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不落因果と不昧因果(星)

先日の事ですが、神仏の働きに関して質問されたことがありました。管理人に分かることは、神仏の働きの一部でしかなく、その全貌を知ることはできませんが、過去の経験から話せる範囲のお話はさせて頂きましたが、その際に無門関の中にある「百丈野狐」の話を思い出しました。

 

無門関は、有名な禅問答の公案集であり、ご存知の方も多いのではないかと思います。個人的には、禅問答の公案は答えを得ることが目的ではなく、悟りを得ることを目的にしていますので、公案の解説には疑問を感じますが、解説のサイトは数多くあるようです。

 

さて、原文は漢文ですので、岩波文庫の「無門関」より、現代語訳を引用せて頂きます。

 

二 百丈野狐

 百丈和尚(ひゃくじょうおしょう)の説教があると、ひとりの老人が大衆の後ろで聴聞していた。
そして修行僧たちが退場すると、老人もまた出ていくのであった。ところがある日、彼はひとりその場に居残って出ていこうとしない。そこで百丈が、「そこに居るのは、誰か?」と聞かれた。

 

 老人は、「はい、私は人間ではございません。大昔、仏道修業を完成した人でも、やはり因果の法則に落ちて苦しむのでしょうか」と尋ねるのて、『いや、因果の法に落ちることはない』と答えました。するとそれいらい五百生の長い間、私は野狐の身に堕ちてしまい、生まれ変わり死に変わり今日に至りました。どうか私に替わって正しい答えとなる一句によってこの野狐の身から脱出させて頂きたい」と頼んだ。そして改めて、「仏道修行を完成した人でも、やはり因果の法則に落ちて苦しむものでしょうか。」と質問した。

 

すると百丈和尚は、「因果の法を昧(くらま)さない」と答えられた。その途端に老人は大悟し百丈和尚に礼拝して言った。「私は已に野狐の身を脱することができました。脱け殻となってこの山の後ろにおります。どうかお坊さん並みの葬儀を営んでください」。


百丈和尚は一山を取り締まる維那(いのう)に命じて衆僧を集めさせ、昼食の後に亡くなった僧の葬儀を行うと告げた。大衆は「皆こうして元気だし、病気で臥せてるものもいないはずだが」と不思議に思いあれこれ噂した。食後になると百丈和尚は大衆を引き連れて裏山の岩窟のところに行き、杖をもって一匹の死んだ野狐を引っ張りだし、直ちに火葬に付した。

 

晩になると百丈和尚は威厳を整えて法堂の檀上に登り、昼間の出来事の一切を語ってきかせた。すると一番弟子の黄檗が質問した。「老人はその昔、答えを誤ったばかりに、五百生もの長い間野狐の身に転落したということですが、もし彼が正しい答えをだしていたとしたらいったいその老人は何に成っていたでしょうか」。

 

百丈和尚は、「ここへ来るがいい。あの老人のために言ってやろう」と言われた。黄檗は百丈和尚の側(そば)に近寄ると、いきなり師の横っ面をぶん殴った。百丈和尚は手を拍(う)って笑い、「達磨の髭は赤いと思っていたが、なんとここにも赤髭の達磨がおったわい」と言われた。

 

 無門は言う、『「因果に落ちず」でどうして野狐(やこ)に堕ち、「因果の法を昧(くらま)さず」だと何故に野狐(やこ)を離脱しうるのか、もしこの大切な一点を見抜く第三の眼を持つことができるならば、あの百丈山の老人も何のことはない。実は五百生という長いあいだを風流の中に生きていたんだと分かるであろう』。

 

 頌(うた)って言う、
不落と不昧、
賽(さい)ひと振りに目が二つ。
不落と不昧、
どんなに見ても勝ち目なし。

 

無門関 西村恵信訳注 岩波文庫 P31-33

 

百丈和尚(ひゃくじょうおしょう) 百丈懐海(ひゃくじょう えかい、749年(天宝8載) - 814年(元和9年))は、中国、南宗禅中の洪州宗の祖馬祖道一の法を継ぐ唐時代の禅僧。

維那(いのう) 禅林で僧衆を督励し、衆務を総攬する役位の僧。現在では衆僧を先導して経を読む役僧。

黄檗(おうばく)黄檗希運(?〜850年頃)。百丈懐海禅師の法嗣で臨済義玄の師。

達磨 中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧。

 

この公案は、空についての公案であるとされているようであり、下記のサイトに詳しい解説があります。

 

曹洞宗 正木山西光寺 因縁(その12)-- 公案「百丈野狐」【前編】 --平成20年3月 こちらから

曹洞宗 正木山西光寺 因縁(その13)-- 公案「百丈野狐」【中編】 --平成20年4月 こちらから

曹洞宗 正木山西光寺 因縁(その15)-- 公案「百丈野狐」【後編】 --平成20年6月 こちらから

 

空の教えを離れて個人的な印象について書きますと、管理人が「仏道修行を完成した人でも、やはり因果の法則に落ちて苦しむものでしょうか。」と質問されたならば、何の疑問もなく「仏道修行を完成しても因果の法則に落ちて苦しむ」と答えると思います。これは、個人的な体験から導かれた答えであり、学んだ教えではありません。

 

結論から書きますと、悟った人間は、偉大な法力を持ち、因果の法則に制約されることなく、自由に生きることができるないと思いますし、それは神仏と言われる存在でも同じであると思います。神仏に祈願祈祷することで奇跡と言えるようなことが起きることを否定する気持ちはありませんが、決して因果の法則から外れていないと思います。

 

例えば、神仏に祈願祈祷することで医者が驚くような奇跡的な回復をして病気が治ったことは何度かありますが、亡くなった方が生き返ったことはなく、失った手足が元に戻った経験はありません。もし、亡くなった方が生き返らせ、失った手足が元に戻すことは可能ならば、因果の法則を変えてしまったと言えますが、そんな経験はありません。

 

これまでに経験した奇跡と思えるような現象は、偶然の積み重ねとも言えるような幸運の連続で起きることが大半であり、物理の法則を無視したことが起きることはありませんでした。そのため、悟ったとしても因果の法則に制約されることには変わりはなく、因果の法則を無視したならば、因果の法則に苦しむことになると思います。

 

多くの方は、神仏とは全知全能であり、どんな奇跡でも自由自在に起こせると思われているのではないかと思いますが、神仏と呼ばれる存在の働きであっても因果の法則に従っていると思います。しかし、凡人と異なるのは、因果の法則を知り尽くしている事ではないかと思います。例えば、川の流れを変えることはできないとしても川の流れを知り尽くしているならば、激流であっても巧みに船を操って何事もなかったように川を下ることはできます。同じことを素人が行うならば、船は直ぐに転覆してしまいます。

 

素人からするならば、激流なのに何事もなかったように川を下ることは、奇跡ではあるとしても、川の流れを知り尽くしている者にとっては、可能な事です。しかし、どんな達人でも川の流れを読むことはできても、川の流れを変えることはできません。神仏の力や悟りの力とは、川の流れを読み、巧みに船を操ることではあっても、川の流れを変えることではないと思いますが、多くの方が求めているのは、川の流れを読む力ではなく、川の流れを変えることではないかと思います。

 

これは、悟りにも言える事ではないかと思います。悟りとは何かを100人問えば、100通りの答えがあるのではないかと思いますが、因果の法則に精通することであるとも言えるのではないかと思います。それは川の流れに精通するのと同じであり、川の流れを変えることではありません。しかし、自分は川の流れを変えることができると思い上がるならば、転落します。「因果の法に落ちることはない因果の法に落ちることはない」との考えは、自分は川の流れを変えることができると思い上がりではないかと思います。

 

ここまでの話は、引用した公案の前半の話であると言えますが、引用した公案には後半があります。一番弟子の黄檗の質問から後の話は、この公案の核心と言えますので、少し補足しますと、因果の法に落ちるか、落ちないかの考え方と考えるのは、分別であり、囚われであるとの考えで。これは空の思想であり、般若心経などに登場する不増不減などのように対立する概念の否定ですが、管理人にはそこまでの悟りはありませんが、言っていることは分からないわけではありません。

 

テレビの企業紹介の番組の中で研究開発には、失敗はないと断言している経営者がいました。その経営者は、ある研究開発が失敗したとしても、その方法では成功しないことが分かった成果を得られたのだから失敗ではないと言われていました。つまり研究開発を継続する限り、失敗はないとの話でした。これは考え方の問題ではありますが、失敗に囚われることの否定であり、成功と失敗の対立する考えの否定であると言えます。

 

しかし、経営として考えた場合には、研究開発費ばかりを費やして成果を得られなければ、経営を維持することが困難となりますので、いくら失敗に囚われる必要はないと言っても限界はあります。つまり、これは成功しているからこそ失敗を恐れる必要がないと言えます。これは悟りでも同じではないかと思います。悟りと迷いは、不即不離の関係にあると言っても悟ったならば言えることであり、迷いの中にあるならば、迷いしかありませんが、悟った立場から見るならば、悟っているか、迷っているかに囚われるべきではないと言うことになりますが、少しばかり疑問を抱きます。

 

