用意できなかったと笑っていました。

 

詳細な金額を聞くこともありませんでしたが、当時の金で一千万円ほど必要であったと言っていましたが、担保があれば話は別でしょうが、個人が銀行から借金するとなるとかなり厳しかったと思います。管理人が占い師を始めた理由も開業資金がほとんど不要なことが最大の理由でした。占いの道具は既に持っていましたし、自宅で開業するのであれば、特に何かが必要と言う事もなく、作ったのは、名刺程度でした。勿論、専門書は何冊か買いましたが、一般的な小売店の開業に比べるならば、微々たる金額です。

 

話を戻しますと、ヒット商品を開発したり、急成長する分野を見出して、他の人よりも先に手掛けることは、それだけ商才があると言えますが、それは運に恵まれていたとも言えます。つまり、冒頭の経営者の言いたかったのは、新たな営業方法であれ、新商品であれ、1つの成功体験に頼って会社が急成長しているならば、それは運に恵まれてるだけであると言いたかったのではないかと思われます。そしてその成功体験に頼っているならば、運だけで会社を経営していると言いたかったのだと思います。

 

しかし、管理人が見て来た経営者の大半は、この運だけを頼りに会社を経営しているのように思えます。その理由は、過去の成功体験を忘れることができず、その方が成功した当時とは社会情勢や生活習慣が変化して当時のやり方が通用しないことは分かっているはずなのに、自分が成功した方法を金科玉条のごとく守り続けているからでした。これは年寄りに限られた話ではなく、中年でも同じであり、それぞれが自分の成功体験に強いこだわりを持つと感じました。

 

但し、年寄りになればなるほど、現実の社会情勢や社会生活との乖離(かいり)が激しくなり、現実に対応できなくなるだけの話であり、基本的には順送りとなります。そのため、今の若者が老人になる頃には、今の年寄りが昔は良かったと言うように、昔は良かったと語り、今の若者がそんなやり方では通用しないと反発しているように、今の若者が年寄りになる頃には、その時代の若者から反発されると思います。

 

自分の成功体験に強いこだわりを持つことは、人間には誰しもあることであり、避けられないことでありますが、そのこだわりを持ち続けながらも生涯を終えることができるならば、何とも幸せな人生ではないかと思います。多くの場合には、時代の変化に対応できず、自分の心の中にだけにある過去への郷愁と言う理想郷に安住する経営者も少なくないようです。こうなってしまうと老害としか言えなくなります。

 

これを防ぐためには、過去の成功体験に対するこだわりを捨てることですが、これは簡単ではないようです。特に過去の成功体験に対するこだわりが強い人ほど、その手法が時代遅れであるとか、社会の実情とはそぐわなくなったと指摘されるならば、自分の人格を否定されたかのように怒り出す方も少なくなかった気がします。恐らくは、その成功体験がその方の人生で一番輝いていた時代であり、その時代の成功体験が人生の大きな支えになっているのではないかと思われます。

 

そのため、自分が成功した手法が通用しなくなった現実を受け入れることは、自分の存在価値が否定された気分になるとのでしょうが、自分の成功体験がいつまで通用するかと、天のみぞ知ると言うことになります。そのため、冒頭で紹介しました経営者が語られたように運だけで経営しているとの話となります。

 

 

ご相談は こちらから

at 07:09, 星 良謙・子授け地蔵, 経営

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世代間の争い2(星)

管理人は、10年以上前から酒を飲まなくなったためか、洋菓子、和菓子を問わず、男としては食べるほうかなと漠然と思っています。別に甘党でもなく、グルメではありませんが、和菓子に関してはこだわりがあります。それは、和洋折衷のお菓子に関しては、良い印象がないことです。過去に珍しさも手伝って買ってみたことはありますが、「何これ?」→(2度と買わない)が3割程度、「こんなものかな?」→(忘れた頃に買うかも?)が7割です。美味しいと思ったお菓子は、ほとんど記憶になく、1回だけ次に見かけたら買おうかと思ってた程度です。

 

しかし、これが伝統的な和菓子となりますと、「値段を考えればこんなものかな?」→(時々は買う)が7割、「美味しいことは分かっているけど高い」→(たまには買う)が2割、「3回に1回は、買って帰る」→(地域限定商品)が1割となります。最近は、地域限定の商品と言ってもネットで取り寄せも可能な商品も多いのですが、取り寄せてまで買う気はなく、参拝に出掛けた際に買って帰ることが大半です。

 

冒頭からお菓子の話題を取り上げましたが、これは新製品の開発の難しさの一例です。開発した側としては、画期的な新商品と考えて発売されるのかもしれませんが、定番として残る商品はごく一部であり、大半は忘れ去られるのが普通です。小売店の売り場面積は限られていることから、売れなければ並べて貰えず、並べてもらえなければ、売れるはずもないことから生産中止になることも当然となります。そのため、メーカーが次々と新製品を発売しても新製品と同じ数だけの商品が生産中止になっていると言えます。

 

それに対して古くからある定番商品のと言えるような商品の中には、管理人が子供の頃からある商品は数多くあります。また、商品がブランドとして確立している物も少なくありません。これらの商品は、一定の人気があり、安定した売り上げがあると言えますが、これは消費者からの一定の支持があり、消費者から信頼されている商品であることが生き残ることができると言えます。

 

これは何も新製品に限らず、新しいことを始めるには、それだけ高いハードルが待ち構えているのに対して、古くからの手法はそれだけ支持される要因があるからこそ、続けられていると言えます。このことが改革を停滞させる要因であり、何事も現状維持の自己保身になりやすいと言えます。勿論、会社の経営にこれと言った問題もないのに方針を転換する必要もなく、無用な方針転換や改革をするならば、混乱を招くだけの結果となります。

 

例えば、冒頭に書きました老舗和菓子店が代表的な商品を唐突に現代風の味に変えたならば、新しい味にするならば、新製品として発売してくれとなります。客としては、求めているのは味の変化ではなく、味を守ることですが、世の中には変える必要がないのに従来の方針を変更する場合があります。その多くは、後任者の自己顕示欲であり、会社の業績や利益よりも自分が目立つことを優先するタイプです。

 

周囲からするならば、迷惑な話であり、目立ちたいのならば、カラオケでも歌っていろと言いたくなりますが、こんなタイプの人間がいることも事実です。この次に多いのが、現実を無視して理論だけで考えるタイプの方です。世の中には、経営書は溢れていますし、優れた経営書も数多くありますが、会社経営は経営理論を学べば成功できるとは限りません。優れた経済学者が会社経営をしたならば、成功できるとは限りません。つまり、理論通りにはいかないのが経営です。

 

その理由を考えますと、経営理論は一定のモデルケースを想定しますが、実際の会社経営では不確定要素が多く、理論通りには話が進まないことは珍しくありません。これは料理でも同じではないでしょうか。材料は〇〇が何グラム、調味料は〇〇を何グラム、ゆで時間は何分と細かく指示するならば、似たような味は再現できますが、同じ味を再現できるかは、別の話です。同じ野菜でも産地や時期が異なるならば、味は異なります。優れた料理人は、その日の天候や気温で微妙に修正する言いますが、これは何も料理に限られた話ではありません。

 

同じ営業方法がAの地区では成功してもBの地区では失敗することは珍しくなく、同じ商品がAの地区では爆発的に売れてもBの地区では全く売れないことも珍しくありません。そのため、経営理論を学ぶことは有意義なことではありますが、優れた経営理論を学び、優れた経営知識を持っているからと言っても優れた経営ができるかとなれば、話は別となります。これは飛行機の操縦技術を本で覚えても飛行機を操縦できないのと同じことなのですが、理想に燃えて改革しようとして部下に反発され、挫折する若手の後継者に多い失敗です。

 

しかし、過去に受けた経営関係のご相談で一番多いのは、現状では衰退するしかないことを承知していても何をどうすれば良いのか分からずに途方に暮れている方からのご相談でした。冒頭にも書きましたが、大企業が発売する新製品であっても「何これ?」と思うような商品は少なくありません。また、発想は良くても製品にする段階で企画倒れになっている商品もあれば、商品は良くても価格設定に間違いがあったり、商品は良くても販売方法や販売時期を誤ったために失敗した例も少なくありません。

 

これが経営方針転換となりますと、失敗すれば経営危機になります。それでも相談されるのは、このまま現状を維持したならば、会社の存続の危機が訪れることの危機感からでした。つまり、それだけ追い詰められた状態の相談者でしたが、病気と同じて早い段階であるならば、色々な解実的な対策をご提案することも可能なのですが、企業として活力を失った末期症状の段階では、現実的な対処には限界があります。

 

それでも何とかしたいとなれば、現実的な問題の鑑定、風水の鑑定と対策、神社仏閣での祈願祈祷、霊障の鑑定と対策などを含めた鑑定と総合的な対策となります。そのため、鑑定としては大がかりになることは避けられず、費用も高額となるだけでなく、建て直しが成功した場合の反動も大きくなります。過去の事例では、一連の対策が終わり、色々な問題は解消しましたが、問題の多かった幹部社員の退職したり、社員が大幅に入れ替わりしたりました。それだけ、抱えていた問題が大きかったと言うことであり、問題解決のためには、荒療治が必要になると言えますが、神仏のご指導の為か、すべて自主的な退社であり、解雇はありませんでした。

