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「壊れた地球儀の直し方」を読んで(星)

このところ寒い日が続いております。

管理人も風邪が治ったと内科の医者から言われ、薬もなかったのですが・・・

咳が止まりませんでした。

 

????(-"-)????

 

仕方がなく、耳鼻科の病院に行きました。

 

連休明けのためか、混雑・・・・・

風邪が流行っているのでしょうか?

 

診察の結果、風邪の炎症とのこと、風邪が治りきっていなかったようです。

家に帰ってから薬を服用したところ、今のところは、咳もなくなりました。

 

もっと早く専門医の診断を受けるべきなのでしょうか・・・・

 

それはさておき・・・・

 

今回も本の紹介です。そして今回の本もこれが新書かと言う程の厚みのある本です。今回の本は前回の本よりも頁数が多く、493頁ですので、通常の新書の2冊分はあろうかと言う文章量です。この本は、2004年6月に扶桑社から『日本国民が決断する日』を改題と加筆をして2016年6月に新書として発売されたものです。そのため、今となってはこの本で取り上げられている内容は古くなってしまっているのですが、取り上げられているテーマに古さは感じません。

 

著者の青山繁晴氏についてはあまりご存知ではない方もいるのではないかと思いますので、略歴をご紹介します。

 

著者の青山繁晴氏の略歴

昭和27年7月25日、神戸市に生まれる。淳心学院中高卒業。慶應義塾大学文学部中退、早稲田大学政治経済学部経済学科卒業。共同通信社に入社し事件記者、経済記者を経て政治部へ。平成10年、三菱総合研究所に研究員として迎えられ、安全保障・外交から金融・経済までを包括する国家戦略の立案に携わる。平成14年、株式会社独立総合研究所を創立。代表取締役社長・兼・首席研究員に就任し、原発テロ防止をはじめ危機管理、日米同盟を対等にする試みを含め外交・安全保障、メタンハイドレート試掘を軸にした自前資源の調査研究などを統括する。近畿大学客員教授、東京大学非常勤講師を務め、消防審議会委員など公職を無償で務める。

衆議院議員 自民党所属 比例代表選出 平成28年 当選 1 回

 

この方の存在を知ったのは、暫く前の事でした。ネットで配信されている「真相深入り!虎ノ門ニュース」という番組を見ていて、他の解説者にはない視点の話が多いことから興味を持ち、「危機にこそぼくらは甦る 新書版 ぼくらの真実 (扶桑社新書)」を読んでみました。そして「アメリカ・ザ・ゲンバ - America at the Scenes - (ワニブックスPLUS新書)」を読み、この「壊れた地球儀の直し方」で3冊目です。危機管理や国防の専門家と言った印象を持ちましたが、もう一つの顔は、良い意味での愛国者と言ったところでしょうか。そして行動力と堪能な語学力を生かした取材活動には驚かされました。

 

観念論で現実を無視した平和を説くような活動家とは、対極にあるような現実主義者であり、アメリカの考え方や軍事にも精通されているだけでなく、極東アジアの軍事情勢にも非常に詳しい印象を受けました。この本が書かれたのは、アメリカがイラクと戦争戦争を始めた当時の話であり、当時のアメリカの思惑や北朝鮮の核問題を6か国協議が行われていた時期です。その当時も一応は、ニュースなどでアメリカの思惑なども聞いていましたが、テレビの解説者とは分析力が違い過ぎることからリアルタイムで読んでみたかったと思います。

 

ただ、この方が本当にすごいと感じるのは、日本人は何を考え、何をすべきかを読者に考えるように訴えかけていることではないかと思います。勿論、国防のために戦えと言っているのではなく、何かをしなければならないと指示されてもいません。

 

この本で著者が訴えたい事、それは本の裏表紙に引用された下記の文章に集約されている気がします。

 

わたしたちは21世紀型民主主義については、まだ幼児である。

放っておけば、誰がの眼を借りて見ようとし、

誰かの頭で考えてもらおうとし、

誰かの手で運命をつくってもらおうとするのが、

わたしたちの裸の姿なのだ。

その永年の癖を変えるには、野の草のように静かな強い意志で、

これまでの自我を超えるしかない。それが「超国民」である。・・・本文より

 

この本の中で、著者はアメリカの世界戦略につい詳しく解説されています。アメリカが何を考え、イラクとの戦争を始めたのか、そして著者はアメリカの戦略の失敗を予言しています。更にテロリストを養成している北朝鮮の実態とその北朝鮮に対してアメリカはどのように対処しようとしているか、そして日本はどのように対応すべきなのか、実に重たい話が続きます。何分にも書かれた内容は、2004年当時の政治情勢を背景に書かれているとから内容としては古くなっていますが、国際政治の現実を知るためのテキストとしては古さを感じさせない内容です。

 

ただ、この本の内容を説明するのは難しいと言えます。第一部はイラク現地取材、第二部はアメリカの世界戦略の転向とアジアの将来、第三部は起こり得る米朝戦争のシュミレーションと北朝鮮の思惑、第四部は真実の日米間系、第五部は日本の現代政治の果たしてきたこと、そして最後に新書版の追記ですが、内容が多彩過ぎてまとまりがなくなっている印象もありますが、いずれも新聞や雑誌、テレビでは聞くことがない話ばかりです。また、青山氏は自民党の議員ではありますが、小泉元総理など自民党の元総理に関しても容赦なく批判されています。

 

この本の中にはご紹介したい話は数多くありますが、一つだけ紹介させて頂きます。

 

 

 戦争はアメリカの最大の既得権益です。軍需産業だけでなく、経済のほぼすべてが戦争と繋がっていて、ハリウッド映画といった文化まで戦争が主人公です。

 だから既得権益から疎外された黒人でないと「戦争をしない」という約束はできない。日本のジャーナリストの中には「オバマは神の子だ。だから黒人差別を乗り越えた」とテレビで叫んだ人もいます。それは現実からとても遠かった。

 神の子のはずのオバマさんは大統領となって、かつて国際法をまるで無視してアメリカ大使館を占拠したイラン、アメリカが悪魔と呼んだイランと手を組みました。

 なんのために。戦争をイランに頼むためです。それも本当はブッシュ政権の時代に芽があるのは、原著で指摘している通りです。

 オバマ大統領のもとでアメリカ軍が身動き取れなくなったのを見た世界は、一斉に変わり始めました。

 たとえばイランとシリアのそれぞれ北部にまたがる地域では、自称イスラーム国(IS)という新しいテロ組織が、女性を性奴隷にし、日本人の首を刎(は)ね、やりたい放題となりました。オバマさんは、この自称イスラーム国と戦うために米軍の地上部隊を出すことをせず、アメリカ大使館を占拠したイラン革命防衛軍に頼んだのです。

 イランの革命防衛隊は、国防省のもとにあるイラン国軍と違い、実質的に宗教指導者のもとにあり、動きやすいのです。したたかなイランは、見返りに、アメリカなどの西側諸国と核合意なるものを二〇一五年に結びました。日本の報道では、これを「イランに核を放棄させた」と伝えていますが、とんでもない、逆です。

 時間を掛けてゆっくりと、量も少なく、質もやや落としさえすれば核兵器を作って良し、それが核合意です。

 イランは長年、北朝鮮と共に核開発をしてきました。イラン政府が否定していることは公平を期すために記しておきます。しかし世界の本物の核問題の専門家で知らない人はいません。

 北朝鮮は、イランからドルが入ってくることを期待できることになりました。オバマさんがイランへの経済制裁を解除して、イランは凍結されていた十二兆円の海外資産のうち、八兆円分が手に戻り、そこから北朝鮮に「予約金」を支払われたとみられます。

 だから突然、北朝鮮の金正日書記長に続く金正恩委員長の独裁政権は日本の安倍政権と拉致問題について交渉しなくなったのです。拉致被害者は、またお金の当てが無くなったときのために取っておくつもりです。

 いま記した通り、金正日書記長の三男坊、金正恩さんは三十六年ぶりに朝鮮労働大会を開いて「委員長」に就きました。何のことはない。祖父の金日成主席のそっくり真似をする道を歩いているだけです。

 拉致被害者を取り返せずに、こんな個人的欲望の支配する国に囚われたままにしている現実は日米合作のようなものです。

 いずれも世に出ていない、イラク戦争の真実、オバマ大統領のほんとうの姿、これらが物語るのは、アメリカが「世界のどこでも、いつでも支配できる軍事力」をすでに見失ったということです。

 

壊れた地球儀の直し方 扶桑社 P483-P485

 

この話に続き、小泉元総理の批判が続きますが、長くなりますので、割愛させて頂きました。

アメリカのイラク戦争の話やイランの核合意の話はニュースなどで聞いてはいましたが、こんな話があったとは、全く知りませんでした。管理人が新聞やテレビのニュースを信頼しなくなったのも新聞やテレビではこんな話をする解説者もなく、ましてオバマ大統領の政策が日本人の拉致問題にまで影響していたとは、全く知りませんでした。

 

この本の中で著者は自分の頭で考えることの大切さを説かれていますが、自分の頭で考える前に何が起きているのかを知ることの方が大切な気がします。しかし、情報化社会とは言いながらも、今の世の中で何が起きているかを知るのは、簡単ではない気がしています。テレビや新聞では、毎日ニュースが流されていますが、本当に大切な話は報道されることなく、意図的に無視されているのではないかと思うことが多くなりました。

 

以前から漠然と感じていた疑問の数多くが、この本を読むことでその疑問が解けた気がしました。新聞やテレビの情報を鵜呑みにしているだけでは、本当の事は何一つとして分からないと改めて実感しました。しかし、自分の頭で考えるには、世の中で本当は何が起きているのか、自分で調べることが大切であると思います。その意味では、インターネットの普及は大きいと思います。10年以上前ならば、新聞やテレビ、週刊誌などの情報以外の情報源は限られていましたが、最近はネットでニュース番組なども配信されていることから情報が集めやすくなりました。その意味では、少しずつではありますが、世の中が変わりつつあるのでしょうか?

