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先入観の危うさ11(星)

長く投稿できない状況が続いていましたが、殆(ほとん)ど書き終えた記事が幾つか眠っています。

そこで、少しばかり書き改めて投稿することにします。

 

え、・・手抜きとの声が・・・・

 

( ̄へ ̄; ムムム

 

良いんです。

管理人の気分で書いてるんです。

 

<( ̄^ ̄)>

 

それはさておき・・・・


多くの人が先入観で判断してしまう理由は、答えのないことに対して不安を抱くことが原因なのだろうかと考えるようになりました。このシリーズの最初の投稿で取り上げました浮気の話でも、自分の亭主が浮気しているのではないかとの不安感から日常とは異なる僅かな変化を浮気の証拠として考えてしまう理由ではないかと考えました。その不安感の原因を更に考えますと、失うことに対する恐れであると言えます。

失う事への恐れとは、執着であると言えます。執着を断つことは、お釈迦様の根本的な教えであることから、お釈迦様が否定した六師外道の話や捨置答を取り上げてみましたが、どうも論点がぼやけしてしまった気がしています。お釈迦様の答えは、無用な議論などすることなく、修業に励めと実に明快な答えとも言えますが、それは悟れと言われているのと同じであり、迷いの中で生きている我々には、門前払いを受けたのと同じ気分になるのではないかと思います。

悟れと言われても俗世の世界に生きる凡夫にとっては至難の業であり、とても出来ない話です。管理人にしても、精神世界に興味を持った理由は、自分の身の回りに起きている不可解な現象が何かを知りたかったことが理由であり、平凡でも小さな幸せを求めていただけでした。お釈迦様ならば、悟りを得ることですべての問題は解消すると言われるのかもしれませんが、出家して修業しなければ、問題が解消するとしても出家できない人間はどうなるのかとの疑問が消えませんでした。
 

その意味では、形而上学的な問いに対して答えることを拒絶したお釈迦様の立場に近いのですが、少しばかり異なります。そのことをどのように表現すれば良いのかと考えていたのですが、図解クラウゼヴィッツ「戦争論」入門を読んでいた際に下記のような一文を見つけました。
 

◎理論は観察たるべく、教養たるむべからず
 特筆すべきことは、彼はその研究にあたって、観念論を排し現実を重んじたことである。すなわち、まず弁証法的な思考によりある一定のルール/理論を組み立て、そのルールを戦史の実例をあてはめて検証するという演繹と帰納をフィードバックさせる方法をとった。彼はこのことについて「理論は観察たるべく、教養たるべからず」との名言を残している。

図解クラウゼヴィッツ「戦争論」入門 是本信義著 P20

 

実は管理人が心霊現象について考える際の思考は、この考え方に似ています。管理人の場合には、経験則などから仮説を組み立て、実例に当(あ)て嵌(は)めて検証する方法を基本としています。勿論、検証と言っても心霊現象が検証不可能なことであることから限界はありますが、心霊現象に限らず、仮説と検証の繰り返しが基本的な考え方です。クラウゼヴィッツの「戦争論」は軍事学の世界においては有名な名著であり、管理人がそのクラウゼヴィッツの思考に及ぶはずもないのですが、基本的な考えは同じです。


例えば、「男には誰にでも浮気願望がある」と言う人は少なくありません。確かに世の中には浮気をする男性は少なくなく、浮気や不倫の話を聞くことは少なくありませんが、それを根拠に「男には誰でも浮気願望がある」と断言は出来ないと思います。管理人の友人の中にも風俗に興味もなければ、浮気にも興味のない友人も何人かいます。その逆に浮気を繰り返している友人もいます。勿論、どんなに深い付き合いをしていても相手の心の中をすべて知ることは出来ませんが、浮気願望があるとは思えない友人も存在しています。そのため、「男には誰にでも浮気願望がある」との仮説は信頼に足るとは思えません。

