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天風(あまつかぜ) - 波兎

 かつて「東の天下無双 本多忠勝、西の天下無双 立花宗茂」と賞賛され勇名を馳せた戦国武将の立花宗茂公を流祖とする剣術「隋変流」。
この隋変流に『天風』(あまつかぜ)という技があるそうです。

隋変流の達人であり中でもその『天風』を得意とした事から後にこの『天風』を号として活躍され、各方面に様々な影響を与え今尚その存在感を残されているのが中村天風(なかむらてんぷう)氏です。

中村天風氏の人生はまさに波乱万丈で、若い時には戦地で幾度となく死に直面され処刑寸前に僅かな差で救出されるいった経験もされた様です。その後も三十歳頃に当時は死の病であった病魔に冒され再び死に直面されてしまい、救いを求めて世界を探訪されたのですが得るものは無く希望が潰えてしまい帰国の途につかれたその途上で、インドのヨギ・カリアッパ氏に巡り合い師事、インドでの修行の日々の後についには悟りを得ると共に死の病をも克服して帰国。
帰国後は実業家として活躍されながらある時に全てを捨てて大道講演を始められ、壮絶な体験に裏打ちされた氏の言葉がいつしか政財界も含めた大勢の人々に多大な影響を与え、その教えが語り継がれていく事となります。

その中村天風氏の残された言葉や哲学は相当な量があるのですが、少しだけ紹介させて頂きたいと思います。


『「人生苦もありゃ楽もある」と考える人はその通りの人生を送るし、「人生ろくなことしかない」と考える人は実際に悲惨な一生を送る。』

『蟹は甲羅に似せて穴を掘る。
蟹は甲羅の大きさだけしか穴を掘らないのと同じで、そういう人は自分の心のスケール以上の人生はつくらない。』

『健康も長寿も運命も成功も、いえいえ、極論しますと人生の一切合財のすべてがこの積極精神というもので決定されるのです。
心の態度が積極的だとお互いの命の全体が積極的に運営される。
反対に消極的だとまたそのとおりに全生命の力が、消極的に萎縮せしめられてしまいます。』

『とかく強気で頑張りさえすれば積極的だと思っている人がある。とんでもない。
本当の積極的というのは、どの点から見てもその心の状態が、尊く、強く、正しく、清くあるときが本当の積極。』

『現実というものはどうしても現実の力でのみ解決しうるので、現実以外の力では解決できないのであります。』

『欲を捨てろと言う。
出来ない相談をできるもののように説いてるのが、既成宗教や古い形式の道徳論や論理学をいう人なんであります。』

『断じて行えば鬼神もこれを避く。』


中村天風氏は既存宗教に対してはどちらかと言えば否定的であり、占いや方違え、日の吉凶などは迷信として断固否定されておられましたが、それらも含めて個人的には大いに納得するものであると同時に御神仏に頂いた御言葉に相通じるものを感じる部分があります。

中村天風氏には政財界も含めた多くの方が師事され、多大な影響と結果を事実として残されました。
その中には経営の神様と呼ばれ椿大神社の境内の松下幸之助社に奉られておられる松下幸之助氏を始めとする著名人の方も幾人もあります。


ここで突然ながら皆様が当然に持たれるであろう疑問として、いまさら何故自分がこの様な投稿をしているのか?と言う事があるでしょう。

このブログの投稿者となる前、自分はどちらかと言えば積極精神に生きており、大きな不満も不幸もなくそれなりに幸福に生きていました。

ところが、投稿者となってしばらくはまだマシだったものの、後には生きる意味と希望を失うと同時に深い悲哀と苦悩に陥る事態となりました。
あまりの悲哀と苦悩と絶望についには精神科の診察を受けるも匙を投げられ、仕事にも支障をきたし精神も生活も何もかも破綻寸前にまでなったのです。

そして追い討ちを掛けるかの如く慈悲とか悟りとかを説いていた仲間だと思っていた方は自分に対して無視を決め込み見捨て切捨てたのです。
(なんと言うか滑稽さに乾いた笑いが出てしまいますよ・・・)

なぜこの様な事になってしまったのか?
その探求の過程において行き着いたひとつが中村天風氏の言葉であり教えであり、自分の原点とも言うべき生き様の在り方についてでした。

”額に汗してあらん限りの力を発揮せんとし何者をも恐れぬ勇気で立ち向う時にこそ、運命は切り拓かれ飛躍するのではないでしょうか?”