 

しかし、資金繰りにも行き詰まりに近い状態であり、風水の対策や霊障対策のための祈願祈祷などの費用も捻出できないとなりますと、提案させて頂けることに限界があります。顧客の新規開拓も困難であり、店舗の改装の費用や宣伝広告費も捻出できないとなりますと、小手先の対策しかできないことになります。一番現実的な解決策は、廃業することと言う笑うに笑えない場合もありますが、個人経営の場合には、結果的に廃業して良かったと言われた方も何人かおられます。

 

それだけ、経営の立て直しは難しいと言えますが、状況が悪化すればするほど、総合的な対策が必要となり、それができないのであるならば、廃業を選択するしかなくなります。そのため、相談をお受けする側の人間としては、早い段階でご相談を頂くことをお勧めするしかありませんが、次回は経営危機に陥らないための話を取り上げさせて頂きます。

 

 

ご相談は こちらから

at 01:59, 星 良謙・子授け地蔵, 経営

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世代間の争い1(星)

今年の中日ドラゴンズは、どうなっているのでしょうか・・・・

 

(T_T) ウルウル

 

5月に入ってからも調子が上向くこともなく、最下位を低迷しております。

 

試合結果を見るたびに・・・グスグス((o(T^T)o))バタバタ

 

ああ・・、また負けた!

 

既にラジオで野球中継を聞く意欲も失っています。

 

聞いていても オリャー!!(ノ-o-)ノ⌒┳ ┫┻┣ 聞いていられるか!

 

。・°°・(>_<)・°°・。 ウエーン また負けた・・・

 

ああ、このままシーズン終わりまでこんな調子なのでしょうか?

 

α~ (ー.ー") ンーー

 

それはさておき・・・・

 

管理人が30代から40代の頃に経営方針に関して親子間で対立している話をよく聞きました。いずれも家族経営や同族会社の経営を巡る対立ではありましたが、どこも似たような話でした。親である60代、70代と言った世代の社長が会社の経営の実権を握って離さず、古い経営手法にこだわり、30代から40代の息子がそんな経営では。経営が成り立たないと親の経営方針に反対しても親である経営者は聞く耳を持たず、対立するパターンでした。

 

これは何も経営者に限らず、企業でも同じでした。営業所長は自分が20代、30代の頃の体験を昨日の事のように話しましたが、そんな時代遅れな営業が通用するはずもなく、部下は黙って聞いているだけで、従う気持ちもありませんでした。それでも上司の命令とあれば、黙って従うしかなく、こんな時代遅れなことをどうしてやらなければならないのかと疑問を抱いていましたが、そんな時代遅れな方法が通用するはずもなく、現場は混乱します。

 

高度成長期ならば、問屋に過剰な流通在庫を押し付けても何とかなったのかもしれませんが、どの問屋も適正在庫を心掛けているのに過剰な在庫を押し付けならば、返品されるだけなのに、とにかく売り付けることばかりを考えている管理職は少なくありませんでした。これはどのメーカーでも同じような状況であり、仲の良い同業他社の社員と話していると良く分かりました。上司の失敗は部下が尻拭いさせられることや販売体制の矛盾は末端が背負わなければならないのはどの会社でも同じでした。

 

人間は誰しも自分の成功体験にしがみつく傾向があり、自分が成功した手法にこだわる傾向がありますが、時代や社会が変わるならば、以前には通用した方法が全く通用しなくなることは珍しいことではありません。そのため、社会の変化にあわせて柔軟な対応が必要となりますが、それが簡単にはできないのが人間の悲しさでしょうか。

 

経営者が50代、60代であり、今更新しいことに挑戦する気もなく、いずれ廃業することを視野に入れているのであるならば、古い経営方法にこだわり続けることも一つの方法論ではありますが、若い従業員や後継ぎがいるとなれば話は変わります。経営者の回顧主義にお付き合いしていたならば、会社は衰退するばかりであり、先がありません。

 

そのため、冒頭に紹介した経営方針に関して親子間の話となります。その当時によく聞いたのは、このままでも5年、10年は持つがその先がないと言う話でした。つまり親である経営者が生きている間は、何とかなるだろうが、今のうちに手を打たないと、待っているのは廃業か、倒産しかないとの危機感でした。これは老害と言うべき、年寄りがいつまでも経営から引退しないことの弊害であると言えます。

 

以前に一流の経営者は人材を残し、二流の経営者はシェアを残し、三流の経営者は資産を残すと聞いたことがあります。管理人からするならば、無能な経営者は借金を残すと加えたいところですが、いずれにしても良い人材を残すことは難しいようです。管理人が見て来た経営者の多くも良い人材を残すことに成功しているとは思えませんでした。一番多いのは、死ぬまで経営の実権を握り続け、後継ぎである自分の息子には何も決定権を持たせないタイプの経営者でした。

 

これは、一代で財を成した経営者に多い気がしますが、先代の社長が死ぬまで経営の実権を握り続けた場合は、後を継いだ経営者の代で廃業や倒産になることが多くありました。その原因は、二代目の経営者に経営能力がなかったのではなく、経営を引き継いだ時点で会社が組織として制度疲労を起こしていたり、販売方法や管理体制などが時代遅れになっていたりと組織としての活力を失っていたことが原因であると思われました。

 

つまり経営を引き継いだものの、会社は既に衰退していたと言うことでしょうか。更に加えるならば、先代の社長が死ぬまで経営の実権を握り続けていたことから、後を継いだ経営者には、抜本的な改革を成し遂げるだけの才覚も度胸もないことから経営不振が続き、廃業や倒産に至ることが多いようです。これは先代の経営者が先代の社長が死ぬまで経営の実権を握り続けていたことが原因であるとも言えます。

 

後を継いだ経営者にしてみれば、それまでは経営者の指示に従っていれば良かったのですが、ある日から自分の判断で決断し、自分の判断に責任を負わなければならなくなります。これは経営に関して自分で判断することなく働いてきた人間にとっては、大変に大きな重圧となります。そのため、多くの場合には、先代の経営方針を受け継ぐことが多いのですが、会社が既に衰退している状況では、経営を立て直すことは至難の業であり、先代の経営方針を受け継いでいるならば、廃業や倒産に至るのは自然の成り行きです。

 

後継者である次期社長が早い段階で経営方針を転換しようとしますと、最初にご紹介した経営方針に関して親子間で対立する話となります。今回は、老害とも言うべき問題について書きましたが、次回は後継ぎとなる経営者の問題点を取り上げてみたいと思います。

 

 

ご相談は こちらから

at 10:23, 星 良謙・子授け地蔵, 経営

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神社への参拝(星)

先日の事ですが、東海地区では有名な稲荷神社に参拝しました。

連休中と言う事もあり、多くの参拝者でにぎわっていましたが・・・・・

気付くと半分以上の参拝者が本殿脇に祀られたお社の屋根に向けてお金を投げている様子・・・・・

幼稚園か、小学校低学年と思われる子供を連れた親も子供な一緒になってお金を投げていました。

 

ああ・・・、めまいが・・・・ (−−;)

 

暫くすると外国人を案内していると思われる方までもお社の屋根に向けてお金を投げていました。

 

(~_~メ) ピクピク

 

一緒に参拝していた知り合いもあまりのマナーの悪さに憤慨・・・(メ▼。▼)y-~~~おら〜

 

張り紙の一枚も張れないのだろうかと、社務所を訪ね、神職の方にお話をさせて頂きました。

神職の方は、そう思って頂ける方がいるだけでも嬉しいことですと言われていましたが、いつの頃からか投げたお賽銭が屋根に乗ると良いことがあるとの噂が広まって困っているとのことでした。お賽銭は、神様へのお供え物であり、賽銭箱に入れるのも静かに入れるのが作法ですが、ご存知ない方が多いのでしょうか?

