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「誤解」の日本史2(星)

今回も前回に続き、井沢氏の「誤解」の日本史を取り上げたいと思います。

 

「第九章 僧侶はなぜ武器を捨てたのか」

江戸時代にはお寺は寺社領として土地を与えられていたことから経済的な基盤を確保していましたが、江戸時代以前にはどのようにして経済的な基盤を確立していたか今一つ分かりませんでした。大きな神社仏閣は権力者の庇護を受けていたと漠然と考えていたですが、この本の中では関所で流通税を徴収や製造販売の許可を与えて代金の一部を徴収していたあります。

 

流通税は分かりやすいのですが、製造販売の許可に関しては解説が必要かと思います。この本によれば、油の採取方法や醤油の製造方法、神の製造方法などは、中国に渡った僧侶が持ち帰った技術であったことから寺社勢力が許可権を握っていたとあります。そして特権商人を通じてお金を集めていたとあります。そして無許可に製造販売している者が現れた場合には、僧兵の集団を差し向けて制裁をしていたとあります。

 

しかし、有名な信長の比叡山焼き討ちがあり。比叡山は武装解除され、比叡山の対抗勢力であった高野山は秀吉によって武装解除されました。しかし、紀州の根来寺は秀吉に抵抗したため、焼き討ちされています。そして家康は更に徹底して寺社勢力を武装解除してただけでなく、寺社の経済的な基盤として領地を与えています。つまり寺社は武装解除と引き換えに領地を得たとしています。

 

管理人も戦国時代の寺社が関所で流通税を徴収や製造販売の許可を与えて代金の一部を徴収していたとの話は知りせんでした。本来であるならば、詳しく調べてみたいところですが、神社仏閣の経済事情に関して解説した本は知りません。ただ、いずれにしても大きなお寺を維持することが大変な事は、今も昔も変わらないと言うことでしょうか。

 

第十章 信長は宗教弾圧者か

この章では、「安土宗論」の話が取り上げられています。「安土宗論」とは、天正7 (1579) 年5月中旬,織田信長の命により安土浄厳院で行われた浄土宗と法華宗(日蓮宗)の間の法論であり、法華宗(日蓮宗)が論争に敗れ、詫び状を書かされた話です。通説では、信長が法華宗を弾圧するために意図があったとされているようですが、井沢氏は、この通説に異論を唱えています。

 

法華宗が法論に負けたのは浄土宗側の「方便第四の妙は如何」との問いにまともに答えることができなかったからであり、正当な判断であるとの主張です。これは分かりにくい話ですので少し解説します。

 

中国天台宗の実質的な開祖である智擇蓮△釈迦様の説法を説いた時期や内容で五時八教に分類しました。

五時とは、華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃

八教とは、説法形式の分類で頓教・漸教・秘密教・不定教に分け、内容から蔵教・通教・別教・円教に分けられています。

そして、このうち「蔵・通・別」は小乗の教えで、第4番目の「円」が大乗の最高の教えとされています。

「円教」とは、法華経に代表される完全な教えです。

 

ここで問題となるのは、方等時で「蔵・通・別・円」の四教を並説したとされていることです。何が問題かと言いますと法華宗においては、法華涅槃以前に説かれた蔵教・通教・別教は方便の教えであり、法華経こそが釈迦の真意が説かれた経典であるとしていることです。しかし、法華涅槃以前に説かれた教えを捨てるならば、方便時に円教が説かれいているのに方便時に説かれた円教を捨てることになります。浄土宗側は、そのことを法華宗に問い、法華宗は答えられなかったのが真相であると唱えています。

 

更に当時の法華宗がおとなしく信長の命令に従ったのは、法華宗が負けを認めたからであるとしています。もし、法華宗が不当な判定であると考えていたならば、詫び状を書くはずもなく、法華一揆を起こしたはずであるとの主張です。

 

法華宗(日蓮宗)は天台の教学を継承していますので、反論できなかったのかもしれません。しかし、日蓮宗の教えは、それほど詳しくもないことから日蓮宗の方々がどのように反論されているのかも知りませんが、信長は公正な裁定をしているとの井沢氏の意見には共感します。

 

 

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at 12:25, 星 良謙・子授け地蔵, 本の紹介

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「誤解」の日本史(星)

今回も本の紹介です。

昔からの傾向なのですが、読書量は比較的多いのですが、文学小説と言われる本は滅多に読みません。そのため、読書家と言われる方とは少しばかり違います。

 

う・・・ん、少し変わっているのでしょうか?

 

関心があるのは、架空戦記の他は、心理学や宗教書などの精神世界や歴史の本、占い関係の本でしょうか?

今回ご紹介する本は、日本史の本なのですが、著者の井沢元彦氏は歴史学者ではなく、歴史小説や推理小説を書かれている小説家です。しかし、歴史書も何冊か書かれています。管理人は歴史小説や推理小説はほとんど読まないことから井沢元彦氏の著書で直ぐに思い浮かぶのは、「逆説の日本史」のシリーズです。

 

この本をご紹介しようと思った理由は、著書の井沢氏が歴史の専門のはずの歴史学者を専門バカと一刀両断に切り捨てていることです。ここまでの明快に批判はあっぱれと賞賛したくなります。井沢氏の歴史学者批判は、歴史学者には社会常識が欠落しているのではないかから始まります。歴史と言っても歴史を作っているのは人であり、人間の心理は今も昔も変わらないと言えます。

 

勿論、今と昔では社会背景も異なりますが、その当時の社会情勢や考え方を考えるならば、専門家でなくても隠された歴史も見えるはずですが、歴史の専門家である歴史学者は、専門家でなくても分かる常識的な視点が欠落していると批判されています。専門家は古文書の解読にかけては専門家であっても歴史の専門家ではないとの批判です。

 

