敏感と言う名の不幸(星)
まだ、鑑定申告の作業が続いています。慣れない事務仕事が多いことからストレスが溜まります。
そこで気晴らしの意味でブログを書くことにしました。
え・・・何か問題でも?
いいんです。このブログは開設当初から管理人の気分次第のブログです。
( ̄^ ̄)えっへん
それはさておき・・・・
鳥山 明氏が他界されました。心からご冥福をお祈り申し上げます。個人的には、敬愛する数少ない漫画の一人でした。
私が子供の頃には、PTAなどから漫画は目の敵にされ、子供にとって有害図書扱いされていた記憶があります。何分にも鉄人二十八号や鉄腕アトムを見て育った世代であり、手塚治虫氏や石ノ森 章太郎氏が活躍されていた時代でした。そんな世代ですので、漫画に抵抗感は全くありませんが、最近では滅多に漫画を読むことはなりました。以前は、喫茶店なとで漫画雑誌を手することはありましたが、読むのは数冊の本を手にしても一作品程度でした。このような書き方をすると漫画家に失礼なことは承知していますが、最近の漫画家は基礎的なデッサンすらまともにできていないのが当たり前であり、多少なりとも絵画を勉強した人間としては、デッサンや構図などが気になって見る気になれません。
別に専門学校で学んではいませんが、大学時代に入部していた美術部が何故か、運動部並の厳しい倶楽部でした。そのため、デッサンも基礎から叩き込まれました。そのため、先輩の中にはプロとして活躍されている方やプロ級の腕を持つ先輩も何人か揃っていました。そんな環境で絵を描いていましたので、いつしか絵を見る目だけは身に着けてました。これは悪いことではなく、絵を見れば作者の意図や狙いなども分かりることも多く、人に解説することもあります。しかし、これはある意味不幸でもあります。
その理由が、漫画を見てもデッサンや構図などが気になって見る気にないことです。デッサンの狂いや構図は我慢することもできるのですが、表現力のなさは致命的です。絵を描いていた仲間と話す際に「線が生きている」「線が死んでいる」と言った表現をすることがあります。その言い方をするならば、今の漫画家の描く線の大半は死んでいます。生きている線を描ける漫画家は数少なく、その数少ない漫画家の一人が鳥山 明氏でした。
では、「線が生きている」「線が死んでいる」とは何かと言えば、表現力です。画家はスケッチの際に鉛筆やコンテなとを使用しますが、上手い画家は鉛筆やコンテで葉の軽さ、レンガや石の重さ、川の流れ、空の広がりなどを全て描き分けます。同じ線であっても柔らかさ、固さを描き分けなければなりません。それは動きでも同じです。歩いている人は、歩いている人の動きを感じさせることが必要であり、川は水の流れを感じさせることが必要になります。それらが表現されているならば、「線が生きている」と言われ、それらの表現ができていなければ、「線が死んでいる」と言われました。
勿論、初心者にそんな芸当ができるはずもありませんが、練習を重ねていると少しずつではありますが、可能となります。そしてその極地が巨匠と呼ばれている方の素描です。ダビンチの素描は、写真で見てもその凄さは分かります。一本の線でどうしてここまで表現できるのかと溜息しかでません。質感や動き、空間どころか、人物の内面まで描かれていることには言葉がありません。もう神業の領域です。勿論、これは極端な例ですが、鉛筆だけで光の強弱や風の動きまでも表現する画家は数多くいます。
私も絵を描いていた頃には、そんな表現ができるようになりたいと願っていましたが、働きながら絵を描き続けることの限界を感じて25歳で筆を折りました。その後は鉛筆画を描くことはありましたが、20年以上前から絵を描くことはなくなりました。それでも絵を見るポイントのような感覚だけは覚えています。覚えていると言うよりも身についていると言うべきかもしれません。それは漫画でも同じであり、漫画を読んでいても絵が気になります。そのため、私が安心して読める漫画家で名前を憶えているのは、亡くなられた方を別にすれば、「あだち充」「高橋 留美子」「黒鉄ヒロシ」だけです。他にも何人かはいますが、殆ど漫画を読まないことから名前を記憶していません。
これはアニメでも同じです。以前から宮崎駿氏の作品が好きになれなかったのですが、宮崎駿氏のドキュメンタリー番組の中で作品を制作する際に意図的に遠近法を無視しているとの話があり、自分の感じていた違和感の理由が分かりました。一般の方ならば、気にならないレベルであり、効果的な手法なのかもしれませんが、私には違和感しかありません。何とも言えない居心地の悪さのような物を感じます。そのため、見る気が失せると言った感覚に陥ります。
これはある意味不幸なのかとも思います。一般の方が名作と褒めたたえている漫画の大半が、私には見る気になれない漫画でしかないことから内容を全く知りません。絵が上手いとされている漫画家の絵が、私には柄にしか見えません。漫画家に画家としての技量を求める気はなく、漫画に芸術性を求める気持ちはありませんが、激しい動きが描いてあっても静止画に見えますし、風景は平坦にしか見えません。人物はデッサンの狂いが気になり、気が向くと何処の部分のデッサンが狂っているのかの間違い探しをすることもあります。これは別に難しいことではなく、肩や首、腰などの位置関係を調べるだけのことです。
それでも漫画ならば見なければ良いだけの話なのですが、これが霊感となると話は変わります。若い頃から霊障に悩まされていましたので、見えない世界の存在に影響されないように訓練はしていますが、それでも完全に遮断はできません。特に相手が大物の魔物ともなりますと、こちらが無視しようとしても影響は受けます。YouTubeの動画でも大物の魔物の影響下にあると思われる人の話は、気聞いていても話の内容が入らなくなります。これはデッサンの下手な漫画を見ているのと同じ状態となります。
動画を視聴していてもこの状態ですので、深刻な霊障の方と話をするとこれが更に酷くなります。相手の霊障が余りにも深刻ですと、話が頭に入らなくなります。そして相手の方の背後に隠れている魔物に意識が向いてしまいます。別に相手の方を無視する気持ちはないのですが、無意識に背後に隠れている魔物の意識を探っていることが少なくありません。しかし、一般の方には、そんな事情が分かるはずもないことから相手は自分が無視されていると思われるようです。
一般の方からするならば、一般の人間には分からないことが分ることは、優れた特技や才能と思われるかもしれませんが、分かることが良いとは限りません。分からない方が素直に楽しめることも少なくありません。特に霊感や霊能力は、生活全般に影響しますので、通常の社会生活をしていますと負担になることが少なくありません。その意味では、霊能力がなかったならば、どんな人生を生きていたのかと考えることがあります。
星
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at 06:00, 星 良謙・子授け地蔵, 管理人のひとりごと
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