 

 

ご相談は こちらから

at 00:19, 星 良謙・子授け地蔵, 本の紹介

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「天皇は本当にただの象徴に堕ちたのか」を読んで(星)

評価:
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1月の中旬に胃腸風邪を引き、体調を崩してしまいました。

少し良くなかったかと思っていたら今度は発熱・・・・・

 

{{{{(+_+)}}}} 寒気が・・・

 

再び、ダウン・・・・

 

何だかんだで数日間寝込んでしまいました。

 

そんな訳で、このところ投稿をお休みさせて頂いていました。m(_ _)m

 

しかし、やっと体調も戻りましたので、投稿を再開させて頂きます。

 

本題に入る前に、気になる話を見つけましたので・・・・

 

中国5つ星ホテル 便所掃除用具を食器に使い歯ブラシ使い回し こちらから

 

中国に続き韓国でも…五つ星ホテルがトイレ掃除用のスポンジでコップを洗い物議=「国際的な恥」「市内の食堂がよっぽどきれい」―韓国ネット こちらから

 

また、在日韓国人の方も韓国旅行に対しては警鐘を鳴らされています。

 

在日朝鮮人から見た韓国の新聞 平昌オリンピック : 食中毒テロでまたしても被害者様出現の予感 こちらから

 

それはさておき・・・・

 

久々に法律の専門書を読みました。

明治天皇の玄孫で有名な竹田恒泰氏の書かれた「天皇は本当にただの象徴に堕ちたのか 〜変わらぬ皇統の重み〜」です。

この本は、新書ではありますが、382頁とこれでも新書かと思う程の分厚い新書です。

一般的な新書の2冊分とは言いませんが、それに近い文章量です。

 

そして内容はと言えば、憲法の解釈についての学術論文ですので、憲法の専門的な解釈が延々と続きます。管理人は、法学部出身ですが、考えてみれば、憲法の講義を受けた記憶がありません。憲法は選択しなかっただけなのかもしれませんが、いずれにしても憲法の学術論文を読むのは初めてでした。法律の専門書を読むことは、大学を卒業して以来の事であり、学術書にありがちな言い回しに慣れるのに少しばかり時間がかかりました。本を半分ほど読み進めたころになり、やっと大学の講義を受けているような気分になりました。その意味では、面白い内容の本ではありましたが、あまり一般向きの本ではないとの印象が残ります。

 

それでもこの本の内容は、一般向きに書き改めたダイジェスト版とのことであり、本来の学術論文はいずれ出版されるとの告知がありました。この本がダイジェスト版ならば、本来の論文はどれだけの文章量になるのだろうかと考えてしまいます。いずれにしてもかなりの文章量になることは間違いがなく、読むのは大変かと思いますが、完全版が出版されたならば、読んでみたいと思います。

 

さて、この本の内容に少し触れておきますと、今の憲法学者の主流派の意見によれば、今上天皇は2代目とされていることに驚かされます。これは冗談でも何でもなく、今の憲法学者の多くは、今上天皇は125代ではなく、2代目の天皇であるとの意見が主流だそうです。これは大日本帝国憲法(明治憲法)と現行の憲法に連続性を認めることができないことから大日本帝国憲法(明治憲法)に定められた天皇と現行の憲法が定める天皇は、全く別であることから今上天皇は125代ではなく、2代目の天皇であるとされています。

 

これは、8月革命説と呼ばれる意見だそうですが、大日本帝国憲法(明治憲法)は天皇主権の憲法であり、現行の憲法は国民主権の憲法であることから大日本帝国憲法(明治憲法)と現行の憲法に連続性を認めることはできず、ポツダム宣言を受諾したことで革命が起きたとされています。そのため、戦前までの天皇と戦後の天皇は、同じ天皇ではあっても内容は大きく異なり、全く別の存在であるとの意見が、現在の憲法学者の主流だそうです。

 

その意見に真っ向から反論しているのが、この本の内容であり、大日本帝国憲法(明治憲法)と現行の憲法では何が変わったのか、大日本帝国憲法(明治憲法)における天皇の権限と役目、議会や大臣との関係、現行憲法における天皇の役目などを一つずつ検証しながら話を進めることから話は非常に煩雑となりますが、学術論文である以上は煩雑なのは避けられないと思います。また、大日本帝国憲法(明治憲法)と現行の憲法の比較だけでなく、現行憲法の成立の背景にあった占領軍の意向などについても触れていますので、改めて現行の憲法について学ぶことにもなります。

 

著者の竹田恒泰氏の意見としては、日本帝国憲法(明治憲法)と現行憲法には連続性があり、天皇の役割も日本帝国憲法(明治憲法)と現行憲法には大きな差を認めることができなとの結論ですが、政治思想に関係なく、純粋に憲法解釈として考えても竹田氏の意見の方が正論ではないかと思いました。

 

この本の中で取り上げられている内容は、天皇に関することが大半であり、九条の話は一切登場しませんが、お勧めの一冊です。但し、元は学術論文ですので、少しばかり難解です。

 

 

ご相談は こちらから

at 21:14, 星 良謙・子授け地蔵, 本の紹介

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霊障の原因(星)

昨日の事ですが、週末に体調を崩したことから病院に行きました。

月曜日なので病院が混むことを予想して開院の9時に行ったのですが、既に待合室は超満員・・・・

受付で既に2時間待ちですと言われてしまいました・・・・(|||_|||)ガビーン

 

受付だけをして、一旦帰宅した後に、病院に行ったのですが、更に30分待たされました。

 

待合室で待つ患者の3分の1はマスク姿でした。

インフルエンザが流行しているとのことで、インフルエンザの検査も受けましたが、幸いなことに陰性でした。

 

寒い日が続いていることからくれぐれも体調管理にご注意下さい。

 

それはさておき・・・・

 

管理人に霊障鑑定を依頼される方から時々どうして次から次へと障りが見つかるのかとのご質問を受けることがあります。

これは重症の霊障の方から多いご質問が多いのですが、これは何も管理人が金儲けのために作り話をしているのではなく、それだけご先祖や依頼者の方の業が深いとでも言うしかありません。

 

一般的には、霊障の多くは、先祖が供養を求めて障りを起こしてることが原因であるとことから先祖供養をされることで障りが解消することは少なくありません。それに次いで多いのが、長年忘れ去られたままの水子の障りです。長年忘れ去られたままの水子の障りは、先祖に比べますと厄介ではありますが、原因が分かっている分だけ障りの解消は難しくないと言えます。しかし、有縁無縁之霊となりますと、話は厄介となります。

 

有縁無縁之霊とは、お妾さんや住込みの使用人など家系の人間ではない方でありながらも、家系と深い縁を持つ方のことですが、ご先祖に対して深い怨みを抱き、子孫にまで障りを起こし続けている場合が少なくありません。また、新興宗教や霊能者と縁を持ったことで本来ならば、無縁であった不成仏霊を呼び込んでしまった場合など、実に様々な事例がありました。特に新興宗教や霊能者とのお付き合いが長かった場合には、どんな不成仏霊が隠れていても不思議ではなく、あらゆる可能性を疑わなければなりません。

 

このような書き方をしますと、霊能者や新興宗教を頼られている方々を不快にさせることになると思いますが、霊能者や新興宗教を頼られる方の多くは深刻な霊障であることは少なくありません。勿論、霊能者や新興宗教を頼られている方々の全てが深刻な霊障であると断言できるはずもありませんが、少なくとも何らかの悩みを抱えている方の集まりであり、その意味では霊障の確率は高くなることは避けられません。

 

深刻な霊障の方々が集まることが繰り替えとされます、その霊能者や新興宗教の施設に不成仏霊が常に居座るようになり、巨大な闇が形成されるようになります。つまり、集まった信者などに憑依していた不成仏霊が一カ所に集まようになった状態と考えて頂ければ良いかと思います。しかし、集まった不成仏霊が漂っているだけならば良いのですが、そこに集まる生前には何の縁もなかった無関係な人間に憑依することがあります。こうなってしまうと非常に厄介です。何処のどんな不成仏霊が隠れているかは見当すらつかない状態となります。そのため、霊能者や新興宗教を頼られていた方の場合には、障りの解消が困難になる場合が少なくありません。