具体的には、歴史学者が「史料による実証主義」にこだわっていることに対する批判となります。歴史書の多くはその時代の権力者の編纂であり、権力者にとって都合の悪いことは抹殺されるか、無視されるのが普通です。今の時代ならば、権力者が自分に都合の悪いことは歴史の闇に葬ろうとしても限界がありますが、奈良時代や平安時代、鎌倉時代、室町時代などには、情報を握っている人間が限られていただけでなく、記録として残される文書も限られていたことから今よりも遥かに容易であったはずであるとの指摘されています。

 

つまり、残された古文書だけに頼っていては、本当の歴史が分かるはずもないのに、史料が残っていないからと可能性を否定している態度に疑問を投げかけられています。また、学会で権威を持つ学者の意見が発表されるとそれ以降は、その学説が定説となり、無批判に受け入れられていることを権威主義と思考停止と批判されています。

 

この本の著者の井沢氏に限らず歴史小説の作家が歴史書を書かれていますし、専門家にはない視点から書かれていることから何冊かは読んだことはありますが、説としては面白くても信憑性はどうかなと疑問を持つことが少なくありませんでした。そのため、井沢氏の意見に全面的に賛同はできませんが、確かに歴史学会には問題が多いようです。

 

さて、折角ですのでこの本の内容を少し取り上げたいのですが、内容は多岐に渡っていますので、目次だけを紹介させて頂きます。

 

序章 『日本書紀』信用できるのか

第一章 邪馬台国の"台"はなぜ「タイ」と読むのか

第二章 聖徳太子はなぜ憲法十七条を制定したのか

第三章 奈良の大仏はなぜ「捨てられた」のか

第四章 『源氏物語』はなぜつくられたのか

第五章 源実朝はなぜ暗殺されたのか

第六章 足利義満はなぜ突然死したのか

第七章 山本勘助はなぜ実在を否定されたのか

第八章 上杉謙信は武田信玄と一騎打ちをしたのか

第九章 僧侶はなぜ武器を捨てたのか

第十章 織田信長は宗教弾圧者か

第十一章 豊臣秀吉はなぜ朝鮮出兵をしたのか

第十二章 徳川綱吉は本当にバカ殿か

第十三章 徳川吉宗は本当に名君か

第十四章 田沼意次は本当に汚職政治家か

第十五章 明治維新はなぜ十五年もかかったのか

 

この中で比較的面白いと感じたのは、「第一章 邪馬台国の"台"はなぜ「タイ」と読むのか」「第四章 『源氏物語』はなぜつくられたのか」「第七章 山本勘助はなぜ実在を否定されたのか」「第九章 僧侶はなぜ武器を捨てたのか」「第十章 織田信長は宗教弾圧者か」などです。

 

「第一章 邪馬台国の"台"はなぜ「タイ」と読むのか」は邪馬台国を現代の発音で読むべきでなく、当時の中国語の発音で読むべきあるとの意見です。日本語でも発音が飛鳥奈良の時代と現代では異なると聞いたことがありますが、古い歴史を持つ中国でも漢字の読み方が現代と古代では異なるとされています。これは当然考慮されるべきことですが、歴史学者は無視していると批判されています。

 

井沢氏によれば、台湾にいた中国の古音を研究している学者に「邪馬台」と言う文字を発音してもらったところ、日本人には「ヤマド」あるいは「ヤマドゥ」に近い発音に聞こえるそうです。井沢氏は、このことを根拠に邪馬台国は大和にあったとされていますが、この事だけで邪馬台国は大和にあったと断言するのは早計ではないかと思います。

 

これはこの本の特徴でもありますが、通説に対してこんな考え方をすべきではないかとの提言の意味合いが強い本ですので、通説を知りませんと面白さが半減するのではないかと思います。しかし、通説を知らなくても面白く読める本ではありますが、内容の信憑性となりますと疑問が残ります。

 

「第九章 僧侶はなぜ武器を捨てたのか」と「第十章 織田信長は宗教弾圧者か」かも取り上げたい内容ですが、この内容を取り上げますと、話が長くなりますので、次回にでも取り上げたいと思います。

 

 

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at 01:06, 星 良謙・子授け地蔵, 本の紹介

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森田療法(星)

今回は本の紹介です。

暫く前に書店の店頭で何となく気になり買い求めた本ですが、1979年刊のワニの本『心配症をなおす本』の新装版であり、その新装版の初版が1999年8月と何とも古い本でした。しかし、初版以来長くベストセラーとして売れ続けている本の様です。

 

内容としては、神経症の療法である森田療法を紹介する内容ですが、正直なところ評価の難しい本です。森田療法に関しては、十年以上前に本を読んだ記憶はありますが、内容はほとんど覚えていませんでした。これに対してこの本は森田療法の基本的な考え方や治療方針、治療内容などを詳しく書かれていますので、森田療法とは何かを知るには良書ではありますが、正直な感想としてはあまりにも話がくどいことから通読はしましたが、途中で読む気をなくしました。また、森田療法への思い入れが激しすぎるためか、森田療法の短所や限界についても触れられていないことが気になりました。

 

森田療法は神経症(ノイローゼ)の治療を目的とした療法ですが、神経症について少し触れておきます。

 

(1)神経症(ノイローゼ)には、次のようなタイプがあります。

ゞ迫神経症

対人恐怖症、疾病恐怖症、不完全恐怖、雑念恐怖、騒音恐怖、縁起恐怖、不潔恐怖、吃音(きつおん)恐怖、体臭恐怖など"とらわれ"を主体とする神経症。

 

普通神経症

頭痛、頭重、頭内もうろう感、めまい、不眠、肩こり、疲労感、脱力感、胃腸障害、異常感覚、手のふるえ、性的障害、頻尿、記憶不良、耳鳴り、といったように「からだのぐあいの悪さ」をひじょうに気に病む神経症。