 

このブログでは、神道に関してはあまり取り上げませんが、個人的な信仰歴としては神社の方がお寺より長く、霊障に悩み、途方に暮れていた頃には、神社に参拝して境内でぼんやりとした時間を過ごすことが多くありました。何がどうと言う事もありませんでしたが、日常生活を離れ、静かな時間を過ごすことで気分が少し楽になりました。

 

何をどうすれば分からない状況の中で色々な霊能者の本を読み漁り、色々な人を頼ったりもしましたが、何が変わると言う事もなく、途方に暮れる日々が続いていました。霊能者や行者にも不信感は抱いていましたし、宗教にも失望していましたが、一人で静かに神と向かい合う時間は好きでした。

 

神道の神霊からも色々と教えて頂いていますので、神道の神霊のお考えは少しばかり分かりますが、神道の基本的立場は、教えを残さないことにあります。教えとして言葉として残すならば、言葉に囚われて教えを見失うとのお考えがあるようです。勿論、教えとして言葉として残すならば、言葉に囚われると説くこと自体が言葉に頼らなければならないのですが、神霊の言われようとしていることは分かる気がします。

 

残された教えを学んでも言葉の奥にある真理を体得することは容易ではないだけでなく、どんなに緻密な教えの体系を残したとても体験を通さずに神仏の真意を知ることは非常に難しいと言えます。また、言葉で教えを理解しようとする限り、言葉の制約から逃れることはできず、言葉の解釈を巡って対立が起きるだけでなく、衆生の苦悩とは無縁な観念論の議論ばかりが盛んになるのは、避けられないようです。

 

そのため、教えを残さずに祭礼の儀式の作法だけを伝えるのも一つの方法ではありますが、何の指針もないと少しばかり不安となります。そして何が正しく、何が間違いであるのかの基準を探します。実践できるかどうかは別にして教えが残されていれば、安心感は得られますが、何が正しく、何が間違いであるか、神は何を考えているか、その答えを拒絶しているのが、神道が神道である理由ではないかと考えるようになりました。

 

管理人は、神霊から神道の考え方について学んではいますが、本当に霊格の高い神霊が何を考えているのか分かるはずもないと考えてます。以前にある有名な神社の本殿の前で高い霊格の神霊からのお言葉を受けたことがありました。文章にすれば、僅か一行にも満たない内容のお言葉ですが、家に帰ってから寝込みました。寝込んだと言うのは、少しばかり大袈裟ではありますが、気分としてはそんな感じです。

 

神霊からのお言葉を聞くとは、神霊と心が通じる必要がありますが、その際に神霊の言葉だけてなく、神霊のお力も伝わってきます。そのお力があまりにも大きすぎて、自分の容量を遥かに超える力が流れ込みますと、意識を失うこともあります。この時は、意識を失うことはありませんでしたが、横になって休んだと記憶しています。これは気功治療でも同じようなことが起きます。最近は、気功治療を行うこともありませんが、以前は依頼されれば気功治療をしていましたが、施術中や施術後に寝てしまう方は少なくありませんでした。

 

また、これは祈願祈祷などでも同じようなことがあります。管理人が知り合いのために神社仏閣で祈願しますと、同時刻に強烈な眠気を感じたと言う話は何度か聞いています。但し、これは忙しく動き回っていると起きず、事務仕事などをしていると起きる現象であると聞いていますので、常に同じような現象が起きるとは限らないようです。

 

さて、話を戻しますと、このような経験を何度かしていますと、神仏とは人間の考えることができる範囲を超えた世界の存在であると考えるようになりました。神道の神霊は、善悪の基準と言ってみたところで、小学生の考える善悪の基準もあれば、高校生の考える善悪の基準があるように無限の段階があると説かれています。より高い段階の善悪の基準からすれば、自分が善と考えていることが悪になるかもしれず、更に高い段階の善悪の基準からするならば、善になるかもしれないと説かれました。

 

つまり、善悪と言ってみても段階に応じて内容が変わると説かれました。では、何を基準に考えるかとなれば、神の心であり、神の前に立って恥ずかしくない心で生きよとの教えでした。その神は、神社に祀られている辰妨造詆要はなく、人智を超えた偉大な存在の前に立っても恥ずかしくない心で生きよと説かれました。これが神道の教えの基本であり、すべてではないかと思います。

 

勿論、これは管理人の個人的な考えであり、神職の方のお考えとは異なるかもしれませんが、大きく外れてはいないのではないかと思います。真摯に修業されている神職の方が奏上される祝詞は、心地よく心に響きます。一般の人間が奏上する祝詞と何が違うのかと言っても上手く説明できませんが、辰魴匹Φせちの差ではないかと思えてしまいます。それは祝詞だけでなく、辰鯒劼鵑任い觧僂砲盍兇犬泙后

 

大きな神社に参拝しますと、熱心に祈られている方を見かけることは少なくありませんが、どこか違和感を感じることが少なくありません。それに対して二拝二拍一拝だけの参拝であっても真摯さを感じることがあります。この違いは何かを考えますと、やはり神を敬う気持ちの差であり、神と向き合う気持ちの差ではないかと思います。特に独特の作法で祈られている方には、近寄りがたい雰囲気を漂わせている場合が少なくありません。どのような作法でお参りされるかは自由なのでなのでしょうが、不気味に感じることすらあります。

 

勿論、真剣にお参りされているのでしょうが、その姿からは、言外に自分たちは特別であり、お前たちとは違うと言っているように感じます。その傲慢さが、違和感の原因であり、祈る姿に嫌悪感を感じる原因ではないかと思います。神職と同じように日々精進潔斎することは出来ませんが、偉大な存在の前に立って祈っている気持ちを持つことが大切となります。少なくとも辰魴匹Φせちがあれば、冒頭に紹介したようにお賽銭をゲーム感覚で投げるような気持ちにはならないはずです。

 

尚、神道の神霊の教えに興味をお持ちの方は、下記の本を参考にして下さい。

無料ですので、お気軽にダウンロードして下さい。

 

スマホからもダウンロードできるはずです。

 

 

ご相談は こちらから

at 19:39, 星 良謙・子授け地蔵, 神道

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不落因果と不昧因果(星)

先日の事ですが、神仏の働きに関して質問されたことがありました。管理人に分かることは、神仏の働きの一部でしかなく、その全貌を知ることはできませんが、過去の経験から話せる範囲のお話はさせて頂きましたが、その際に無門関の中にある「百丈野狐」の話を思い出しました。

 

無門関は、有名な禅問答の公案集であり、ご存知の方も多いのではないかと思います。個人的には、禅問答の公案は答えを得ることが目的ではなく、悟りを得ることを目的にしていますので、公案の解説には疑問を感じますが、解説のサイトは数多くあるようです。

 

さて、原文は漢文ですので、岩波文庫の「無門関」より、現代語訳を引用せて頂きます。

 

二 百丈野狐

 百丈和尚(ひゃくじょうおしょう)の説教があると、ひとりの老人が大衆の後ろで聴聞していた。
そして修行僧たちが退場すると、老人もまた出ていくのであった。ところがある日、彼はひとりその場に居残って出ていこうとしない。そこで百丈が、「そこに居るのは、誰か?」と聞かれた。

 

 老人は、「はい、私は人間ではございません。大昔、仏道修業を完成した人でも、やはり因果の法則に落ちて苦しむのでしょうか」と尋ねるのて、『いや、因果の法に落ちることはない』と答えました。するとそれいらい五百生の長い間、私は野狐の身に堕ちてしまい、生まれ変わり死に変わり今日に至りました。どうか私に替わって正しい答えとなる一句によってこの野狐の身から脱出させて頂きたい」と頼んだ。そして改めて、「仏道修行を完成した人でも、やはり因果の法則に落ちて苦しむものでしょうか。」と質問した。

 

すると百丈和尚は、「因果の法を昧(くらま)さない」と答えられた。その途端に老人は大悟し百丈和尚に礼拝して言った。「私は已に野狐の身を脱することができました。脱け殻となってこの山の後ろにおります。どうかお坊さん並みの葬儀を営んでください」。


百丈和尚は一山を取り締まる維那(いのう)に命じて衆僧を集めさせ、昼食の後に亡くなった僧の葬儀を行うと告げた。大衆は「皆こうして元気だし、病気で臥せてるものもいないはずだが」と不思議に思いあれこれ噂した。食後になると百丈和尚は大衆を引き連れて裏山の岩窟のところに行き、杖をもって一匹の死んだ野狐を引っ張りだし、直ちに火葬に付した。

 

晩になると百丈和尚は威厳を整えて法堂の檀上に登り、昼間の出来事の一切を語ってきかせた。すると一番弟子の黄檗が質問した。「老人はその昔、答えを誤ったばかりに、五百生もの長い間野狐の身に転落したということですが、もし彼が正しい答えをだしていたとしたらいったいその老人は何に成っていたでしょうか」。

 

百丈和尚は、「ここへ来るがいい。あの老人のために言ってやろう」と言われた。黄檗は百丈和尚の側(そば)に近寄ると、いきなり師の横っ面をぶん殴った。百丈和尚は手を拍(う)って笑い、「達磨の髭は赤いと思っていたが、なんとここにも赤髭の達磨がおったわい」と言われた。

 

 無門は言う、『「因果に落ちず」でどうして野狐(やこ)に堕ち、「因果の法を昧(くらま)さず」だと何故に野狐(やこ)を離脱しうるのか、もしこの大切な一点を見抜く第三の眼を持つことができるならば、あの百丈山の老人も何のことはない。実は五百生という長いあいだを風流の中に生きていたんだと分かるであろう』。

 

 頌(うた)って言う、
不落と不昧、
賽(さい)ひと振りに目が二つ。
不落と不昧、
どんなに見ても勝ち目なし。

 

無門関 西村恵信訳注 岩波文庫 P31-33

 