もし、管理人が百丈和尚の立場ならば、無条件に黄檗を殴り返すと思います。それが百丈和尚やこの本の著者である無門慧開からするならば、間違いである言われても、黄檗を殴り返すと思います。また、その場で、このやり取りを聞く僧侶の立場にあったならば、黙って荷物をまとめて寺を去ると思います。これは管理人が菩薩の悟りを得られない証だと思いますし、臨済宗の神霊に喧嘩を売っているのと同じでしょうが、別に後悔する気持ちもありません。

 

 

ご相談は こちらから

at 17:34, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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佛説摩訶迦羅大酖憲誕臺‘措在圓滿菩薩陀羅尼經(星)

今回もお経の紹介です。

以前に比叡山三面出世大黒天神勤行儀の経本をご紹介しましたので、お経も紹介したと思っていましたが、お経は紹介していなかったことから取り上げさせて頂きました。

 

尚、歴史的仮名遣いになっていますので、ご注意下さい。

現代の仮名遣いに変更しておこうかと考えもしたのですが・・・・

何分にも比叡山の経本ですので、畏れ多い気がしてやめました。

歴史的仮名遣いに関しては下記のサイトを参考にして下さい。

 

参考サイト 歴史的仮名遣い 読み方の決まり こちらから

 

 

大酖憲旦亶垉

 

次三禮 合掌して禮拜す

南無歸命頂禮三面出世大酖憲誕臺郢摩訶薩(なむきみやうちやうらいさんめんしゆつせだいこくてんじんぼさつまかさつ)

 三度

 

次開経偈 合掌して之を唱ふ

無上甚深微妙(むじやうじんじんみめう)の法は。

百千萬劫(ひやくせんまんごう)にも遇(あ)ひたてまつること難(かた)し。

我(わ)れ今(いま)見聞(けんもん)し受持(じゆぢ)することを得(え)たり。

願(ねが)はくは如來(によらい)の眞實義(しんじつぎ)を解(げ)し奉(たいまつ)つらん。

 

次經段 本を持ちて之を唱ふ

佛説摩訶迦羅大酖憲誕臺‘措在圓滿菩薩陀羅尼經(ぶつせつまかきやらだいこくてんじんだいふくとくじざいゑんまんぼさつだらにきよう)


爾時(そのとき)如來(によらい)大衆(だいしゆ)に告(つ)げて言(のたま)はく。今此(いまこ)の大會中(だいゑちゆう)に大菩薩(だいぼさつ)あり。

名(なづ)けて大福徳自在圓滿菩薩(だいふくとくじざいえんまんぼさつ)と曰(い)ふ。

此(こ)の菩薩(ぼさつ)むかし等正覚(とうしやうがく)を成じて大摩尼珠王如來(だいましゆおうによらい)と號(ごう)す。
いま自在業力(じざいごうりき)を以(もつ)て娑婆世界(しやばせかい)に來(き)たりて大酖憲(だいこくてんじん)を顯(あら)はし給へり。
時(とき)にこの大菩薩(だいぼさつ)大會中(だいゑちゆう)に座(ざ)を起(た)ち合掌(がつしよう)して佛に白(まう)して言(もう)さく。
我(わ)れ一切(いつさい)貧窮(ごんぐう)の福(ふく)なき衆生(しゆうしやう)に大福(だいふくとく)を與(あた)へんとし。
今(いま)優婆塞(うばそく)の形(かたち)を現(げん)じ。眷属七世(けんぞくしちせ)の女天(によてん)を三界に遊現(ゆうげん)せしめ。
一切衆生(いつさいしゆじやう)に福(ふくとく)を與(あた)へんと欲(ほつ)す。
唯(ただ)願(ねが)はくは世尊(せそん)。わが爲(ため)に大福自在圓滿(だいふくとくじざいゑんまん)の陀羅尼(だらに)を説(と)きて曰(のたま)はく。
その時(とき)世尊(せそん)開貌含笑(かいみやうがんしよう)し咒(じゆ)を説(と)きて曰(のたま)はく。
曩莫三曼多没駄喃(なまさまんだぼだなん)。唵摩訶迦羅耶(おんまかきやらや)。娑婆呵(そはか)。
爾時(そのとき)世尊(せそん)大衆(だいしゆ)に告(つ)げて言(のたま)はく。
此(こ)の天神(てんじん)咒(じゆ)は過去(かこ)無量(むりよう)の諸佛出世(しよぶつしゆつせ)すとも説(と)き給(たま)はざるところなり。
若(も)し未來惡世(みらいあくせ)の中に諸(もろもろ)の貧窮(びんぐう)の人(ひと)あつて此(この)陀羅尼(だらに)の名(な)を聞(きか)ん者は。當(まさ)に知(し)るべし。
この人(ひと)大摩尼寶珠(だいまにほうしゆ)を降(くだ)して無量(むりやう)の珍寶(ちんぽう)を涌出(ゆしゆつ)せん。
その時(とき)大酖憲(だいこくてんじん)佛(ほとけ)に白(まう)して言(もう)さく。

若(も)し末法中(まつぽうちゆう)の衆生(しゆじやう)に於(お)いて此(こ)の呪(じゆ)を持(ぢ)し我(わ)が體(たい)若(も)しくは五尺(ごしやく)若(も)しくは三尺(さんじやく)若しくは五寸(ごすん)其(そ)の形像(ぎようぞう)を刻(こく)して伽藍(がらん)に安置(あんち)し。若(も)しくは家内(かない)に崇敬(そうきやう)せんに。

我(わ)れ七世女天(しちせによてん)の眷属(けんぞく)八萬四千人(はちまんしせんにん)の肉(ふくとくじん)を遣(つか)はして十方(じつほう)に遊行(ゆぎやう)せしめ。毎日一千人(まいにちいつせんにん)に供養(くやう)せん。

若(も)し我(わ)が説(と)くところに虚妄(こもう)あらば永(なが)く惡趣(あくしゆ)に堕(だ)して本覺に還(かえ)らず。

若(も)し又(また)種々(しゆじゆ)の珍菓美酒等(ちんかみしゆとう)を以(もつ)て供養(くやう)せば将(まさ)に甘露(かんろ)を降(あめふ)らさん。

時(とき)に一切(いつさい)の大衆(だいしゆ)皆(みな)大(おほ)いに歓喜(かんぎ)して信受奉行(しんじゆぶぎやう)し。禮(らい)をなして去(さ)りにき。 


佛説摩訶迦羅大黒天神大福徳自在円満菩薩陀羅尼経

(ぶつせつまかきやらだいこくてんじんだいふくとくじざいゑんまんぼさつだらにきよう)


次大酖憲窒淡澄數珠を操りて之を唱ふ
唵摩訶迦羅耶娑婆呵(おんまかきやらやそわか) 數遍終て金一下


次毘沙門天王眞言

唵吠尸羅摩拏耶娑婆詞(おんべいしらまなやそわか) 數遍終て金一下


次辯財天女眞言

唵蘇羅薩縛帝曳娑婆訶(おんそらそばていゑいそはか) 數遍終て金一下

 

次祈願(一切衆生の瀞菫長を念ず)

 

次廻向 合掌して之を唱ふ

願(ねが)はくば此(こ)の功(くどく)を以(もつ)て。

普(あまねく)く一切(いつさい)に及(およ)ぼし。

我(わ)れ等(ら)と衆生(しゆじやう)と。

皆共(みなとも)に佛道(ぶつどう)を成(じやう)ぜんことを。 三下

 

次三禮 合掌して禮をなす

南無歸命頂禮三面出世大酖憲誕臺郢摩訶薩(なむきみやうちやうらいさんめんしゆつせだいこくてんじんぼさつまかさつ)

 三度

 

 

 

 

 

補足

佛説毘沙門天功徳経の中では、毘沙門天の真言は、唵吠室羅摩拏也娑婆詞(おんべいしらまんだやそわか)となっていますが、信貴山真言宗の経本から引用であり、真言宗の読み方ですが、今回ご紹介しているお経は、比叡山の経本ですので、天台宗の読み方となっています。

 

真言宗 唵吠室羅摩拏也娑婆詞(おんべいしらまんだやそわか)

天台宗 唵吠尸羅摩拏耶娑婆詞(おんべいしらまなやそわか)

 

 

 

ご相談は こちらから

at 15:10, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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現世利益和讃(星)

 

 

八重桜が満開でした。

四月下旬に咲く花ですが、ソメイヨシノとは違った美しさがあり、好きな花の一つです。

 

それはさておき・・・

 

このブログで何回かご紹介していますが、浄土真宗では、先祖供養を行わないだけでなく、祈願祈祷も行いません。葬儀や法要も故人の供養のためではなく、残された親類縁者などが故人を縁とする者が集まり、阿弥陀仏に感謝することとされています。そのため、供養や祈願祈祷のためのお経はないと思われがちなのですが、親鸞聖人が残された和讃の中に「現世利益和讃」がありますのでご紹介します。

 

あまり知られていない和讃のようですが、「真宗大谷派 勤行集」真宗大谷派宗務所出版部の経本(赤本と呼ばれる赤い表紙の経本)にも掲載されています。

 

