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マスコミ不信(星)

3年程前にそれまで長年契約していた地元の新聞の宅配を解約しました。

解約する1年以上前からな内容のつまらなさを感じるようになり、一面や政治欄を読まなくなりました。それでも外交、経済、県内版、スポーツなどには目を通していたのですが、次第に読む日が減り、気付けば玄関先に新聞が数日分溜まっていることが多くなりました。そのため、集金の際に新聞を解約しました。それから何度か、銀行などで地元の新聞に目を通す機会はありますが、相も変わらずつまらない内容であり、配達を再開する気持ちになれません。

 

そして最近では、テレビを見る時間が段々と減り続け、ほとんど見ない日が多くなりました。そして数日前にNHKが集金に来ました。それまでは、母の口座から引き落としになっていましたが、母が他界したことから口座を解約しました。その際に電気、ガス、水道などの名義変更や支払の手続きなどはしましたが、NHKに関しては全く忘れていました。

 

そのため、引き落としができなかったことから集金に来たのですが、集金金額を聞いて少し驚きました。

 

地上波の契約の2ケ月払いが口座引き落としとクレジット払いが2520円・・・w(@。@;)w オウ〜

 

おいちょっと待ってくれ、この1年以上NHKを見ていないぞ・・・・・

当然ラジオも聴く機会なし・・・・

頼むからスクランブルにしてくれと言いたくなりました。

 

口座引き落としになっていたことからあまり気にもしていませんでしたが、見ることもないNHKの放送のために毎月1200円以上も払い続けていたのかと思うと腹が立ちます。これは金額の問題ではなく、利用してもいないサービスの料金を請求されていることに対する怒りです。

 

NHKの不払い運動が起きるのも当然かと思いましたが、支払い義務があるので、支払いましたが、何とも腹の虫がおさまらない気分でした。幸か不幸か、管理人の家は電波障害のため、ケーブルテレビですので、ケーブルテレビを解約すれば、NHKの契約を簡単に解約できます。そのため、ケーブルテレビを解約しようかと悩んでいました。

 

そんなことを考えていた先日、本屋のベストセラーのコーナーに"徹底検証 「森友・加計事件」−朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪」"の題名の本が並んでいました。何とも刺激的なタイトルであったこともあり、買い求めました。

 

個人的には、テレビの報道に疑問を感じ始めた理由がこの森友・加計事件でしたので、自分が感じていた疑問が解消されたのは良いのですが、朝日新聞とNHKを代表とするマスコミの姿勢には、呆れかえりました。以前からマスコミ不信でしたが、ここまで腐っていたかと改めて実感する内容でした。政権批判をするのがマスコミの使命なのかもしれませんが、この本では、朝日新聞やNHKがどのようにして印象操作と情報の操作で政権を陥れようとしたかを時系列で解説されています。

 

女性週刊誌がありもしない話をでっち上げるとの話は聞きますが、同じことを新聞社やテレビ局が行っていたとするならば、まさしく報道犯罪と言えます。以前から朝日新聞は捏造記事で何度も問題を起こしている新聞社ではあるだけでなく、テレビに登場する朝日新聞の肩書を持つ解説者の発言に疑問を感じることが多いことから信用していませんでしたが、ここまで腐った会社とは思いませんでした。

 

新聞社やテレビ局が特定の政党を支持することは、必ずしも悪いとは思いませんが、事実を捻じ曲げた報道は論外であり、報道犯罪と言われても仕方がないと思います。いずにしても朝日新聞だけでなく、新聞雑誌、テレビの報道番組を信用する気持ちはなくなりました。

 

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at 10:01, 星 良謙・子授け地蔵, 管理人のひとりごと

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大きな買い物(星)

先日のことですが・・・・

 

突然、給湯器のお湯が水に・・・・(T.T )( T.T) オロオロ

 

何分に数年前に自動お湯はり機能が故障したのですが、古すぎて修理不能と言われました。orz

 

それでも給湯機能や追い炊き機能に問題はなかったことから使用し続けていましたが、このところ何度か唐突に電源が落ちることを繰り返しました。修理を依頼した際に聞いた話では、給湯器の寿命は12年から13年と言われましたが、20年近く使っていましたので、流石に寿命と言ったところです。

 

α~ (ー.ー") ンーー この時期に水風呂は辛い・・・・

 

そこで、早速ガス器具店に電話して見積もりをお願いしました。以前にガス器具の点検に訪れた会社の方が親切な方であったことから最初に見積もりをお願いしたのですが、20万を超えるのは確実との話でした。実は電話する前にネットで価格を下調べしていたのですが、ネットでは10万円程度の金額でしたので、丁重にお断りしました。

 

そこでネットで信用できそうなお店を探して見積もりをお願いしましたところ、10万円程度とのお話でしたので、正式な見積もりをお願いしましたころ、追加工事を含めても11万円程度でした。正規の販売店とガス器具店では価格に大きな違いがあると聞いてはいましたが、予想以上の金額の差でした。これがメーカーが違うのであれば話も分かるまですが、同じメーカーの同じ機種ですので、正直なところ悩みます。

 

11万円の出費は頭が痛い話なのですが、この時期に水風呂は辛いのでお願いしました。工事はこれといって問題もなく終わり、給湯器の心配から解放されました。

 

(o⌒.⌒o) ニッコリ

 

今回の件で、一年程前にも似たような経験をしたことを思い出しました。

管理人は、古い軽自動車に乗っているのですが、もう40年近く日産の車に乗っています。理由は、営業マンとは古い付き合いであり、何かと便宜を図ってくれたからでした。しかし、その友人も定年が近くなり、関連会社に出向となりました。新しい担当はいるのですが、何の義理もないことから前回の車検の際に近くのカーショップで車検の見積もりをとりました。

 

(@_@) パチクリ 何これ・・・・

 

この差は何?と思う程の金額差・・・・

 

ディーラーの整備の方が丁寧なのかもしれませんが、驚く程の金額差がありました。即刻、その場で車検の予約

 

自動車保険も見積もりをとりましたが、その場で契約・・・・

 

その店は、トヨタ系の上場企業の子会社のためか、対応も良く、仕事も丁重なことから今ではディーラーとは縁切れ状態となっています。そのため、もっと早く見積もりをとるべきだったと少しばかり後悔しています。

 

管理人は占いの仕事をしていますので、買い物や病院の選択などの鑑定のご依頼が時々ありますが、自分の買い物となると滅多に占いませんでした。しかし、これからは大きな買い物をするときだけでも占う事にしました。

 

 

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at 08:57, 星 良謙・子授け地蔵, 管理人のひとりごと

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方位の違い(星)

最初に業務連絡です。

「霊界通信 南無阿弥陀仏」と「霊界通信 法華経のこころ」を出版して頂いた潮文社が廃業されました。

そのため、書店では購入することができなくなりましたが、手元に何冊かありますので、購入希望の方がありましたならば、こちらから郵送させて頂きますので、ご連絡ください。