 

苦悩する方が集まることは、一般的な神社仏閣でも同じですが、心霊現象に理解のある神社仏閣は少ないことから重症の霊障者が集まる可能性は低いだけでなく、神霊の働きがありますので、過去の経験では、神域が不成仏霊の溜まり場のようになっていることはほとんどありませんでした。また、付け加えますと神社の神職や寺院の僧侶の方の中には、この人は霊障の事を分かっているのではないかと思いことが過去に何度かありました。そのことを知り合いのお坊様に聞きましたところ、分かっていても何も言わない方は少なくないようです。その意味では、不成仏霊の対策をされている神社仏閣は少なくないのかもしれません。

 

また、有縁無縁之霊以上に厄介なのが、過去世の起こしている障りです。自分の過去世が現世の自分に障りを起こしているはずがないとお考える方もいるかもしれませんが、過去世の自分が現世の自分に障りを起こしていることは珍しくありません。具体的な例としては、浪費癖の激しい方の過去世を調べたところ、大店の道楽息子の過去世が障りを起こしていたことや周囲の方と問題を起こしやすい方の過去世を調べたところ戦国武将の過去世が障りを起こしていたことなどがありました。

 

これらに共通しているのは、過去世の自分と同じような人生を現世においても繰り返す傾向が強いことです。そのため、過去世において生き方に問題があった場合には、今世においても同じ様な問題を引き起こす傾向があります。特に過去世において高い身分にあった場合、行者や巫女などをされていた場合などには、その傾向が強くなります。

 

更に厄介なのは、過去世の人間関係の怨みや嫉妬、愛憎などが障りを起こしている場合もあります。例えば、過去世において敵であった不成仏霊が過去世の怨みから今世の人生で障りを起こしていたこともありました。これは現世を生きる人間からするならば、非常に迷惑な話ですが、怨みを抱く不成仏霊には時間が関係ありません。怨みを抱いたまま時間が止まっていますので、100年、200年どころか、1000年、2000年前のことでも怨み続けている不成仏霊は少なくありません。

 

特に太古の昔の心霊は、思い込みが激しいと言うか一途です。そのため、1000年、2000年前のことでも昨日の事に様に怨み続けている場合があります。更に厄介な事は、あまり古い時代となりますと、当時の信仰形態が現在の信仰形態と異なりますので、一般的な神社仏閣での供養や祈祷の効果がない場合も少なくありません。しかし、対策がないではいつまでも障りが解消しませんので、試行錯誤を続けていると言ったところです。

 

霊障の原因は、ここまで書いただけでもかなりの数となりますが、両親の過去世が障りを起こしていた事例が幾つかありました。ごうして父親や母親の過去世が、現世の息子や娘に障りを起こすのかの理由は、分かりませんが、親が自分の息子や娘を自分の分身の様に考えたり、自分の物の様に考えていることが理由ではないかと思われます。つまり、死後の世界においても、親が自分の息子や娘に対して干渉するのは当然であり、親が自分の息子や娘に対して干渉することを親の愛情であると考えていることが障りの原因であると思われます。

 

この他に過去世において誓願を立てたことがありますと、その誓願が今世の人生にも影響している場合があります。特に過去世で行者や巫女などをされていた時代に立てた誓願は、今世の人生にも影響を及ぼしている可能性が高くなります。勿論、誓願を立てること自体は悪いことではありませんが、問題はその内容です。例えば、世のため人のために生きることを誓願として立てることは良いのですが、その誓願が生き続けていますと、背負わなくても良い苦労を背負い続ける結果となります。また、自分の好きな相手のために生きることを誓った場合には、相手が背負うべき苦悩まで背負い続ける結果となります。

 

過去世の誓願は、自分の誓願であるとも言えますが、今世において誓願を立てた自覚もないままに苦労だけを背負い続ける結果となります。このような場合には、誓願の内容などを調べ、願解きをされませんと、いつまでもその誓願の影響は解消されません。これは一種の呪いと同じであり、呪いを解かないといつまでも呪いが独り歩きしているのと同じと思われます。

 

ここまで読まれた方は、少々うんざりされたのではないでしょうか。霊障の原因は実に様々であり、細かく書きますとこの他にも色々な事例はありますが、本当に深刻な霊障の方の場合には、これらの原因をすべて抱えていることもありました。そのため、一つの霊障を解消しても次の霊障が見つかるの繰り返しが続くことも珍しくありません。

 

 

ご相談は こちらから

at 14:46, 星 良謙・子授け地蔵, 心霊現象と神秘体験

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新聞不信(星)

寒い日が続いております。 {{ (>_<) }} サムイーッ!!

管理人が住む地域は、滅多に雪が降ることはないのですが、今年は別でした。

豪雪地帯の方からするならば、大した雪とは言えないと思いますが、スノータイヤすら装着していませんので、雪が降ると大騒ぎとなります。

 

(°°;))。。オロオロッ。。・・((; °°)

 

何とも情けない日々が続いています。

 

それはさておき・・・・

 

今から40年以上前には、新聞は社会の良識であるとされていた時代がありました。その当時は、ネット社会など夢のまた夢であり、社会情勢を知るにはテレビ、ラジオ、新聞、週刊誌などの情報に頼るしかなく、専門的な情報を得ようするならば、専門書を探すしかありませんでした。管理人が占いの勉強を始めたのもこの頃であり、大型の書店を中心に書店を何軒もまわり、占いの本を探していました。また、意外に役立ったのが、古本屋であり、絶版となっていた占いの本を何冊か購入しました。

 

その当時は、星の数ほどいる占い師の中で誰が信用できるのか、どの占いが信頼できるのか、すべてが暗中模索であり、面白そうな本を見つけたならば、迷わずに買うことにしていました。家に帰ってから無駄であったと思う事も少なくなかったのですが、次に買おうと思っても店頭から消えているだけでなく、絶版になっていることも少なくありませんでした。占いの専門書の需要は少ないことから発刊部数も少なく、価格も高いことが多いのですが、発刊部数が少ないことからずに売り切れる傾向があります。また、絶版になっても人気のある場合には、古本が新書よりも高額で取引される場合も少なくないことから少しでも面白いと思ったならば買っていました。

 

ネット社会で様々な情報を簡単に調べることができる現状を考えますと、40年前に比べますと、テレビ、ラジオ、新聞、週刊誌などの地位は大幅に低下していると言えます。勿論、ネットの情報の全てが信頼できるとは限らず、ガセネタや妄想にも近い内容の記事も少なくありませんが、専門性の高い内容の記事の記事を見かけることも少なくありません。以前ならば、苦労して調べなければ分からなかったことが簡単に調べられるのは、有難いと言えますが、記事の内容の真偽を見分けることができるだけ力が求められる事にもなります。

 

先日もふとボンバルディア CL-415が気になり、ネットで調べてみました。ボンバルディア CL-415と言って分かるのは、余程のマニアだと思いますが、森林火災なとで空中から大量の水を散布する飛行艇です。湖面などを滑走することで機内のタンクに給水して火災現場で消火活動が可能なことから森林火災の多いカナダで活躍する特殊な飛行艇です。管理人がこの飛行艇の存在を知ったのは、今から20年程前のことなのですが、話題になるような飛行機ではありませんので、その後どうなったか気になりました。40年前ならば、この飛行艇を調べようとしても何を調べれば良いのか分からずに途方に暮れるところですが、何とも便利な世の中になったと思います。

 

また、最近は、YouTubeで色々な動画だけでなく、保守系の番組が多いようですが、ニュースも配信されています。地上波の番組は、存在理由の不明なコメンテイターの見当外れな意見を聞く必要もないだけでなく、聞いていて面白い番組が幾つかありますので、最近では地上波のTVニュースはあまり見なくなりました。そのため、従来のテレビ、ラジオ、新聞、週刊誌などの地位が相対的に大きく低下していると言えます。

 

管理人が時々見ている番組

DHCテレビ 虎の門ニュース・ニュース女子  こちらから

竹田恒泰チャンネル こちらから

 

仕事がありますので、長時間見ていることは難しいのですが、時間があれば時々見ています。

必ずしも全ての意見に賛同は出来ませんが、地上波の番組よりは遥かに面白いと思います。

 

さて、病院の待合室などで新聞を時々手に取りますが、とても定期購読する気持ちになれない内容ですが、今回は新聞社の闇とも言える押し紙の実態を取り上げているサイトがありましたので、ご紹介します。

 

純粋なジャーナリズムのウエブサイト、読者に媚びない硬派の記事 MEDIA KOKUSYO

 

カテゴリー 「押し紙」の実態に関連する記事 こちらから

 

少し補足しますと、「押し紙」とは、「実際には配っていない」のに印刷し、「配ったこと」にしている部数のことです。実際に販売されている部数に予備の部数を上乗せするならば、話は分かりますが、実際には予備の部数を遥かに上回る部数を新聞販売店に配達しているようです。勿論、新聞社は新聞販売店に対して押し紙の分も請求しますので、新聞社にとっては大きな利益となります。しかし、新聞販売店は、配達されることもなく、廃棄するだけの新聞の代金まで払っているのかとの疑問が生じるかと思いますが、実は新聞販売店にとってもメリットがあります。その理由は、押し紙の分まで販売数として公表されることから折り込みチラシの折り込み代が実態よりも大きく水増しされることで、配る必要のないチラシの折り込み代が新聞販売店の収入となります。