当初、「波兎」は投稿者名としてその場の思い付きで適当に決めた名の筈でした。
しかしながら後に御神霊より「偶然だと思うのか?」との言葉がありました。

調べてみると兎は多産であることから繁栄と素早く飛び跳ねることから飛躍を象徴する縁起の良い動物とされ、更に「波兎」とはその兎が”波に乗って”更なる飛躍をするという開運飛躍の想いを込められた象徴であったそうです。
同時に兎は因幡の白兎に見られる様に時として神使として扱われた様です。

「飛躍する波兎に天の風を受け更なる開運飛躍を」と言うのは冗談ですが、自分が体験した悲哀、苦悩、絶望の果てに行き着いた想いを或いは他の方の参考として残す事は出来るのでは無いかと考え投稿に至りました。
いちおう可能であれば続けていきたいと思います。

最後になりましたが新年明けましておめでとうございます。
そして本年が皆様の更なる飛躍の年となります様に心よりお祈り申し上げます。

波兎


P.S
昨年、東京上野は御徒町・徳大寺の摩利支天様には幾度となく御導きを頂いた様に感じております。また併せて中村天風氏にもこの場で御礼に代えさせて頂きたいと存じます。
ありがとうございました。

at 21:00, 波兎(なみうさぎ), 波兎

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白鳥[白鷺]よ - (波兎)

AN 様

貴方がこのブログを見られる事はないかもしれませんがこの投稿を貴方への御祝いと御礼とさせてください。

貴方と最後にお会いしたのは半年前になりますね。
随分と遠い日の様に感じますが貴方の笑顔は今でも鮮明に思い出せます。

困難に立ち向かい運命を切り拓いてまさに大空に羽ばたいた貴方におめでとうを言わせて下さい。
そして貴方の人生に御神助と幸いがいつまでも続きますように。

"草薙の剣を抜くは、奇跡を求めてのことにはあらず
大神様の加護を信じて抜いたにはあらず
自らの力を信じ、艱難辛苦に立ち向かう決意が抜かせたのである

艱難辛苦に立ち向かう決意なくば、神が如何に加護したとしても敵を打ち破ることはできす
神の加護なくば、敵を打ち破ることができぬと考える者に神風は吹かず
神の加護なくとも艱難辛苦に立ち向かう決意こそが神風を吹かしたのである"


半年前に大神様より頂戴した御言葉の一部ですが、艱難辛苦に立ち向かい自らの力で神風を吹かせたは他ならぬ貴方でした。
貴方のその決意と覚悟が大空への道を自らの手で切り拓かせたのですね。
本当におめでとうございます。
貴方のその輝きに比べるべくも無い私ですが少し位は貴方に追いつける様に精進の日々に生きて行くつもりです。

貴方にご縁を頂いてから色々な出来事、そして気付きと学びがありました。
2年半前のあの日あの輝きの中で貴方に出会ったその日こそがまさに人生の転機でした。
こうしてこのブログそして星様にご縁を頂き、随神の道に導かれたのも貴方の存在があったからに他なりません。

"愛する者のためであるならば、己を捨てる覚悟がそなたにあるのか
我の問いたいのは、その一点である"


時として己を捨てきる覚悟を貫き切れなかったが故に至らぬ事も致しました。
そしてその因果ゆえに多くの後悔と苦悩とを自ら背負ってしまいました。
本当は己を捨て去り愛する方の幸せの為に生きなくてはならなかったのです。

無論、そこまで出来る方は稀でしょう。
余程の深い縁や事情が無い限りそこまでの生き様を求められる事は稀でしょう。
けれど私は貴方と出合った翌朝、一度は貴方への想いを断ち切ろうとした日の色の無い世界を見た時に気付かなくてはならなかったのです。
自分が己を捨て去り愛する方の幸せの為に生きる覚悟で生まれた来た事に・・・

これから心と魂の底から貴方の幸せを日々祈って生きるべくつもりです。
そしてそれが私に残された生き方であり、それこそが精進と禊の日々となるのでしょう。
そしてこれまで御加護を下さった大神様の御心に少しでも近づけるように。