百丈和尚(ひゃくじょうおしょう) 百丈懐海(ひゃくじょう えかい、749年(天宝8載) - 814年(元和9年))は、中国、南宗禅中の洪州宗の祖馬祖道一の法を継ぐ唐時代の禅僧。

維那(いのう) 禅林で僧衆を督励し、衆務を総攬する役位の僧。現在では衆僧を先導して経を読む役僧。

黄檗(おうばく)黄檗希運(?〜850年頃)。百丈懐海禅師の法嗣で臨済義玄の師。

達磨 中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧。

 

この公案は、空についての公案であるとされているようであり、下記のサイトに詳しい解説があります。

 

曹洞宗 正木山西光寺 因縁(その12)-- 公案「百丈野狐」【前編】 --平成20年3月 こちらから

曹洞宗 正木山西光寺 因縁(その13)-- 公案「百丈野狐」【中編】 --平成20年4月 こちらから

曹洞宗 正木山西光寺 因縁(その15)-- 公案「百丈野狐」【後編】 --平成20年6月 こちらから

 

空の教えを離れて個人的な印象について書きますと、管理人が「仏道修行を完成した人でも、やはり因果の法則に落ちて苦しむものでしょうか。」と質問されたならば、何の疑問もなく「仏道修行を完成しても因果の法則に落ちて苦しむ」と答えると思います。これは、個人的な体験から導かれた答えであり、学んだ教えではありません。

 

結論から書きますと、悟った人間は、偉大な法力を持ち、因果の法則に制約されることなく、自由に生きることができるないと思いますし、それは神仏と言われる存在でも同じであると思います。神仏に祈願祈祷することで奇跡と言えるようなことが起きることを否定する気持ちはありませんが、決して因果の法則から外れていないと思います。

 

例えば、神仏に祈願祈祷することで医者が驚くような奇跡的な回復をして病気が治ったことは何度かありますが、亡くなった方が生き返ったことはなく、失った手足が元に戻った経験はありません。もし、亡くなった方が生き返らせ、失った手足が元に戻すことは可能ならば、因果の法則を変えてしまったと言えますが、そんな経験はありません。

 

これまでに経験した奇跡と思えるような現象は、偶然の積み重ねとも言えるような幸運の連続で起きることが大半であり、物理の法則を無視したことが起きることはありませんでした。そのため、悟ったとしても因果の法則に制約されることには変わりはなく、因果の法則を無視したならば、因果の法則に苦しむことになると思います。

 

多くの方は、神仏とは全知全能であり、どんな奇跡でも自由自在に起こせると思われているのではないかと思いますが、神仏と呼ばれる存在の働きであっても因果の法則に従っていると思います。しかし、凡人と異なるのは、因果の法則を知り尽くしている事ではないかと思います。例えば、川の流れを変えることはできないとしても川の流れを知り尽くしているならば、激流であっても巧みに船を操って何事もなかったように川を下ることはできます。同じことを素人が行うならば、船は直ぐに転覆してしまいます。

 

素人からするならば、激流なのに何事もなかったように川を下ることは、奇跡ではあるとしても、川の流れを知り尽くしている者にとっては、可能な事です。しかし、どんな達人でも川の流れを読むことはできても、川の流れを変えることはできません。神仏の力や悟りの力とは、川の流れを読み、巧みに船を操ることではあっても、川の流れを変えることではないと思いますが、多くの方が求めているのは、川の流れを読む力ではなく、川の流れを変えることではないかと思います。

 

これは、悟りにも言える事ではないかと思います。悟りとは何かを100人問えば、100通りの答えがあるのではないかと思いますが、因果の法則に精通することであるとも言えるのではないかと思います。それは川の流れに精通するのと同じであり、川の流れを変えることではありません。しかし、自分は川の流れを変えることができると思い上がるならば、転落します。「因果の法に落ちることはない因果の法に落ちることはない」との考えは、自分は川の流れを変えることができると思い上がりではないかと思います。

 

ここまでの話は、引用した公案の前半の話であると言えますが、引用した公案には後半があります。一番弟子の黄檗の質問から後の話は、この公案の核心と言えますので、少し補足しますと、因果の法に落ちるか、落ちないかの考え方と考えるのは、分別であり、囚われであるとの考えで。これは空の思想であり、般若心経などに登場する不増不減などのように対立する概念の否定ですが、管理人にはそこまでの悟りはありませんが、言っていることは分からないわけではありません。

 

テレビの企業紹介の番組の中で研究開発には、失敗はないと断言している経営者がいました。その経営者は、ある研究開発が失敗したとしても、その方法では成功しないことが分かった成果を得られたのだから失敗ではないと言われていました。つまり研究開発を継続する限り、失敗はないとの話でした。これは考え方の問題ではありますが、失敗に囚われることの否定であり、成功と失敗の対立する考えの否定であると言えます。

 

しかし、経営として考えた場合には、研究開発費ばかりを費やして成果を得られなければ、経営を維持することが困難となりますので、いくら失敗に囚われる必要はないと言っても限界はあります。つまり、これは成功しているからこそ失敗を恐れる必要がないと言えます。これは悟りでも同じではないかと思います。悟りと迷いは、不即不離の関係にあると言っても悟ったならば言えることであり、迷いの中にあるならば、迷いしかありませんが、悟った立場から見るならば、悟っているか、迷っているかに囚われるべきではないと言うことになりますが、少しばかり疑問を抱きます。

 

もし、管理人が百丈和尚の立場ならば、無条件に黄檗を殴り返すと思います。それが百丈和尚やこの本の著者である無門慧開からするならば、間違いである言われても、黄檗を殴り返すと思います。また、その場で、このやり取りを聞く僧侶の立場にあったならば、黙って荷物をまとめて寺を去ると思います。これは管理人が菩薩の悟りを得られない証だと思いますし、臨済宗の神霊に喧嘩を売っているのと同じでしょうが、別に後悔する気持ちもありません。

 

 

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at 17:34, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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佛説摩訶迦羅大酖憲誕臺‘措在圓滿菩薩陀羅尼經(星)

今回もお経の紹介です。

以前に比叡山三面出世大黒天神勤行儀の経本をご紹介しましたので、お経も紹介したと思っていましたが、お経は紹介していなかったことから取り上げさせて頂きました。

 

尚、歴史的仮名遣いになっていますので、ご注意下さい。

現代の仮名遣いに変更しておこうかと考えもしたのですが・・・・

何分にも比叡山の経本ですので、畏れ多い気がしてやめました。

歴史的仮名遣いに関しては下記のサイトを参考にして下さい。

 

参考サイト 歴史的仮名遣い 読み方の決まり こちらから

 

 

大酖憲旦亶垉

 

次三禮 合掌して禮拜す

南無歸命頂禮三面出世大酖憲誕臺郢摩訶薩(なむきみやうちやうらいさんめんしゆつせだいこくてんじんぼさつまかさつ)

 三度

 

次開経偈 合掌して之を唱ふ

無上甚深微妙(むじやうじんじんみめう)の法は。

百千萬劫(ひやくせんまんごう)にも遇(あ)ひたてまつること難(かた)し。

我(わ)れ今(いま)見聞(けんもん)し受持(じゆぢ)することを得(え)たり。

願(ねが)はくは如來(によらい)の眞實義(しんじつぎ)を解(げ)し奉(たいまつ)つらん。

 

次經段 本を持ちて之を唱ふ

佛説摩訶迦羅大酖憲誕臺‘措在圓滿菩薩陀羅尼經(ぶつせつまかきやらだいこくてんじんだいふくとくじざいゑんまんぼさつだらにきよう)


爾時(そのとき)如來(によらい)大衆(だいしゆ)に告(つ)げて言(のたま)はく。今此(いまこ)の大會中(だいゑちゆう)に大菩薩(だいぼさつ)あり。

名(なづ)けて大福徳自在圓滿菩薩(だいふくとくじざいえんまんぼさつ)と曰(い)ふ。

此(こ)の菩薩(ぼさつ)むかし等正覚(とうしやうがく)を成じて大摩尼珠王如來(だいましゆおうによらい)と號(ごう)す。
いま自在業力(じざいごうりき)を以(もつ)て娑婆世界(しやばせかい)に來(き)たりて大酖憲(だいこくてんじん)を顯(あら)はし給へり。
時(とき)にこの大菩薩(だいぼさつ)大會中(だいゑちゆう)に座(ざ)を起(た)ち合掌(がつしよう)して佛に白(まう)して言(もう)さく。
我(わ)れ一切(いつさい)貧窮(ごんぐう)の福(ふく)なき衆生(しゆうしやう)に大福(だいふくとく)を與(あた)へんとし。
今(いま)優婆塞(うばそく)の形(かたち)を現(げん)じ。眷属七世(けんぞくしちせ)の女天(によてん)を三界に遊現(ゆうげん)せしめ。
一切衆生(いつさいしゆじやう)に福(ふくとく)を與(あた)へんと欲(ほつ)す。
唯(ただ)願(ねが)はくは世尊(せそん)。わが爲(ため)に大福自在圓滿(だいふくとくじざいゑんまん)の陀羅尼(だらに)を説(と)きて曰(のたま)はく。
その時(とき)世尊(せそん)開貌含笑(かいみやうがんしよう)し咒(じゆ)を説(と)きて曰(のたま)はく。
曩莫三曼多没駄喃(なまさまんだぼだなん)。唵摩訶迦羅耶(おんまかきやらや)。娑婆呵(そはか)。
爾時(そのとき)世尊(せそん)大衆(だいしゆ)に告(つ)げて言(のたま)はく。
此(こ)の天神(てんじん)咒(じゆ)は過去(かこ)無量(むりよう)の諸佛出世(しよぶつしゆつせ)すとも説(と)き給(たま)はざるところなり。
若(も)し未來惡世(みらいあくせ)の中に諸(もろもろ)の貧窮(びんぐう)の人(ひと)あつて此(この)陀羅尼(だらに)の名(な)を聞(きか)ん者は。當(まさ)に知(し)るべし。
この人(ひと)大摩尼寶珠(だいまにほうしゆ)を降(くだ)して無量(むりやう)の珍寶(ちんぽう)を涌出(ゆしゆつ)せん。
その時(とき)大酖憲(だいこくてんじん)佛(ほとけ)に白(まう)して言(もう)さく。