また、商売において大切なことは〇〇であると強い信念を持つ経営者は少なくありませんが、管理人からするならば世の中に数多くある成功論の一つにしか過ぎないと思う事が大半です。良心的な商品を低価格で販売したとしても売れるとは限らず、お客様本位でサービスを提供していても成功できるとは限りません。ある地域で成功を収めた方法論が別の地域では失敗することは珍しいことではなく、10年前ならば成功の鍵となった方法も衰退の原因となることも珍しくありません。

例えば、あるジュースの製造者がここまで品質の高い材料を使用しているのにどうして売れないのか分からないとの話が新聞に記載されていたことがありました。そのジュースを買ったとはありましたが、美味しいけど価格を考えると次はないとの印象しかありませんでした。つまり製造者は最高の品質であり、低価格と考えていても、消費者からするならば、それだけの価値を認めることが出来なかったと言えます。この場合には、これだけの品質の高い材料を使用しているとの自負が判断を誤らせたと言えます。

また、商品の種類が多過ぎるとお客はどれを買うべきか迷い、結局どれを買うべきか決められないとの法則がありますが、消臭剤の場合には香りの種類が多い方が売り上げが伸びる法則があると言われています。この2つの法則は明らかに矛盾する法則ですが、どちらも間違いではありません。つまり一つの法則が正しいとしてもそれが常に正しいとは限らないと言えます。しかし、世の中の多くの人は、成功体験があれば、その成功体験から導き出せる法則が、絶対的な法則であると信じる傾向があります。

まとめますと、先入観を持つ理由は、誤った情報や不安感であると言えますが、先入観を持つと判断を誤りやすくなります。それを防ぐためには、観念論に縛られることなく現実を直視すべきと思われます。クラウゼヴィッツの「理論は観察たるべく、教養たるべからず」は、観念論だけで考えることの危険性を警告する言葉となります。しかし、困ったことに多くの人は、観念論に陥っていることに気付かないと言えます。

 

その理由を考えますと、自分の限られた体験や狭い視野の中だけで考えていることが原因ではないかと思います。自分とは全く異なる価値観、自分とは全く異なる思考が存在していることを前提にして考えることは楽ではありません。そのため、観察と分析が重要となりますが、自分の思考の枠に囚われていたならば、何の意味もありません。例えば、元暴走族の方が社会的に成功されても考え方であっても暴走族の思考から抜け出せていないと感じたことがあります。それだけ先入観を排除することが難しいと言えますが、常に先入観を捨てて客観的に分析することを心掛ける必要があると言えます。

 

 

ご相談は こちらから

at 14:25, 星 良謙・子授け地蔵, 心の健康

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感情論の弊害(星)

年齢を重ねますと時間が過ぎるのが早く感じます。

 

気付けば一日が終わっている印象があります。

 

(@@;))))〜〜(((((;@@) うろうろ

 

あたふた (((^^;)(;^^) ))あたふた

 

「要領が悪いからだろう」との指摘が・・・・

 

これも加齢が原因なのでしょうか?

 

「昔からだ」とのトドメノ言葉が・・・

 

落ち込む管理人

 

o( _ _ )o ショボーン

 

それはさておき・・・・

 

管理人はゲームとは無縁な人間なのですが、ゲーム配信の動画を見ることがあります。普段は深く考えることもなく、息抜き程度でしか見ていませんが、「デトロイト ビカム ヒューマン 」に関してだけは、少し思うことがあり、取り上げてみたいと思います。このゲームは、2018年5月25日に発売され、2019年12月12日にでPC版も配信開始されたことから既に古いゲームではありますが、かなり人気のあるゲームのようであり、かなりの人がゲーム配信をしていました。物語としてはアンドロイドが人間的な感情を持った設定であり、近未来のSFと言ったゲームです。選択肢によって数多くの分岐点があり、ストーリーの結末も数多くある作り込まれたゲームであることが人気の原因かと思います。

 