 

それはさておき・・・・

 

アンニュイ様から方位術の記事にコメントを頂きました。「コメント有難う御座います。」

そこで久々に方位術の話題を取り上げてみたいと思います。

 

さて、風水や通書選日などの中国の方位術では、45度の八方位と八方位を3分割した二十四方位が基本となりますが、日本の気学では、東西南北を30度、東南、東北、西南、西北を60度とする八方位が主流の様です。管理人も以前から気学が変則的な八方位を採用している理由が分かりませんでしたが、十二支と方位の関係からこのような変則的な八方位となったようです。

 

ここで中国式の二十四方位を紹介しますと下記の様になります。

 

南  丙(ひのえ)、午(うま)、丁(ひのと)

西南 未(ひつじ)、坤(こん)、申(さる)

西  庚(かのえ)、酉(とり)、辛(かのと)

西北 戌(いぬ)、乾(けん)、亥(い)

北  壬(みずのえ)、子(ね)、癸(みずのと)

東北 丑(うし)、艮(ごん)、寅(とら)

東  甲(きのえ)、卯(う)、乙(きのと)

東南 辰(たつ)、巽(そん)、巳(み)

 

これに対して気学の八方位は下記の様になります。

 

南  午(うま)

西南 未(ひつじ)、申(さる)

西  酉(とり)

西北 戌(いぬ)、亥(い)

北  子(ね)

東北 丑(うし)、寅(とら)

東  卯(う)

東南 辰(たつ)、巳(み)

 

見比べて頂くと分かりますが、中国式の二十四方位から十干と八卦を取り除くと気学の八方位となります。

 

十干とは、甲(きのえ)、乙(きのと)、丙(ひのえ)、丁(ひのと)、戊(つちのえ)、己(つちのと)、庚(かのえ)、辛(かのと)、壬(みずのえ)、癸(みずのと)ですが、簡単に説明しますと下記の様になります。

 

甲(きのえ)は木の兄、乙(きのと)は木の弟

丙(ひのえ)は火の兄、丁(ひのと)は火の弟

戊(つちのえ)は土の兄、己(つちのと)は土の弟

庚(かのえ)は金の兄、辛(かのと)は金の弟

壬(みずのえ)は水の兄、癸(みずのと)は水の弟

 

五行を兄と弟に分けたのが十干と考えて頂ければ、分かりやすいかと思います。

 

八卦は乾(けん)、兌(だ)、離(り)、震(しん)、巽(そん)、坎(かん)、艮(ごん)、坤(こん)となります。

 

少し分かりやすくするために中国式の二十四方位から干支を除きますと下記の様になります。

 

南  丙(ひのえ)、丁(ひのと)

西南 坤(こん)

西  庚(かのえ)、辛(かのと)

西北 乾(けん)

北  壬(みずのえ)、癸(みずのと)

東北 艮(ごん)

東  甲(きのえ)、乙(きのと)

東南 巽(そん)

 

少し整理しますと、東西南北には、十干に配置、西南、西北、東北、東南には八卦を配置されています。

勿論、これには意味があります。十干と八卦にはそれぞれ方位との関連があり、方位との関連で配置が決まっていますが、詳しく解説しますと、河図(かと)や洛書(らくしょ)、先天八卦や後天八卦などの話となり、専門的な話となりますので、割愛します。

 

さて、どうして気学では、変則的な30度と60度の区分になっているかの理由は、気学の成立の歴史にあると思われます。気学は大正時代に園田 真次郎が祖とされていますが、ルーツは江戸後期の松浦琴鶴の方鑑学のようです。

 

参考記事 気学の源流 こちらから

 

松浦琴鶴は、神殺を排除して九星を重視しました。気学でも神殺はほとんど重視されていないようです。その代りに歳破、月破、日破などを重視しますが、歳破、月破、日破は十二支を利用します。神殺と言っても一般の方には馴染みのない言葉ですが、比較的有名なのが、金神や恵方などでしょうか。簡単に書けば、暦に書かれた吉神、凶神のことです。

 

神殺は、十二支十干、八卦の星回りで決まりますので、神殺を不要であると考えるならば、この神殺を排除すると十干や八卦は不要となります。そこで二十四方位から歳破、月破、日破は十二支で利用する十二支だけを残して十干や八卦を取り除くと、気学で用いられている方位となります。しかし、十二支を均等に八方位に振り分けることはできないことから変則的な30度と60度の区分になったのではないでしょうか。

 

管理人は、気学については素人ですが、以前からどうして変則的な30度と60度の区分になっているのかと疑問でした。そこで色々調べてみたところ、どうも十二支との関係が理由ではないかとの結論になりました。

 

 

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at 08:50, 星 良謙・子授け地蔵, 占いの話

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臨終のお迎え(星)

このたびは亡母の他界に際しまして、皆様方からお心のこもったお悔やみを賜り、心より御礼申し上げます。

 

さて、仮通夜、通夜、告別式、初七日、二七日、三七日と七日毎の法要と慌ただしい日々を過ごしております。日常生活に少しずつ戻り始めてはいます。しかし、役所への各種届出や預貯金の解約手続き、葬儀代金等の支払い、亡き母が入所していた施設からの荷物の引き上げ、入所費用の支払、公共料金の名義変更、料金引き落としの変更手続きなど雑多な手続きが残っていました。

 

そんな事務手続きをしていますと、改めて母が他界した現実と向き合うことになり、これも自分の心の整理にもなっているのかもしれなません。しかし、母の好みの服や嗜好品を見ると「母のために」と無意識に考えている自分に気付くことがしばしあります。

 

一年程前に緊急入院して以来、体調を崩してはいましたが、少しずつ回復していたこともあり、もう暫く寿命を頂けると考えていましたので、今回のことは予想外であり、もう少し早く手を打っていれば、もう少し長生きできたのではないかとの気持ちがあります。その意味では、少し油断があったのではないかと後悔しています。

 

母を含め、臨終や臨終間際の方を看取ったのは、これで5人目となりました。僅か5人の方を見送っただけで、臨終について書くことには無理があると言えますが、5人の内、2人については、臨終に際してのお迎えが来ていると感じましたので、今回は臨終の祭のお迎えについて書かせて頂きます。

 

もう10年以上前の話となりますが、母が元気であった頃に伯父が危篤との知らせを受け、母と一緒にお見舞いに行ったことがありました。母と病室に入りますと、伯父のベッドの脇に既に他界していた伯母がニコニコと笑いながらよく来てくれたと笑って立っていましたので、帰りに母に「伯父さんは、まだ大丈夫だから」と母に話しましたが、数日後に見舞った際には、伯母が悲しそうな顔をして立っていましたので、長くはないと悟りました。帰りにそのことを母に告げましたが、母は最期に挨拶できたからと納得していたようでした。伯父が他界されたとの連絡が入ったのは、翌日の事でした。