若(も)し末法中(まつぽうちゆう)の衆生(しゆじやう)に於(お)いて此(こ)の呪(じゆ)を持(ぢ)し我(わ)が體(たい)若(も)しくは五尺(ごしやく)若(も)しくは三尺(さんじやく)若しくは五寸(ごすん)其(そ)の形像(ぎようぞう)を刻(こく)して伽藍(がらん)に安置(あんち)し。若(も)しくは家内(かない)に崇敬(そうきやう)せんに。

我(わ)れ七世女天(しちせによてん)の眷属(けんぞく)八萬四千人(はちまんしせんにん)の肉(ふくとくじん)を遣(つか)はして十方(じつほう)に遊行(ゆぎやう)せしめ。毎日一千人(まいにちいつせんにん)に供養(くやう)せん。

若(も)し我(わ)が説(と)くところに虚妄(こもう)あらば永(なが)く惡趣(あくしゆ)に堕(だ)して本覺に還(かえ)らず。

若(も)し又(また)種々(しゆじゆ)の珍菓美酒等(ちんかみしゆとう)を以(もつ)て供養(くやう)せば将(まさ)に甘露(かんろ)を降(あめふ)らさん。

時(とき)に一切(いつさい)の大衆(だいしゆ)皆(みな)大(おほ)いに歓喜(かんぎ)して信受奉行(しんじゆぶぎやう)し。禮(らい)をなして去(さ)りにき。 


佛説摩訶迦羅大黒天神大福徳自在円満菩薩陀羅尼経

(ぶつせつまかきやらだいこくてんじんだいふくとくじざいゑんまんぼさつだらにきよう)


次大酖憲窒淡澄數珠を操りて之を唱ふ
唵摩訶迦羅耶娑婆呵(おんまかきやらやそわか) 數遍終て金一下


次毘沙門天王眞言

唵吠尸羅摩拏耶娑婆詞(おんべいしらまなやそわか) 數遍終て金一下


次辯財天女眞言

唵蘇羅薩縛帝曳娑婆訶(おんそらそばていゑいそはか) 數遍終て金一下

 

次祈願(一切衆生の瀞菫長を念ず)

 

次廻向 合掌して之を唱ふ

願(ねが)はくば此(こ)の功(くどく)を以(もつ)て。

普(あまねく)く一切(いつさい)に及(およ)ぼし。

我(わ)れ等(ら)と衆生(しゆじやう)と。

皆共(みなとも)に佛道(ぶつどう)を成(じやう)ぜんことを。 三下

 

次三禮 合掌して禮をなす

南無歸命頂禮三面出世大酖憲誕臺郢摩訶薩(なむきみやうちやうらいさんめんしゆつせだいこくてんじんぼさつまかさつ)

 三度

 

 

 

 

 

補足

佛説毘沙門天功徳経の中では、毘沙門天の真言は、唵吠室羅摩拏也娑婆詞(おんべいしらまんだやそわか)となっていますが、信貴山真言宗の経本から引用であり、真言宗の読み方ですが、今回ご紹介しているお経は、比叡山の経本ですので、天台宗の読み方となっています。

 

真言宗 唵吠室羅摩拏也娑婆詞(おんべいしらまんだやそわか)

天台宗 唵吠尸羅摩拏耶娑婆詞(おんべいしらまなやそわか)

 

 

 

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at 15:10, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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現世利益和讃(星)

 

 

八重桜が満開でした。

四月下旬に咲く花ですが、ソメイヨシノとは違った美しさがあり、好きな花の一つです。

 

それはさておき・・・

 

このブログで何回かご紹介していますが、浄土真宗では、先祖供養を行わないだけでなく、祈願祈祷も行いません。葬儀や法要も故人の供養のためではなく、残された親類縁者などが故人を縁とする者が集まり、阿弥陀仏に感謝することとされています。そのため、供養や祈願祈祷のためのお経はないと思われがちなのですが、親鸞聖人が残された和讃の中に「現世利益和讃」がありますのでご紹介します。

 

あまり知られていない和讃のようですが、「真宗大谷派 勤行集」真宗大谷派宗務所出版部の経本(赤本と呼ばれる赤い表紙の経本)にも掲載されています。

 

※「真宗大谷派 勤行集」真宗大谷派宗務所出版部の経本には、和讃の後半は掲載されていますが、前半は掲載されていません。全文は「真宗東派 在家勤行集 全」永田文昌堂に掲載されていますが、「真宗大谷派 勤行集」とルビに違いがありましたので、「真宗大谷派 勤行集」真宗大谷派宗務所出版部の経本のルビに変更してあります。

 

現世利益和讃

 

阿彌如来来化(あみだにょらいらいけ)して

息災延命(そくさいえんめい)のためにとて

金光明(こんこうみょう)の寿量品(じゅりょうほん)

ときおきたまへ(え)るみのりなり

 

山家(さんげ)の傳教大師(でんきょうだいし)は

國土人民(こくどにんみん)をあは(わ)れみて

七難消滅(しちなんせうめ)の誦文(じゅもん)には

南無阿彌陀佛(なむあみだぶ)をとなふ(のう)べし

 

一切の功徳にすぐれたる

南無阿彌陀佛(なむあみだぶ)をとなふ(のう)れば

三世の重障みなながら

かならず轉(てん)じて輕微(きょうみ)なり

 

南無阿彌陀佛(なむあみだぶ)をとなふ(のう)れば

この世(よ)の利益(りやく)き(わ)もなし

流轉輪廻(るてんりんね)のつみきえて

定業中夭(じょうごうちうえう)のぞこりぬ

 

南無阿彌陀佛(なむあみだぶ)をとなふ(のう)れば

梵王帝釋(ほんのうたいしゃく)歸敬(きょう)す

諸天善神(しょてんぜんじん)ことごとく

よるひるつねにまもるなり

 

南無阿彌陀佛(なむあみだぶ)をとなふ(のう)れば

四天大王(してんだいおう)もろともに

よるひるつねにまもりつつ

よろづの惡鬼(あッき)をちかづけず

 

南無阿彌陀佛(なむあみだぶ)をとなふ(のう)れば

堅牢地祇(けんろうじき)は尊敬(そんきょう)す

かげとかたちとのごとくにて

よるひるつねにまもるなり

 

南無阿彌陀佛(なむあみだぶ)をとなふ(のう)れば

難陀跋難大龍等(なんだばつなんンだいりゅうとう)

無量(むりょう)の龍神尊敬(りゅうじんそんきょう)し

よるひるつねにまもるなり

 

南無阿彌陀佛(なむあみだぶ)をとなふ(のう)れば

炎魔法王(えんまほうおう)尊敬(そんきょう)す

五道(ごどう)の冥官(みょうかん)みなともに

よるひるつねにまもるなり

 

以下「真宗大谷派 勤行集」から引用

 

南無阿彌陀佛(なむあみだぶ)をとなふ(のう)れば

他化天(たけてん)の大魔王(だいまおう)

釋迦牟尼佛(しゃかむにぶつ)のみまへにて

まもらんとこそちかひ(い)しか

 

天神地祇(てんじぎ)はことごとく

善鬼神(ぜんきじん)となづけたり

これらの善神(ぜんじん)みなともに

念佛(ねんぶ)のひとをまもるなり

 

願力不思議(がんりきふしぎ)の信心(しんじん)は(な)

大菩提心(だいぼだいしん)なりければ

天地(てんち)にみてる惡鬼神(あッきじん)

みなことごとくおそるなり

 

南無阿彌陀佛(なむあみだぶ)をとなふ(のう)れば

觀音勢至(かんのんせいし)はもろともに

恒沙塵數(ごうじゃじんじゅ)の菩薩(ぼさ)と

かげのごとくに身にそへ(え)り

 