ゲームの配信者の多くは、ゲームの主人公に感情移入することは当然かとは思いますが、感情移入するとゲーム内の設定に矛盾があることにこんなにも気付かないのだろうかと思いました。管理人は、あまり感情に翻弄されない人間なのかとは思いますが、ゲームを客観的な立場から冷静に見ていることからかゲームの世界観があまりにも矛盾だらけであり、そちらの方が気になって仕方がありません。このゲームのファンは数多くいると思いますので、具体的な指摘は控えますが、こんなことが気になるのは管理人だけなのだろうとは思っています。

 

これはこのゲームに限られた話ではなく、アニメなどでもやはり気になることが少なくありません。そのため、大人気の作品でもどこか冷めて目で見ていることが多く、感情移入できる作品の方が少ないと言えます。しかし、リアルな作品でなければ楽しめないかと言えば、そうでもなく荒唐無稽な作品も好きです。その違いは作品の中でしっかりとした世界観が作られているならば、現実世界では有り得ないことであってもフィクションとして楽しんでいます。

 

管理人が気になるのは、感情移入が激しくなると冷静な状況判断ができなくなるのではないかと言うことです。主人公は可哀そうなのだから非合法な行為をしても許されると考える人が多いのではないかと思います。これに似たことは、現実世界でも見られることです。アメリカでは不法移民が問題となっていますが、不法移民の入国を認めるべきだとの声があります。しかし、密入国は不法行為であることが忘れ去られているのではないかと思います。

 

密入国者を手引きする業者の存在が犯罪の温床になっていることや不法就労などの犯罪行為は、密入国者は可哀そうだとの声の前には忘れ去られるのでしょうか。可哀そうならば犯罪行為をしても許されるのかとの疑問には誰も答えてはくれません。移民を希望するならば、移民を申請して正規の手続きをすべきなのにそのことが忘れ去られている気がします。

 

更に密入国をする人々は、貧困国が多いのですが、本当に貧困な人々は密入国をするための資金がなく、密入国をする人は貧国国の中で比較的裕福な働き手です。そのため、密入国者を送り出している側の国からするならば、国を発展させるための貴重な人材が流出していることになります。そのため、不法移民の問題は、不法移民を受け入れている先進国だけの問題ではなく、密入国者を送り出している側の国にとっても深刻な問題です。

 

これは国内の過疎化の問題でも同じです。若者が大都市に移住して田舎の人口が減少しているのと同じことです。これと同じことが国際的に起きていると言えます。同じ国内であれば、転居することに問題はないとしても国家間の人の移動となれば、貧困国は人材が枯渇することにもなります。しかし、それらの問題は無視され、全て可哀そうな人々だとの感情論だけで不法移民を受け入れるべきだとの声が大きいようです。

 

管理人にはこれらの人々が感情論だけで物事を考え判断しているとしか思えないことがあります。東北の震災の後に被災地の復興が始まった時期に支援物資が震災の復興を妨げたとの話もあります。これは地元の商店が季節商品を仕入れたところ、同じ商品が支援物資として無料で地域の各家庭に配られたことから仕入れた商品を全て売れ残ってしまったとの笑えない話です。感情論だけで考えることは思わぬ落とし穴があることを教えてくれる話ではないかと思います。

 

冒頭のゲームの話ではありませんが、感情だけで考えていると冷静な視点を持てなくなるのではないかと思います。その理由を考えますと、感情だけで考えるならば、思い込みから決め付けで考えるようになり、冷静な思考を持てなくなるのではないかと思います。最初に結論があり、理由は後から考えるでは、冷静な判断や客観的な見方ができるはずもありません。しかし、この感情論が与える影響は大きく、世の中の多くの人は感情論に翻弄されているのではないかと思います。

 

会議などにおいても勇ましい意見が会議の主流意見となりやすいのですが、この感情論は現実を無視していることが少なくありません。現実を冷静に分析するだけでなく、議論を重ねて適切な対策を用意した後に指揮を高めるために部下を鼓舞するために感情に訴えかけるのであれば良いのですが、感情論だけが先行して現実を無視して意気込みだけでは、待っているのは悲惨な結果になる可能性は高くなります。これは、管理人が何度も見た光景です。感情は人の心を動かすことを否定しませんが、感情に翻弄される人が多すぎることを危惧しています。

 

 

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at 10:43, 星 良謙・子授け地蔵, 心の健康

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分かった気になることの危うさ(星)

前回の投稿の後でブログを確認・・・・

 

( ・_・)ん?