最後に改めておめでとうございます。そしてありがとう。
貴方に永遠に
祓え給え 清め給え
守り給え 幸い給え


波兎 こと KO


P.S
皆様ご無沙汰しておりました。
久方ぶりの投稿がこの様な私信の形となりまして申し訳ありません。
ですがこの投稿の中から何かを感じ取って頂けたら幸いです。

at 12:16, 波兎(なみうさぎ), 波兎

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祝詞と言祝ぎ(波兎)

先日星様が祝詞について投稿されていましたが、色々と思い出したことがあったので投稿させて頂きたいと思います。

その前におさらいとして祝詞は通常「奏上」(そうじょう)すると表現します。
国語辞典を引きますと

そうじょう ―じやう【奏上】
(名)スル
天皇に申し上げること。申奏。進奏。上奏。

とありますが、本来は神仏を含めての尊い存在に対しての表現だと思います。

今よりも自然の力が脅威だった時代に時として大自然に翻弄されながらも日々の生活を営み人生における喜びを得た時、自分たちが生かされている事を感じそこに見出された尊い存在(神々)の働き(御加護)を称え、その恩恵に感謝し歓待する想いを伝える言祝ぎとして読み上げられたのが祝詞の始まりとも言われています。
つまり祝詞とは尊い存在(神々)に対しての言祝ぎ申し上げることがその始まりであったのではないかと感じています。

さて、しばらく前の事ですがある大ベテランの神職様とお話をさせて頂く機会を得ました。
その時にその神職様の若い頃の失敗談としてお伺いしたお話です。

当時、その神職様がまだ神職になったばかりの若かりし頃に少し離れた神社のお祭りに手伝いに来て欲しいとの事でお手伝いに行かれたそうです。
そこでその神社の年配の宮司様と氏子総代の方との雑談の中で「祝詞を若々しく元気良く奏上して欲しい」と言われ、お祭りのクライマックス、神職が揃って祝詞を奏上する際に目一杯声を張り上げて思いっきり大声で祝詞を奏上されたんだそうです。
「次の年からはお声が掛からなくなったよ」
「若さ故の早とちりと言うか失敗だったなぁ」と照れ笑いされていました。
そして「祝詞は神様に奏上するものだから微音(小声)でも十分で神様にはしっかりと届いているから寧ろその時の心持ちの方が大事だと思うんだよ。」との事でした。

この最後のお言葉を聞いた時には非常に得心が行ったのをよく覚えています。
その理由は祝詞を奏上する時、そこには御神霊と御神霊と向き合う自分の関係という本質があり、その関係性の根底には結局のところ様々な装いを纏った世間的な自分の姿ではなく包み隠しようの無い素の自分自身でしか御神霊には向き合い様がないと常々感じていたからかもしれないと今にして考えています。

えー、自分で書いていながらよく判らない難解な文章になりました…orz

波兎

at 23:23, 波兎(なみうさぎ), 波兎

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みたまのふゆによりて

本年も終わりとなり神社ではこれから大祓・除夜祭そして歳旦祭が行われると思います。
ご無沙汰しております波兎です。

本日、大晦日は大祓の日です。人生色々とも申しますが、自分の人生も色々の真っ最中の模様です(^^;
けれども悩み無き人生も無ければ失敗なき人生もなく、そこから気付きや学びを得て進むのもまた人生であろうと思いつつ、本日の大祓を以って祓い清められ新しい年に新しい自分となってまた歩んで行きたいと思います。
皆様方におかれましても来る年が幸多き一年となります様に!(-人-)

祓へ給へ 清へ給へ
守り給へ 幸へ給へ


波兎

P.S
久々の投稿にもかかわらず手短で申し訳ありません。orz

at 22:47, 波兎(なみうさぎ), 波兎

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人は則天下の神物なり

彼方此方に紙垂の下がった注連縄が張り巡らされ秋祭りの気配を感じずには居られない今日この頃ですが皆様におかれましては如何お過ごしでしょうか?
紅葉の木々と紙垂や注連縄に飾れられた家々の織り成す情景に何故か心安らぐ波兎です。