 

しかし、新聞折り込みをお願いする側からするならば、これは詐欺でしかありません。新聞が実際にどれだけ配達されるのかお客には分からず、新聞店に言われる枚数のチラシを用意しなければならないことから実に資源の無駄です。そんな詐欺行為をしているような新聞社が何を言っても説得力はない気がします。

 

 

ご相談は こちらから

at 15:49, 星 良謙・子授け地蔵, 管理人のひとりごと

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理想と現実7(星)

3日ほど前から胃腸風邪でダウンしております。

いつもならば、鑑定が終わっていないのにブログの投稿をするのが、申し訳ない気がしておりますが、体調が戻らないこともあり、久々の投稿となりました。

 

それはさておき・・・・・

 

色々な方からのご相談をお聞きしていますと、白か黒か、正しいか、間違いかの二者択一の考えをされる方が多い気がしています。しかし、世の中は二者択一では決められないことの方が大半ではないかと思いますが、管理人の様に考える方は少数派であり、占いを依頼して下さる方も白か黒か、正しいか、間違いかの二者択一の考えをされる方が多く、明快な答えを求める方が多い気がしています。

 

毎年、年末になりますと書店の店頭にTVに頻繁に登場されていた有名な占い師の方の本が並びます。管理人からしますとあれだけ占いが外れ続けても人気があるのが不思議ですが、明快に「あなたは〇〇である」と断言することが人気の理由であると聞いたことがあります。その占い師の勧めで何人かの芸人が改名されましたが、活躍したとの話は聞きません。

 

管理人は、占いが、当たるか当らないかよりも、依頼者の方がより良い人生を生きることの手助けができることの方が重要ではありますが、結果として悪くさせてしまったならば、問題です。それでも人気があるのは、やはり明快な答えを求めている依頼者がそれだけ多いからなのでしょうか。

 

その意味では、決めつけや先入観を嫌う管理人はこの仕事に不向きなのでしょうか? ( ̄〜 ̄;)??

 

しかし、実際の鑑定では、白か、黒かと明確に判断できる場合よりも、白黒がハッキリしないグレーの方が多くなります。トランプ占いで「ジプシー13(サーティン)」と言う二者択一の占いがありますが、この占いは少し変わった占いであり、一般的なトランプ占いと同じく、カードの意味から将来や障害などを読み解きますが、最後に赤のカードが賛成票、黒のカードが反対票として最終結果を判断します。

 

使用するカードは13枚と奇数であることから常に赤のカードか、黒のカードのどちらかが多くなりますが、9:4以上の差となることは珍しく、多くの場合には、8:5か、7:6になります。それだけ、どちらの道を選んでも、メリット、デメリットがあることが多いことを表していると言えます。それでも8:5以上の差があれば、どちらの道を選ぶべきだと言いやすいのですが、7:6の場合には、自分の好きな方を選ぶことをお勧めしています。

 

どちらの道を選んだとしても大差はないのであるならば、自分の好きな道を選ぶべきであると考えますし、依頼者にとって何が大切かは、依頼者にしか分からないことも少なくありません。このような書き方をしますと無責任な印象を与えてしまうかもしれませんが、占い師にできることは、依頼者の判断材料を提供することであり、依頼者の人生の選択を依頼者に代わって選択することではありません。

 

管理人にしても常に的確な判断ができているはずもなく、咄嗟(とっさ)に判断しなければならない状況に陥り、これと言った判断材料もないままに選んだ選択が、後になって判断を誤ったと思ったことは何度もあります。しかし、自分の事ならば、失敗も勉強であり、損失は授業料だと考えるようにしています。これに対して白か黒かで考える方は、保証を求める傾向があります。失敗は勉強だと言いながらも失敗を恐れて安全な道を選ぶだけでなく、失敗した場合に後悔する傾向があります。

 

堅実で安全な道だけを選び続けることは、悪いことではありませんが、世の中には絶対に安全であるとの保障は皆無にも近いと思います。優良企業と信じられていた企業でも経営危機に陥ることはありますし、社会の激変期には常識と考えられていた価値観すらも崩壊することもあります。そのため、絶対安全な選択肢はなく、失敗の可能性が高いか低いかと言うことになります。例えば、勝負事でも自分が最善を尽くしたとしても勝負に勝てるとは限らず、逆に自分が失敗したと思っても幸運に恵まれて勝てる場合もあります。

 

これは勝負事に限られた話ではなく、世の中は不覚的要素に満ちていることを考えるならば、当然の話ではありますが、白か黒かで考える方は、〇〇すれば〇〇になる、〇〇したのに〇〇にならないのはどうしてかと考える方ことが多いようです。例えば、風邪をひかないように注意していても風邪をひくことはありますし、予防注射をしていても病気になることはあります。そのため、全ては確率の問題ともいえます。

 

しかし、白か黒かで考える方とお話していますと、色々と説明しても〇〇すれば〇〇になるはずだとの考え方から離れることが難しい傾向がありました。その理由を考えますと、判断の責任を負うことに対する恐怖心があるのではないかと思えたり、自分に自信がないことから依存心が強い傾向があるのではないかと思えたりします。勿論、心理学の専門家でもありませんので、断定的な書き方をすべきではないと思いますが、白か黒かで考える方は、どこか自己責任の回避を求めている気がします。

 

白か黒かの二分法で考える方に限らず、何かを判断する際に意識するか、意識しないかは別にして何らかの根拠を求めることは多いのではないでしょうか。その多くは、その方が無意識に常識と考えている価値観ではないかと思います。つまりその方の考え方の根底にある考え方と言うべきでしょうか。管理人は、〇〇すれば〇〇になるはずだとの考え方が間違いであると否定する気持ちはありませんが、〇〇すれば〇〇になるはずだとの考え方の根底には、多様な価値観を否定する考え方があるのではないかと思います。

 

その端的な例が宗教ではないでしょうか。例えば、浄土真宗では、阿弥陀仏を絶対的な存在であるとの考えを前提にして教えが説かれています。これに対して日蓮宗では、久遠の釈迦牟尼仏を絶対的な存在であるとして教えが説かれています。日蓮聖人は、法華経こそが最高の教えであると説き、念仏は無間地獄に堕ちる教えであると批判されましたが、浄土真宗の開祖である親鸞聖人は、「観仏三昧経」に念仏をそしる者は無間地獄に堕ちて、八劫(一説では一劫を四億三千二百万年と説かれています)と言う長い期間、苦しまなければならないと書かれていることを根拠に批判されています。

 

管理人は、日蓮宗の教えに間違いがあると言う気もなく、浄土真宗の教えが絶対であるとも思いません。日蓮聖人も親鸞聖人も偉大な宗教家であり、信念の方であったことからお互いに相容れない考えを持っていたと思われますが、日蓮聖人の教えにも親鸞聖人の教えにも短所と長所があり、どちらか一方が正しく、どちらか一方が間違いであると決めつけるよりも、日蓮聖人と親鸞聖人の教えの真意を汲み取ることを心掛けるようにしています。

 

しかし、これは真宗の門徒としては、邪道であり、真宗の門徒であるならば、脇目も振らずに念仏を称え、阿弥陀仏以外の神仏を拝むなどもっての外となります。その意味では、管理人は真宗の門徒失格と言えますが、これが管理人の基本的な考え方です。

 

 

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at 12:54, 星 良謙・子授け地蔵, 救われない人々

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理想と現実6(星)

うーん・・・・・

深く考えることもなく、軽い気持ちで取り上げた教育勅語ですが・・・α~ (ー.ー") ンーー

このブログで取り上げるには少しばかり、重すぎる話であることに気付き、悩んでおります。

 

教育勅語に書かれた内容を現代の価値観で批判するのは簡単ですが、明治初期の時代背景や当時の天皇の役割などを理解していませんと、教育勅語の歴史的な意味を理解できるはずもありません。しかし、教育勅語を批判している方の多くは、明治初期の時代背景すら理解していないようであり、明治天皇が果たした役割など認める気持ちなど全くないようです。これは教育勅語に限られた話ではなく、自分たちの価値観だけですべてを判断しようとすることに無理があります。

 

さて、前回の続きを書く前にどうしても読み返したいと思った本がありました。

「天皇恐るべし―誰も考えなかった日本の不思議 小室 直樹  (著)」 

1986年11月に発売された本であり、今から31年前の本ですので、既に紙の黄ばみも目立っていますが、捨てられない本の一冊です。念のために、アマゾンで調べたところ、古本ではありましたが、何冊か出品されていました。それだけ、人気のある本と言うことでしょうか。

 

本題に入る前に、この本から少し引用させて頂きます

 