※「真宗大谷派 勤行集」真宗大谷派宗務所出版部の経本には、和讃の後半は掲載されていますが、前半は掲載されていません。全文は「真宗東派 在家勤行集 全」永田文昌堂に掲載されていますが、「真宗大谷派 勤行集」とルビに違いがありましたので、「真宗大谷派 勤行集」真宗大谷派宗務所出版部の経本のルビに変更してあります。

 

現世利益和讃

 

阿彌如来来化(あみだにょらいらいけ)して

息災延命(そくさいえんめい)のためにとて

金光明(こんこうみょう)の寿量品(じゅりょうほん)

ときおきたまへ(え)るみのりなり

 

山家(さんげ)の傳教大師(でんきょうだいし)は

國土人民(こくどにんみん)をあは(わ)れみて

七難消滅(しちなんせうめ)の誦文(じゅもん)には

南無阿彌陀佛(なむあみだぶ)をとなふ(のう)べし

 

一切の功徳にすぐれたる

南無阿彌陀佛(なむあみだぶ)をとなふ(のう)れば

三世の重障みなながら

かならず轉(てん)じて輕微(きょうみ)なり

 

南無阿彌陀佛(なむあみだぶ)をとなふ(のう)れば

この世(よ)の利益(りやく)き(わ)もなし

流轉輪廻(るてんりんね)のつみきえて

定業中夭(じょうごうちうえう)のぞこりぬ

 

南無阿彌陀佛(なむあみだぶ)をとなふ(のう)れば

梵王帝釋(ほんのうたいしゃく)歸敬(きょう)す

諸天善神(しょてんぜんじん)ことごとく

よるひるつねにまもるなり

 

南無阿彌陀佛(なむあみだぶ)をとなふ(のう)れば

四天大王(してんだいおう)もろともに

よるひるつねにまもりつつ

よろづの惡鬼(あッき)をちかづけず

 

南無阿彌陀佛(なむあみだぶ)をとなふ(のう)れば

堅牢地祇(けんろうじき)は尊敬(そんきょう)す

かげとかたちとのごとくにて

よるひるつねにまもるなり

 

南無阿彌陀佛(なむあみだぶ)をとなふ(のう)れば

難陀跋難大龍等(なんだばつなんンだいりゅうとう)

無量(むりょう)の龍神尊敬(りゅうじんそんきょう)し

よるひるつねにまもるなり

 

南無阿彌陀佛(なむあみだぶ)をとなふ(のう)れば

炎魔法王(えんまほうおう)尊敬(そんきょう)す

五道(ごどう)の冥官(みょうかん)みなともに

よるひるつねにまもるなり

 

以下「真宗大谷派 勤行集」から引用

 

南無阿彌陀佛(なむあみだぶ)をとなふ(のう)れば

他化天(たけてん)の大魔王(だいまおう)

釋迦牟尼佛(しゃかむにぶつ)のみまへにて

まもらんとこそちかひ(い)しか

 

天神地祇(てんじぎ)はことごとく

善鬼神(ぜんきじん)となづけたり

これらの善神(ぜんじん)みなともに

念佛(ねんぶ)のひとをまもるなり

 

願力不思議(がんりきふしぎ)の信心(しんじん)は(な)

大菩提心(だいぼだいしん)なりければ

天地(てんち)にみてる惡鬼神(あッきじん)

みなことごとくおそるなり

 

南無阿彌陀佛(なむあみだぶ)をとなふ(のう)れば

觀音勢至(かんのんせいし)はもろともに

恒沙塵數(ごうじゃじんじゅ)の菩薩(ぼさ)と

かげのごとくに身にそへ(え)り

 

無碍光佛(むげこうぶ)のひかりには

無數(むしゅ)の阿彌陀(あみだ)ましまして

化佛(けぶ)おのおのことごとく

真實信心(しんじしんじん)を(の)まもるなり

 

南無阿彌陀佛(なむあみだぶ)をとなふ(のう)れば

十方無量(じっぽうむりょうむ)の諸佛(しょぶツ)は(た)

百重千重圍繞(ひゃくじゅうせんじゅういにょう)して

よろこびまもりたまふ(もう)●なり

 

● リン

 

現世利益を明確に説いてはいませんが、阿弥陀仏のご加護を説く和讃であることから管理人も時々読んでいます。

 

 

ご相談は こちらから

at 09:00, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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佛説毘沙門天功徳経(星)

今回も現世利益色の強いお経の紹介です。

色々な方からご相談を頂いていますが、一番厄介なご相談が経済的な困窮です。深刻な霊障の方の中には、健康面や人間関係などの問題だけでなく、経済的な悩みを抱えている方が少なくありません。深刻な霊障を抱えていても経済的なゆとりがあれば、色々な対策は可能となりますが、供養や祈願祈祷のためのお布施や初穂料を捻出できないとなりますと、可能な対策は非常に限られます。

 

基本的には、不成仏霊の影響を受けやすい方の場合には、自分で供養されるよりも、神社仏閣で供養をお願いされる方が安全ではありますが、神社仏閣にお願いできないとなれば、徳を積んで頂く他に道はありませ。しかし、経済的な苦境から脱却できるように神仏にお願いして頂くことも選択肢となります。また、お経を読むこと自体が功徳を積むことから前回の投稿でご紹介した佛説十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経や今回紹介する佛説毘沙門天王功徳経がお勧めとなります。

 

毘沙門天は、仏教における天部の仏神で、持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神です。四天王では多聞天と呼ばれます。また、すべての夜叉を統率する仏神とされるなど戦いの神とされることが多いのですが、個人的には財神の性格を併せ持つ仏であるとの印象があります。

 

佛説毘沙門天王功徳経(ぶっせつびしゃもんてんのうくどくきょう)


是(かく)のごとく我(われ)きく。一時(いちじ)佛(ほとけ)王舎大城(おうしゃだいじょう)。竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)にましまして。大比丘衆(だいびくしゅ)。千二百五十人(せんにひゃくごじゅうにん)とともなりき。
爾(その)ときに。阿難(あなん)一心(いっしん)に掌(たなごころ)を合(あわ)せて。佛(ほとけ)にもうしてもうさく。なんの因縁(いんねん)のもって。 此(この)毘沙門天王(びしゃもんてんのう)は。身(み)に金甲(こんごう)を被(き)。左(ひだり)の手(て)に寶塔(ほうとう)を捧(ささ)げ。右(みぎ)の手(て)に如意寶珠(にょいほうしゅ)の捧(ぼう)を取(と)り。 左右(さゆう)の足下(そっか)に羅刹毘闍舎鬼(らせつびしゃじゃ)を趺(ふ)むや。 

佛(ほとけ)阿難(あなん)につげて曰(のたま)わく。此(この)毘沙門天王(びしゃもんてんのう)は。七万八千(しちまんはっせんのく)の。諸佛(しょぶつ)の護持(ごじ)。佛法(ぶっぽう)の兵(つわもの)の士(つかさ)なり。
左(ひだり)の手(て)に寶塔(ほうとう)をささぐるは。普集功徳微妙(ふしゅうくどくみみょう)と名づく。寶塔(ほうとう)の内(うち)には。八萬四千(はちまんしせん)の法藏(ほうぞう)。十二部經(ぶきょう)の文義(もんぎ)を具(ぐ)し。然(しこう)して見(み)んもの。無量(むりょう)の智慧(ちえ)を得(う)。
右(みぎ)の手(て)に如意寶珠(にょいほうしゅ)の棒(ぼう)をとるは。震多摩尼珠寶(しんだまにじゅほう)と名(な)づく。飲食衣服(おんじきえぶく)。無量(むりょう)の財寶(ざいほう)を涌出(ゆしゅつ)す。身(み)に金甲(こんごう)を被(き)るは。四魔(しま)の軍(ぐん)を除(のぞ)かんがためなり。両毘(りょうび)は悪業煩悩(あくごうぼなのう)を降伏(ごうぶく)せんがために趺(ふ)む所(とこ
ろ)なり。又(また)二鬼(にき)あり。名(な)づけて藍婆(らんば)。毘藍婆(びらんば)という。

左(ひだり)の脇(わき)に天女(てんにょ)あり。大吉祥天女(だいきっしょうてんにょ)と號(ごう)す。右(みぎ)の脇(わき)に一童子(いちどうじ)あり。禅膩師童子(ぜんにしどうじ)と名づく。
若人(もしひと)ありて。毘沙門天王(びしゃもんてんのう)の體(たい)を見(み)。名(な)を聞(きき)て。心(こころ)に念(ねん)ずる者は 八万億劫(はちまんのくこう)。生死(しょうじ)の微細(みさい)の罪(つみ)を除(のぞ)き。百千億(ひゃくせんのく)の功徳(くどく)を得(え)て。佛位(ぶっち)に至(いた)り。現在(げんざい)に無量(むりょう)の福(ふく)を増長(ぞうちょう)す。