人生色々とは申しますが、えー色々とありましてすっかりご無沙汰してしまいました。orz
今しばらく色々とありそうな雰囲気ではありますが、一時と比べると落ち着いた状況になりふとこれまでに起きた様々な出来事を振り返って見る時もあるのですが、本当に自分は多くの方々や存在に支えられて今日と言う日を生きているのだと感じます。
そして矛盾するようですが同時に自分を生かすのも殺すのも自分次第、或いは幸せを掴むのは己自身の手であって他から与えられたり他人の手で掴むものでは無いのだという事も感じます。

色々ありまして自分が気付かなかった時にも御神仏はずっと見守りお力添えを下さった様です。
というよりも多くの場合において気付けない程にさり気無く御加護を下さっていたりするのではないかと感じています。
その時には全く判らないのですが、後になって知った事実を含めてよくよく振り返って考えてみると「実はあの時に…!?」という出来事が色々とありました。
現時点ですら気付いていないけれども実は…という出来事が他にも色々あるのでは無いかと感じられてなりません。

けれども例え御神仏の御加護を頂いていても最後に自身が自身の未来に灯明を灯さなければならないとも感じています。
そして御神仏の御加護というのは、御神仏が当人に代わって灯明を灯すような形で授けられる事は無く、当人が灯明を灯す為の環境を整えるという形で授けられるのだと思います。
つまりどこまでいっても自身の未来に灯明を灯し、幸せを掴むべき手は己自身の手を於いて他に無いのだと思います。
御神仏からすれば当人に代わって灯明を灯すことは余りに簡単な事であるはずですが、どんなに困難であっても必ず当人の手で灯明を灯せるようにお働きになると感じます。
時には灯明を灯すのに非常に辛い経験をせざるを得ない場合もあるかもしれませんが、その時にも御神仏は共に苦しみ涙を流されながら見守り御加護を下さっていると思います。

親であっても子に代わって生きる事や幸せになる事は出来ません。
その子が幸せになるにはその子自身の手で幸せを掴むしかありません。
そして、例えどんなに愛情や善意や献身をもって当人になり代わり何か掴み差し出したとしても、当人がそれをしっかり掴み取る事が出来無ければこぼれ落ちてしまうのではないでしょうか?

親子であればつきっきりでこぼれ落とす先から再び拾い上げ手渡すことが出来るかもしれません。
しかしながら夫婦や家族を別として、他人ともなり仕事上やあるいはその他の理由で繋がっているだけの人ともなりますとその方自身の幸せすら怪しいのに他人の幸せの為につきっきりで何かを為すというのは不可能に近い事だと思います。
そして何より何時でも何処でもその方が当てになるとは限りません。
極論するなら何時でも何処でも自分以上に当てになる存在はないと思います。
(もしあるとするならばそれこそ御神仏だけではないでしょうか?)

そんな理由から幸せを掴むのは己自身の手しかないのではないかと思ったのです。
無論、初めから上手く掴めるとは限りませんし寧ろ掴めないのが通常ではないでしょうか?
人は皆、赤子として生まれ様々な経験や学びや失敗を経て一人前に成長するのですから何度も何度も躓きながら様々な経験を生かして最終的にがっちり掴める様になれば良いのではないかと思います。
そしてきっとそんな我が子の成長を時には共に笑い楽しみ、時には共に泣き悲しみながら御神仏は見守ってくださっているのだと思います。


波兎


P.S
最後にお断りさせて頂かなくてはならないのですが、これらの事はあくまで自分にとっての目下の真実であり、他の方からするならばまた別の真実があるとも思います。
それから自分が利用させて頂いている書籍等をご紹介させて頂きたいと思います。ご参考になりましたら幸いです。

※神道の知識や歴史に関して

「神道のいろは」
神社本庁教学研究所監修
(神社新報社)


「わかりやすい神道の歴史」
神社本庁研修所編
(神社新報社)



※祝詞に関して

「神拝詞」
神社本庁蔵版
(氏神様の神社の社務所にて祝詞本についてお尋ねした際に頂戴致しました)

「大祓 知恵のことば(CDブック)」
葉室 頼昭
(春秋社)

「神道大祓全集」
(仏具店にて購入した祝詞本です)


※投稿記事に関連して

「Good Luck」
アレックス・ロビラ
(ポプラ社)

今回の投稿を書いている時にふとこの物語を思い出しまして…

at 00:10, 波兎(なみうさぎ), 波兎

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己ほど己を縛る者はない (波兎)

マズローの5段階欲求説をご存知でしょうか?