 

また、父が他界した際には、明らかにお迎えと思われる神霊が病室に控えておられました。父は足掛け7年も入院していただけでなく、助からないことは分かっていましたので、深夜に危篤の知らせを受けた時も比較的冷静でした。病室に入った瞬間に天井近くに霊格が高いと思われる神霊が控えていることに気付き、もう助からないと感じました。後から母に言われたのですが、私は無意識にお迎えの神霊に対して頭を下げていたらしく、母はこんな真夜中に誰か来たのかと思ったと話していました。肺の病気で足掛け7年も入院していた父ではありますが、最後は苦しむこともなく、眠るように息を引き取ったことができたのもご神霊の働きであったのかもしれません。

 

父は、半年程度前からもう助からないことは分かっていましたので、父が他界する前には、神仏に父が地獄に堕ちることがないように心に抱えている闇が少しでも解消することや自分の人生を振り返る時間を与えて頂けるようにお願いしていましたが、父が抱えていた心の闇の幾つかは、生前に解消することができたのではないかと思います。父が他界してもう20年の歳月が流れましたので、思い出すこと少なくなりましたが、今となっては懐かしい思い出となっています。

 

母の場合には、他界する当日も夕方に母を見舞いましたが、お迎えの神霊も来られていなかったことから病院から深夜に連絡が入った際には、まさかとの気持ちの方が強かったのが正直な気持ちでした。しかし、今年の夏頃からは体力が落ちているだけでなく、生命力とでも言うべき力が落ちていることが気掛かりでした。母は数年前から自分が生きていることが多くの人々の負担になっていることから早くお迎えが来て欲しいと言っていましたので、生きる意欲を失っていたのかもしれません。その意味では、お迎えの有無に関係なく、自分の意志で極楽に旅立ったのかもしれません。少なくとも眠っているかのような顔を見ていると迷うことなく、極楽往生したとの印象しかありませんでした。

 

私には、人間の生死を操っている死神が本当に存在しているかどうかは分かりませんが、少なくとも亡くなられた方を死後の世界へと導く役目を担う神霊は存在するようです。自分が死んだことを自覚させ、現世に対する執着を断ち、死後の世界へと導くことも大切な役目と思います。

 

 

ご相談は こちらから

at 12:20, 星 良謙・子授け地蔵, 管理人のひとりごと

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亡き母を偲んで(星)

今月、母が極楽浄土に旅立ちました。入院してから僅か2日後の深夜の事でした。享年92歳であり、大往生と言える年齢ではありますが、あまりにも突然のことでした。眠っているような穏やかな顔を見てていると眠っているような錯覚に何度も陥り、どこかで母の死を受け入れたくない気持ちがありました。しかし、書類の手続きや銀行口座の解約などの手続きは残っていますが、徐々に普段の生活なに戻りつつあると言ったところです。

 

1年程前に緊急入院した際に生死をさまよいながら神仏のご加護もあり、幸いにも一命を取り留めたことや、今年の8月に再度の入院したものの無事に退院させて頂いたことなどを考えますと、神仏に1年間の寿命を延ばして頂いたと考えるべきなのでしょうが、もう少し何かできたのではないとの気持ちが残ります。唯一の慰めは、他界する前日までは意識がはっきりしていたことと苦しむこともなく、他界したことでしょうか。

 

振り返って考えますと、管理人が霊障の問題について考えるようになったのは、母の影響が大きかったと言えます。母は強度の霊媒体質であり、不成仏霊に翻弄され続けた人生でした。現実の問題として考えるならば、嫁姑の確執だけでなく、兄嫁、小姑との確執、父との確執、その他にも色々な問題があり、四面楚歌の人生であったと思います。そんな人生であったことから母は幾つもの拝み屋や新興宗教を頼りました。

 

私は、そんな母の行動を責める気持ちはありませんが、そのことが母の人生に暗い影を落としました。拝み屋や新興宗教を頼ったことで不成仏霊に憑依され、状況は更に悪化しました。状況が好転しないことから別の拝み屋や新興宗教を頼り、更に状況を悪化させることの繰り返しでした。そして管理人が働き始めた頃には、家の中はいつも重い空気と閉塞感が漂っていました。それが何かいつも分かりませんでしたが、いつしか霊障を疑うようになりました。

 

しかし、それが霊障であると分かっても何をすれば霊障が解消するのか分かるはずもありませんでした。それは地図もない森林をさ迷い歩くようなものであり、試行錯誤の連続でした。そんな試行錯誤の連続の日々が続けいてる間にも母の霊障は深刻化するばかりであり、母の苦悩はより深刻化しました。そんな母の霊障を多少なりとも解消することができるようになるまでには、20年以上の歳月が必要でした。

 

もっと早く霊障を解消することができていたならば、母の人生も大きく変わっていたのではないかと思いますが、20年も霊障の解決策を模索し続けることができたのは、母の存在が大きかったのではないかと思います。霊障の解決策を求めて何人もの霊能者や気功師などにも会いましたが、自分の能力を過信している方が大半でした。最初の頃は、何も分からぬままに修業の真似事をしたりもしていましたが、やがて疑問を抱くようになり、霊能者や気功師、陰陽師などを名乗る方とは、距離を置くようになりました。

 

私は、生まれつき多少の霊能力はありますが、日常生活では霊能力を意識することはなく、また霊視も得意ではないことから自分が霊能者であるとの自覚はほとんどありません。また、霊能者として活動する気持ちもありませんが、過去には霊能者として活動されている方から弟子入りを勧められたことは何度かありました。私が霊能者になろうと考えなかった理由を考えますと、母の苦悩を見続けたことが大きいと思います。それは難病患者の苦悩を見続ける医者と同じような立場なのかもしれません。最善を尽くしていても病状が改善しないことに自分の無力さを感じることしかできない日々ではありましたが、それがあったから転落しなかったのではないかと思います。

 

世の中には、すべての霊障を簡単に解消できると豪語されている霊能者は少なくないようですが、私の知る限りでは、すべての霊障の原因を見抜くことができる霊能者は皆無であり、すべての霊障を解消できる霊能者も皆無でした。それは他界した母も同じであったのかもしれません。難病患者が医者を転々とするのと同じ様に母も霊能者や新興宗教を転々としました。そして私も母と同じように悩み、母と同じように霊能者や気功師などを頼りましたが、母の失敗を見ていましたので、霊能者の限界に早い段階に気付くことができました。

 

私が心霊世界に関心を持ち、霊障の問題に取り組み始めてから40年近くの歳月が流れましたが、今でも分かっていることよりも分からないことの方が多い状態です。それは現代医学でも治療困難な病気があるのと同じかもしれませんが、医者が病気で苦しむ患者を助けたいと思うのと同じように、霊障に苦しむ人をなくしたいと思っています。


 