佛(ほとけ)阿難(あなん)に告(つげ)て曰(のたま)わく。毘沙門天王(びしゃもんてんのう)に仕(つか)え奉(たてまつ)らん者(もの)あらば。 十種(じゅっしゅ)の福(ふく)を得(え)ん。
一(ひとつ)には無盡(むじん)の福(ふく)を得(え)ん。二(ふたつ)には衆人愛敬(しゅうにんあいきょう)の福(ふく)を得(え)ん。三(みつ)には智慧(ちえ)の福(ふく)を得(え)ん。四(よつ)には長命(ちょうめい)の福(ふく)を得(え)ん。五(いつつ)には眷属衆多(けんぞくしゅうた)の福(ふく)を得(え)ん。六(ろつ)には勝軍(しょうぐん)の福(ふく)を得(え)ん。七(ななつ)には田畠能成(でんばたのうじょう)の福(ふく)を得(え)ん。八(やつ)には蠺養如意(さんにょうにょい)の福(ふく)を得(え)ん。九(ここのつ)には善識(ぜんしき)の福(ふく)を得(え)ん。十(とお)には佛果大菩提(ぶっかぼだい)の福(ふく)を得(え)ん。
若(も)し人(ひと)ありて。毘沙門天王(びしゃもんてんのう)に仕(つか)え奉(たてまつ)らんと欲(ほっ)する者(もの)は。毎月(まいつき)元三日(がんさんじつ)に。身(み)を清(きよ)め。新衣(しんに)を着(ちゃく)して。東北方(とうほっぽう)に向(むか)って。毘沙門天王名號(びしゃもんてんのうみょうごう)を。稱念(しょうねん)せん者(もの)は。大福徳(だいふくとく)を得(え)んこと。決定(けつじょう)して疑(うたがい)いなし。即(すちわち)ち呪(しゅ)をといて曰(のたま)わく。


唵吠室羅摩拏也娑婆詞(おんべいしらまんだやそわか) 一反

 

佛(ほとけ)この呪(しゅ)をとき已(おわ)りて。大地震動(だいちしんどう)して。毘沙門天王(びしゃもんてんのう)出(い)で来(きた)りて。大蓮華(だいれんげ)の王座(おうざ)の上(うえ)に座(ざ)し已(おわ)りて。阿難(あなん)に告(つげ)て曰(のたま)わく。

我(われ)は此(これ)より北方(ほっぽう)。七萬八千里(しちまんはっせんり)を過(すぎ)ぎて園(ひょう)あり。名(な)づけて普光(ふこう)という。城(しろ)あり名(な)づけて吠室羅摩那郭大城(べいしらまんなかくだいじょう)と曰(いう)。八十億那由陀(はちじゅうおくなゆた)の大福聚(だいふくじゅ)あり。

我(われ)毎日三時(まいにちみとき)に此福(このふく)を燒(や)く。若人(もしひと)ありて。我(わが)福(ふく)を得(え)んと欲(ほっ)せば。五戒(ごかい)を持(たも)ち。三歸(さんき)して。無上菩提(むじょうぼだい)を願(ねが)い求(もと)めば。決定(けつじょう)して施與(せよ)して。一切毘沙門(いっさいびしゃもん)の福(ふく)を成就(じょうじゅ)することを得(え)ん。願(ねがう)ふ所(ところ)に五種(ごしゅ)あるべし。

一(ひとつ)には父母孝養(ぶもこうよう)のため。二(ふたつ)には功徳善根(くどくぜんこん)のため。三(みつ)には國土豊饒(こくどぶにょう)のため。四(よつ)には一切衆生(いっさいしゅじょう)のため。五(いつつ)には無上菩提(むじょうぼだい)のために願(ねが)うべし。もし人(ひと)ありて此五種(このごしゅ)の心(こころ)を除(のぞ)いてねがうとも。福(ふく)を得(う)べからず。

もし人(ひと)ありて。死苦(しく)を受(うく)ると雖(いえど)も。貧苦(ひんく)を受(う)くべからず。衆苦(しゅうく)の源(みなもと)は貧苦(ひんく)にしかず。
福徳(ふくとく)を得(え)んと欲(ほっ)する者(もの)は。丑寅(うしとら)に向(むか)って。名號(みょうごう)を一百八遍稱(いっぴゃくはっぺんしょう)すれば。大福徳(だいふくとく)を得(う)べし。
智慧(ちえ)を得(え)んと欲(ほっ)する者(もの)は。東方(とうほう)に向(むか)って。名號(みょうごう)を一百八遍稱(いっぴゃくはっぺんしょう)すれば。大智慧(だいちえ)を得(う)べし。
官位(かんい)を得(え)んと欲(ほっ)する者(もの)は 辰巳(たつみ)に向(むか)って。 名號(みょうごう)を一百八遍稱(いっぴゃくはっぺんしょう)すれば。官位(かんい)を得(う)べし。
能(よき)妻子(さいし)を得(え)んと欲(ほっ)する者(もの)は。南方(なんぽう)に向(むか)って。名號(みょうごう)を一百八遍稱(いっぴゃくはっぺんしょう)すれば。能(よき)妻子(さいし)を得(う)べし。
長命(ちょうめい)を得(え)んと欲(ほっ)する者(もの)は。未申(ひつじさる)に向(むか)って。名號(みょうごう)を一百八遍稱(いっぴゃくはっぺんしょう)すれば。長命(ちょうめい)を得(う)べし。
眷属衆多(けんぞくしゃうた)を得(え)んと欲(ほっ)する者は。西方(さいほう)に向(むか)って。名號(みょうごう)を一百八遍稱(いっぴゃくはっぺんしょう)すれば。眷属衆多(けんぞくしゃうた)を得(う)べし。
愛敬(あいきょう)を得(え)んと欲(ほっ)する者(もの)は。戌亥(いぬい)に向(むか)って。名號(みょうごう)を一百八遍稱(いっぴゃくはっぺんしょう)すれば。衆人愛敬(しゅうにんあいきょう)を得(う)べし。
悉地(しっち)を得(え)んと欲(ほっ)する者(もの)は。北方(ほっぽう)に向(むか)って。名號(みょうごう)を一百八遍稱(いっぴゃくはっぺんしょう)すれば。皆悉(みなことごとく)く成就(じょうじゅ)すべし。

佛(ほとけ)此経(このきょう)を説(と)きおわって。千二百五十人(せんにひゃくごじゅうにん)と倶(とも)にみな。大歓喜(だいかんき)し信受(しんじゅ)し奉行(ぶぎょう)しき


佛説毘沙門天王功徳経(ぶっせつびしゃもんてんのうくどくきょう)

信貴山 毘沙門天王勤行式より

 

 

 

羅刹 鬼神の総称 夜叉と共に毘沙門天王に仕える。

毘闍舎鬼 インド神話に登場する悪霊、鬼神の一種

十二部經 仏教の経典の形態を形式,内容から 12種に分類したもの。

那由陀 数の単位。極めて大きな数量。

文義 文章の意義。文意。

蠺 蚕

悉地 真言の秘法を修めて成就した悟り。


訓読ですので、特に解説の必要もないかとは思いますが、方位が分かりにくいかと思いますので、補足しておきます。

 

福徳 丑寅(東北)

智慧 東方

官位 辰巳(東南)

妻子 南方

長命 未申(西南)

眷属衆多 西方

愛敬 戌亥(西北)

悉地 北方

 

 

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at 10:46, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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佛説十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経(星)

今回は、お経を紹介させて頂きます。

 

この「佛説十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経」について少し調べましたところ、日本で作られたお経のようですが、この陀羅尼を毎日欠かさず108回唱えるならば、病気は治り、寿命は長くなり、諸仏に守られるとされています。また、十悪五逆の罪の取り除かれだけてなく臨終の際には十方の諸仏を見ることができ、死後は阿弥陀如来の浄土に生まれることができると説かれているご利益満載のお経であることからご紹介することにしました。

 

十一面観音は、10種類の現世での利益と4種類の来世での功徳があるとされている仏です。

 

〇現世での利益

・病気にかからない

・一切の如来に受け入れられる

・金銀財宝や食物などに不自由しない

・一切の怨敵から害を受けない

・国王や王子が王宮で慰労してくれる

・毒薬や虫の毒に当たらず、悪寒や発熱等の病状がひどく出ない。

・一切の凶器によって害を受けない
・溺死しない
・焼死しない
・不慮の事故で死なない


〇来世での功
・臨終の際に如来とまみえる
・悪趣、すなわち地獄・餓鬼・畜生に生まれ変わらない
・早死にしない
・今生のあとに極楽浄土に生まれ変わる

 

比較的短いお経ですので、何かの機会に読まれては如何でしょうか?