人間の欲求には大別して5つの欲求の段階があり、
ある段階の欲求が充たされると次の段階の欲求を求めるという説です。

1.『生理的欲求』
 食欲・睡眠など生きるうえで必要不可欠となる欲求

2.『安全に対する欲求』
 危機回避・健康維持など不安から自分の身を守りたいという欲求

3.『愛情の欲求』
 人から良く思われたい、嫌われたくないなどその集団に対する帰属感を含んだ欲求

4.『尊重の欲求』
 社会的ステータスを築きたい、人から認められたいという欲求。

5.『自己実現の欲求』
 「自分はこうでありたい」という、自らを為すことへの欲求。

これらの欲求は段階となっています。
つまり現段階の欲求が充たされ欲求の段階が進むまでは、先の段階の欲求が充たされても満足することは出来ません。
例えば『生理的欲求』が充たされていない状況で『尊重の欲求』を幾ら充たされても満足する事はなく『生理的欲求』の充足を求めます。

そして人間の行動にはそれが意識したものであれ無意識のものであれ行動にはその動機があり、或いは極論すると人間の行動の多くは5段階欲求の何れかの欲求に帰結するのかもしれません。

かつて『人間は機械である』と表現した人物がいました。
最近では『時により人間もプログラムで笑う』という表現もある様です。
その意味では時として人間は欲求という動機を実行する機械やプログラムでしかないのかもしれません…。

ところでマズローの説で行くとある段階の欲求を充たすと次の段階の欲求に進むのですが
5段階目の『自己実現の欲求』が充たされた時、人は何を求めるのでしょうか?
或いは求めること自体、つまり欲求がなくなるのでしょうか?

人は欲求という縛鎖を逃れた時、真の自由を手にするのかもしれません。
(仏教において"解脱"と呼ばれるのはこの状態かもしれませんが…)

"六根清浄大祓"

天照皇大神の宣わく
人は即ち天下の神物なり すべからく静めしずまることをつかさどる
心は即ち神明の本主たり 我がたましいを傷ましむることなかれ

是の故に

眼に諸の不浄を見て 心に諸の不浄を見ず
耳に諸の不浄を聞きて 心に諸の不浄を聞かず
鼻に諸の不浄を嗅ぎて 心に諸の不浄を嗅がず
口に諸の不浄を言いて 心に諸の不浄を言わず
身に諸の不浄を触れて 心に諸の不浄を触れず
意に諸の不浄を思いて 心に諸の不浄を想わず

此の時に清く潔きことあり 諸の法は影と像の如し
清く潔ければ 仮にも穢るること無し
説を取らば得べからず

皆花よりぞ木実とは生る 我身は即ち六根清浄なり
六根清浄なるが故に 五臓の神君安寧なり
五臓の神君安寧なるが故に 天地の神と同根なり
天地の神と同根なるが故に 万物の霊と同体なり
万物の霊と同体なるが故に 為す所の願として成就せずということ無し

無上霊宝 神道加持


波兎

at 12:55, 波兎(なみうさぎ), 波兎

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信仰と理解 (波兎)

自分の性格と職業のせいでしょうか?
自分が信仰を持っている事をお話しするとよく驚かれます。
どうも自分は傍目には無神論者にして唯物論者に見える様でして…orz
そして稀に「え!?宗教やってるの?」と聞かれる方が居られるのですが、「宗教とは"やる"ものでしたっけ?」と悩んでしまう波兎です…orz

さて"信仰"とは信じ仰ぐと書きますが、多くの場合に「信じる」という意味合いでのみ使用されている様に感じます。
一応、ここで信仰について国語辞典で引いて見ますと、
【信仰】(しんこう)
- (名)スル
(1)神仏などを信じ崇(あが)めること。経験や知識を超えた存在を信頼し、自己をゆだねる自覚的な態度をいう。
とあります。