 

I坩多牲仂

心悸亢進(しんきこうしん)、心臓発作、呼吸困難発作、めまい発作、はげしい不安発作があらわれてくる神経症。

 

ぅ劵好謄蝓

失声(声がでなくなる)、失明(目が見えなくなる)、手足のマヒなど、心因性の症状が極端にでてくる神経症。

 

(2)心身症

精神的ストレスで胃・十二指腸かいよう・高血圧、じんしん、円形脱毛症、発熱など、からだにでる病気。

 

(3)うつ病・躁うつ病

誰にでもある感情の波の起伏がとりわけ大きくなる病気ですが、そのなかにはクスリを飲んでも感情の起伏がおさまらない、うつ病・躁うつの遷延(せんえん)型があります。

(1)(2)(3)のような症状で悩んでいる人たちは、神経症という一つの性格特徴をもっています。

 

青木薫久著 <新装版>心配症をなおす本 P4-5

 

この本の中では、小心・体調不良・うつ病・心臓ノイローゼ・不完全恐怖症・劣等感・引っ込み思案などの治療例が開設されていますが、少しばかり疑問を感じました。この森田療法を一言で言えば、「あれこれ悩んでいる暇があったならば、働け」です。勿論、実際にはそれほど単純な話ではありませんが、悩みの渦中にありますと、悩みにとらわれ、抜け出せなくなることから悩むことを止めて目の前の事に集中させる療法です。

 

確かに様々な不安から抜け出せない状態にあるならば、考えることを止めて何も考えずに目の前の課題を淡々とこなすことの方が悩みから抜け出すことは容易になると思います。この本の著者は、悩みの堂々巡りや悩むことを止めようとすればするほど、悩んでしまうことから目の前の課題を淡々とこなすことの大切さを繰り返し説かれています。

 

また、現実よりも理念を優先してしまうことの弊害も繰り返し説かれています。個人的には宗教家や社会運動の活動家が陥りやすい傾向ではないかと思いますが、世の中はこうあるべきだとの思いを強く持っていますと、現実よりも自分の理念を優先してしまう結果となり、現実と理想のギャップに苦しむことになります。これは個人的にも同感できる内容です。

 

〇〇でなければならないとか、〇〇であるべきだとの意識が強すぎると自分で自分を苦しめる結果となります。その弊害は非常に大きく、自分の理想と異なる現実を受け入れることができずに苦しんでいる人は少なくありません。その解決策として悩みは悩みとして考えることを止めて、自分がやるべきことに専念させる治療法ですが、この方法を実践するには、非常に強い精神力と不退転の決意が必要ではないかと思われます。

 

人間は誰でも自分の生活信条を改めることを嫌います。それは自分の価値観を否定することであり、自分の人生が否定されたと考えるからだと思われます。この森田療法は、考えることを止めて目の前のことに専念することを治療方針としていますが、それは患者にとっては、自分の生活信条を放棄するのと同じであり、自分の価値観が否定されるのと同じことになるのではないかと思われます。そのため、そこには強い葛藤が生まれると予想されます。

 

この本の中に数多く書かれている患者の体験談からもその葛藤の深刻さを知ることができますが、どれだけの人が葛藤に耐えられるのだろうかと少しばかり心配になりました。勿論、医者の適切な指導があれば問題はないのでしょうが、患者もそれなりの覚悟が必要であり、患者にその覚悟がなければ成り立たない治療法ではないかと思いました。しかし、患者に何としても病気を治したいとの強い決意があれば、良好な療法ではないかと思います。

 

また、森田療法の考え方には、曹洞宗の教えが大きく影響しているのではないかとも感じました。本の中では仏教の教えを引用しながら森田療法を解説されていますが、著者の仏教に関する理解は浅く、到底仏教の真意を理解しているとは思えませんでした。更に哲学や物理学にも触れながら森田療法を紹介されていますが、都合の良い話だけを利用して森田療法の権威づけをしているのではないかとの胡散臭さを感じました。

 

いずれにしても著者は森田療法に心酔されていると思われます。そのため、森田療について知りたい考えている方には良書と言えますが、客観的な視点は欠落していると思います。

 

 

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at 10:06, 星 良謙・子授け地蔵, 本の紹介

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参拝のマナー(星)

先日のことですが、真宗大谷派の別院に参拝したところ、ちょうど納骨される方が二組ほどおられ、納骨法要が行われていました。納骨の法要は本堂で行われることから静かに手を合わせながらお経を聞いておりました。しかし、少し離れた場所にいた男性は、お経を読まれていました。

 

α~ (ー.ー") ンーー

 

本堂でお経を読まれるのは悪いことではありませんが、法要中なのだから控えることはできないのかと思ってしまいました。この男性は、周囲に気を使って小声で読まれていたようではありますが、法要中は静かにしているのがマナーではないかと思いました。その場には、何組かの参拝者が静かにお経を聞かれていましたが、他の方々は後から来られる参拝者のために少し後ろに座られていましたので、この男性の行動が少しばかり気になりました。

 

暫く前にも同じような経験をしました。その時は、あるお寺で祈祷を受けていたのですが、祈祷途中に夫婦と思われる参拝者が参拝されました。そこのお寺では、本尊の前にお賽銭箱や香炉、蝋燭立てなどがあり、少し離れた場所に参列者のための椅子席が並んでいました。そのため、焼香のために祈祷を受けている人の前に座ることは避けられないのですが、その夫婦は焼香が終わった後もその場に座られ続けていました。

 

管理人も他の方が祈祷を受けられている時に参拝をした経験は何度もありますが、後ろの方に座って静かにお経を供養にしています。お経を聞かさせて頂けるだけでも有難いと思いますので、祈祷を受けられている方の迷惑にならない様に心掛けるのがマナーではないかと思います。

 