 

日付に空きが・・・・

 

(°°;))。。オロオロッ。。・・((; °°)

 

仕事の合間にブログを書いていますが、投稿するのを忘れていました。

 

m(_ _)m

 

それはさておき・・・・

 

10年近く前の話ですが、新興宗教の信者に教団が出版されている本を拝見させてもらったことがありました。その際にどこまで本心を言うべきかを迷いました。その方は、その教団の教えを正しいと信じ、教えを勉強され、実践しようとされていることから、その教団の教えを頭から否定するのも失礼な話となります。少し考えてから色々な宗教の教えの繋ぎ合わせている印象があるとお伝えしました。世界には様々な宗教があり、それぞれの宗教が独自の教えを説かれていますが、それらの教えの一部分だけを繋ぎ合わせた印象を持ちましたので、そのことをお伝えしました。これは新興宗教全般に見られる傾向と考えています。

 

自動書記が始まった当時の事ですが、ある人から「悟りとは何だろうか?」と聞かれたことがありました。それは哲学的な探求と言うよりも素朴な疑問とでも言うべき疑問でしたが、翌日から各宗旨の神霊から悟りについての話が続き、閉口しました。神霊からするならば、「悟りとは何か」の問いが発せられたのに、その問いから逃げることなど許されないと言った気概であったようですが、次々に悟りについて説かれたことから疲れ果てたことを覚えています。

 

その頃に感じたのは、悟りと言っても、その内容は同一ではなく、100人に問えば100通りの悟りがあり、何が優れた悟りであり、何が劣った悟りであるとは言えないことでした。例えば、浄土真宗の教えは単純明快な教えであると言えます。そのため、天台教学のような難解な教えではありませんが、浄土真宗の教えが天台宗の教えに比べて劣っているかと言えば、そうとも言えません。単純明快な教えではありますが、宗祖親鸞聖人の境地に到達するのは凡人には到達することなど不可能なことであり、どうしたらそんな境地に到達できるのかと思うしかありません。

 

また、曹洞宗の教えにしてもひたすらに坐り続けることを重視することにおいては単純明快とはいえますが、神霊の説かれる話は自由自在の説法であり、高い境地に到達しているだけでなく、仏教を深く理解しているとしか思えない内容でした。それは何も仏教の神霊だけでなく、神道の神霊でも同じであり、体系的な教えは残されていないのに説かれた教えの内容は、高い悟りの境地と何も変わらないのではないかと感じました。

 

それまでは宗教書は少しばかり読んではいましたが、数冊の入門書程度のことであり、専門書とは無縁でした。そんな人間に教えを説くとなれば、神霊も大変だったのではないかと思います。難しい話を分かり易く説くには、余程分かっていないとできないことであり、それに比べますと難しい話を難しく説くことは簡単とは言いませんが、難しい話を分かり易く説くことに比べるならば遥かに容易なことです。

 

この難しい話を分かり易く説くのと似ているようでいて全く違うのが、難しい話を分かったように説くことです。例えば、浄土真宗の教えは単純明快な教えではありますが、教えを厳格に守るならば非常に寛容さのない教えであり、カルトと言えるような教えとなります。占いやまじないは一切禁止、他の宗旨のお寺や神社にも参拝しない、先祖供養もしないなど危うさの秘めているとも言えるような教えです。そのため、浄土真宗の門徒は、自宅には神棚を祀るべきではないと言った話にもなります。

 