きっと十一面観音様のご加護が得られと思います。

 

 

佛説十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経(ぶっせつじゅういちめんかんぜおんぼさつずいがんそくとくだらにきょう)

 

如是(かくのごとく)我聞(われきく)一時(いちじ)に佛(ほとけ)補陀落山(ふだらくせん)にいまして衆(しゆ)の為(た)めに法(ほう)を説給(ときたま)ふ。其時(そのとき)に観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)佛(ほとけ)に白(もう)してもうさく我(われ)に神咒(しんしゅ)あり。若(もし)衆生(しゅじょう)ありて受持(じゅぢ)することあらば、一切(いっさい)の病患憂苦(びょうげんゆうく)を除却(じょきょ)し、一切(いつさい)の悪業煩悩(あくごうぼんのう)を消除(せうじょ)す。

 

身口意(しんくい)の業(ごう)をしてみな清浄(しょうじょう)ならしめて、心中(しんちゅう)百千萬億等(ひゃくせんまんおくとう)の事(じ)成就(じょうじゅ)せざることなからしめん。我(わが)此(この)神咒(しんしゅ)は、大神験(だいしんけん)あり。一切(いっさい)の諸佛(しょぶつ)讃歎(さんたん)し護念(ごねん)したまふ。

 

我(われ)過去(かこ)無量却(むりょうこう)の前(まえ)に於(お)いて、此(この)咒(しゅ)を受持(じゅじ)して十方(じっぽう)の佛(ほとけ)をみたてまつり、無生法忍(むしょうぼうにん)を證(しょう)し、また慈悲喜捨平等(しひきしゃびょうどう)の法門(ほふもん)を得(え)て、一切(いつさい)の有情(うじやう)をして、無上道(むじょうどう)を安立(あんりふ)せしめて、もろもろの険難(けんなん)を救(すく)い、安穏(あんおん)を得(え)せしむ。

 

若(もし)毎日(まいにち)一百八遍(いつぴゃくはちへん)を誦(じゅ)すれば、萬病消滅(なんびょうしょうめつ)し寿命長遠(じゅみょうちょうおん)にして、常(つね)に十方(じつぽう)の諸仏(しょぶつ)のために護念(ごねん)せられ、財宝衣食(ざいほういしょく)乏(とぼ)しき所(ところ)なからしめて、衆人(しゅうじん)の恭敬愛念(きょうけいあいねん)することを獲得(ぎゃくとく)す。

 

復(また)さらに一切(いっさい)の災横鬼蛇刀杖毒薬咒咀怨賊水火(さいおう きじゃ とうじょう どくやく じゅそ おんぞく すいか)のために能(よく)害(がい)せられず。怖畏(ふい)を遠離(おんり)して安穏(あんのん)を獲得(ぎゃくとく)す。

 

命終(みょうじゅ)の時(とき)にのぞんで十方(じゅっぽう)の佛(ほとけ)を見(み)たてまつり極楽(ごくらく)に往生(おうじょう)し悪趣(あくしゅ)におちず。爾時(そのとき)に佛(ほとけ)讃(さん)してのたまはく。

 

善哉(よきかな)大士(だいし)諸(もろもろ)の有情(うじょう)のために、此(この)咒(しゅ)をのべむと欲(ほっ)す。我(われ)もまた受持(じゅじ)せん。汝(なんじ)速(すみやか)にこれを説(と)け。時(とき)に観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)即(すなは)ち咒(しゅ)を説いて曰(いは)く

 

唵摩訶迦盧尼迦波訶(おん まかきゃろにきゃ そわか)

 

此(この)咒(しゅ)を説(と)きおわって、佛(ほとけ)に白(もう)してもうさく。若(もし)男女(なんによ)有(あ)りて、此(この)咒(しゅ)一遍(いつぺん)を誦(じゅ)せば、十悪五逆(じゅうあくごぎゃく)一切(いっさい)の罪障(ざいしょう)みな悉(ことごとく)く消滅(しょうめつ)する。もろもろの病苦(びょうく)を除(のぞ)き、もろもろの怖畏(ふい)をはなれ、生死(しょうじ)の海(うみ)をこへて、涅槃(ねはん)のきしにいたる。

 

若(もし)また人(ひと)有(あつ)て、千萬億那由多(せんまんおくなゆた)の諸佛(しょぶつ)の名号(みょうごう)を稱念(しょうねん)せんより、しかじ暫時(しばらく)も至心(ししん)に我(わが)名号(みょうごう)を稱念(しょうねん)せば、福(ふく)を得(う)ること彼(かれ)にまさる。宿福(しゅくふく)のうすきものは、此(この)咒(しゅ)および我名(わがな)をきかず。何(いか)に况(いはん)やたやすく受持(じゅじ)し。読誦(どくじゅ)することを得(え)んや。

 

若(もし)よく至心(ししん)に咒(しゅ)を誦(じゅ)し、我(われ)を念(ねん)ぜば現身(げんしん)に飛行自在神通変化(ひぎょうじざい じんつうへんげ)を獲得(ぎゃくとく)して、我(わが)如(ごとく)にして、異(こと)なることなからん。復次(またつぎ)に人(ひと)有(あっ)て、貧窮下賤(びんぐうげせん)にして、多(おお)く病苦(びょうく)を受(う)け、愚痴暗鈍(ぐちあんどん)にして、善悪(ぜんあく)をわきまへざらんに、若(もし)よく此(この)咒(しゅ)を誦持(じゅじ)し、我名(わがな)を稱念(しょうねん)せば、一切(いっさい)の所求(しよぐ)必定(ひつじょう)して成就(じょうじゅ)す。

 

富貴自在(ふきじざい)にし、無病安楽(むびょうあんらく)にして、智辨才(ちべんざい)を得(え)て、世出世(せしゅっせ)の事意(ことこころ)にかなはざることなく。乃至(ないし)無上菩提(むじやうぼだい)を證得(しょうとく)す。

 

若(もし)女人(によにん)有(あっ)て、女身(にょしん)を捨(すて)んと願(ねがっ)て、此(この)咒(しゅ)を誦持(じゅじ)せば、女(おんな)を転(てん)じて、男(おとこ)となるらん。所生(しょしょう)の處(ところ)は、常(つね)に佛前(ぶつぜん)に在(あっ)て、蓮華(れんげ)に化生(けしょう)す。

 

若(もし)人間(にんげん)に在(あっ)ては、輪王(りんおう)となることを得(え)て、つねに法輪(ほふりん)を転(てん)じて、涅槃(ねはん)を究竟(くきやう)す。

 

爾時(そのとき)に観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の咒(しゅ)を説(と)き巳(おわっ)て、一切(いつさい)の大衆(たいしゆ)歓喜讃嘆(かんぎさんたん)す。佛(ほとけ)を遶(めぐ)ること三匝(さんそう)にして禮(れい)をなして去(さ)る。

 

十一面陀羅尼経(じゅういちめんかんぜおんぼさつだらにきょう)

 

補陀落 インド南端の海岸にあり、観音が住むという八角形の山。

神咒 摩訶不思議な呪文のこと 真言の異名

那由多 きわめて大きい数。一千億。異説も多い。

称念 称名と念仏。口に仏の名を称え,心に仏の姿を思い浮かべること 。

受持 教え、特に仏の教えを銘記して忘れないこと。

神験 神の霊験。不思議な霊験。

無生法忍 空であり、実相であるという真理を認め、安住すること。一切のものが不生不滅であると認めること。ものはすべて不生であるという確信。

慈悲喜捨 慈・悲・喜・捨という言葉でその内容が表わされる、四つの心の働き。

慈 好意・友情・善意 

悲 同情・憐愍 

喜 喜び
捨 無関心・中立・平静

三匝 礼式の一で、仏に対して右回りに3回まわること。

 

 

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at 07:32, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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中論について3(星)

白キツネ様コメント有難う御座います。

 

釈尊が中道について多くを語らなかった、というのは理解できる気がします。中道=空=縁起であるのならば、もはやそれは語る(言語化する)ことが不可能なものですから。言語化とは即ち世界を裁断し、再構成すること、つまり分別しちゃうことなので、もう中道じゃなくなっちゃうわけで。それでも状況的に止むに止まれずやってしまったのがアビダルマだとしたら、それを言語的自壊に追いこむべく(敢えて言語で)書かれたのが中論ではないですかね。中論を読む前には最低限そこを押さえておかないと何のことやらチンプンカンプンなのも当然ですね。
( ̄▽ ̄;)

 

文面からの推察ですが、仏教には随分とお詳しい印象を受けました。悟りは言葉を超えた世界観ですので、言葉で表現することには無理があります。そのため、お釈迦様の悟りを言葉で分析的に説明しようとすることには、最初から無理がある言えます。このように書きますと、アビダルマ(倶舎論)が壮大な徒労とも言えますが、アビダルマ(倶舎論)があったからこそ唯識や中論が生まれたのではないかと考えています。

 

更に方法として背理法と微分に近い数学的な発想が多用されているので、そこも押さえておかないと。そうして虚無主義スレスレのところまで論理を突き詰め、その(アビダルマの)論理が成り立たないことを明らかにする…と。いやー天才っているんですねー。

 

中論を最初に読んだのは、1,999年頃であったと記憶しています。最初は、天台宗の神霊の自動書記の内容が本物であるかの検証が目的でしたが、仏教に詳しくもない人間でしたので、空の意味が解らずに挫折、そこで中論を学びましたが、当然のごとく玉砕、次にアビダルマ(倶舎論)に挑戦して、またもや玉砕、気付けば仏教書が本棚を占領してことを覚えています。この数年は、仏教書よりも心理学の本を読むことの方が多く、仏教からは少し距離を置いていました。

 

暫く前から唯識がどうして唯心論を説いているのかと疑問を持ち、唯識の本を読み返していましたが、覚えていることよりも忘れていることの方が

多いと言ったところです。中論も読み返していますが、うろおぼえの事ばかりでした。( ̄〜 ̄;)ウーン・・・

やはり唯識と中論の壁は高く、在家が唯識と中論を学ぶことは容易ではないと言ったところでしょうか?