無碍光佛(むげこうぶ)のひかりには

無數(むしゅ)の阿彌陀(あみだ)ましまして

化佛(けぶ)おのおのことごとく

真實信心(しんじしんじん)を(の)まもるなり

 

南無阿彌陀佛(なむあみだぶ)をとなふ(のう)れば

十方無量(じっぽうむりょうむ)の諸佛(しょぶツ)は(た)

百重千重圍繞(ひゃくじゅうせんじゅういにょう)して

よろこびまもりたまふ(もう)●なり

 

● リン

 

現世利益を明確に説いてはいませんが、阿弥陀仏のご加護を説く和讃であることから管理人も時々読んでいます。

 

 

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at 09:00, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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佛説毘沙門天功徳経(星)

今回も現世利益色の強いお経の紹介です。

色々な方からご相談を頂いていますが、一番厄介なご相談が経済的な困窮です。深刻な霊障の方の中には、健康面や人間関係などの問題だけでなく、経済的な悩みを抱えている方が少なくありません。深刻な霊障を抱えていても経済的なゆとりがあれば、色々な対策は可能となりますが、供養や祈願祈祷のためのお布施や初穂料を捻出できないとなりますと、可能な対策は非常に限られます。

 

基本的には、不成仏霊の影響を受けやすい方の場合には、自分で供養されるよりも、神社仏閣で供養をお願いされる方が安全ではありますが、神社仏閣にお願いできないとなれば、徳を積んで頂く他に道はありませ。しかし、経済的な苦境から脱却できるように神仏にお願いして頂くことも選択肢となります。また、お経を読むこと自体が功徳を積むことから前回の投稿でご紹介した佛説十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経や今回紹介する佛説毘沙門天王功徳経がお勧めとなります。

 

毘沙門天は、仏教における天部の仏神で、持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神です。四天王では多聞天と呼ばれます。また、すべての夜叉を統率する仏神とされるなど戦いの神とされることが多いのですが、個人的には財神の性格を併せ持つ仏であるとの印象があります。

 

佛説毘沙門天王功徳経(ぶっせつびしゃもんてんのうくどくきょう)


是(かく)のごとく我(われ)きく。一時(いちじ)佛(ほとけ)王舎大城(おうしゃだいじょう)。竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)にましまして。大比丘衆(だいびくしゅ)。千二百五十人(せんにひゃくごじゅうにん)とともなりき。
爾(その)ときに。阿難(あなん)一心(いっしん)に掌(たなごころ)を合(あわ)せて。佛(ほとけ)にもうしてもうさく。なんの因縁(いんねん)のもって。 此(この)毘沙門天王(びしゃもんてんのう)は。身(み)に金甲(こんごう)を被(き)。左(ひだり)の手(て)に寶塔(ほうとう)を捧(ささ)げ。右(みぎ)の手(て)に如意寶珠(にょいほうしゅ)の捧(ぼう)を取(と)り。 左右(さゆう)の足下(そっか)に羅刹毘闍舎鬼(らせつびしゃじゃ)を趺(ふ)むや。 

佛(ほとけ)阿難(あなん)につげて曰(のたま)わく。此(この)毘沙門天王(びしゃもんてんのう)は。七万八千(しちまんはっせんのく)の。諸佛(しょぶつ)の護持(ごじ)。佛法(ぶっぽう)の兵(つわもの)の士(つかさ)なり。
左(ひだり)の手(て)に寶塔(ほうとう)をささぐるは。普集功徳微妙(ふしゅうくどくみみょう)と名づく。寶塔(ほうとう)の内(うち)には。八萬四千(はちまんしせん)の法藏(ほうぞう)。十二部經(ぶきょう)の文義(もんぎ)を具(ぐ)し。然(しこう)して見(み)んもの。無量(むりょう)の智慧(ちえ)を得(う)。
右(みぎ)の手(て)に如意寶珠(にょいほうしゅ)の棒(ぼう)をとるは。震多摩尼珠寶(しんだまにじゅほう)と名(な)づく。飲食衣服(おんじきえぶく)。無量(むりょう)の財寶(ざいほう)を涌出(ゆしゅつ)す。身(み)に金甲(こんごう)を被(き)るは。四魔(しま)の軍(ぐん)を除(のぞ)かんがためなり。両毘(りょうび)は悪業煩悩(あくごうぼなのう)を降伏(ごうぶく)せんがために趺(ふ)む所(とこ
ろ)なり。又(また)二鬼(にき)あり。名(な)づけて藍婆(らんば)。毘藍婆(びらんば)という。

左(ひだり)の脇(わき)に天女(てんにょ)あり。大吉祥天女(だいきっしょうてんにょ)と號(ごう)す。右(みぎ)の脇(わき)に一童子(いちどうじ)あり。禅膩師童子(ぜんにしどうじ)と名づく。
若人(もしひと)ありて。毘沙門天王(びしゃもんてんのう)の體(たい)を見(み)。名(な)を聞(きき)て。心(こころ)に念(ねん)ずる者は 八万億劫(はちまんのくこう)。生死(しょうじ)の微細(みさい)の罪(つみ)を除(のぞ)き。百千億(ひゃくせんのく)の功徳(くどく)を得(え)て。佛位(ぶっち)に至(いた)り。現在(げんざい)に無量(むりょう)の福(ふく)を増長(ぞうちょう)す。

佛(ほとけ)阿難(あなん)に告(つげ)て曰(のたま)わく。毘沙門天王(びしゃもんてんのう)に仕(つか)え奉(たてまつ)らん者(もの)あらば。 十種(じゅっしゅ)の福(ふく)を得(え)ん。
一(ひとつ)には無盡(むじん)の福(ふく)を得(え)ん。二(ふたつ)には衆人愛敬(しゅうにんあいきょう)の福(ふく)を得(え)ん。三(みつ)には智慧(ちえ)の福(ふく)を得(え)ん。四(よつ)には長命(ちょうめい)の福(ふく)を得(え)ん。五(いつつ)には眷属衆多(けんぞくしゅうた)の福(ふく)を得(え)ん。六(ろつ)には勝軍(しょうぐん)の福(ふく)を得(え)ん。七(ななつ)には田畠能成(でんばたのうじょう)の福(ふく)を得(え)ん。八(やつ)には蠺養如意(さんにょうにょい)の福(ふく)を得(え)ん。九(ここのつ)には善識(ぜんしき)の福(ふく)を得(え)ん。十(とお)には佛果大菩提(ぶっかぼだい)の福(ふく)を得(え)ん。
若(も)し人(ひと)ありて。毘沙門天王(びしゃもんてんのう)に仕(つか)え奉(たてまつ)らんと欲(ほっ)する者(もの)は。毎月(まいつき)元三日(がんさんじつ)に。身(み)を清(きよ)め。新衣(しんに)を着(ちゃく)して。東北方(とうほっぽう)に向(むか)って。毘沙門天王名號(びしゃもんてんのうみょうごう)を。稱念(しょうねん)せん者(もの)は。大福徳(だいふくとく)を得(え)んこと。決定(けつじょう)して疑(うたがい)いなし。即(すちわち)ち呪(しゅ)をといて曰(のたま)わく。


唵吠室羅摩拏也娑婆詞(おんべいしらまんだやそわか) 一反

 

佛(ほとけ)この呪(しゅ)をとき已(おわ)りて。大地震動(だいちしんどう)して。毘沙門天王(びしゃもんてんのう)出(い)で来(きた)りて。大蓮華(だいれんげ)の王座(おうざ)の上(うえ)に座(ざ)し已(おわ)りて。阿難(あなん)に告(つげ)て曰(のたま)わく。

我(われ)は此(これ)より北方(ほっぽう)。七萬八千里(しちまんはっせんり)を過(すぎ)ぎて園(ひょう)あり。名(な)づけて普光(ふこう)という。城(しろ)あり名(な)づけて吠室羅摩那郭大城(べいしらまんなかくだいじょう)と曰(いう)。八十億那由陀(はちじゅうおくなゆた)の大福聚(だいふくじゅ)あり。

我(われ)毎日三時(まいにちみとき)に此福(このふく)を燒(や)く。若人(もしひと)ありて。我(わが)福(ふく)を得(え)んと欲(ほっ)せば。五戒(ごかい)を持(たも)ち。三歸(さんき)して。無上菩提(むじょうぼだい)を願(ねが)い求(もと)めば。決定(けつじょう)して施與(せよ)して。一切毘沙門(いっさいびしゃもん)の福(ふく)を成就(じょうじゅ)することを得(え)ん。願(ねがう)ふ所(ところ)に五種(ごしゅ)あるべし。

一(ひとつ)には父母孝養(ぶもこうよう)のため。二(ふたつ)には功徳善根(くどくぜんこん)のため。三(みつ)には國土豊饒(こくどぶにょう)のため。四(よつ)には一切衆生(いっさいしゅじょう)のため。五(いつつ)には無上菩提(むじょうぼだい)のために願(ねが)うべし。もし人(ひと)ありて此五種(このごしゅ)の心(こころ)を除(のぞ)いてねがうとも。福(ふく)を得(う)べからず。