一片の勅令で済んだ廃藩置県

他国なら数百年の戦争必至

 「日本の天皇は神である」−明治4年(一八七一年)におこなわれた廃藩置県をみて、英国の駐日公使パースクは歎(たん)じてこういった。ヨーロッパにおいて、こんなことをおこなおうとすれば、何十年、いや百年以上の血腥(ちなまぐさ)い戦争の後にはじめて可能であろう。それを一片(いっぺん)の勅令によって、一気に断行してしまうなんて、日本の天皇は、まさしく神である。

 これはほぼ同じ頃、一八七一年、ドイツ帝国の統一がなされた。

 ドイツ帝国(das Deutshe Reich ダス ドイチエ ライヒ)は成立したが、二十五の邦国(Stadtシュタット)はそのまま残った。解消してドイツ帝国の郡県となったのではなかった。諸邦国は依然(いぜん)として半(なか)ば独立し、それぞれに各自の内閣を有し、いくつかの邦国は、平時には独立した軍隊を備(そな)え、固有の議会と法律と勲章をもち、ドイツ帝国の首邦プロセイン王国と帝国外のヨーロッパ諸国に外交使節を派遣していた。

 これはほんの一例。

 

天皇恐るべし―誰も考えなかった日本の不思議 小室 直樹  (著) P14

 

※邦国(ほうこく) 国家のこと

 

学校で習う歴史では、大政奉還や廃藩置県などは習いますし、江戸末期を舞台にした時代劇は比較的多いのですが、英国の駐日公使パースクの言葉は、この本以外で紹介されていたことはありません。その意味では、もっと紹介されるべき話ではないかと思います。これは何も明治天皇を賞賛することが目的ではなく、歴史的な史実として明治維新における明治天皇の役割、当時の日本人が天皇の存在をどのように考えていたことを知ることは大切ではないかと思います。

 

 天皇は神である。

 しからば、いかなる神か。

 すでに、結論を先取りして、その神は"キリスト教的な神である"とのべた。

 廃藩置県から民法制定を中心とする法体系の確立、その頂点としての憲法発布。近代的軍隊の創設、資本主義経済の帝王切開的誕生、近代的教育制度の整備・・・・。

 どれひとつとってみても、伝統主義的社会における制度改革としては奇蹟である。

 これが奇蹟であることは、右のごとき近代化が、ヨーロッパ諸国においては、どれほど歳月(としつき)を要したか、清国、朝鮮などのアジア諸国において、ことごとく失敗したことだけを見ても容易に納得されよう。

 天皇は神である。

 天皇=神は、日本に、新しい規範を制定した。是非善悪の基準、ものごとのよしあしの判定条件は、天皇の意思決定による。

 大日本帝国憲法、教育勅語、軍人にたまわりたる勅諭(ちょくゆ)がそれであるが、ここではまず、教育勅語の神学的、宗教社会学的分析から始めたい。

 

天皇恐るべし―誰も考えなかった日本の不思議 小室 直樹  (著) P59

 

この本の中で小室 直樹氏は、明治維新の当時の天皇の存在は神とも言えるような存在であり、それだけ国民に対して絶大な影響力を持つ存在であったと結論付けています。確かに天皇の絶大な影響力がなければ、短期間での社会制度改革はなし得なかったと言えると思われます。そのことを前提にするならば、教育勅語の意味も見えてくるのではないか思います。しかし、そのことを無視するならば、教育勅語の歴史的な意味を理解することは困難となります。

 

そのことを歴史的な制約と考えるか、封建社会の名残りと考えるかは、個人の主観ではありますが、少なくとも明治維新の当時の天皇の存在は神とも言えるような存在であり、それだけ国民に対して絶大な影響力を持つ存在であったとの意見は正鵠を得ている指摘ですが、教育勅語を批判される方は、明治維新の当時の社会的な背景や時代的な背景を無視されるか、封建社会の名残りと切り捨てているのではないかと思われます。

 

しかし、明治維新の当時の社会的な背景や時代的な背景を理解しなければ、下記の部分の意味を理解することは絶望的となります。

 

「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン」 

※天壌無窮 天地とともに永遠に極まりなく続くさま

※皇運 皇室の運命。天皇の勢威。

※扶翼 助け守る事

※臣民 一般に君主国において君主の支配対象とされる者のこと。日本では,通例大日本帝国憲法下における皇族以外の国民

※爾 なんじ

※遺風 後世に残っている先人の教え

※顕彰 隠れた善行や功績などを広く知らせること

 

この部分が左翼系の方々から目の敵にされている理由は、素直に読みますと危機の際には天皇のために戦うべきであり、それが先祖からの教えを守ることであるとされているからではないかと思います。しかし、戦前の日本は、立憲君主制ではあっても専制君主の国ではありませんでした。明治憲法においても天皇の権限は大きく制限を受けていましたし、天皇が独断で政策を決定する権限はなく、国政を動かしていたのは、内閣でした。

 

その意味では、戦前の天皇も現在の天皇と同じく、国の象徴であったと言えます。そのため、天皇のために戦えと言っているとしても、天皇には開戦する権限もなければ、戦争を遂行する権限もありませんでした。そのことを前提に考えるならば、国のために戦えと言い換えても同じではないかと思えます。しかし、教育勅語を批判している方々は、天皇の事を独裁者のように考えているのではないかと思えてしまいます。これは見当はずれな話であるだけでなく、大事なことを見落とすことになります。

 

このことに関する考察を「天皇恐るべし―誰も考えなかった日本の不思議」から引用します。

 

 

教育勅語は、天皇イデオロギーの一つの中核を成している

 これまでの議論を要約し、説明を補足したうえで、先に進むことにしたい。

 現人神(あらひとがみ)としての天皇、その「神」とは、キリスト教的意味における神であった。

 キリスト教的神とは、権威(authority)を有する神である。ここに「権威」とは、正当性(legitmacy)のの創造のことをいう。天と地と、その間にあるすべてのものを創造した神は、「正しさ」もまた創造した。何が正しくて何が正しくないのか。その判定基準(規範)もまた、神の創造による。「これが正しい」とは、かくのごとく神が意思決定したがゆえに正しいのであって、神の意思とは独立に、いわば客観的な是非善悪があるわけではない。

 この点、キリスト教(ユダヤ教も同じだが)は、仏教や儒教とは、根本的に異なる。

 天皇による正当性創造の一例として、教育勅語をあげた。

 教育勅語は、儒教的思想に基(もと)づく、教育勅語は儒教思想の延長である。教育勅語は、儒教思想と近代西欧思想との混合ないしは統合である。等々と言われる。が、これらの諸説は妄説であることを論じた。

 教育勅語およびそれを一つの中核とする天皇イデオロギーは、全く新しい正当性の創造であり、本質的に、儒教イデオロギーとは、異質的なものである。

 すでに強調したように、教育勅語においては、儒教における絶対的規範たる「孝」(父子の親[しん])を第二規範に落とし、儒教にはなかった「忠」(臣民の天皇に対する義務)を、絶対規範として、「孝」を超えて第一位にもってきた。

 このような根本規範の変更は、儒教イデオロギーにおいては、あり得べかざることである。かかる変更は、キリスト教的権威(オーソリティ)を有する神であってはじめて可能である。伝統主義的神は、かかる力を有しない。

 

天皇恐るべし―誰も考えなかった日本の不思議 小室 直樹  (著) P122-P123

 

少し補足しますと、儒教においては臣と民では義務が大きく異なります。家臣は大きな特権を持ちますが、背負う責任も大きく、戦争となれば、命を捨ててでも皇帝のために尽くすことが求められますが、庶民にはそのような義務はないとされています。庶民に求められる義務は、納税と決められた労働力の提供とされています。

 

「論語」では、「君主」と「小人」が明確に区別され、守るべき規範も異なります。日本では「君主」は正しい人、「小人」は良くない人と解釈されていますが、本来は支配者と被支配者との関係であり、「君主」は支配者階級のことであり、「小人」は被支配者階級です。支配者階級である家臣は、命を捨ててでも皇帝のために尽くすことが求められますが、庶民にはそのような義務はなく、求められるのは、納税と労働力の提供だけです。これは江戸時代以前の日本でも同じであり、戦で戦うのは武士だけに限られた話であり、庶民にとっては支配者が交代しても為政者が入れ替わるだけの事であり、社会制度や階級などは変わりませんでした。

 

そのため、教育勅語が画期的であるのは、江戸時代までは支配者階級である「臣」と被支配者階級である「民」の二重規範を一元化して「臣民」としたことです。そして更に絶対的規範である「孝」よりも儒教にはない臣民の天皇に対する義務である「忠」を絶対規範としたことです。

 

このことをどのように考えるかは、別として、それまでは支配者階級だけの責任であった国を守る義務であった国防の義務がすべての国民の責任になったと言えます。つまり国民皆兵制の導入であり、近代的な軍隊の創設のための指針となったと言えます。このように考えるならば、教育勅語の意義も明確になるのではないかと思います。国民皆兵制度を悪と考えるならば、この教育勅語も悪となりますが、当時の日本を近代国家とするためには、国民に国防意識を持たせ、国民皆兵制度を導入すべきであったと考えるならば、この教育勅語の果たした役割は非常に大きいと言えます。