他にも祈祷中に大声で読経を始めた方もいました。そのお寺は有名な観音霊場であり、参拝者も多いお寺でした。その方も巡礼の装束を着た方でしたが、祈祷中にもかかわらず、本堂に上がり、大声で読経を始めました。巡礼をされていることから信仰熱心な方なのでしょうが、どこのお寺でも祈願祈祷は長くても20分から30分程度であり、短ければ10分程度で終わるお寺もありますので、その程度の時間が待てないのかと思ってしまいました。

 

この他にも参拝をしていますと色々な方に出会います。3・40人の団体が神社の本殿前を長時間占有していたことには少しばかり閉口しました。暫く待っていたのですが、10分、15分と待っていても一向に参拝が終わる気配がなく、その日は本殿の参拝を諦めて帰ったこともありました。

 

また、意外に多いのがお寺で二礼二拍手一礼の作法でのお参りです。真言宗や天台宗では護摩祈祷の際に一回手を打ちますし、お寺によっては手を二回打つ場合もあるようです。お寺の方にお聞きしたところ、仏様は普段は禅定されていることからお参りする前に手を打ってお知らせするために手を打つとのお話でした。そのため、神社の作法とは意味が異なるとのことでした。

 

いずれにしても細かい作法は宗旨によって異なりますが、お寺の場合には合掌と拝礼が基本となります。二礼二拍手一礼の作法は神社の作法なのですが、年配の方が当たり前のように二礼二拍手一礼の作法でのお参りされているのには驚かれます。それと数珠を持たずにお寺に参拝される方も多いのですが、お参りすることが分かっているならば、数珠わ持参されることをお勧めします。

 

 

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at 00:45, 星 良謙・子授け地蔵, 管理人のひとりごと

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誰に勝ちたいのか(星)

2・3年前の話してなってしまいましたが、テレビで20代にバブル期を過ごした女性の婚活のドキュメンタリーを放送していたことがありました。その女性は結婚を希望しながらも40歳を過ぎていることから焦っている様子でした。その番組の中で印象に残っているのは、「結婚相手の条件を下げることは負けだと思っている」との言葉でした。

 

この女性は自分よりも高収入であることを結婚相手に求めていました。この女性は一流企業で活躍されている女性であり、若い頃には何人かの男性から結婚を申し込まれたとのことでしたが、いずれの方も条件を満たさなかったことから結婚を見送られたとのことでした。

 

バブル期には、女性が結婚相手に高収入、高学歴、高身長の3つの条件を求めたことから3高と言う言葉がはやったことがありました。当時は自分には無縁な世界の言葉であったことから気にもしていませんでしたが、本当にそんな女性がいたのかと少しばかり驚きました。

 

この女性は、「結婚相手の条件を下げることは負けだと思っている」と語っていましたが、いったい誰に負けるのかと思ってしまいました。逆に自分の希望する条件を満たす相手と結婚できとしても誰に勝ったのでしょうか。結婚を勝ち負けで考えること自体が理解に苦しみますが、この女性は誰と勝負しているのかと悩みました。

 

この女性にとっての勝ち負けとは、自分のプライドであるとは思いますが、何のために結婚したいのかと疑問を抱きます。高い収入を得ていることは、社会的に成功している証ではありますが、社会的に成功していなくても幸せな家庭を築いている人は世の中に数多くいることを忘れているのではないかと思います。勿論、そんなことは既に分かっていても自分のプライドが許さないと言ったところでしょうか?

 

しかし、世の中にはこんな方は数多いのではないかと思います。自分で自分を縛り、苦しんでいるとしか思えないのですが、他人からするならば、どうでも良いとか言えないようなことにこだわり続けて苦しんでいる人は数多くいます。

 

管理人が大学生の頃の話ですので、もう遠い昔ですが、同じ大学に入学した友人が入学して直ぐに退学しました。どうしたのかと思って聞くと、他の大学を受け直すとの話でした。管理人が卒業した大学は名門ではありませんでしたが、三流とまでは言えない大学でした。不思議には思いましたが、深く理由も尋ねませんでした。

 

その理由が分かったのは、数か月後の事でした。友人とはそれほど深い付き合いはなかったのですが、用件は忘れましたが電話する機会がありました。友人は不在で予備校に行っていると母親が話から「あんな学校では恥ずかしいから予備校に通わせている」と話していました。母親は一流の大学でなければ自分のプライドが満足できなかったりではないかと思われます。

 

結局、友人は二浪した末に最初に入学した大学と大差のないランクの大学に入学したと聞きました。本人は滑り止めと言っていましたので、希望の大学には入れなかったようです。傍から見ていますと、友人は2年の歳月と多額な学費を無駄にしたようにしか見えませんでした。それでも本人の希望ならば、まだ救われるのかもしれませんが、親の見栄であったならば救われません。その後、友人はどうなったのかは知りませんが、友人にとって大学のランクとは何であったのかと聞いてみかったと思っています。

 

似たような話ですが、別の友人の家に遊びに行っていた際に見合いの話となりました。友人の母親が〇〇さんはどうかと言いますと、友人が〇〇大学卒だからとの話を振られましたが、「学歴を聞いてから付き合ったことはないから」と答えました。その話を共通に話したところ、その友人は「あいつなら学歴を聞いてから付き合うかもしれない」と笑っていました。

 

〇〇でなければならないとの考え方やこんな〇〇では恥ずかしいと言った気持ちを持つ方は珍しくありませんが、それにこだわり過ぎますと不自由な人生となります。しかし、本人にとっては重要な問題であり、世の中の常識と考えている場合が多いようです。そのため、自分の常識を疑うことから始めなければいけないのかもしれません。

 

 

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at 08:27, 星 良謙・子授け地蔵, 管理人のひとりごと

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土偶の神霊のお言葉(星)