 

ただ、いつも思う事なのですが、仏教は知識として覚えても意味がなく、日常生活の中で活かすことができなければ、意味がありません。しかし、日常生活の中で仏教の智慧を活かすことは至難の業であり、仏教に精通されているはずの仏教学者でも例外ではありません。著名な仏教学者の方にしても仏教の教えを解説されている場合には、学ぶべき話は非常に多いのですが、仏教の教えの解説を離れた途端、道徳論に終始することが大半です。

 

そのため、仏教の教えとは、悟りに至るための教えであり、教えの真髄は悟らなければ分からないと言うことでしょうか。その意味では、霊格の高い神霊の語られる教えは、自由自在であり、宗旨の教えを日常生活にまで落とし込んで説かれることが珍しくありません。残念ながら三論宗の神霊が教えを説かれたことはありませんが、どんな教えを説かれるのかと思っています。

 

※三論宗 インド中観派の龍樹菩薩の『中論』『十二門論』、その弟子提婆の『百論』を合わせた「三論」を所依の経典とする論宗、奈良仏教の一つではありますが、宗旨としては現在存在していません。

 

※法相宗 インド瑜伽行派(唯識派)の思想を継承するの宗派の一つであり、奈良仏教の一つです。本山は興福寺と薬師寺です。

 

それはさておき、前書きばかり長くなってしまいましたが、中論で説かれている空は、虚無主義と誤解されやすい面がありました。

中論の中では、虚無主義も否定されているのですが、中国では空を虚無主義と考えられるようになりました。

 

「どんな縁起でも、われられは空と説く。それは仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である。」(第十八詩)

とあり、これをクマーラージュは、

「衆因縁生の法、我即ち是れ無なりと説く。亦(ま)た是(こ)れ仮名(けみょう)と為(な)す。亦(ま)た是(こ)れ中道の義なり」と訳しているが、中国では後に多少変更されて、

「衆因縁生の法、我即ち是れ空なりと説く。亦(ま)た是(こ)れ仮名(けみょう)と為(な)す。亦(ま)た是(こ)れ中道の義なり」という文句にして一般に伝えられている。天台宗も三論宗も後者を採用しているし、また後者のほうが原文に違うことなくよくその意味を伝えている。この詩句は中国の天台宗の祖とされる慧文(えもん)禅師によって注意されるに至った。

 そうして天台宗によってこの詩句は、空(くう)、仮(け)、中(ちゅう)の三諦を示すものとされ、「三諦偈(さんたいげ)」とよばれるようになった。すなわちその趣旨は、因縁によって生ぜられたもの(因縁所生法)は空である。これは確かに真理ではあるが、しかしわれられは空という特殊な原理を考えてはならない。空は仮名であり、空を実体視してはならない。故(ゆえ)に空をさらに空じたところの境地に中道が現れる。因縁によって生ぜられた事物を空ずるから非有であり、その空をも空ずるから非空であり、このようにして「非有非空の中道」が成立する。すなわち中道は二重の否定を意味する。ほぼこのように中国伝来的に解釈されてきた。

 

龍樹 中村 元著 講談社学術文庫 P251-252

 

 仏教の経論の中において有が空と対して使ってある場合には、その「有」は、きわめて広汎なかつほとんど無内容な「有」の概念を意味するのではなくて、「実有」の意味に解してよいと思う。有と無では、思惟(しゆい)一般にとって不可欠な基本的な概念であり、あらゆる哲学思想に共通であるけれども、実有と空とは全く仏教的な概念であるといいうる。

以上の論述を図式をもつて示すならば、

空(=非有非無=中道=縁起) ←→ 不空(=実有)

無 ←→ 有

と要約しうると思う。

 ところがこの空という語は否定的な響きをもつから、インドにおいても空と中道とを別な概念とみなし、空は無に近い意味のものと考えられるに至った。したがって中道も非有非空の意味であるとされた。この傾向は経典の中にも見出される。

 

龍樹 中村 元著 講談社学術文庫 P265-266

 

実にややこしい話なのですが、龍樹菩薩の説かれた空と天台宗で説かれている空は、内容が微妙に異なると言えるようです。

 

 

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at 19:28, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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中道について2(星)

 

今回から中道とは何かとのテーマを掘り下げたいと思いますが、少しばかりテーマが大きすぎたかと悩んでいます。

 

前回の投稿で、龍樹菩薩の著書である「中論」に中道とは縁起のことであると説かれてると書きましたが、中論の中で中道について書かれているのは、一カ所だけしかありません。しかし、この一文は非常に重要視されています。

 

中観派の思想においては中または中道という概念がきわめて重要な位置を占めている。 中略 しかるに、このように重要な中道という語が「中論」においてはただ一回出てくるのみである。すらわち「四つのすぐれた真理の考察」という第二十四章の第十八詩に言及されているのみであるから、われわれはこれを手がかりにして考察を進めなければならない。

「どんな縁起でも、それをわれわれはこれを空と説く。それは仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である」(第十八詩)

 

龍樹 中村 元著 講談社学術文庫 P250

 

※中観派

インド大乗仏教思想史上の一学派。ナーガールジュナ (龍樹) ,その弟子のアーリヤデーバ (→提婆。2,3世紀頃) ,アーリヤデーバの弟子のラーフラバドラ (200〜300頃) の学系をいう。中観派が学派として明確な形をとったのは,ブッダパーリタ (仏護。 470〜540頃) の時代からで,教学の根本は有や無に執着することのない空 (くう) の立場である。すべては空であるからこそ実践が可能であり,もしも空でなかったならば目標を目指して努力することも不可能であると主張する。

 

 

同じ内容を別の訳でご紹介しますと下記の様になります。

 

縁起というもの、それを空性であると説くのである。そ〔の空性と〕は、〔他のものに〕よる仮説であり、その同じことが中道である。(二十四・十八)

 

空入門 梶山雄一著 春秋社 P176

 

ここで説かれているのは、縁起=空=中道と言うことです。どうして空が縁起と同じであるのか、「仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である」とは何かと疑問に抱かれる方も多いのではないかと思います。しかし、この内容を解説しようとしますと何から解説しようかと悩みます。

 

専門的な話に深入りしますと、際限なく難しい話となりますが、一番簡潔に解説されている話はないかと探しましたところ、下記の解説が一番分かりやすいのではないかと思いますので、引用します。

 

 第五章で述べましたように、龍樹は、もしあらゆるのに実体や本質があるならば、因果関係も、ものの運動も、主体・客体・作用の関係も、認識とその対象のあり方も説明できなくなる、といっていたのです。ですから、そのようなすべての関係は、ものに実体がなく、本質がないとき、いいかえれば、すべてのものが空であるからこそ、成り立つのです。

 この場合、すべてのものに実体や本質がない、ということが空性であります。事物は実体をもたず、原因・条件に依存してのみ生じる、つまり縁起したものである、ということが空義の理解であります。そして、ものが空であることが、あらゆる世間の言語や習慣を、実体としてではなく、仮の現象として成立させるということ、それが空の効用(空用)、空のはたらきであります。

 そこでは、世間の言語・習慣というものを実体として肯定するのでもなく、またそれを仮のあり方、現象としては否定するのでもない、ですから、空の立場は中道といえるわけです。

 

空入門 梶山雄一著 春秋社 P176-177

 

縁起=空=中道の関係が非常に簡潔にまとめられているのですが、簡潔過ぎて理解できない方も多いのではないかとも思います。しかし、この話を解説しようとしますと、「縁起」と「空」について解説しなければならなくなりますが、どちらも簡単に解説できるような話ではありません。そのため、簡単な解説に止めさせて頂きます。

 

まず、縁起について書きますと、他との関係が縁となって生起すること。自己や仏を含む一切の存在は縁起によって成立しており、それ自身の本性、本質、実体といったものは存在しないとの教えです。しかし、厄介なことに小乗仏教と大乗仏教では、縁起の解釈に違いがあります。小乗仏教では、縁起を時間的生起の関係で考えます。それに対して龍樹菩薩は、縁起を相互依存と説いています。どちらが正しいのかは別として、今回は龍樹菩薩の説を中心に解説します。

 

龍樹菩薩の書かれた「中論」は非常に難解な話の連続ではありますが、縁起が相互依存の関係であることの論証であると言えます。

「中論」の冒頭の帰敬偈(仏・菩薩に対する礼拝の詩)において下記の様に説かれています。

 

滅しもせず、生じもせず、断絶もせず、同一でもなく、異なりもせず、来りもせず、去りもしない、そして多様な思いを超越し、至福なる縁起を、完全にさとった〔ブッダ〕は説いた。その説法者の中で最高なる人に私は礼拝する。

 

空入門 梶山雄一著 春秋社 P201

 

これだけでは分かりにくいと思いますので、解説を引用します。

 