もし人(ひと)ありて。死苦(しく)を受(うく)ると雖(いえど)も。貧苦(ひんく)を受(う)くべからず。衆苦(しゅうく)の源(みなもと)は貧苦(ひんく)にしかず。
福徳(ふくとく)を得(え)んと欲(ほっ)する者(もの)は。丑寅(うしとら)に向(むか)って。名號(みょうごう)を一百八遍稱(いっぴゃくはっぺんしょう)すれば。大福徳(だいふくとく)を得(う)べし。
智慧(ちえ)を得(え)んと欲(ほっ)する者(もの)は。東方(とうほう)に向(むか)って。名號(みょうごう)を一百八遍稱(いっぴゃくはっぺんしょう)すれば。大智慧(だいちえ)を得(う)べし。
官位(かんい)を得(え)んと欲(ほっ)する者(もの)は 辰巳(たつみ)に向(むか)って。 名號(みょうごう)を一百八遍稱(いっぴゃくはっぺんしょう)すれば。官位(かんい)を得(う)べし。
能(よき)妻子(さいし)を得(え)んと欲(ほっ)する者(もの)は。南方(なんぽう)に向(むか)って。名號(みょうごう)を一百八遍稱(いっぴゃくはっぺんしょう)すれば。能(よき)妻子(さいし)を得(う)べし。
長命(ちょうめい)を得(え)んと欲(ほっ)する者(もの)は。未申(ひつじさる)に向(むか)って。名號(みょうごう)を一百八遍稱(いっぴゃくはっぺんしょう)すれば。長命(ちょうめい)を得(う)べし。
眷属衆多(けんぞくしゃうた)を得(え)んと欲(ほっ)する者は。西方(さいほう)に向(むか)って。名號(みょうごう)を一百八遍稱(いっぴゃくはっぺんしょう)すれば。眷属衆多(けんぞくしゃうた)を得(う)べし。
愛敬(あいきょう)を得(え)んと欲(ほっ)する者(もの)は。戌亥(いぬい)に向(むか)って。名號(みょうごう)を一百八遍稱(いっぴゃくはっぺんしょう)すれば。衆人愛敬(しゅうにんあいきょう)を得(う)べし。
悉地(しっち)を得(え)んと欲(ほっ)する者(もの)は。北方(ほっぽう)に向(むか)って。名號(みょうごう)を一百八遍稱(いっぴゃくはっぺんしょう)すれば。皆悉(みなことごとく)く成就(じょうじゅ)すべし。

佛(ほとけ)此経(このきょう)を説(と)きおわって。千二百五十人(せんにひゃくごじゅうにん)と倶(とも)にみな。大歓喜(だいかんき)し信受(しんじゅ)し奉行(ぶぎょう)しき


佛説毘沙門天王功徳経(ぶっせつびしゃもんてんのうくどくきょう)

信貴山 毘沙門天王勤行式より

 

 

 

羅刹 鬼神の総称 夜叉と共に毘沙門天王に仕える。

毘闍舎鬼 インド神話に登場する悪霊、鬼神の一種

十二部經 仏教の経典の形態を形式,内容から 12種に分類したもの。

那由陀 数の単位。極めて大きな数量。

文義 文章の意義。文意。

蠺 蚕

悉地 真言の秘法を修めて成就した悟り。


訓読ですので、特に解説の必要もないかとは思いますが、方位が分かりにくいかと思いますので、補足しておきます。

 

福徳 丑寅(東北)

智慧 東方

官位 辰巳(東南)

妻子 南方

長命 未申(西南)

眷属衆多 西方

愛敬 戌亥(西北)

悉地 北方

 

 

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佛説十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経(星)

今回は、お経を紹介させて頂きます。

 

この「佛説十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経」について少し調べましたところ、日本で作られたお経のようですが、この陀羅尼を毎日欠かさず108回唱えるならば、病気は治り、寿命は長くなり、諸仏に守られるとされています。また、十悪五逆の罪の取り除かれだけてなく臨終の際には十方の諸仏を見ることができ、死後は阿弥陀如来の浄土に生まれることができると説かれているご利益満載のお経であることからご紹介することにしました。

 

十一面観音は、10種類の現世での利益と4種類の来世での功徳があるとされている仏です。

 

〇現世での利益

・病気にかからない

・一切の如来に受け入れられる

・金銀財宝や食物などに不自由しない

・一切の怨敵から害を受けない

・国王や王子が王宮で慰労してくれる

・毒薬や虫の毒に当たらず、悪寒や発熱等の病状がひどく出ない。

・一切の凶器によって害を受けない
・溺死しない
・焼死しない
・不慮の事故で死なない


〇来世での功
・臨終の際に如来とまみえる
・悪趣、すなわち地獄・餓鬼・畜生に生まれ変わらない
・早死にしない
・今生のあとに極楽浄土に生まれ変わる

 

比較的短いお経ですので、何かの機会に読まれては如何でしょうか?

きっと十一面観音様のご加護が得られと思います。

 

 

佛説十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経(ぶっせつじゅういちめんかんぜおんぼさつずいがんそくとくだらにきょう)

 

如是(かくのごとく)我聞(われきく)一時(いちじ)に佛(ほとけ)補陀落山(ふだらくせん)にいまして衆(しゆ)の為(た)めに法(ほう)を説給(ときたま)ふ。其時(そのとき)に観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)佛(ほとけ)に白(もう)してもうさく我(われ)に神咒(しんしゅ)あり。若(もし)衆生(しゅじょう)ありて受持(じゅぢ)することあらば、一切(いっさい)の病患憂苦(びょうげんゆうく)を除却(じょきょ)し、一切(いつさい)の悪業煩悩(あくごうぼんのう)を消除(せうじょ)す。

 

身口意(しんくい)の業(ごう)をしてみな清浄(しょうじょう)ならしめて、心中(しんちゅう)百千萬億等(ひゃくせんまんおくとう)の事(じ)成就(じょうじゅ)せざることなからしめん。我(わが)此(この)神咒(しんしゅ)は、大神験(だいしんけん)あり。一切(いっさい)の諸佛(しょぶつ)讃歎(さんたん)し護念(ごねん)したまふ。

 

我(われ)過去(かこ)無量却(むりょうこう)の前(まえ)に於(お)いて、此(この)咒(しゅ)を受持(じゅじ)して十方(じっぽう)の佛(ほとけ)をみたてまつり、無生法忍(むしょうぼうにん)を證(しょう)し、また慈悲喜捨平等(しひきしゃびょうどう)の法門(ほふもん)を得(え)て、一切(いつさい)の有情(うじやう)をして、無上道(むじょうどう)を安立(あんりふ)せしめて、もろもろの険難(けんなん)を救(すく)い、安穏(あんおん)を得(え)せしむ。

 

若(もし)毎日(まいにち)一百八遍(いつぴゃくはちへん)を誦(じゅ)すれば、萬病消滅(なんびょうしょうめつ)し寿命長遠(じゅみょうちょうおん)にして、常(つね)に十方(じつぽう)の諸仏(しょぶつ)のために護念(ごねん)せられ、財宝衣食(ざいほういしょく)乏(とぼ)しき所(ところ)なからしめて、衆人(しゅうじん)の恭敬愛念(きょうけいあいねん)することを獲得(ぎゃくとく)す。

 

復(また)さらに一切(いっさい)の災横鬼蛇刀杖毒薬咒咀怨賊水火(さいおう きじゃ とうじょう どくやく じゅそ おんぞく すいか)のために能(よく)害(がい)せられず。怖畏(ふい)を遠離(おんり)して安穏(あんのん)を獲得(ぎゃくとく)す。

 

命終(みょうじゅ)の時(とき)にのぞんで十方(じゅっぽう)の佛(ほとけ)を見(み)たてまつり極楽(ごくらく)に往生(おうじょう)し悪趣(あくしゅ)におちず。爾時(そのとき)に佛(ほとけ)讃(さん)してのたまはく。

 

善哉(よきかな)大士(だいし)諸(もろもろ)の有情(うじょう)のために、此(この)咒(しゅ)をのべむと欲(ほっ)す。我(われ)もまた受持(じゅじ)せん。汝(なんじ)速(すみやか)にこれを説(と)け。時(とき)に観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)即(すなは)ち咒(しゅ)を説いて曰(いは)く

 

唵摩訶迦盧尼迦波訶(おん まかきゃろにきゃ そわか)

 

此(この)咒(しゅ)を説(と)きおわって、佛(ほとけ)に白(もう)してもうさく。若(もし)男女(なんによ)有(あ)りて、此(この)咒(しゅ)一遍(いつぺん)を誦(じゅ)せば、十悪五逆(じゅうあくごぎゃく)一切(いっさい)の罪障(ざいしょう)みな悉(ことごとく)く消滅(しょうめつ)する。もろもろの病苦(びょうく)を除(のぞ)き、もろもろの怖畏(ふい)をはなれ、生死(しょうじ)の海(うみ)をこへて、涅槃(ねはん)のきしにいたる。

 