今回は、縄文時代の神霊と思われる方からのお言葉を紹介します。神道が成立する以前の精霊信仰の時代を生きた神霊と思われる方のお言葉であり、現代人の感覚からしますと理解することが難しいとも言えますが、信仰の原点とも言える内容ではないかと思います。


呪術とは何か知っていますか。しかし、呪術について語る前に神や精霊の存在について語らなければなりません。今の世の中では笑い話と考える人も多いと思いますが、私たちが生きていた時代には、神の存在や精霊が存在することは常識であり、誰も疑う事はありませんでした。しかし、今の時代の人々は神の存在や精霊の存在を迷信と切り捨ててしまうことが科学的な考えであり、神の存在や精霊を否定することが文明であると考えているのではないでしょうか。

また、あなた方が江戸時代と呼んでいる時代よりも前には、神の存在や精霊を信じている人々は数多くと言えますが、神とは何か、精霊とは何かを知っている人々は少なく、呪術とは何かを知っている人々は更に少ないと言えるのではないでしょうか。私たちからするならば神や精霊について知らぬ者が呪術について語ることは、それは冬の寒さを知らぬ者が雪や氷について語っているのと同じであり、何の意味もないと思います。

見えない世界の存在を信じることもなく、目に見える物だけを信じることしかできない者には呪術だけでなく、祈りすらも無意味な行為としか思わないでしょう。そしてその者たちにとっては、呪いや祈りも自分の心の持ち方次第であると考えるでしょう。しかし、目に見える物だけしか信じられない者たちは、何を信じているのでしょうか。

私たちには、目に見える物だけしか信じることがられない者たちは、自分の力だけを頼りにしか生きることができない不毛な人生を生きている者たちにしか見えないのです。神の存在を信じることもなく、精霊の存在を信じる事もできない者たちには、自然の息吹すら感じることができないのではないのかと思います。

目に見える物だけしか信じることができない者たちが見ているのは、物としての自然であり、自然の息吹ではあると思えません。しかし、大自然の本当の美しさとは、自然の息吹であり、自然の持つ生命力なのです。それを感じることができなければ、人間の英知を超えた神秘に触れることもできなければ、本当の感動も知らないのではないかと思います。

あなたは私が呪術について説くことを目的としながらもどうしてこのような話をしているのかと疑問を抱いているはずです。しかし、目に見えない物の存在を信じるとは単に神や精霊、死後の世界の存在を信じることではないのです。目に見えない物が存在することを信じるのではなく、人間の英知を超えた存在や自然の息吹を感じることなのです。

 


 

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at 20:25, 星 良謙・子授け地蔵, 神仏の御言葉

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二分法の考え方の危険性5(星)

意外と知られていないことですが、易の教科書として利用されている易経は、本来は儒教の聖典である四書五経の中の一冊です。四書五経とは、四書は、「大学」「中庸」「論語」「孟子」、五経は、「詩経」「書経」「礼記」「易 経」「春秋」となります。

 

詳しくは こちらから 中国まるごと百科事典

 

最初に易の本を読んだのはいつだったかは明確に覚えてはいませんが、今から30年以上前の話です。当時は占いとしての易にし興味もありませんでしたし、その思想的な背景にも興味もありませんでしたが、書かれている内容が非常に古臭い印象がありました。また、困難に遭遇したならばひたすら忍耐を説く内容にも少しばかり反発していました。

 

占いに関しては、中学時代に始めたトランプ占いが始まりであり、主にヨーロッパの占いを中心に勉強していましたので、易経にはあまり関心がありませんでした。しかし、ヨーロッパの占いでは方位術や風水と言った占いと言うよりも開運の術に近い分野の占いがないことから漠然と占い師になろうかと考え始めた頃から方位術や風水などの中国の占いを勉強しましたが、中国の占いを勉強しますと易経を深く知る必要がありました。

 

一般の方からますと少し意外に思われるかもしれませんが、占いは基礎的な鑑定方法を学んだら、占いの背景にある思想を学んだ方が理解が早くなります。逆に占いのテクニックばかりを勉強していても効率が悪くなります。勿論、中国の陰陽五行説にしても西洋の神秘思想にしても難解であり、その全貌を知るだけでも容易ではありませんが、概要を知るだけでも理解は早くなります。

 

話を戻しますと易経は道教でも重視されていますが、儒教の聖典であることから内容は儒教色が強い内容です。儒教とは何かを簡潔に要約することは難しいのですが、周王朝の政治を理想として、五常(仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することにより五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持することを説きます。簡単に書くと、君主に徳があれば、国は自然に治まり、世の中は平和になることを説き、家臣は君主に忠誠を誓うべきことが家臣としての道であることを説きます。

 

これは君主と家臣の関係だけでなく、親子関係、夫婦関係にも適用され、子供は親に従い、妻は夫に従うべきとの封建主義体制を維持するためには非常に都合の良い教えでもあります。そのため、日本でも幕府が儒教を推薦した歴史があります。しかし、儒教には欠点もあります。それが人間関係を上下関係で定義することです。

 

この考えには、目上の者は敬えの考え方が根底にあります。忠孝の説くを説くことは悪いことではありませんが、上の者が徳を積む気がなければ、地位に安住して目下の者に際限のない要求をすることになります。勿論、上に立つ者は、自分の徳を積むことで尊敬されるべきことは説かれていますが、安易に解釈するならば、目上の者は尊敬されるべきであるとの考え方に陥りやすくなります。これの弊害が更に強くなりますと、自分は何をしても許されるとの考え方となります。

 

勿論、易を占いとして利用する場合には、儒教の考え方で答えを導くことはありませんので、人生の指針として参考にする場合と少し異なります。しかし、基本的には儒教の一派である朱子学の解釈を採用していますので、影響は避けられないかとは思います。易経に書かれた言葉は短いだけでなく、ある程度の専門知識がないと意味不明となります。