 

しかし、当時の列強諸国は当然のことながら国民皆兵制を導入しており、列強諸国に対抗するためには、日本も国民皆兵制度を導入しなければならない状況でした。そのため、教育勅語に対して嫌悪感を抱くのは自由ですが、教育勅語の果たした役割や教育勅語の意味を知ることは難しくなります。

 

 

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at 03:01, 星 良謙・子授け地蔵, 救われない人々

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理想と現実5(星)

先日のことですが、神社でご祈祷を受けましたところ、控室に教育勅語のポスターが貼られていました。神社の控室に皇室関連の本や資料が置かれていることは珍しくなく、過去にも他の神社の控室で見かけたことはありますが、教育勅語をまともに読んだことはありませんでした。しかし、この神社のポスターは、教育勅語の内容の紹介でした。ご祈祷を待つ時間の退屈しのぎもあって読んでみましたが、内容としては特に問題もない気がしました。

 

自宅に帰ってから教育勅語の原文と現代語訳を読みましたが、当時の政治体制を反映している箇所を除けば、現代でも通用する内容でした。しかし、教育勅語は、管理人の若い時代には時代錯誤の極みであり、戦前の軍国主義の象徴のように言われていた記憶があります。そこで教育勅語の何が問題視されているのかを少し調べてみました。

 

その結果は・・・(;° ロ°) ナンジャコリャ

 

教育勅語を批判しているブログは幾つかありましたが、見事なまでに左翼思想に染まっていました。特定の政治思想を否定する気持ちはありませんが、ここで事実関係を歪曲されていますと、怒る気を通り越して呆れました。この人たちの頭の中は、左翼思想しかなく、歴史的な事実をまともに調べる気持ちもないのかと呆れました。

 

左翼思想の方々の批判をご紹介する前に、先ずは教育勅語からご紹介します。

 

朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス 
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ 
是ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン 
斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス 
朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ 
明治二十三年十月三十日 
御名 御璽

 

一応、手元に現代語訳はありましたので引用させて頂きますが、この現代語訳に関しては、左翼系の方々から問題点の隠蔽であるとの批判があります。

 

 私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。 

 国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。 

 このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。

国民道徳協会訳文による

 

 

「朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」

※皇祖皇宗 天皇の始祖と当代に至るまでの歴代の天皇

※肇(ハジ)ムルコト

 

左翼の方が最初に問題にされるのがこの部分であり、天皇家が日本の国を建国したとあることを批判されています。日本が国して建国された時期は、歴史学者でも一定していないようであり、学者によっては初代・神武天皇以降を実在とする説、第10代・崇神天皇以降を実在とする説、第15代・応神天皇以降を実在とする説、第26代・継体天皇以降を実在とする説などに分かれるようですが、いずれにしても大和朝廷が国内を統一したことは歴史な事実として否定できないはずです。

 

そのため、明治天皇の「皇祖が我が国を作った」との言葉を問題はないと思いますが、左翼の方々は、日本の建国の歴史を否定したいようにしか思えません。少なくとも奈良時代までは天皇が日本の最高権力者であり、統治者であったことは歴史的な事実てす。そして日本が国としての制度を整えたのも天皇家であったことも歴史的な事実です。また、世界的に見れば、武力による国内の統一や建国が当然ですが、大和朝廷の成立の過程では、大規模な戦闘があまりなく、同盟関係の締結を基本として国内を統一した珍しい国です。

 

あるブログには、武家政権が長く続いたことを根拠に民衆が天皇の存在を意識することはなかったと書いている方もいましたが、これもどうかと思います。豊臣秀吉が近衛前久の猶子となって関白に就任し、徳川家康が家系図を改竄してまで征夷大将軍の官位にこだわったのは、それだけ世の中で朝廷の権威を認められていたからではないでしょうか。

 

これは何も豊臣秀吉や徳川家康に限られたた話ではなく、室町時代以降には大名が家臣に対して朝廷の正式な位階や除目の伴わない、非公式な官名を授ける風習が生まれました。これは受領名と呼ばれる制度であり、武家の場合には、土佐守△△とか、飛騨守〇〇と言った官名や刑部少輔、判官・主典など様々な官位が位に応じて使われてたようです。しかし、これらは正式な手続きを踏むことのない官位であり、すべて自称でした。

 

また、受領名は武家に限られた話ではなく、朝廷や門跡寺院は職人や商人、芸能関係者にも受領名を授けていました。金品と引き換えに受領名を授かることで商品に箔が付いたとされています。今でいうところの宮内庁御用達と言ったところでしょう。しかし、これも自称であることも多かったとされていますが、これも民衆が朝廷の権威を認めていた証と言えます。つまり、江戸時代においても朝廷の存在は庶民からかけ離れた存在ではなく、尊敬されていたからこそ官位を自称したのではないでしょうか。

 

長くなりましたので、次回に続きます。

 

 

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at 09:57, 星 良謙・子授け地蔵, 救われない人々

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理想と現実4(星)

理想と現実のタイトルで3回程記事を投稿させて頂きました。本当は、前回で終わるか、今回の投稿でまとめの記事を投稿して終わるつもりでしたが、このテーマは管理人にとっては大切なテーマであることに気付きました。管理人が20代の前半で精神世界を探求しようと考えた理由も今回取り上げたテーマの探求が目的でした。

 

いつも書いていることですが、20代の前半から霊障に悩み始め、宗教書や霊能者の本などの精神世界を取り扱った本を数多く読み漁りましたが、管理人の求めているものに巡り合うことはできませんでした。その当時は、自分が何を求めているかも明確に自覚することもありませんでしたが、後から考えますと人生の苦悩の原因を探し求めていた気がします。

 

仏教書には、人間の苦悩の原因を執着であると説かれていることは知っていましたが、執着を断ち切るためには、山にこもり、厳しい修業に明け暮れなければならないのであるならば、在家に生きる者に救いはないのかとの疑問しかありませんでした。勿論、他力の教えや他の宗旨の教えも勉強しましたが、自分が抱えている苦悩の解消には何の参考にもならない気がしました。その理由は、宗教書には、心の教えは説かれていても現実の問題の対処方法は説かれていませんでした。

 

管理人の両親は、重度の霊障であり、いつも家の中には重苦しい空気が漂っていました。そして自分では一生懸命に努力しているつもりでも、いつもその努力は報われない気がしていました。それは砂を握っている感覚に近いと言えます。今度こそと力を込めて砂を握るといつの間にか砂は手からすり抜けて、気付けば何も手の中に残っていない。そんな人生でした。その原因が心の持ち方であると言われても納得できませんでした。その原因が霊障ではないかと考えるようになったことが霊障解消の試行錯誤の始まりでした。

 

しかし、同時に両親を含めた周囲の人間の頑なさにも疑問を抱いていました。心霊世界の話ならば、そんなこと迷信であり、何を馬鹿な話をしていると切り捨てられるのは分かりますが、仕事の話をしていても全く話し合いにならない理由が分かりませんでした。

企業は利益の追求が目的であり、慈善事業ではありません。そのため、同じ企業の社員ならば、共に共通の目的を共有していることから仕事上の問題は、感情論を抜きにして話すことができると考えていましたが、それが大きな間違いでした。こちらが感情論抜きにして話をしても相手は感情的になります。それではと、資料を用意して具体的な数字を並べて話をしますと、逆切れするか、沈黙するかのどちらかでした。

 

こちらとしては、相手の仕事の内容を批判しているのではなく、仕事の効率を上げるための話をしたいだけなのですが、とにかく自分のやり方に干渉されることを極端に嫌うことが大半でした。管理人からするならば、別に会社の体制を根本的に変えるような内容ではなく、その気になれば今日からでも改善できる内容が中心でしたが、自分のやり方を変えることに対しては、とにかく抵抗する方が大半でした。

 

霊障と頑なさの2つの問題は、一見するならば全く無関係な問題とも見えますが、根本にある問題は同一であり、仏教の観点からするならば、共に執着でしかありません。しかし、当時はそんな考えに至れるはずもなく、霊障は霊障、現実の問題は現実の問題として切り離して考えていましたが、神霊からの自動書記が始まったことで、この2つの問題が同じ問題であると知りました。

 

管理人の守護霊は古代ギリシャの神霊ですが、守護霊の他に前世の縁のあった3人の古代ギリシャの神霊から人が頑なとなる理由を教えて頂きましたが、心理学に詳しい方から専門用語を使用していないだけで、内容は人格心理学であると言われました。しかし、天台宗の神霊からは縁起の教えであるとも言われました。同じ内容をどのようにとらえるかだけの違いではありますが、個人的には長年抱えていた謎が氷解したことには違いがありませんでした。

 

古代ギリシャの神霊の説かれた教えでは、人が頑なに自分の考え方に執着して人の意見を聞き入れない理由は、自分の存在価値を否定されることに対する恐怖心であり、自分の価値観が否定されるならば、自分の存在意義を認められなくなることが原因であると説きます。勿論、古代ギリシャの神霊の説かれた教えはそれだけでなく、全体を理解するのには非常に苦労しましたが、仏教の神霊からするならば、縁起の教えの一部でしかないとの認識のようでした。