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at 07:05, 星 良謙・子授け地蔵, 管理人のひとりごと

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世代間の争い3(星)

ある経営者の方と話していたときに、成功した経営者の中には、運だけで成功している経営者がいると言われたことがあります。その方は社会的に成功されている方に自分は運だけで成功しているのかと尋ねられた際に、「運だけだと!」と断言されたそうです。勿論、会社経営には運も必要であり、運に恵まれなければ成功は困難と言えますが、運だけで成功できるかとなりますと、少しばかり疑問が残りましたが、その経営者の言いたいことは分かります。

 

成功された経営者の中には、思い付きとは言いませんが、何か人と異なる手法で成功される方がいます。その多くは、時代を先取りした方法であったり、時代の潮流に乗ることで業績を伸ばされた方が多いようです。勿論、それが分かっていても果敢に挑戦するには、それだけの実力が必要なだけでなく、財政的な基盤や人脈など様々なことが必要になります。

 

随分と前の話ですが、今から40年近く前の話となりますが、レンタルビデオチェーン店に出入りしていた知り合いがオーナーから出店の誘いがあったそうです。今でこそレンタルビデオは斜陽産業となってしまいましたが、当時は急成長の業界であり、社員旅行が海外旅行とかなりの収益を得ていたようです。知り合いは、出入り業者であったことから出店すれば、確実に儲かると分かっていたが、出店費用を用意できなかったと笑っていました。

 

詳細な金額を聞くこともありませんでしたが、当時の金で一千万円ほど必要であったと言っていましたが、担保があれば話は別でしょうが、個人が銀行から借金するとなるとかなり厳しかったと思います。管理人が占い師を始めた理由も開業資金がほとんど不要なことが最大の理由でした。占いの道具は既に持っていましたし、自宅で開業するのであれば、特に何かが必要と言う事もなく、作ったのは、名刺程度でした。勿論、専門書は何冊か買いましたが、一般的な小売店の開業に比べるならば、微々たる金額です。

 

話を戻しますと、ヒット商品を開発したり、急成長する分野を見出して、他の人よりも先に手掛けることは、それだけ商才があると言えますが、それは運に恵まれていたとも言えます。つまり、冒頭の経営者の言いたかったのは、新たな営業方法であれ、新商品であれ、1つの成功体験に頼って会社が急成長しているならば、それは運に恵まれてるだけであると言いたかったのではないかと思われます。そしてその成功体験に頼っているならば、運だけで会社を経営していると言いたかったのだと思います。

 

しかし、管理人が見て来た経営者の大半は、この運だけを頼りに会社を経営しているのように思えます。その理由は、過去の成功体験を忘れることができず、その方が成功した当時とは社会情勢や生活習慣が変化して当時のやり方が通用しないことは分かっているはずなのに、自分が成功した方法を金科玉条のごとく守り続けているからでした。これは年寄りに限られた話ではなく、中年でも同じであり、それぞれが自分の成功体験に強いこだわりを持つと感じました。

 

但し、年寄りになればなるほど、現実の社会情勢や社会生活との乖離(かいり)が激しくなり、現実に対応できなくなるだけの話であり、基本的には順送りとなります。そのため、今の若者が老人になる頃には、今の年寄りが昔は良かったと言うように、昔は良かったと語り、今の若者がそんなやり方では通用しないと反発しているように、今の若者が年寄りになる頃には、その時代の若者から反発されると思います。

 

自分の成功体験に強いこだわりを持つことは、人間には誰しもあることであり、避けられないことでありますが、そのこだわりを持ち続けながらも生涯を終えることができるならば、何とも幸せな人生ではないかと思います。多くの場合には、時代の変化に対応できず、自分の心の中にだけにある過去への郷愁と言う理想郷に安住する経営者も少なくないようです。こうなってしまうと老害としか言えなくなります。

 

これを防ぐためには、過去の成功体験に対するこだわりを捨てることですが、これは簡単ではないようです。特に過去の成功体験に対するこだわりが強い人ほど、その手法が時代遅れであるとか、社会の実情とはそぐわなくなったと指摘されるならば、自分の人格を否定されたかのように怒り出す方も少なくなかった気がします。恐らくは、その成功体験がその方の人生で一番輝いていた時代であり、その時代の成功体験が人生の大きな支えになっているのではないかと思われます。

 

そのため、自分が成功した手法が通用しなくなった現実を受け入れることは、自分の存在価値が否定された気分になるとのでしょうが、自分の成功体験がいつまで通用するかと、天のみぞ知ると言うことになります。そのため、冒頭で紹介しました経営者が語られたように運だけで経営しているとの話となります。

 

 

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at 07:09, 星 良謙・子授け地蔵, 経営

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世代間の争い2(星)

管理人は、10年以上前から酒を飲まなくなったためか、洋菓子、和菓子を問わず、男としては食べるほうかなと漠然と思っています。別に甘党でもなく、グルメではありませんが、和菓子に関してはこだわりがあります。それは、和洋折衷のお菓子に関しては、良い印象がないことです。過去に珍しさも手伝って買ってみたことはありますが、「何これ?」→(2度と買わない)が3割程度、「こんなものかな?」→(忘れた頃に買うかも?)が7割です。美味しいと思ったお菓子は、ほとんど記憶になく、1回だけ次に見かけたら買おうかと思ってた程度です。

 

しかし、これが伝統的な和菓子となりますと、「値段を考えればこんなものかな?」→(時々は買う)が7割、「美味しいことは分かっているけど高い」→(たまには買う)が2割、「3回に1回は、買って帰る」→(地域限定商品)が1割となります。最近は、地域限定の商品と言ってもネットで取り寄せも可能な商品も多いのですが、取り寄せてまで買う気はなく、参拝に出掛けた際に買って帰ることが大半です。

 

冒頭からお菓子の話題を取り上げましたが、これは新製品の開発の難しさの一例です。開発した側としては、画期的な新商品と考えて発売されるのかもしれませんが、定番として残る商品はごく一部であり、大半は忘れ去られるのが普通です。小売店の売り場面積は限られていることから、売れなければ並べて貰えず、並べてもらえなければ、売れるはずもないことから生産中止になることも当然となります。そのため、メーカーが次々と新製品を発売しても新製品と同じ数だけの商品が生産中止になっていると言えます。

 

それに対して古くからある定番商品のと言えるような商品の中には、管理人が子供の頃からある商品は数多くあります。また、商品がブランドとして確立している物も少なくありません。これらの商品は、一定の人気があり、安定した売り上げがあると言えますが、これは消費者からの一定の支持があり、消費者から信頼されている商品であることが生き残ることができると言えます。

 

これは何も新製品に限らず、新しいことを始めるには、それだけ高いハードルが待ち構えているのに対して、古くからの手法はそれだけ支持される要因があるからこそ、続けられていると言えます。このことが改革を停滞させる要因であり、何事も現状維持の自己保身になりやすいと言えます。勿論、会社の経営にこれと言った問題もないのに方針を転換する必要もなく、無用な方針転換や改革をするならば、混乱を招くだけの結果となります。