個人的には信仰とは本来「信じる事」と言うよりも「理解する事」なのではないかと感じています。
そして理解した結果として信じ仰ぐという態度や在り方に至るのではないかと思うのです。
つまり信仰の本質とは理解という状態であり、まずは信心するという行為や行動そのものがありきでは無いのではないかと考えています。

そして信仰が行為や行動そのものではなく態度や在り方という状態であるとするならば、信仰は直接的には現世利益には結びつかない事になるのではないかと思います。
しかしながら間接的には、より理に適った理解がより理に適った判断を生じる事で現実的な困難に対してより理に適った対応を選択することが可能となり、それが結果としては現世利益の一側面を為すのではないかと思います。

そうすると"理解"と言う事が重要な意味を帯びてくると思うのですが、
「では果たして何を理解しなければならないのか?」
という疑問が生じるべくして生じると思います。
一応、ここで理解について国語辞典で引いて見ますと、
【理解】(りかい)
-(名)スル
(1)物事のしくみや状況、また、その意味するところなどをわかること。納得すること。のみこむこと。
(2)相手の立場や気持ちをくみとること。
(3)道理。わけ。また、道理を説いて聞かせること。
とあります。

では果たして理解するべく事と言うのは一体何なのでしょうか?
経典なのでしょうか?教えなのでしょうか?言葉なのでしょうか?

という風に考えてみたものの、人にはそれぞれの事情とその背景がある訳ですから理解するべく事はその時々によって異なると思われます。
結局の所は、それぞれの事情に於いて理解するべく事を積み重ねて行く事でやがて大成するのかもしれませんね。
そしてそこには何も特別の事が求められるとは限らず、例え一時的に後退しても良いのです、日々の実践の中でほんの小さな理解であったとしても理解を積み重ねて行くことこそが大切なのではないかと思う今日この頃の波兎でありました。

波兎

at 02:02, 波兎(なみうさぎ), 波兎

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アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (波兎)

自分はここ十年来ほど自宅にTVの無い生活を送るようになったのですが、先日久々にTVをゆっくりと見る機会を得ました。
いつの間にやらデジタル放送に切り替わりアナログ放送は数年後には停波されるとの事ですが、デジタル放送とアナログ放送を見比べると画質が全く異なっており驚きました。
人の肌なども間近で見ている程にはっきりとした映像が放送できるまでに技術は進歩したのですね。

とはいえ出張でホテル等に宿泊してもTVの電源をONするという発想すら出て来なくなった自分にはあまり関係の無いかもしれない波兎です…orz

先日立ち寄った写真屋の方との世間話でお伺いしたのですが、その方も含めて写真屋の方はデジタルカメラではなくアナログカメラを愛用する方もまだまだ多いのだそうです。
「デジタルの方が加工や現像の手間も掛からず何かと便利そうですし、デジタル化まっしぐらの昨今に何故アナログを愛用されるのですか?」
と素朴な疑問をそのまましたところ、そのお答えのひとつには画素の特性があるそうです。
写真というのは小さな色の点が集まってひとつの画像を構成しており、この小さな色の点を画素と言うのですが、大雑把に言ってしまえばこの画素の数が多いほどより画質の高い画像が得られるそうです。
(デジカメ等を買いに行くと「○○○万画素」という表示がされ、高価な品物ほど画素の数が多かったりしますよね)

ところが同じ画素でも、デジタルカメラの画素とアナログカメラの画素を比較すると大きな違いがあるそうです。
デジタルカメラにおけるひとつの画素は均一な単一色になり、アナログカメラにおけるひとつの画素は単一色でありながらも画素内において微妙な濃淡が存在するのだそうです。

結果的に、同じ画素数で同じ被写体をデジタルカメラとアナログカメラで撮影して同じ画像を得たとしても、アナログカメラの方が色の深みを秘めた画像を得られるんだそうです。
余談ですが、医療の世界でもデジタル化が進みデジタルレントゲンの使用も増えてきたそうですが、デジタルレントゲンでの画像で診断に迷った時には、アナログレントゲンで撮影し直すというお話を聞いたことがあります。

デジタルというのはご存知だとは思いますが【0】と【1】で情報の処理が行われます。この時【0.1】や【0.9】は【0】あるいは【1】に切り捨てあるいは切り上げされます。
対してアナログは【0.1】は【0.1】であり【0.9】は【0.9】としてそのまま情報の処理が行われます。