若(もし)また人(ひと)有(あつ)て、千萬億那由多(せんまんおくなゆた)の諸佛(しょぶつ)の名号(みょうごう)を稱念(しょうねん)せんより、しかじ暫時(しばらく)も至心(ししん)に我(わが)名号(みょうごう)を稱念(しょうねん)せば、福(ふく)を得(う)ること彼(かれ)にまさる。宿福(しゅくふく)のうすきものは、此(この)咒(しゅ)および我名(わがな)をきかず。何(いか)に况(いはん)やたやすく受持(じゅじ)し。読誦(どくじゅ)することを得(え)んや。

 

若(もし)よく至心(ししん)に咒(しゅ)を誦(じゅ)し、我(われ)を念(ねん)ぜば現身(げんしん)に飛行自在神通変化(ひぎょうじざい じんつうへんげ)を獲得(ぎゃくとく)して、我(わが)如(ごとく)にして、異(こと)なることなからん。復次(またつぎ)に人(ひと)有(あっ)て、貧窮下賤(びんぐうげせん)にして、多(おお)く病苦(びょうく)を受(う)け、愚痴暗鈍(ぐちあんどん)にして、善悪(ぜんあく)をわきまへざらんに、若(もし)よく此(この)咒(しゅ)を誦持(じゅじ)し、我名(わがな)を稱念(しょうねん)せば、一切(いっさい)の所求(しよぐ)必定(ひつじょう)して成就(じょうじゅ)す。

 

富貴自在(ふきじざい)にし、無病安楽(むびょうあんらく)にして、智辨才(ちべんざい)を得(え)て、世出世(せしゅっせ)の事意(ことこころ)にかなはざることなく。乃至(ないし)無上菩提(むじやうぼだい)を證得(しょうとく)す。

 

若(もし)女人(によにん)有(あっ)て、女身(にょしん)を捨(すて)んと願(ねがっ)て、此(この)咒(しゅ)を誦持(じゅじ)せば、女(おんな)を転(てん)じて、男(おとこ)となるらん。所生(しょしょう)の處(ところ)は、常(つね)に佛前(ぶつぜん)に在(あっ)て、蓮華(れんげ)に化生(けしょう)す。

 

若(もし)人間(にんげん)に在(あっ)ては、輪王(りんおう)となることを得(え)て、つねに法輪(ほふりん)を転(てん)じて、涅槃(ねはん)を究竟(くきやう)す。

 

爾時(そのとき)に観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の咒(しゅ)を説(と)き巳(おわっ)て、一切(いつさい)の大衆(たいしゆ)歓喜讃嘆(かんぎさんたん)す。佛(ほとけ)を遶(めぐ)ること三匝(さんそう)にして禮(れい)をなして去(さ)る。

 

十一面陀羅尼経(じゅういちめんかんぜおんぼさつだらにきょう)

 

補陀落 インド南端の海岸にあり、観音が住むという八角形の山。

神咒 摩訶不思議な呪文のこと 真言の異名

那由多 きわめて大きい数。一千億。異説も多い。

称念 称名と念仏。口に仏の名を称え,心に仏の姿を思い浮かべること 。

受持 教え、特に仏の教えを銘記して忘れないこと。

神験 神の霊験。不思議な霊験。

無生法忍 空であり、実相であるという真理を認め、安住すること。一切のものが不生不滅であると認めること。ものはすべて不生であるという確信。

慈悲喜捨 慈・悲・喜・捨という言葉でその内容が表わされる、四つの心の働き。

慈 好意・友情・善意 

悲 同情・憐愍 

喜 喜び
捨 無関心・中立・平静

三匝 礼式の一で、仏に対して右回りに3回まわること。

 

 

ご相談は こちらから

at 07:32, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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自動書記について(星)

霊界通信と言っても色々ありますが、心霊世界からの伝わって来る言葉を書き留めるならば、自動書記となりますが、基本的には書き留めるか、口頭で話すかの違いではないかと思います。しかし、書き留めるか、口頭で話すかでは、書き言葉と話し言葉の違いがありますし、同じ書き留める場合でも手書きとPCを使った場合では、手書きの方が話し言葉に近い言葉なります。これはキーボードを使用して入力する手間がありますので、考えながら話すゆとりがあるからではないかと思います。

 

では、自動書記はどんな感覚かと言いますと、頭の中で言葉が勝手に浮かぶと言った感覚であり、それは頭の中に歌の歌詞が浮かぶ感覚に近いのではないかと思いますが、この感覚は一般の方には理解し難い感覚なのかもしれません。思い付きの様に言葉がひらめくと言うのとも少し異なります。作詞家や小説家が言葉が降りてくると言われますが、その感覚に近いのではないかと思います。

 

一般の方は、自動書記や口寄せは心霊と自由に会話するイメージを持っているのではないかと思いますが、比較的自由に意思疎通が可能なのは自分に近い考え方を持つ心霊か、霊格の低い心霊に限られます。これが霊格の高い神霊や全く違う価値観を持つ心霊の場合には、言葉を聞くことが難しくなり、言葉を聞くだけでも精一杯となります。そのため、こちらが何かを尋ねるゆとりが全くない状態となります。

 

過去に一番苦労したのは、縄文時代の神霊でした。価値観が全く異なるためか、何かを言っていることは分かっても言葉にならない状態が続きました。それはちょうど微かに聞こえてくる声のような状態であり、何とも落ち着かない気分となります。少し変わった事例を紹介しますと、以前に古代ギリシャの神霊の自動書記で恋愛詩を書いていた際に「水平線の向こうに何があると思う?」の出だしの言葉が浮かびましたが、後が全く思い浮かびませんでした。

 

あまにも唐突な始まりの言葉であり、何が言いたいのかも分からず、一週間ほど悩みました。さんざん悩みのましたが、次の言葉は「小人の国」でした。これは「水平線の向こうに何があると思う?」との女性の問いに対する男性の答えです。少し続きを紹介しますと、男性が小人の国で怪獣となって暴れてみたいと語り、女性が正義の味方となって小人を助けると返すと、男性は弱い怪獣だからと笑って返すとの会話でした。そして最後に男性が水平線の向こう側に行ったならば、同じ質問にどう答えるかを考えたらと促し、男性は「自分ならば、愛する人がいる場所と説明する」で終わるの詩でした。

 

管理人にはこんな発想ができないことから言葉が浮かびませんでした。自動書記は、自分の意識を完全に消し去りませんと、どうしても先入観や潜在意識の影響を受けます。この場合には、管理人の先入観や潜在意識が邪魔をして言葉が浮かばなかった事例ですが、イメージだけは伝わって来ても言葉にできないことに苦しめられたことも数多くありました。そのため、自動書記を含めて霊界通信は、先入観や潜在意識の影響を受けやすく、最悪の場合には、先入観や潜在意識で作り上げた妄想となります。

 

話を戻しますと、心霊が何かを伝えようとしていても聞き取れない状態が続きますと、何とも嫌な気分が続きますが、完全に意識が切れてしまうと、何も気にならなくなります。しかし、相手が何としても伝えたいとの強い意志がある場合には、こちらの意志とは無関係に頭の中で言葉が巡るような状態となります。これはこれで厄介となります。生きている人間には生きている人間の都合があり、何かやりたいことがあり、そちらを優先したいと思っていても頭の中で言葉が巡っているような状態が続きますと、落ち着かなくなります。

 

そのため、仕方なく自動書記を始めますと、1時間2時間と拘束される場合も少なくありません。特に自動書記が始まった頃は、自動書記が頻繁でしたので、嫌になりました。当時は病気で自宅療養をしていましたので、時間だけはありましたが、占い師になろうかと考え、占いの勉強をしなおそうと考えていた時期でしたので、勘弁してほしいと言う気持ちでした。

 

あの当時から随分と自動書記を続けていますが、こちらが何かを尋ねたいと思っても相手の心霊に話す気持ちがなければ、話を聞くことができないことだけは変わりません。そのため、霊界通信は、ことらから掛けることができない電話のようなものだと思っています。いつ、霊界通信が始まるのか、何を言ってくるかは、相手の意向次第であり、こちらに主導権はありません。その意味では、非常に限定的な能力であると言えます。但し、世の中には、どんな神霊であっても自由自在に呼び出して自由に話すことができると公言されている方もいるようですので、管理人の限界なのかもしれません。

 

一般の方からするならば、死後の世界の方と話ができるのは特殊な能力と思われるかもしれませんが、霊能者として活動していませんしので有難い能力とは考えていません。管理人からするならば、語学に堪能な方が実用的ではないかと思います。実社会ならば、英語やフランス語が堪能であった方が就職に有利であり、仕事にも役立ちます。個人的には中国語が堪能であったならば、占いの資料を読むのに役立つと思います。

 

ただ、自動書記の内容が高い霊格が説く教えであるか、不成仏霊が語る心情かは別にして何らかの参考になるのであるならば、少しずつ公開させて頂きたいとは思っています。

 

 

ご相談は こちらから

at 14:49, 星 良謙・子授け地蔵, 霊感・霊能力について

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