 

例えば、冒頭に書きました老舗和菓子店が代表的な商品を唐突に現代風の味に変えたならば、新しい味にするならば、新製品として発売してくれとなります。客としては、求めているのは味の変化ではなく、味を守ることですが、世の中には変える必要がないのに従来の方針を変更する場合があります。その多くは、後任者の自己顕示欲であり、会社の業績や利益よりも自分が目立つことを優先するタイプです。

 

周囲からするならば、迷惑な話であり、目立ちたいのならば、カラオケでも歌っていろと言いたくなりますが、こんなタイプの人間がいることも事実です。この次に多いのが、現実を無視して理論だけで考えるタイプの方です。世の中には、経営書は溢れていますし、優れた経営書も数多くありますが、会社経営は経営理論を学べば成功できるとは限りません。優れた経済学者が会社経営をしたならば、成功できるとは限りません。つまり、理論通りにはいかないのが経営です。

 

その理由を考えますと、経営理論は一定のモデルケースを想定しますが、実際の会社経営では不確定要素が多く、理論通りには話が進まないことは珍しくありません。これは料理でも同じではないでしょうか。材料は〇〇が何グラム、調味料は〇〇を何グラム、ゆで時間は何分と細かく指示するならば、似たような味は再現できますが、同じ味を再現できるかは、別の話です。同じ野菜でも産地や時期が異なるならば、味は異なります。優れた料理人は、その日の天候や気温で微妙に修正する言いますが、これは何も料理に限られた話ではありません。

 

同じ営業方法がAの地区では成功してもBの地区では失敗することは珍しくなく、同じ商品がAの地区では爆発的に売れてもBの地区では全く売れないことも珍しくありません。そのため、経営理論を学ぶことは有意義なことではありますが、優れた経営理論を学び、優れた経営知識を持っているからと言っても優れた経営ができるかとなれば、話は別となります。これは飛行機の操縦技術を本で覚えても飛行機を操縦できないのと同じことなのですが、理想に燃えて改革しようとして部下に反発され、挫折する若手の後継者に多い失敗です。

 

しかし、過去に受けた経営関係のご相談で一番多いのは、現状では衰退するしかないことを承知していても何をどうすれば良いのか分からずに途方に暮れている方からのご相談でした。冒頭にも書きましたが、大企業が発売する新製品であっても「何これ?」と思うような商品は少なくありません。また、発想は良くても製品にする段階で企画倒れになっている商品もあれば、商品は良くても価格設定に間違いがあったり、商品は良くても販売方法や販売時期を誤ったために失敗した例も少なくありません。

 

これが経営方針転換となりますと、失敗すれば経営危機になります。それでも相談されるのは、このまま現状を維持したならば、会社の存続の危機が訪れることの危機感からでした。つまり、それだけ追い詰められた状態の相談者でしたが、病気と同じて早い段階であるならば、色々な解実的な対策をご提案することも可能なのですが、企業として活力を失った末期症状の段階では、現実的な対処には限界があります。

 

それでも何とかしたいとなれば、現実的な問題の鑑定、風水の鑑定と対策、神社仏閣での祈願祈祷、霊障の鑑定と対策などを含めた鑑定と総合的な対策となります。そのため、鑑定としては大がかりになることは避けられず、費用も高額となるだけでなく、建て直しが成功した場合の反動も大きくなります。過去の事例では、一連の対策が終わり、色々な問題は解消しましたが、問題の多かった幹部社員の退職したり、社員が大幅に入れ替わりしたりました。それだけ、抱えていた問題が大きかったと言うことであり、問題解決のためには、荒療治が必要になると言えますが、神仏のご指導の為か、すべて自主的な退社であり、解雇はありませんでした。

 

しかし、資金繰りにも行き詰まりに近い状態であり、風水の対策や霊障対策のための祈願祈祷などの費用も捻出できないとなりますと、提案させて頂けることに限界があります。顧客の新規開拓も困難であり、店舗の改装の費用や宣伝広告費も捻出できないとなりますと、小手先の対策しかできないことになります。一番現実的な解決策は、廃業することと言う笑うに笑えない場合もありますが、個人経営の場合には、結果的に廃業して良かったと言われた方も何人かおられます。

 

それだけ、経営の立て直しは難しいと言えますが、状況が悪化すればするほど、総合的な対策が必要となり、それができないのであるならば、廃業を選択するしかなくなります。そのため、相談をお受けする側の人間としては、早い段階でご相談を頂くことをお勧めするしかありませんが、次回は経営危機に陥らないための話を取り上げさせて頂きます。

 

 

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at 01:59, 星 良謙・子授け地蔵, 経営

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世代間の争い1(星)

今年の中日ドラゴンズは、どうなっているのでしょうか・・・・

 

(T_T) ウルウル

 

5月に入ってからも調子が上向くこともなく、最下位を低迷しております。

 

試合結果を見るたびに・・・グスグス((o(T^T)o))バタバタ

 

ああ・・、また負けた!

 

既にラジオで野球中継を聞く意欲も失っています。

 

聞いていても オリャー!!(ノ-o-)ノ⌒┳ ┫┻┣ 聞いていられるか!

 

。・°°・(>_<)・°°・。 ウエーン また負けた・・・

 

ああ、このままシーズン終わりまでこんな調子なのでしょうか?

 

α~ (ー.ー") ンーー

 

それはさておき・・・・

 

管理人が30代から40代の頃に経営方針に関して親子間で対立している話をよく聞きました。いずれも家族経営や同族会社の経営を巡る対立ではありましたが、どこも似たような話でした。親である60代、70代と言った世代の社長が会社の経営の実権を握って離さず、古い経営手法にこだわり、30代から40代の息子がそんな経営では。経営が成り立たないと親の経営方針に反対しても親である経営者は聞く耳を持たず、対立するパターンでした。

 

これは何も経営者に限らず、企業でも同じでした。営業所長は自分が20代、30代の頃の体験を昨日の事のように話しましたが、そんな時代遅れな営業が通用するはずもなく、部下は黙って聞いているだけで、従う気持ちもありませんでした。それでも上司の命令とあれば、黙って従うしかなく、こんな時代遅れなことをどうしてやらなければならないのかと疑問を抱いていましたが、そんな時代遅れな方法が通用するはずもなく、現場は混乱します。

 

高度成長期ならば、問屋に過剰な流通在庫を押し付けても何とかなったのかもしれませんが、どの問屋も適正在庫を心掛けているのに過剰な在庫を押し付けならば、返品されるだけなのに、とにかく売り付けることばかりを考えている管理職は少なくありませんでした。これはどのメーカーでも同じような状況であり、仲の良い同業他社の社員と話していると良く分かりました。上司の失敗は部下が尻拭いさせられることや販売体制の矛盾は末端が背負わなければならないのはどの会社でも同じでした。