しかし、占いやまじないに頼るべきではないとの教えや他の宗旨のお寺や神社に参拝すべきではないことも浄土真宗の教えであることには違いはありません。そのため、これらのことを厳格に守っているのが熱心な浄土真宗の門徒なのかと言えば、疑問が残ります。浄土真宗の教えにおいて何が一番大切なことなのか忘れ去られている気がします。親鸞聖人が阿弥陀仏への帰依を重視されましたが、他の宗旨のお寺や神社を批判もされていません。

 

また、親鸞聖人の教えと言えば、歎異抄を思い浮かべる方も多いのではないかと思いますが、歎異抄を通して親鸞聖人の教えを学ぶことは親鸞聖人の教えを誤解する危険が高いことから明治時代まで浄土真宗においては禁書に近い扱いを受けていたことが忘れ去られていると思います。個人的にも歎異抄は異端を嘆く書であることから親鸞聖人の教えを学ぶには不適切な書であると考えています。

 

世の中の多くの人は、分かり易い教えを求めますが、世の中に溢れているのは、分かったような気にさせてくれる教えです。その多くは、教えを説く人が理解している範囲で教えをいます。つまり教えの表面的なことだけを理解して本質は何も理解してない人が説く教えは分かり易いと評判になることも多いようです。つまり教えを説く人も教えを聞く人も表面的な内容だけで理解して本質は何も理解していないと言えます。

 

その典型が冒頭で紹介した新興宗教の本でした。確かに神仏の教えは書かれていますが、全て浅い段階の理解であり、教えの本質は何も理解していなとしか思えない内容であり、神仏の教えではなく道徳論に終始している印象がありました。読者は神仏の教えとは名ばかりの道徳論を学んでいることから道徳論の範囲で内容を理解することになります。そのため、神仏の教えを分かった気になっているとしても学んでいるのは道徳論となります。

 

これと同じような話は、宗教界に限られた話ではなく、政治や経済など数多く見受けます。自分では何も取材せずに各社の新聞だけを読んで政治や経済を語る評論家も数多くいるとの話です。また最近はやりのユーチューバーにしても事情は大差なく、本質を何一つとして探究することもなく、受け売りの情報だけを流しているネット番組もあります。そんな番組が分かり易いと評判になり、各界の専門家が解説している番組は内容が難しいと敬遠される傾向があります。

 

そのため、分かり易いと思う場合には、本当に難しい内容を分かり易く解説しているのか、表面的な内容を解説とているだけなのかを一度疑う必要があると思います。残念ながら感情論でしか物事を考えることができない人が多すぎる気がしています。そんな危うさを感じながら記事を書いています。

 

 

ご相談は こちらから

at 14:14, 星 良謙・子授け地蔵, 心の健康

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教えの違い(星)

何とか三日坊主にならずに投稿を続けています。

 

<(`^´)> エッヘン

 

威張るようなことでもないのですが・・・・

 

本当はストレス解消だろうと誰かの声が・・・

 

↑(/>↑<)/↑グサグサ

 

うろたえる管理人 orz

 

それはさておき・・・

 

前回の投稿では、協力関係を構築することの難しさを利害関係の観点からの考察をご紹介しましたが、今回は理念の違いから協力することの難しさの考察をご紹介します。その一例とて臨済宗と曹洞宗の禅の違いをご紹介します。何分にもそれぞれの宗旨の教えの根幹とも言える内容であることからお寺のサイトに掲載されていたお話を引用させていただきます。

 

公案禅とは
曹洞禅はさておくとして、臨済禅ではいわゆる「公案」といわれる問題を師家(しけ)から与えられ、それに取り組むことによって「見性成仏」(けんしょうじょうぶつ)の実を挙げることを目指している。公案とはすなわち、歴代の祖師方がそれによって大悟された「機縁」である。

師家の室内に参禅して、知解分別(ちげふんべつ)では到底答えることのできぬ公案の解答(これを「見解」〔けんげ〕という)を呈示して、師家と問答することが、俗に「禅問答」と呼ばれるものである。