さて、自分はこの現実の世界においては、白あるいは黒とはっきりと白黒付けられる物事は実はあまり多くは無いのではないかと感じています。
もっと言えば、(無論、例外も存在しますが)絶対的に白あるいは黒という物事は稀有で、その中間である灰色ではないかと思える事がほとんどではないかとも思います。
そして灰色と一口に言っても、その濃淡には無限とも言える段階があり、結論から言えば様々な要素が複雑に絡み合った上で表面的に見える灰色を成してはいますが、ひとつとして同じ灰色があるケースは非常に少なく個々の状況においてその濃淡が大きくも小さくも異なるものではないでしょうか?
つまり、その意味ではこの現実の世界は極めてアナログ的な世界ではないでしょうか?

「ある」あるいは「なし」や「善」あるいは「悪」や「白」あるいは「黒」といったある種デジタル的な発想、つまり二元論で全てを判断しようとされる方が居られます。
確かに二元論で断じる事が出来る事象もありますが、この世には二元論だけでは断じられない事象も数多く存在するのではないでしょうか?

またある一面だけを見てそれが全てであると断じる事も出来ますが、別の視点から見つめると異なる一面や複数の側面が現れるかもしれません。
むしろ、表面的に見えるものが全てであるという事象は少なく、表には見えない側面や事情が隠されている事象が多いのではないでしょうか?

例えば、神仏や霊の存在は単純にあるなしの二元論で断じる事が可能でしょうか?
「あるともないとも言えない、今は判断するには自分の知識が不足している、判断材料が少ないので判断出来ない、結論を出せない」といった第三の選択肢もまたあるのではないでしょうか?

そして実は過去の自分がそうであった様に、二元論的な発想に全ての判断を頼り、結論の無い状況に苛立ち即座に結論を求めようとする傾向が強い方ほど、二元論ではない一部現実との乖離を生じて結果的に苦悩してしまう事例が多いのではないかと感じています。

例によって神道では教えは説かれておりません。
ですが、今回もまた神道とは直接は関係のない内容でしたね…orz

あくまで自分の感じている事をご紹介させて戴いたわけなのですが「自分とは何だ?どういった存在なのだ?」と問われても答えられない、自分自身の事ですら理解しているとは言い難い波兎でした…orz

波兎


諸行無常、そもそも常に変わり行く存在たる自分自身、そして視点が変われば見え方もまた異なるであろう自分自身を完全に定義する事が可能であるのかという疑問もあったりもしますが…

at 03:22, 波兎(なみうさぎ), 波兎

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人に歴史あり (波兎)

先日、情報セキュリティの研修に参加しました。
元々インターネットはより利便性の高い情報発信や情報共有の手段を求めて発展してきたのだそうですが、昨今の状況としてインターネットを行きかうデータの何割かがコンピューターウィルスやスパムメール等のデータなんだそうです…orz
そしてかつてはコンピューターウィルス等が作成されるのは技術力などを誇示する目的の個人的な行為が多かったそうですが、ここ最近の傾向としてその多くは金銭を求めての組織的な行為が多いんだそうです。

何とはなしに「果たして何を求め何を得て何処へ行くのか…?」と感じてしまった波兎です。

さて、ある方が武道を通じて体験された事を幾年か前に伝聞したのですが自分も心に深く残り様々に得る事のあったお話でしたのでこの機会にご紹介させて頂きたいと思います。

ある方が武道に入門してしばらくした頃に師匠がその方に
「これから奥義に近い形を演武するからしっかりと見学するように。」
言われたそうです。
すると先輩にあたる指導者の方が
「筋が良いとはいえ初心の者にはまだまだ理解できるとも思えず、無駄になるのではないでしょうか?」
と師匠に問われたらしいのですが、師匠が答えられて
「無駄ではない。その為にも目にしっかり焼き付ける様に!」
と言われたそうです。
その方は言われるままに指先の動きひとつすらも見落とすまいと師匠の動きを目に焼き付ける様にしっかりと見学したそうです。