 

人間は誰しも自分の成功体験にしがみつく傾向があり、自分が成功した手法にこだわる傾向がありますが、時代や社会が変わるならば、以前には通用した方法が全く通用しなくなることは珍しいことではありません。そのため、社会の変化にあわせて柔軟な対応が必要となりますが、それが簡単にはできないのが人間の悲しさでしょうか。

 

経営者が50代、60代であり、今更新しいことに挑戦する気もなく、いずれ廃業することを視野に入れているのであるならば、古い経営方法にこだわり続けることも一つの方法論ではありますが、若い従業員や後継ぎがいるとなれば話は変わります。経営者の回顧主義にお付き合いしていたならば、会社は衰退するばかりであり、先がありません。

 

そのため、冒頭に紹介した経営方針に関して親子間の話となります。その当時によく聞いたのは、このままでも5年、10年は持つがその先がないと言う話でした。つまり親である経営者が生きている間は、何とかなるだろうが、今のうちに手を打たないと、待っているのは廃業か、倒産しかないとの危機感でした。これは老害と言うべき、年寄りがいつまでも経営から引退しないことの弊害であると言えます。

 

以前に一流の経営者は人材を残し、二流の経営者はシェアを残し、三流の経営者は資産を残すと聞いたことがあります。管理人からするならば、無能な経営者は借金を残すと加えたいところですが、いずれにしても良い人材を残すことは難しいようです。管理人が見て来た経営者の多くも良い人材を残すことに成功しているとは思えませんでした。一番多いのは、死ぬまで経営の実権を握り続け、後継ぎである自分の息子には何も決定権を持たせないタイプの経営者でした。

 

これは、一代で財を成した経営者に多い気がしますが、先代の社長が死ぬまで経営の実権を握り続けた場合は、後を継いだ経営者の代で廃業や倒産になることが多くありました。その原因は、二代目の経営者に経営能力がなかったのではなく、経営を引き継いだ時点で会社が組織として制度疲労を起こしていたり、販売方法や管理体制などが時代遅れになっていたりと組織としての活力を失っていたことが原因であると思われました。

 

つまり経営を引き継いだものの、会社は既に衰退していたと言うことでしょうか。更に加えるならば、先代の社長が死ぬまで経営の実権を握り続けていたことから、後を継いだ経営者には、抜本的な改革を成し遂げるだけの才覚も度胸もないことから経営不振が続き、廃業や倒産に至ることが多いようです。これは先代の経営者が先代の社長が死ぬまで経営の実権を握り続けていたことが原因であるとも言えます。

 

後を継いだ経営者にしてみれば、それまでは経営者の指示に従っていれば良かったのですが、ある日から自分の判断で決断し、自分の判断に責任を負わなければならなくなります。これは経営に関して自分で判断することなく働いてきた人間にとっては、大変に大きな重圧となります。そのため、多くの場合には、先代の経営方針を受け継ぐことが多いのですが、会社が既に衰退している状況では、経営を立て直すことは至難の業であり、先代の経営方針を受け継いでいるならば、廃業や倒産に至るのは自然の成り行きです。

 

後継者である次期社長が早い段階で経営方針を転換しようとしますと、最初にご紹介した経営方針に関して親子間で対立する話となります。今回は、老害とも言うべき問題について書きましたが、次回は後継ぎとなる経営者の問題点を取り上げてみたいと思います。

 

 

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at 10:23, 星 良謙・子授け地蔵, 経営

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神社への参拝(星)

先日の事ですが、東海地区では有名な稲荷神社に参拝しました。

連休中と言う事もあり、多くの参拝者でにぎわっていましたが・・・・・

気付くと半分以上の参拝者が本殿脇に祀られたお社の屋根に向けてお金を投げている様子・・・・・

幼稚園か、小学校低学年と思われる子供を連れた親も子供な一緒になってお金を投げていました。

 

ああ・・・、めまいが・・・・ (−−;)

 

暫くすると外国人を案内していると思われる方までもお社の屋根に向けてお金を投げていました。

 

(~_~メ) ピクピク

 

一緒に参拝していた知り合いもあまりのマナーの悪さに憤慨・・・(メ▼。▼)y-~~~おら〜

 

張り紙の一枚も張れないのだろうかと、社務所を訪ね、神職の方にお話をさせて頂きました。

神職の方は、そう思って頂ける方がいるだけでも嬉しいことですと言われていましたが、いつの頃からか投げたお賽銭が屋根に乗ると良いことがあるとの噂が広まって困っているとのことでした。お賽銭は、神様へのお供え物であり、賽銭箱に入れるのも静かに入れるのが作法ですが、ご存知ない方が多いのでしょうか?

 

このブログでは、神道に関してはあまり取り上げませんが、個人的な信仰歴としては神社の方がお寺より長く、霊障に悩み、途方に暮れていた頃には、神社に参拝して境内でぼんやりとした時間を過ごすことが多くありました。何がどうと言う事もありませんでしたが、日常生活を離れ、静かな時間を過ごすことで気分が少し楽になりました。

 

何をどうすれば分からない状況の中で色々な霊能者の本を読み漁り、色々な人を頼ったりもしましたが、何が変わると言う事もなく、途方に暮れる日々が続いていました。霊能者や行者にも不信感は抱いていましたし、宗教にも失望していましたが、一人で静かに神と向かい合う時間は好きでした。

 

神道の神霊からも色々と教えて頂いていますので、神道の神霊のお考えは少しばかり分かりますが、神道の基本的立場は、教えを残さないことにあります。教えとして言葉として残すならば、言葉に囚われて教えを見失うとのお考えがあるようです。勿論、教えとして言葉として残すならば、言葉に囚われると説くこと自体が言葉に頼らなければならないのですが、神霊の言われようとしていることは分かる気がします。

 

残された教えを学んでも言葉の奥にある真理を体得することは容易ではないだけでなく、どんなに緻密な教えの体系を残したとても体験を通さずに神仏の真意を知ることは非常に難しいと言えます。また、言葉で教えを理解しようとする限り、言葉の制約から逃れることはできず、言葉の解釈を巡って対立が起きるだけでなく、衆生の苦悩とは無縁な観念論の議論ばかりが盛んになるのは、避けられないようです。

 

そのため、教えを残さずに祭礼の儀式の作法だけを伝えるのも一つの方法ではありますが、何の指針もないと少しばかり不安となります。そして何が正しく、何が間違いであるのかの基準を探します。実践できるかどうかは別にして教えが残されていれば、安心感は得られますが、何が正しく、何が間違いであるか、神は何を考えているか、その答えを拒絶しているのが、神道が神道である理由ではないかと考えるようになりました。

 