とはいえ、頭でいくら考えても一向に出る答えではないので、参禅者にとっては参禅の時間はつらいものとなる。
公案工夫のあるべき姿に関しては、無門慧開禅師5が『無門関』6の中の「無字」の評唱で、ご自分の体験に基づいて親切の限りを尽くして述べておられるので、詳しくはそれを参照されたい。

要するに、肝心なことは、公案を頭であれこれ考えることではなくて、公案そのものに成り切ってしまうべく、全身全霊を挙げて、しかも間断無く工夫することである。無字7の公案ならば、坐禅の時だけではなく四六時中・行住坐臥を通じて「無、無、無」と成り切る工夫をして行くのである。

 

元記事 霊芝山 光雲寺 臨済禅の公案工夫より こちらから

 

只管打坐(しかんたざ)
投稿日:2008年07月26日
禅宗には曹洞宗、臨済宗、黄檗宗の3つの宗派があります。それぞれの開祖は、曹洞宗は道元さま、臨済宗は栄西さま、黄檗宗は隠元さまです。
道元と栄西は、日本の僧で中国へ留学して禅を学び伝えました。隠元は、中国僧で日本に渡り帰化し禅を弘めました。インゲン豆は隠元禅師が中国から持ってきた豆でよく知られています。

道元の坐禅は、「只管打坐(しかんたざ)」であります。「ただ ひたすらに坐る」という意味です。「それに成りきること」であり、坐禅は、坐ることに成りきることであります。体と心が一つになるということです。

背筋を伸ばし体が真っ直ぐになれば、心が真っ直ぐになる。心が真っ直ぐになれば、思うことが真っ直ぐになる。「形は心をつくる」ということです。

『毎朝仏壇を前にして、体を真っ直ぐにして、線香を真っ直ぐに立てて、自分の鼻筋と線香とご本尊さまの鼻筋が真っ直ぐになるように坐る。そして、真っ直ぐになった心と体とを活かすこと。毎朝3分でも5分でもよい、仏壇に向かって実行してください。』と永平寺の宮崎禅師さまが、平易におっしゃっています。
さあ、きょうから実行しましょう!

 

黒羽山 大雄寺(くろばねさん だいおうじ) 一口法話 こちらから

 

一般の人間からするならば、どちらも同じ禅ではあり、目指す境地は同一であるとしても内容が大きく異なります。臨済宗は公案を重視する「公案禅」であるのに対して曹洞宗は「只管打坐(しかんたざ)」を重視します。そのため、悟りを得るための道筋が大きく異なると言えます。これはどちらが正しいか、どちらが間違いであるかと考えても意味のない話ではありますが、教えが異なることは事実です。

 

これに似た話としては、浄土宗も浄土真宗も共に念仏の教えではありますが、浄土宗が死後に極楽往生が決定すると説くのに対して浄土真宗においては最初に称えた念仏で極楽往生が決定すると説きます。この教えの違いから浄土宗においては一回の念仏世も十回の念仏、十回の念仏よりも百回の念仏と数多く念仏を称えることを重視します。それが浄土宗で百万遍念仏が行われる理由です。これに対して浄土真宗では数多く念仏を称えることよりも阿弥陀仏の慈悲を信じることを重視します。

 

どちらかと言えば浄土真宗においては数多く念仏を称えることの価値を否定している印象すらあります。数多く念仏を称えることで極楽往生を確かなものにしようとすることは阿弥陀如来の慈悲に自分の修行の功徳を上乗せする行為であると考えます。そのため、浄土宗用の数珠は念仏の回数を数えられるようになっており、浄土真宗の数珠は念仏の回数を数えられないようになっている違いがあります。更に本願寺派の流れを組む浄土真宗本願寺派と真宗大谷派は、念仏の回数に対する考え方に差はありませんが、真宗高田派とは念仏の回数に考え方に微妙な違いがあり、それが対立の原因なりましたので、話は厄介です。