 

さて、霊障と頑なさの2つの問題が同一である理由を少し解説しますと、不成仏霊が成仏できない最大の理由がこの頑なさです。つまり生前の自分の言動や考え方の間違いを素直に認めることができないことが成仏を阻む最大の要因であり、生前の自分の言動や考え方の間違いを素直に認めることができる場合には、供養するならば、比較的早く成仏する傾向があります。そのため、深刻な障りを起こしている不成仏霊の大半が頑なであると言えます。

 

また、深刻な霊障に悩まれている方にも頑なである傾向があります。これは単純に頑固と言う方は少なく、考え方に柔軟性がないと言うべき方の方が多いようです。どちらも同じであると言えるかもしれませんが、深刻な霊障が長く続きますと、理不尽と思えるような扱いを周囲から受けることが多くなり、世の中の理不尽さに対する不満や怒りを溜め込む傾向が強くなります。世の中の理不尽さに対する不満や怒りを溜め込み続けますと、「〇〇であるべきだ」との考え方が強くなる傾向があるようです。

 

そのため、障りを起こしている側と障りを受けている側の両方に頑なさが共通していると思われます。このことが障りの解消を難しくしている原因ではないかと考えるようになりました。しかし、深刻な障りに悩んでいる方に頑なな考え方が障りの原因であるから柔軟な考え方を持てば、障りが解消すると説教するつもりはありません。深刻な障りを受けている状況では、不成仏霊の影響を遮断することは難しく、本人が努力しても不成仏霊に足を引っ張られることが少なくありません。

 

これは激しい騒音の中で心を静めよと言っているのと同じであり、激しい騒音が引き金となり、心が乱れ、心の乱れが感情の不安定さを招き、感情的になって自分も怒鳴り声で話すようになるのと同じです。しかし、静かな環境に身を置くならば、心が乱れることも少なくなり、穏やかに話すことができるようになります。そのため、自分が変わることも大切ですが、自分の住む環境を変えた方が問題の解決が早くなると考えます。それが管理人がお勧めしている「開運の方法」の趣旨です。

 

勿論、環境を整える事は大切ではありますが、自分の考え方を変えることも大切となります。霊界は心の世界であり、現世も心を通して霊界に通じていることから良くも悪くも心霊世界に通じています。その心が常に神仏の世界に通じているならば、生き仏となり、多くの人々を救済することができますが、その心が常に修羅の世界に通じているならば、現世に生きながらも修羅の世界で生きているのと同じであり、その心が常に地獄の世界に通じているならば、現世に生きながらも地獄で生きているのと同じことになります。

 

そのため、常に神仏の世界に通じているならば、霊障はすべて解消することになります。しかし、それは悟りを得ることであり、凡人には遠い道のりです。そこで次善の策としては、少しでも執着から離れることが大切となりますが、凡人には何が執着であり、何が執着ではないのかが分かりません。金儲けが執着であると切り捨てることは簡単ですが、企業が利益追求をしなければ倒産します。倒産するならば、そこで働いている従業員も職を失い、多くの人が路頭に迷うことになります。

 

贅沢は執着であり、質素倹約すべきであると考えることはできますが、すべての人が質素倹約するならば、経済は停滞します。経済は停滞して企業の収益は悪化して失業者が増えることになります。別に贅沢な生活をすることが世の中のためになるとは考えてはいませんが、世の中に自粛ムードが蔓延するならば、経済が停滞することは事実です。

 

また、何が執着であり、何が執着ではないのかは、本人と第3者では判断が異なる場合が少なくありません。周囲の人間からするならば、何をそんなにこだわっているのかと思うことであっても、本人は当然なことであり、執着ではないと考えている場合が少なくありません。そのため、執着を断つと言葉で言うのは簡単でも実践することは、非常に難しいことです。

 

執着を断つことが困難であるならば、「〇〇であるべきだ」との考え方を修正することから始めるべきではないかと考えています。この「〇〇であるべきだ」との考え方を修正することも、それほど簡単ではありませんが、執着を断つことの入口になるのではないか思います。その理由は、執着を断ち切るとは、中道の教えを守ることであり、その実践は八正道となります。八正道は、悟りを得るための8つの実践徳目である正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定のことであり、その最初が正見となります。

 

そのため、「〇〇であるべきだ」との考え方を修正することは、仏道修行の入口でもあると言えますので、暫くはこのシリーズを継続しようかと考えています。

 

 

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at 10:32, 星 良謙・子授け地蔵, 救われない人々

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理想と現実3(星)

今回は、管理人の仕事である占いを取り上げさせて頂きます。

世の中には、占いを統計学として説明されようとしている方が時折いらっしゃいます。確かに占いの結果がどの程度的中しているかを実証しようとしますと統計学の力を借りる必要があると思います。以前に読んだ手相の本に手相がどの程度当っているかを数多くの学生の協力を得て調査した結果を掲載されていたこともありますし、医者が手相と病気の関係を調査した本もありました。しかし、占いの結果を統計学で検証することは有効ではあっても、占いを統計学であると考えるのには無理があります。

 

占いは、出生年月日と出生時間を利用して占う「命」と人相や手相などのように体の一部から占う「相」、易などの偶然を利用して占う「卜」の3種類に分類することができますが、統計学が利用できるのは、出生年月日と出生時間を利用して占う「命」と人相や手相などのように体の一部から占う「相」であり、易などの偶然を利用して占う「卜」に統計学を利用することは難しいと思います。管理人は、易とカードを得意にしていますので、主に「卜」に分類される占いを主にしています。その経験から書きますと、易、タロット・カード、トランプ占いの背景には、神秘思想があります。背景にある神秘思想は同じではありませんが、それぞれの意味や解釈は、背景にある神秘思想から導き出されています。

 

例えば、易の場合には、陰陽五行説が背景にありますが、詳しく解説しますと専門的な話の羅列となりますが、体形的な神秘思想と言えます。易経は儒教の四書五経の中の一冊であり、儒教で重視されています。そのため、少なくとも易経の解釈に関しては、儒教の影響を強く受けていると言えます。

※四書は「論語」「大学」「中庸」「孟子」、五経は「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」

 

しかし、易経の易の歴史はとても古く、古代中国の神話までに遡るとされています。

 

易の作者については古来相伝えて伏羲が八卦を画(かく)し、文王がこれを演(の)べて六十四卦となし、文王と周公が卦爻の辞すなわち彖辞と爻辞を作り、孔子が十翼を作ったとされている。漢書藝(芸の旧字)文志にあっては「人は三聖を更(か)え世は三古を歴(へ)たり」とあるが、三聖三古とは、上古にあっては伏羲、中古にあっては文王と周公(父子であるから一とみなす)、近古にあっては孔子を指していうのである。

岩波文庫 易経(上) P18

伏羲(ふっき・ふくぎ) 紀元前3000年以上前の古代中国神話に登場する神様または伝説上の帝王

文王(ぶんのう、ぶんおう、紀元前1152年 − 紀元前1056年)は、中国の周朝の始祖

周公 中国、周の政治家。文王の子。名は旦。兄の武王を助けて殷(いん)を滅ぼし、武王の死後、幼少の成王を助けて王族の反乱を鎮圧。また、洛邑(洛陽)を建設するなど周王室の基礎を固めた。礼楽・制度を定めたといわれる。儒家の尊崇する聖人の一人。

 

何分にも三人の聖人によって作られたとされている本であり、人生の指南書としても永遠の輝きを放ち続けている古典ではありますが、占いの本としては、幾つもの落とし穴があります。これは易の考え方としては正しいも、現実は易の教えの通りにはいかないことが理由です。

 

具体例1

天地否 上爻変
易経には「否の時が傾いた。初めは塞がっていても、後には喜ぶことになる。」とあります。

 

この卦は八方塞の極みを表しますが、易の考え方は森羅万象は変化しづけると考えますので、八方塞の状態が続くならば、必ず状況は変化すると考えます。そのため、「否の時が傾いた。」とは、八方塞の状態が極まったことから状況が変化するとことを表します。続く「初めは塞がっていても、後には喜ぶことになる。」とは、始めは八方塞でも八方塞が終わることを説きます。

 

一つの状況が極まれば、状況が変化することは真理であっても何もしなくても八方塞が打開されるとは限りません。過去の経験では、この卦を得たならば、手の打ちようのない状況であることが大半であり、とても「後には喜ぶことになる。」とは言えませんでした。

 

具体例2
天沢履 四爻変
易経には「虎の尾を履む。怖れ慎んでいれば最終的には吉。」とあります。
 

この卦は、礼儀を心掛け、謙譲の精神を以って身の安全を計るべきことを表し、困難な状況に陥っても謙譲の精神を守ることで災いを避けるべきこと表しています。「虎の尾を履む。」とは、非常に危険な状態を表し、「怖れ慎んでいれば最終的には吉。」とは危機的な状況にあっても謙譲の精神を守り抜くならば、危機を回避できることを説きます。

 