管理人は、神霊から神道の考え方について学んではいますが、本当に霊格の高い神霊が何を考えているのか分かるはずもないと考えてます。以前にある有名な神社の本殿の前で高い霊格の神霊からのお言葉を受けたことがありました。文章にすれば、僅か一行にも満たない内容のお言葉ですが、家に帰ってから寝込みました。寝込んだと言うのは、少しばかり大袈裟ではありますが、気分としてはそんな感じです。

 

神霊からのお言葉を聞くとは、神霊と心が通じる必要がありますが、その際に神霊の言葉だけてなく、神霊のお力も伝わってきます。そのお力があまりにも大きすぎて、自分の容量を遥かに超える力が流れ込みますと、意識を失うこともあります。この時は、意識を失うことはありませんでしたが、横になって休んだと記憶しています。これは気功治療でも同じようなことが起きます。最近は、気功治療を行うこともありませんが、以前は依頼されれば気功治療をしていましたが、施術中や施術後に寝てしまう方は少なくありませんでした。

 

また、これは祈願祈祷などでも同じようなことがあります。管理人が知り合いのために神社仏閣で祈願しますと、同時刻に強烈な眠気を感じたと言う話は何度か聞いています。但し、これは忙しく動き回っていると起きず、事務仕事などをしていると起きる現象であると聞いていますので、常に同じような現象が起きるとは限らないようです。

 

さて、話を戻しますと、このような経験を何度かしていますと、神仏とは人間の考えることができる範囲を超えた世界の存在であると考えるようになりました。神道の神霊は、善悪の基準と言ってみたところで、小学生の考える善悪の基準もあれば、高校生の考える善悪の基準があるように無限の段階があると説かれています。より高い段階の善悪の基準からすれば、自分が善と考えていることが悪になるかもしれず、更に高い段階の善悪の基準からするならば、善になるかもしれないと説かれました。

 

つまり、善悪と言ってみても段階に応じて内容が変わると説かれました。では、何を基準に考えるかとなれば、神の心であり、神の前に立って恥ずかしくない心で生きよとの教えでした。その神は、神社に祀られている辰妨造詆要はなく、人智を超えた偉大な存在の前に立っても恥ずかしくない心で生きよと説かれました。これが神道の教えの基本であり、すべてではないかと思います。

 

勿論、これは管理人の個人的な考えであり、神職の方のお考えとは異なるかもしれませんが、大きく外れてはいないのではないかと思います。真摯に修業されている神職の方が奏上される祝詞は、心地よく心に響きます。一般の人間が奏上する祝詞と何が違うのかと言っても上手く説明できませんが、辰魴匹Φせちの差ではないかと思えてしまいます。それは祝詞だけでなく、辰鯒劼鵑任い觧僂砲盍兇犬泙后

 

大きな神社に参拝しますと、熱心に祈られている方を見かけることは少なくありませんが、どこか違和感を感じることが少なくありません。それに対して二拝二拍一拝だけの参拝であっても真摯さを感じることがあります。この違いは何かを考えますと、やはり神を敬う気持ちの差であり、神と向き合う気持ちの差ではないかと思います。特に独特の作法で祈られている方には、近寄りがたい雰囲気を漂わせている場合が少なくありません。どのような作法でお参りされるかは自由なのでなのでしょうが、不気味に感じることすらあります。

 

勿論、真剣にお参りされているのでしょうが、その姿からは、言外に自分たちは特別であり、お前たちとは違うと言っているように感じます。その傲慢さが、違和感の原因であり、祈る姿に嫌悪感を感じる原因ではないかと思います。神職と同じように日々精進潔斎することは出来ませんが、偉大な存在の前に立って祈っている気持ちを持つことが大切となります。少なくとも辰魴匹Φせちがあれば、冒頭に紹介したようにお賽銭をゲーム感覚で投げるような気持ちにはならないはずです。

 

尚、神道の神霊の教えに興味をお持ちの方は、下記の本を参考にして下さい。

無料ですので、お気軽にダウンロードして下さい。

 

スマホからもダウンロードできるはずです。

 

 

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at 19:39, 星 良謙・子授け地蔵, 神道

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不落因果と不昧因果(星)

先日の事ですが、神仏の働きに関して質問されたことがありました。管理人に分かることは、神仏の働きの一部でしかなく、その全貌を知ることはできませんが、過去の経験から話せる範囲のお話はさせて頂きましたが、その際に無門関の中にある「百丈野狐」の話を思い出しました。

 

無門関は、有名な禅問答の公案集であり、ご存知の方も多いのではないかと思います。個人的には、禅問答の公案は答えを得ることが目的ではなく、悟りを得ることを目的にしていますので、公案の解説には疑問を感じますが、解説のサイトは数多くあるようです。

 

さて、原文は漢文ですので、岩波文庫の「無門関」より、現代語訳を引用せて頂きます。

 

二 百丈野狐

 百丈和尚(ひゃくじょうおしょう)の説教があると、ひとりの老人が大衆の後ろで聴聞していた。
そして修行僧たちが退場すると、老人もまた出ていくのであった。ところがある日、彼はひとりその場に居残って出ていこうとしない。そこで百丈が、「そこに居るのは、誰か?」と聞かれた。

 

 老人は、「はい、私は人間ではございません。大昔、仏道修業を完成した人でも、やはり因果の法則に落ちて苦しむのでしょうか」と尋ねるのて、『いや、因果の法に落ちることはない』と答えました。するとそれいらい五百生の長い間、私は野狐の身に堕ちてしまい、生まれ変わり死に変わり今日に至りました。どうか私に替わって正しい答えとなる一句によってこの野狐の身から脱出させて頂きたい」と頼んだ。そして改めて、「仏道修行を完成した人でも、やはり因果の法則に落ちて苦しむものでしょうか。」と質問した。

 

すると百丈和尚は、「因果の法を昧(くらま)さない」と答えられた。その途端に老人は大悟し百丈和尚に礼拝して言った。「私は已に野狐の身を脱することができました。脱け殻となってこの山の後ろにおります。どうかお坊さん並みの葬儀を営んでください」。


百丈和尚は一山を取り締まる維那(いのう)に命じて衆僧を集めさせ、昼食の後に亡くなった僧の葬儀を行うと告げた。大衆は「皆こうして元気だし、病気で臥せてるものもいないはずだが」と不思議に思いあれこれ噂した。食後になると百丈和尚は大衆を引き連れて裏山の岩窟のところに行き、杖をもって一匹の死んだ野狐を引っ張りだし、直ちに火葬に付した。

 

晩になると百丈和尚は威厳を整えて法堂の檀上に登り、昼間の出来事の一切を語ってきかせた。すると一番弟子の黄檗が質問した。「老人はその昔、答えを誤ったばかりに、五百生もの長い間野狐の身に転落したということですが、もし彼が正しい答えをだしていたとしたらいったいその老人は何に成っていたでしょうか」。

 