 

同じ禅定を重視する宗旨でも同じ念仏を重視する教えでも教えに違いがあます。そのことが同じような教えではあってもお互いの教えの違いを認めなければ、同じような教えであっても異なる宗旨や宗派が協力することは難しくなります。また、現実に宗旨宗派を超えて協力するとなれば、更に利害関係も加わりますので、更に難しくなります。これは何も宗教の世界の話だけでなく、様々な世界でも同じです。異なる組織が協力する場合には、考え方や方針が異なることから共同で何かをすることは簡単ではありません。

 

しかし、ある政党は、政治思想がリベラルから保守まで揃っているのに一つの政党として活動しているマスコミなとでは党内野党とか、主流派と非主流派とか言われていますが、同じ政党として活動していることを考えますと、そこには理念が大きく異なっていても一緒に活動できる要因があるのかと思います。それとも政治の世界は理念よりも実益が優先されるのでしょうか。

 

補足

数珠の違いについて詳しく知りたい方は下記のサイトをご覧ください。

 

●「数珠」について

 浄土宗では、数珠は二連となっているものを使用します。同じ大きさの珠が並んでいる一の環と、大小二つの珠が交互に並んで二の環、 更に丸い珠のついている一の房、円盤状の珠がついている二の房、このような数珠を使用します。これら二つの環と二つの房は、 お念仏を唱える際にその数を数えるために使われます。一の環ひと回りでお念仏が三十九遍、この際に二の環の珠をひとつ、そして、 二の環がひと回りしたら、一の房の珠ををひとつ、更に一の房がひと回りしたら二の房の珠をひとつ。こういったふうに数えていきますと、 合計で六万遍のお念仏を唱えたことになります。

 

元記事 蓮生山熊谷寺 こちらから

 

参考サイト

方便山香蓮院善立寺 【お坊さんが解説】浄土宗の合掌&お数珠の掛け方・選び方 こちらから

 

蓮華峯 定秀寺 お念珠 こちらから

 

尚、同じ浄土真宗でも宗派によって数珠の持ち方や焼香の作法が異なる場合がありますが、真宗連合に参加されている教団だけでも10宗派ありますので、詳しくはお寺にお問合せして下さい。

 

 

ご相談は こちらから

at 10:48, 星 良謙・子授け地蔵, 心の健康

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共通の敵(星)

世の中の動きとは無関係に生きている管理人です。

 

( ° ° ) ボーーー

 

対面での鑑定をすることもないので限られた人にしか会わず

 

TVを見ることもなく暮らしておりますので、芸能音痴となっています

 

芸能音痴は昔からであり、アイドルは全く分からず・・・・

 

(~。~;)~ ほえ?

 

〇〇オタクと一緒のような・・・・

 

(◎-◎;) ビクッ

 

それはさておき・・・

 

共通の敵を倒すために協力すべきであるとの話を聞いた際にある経営者の話を思い出しました。その経営者の方は、従業員は山に登ることだけを考えるが、経営者は山から下りることまで考えると言われていました。これは目標を達成することだけを考えるのが従業員であり、目標を達成した後のことまで考えるのが経営者であると従業員と経営者の考え方の違いなのですが、このたとえ話を借りるならば、共通の敵を倒すために協力ことは、山に登ることだけを考える従業員の発想です。

 

ここに強い力を持つA社、そして弱小のB社とC社があるとします。もし、弱小のB社とC社が共通の敵であるA社に対抗することは可能かもしれませんが、各社は自社の利益を優先するのは当然であり、自社が不利益を被ってまでA社に対抗しようとする必要はありません。また、B社とすれば、強いA社に対抗するよりも弱いC社の売り上げを奪うことの方がメリットがある場合には、弱いC社の売り上げを奪うことを考えるかもしれません。それが企業間の競争の現実です。

 