確かに危機的な状況においても謙譲の精神を守り抜くことができるならば、危機を回避できるかもしれませんが、残念ながら過去の経験では、この卦を得たならば破綻寸前であることが多く、「最終的には吉。」とは言えませんでした。

 

具体例3

坤為地 五爻変
易経には「黄裳を身にまとう。大いに吉である。」とあります。
黄裳の黄は中央の色、従順さの象徴
裳(現在のスカートのようなもの・下ばかま)

 

この卦は、「大いに吉である。」とあることから大吉の卦であると思われる方も多いと思います。易の解説書の中にも大吉の卦であると書かれている本もありますが、実際の鑑定では、手放しで喜べるような大吉とは言えない場合が大半です。

 

ではどうしてこのような意味となるかを解説しますと、この坤為地は柔軟や謙虚さを表す陰の徳を表す卦であり、「黄裳を身にまとう。」とは、従順の徳に満ち溢れているならば、大吉であることを表します。しかし、従順さを忘れるならば、凶となることを表しています。そのため、謙虚に人の意見に従い、自己主張をしなければ大吉となると言った意味となります。

 

具体例4

雷火豊 上爻変

易経には「屋根を大きくして家に日除けをかけた。戸口から覗いて見ても人の気配がなく、三年たっても人と顔を会わせようとしない。凶である。」とあります。

 

この卦は一般的には、破産破滅を警告する大凶の卦なのですが、勝負運として解釈するならば、大吉として解釈すべきであると書かれた解説書がありました。この解説書は易の大家の書かれた著書であり、その内容も説得力がありました。

 

この卦を解説しますと、雷火豊は表面的には盛大に見えても実情は苦しく、苦難が多いことを表し、現状維持に専念して衰運に備えるべきことを表しています。そして上爻変は盛運を過ぎて衰運に入った状態を表していますので、極力慎重に事を進めなければならないことを表す大凶の卦とされています。

 

しかし、勝負事のように短期間で決着が着くことを前提にしますと、事情が少し異なります。盛運を過ぎて衰運に入った状態とは、将来的には下降線に入ることを表していますが、現時点に限るならば、最強の運気と言えます。そのため、当日の試合結果を占った場合には、大凶ではなく大吉と解釈すべきと書かれていました。

 

勝負事は滅多に占いませんので、雷火豊 上爻変が勝負運として最強かどうかは分かりませんが、確かに正論であり、内情が苦しくても客観的には侮れないと考えるべきであり、管理人も鑑定の際には気を付けようにしています。

 

まとめますと、易経に書かれた内容は正しいとしても現実にそのまま適用できるかとなれば話は別となります。易の内容を十分に理解するだけでなく、依頼者の置かれた状況を見極めませんと、誤った判断をすることになります。つまり占いにおいても柔軟な考え方は必要であり、硬直した考え方に囚われますと現実を見失うことになります。

 

 

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理想と現実2(星)

前回は、霊障の解消が遅い理由についての考察をしましたが、引き続き同じテーマの考察となります。

霊障の解消が難しい理由として頑なさについて怨みと政治思想を取り上げましたが、3番目の理由として考えなければならない理由に宗教があります。宗教は本来人間の心を苦悩から解放して自由にする教えであるとも言われますが、寛容性を失いますと、カルト的な狂信に陥る場合があります。これは何もカルト教団に限られた話ではなく、伝統的な宗教においても狂信に危険性があります。

 

特定の宗旨に深く帰依して自分が帰依している宗旨以外には何の関心も持たないだけでなく、団体の観光旅行であっても自分が信仰している宗旨宗派以外の神社仏閣の敷地には足を踏み入れない方もいるようです。管理人の家の宗旨である真宗大谷派の教えを忠実に守るならば、阿弥陀仏だけを拝むべきであり、他の仏や神を拝むべきではないとされています。更に占いやまじないの類は信じるべきではないとされています。

 

管理人は、神道から仏教各宗旨の教えを学んでいる人間であり、占いを仕事にしています。更に依頼があれば旅行や移転の吉凶などの方位術や風水、相性なども鑑定させて頂いていますので、真宗大谷派の門徒の風上にも置けない人間です。そのため、浄土真宗の教えについて語るべき立場にはありませんが、一応は浄土真宗の教えを少しは学んでいます。浄土真宗の教えに限られた話ではありませんが、どの宗旨の教えも理路整然とした理論体系があります。そのため、一つの宗旨の教えを学んでいますと、その教えの枠の中だけで自己完結する傾向があります。

 

それは学んでいる教えが緻密な理論体系を具えていることの証明とも言えますが、現実から乖離していても気付かない危険性が生じると思います。例えば、浄土真宗の教えにおいては、一度でも念仏を称えるならば、極楽往生は決定するとされています。これは浄土真宗の教えの根幹であり、最初に称えた念仏で極楽往生が決定しないとするならば、浄土真宗の教えは根幹から崩壊することになります。

 

しかし、管理人が知っている現実は、生前に念仏を称えていたと思われる故人の多くが成仏することができずに苦しまれていました。つまり浄土真宗の教えの根幹が否定される現実がありました。そこで浄土真宗の神霊からの自動書記が始まった際に、そのことを尋ねたことがありました。その回答をご紹介しても良いのですが、話が長くなるだけでなく、今回の話の趣旨から逸脱しますので、触れませんが、現実に即した教えを説かれました。

 

そのことを詭弁と言うことは可能かもしれませんが、個人的にはその方が健全な考え方であると思います。現実と教えが食い違っているのであるならば、現実を踏まえて教えを説くべきだと考えます。しかし、現実よりも教えを優先して現実を否定する宗教家も少なくない気がしています。つまり、浄土真宗の教えの場合ならば、阿弥陀仏のお力は偉大であり、人智を超えた不可思議な力である。その偉大な阿弥陀仏が念仏を称える者は必ず救うと説かれているのだから、念仏を称えた者はすべて極楽往生するはずであり、念仏を称えたのに極楽往生できないはずがないとの話となります。

 

これは何も浄土真宗に限られた話ではなく、他の宗旨でも同じようなことが言えます。どの宗旨の教えでも「〇〇すれば〇〇になる」と言った内容の教えが説かれています。それが念仏なのか、お題目なのか、真言なのかなどの差はありますが、どの宗旨の教えでも根本的な教えがあります。その根本的な教えがどうして正しいのかの根拠、どうしてその教えが他の教えに比べて優れているのかについて説かれているのが宗旨の教えとも言えます。

 

浄土真宗も例外ではなく、親鸞聖人も色々な経典を引用されて浄土真宗の教えがどうして優れているかを説かれていますが、これは何も親鸞聖人に限られたはなしではなく、法然上人や日蓮聖人、道元禅師などの各宗旨の開祖は、それぞれの教えがどうして優れているのかを色々な経典を引用されて説かれています。ここでは各宗旨の教えの内容に立ち入ることはありませんが、各宗旨が緻密な教えの体系を具えていると言えます。

 

勿論、緻密な教えの体系があることは優れた教えの証明と言えますが、その教えが緻密であり、膨大であればあるほど現実から遊離しやすくなるのではないかと思うことがあります。世俗の苦悩から衆生を解放する心の教えが仏教のはずですが、衆生の苦悩から乖離した教えだけを追い求めるならば、仏教の本来の役目が忘れ去られることになります。しかし、現実の苦悩の解消よりも教えの整合性ばかりが追い求められている気がしています。

 

どうしてこのようなことが起きるのかを考えますと、この世の中の仕組みや神仏の働きは理路整然としているはずであるとの思い込みがあるのではないかと思います。また、この世の中の仕組みや神仏の働きを理路整然と理解することを求めているのではないかとも思えます。しかし、如何に緻密な理論であっても理路整然と説明できることの方が少ない気がしています。経済学の専門家であるはずの経済学者が資金の運用や株式投資をしても失敗することが多いと聞いたことがあります。現実の経済は、経済の理論通りには市場は動かないことが理由であるとの話でした。

 

理論と現実との食い違いは、何も宗教の世界に限られた話ではなく、理論通りには動かないとか言えるのではないかと思いますが、「AはBである」「BはCである」だから「AはCである」と言った考え方をする方が多いようです。それが思い込みや決めつけとなり、硬直した考え方になっているようです。それだけ、現実をありのままに見ることは難しいと言えますが、実はこれがお釈迦様の説かれた中道の教えです。

 

中道とは、あらゆる偏見を離れた考え方であり、その実践が八正道です。そしてその中道とは、縁起の教えであるとされていますが、縁起の教えとは何かを説き始めますと、実に難解な話となります。その難解な教えを理解しようとしますと実に複雑で難解な理論体系が待ち構えていますので、話は振出しに戻ってしまいます。

 

しかし、お釈迦様の説かれた中道の教えである全ての偏見を離れることは非常に大切なことであり、柔軟な考え方をするためには非常に大切なことです。そして全ての偏見から離れることができたならば、人生の苦悩の大半は解消するのでしょうが、管理人の様な凡人にとっては、遠い道のりとなります。

 

次回も同じテーマで占いを取り上げたいと考えています。

 

 

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