 

具体例

天風姤 初爻変

鉄製の車止めにしっかりと繋ぎとめる。貞正で吉である。勝手に先へ進ませるならば、凶になる。やせ細った豚はぴょんぴょん跳ね回ってじっとしておらず、ほっておけば終わりには手におえなくなる。

 

天風姤は一陰の上に五陽が重なっています。易では陰は女性を表し、陽は男性を表しています。そのため、一人の女性が5人の男を相手にしている状況を表しているとされています。そして初爻変は5人の男を相手にしている女性を表すと解釈します。


「鉄製の車止めにしっかりと繋ぎとめる。貞正で吉である。」とは、小人の勢いが強いことからこれ以上勢いが強くならないように貞正を守らせるべきことを表します。


「勝手に先へ進ませるならば、凶になる。」とは、小人の勢いが強くなるならば凶となるとこを表します。


「やせ細った豚はぴょんぴょん跳ね回ってじっとしておらず、ほっておけば終わりには手におえなくなる。」とは、放置していれば、ついには大害を起こすことから、しっかり備えをすべきことを表します。

 

まとめますと大勢の男を手玉に取るような女は駄目だと言う時点で、封建的な思想とも言えますが、占いの場合には自分や自分の周囲の人間を利用しようと下心を持って近付く者がいるから用心しろとの警告と解釈します。そのため、易経の説く吉凶はすべて儒教の教えの観点からの吉凶となります。

 

話を戻しますと、滅私奉公の奨励と言った時代遅れても言うべき考え方や権力を持つ者は何をしても許されると言った考えに陥る危険性が高いと言えます。そのため、儒教は優れた教えではあっても欠点もあると言えるのではないかと思います。

 

蛇足ながら儒教の強い影響を受けている国から盛んに日本叩きがなされていますが、根底には儒教の弊害があるようです。特に儒教の強い影響を受けている国の大統領は大変なことになっているような・・・・

 

また、日本叩きをしている理由も儒教の本家が親であり、どこかの国は自分たちが兄、そして日本は弟との認識があるようです。そのため、弟は兄の言うことに黙って従えば良いのだとの意識だとの話もあるようです。

 

 

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at 23:05, 星 良謙・子授け地蔵, 管理人のひとりごと

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二分法の考え方の危険性4(星)

 スーパーの売り場は既にクリスマスの飾りつけが・・・・・

暫く前のハロウィンよりは良いのですが、一年が早いと言うか、少しばかり焦らされている気がします。

 

蛇足ながらハロウィンのお祭りは好きになれないと言うよりも頼むから止めてくれと言った気分です。

売り上げが伸びるならば何でも利用しようとする魂胆が見え見えと言った気分です。

それよりも日本の伝統的な文化を大事にしてくれと言いたいのですが、日本の伝統的な文化は忘れ去られてしまっている気がします。

 

冬至のかぼちゃや柚子湯もすっかり忘れ去られているような気が・・・・

 

それはさておき・・・・

 

白か、黒かの二者択一の考え方は、差別主義の根幹ではないかと思う事があります。二者択一型の考え方は、正しいか、間違いか、正義か、悪か、の考え方であり、そこには多様性を認める考えはありません。現実の社会では、正しいか、間違いか、正義か、悪かと分けることができない問題は数多くあります。

 

確かに善か、悪か、正しいか、間違いかで考えることは多いのですが、個人的には善か、悪か、と言った考え方はあまりしていません。その原点を考えますと大学時代まで遡ることができるのではないかと思います。大学時代は美術部で油絵を描いていました。文科系の倶楽部と言いますと仲良しグループの印象を持つ方も多いのではないかと思いますが、雰囲気は体育会系の少しばかり変わった倶楽部でした。今はアニメが全盛であり、絵をかく人間も昔に比べますと大幅に増えている気がしますが、当時は少数派でした。それが原因かどうかは分かりませんが、良く言えば個性が強い人間の集まりでした。

 

集団生活と言った意味では、上下関係が厳しい倶楽部ではありましたが、絵画技術に関しては厳しい指導はありましたが、技法や表現方法に関しては自由でした。具象画であろうが、抽象画であろうが、静物画であろうが、風景画であろうが、人物画であろうが基本的にテーマは自由であり、技法に関しても自由でした。そこには価値観の多様性がありました。また、先輩から後輩を指導する際の注意として特定の表現を押し付けるべきではなく、本質的なことだけを指導しろと言われました。絵画の世界においては正解は一つではありません。正解は無数にあると考えることもできる世界です。

 

そのため、どのような表現方法を選ぶかは本人が決めることであり、他人が決めることではありません。つまり多様な価値観を認めた上で指導なければ、その絵の良さを殺すことになります。また、働き始めてからは主に営業の世界にいたことも大きいかも知れません。営業の世界も正解は一つではなく、人によって営業の方法は異なります。ある人が成功した方法でも別の人がやって失敗することもあります。管理職は夜討ち朝駆けの高度成長期の営業方法を言うばかりでしたが、既に時代遅れであるといつも思っていました。そのため、最終的には自分のスタイルの営業を模索しなければなりませんでした。

 

しかし、その真逆が宗教の世界ではないかと思います。宗教においては、教えに忠実なことが求められます。そのことが本来は寛容と慈悲を説くはずの宗教が排他的な考え方になるのではないかと思われます。今でも一部の宗旨では、神社への参杯は禁じられていたり、他の宗旨のお寺への参拝が禁じられていたりします。個人的には、これも宗教は寛容性を失うと弊害が目立つようになるのではないかと考えています。

 

話の趣旨は少し異なりますが、以前からご紹介したかった話をご紹介します。隠れキリシタンについて調べていたところ、日本に来た宣教師が日本人女性を奴隷として売っていたとの記事を見つけました。

 

日本の歴史教科書はキリシタンが日本の娘を50万人も海外に奴隷として売った事は教えないのはなぜか?