百丈和尚は、「ここへ来るがいい。あの老人のために言ってやろう」と言われた。黄檗は百丈和尚の側(そば)に近寄ると、いきなり師の横っ面をぶん殴った。百丈和尚は手を拍(う)って笑い、「達磨の髭は赤いと思っていたが、なんとここにも赤髭の達磨がおったわい」と言われた。

 

 無門は言う、『「因果に落ちず」でどうして野狐(やこ)に堕ち、「因果の法を昧(くらま)さず」だと何故に野狐(やこ)を離脱しうるのか、もしこの大切な一点を見抜く第三の眼を持つことができるならば、あの百丈山の老人も何のことはない。実は五百生という長いあいだを風流の中に生きていたんだと分かるであろう』。

 

 頌(うた)って言う、
不落と不昧、
賽(さい)ひと振りに目が二つ。
不落と不昧、
どんなに見ても勝ち目なし。

 

無門関 西村恵信訳注 岩波文庫 P31-33

 

百丈和尚(ひゃくじょうおしょう) 百丈懐海(ひゃくじょう えかい、749年(天宝8載) - 814年(元和9年))は、中国、南宗禅中の洪州宗の祖馬祖道一の法を継ぐ唐時代の禅僧。

維那(いのう) 禅林で僧衆を督励し、衆務を総攬する役位の僧。現在では衆僧を先導して経を読む役僧。

黄檗(おうばく)黄檗希運(?〜850年頃)。百丈懐海禅師の法嗣で臨済義玄の師。

達磨 中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧。

 

この公案は、空についての公案であるとされているようであり、下記のサイトに詳しい解説があります。

 

曹洞宗 正木山西光寺 因縁(その12)-- 公案「百丈野狐」【前編】 --平成20年3月 こちらから

曹洞宗 正木山西光寺 因縁(その13)-- 公案「百丈野狐」【中編】 --平成20年4月 こちらから

曹洞宗 正木山西光寺 因縁(その15)-- 公案「百丈野狐」【後編】 --平成20年6月 こちらから

 

空の教えを離れて個人的な印象について書きますと、管理人が「仏道修行を完成した人でも、やはり因果の法則に落ちて苦しむものでしょうか。」と質問されたならば、何の疑問もなく「仏道修行を完成しても因果の法則に落ちて苦しむ」と答えると思います。これは、個人的な体験から導かれた答えであり、学んだ教えではありません。

 

結論から書きますと、悟った人間は、偉大な法力を持ち、因果の法則に制約されることなく、自由に生きることができるないと思いますし、それは神仏と言われる存在でも同じであると思います。神仏に祈願祈祷することで奇跡と言えるようなことが起きることを否定する気持ちはありませんが、決して因果の法則から外れていないと思います。

 

例えば、神仏に祈願祈祷することで医者が驚くような奇跡的な回復をして病気が治ったことは何度かありますが、亡くなった方が生き返ったことはなく、失った手足が元に戻った経験はありません。もし、亡くなった方が生き返らせ、失った手足が元に戻すことは可能ならば、因果の法則を変えてしまったと言えますが、そんな経験はありません。

 

これまでに経験した奇跡と思えるような現象は、偶然の積み重ねとも言えるような幸運の連続で起きることが大半であり、物理の法則を無視したことが起きることはありませんでした。そのため、悟ったとしても因果の法則に制約されることには変わりはなく、因果の法則を無視したならば、因果の法則に苦しむことになると思います。

 

多くの方は、神仏とは全知全能であり、どんな奇跡でも自由自在に起こせると思われているのではないかと思いますが、神仏と呼ばれる存在の働きであっても因果の法則に従っていると思います。しかし、凡人と異なるのは、因果の法則を知り尽くしている事ではないかと思います。例えば、川の流れを変えることはできないとしても川の流れを知り尽くしているならば、激流であっても巧みに船を操って何事もなかったように川を下ることはできます。同じことを素人が行うならば、船は直ぐに転覆してしまいます。

 

素人からするならば、激流なのに何事もなかったように川を下ることは、奇跡ではあるとしても、川の流れを知り尽くしている者にとっては、可能な事です。しかし、どんな達人でも川の流れを読むことはできても、川の流れを変えることはできません。神仏の力や悟りの力とは、川の流れを読み、巧みに船を操ることではあっても、川の流れを変えることではないと思いますが、多くの方が求めているのは、川の流れを読む力ではなく、川の流れを変えることではないかと思います。

 

これは、悟りにも言える事ではないかと思います。悟りとは何かを100人問えば、100通りの答えがあるのではないかと思いますが、因果の法則に精通することであるとも言えるのではないかと思います。それは川の流れに精通するのと同じであり、川の流れを変えることではありません。しかし、自分は川の流れを変えることができると思い上がるならば、転落します。「因果の法に落ちることはない因果の法に落ちることはない」との考えは、自分は川の流れを変えることができると思い上がりではないかと思います。

 

ここまでの話は、引用した公案の前半の話であると言えますが、引用した公案には後半があります。一番弟子の黄檗の質問から後の話は、この公案の核心と言えますので、少し補足しますと、因果の法に落ちるか、落ちないかの考え方と考えるのは、分別であり、囚われであるとの考えで。これは空の思想であり、般若心経などに登場する不増不減などのように対立する概念の否定ですが、管理人にはそこまでの悟りはありませんが、言っていることは分からないわけではありません。

 

テレビの企業紹介の番組の中で研究開発には、失敗はないと断言している経営者がいました。その経営者は、ある研究開発が失敗したとしても、その方法では成功しないことが分かった成果を得られたのだから失敗ではないと言われていました。つまり研究開発を継続する限り、失敗はないとの話でした。これは考え方の問題ではありますが、失敗に囚われることの否定であり、成功と失敗の対立する考えの否定であると言えます。

 

しかし、経営として考えた場合には、研究開発費ばかりを費やして成果を得られなければ、経営を維持することが困難となりますので、いくら失敗に囚われる必要はないと言っても限界はあります。つまり、これは成功しているからこそ失敗を恐れる必要がないと言えます。これは悟りでも同じではないかと思います。悟りと迷いは、不即不離の関係にあると言っても悟ったならば言えることであり、迷いの中にあるならば、迷いしかありませんが、悟った立場から見るならば、悟っているか、迷っているかに囚われるべきではないと言うことになりますが、少しばかり疑問を抱きます。

 

もし、管理人が百丈和尚の立場ならば、無条件に黄檗を殴り返すと思います。それが百丈和尚やこの本の著者である無門慧開からするならば、間違いである言われても、黄檗を殴り返すと思います。また、その場で、このやり取りを聞く僧侶の立場にあったならば、黙って荷物をまとめて寺を去ると思います。これは管理人が菩薩の悟りを得られない証だと思いますし、臨済宗の神霊に喧嘩を売っているのと同じでしょうが、別に後悔する気持ちもありません。

 

 

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at 17:34, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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