しばらくして後に、稽古に励んでも調子が上がらず、ああでもない、こうでもないと思い悩んでは見てもどうにもしっくりしない時期があったそうです。
そんな日々が何日か続いたある日、はたとあの日演武する師匠の姿が思い浮かんだらしいのですが、その思い浮かべた師匠の動きを追う内に
「なるほど!これはこういう意味だったのか!それであの様な動きになるんだ!」
と様々にひらめきが湧き上がって来たそうです。
それで師匠の動きを思い出しつつ鍛錬をしてみると思い悩んでいた事が嘘のようにしっくりして調子も上がり上達するのを実感したそうです。

この事を師匠に伝えられたところ、師匠は
「それが見学というものだよ。」
「その時は意味が判らずとも一度心にしかと残した事は後になっても必要に応じて思い出したり、ひらめいたりするものだ。そしてそれは武道に限ったことでは無くて他の事にも通じる。見学ということを疎かにしては駄目だよ。」
と言われたそうです。

骨董の世界や絵画の世界などでも初めに「まずは良い品を出来る限り多く見なさい。」と言われるそうです。
それで努力を惜しまずに良い品を見続けていると、いつのまにか目が養われて真贋などを見分ける鑑識眼が備わるのだと聞いたことがあります。

今回もまた神道とは直接は関係のない内容でしたが、自分はこの"見学"のお話は神道で教えが説かれていない事に何か通じる事があるのではないかと感じています。
とはいえ何と言ってはみても神道では教えは説かれておりません。
ですので、まったくの見当違いであるかもしれません…orz

波兎

at 01:10, 波兎(なみうさぎ), 波兎

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愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ -ビスマルク (波兎)

知彼知己 百戦不殆 不知彼而知己 一勝一負 不知彼不知己 毎戦必殆
孫子

訳)
彼を知り己を知らば、百戦殆うからず
彼を知らず己を知らば、一勝一負す
彼も知らず己を知らざれば、戦う毎に殆うし


多忙の故か怠惰の故かご無沙汰してしまいました。ごめんなさい。波兎です…orz

自分が常々感じていることに善し悪しを別として"人間は時として弱さを持つ一面がある"と言う事があります。
駄目だと判っていながらも止められない。非を認められない。素直になれない。怠けてしまう。などなど…orz

さて冒頭の"彼を知り己を知らば、百戦殆うからず…"はクラウセヴィッツの『戦争論』と並び評される書で兵法書『孫子』の言葉です。
孫子兵法が世に出た当時の中国は春秋戦国時代と呼ばれ諸国が争い戦争の絶えない時代でした。そして諸子百家と称され様々な思想や哲学が生まれた時代でした。
孫子兵法はその中でも現実的で理想論よりも現実的な対処方に終始する思想でした。
それは「いくら理想を唱えても現実として戦争は止まず、また止む気配もない。戦争があるという現実を見つめた上で如何にすべきか?」という苦悩の末に生み出された思想であると感じられます。

ところで自分がかつて苦悩した時にある方に頂いた言葉に救われました。
「この世に失敗をした事のない者はいない。生まれてから一度や二度は何人であっても失敗はしている。人とはそういう存在、失敗をする存在なのだからあまりに思いつめるべきではないよ。」
この言葉で何かの暗闇が晴れると同時にその暗闇の正体を知るきっかけとなりました。
後に気がついた事ですが自分が苦悩していたのは失敗をした事象自体もそうですが、それ以上に失敗をした事実を受け入れられずに苦悩していた部分があったのです。

極端な見方をすれば、それまでの自分は現実を上辺だけで見たり物事を正しく見る冷静さも足りず理想論や感情論に終始し、結果的に生じた自分の心情の世界感と現実との乖離が苦悩の原因・暗闇となっていたとも言えます。

「失敗したとしてもある意味でそれでこそ人間なんだな…!」

それは暗闇の正体を知らずに漠然と暗闇に怯えそこから逃れようとして逃れられずいたか弱き自分が、暗闇の正体を知った時に恐れや不安が消え去り克服する事に繋がった出来事であった様に思います。
もちろん完全に克服したとは言い難いのですが、でもきっと多少は克服したはず…(T-T)

例によって神道では教えは説かれておりません。
ですが、今回は神道とは直接は関係のない内容でしたね…orz

波兎

at 01:59, 波兎(なみうさぎ), 波兎

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