詳しくは こちらから

この記事の中で宣教師が日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいていたとの話を紹介しているだけでなく、高山右近、大友宗瞬などキリシタン大名が神杜仏閣の破壊、焼却をしていたとの話が紹介されています。

 

念のために検索してみましたが、1560年代以降、イエズス会の宣教師たちは、ポルトガル商人による奴隷貿易が日本におけるキリスト教宣教の妨げになりると考えたていたようです。そしてポルトガル国王に日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を求めており、1571年には当時の王セバスティアン1世から日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布させることに成功しています。また、1596年(慶長元年)、長崎に着任したイエズス会司教ペドロ・マルティンスは、奴隷貿易に関係するキリシタンがいれば、例外なく破門すると通達していることから当時の宣教師が積極的に奴隷貿易に加担していたとは言えないようです。

 

しかし、秀吉が日本人が奴隷として売買されていることに激怒して1587年(天正15年)にバテレン追放令を発布しています。結論としては、一部の宣教師の行為であったのではないかと思われますが、一部ではあっても聖職者が奴隷貿易に加担していたとは驚かされました。

 

日本人女性を奴隷として売買することに罪悪感はなかったのかと疑問を感じますが、異教徒を人間扱いしていなかったのではないかと思えてしまいます。また、高山右近、大友宗瞬などキリシタン大名が神杜仏閣の破壊、焼却をしていたとするならば、当時のキリスト教徒は非常に排他的な考えであり、仏教や神道を信仰している日本人は、悪魔手先としか考えていなかったのではないかと思えてしまいます。

 

悪魔の手先であるならば、人間扱いする必要もなく、家畜同然に扱って何が悪いとの話となります。勿論、これは推論であり、奴隷貿易に加担した宣教師や奴隷商人の考えは分かりませんが、異教徒や有色人種に対して激しい差別意識がなければ、一部であっても宣教師が人身売買に加担するようなことはなかったのではないかと思われます。

 

自分たちの教えを信じない者は悪魔の手先と考えるべきではないと思いますが、根底にあるのは白か黒かの考え方ではないかとおもいます。この考え方は、敵か味方か、上か下かの考え方に陥りやすく、寛容さが欠落しています。つまり寛容さとは多様な価値観が前提にあるのではないかと思います。

 

 

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at 16:27, 星 良謙・子授け地蔵, 管理人のひとりごと

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二分法の考え方の危険性3(星)

前回の投稿では、占いの話から離れて書くつもりだったのですが、気付けば占いの話から離れていなかったような気が・・・・

 

(- .-)ヾ ポリポリ

 

と言うわけで、今回はUFOの話から入ってみたいと思います。

 

管理人はUFOの実在を信じるかと言われても答えに困ります。可能性としてはゼロではないとしても信用できるだけの証拠も見たことがありませんので、基本的には信じていないと言うべき立場に近いのかもしれません。しかし、UFOや宇宙人の話を考える場合に信じるか、信じないかの二者択一の質問には無理があるのではないかと思います。

 

まず、UFOと言いますと、一般的には空飛ぶ円盤のことを意味していますが、正確には未確認飛行物体(みかくにんひこうぶったい、英: unidentified flying object、UFO)とは、何であるか確認されていない飛行する物体のことであり、空飛ぶ円盤のことではありません。そのため、未確認飛行物体の正体が風船か、気球か、どこかの国のミサイルかは別にして確認できない飛行物体ならばUFOとなります。

 

しかし、空飛ぶ円盤が実在しているかとなりますと話は別となります。一般的に空飛ぶ円盤は、地球外生命体が操縦する宇宙船とされていることが多いようですが、空飛ぶ円盤が実在しているかを論ずるのであるならば、幾つかの問題を整理する必要があります。

 

宇宙人が地球に来ているかの疑問には下記の疑問があります。

 

1 地球以外の星に生命体はいるのか?

2 その生命体は高度な知性を持つのか?

3 その生命体は高度な科学技術を持つのか?

4 その生命体は地球の科学力を凌駕しいるのか?

5 その生命体は宇宙旅行をする技術を持つのか?

6 その生命体は地球に来ているのか?

 

「地球以外の星に生命体はいるのか?」に関しては、銀河系には、2000億個の星があると言われています。そして、宇宙には銀河が1000億個以上もあると考えられていますので、地球以外の星に生命体がいないと考えることには無理があると思います。同じ理由で2から5までも可能性は高いと言えます。逆に言えば、地球以外の星に高度な知性を持ち、宇宙区間を移動できる手段を持つ生命体がいないと考える方が無理な話ではないかと思います。

 

しかし、地球に宇宙人が来ているかとなりますと、疑問が残ります。宇宙人が地球に来ている証拠だとされている写真は数多くありますが、その多くは捏造写真であったり、気球などであったりと信用できない物が多いようです。また、UFOとされている写真や動画は、映像や画像の使用料が期待できることから捏造する人間は後を絶たないようです。そのため、もっともらしい写真や動画であるとしても信用できない可能性も高いと言えます。

 

UFOの写真や動画は信用できないとしても自分もUFOを見たと言われる方も少なくありません。飛行機にしては動きがおかしかったとか空中で止まっていたと思ったら考えらない動きをしたと言った話を聞いたことがあります。勿論、その方が嘘を付いているとは思いませんが、本来の意味での未確認飛行物体と言うべきと思われます。つまり飛行機や鳥とは明らかに違う動きをしていたとしも空飛ぶ円盤であるとは限らないと言えます。

 

UFO事件簿 UFOと誤認しやすいもの こちらから

 