 八個の否定および「多様な思いの超越」「至福」など、すべてが縁起の形容詞であるということは、龍樹の考えている縁起が、説一切有部その他の縁起説とは違って、空の縁起であり、その空の縁起を説いたブッダに拝礼する、ということであって、たいへん重要な意味をもっているのです。

 生じも滅しもしない、有るのでも無いのでもない、来るのでも去るのでもない、というように二つの矛盾概念の両方をともに否定するということは、それらによって形容されている縁起が、じつは空の同義語であることを示しているからであります。

 

空入門 梶山雄一著 春秋社 P203-204

 

ここで空の説く相互依存の関係について少し補足させて頂きます。「空入門」の中で面白い比喩が紹介されていました。5キロと言う距離は、10キロに比べれば短く、1キロに比べるならば、長いと言えます。そのため、5キロは短いとも長いとも言えます。また、父親は息子に対しては父親ではありますが、自分の親との関係で考えるならば、自分は息子となります。そのため、同一の人物が、父親であり、息子でもあります。つまり、5キロと言う距離は、他の距離との関係で成り立ち、親子関係も親子関係が前提であり、すべてが相互依存の関係で成り立っているとの教えです。

 

龍樹菩薩は、この相互依存をすべてに拡大しました。すべての存在が空であり、本質や同一性といった存在を否定しています。実体や本質、同一性は、恒常的であり、不変を前提にしていますが、すべてのものは、変化していることから、本質や同一性は本質や同一性でないものの否定の言葉としてあるだけであり、本質や同一性という概念に応じた実在はないと説いています。

 

詳しく説明しますと、説明すればするほど、逆に分からなくなる話ではないかと思いますので、今回はここまでとさせて頂きます。

 

参考図書をご紹介しておきますので、興味のある方は、勉強して下さい。

 

空入門 梶山雄一著 春秋社

入門書としては分かりやすい本ですが、既に絶版であり、古本も高値で取引されているようです。

 

龍樹 中村 元著 講談社学術文庫

非常に詳しい内容ではありますが、専門的な内容の本であり、難解です。

 

仏教の思想3 空の理論 梶山雄一・上村春平著 角川ソフィア文庫

専門的な内容の本ではありますが、比較的分かりやすい本だと思います。

 

 

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中道について1(星)

モクレンの花が咲いていました。

 

 

 

 

 

春の訪れを感じさせる花であり、好きな花の一つです。

 

それはさておき・・・・

 

中道は仏教の基本的な教えではありますが、あまり詳しく語られることは少ないと思います。一般的には、お釈迦様は渇愛に基づく快楽や、極端な苦行のどちらにも偏っても、真理には到達できないことを悟られたことから、中道は極端な概念や姿勢に偏らないあり方とされていますが、あまりにも漠然としています。

 

少し参考になりそうな話を探しましたところ、下記の様な話がありましたので引用します。

 

【正見】(しょうけん) あるがままを見据える正しい見解

 もし人が見解(けんげ)(概念化された誤った固定観念)によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が知識によって苦しみを捨てるのであるならば、それは煩悩(ぼんのう)にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によって清められることになるであろう。

 

何をもって正しいとするのか? われわれの日常生活は概念化された固定観念に支配されている。仏陀はこうした見解を誤った見方とした。初転法輪(しょてんほうりん)において説かれた中道論(ちゅうどうろん)とは、あるがままの姿を見きわめる見解であった。正見(しょうけん)はこの中道観を得るための智慧(ちえ)である。

 

Books Esoterica - 9 釈迦の本 学研 P143

 

※概念

思考において把握される、物事の「何たるか」という部分。抽象的かつ普遍的に捉えられた、そのものが示す性質。対象を総括して概括した内容。 あるいは、物事についての大まかな知識や理解。

 

※概念化

まだ概念的に説明されていなかったり、それを言い表すちょうど良い表現がないような特定の現象やものごとなどについて、新しい概念や用語などを作り出して言い表すこと。

 

 

極端な概念や姿勢に偏らないあり方との説明よりは、分かりやすいのですが、大半の方は、自分が概念化された固定観念に支配されているとの自覚もなければ、自分は現実をあるがままに見ていると考えているだけでなく、周囲からするならば、極端な考え方を持っていると思われる場合でも、自分は常識的な人間であると考えている場合が少なくありません。

 

特定の団体を中傷する気持ちはありませんが、市民運動出身の政治家は、落選しても落ち込まないと聞いたことがあります。市民運動の活動家は、社会から自分たちの意見が受け入れられなくても気にしていないだけでなく、社会から自分たちの意見が受け入れられなければ、社会を変えなければならないとの使命感を燃やすことから落選しても、次はもっと頑張らなければとしか考えないとの話でした。

 

勿論、すべての市民運動の活動家がこのような考え方をするとは限りませんが、極端な思想の持ち主にありがちな傾向ではあると思います。新興宗教の熱心な信者は、家族や友人などに反対されても、自分の信仰心が足りないから周囲に反対されると考えたり、自分がもっと熱心に信仰することで家族や友人を目覚めさせなければならないと考えることが少なくありません。

 

そのため、この概念化された誤った固定観念を捨てることは、実践しようとしますと簡単な話ではなく、何が中道かを理解するための理論的な説明にはなっていないと言えます。しかし、お釈迦様は中道についてあまり多くを語られなかったようです。

 

そのことについて参考になりそうな話をご紹介します。

 

そして、いま、ブッタ・ゴータマの場合にも、初期の経典の関する限りにおいては、さきの二つの極端な実践的立場に対する批判のほかには、「中道」に関する理論的な説明を試みた形跡は、まったく見当たらない。これは少しも不思議なことではない。けだし、この師は、伝道者として起って以降は、あまりおおく理論的なことは語らなかった。ことに、この「中道」のような実践的な原理は、それを理論の領域にまでひきもどして、その基礎づけを説くというようなことは、もつともその必要性のすくないことと考えらていたにちがいないのである。

 だが、この人は、「私が証(さと)り知って、しかも汝らに説かないことはおおく、説いたことはすくない」と語って憚(たばか)らなかった人である。理論的な基礎づけを説き示さなかったということは、けっして、それがそのまま、理論的な基礎のない、単なる体験であることを意味するわけではない。では、その理論的根拠はいかに。わたしもまた、理屈っぽい現代人の一人であるから、そのように追及してみることがある。そのとき、思いおよぶのは、とうぜん、縁起の法のほかにない。けだし、縁起の法こそは、ブッタ・ゴータマのよって立つ思想の基底であるとともに、また、この「中道」の理論的基礎づけとしてまことにふさわしいものである。

 

仏教の思想1 知恵と慈悲<ブッタ> 増谷文雄・梅原猛著 角川ソフィア文庫 P177-178

 

※ブッタ・ゴータマ お釈迦様のことです。

 

この本の著者である増谷文雄氏は、続いて縁起の法は流動的な存在論であり、中道も固定的なものではないことを指摘されています。つまり、中道は優れたバランス感覚であるとの主張なのではないかと思われますが、理論的な根拠とするには、話があまりにも掘り下げられていないと思われます。この本の著者の増谷文雄氏は優れた宗教学者ではありますが、どうしてこのような内容を書かれたのかと少しばかり疑問を抱きます。

 

実は、大乗仏教中観派の祖であり、日本では、八宗の祖師と称される龍樹菩薩の代表的な著書である「中論」で、縁起と中道の関連が説かれています。しかし、縁起の教えを解説するだけでも大変であり、「中論」の内容となりますと、恐ろしく難解な話となります。そのため、どこまで解説できるか不安に感じてはおります。

 

いずれにしても縁起の話だけでも長くなりますので、次回に持ち越しとさせて頂きます。

 

 

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極楽往生8(星)

先日のことですが、牡丹の花が咲いていました。

 

こんな時期にと少しばかり驚きましたが、綺麗に咲いていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それはさておき・・・

 

今回の「下品中生(げぼんげしょう)」には、称名念仏を称えることで極楽往生できることができることが説かれていますので、他力門では重視されています。今回は、経典のご紹介が目的ですので深入りしませんが、浄土宗と浄土真宗では、解釈が異なる箇所もあります。

 

 

 仏、阿難(あなん)および韋提希(いだいけ)に告げたもう、「下品中生(げぼんげしょう)とは、あるいは衆生ありて、不善業の五逆・十悪を作り、(その他)もろもろの不善を具す。かくのごとき悪人、悪業をもってのゆえに、まさに悪道に堕(だ)し、多劫(たこう)を経歴(きょうりゃく)して、苦を受くること窮(きわ)まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終わる時に臨みて、善知識の、種々に安慰(あんに)して、ために妙法(みょうほう)を説き、教えて仏を念ぜしむるに遇(あ)わん。

 

浄土三部経(下) 中村元・早島鏡正・紀野一義訳註 岩波文庫 P78

 

※経歴 経過すること、過ぎ去ること。時の移り変わり。

※五逆 極楽往生4に詳しい解説があります。こちらから

※十悪 殺生・偸盗・邪婬・妄語・綺語・悪口・両舌・慳貪・瞋恚・邪見

※かくのごとき悪人 生死輪廻する者

 