しかし、UFOの実在を信じている方は、未確認飛行物体と空飛ぶ円盤を同一に考えているのではないかますが、あまりにも単純な発想ではないでしょうか。確かに地球に宇宙人が訪れている可能性は否定できません。その意味では空飛ぶ円盤が実在している可能性はありますが、自分には理解できない動きをする飛行物体を空飛ぶ円盤と考えることには問題があります。

 

世の中には、解明されていない謎は数多くあります。現代の科学で全ての謎が解明されているはずもなく、病気でも原因の分からない病気や治療法が確立されていない病気も数多くあります。管理人が仕事にしている占いにしてもどうして当たるのかは不明です。また移転や旅行などで運気を向上させる方位術もどうして効果があるのかの理由は不明です。似非科学の批判書では占いは迷信扱いされていますが、一定の技術を持つ占い師ならば、それなりの的中率はあります。また、方位術も何人かの方に試していただきましたが、限界はありますが、一定の効果はありました。

 

その意味では、科学にも限界があり、宇宙人が存在しているかどうかも現代の科学では、解明されていないことの一つですが、分からないことが、この世の中には数多くあると考えるへきではないでしょうか?

 

 

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at 16:15, 星 良謙・子授け地蔵, 管理人のひとりごと

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二分法の考え方の危険性2(星)

いよいよ冬将軍の到来と言ったところでしょうか。

このところ、寒い日が続いています。

 

{{(>−<)}}サムイ・・・

 

インフルエンザが流行しているとか・・・・

 

健康には充分にご注意下さい。

 

それはさておき・・・

 

前回は占いの話を書きましたが、今回は占いを離れてお話をしたいと思いますが、前回の続きから話を進めさせて頂きます。前回は占いの際に陥りやすい間違いをお話させて頂きましたが、どうしてプロであるはずの占い師が間違いをするのかを考えてみたいとおもいます。勿論、占い師の勉強不足や経験不足があると思いますが、無意識に曖昧な判断を避けることがあるのではないかと思います。多くの方は、曖昧さを嫌い、何らかの結論を求めます。

 

Aであるか、Bであるかを断定することができない状況であるとしてもAなのか、Bなのか、はっきりとした明確な答えを求めようとします。特に占い師のように、その場で何らかの答えを出さなければならない立場では尚更と言えます。それが正解であるかどうかを別にしてAはBである、BはCであると考えるならば、話は明確となります。

 

例えば、タロット・カードのワンド4は、目的の到達や実現を表します。そこから様々な意味が生まれます。手元の解説書には、幸福、繁栄、交際、愛情、やすらぎ、平和、満足、労働の後の休息、個人的な関係、コミュニケーション、参加、旅行などの様々な意味を表すとされています。

 

以前のことですが、テレビである占い師がタレントの今後の人生を占っていた際にこのカードから結婚を予言しました。確かに幸福、繁栄、交際と言った意味はありますので、結婚の予言は不可能ではありませんが、かなり無理があります。専門的な解説となりますが、交際期間が長く、周囲も結婚して当然と言った雰囲気があれば、結婚の予言は可能ですが、常識的に考えれば、新しい出会いと言った解釈となります。

 

これと似たような話は多いのではないでしょうか。同僚のAさんは私にいつも優しくしてくれる、だからAさんは好意を持っているはずだと食事に誘ったところ、残念ながらAさんは職場の人間関係を良好に保つために優しく接していただけと笑うに笑えない話もありました。逆に同僚のAさんは私にいつも冷たい、だから私を嫌っていると思ってたら意識しすぎて、緊張から思うように話せなかっただけであり、好意を持っていたとの話もありました。

 

そのため、好きな人には優しく接することはが正しいとしても、優しく接してくれるからと言って好意を持ってくれているとは限らず、嫌いな人には冷たく接することが正しいとしても、冷たい態度で接するからと言って嫌いだとは限りません。しかし、多くの方は、優しく接してくれるから好意を持っているに違いないと考えることが多いようです。

 

では、どうして、安易に決めつけるかを考えますと、曖昧なままにしておくよりも、間違っていたとしても、答えを出すことの方が楽だからではないかと思われます。これに対して曖昧なままにしておきますと、いつまでも答えを出せない状態が続くことになります。この状態が続きますと、どちらだろうかとあれこれ悩むことになります。それよりは、自分なりに答えを出してしまった方が楽と言うことになります。

 

先ほどの占いの事例では、占い師としては、ワンド4を結婚と解釈した方が楽だったと思われます。結婚と解釈して話す方が、相談者は喜びますし、スタジオは盛り上がると良いことずくめであり、他の解釈を考えなくて済みます。但し、占い師としては無責任に感じますが・・・・

 

管理人は、このような状態であっても精神的な負担をあまり感じないことから人と違うのかなと思う事があります。答えを出すことが出来るだけの判断材料が揃わないならば、判断を保留することにしています。イメージとしては、棚の上にしまっておくような状態です。あれこれ考えてみたところで決め手がないのであるならば考えても仕方がないと考えます。判断材料が揃わない状態や確認ができない状態で考えても推論でしかありません。

 

推論でしかないならば、判断を保留しておくのが良いのではないかと思います。但し、判断を保留するここと現実逃避とは異なります。現実逃避をして問題を先送りにすることは、問題の解決を遅らせる結果となり、安易に決めつけるのと同じく弊害の方が大きくなります。判断を保留するとは、問題から目を背けるのではなく、問題の本質を見抜く為の作業です。つまり、色々な可能性を考えることができることから判断を保留するのであって、決断したくないから問題を先送りするのとは異なります。

 

逆に判断を保留するとは、まだ知らない問題が隠れている可能性を疑うことであり、黒か白かと単純に考えることや問題から逃げて先送りすることも精神的なストレスは大きくなりますが、よりよい人生を生きるためには大切なことではないかと思います。

 

 

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at 19:11, 星 良謙・子授け地蔵, 管理人のひとりごと

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