 この人、苦に逼(せま)られて、仏を念ずるに遑(いとま)あらず。(かの)善友(ぜんぬ)、告げていう、『汝よ、もし(仏を)念ずることあたわざれば、まさに無量寿仏(むりょうじゅぶつ)[の名(みな)]を称うべし』と。かくのごとく、至心(ししん)に、声をして絶えざらしめ、十念(じゅうねん)を具足(ぐそく)して、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)を称えしむ。仏の名(みな)を称うるがゆえに、念々の中において、八十億劫の生死(しょうじ)の罪を除き、命終わる時、金蓮華(こんれんげ)の、なお日輪(にちりん)のごとくにして、その人の前に住するを見ん。

 

浄土三部経(下) 中村元・早島鏡正・紀野一義訳註 岩波文庫 P78

 

※無量寿仏 阿弥陀仏の異名

浄土真宗の常用経典である正信偈の冒頭に「帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい) 南無不可思議光(なむふかしぎこう)とありますが、無量寿如来も不可思議光如来も阿弥陀仏の異名です。

※仏を念ずる 次に称名とあることから称名念仏とは異なると解釈できますが、宗旨によって解釈が異なります。

 

 一念の頃(あいだ)ほどに、すなわち極楽世界に往生することをえ、蓮華の中において、十二大劫を満たし、蓮華まさに開く。(その時)観世音・大勢至・大悲(だいひ)の音声(おんじょう)をもって、それがために、広く諸法の実相(じっそう)と、罪を除滅する法を説く。(この人)聞きおわりて歓喜(かんぎ)し、菩提の心を発(おこ)す。これを<下品中生(げぼんげしょう)の者>と名づく。[下品(げほん)の三種類の往生の観想(かんそう)]これを下輩(げはい)の生まるる想いと名づけ、第十六観と名づく。

 

浄土三部経(下) 中村元・早島鏡正・紀野一義訳註 岩波文庫 P77-78

 

諸法の実相 すべてのもののありのままなる真実の姿

 

「この人、苦に逼(せま)られて、仏を念ずるに遑(いとま)あらず。(かの)善友(ぜんぬ)、告げていう、『汝よ、もし(仏を)念ずることあたわざれば、まさに無量寿仏(むりょうじゅぶつ)[の名(みな)]を称うべし』と。」とおりますが、本来の念仏とは、文字通り仏を観想する念仏であったと思われます。

 

観無量寿経の前半には、極楽浄土を観想するための方法として日想観・水観・地観・宝樹観・宝池観・宝楼観・華座観・像観・真身観・観音観・勢至観・普観・雑観の方法が説かれています。観想とは、あまり聞きなれない言葉ですが、特定の対象に向けて心を集中し、その姿や性質を観察することであり、簡単に言えば、心の中で明確にイメージすると言ったことでしょうか。

 

しかし、命が終わろうとしているときに、心を静めて仏を心に思い浮かべるゆとりもないことから仏の名前を称えることを勧め、十念仏を称えた功徳で罪が取り除かれるとされています。ただ、極楽浄土の蓮華(ハス)の花の中に往生できても花が開くまでに十二大劫が必要とありますので、地球最後の日まで蓮華(ハス)の花の中にいると言うことでしょうか。

 

先日、菩提寺のご住職にこのことをお話したところ、蓮華(ハス)の花の中と言っても極楽浄土であることから一切の苦しみはないとされているとのお話でした。そうすると孤独も苦悩ではなくなると言う事なのかと考えていました。

 

いずれにしても観無量寿経を素直に読みますと、極楽往生は簡単な話ではないとの話となります。法然上人や親鸞聖人がこの程度のことを知らないはずもなく、阿弥陀仏の真意は別にあると解釈します。つまり、観無量寿経を素直には解釈されないからこそ、念仏を称えるだけで往生できると説かれています。そのことについてはいずれ機会を改めて取り上げさせて頂きます。

 

今回の「下品中生(げぼんげしょう)」で一応一区切りとさせて頂こうかと考えていますが、極楽往生の方法論が説かれているのは、観無量寿経だけではないことに今頃気づきました。α~ (ー.ー") ンーー

 

阿弥陀経の中にも極楽往生の方法が説かれていますし、無量寿経の中にも説かれていますので、触れておくべきなのでしょうが、次回からは少し他力門の話を離れたいと考えています。

 

 

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極楽往生7(星)

春2番が吹き荒れているようですが、早咲きの梅が咲いていました。

 

 

 

 

 

 

今は桜が春の花の主役ですが、奈良や平安時代には梅の花が主役であったと聞いています。

 

それはさておき・・・・

今回は、下品中生です。難解な話ばかりが続いており、申し訳ありません。

次回の下品下生が最後となりますので、もう暫くお付き合いください。m(_ _)m

 

 

 仏、阿難(あなん)および韋提希(いだいけ)に告げたもう、「<下品中生(げぼんちゅうしょう)>とは、あるいは衆生ありて、五戒、八戒および具足戒(ぐそくかい)を毀犯(きぼん)す。かくのごとき愚人、僧祇物を偸(ぬす)み、現前僧物(げんぜんそうもつ)を盗み、不浄説法(ふじょうせっぽう)をして、慚愧(ざんき)あることなく、もろもろの悪業(あくごう)をもって、みずから荘厳す。かくのごときの罪人、悪業(あくごう)をもってのゆえに、まさに地獄に堕(だ)すべし、命終わらんと欲する時、地獄の衆火(しゅか)、一時にともに至るに、善知識の、大慈悲をもって、ために阿弥陀仏の十力の威徳を説き、広くかの仏の光明の神力を説き、また戒・定・慧・解脱・解脱知見(げだつちけん)を讃(たた)えるに遇わん。

 

浄土三部経(下) 中村元・早島鏡正・紀野一義訳註 岩波文庫 P76-77

 

※毀犯 調べてみましたが、意味不明です。現代語訳では犯し破る意味として訳されています。

※僧祇物 比丘・比丘尼の出家教団に所属する財物・物資のこと

※現前僧物 施主から同一の結界内にいる現前僧たる比丘・比丘尼に施(ほどこ)された生活物資

※不浄説法 自己の名声や利益のために、仏の法を説くこと

※衆火 もろもろの猛火

※慚愧 自分の見苦しさや過ちを反省して、心に深く恥じること

※善知識 出家・在家を問わず、正しい道理を教えて仏道に導く人

※戒・定・慧・解脱・解脱知見 五分法身(ごぶんほっしん)のこと

戒をたもち、禅定(ぜんじょう)に入り、智慧(ちえ)をひらき、すべての煩悩(ぼんのう)から解放されて、心の安らかさを自覚するという五つの功徳(くどく)

 

 この人、聞きおわりて、八十億劫の生死(しょうじ)の罪を除く。地獄の猛火、化(け)して清涼(しょうりょう)の風となり、もろもろの天華(てんげ)を吹く。(その)華の上に、みな化仏(けぶつ)・[化(け)]菩薩ありて、この人を迎接(こうしょう)したもう。一念の頃(あいだ)ほどに、すなわち七宝の池中の蓮華の内に往生することをう。六劫を経て、蓮華すなわち敷(ひら)く。華の敷(ひら)く時にあたりて、観世音・大勢至、梵音声(ぼんおんしょう)をもって、かの人を安慰(あんに)し、ために大乗の甚深(じんじん)の経典を説きたもう。この法を聞きおわりて、ただちに、すなわち無上道の心を発(おこ)す。これを<下品中生(げぼんちゅうしょう)>と名づく。

 

浄土三部経(下) 中村元・早島鏡正・紀野一義訳註 岩波文庫 P77

 

※梵音声 清らかな声

※安慰 人の心をやすらかにし,なぐさめること

※甚深 はなはだ意味深遠であること。神秘であること

 

下品中生が前提にしているのは、悪人と呼ばれる人を前提にしていると思われます。賽銭泥棒をしたこともなく、お寺の金品を盗んだことはないと思いますが、無意識に自己の名声や利益のために、仏の法を説くことはあるかもしれません。自分は仏教に関心もなく、何も知らないことから仏の教えを説く機会などないと言うのも問題かもしれませんが、聞く人間が「???」と言った印象を抱く話をするよりは良いのかもしれません。

 

暫く前に出家すると宣言して所属事務所との契約を一方的に破棄した女優もいましたが、宗教活動に専念する前に社会常識を守るべきであり、一方的に契約破棄して多くの方に迷惑をかけながら宗教活動をすることには疑問を抱きます。また、この教団の教祖は。この女優の守護霊の霊言を出版して出家を決断するように促したとか、この女優の行動は教祖の意志でもあると言うことでしょうか。そうであるならば、信者に社会常識を守らせるべきであり、それができない教祖を信用することはできませんが、そんな教祖が説く教えは、「不浄説法」なのでしょうか。

 

話を戻しますと、今回も危篤時に教えを聞くことが前提になっていますが、生きている間に教えを学ぶことの大切さを説いていると解釈すべきでしょうか?

 

それにしても「六劫を経て、蓮華すなわち敷(ひら)く。」とありますので、極楽に往生したとしても無限とも言える時間を蓮華(ハス)の花の中で過ごさなければならないならば、それはそれで大変かと思います。

 

 

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