そのため、B社とC社が共通の敵であるA社に対抗することを考えるならば、常識的には資本提携や業務提携などをすることが前提となります。これが国家間であるならば、経済協定や軍事同盟であり、政党間ならば政策協定となりますが、どの分野においても何らかの協力関係を築こうとするならば、お互いに協議して協定を結ぶことから始まります。これはお互いの利害関係の調整であり、利害関係を調整しなければ協力関係を維持することは困難となります。

 

しかし、世の中には単純に共通の敵を倒すために協力すべきであると考える人が意外に多いようです。その人々からするならば、敵はAなのだからBとCは足の引っ張り合いをすべきではないと考えるようですが、それぞそがお互いに競争していることを忘れているのではないかと思います。それがどんな分野であっても基本的には同じことであり、お互いの利害関係の調整を調整することもなく、共通の敵を倒すために協力できると考えるならば、お花畑的な発想ではないかと思います。

 

その典型が独裁政権を倒した後の混乱ではないでしょうか。国民の不満が爆発して独裁政権を倒す国民運動が起こるならば、独裁政権を倒そうとする勢力が力を合わせることはできますが、独裁政権が倒れた後には各勢力の間の紛争が起こることは珍しいことではありません。これは各勢力が自分たちが主導権を握ることを最終的な目標にしていることを考えるにならば当然の結果と言えますが、独裁政権の時代の方が平和であったと笑うに笑えない状態となります。

 

これは何も軍事の分野に限られた話ではなく、企業などの経済競争においても同じであり、政治や宗教の世界においても同じこととなります。お互いが自分たちの利益や権益を拡大するために動いている以上は、利害関係の調整は不可欠であるだけでなく、利害関係調整することなく協力したとしても利害関係の対立や考え方の違いから頓挫することになります。共通の敵を倒すために協力することができるのは、お互いの利害が対立しない間だけとなります。

 

本当は、利害関係の対立から協力関係が崩壊した事例を幾つか紹介したいのですが、・・・・

 

余りにも生々しい話となりますので、具体的な事例を紹介することは控えますが、同じ教えを説いているはずの教団でも分裂や対立が繰り返された歴史があります。

 

宗教界であっても分裂や対立が繰り返された歴史があることを考えますと、政治や経済の世界となれば、更に深刻となります。

そのため、単純に共通の敵を倒すために協力すべきであるとの考えは、山に登ることだけを考える従業員の考えであり、お互いに協議して協定を結ぶことから始めるのは経営者の考えだと思います。

 

 

ご相談は こちらから

at 13:41, 星 良謙・子授け地蔵, 心の健康

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総論賛成各論反対(星)

梅雨入りかと思っていたら・・・・

 

ε- (^、^; はぁ〜〜

 

すっかり暑くなりました。

 

今年の夏は猛暑になるのでしょうか?

 

それはさておき・・・

 

企業に限らず何らかの組織が危機的な状態に陥り、改革を断行しなければ組織の将来がない時に改革をしなければならないとの意識を共有することはできても具体論となると反対の嵐になることは珍しくありません。大多数の人が現状のままでは将来がないことは承知していても自分の利害が侵されるとなると途端に反対すると言った話は良くあることです。逆に言えば、各部門や各部署の利害が対立しているからこそ組織が硬直化しいたり、機能不全に陥ったりする言えます。いずれにしても組織の上層部の力が弱く、組織をまとめきれなかった結果と思われます。

 

企業では製造部門や管理部門と営業部門が仲が悪いと言われることは多く、同じ営業部門でも部署によっては仲が悪かったりすることがあります。厄介なのは○○派と言った色分けされることです。自分では意識していなくても周囲から「あいつは○○派」と言われることがあります。これも縄張り意識の反映なのではないかと思います。それだけ人は、自分の利権に敏感なのではないかと思います。同じ運命共同体とも言える企業であっても内部対立が起こることが少なくないことを考えるならば、組織の構成員が対等の立場である場合には意見が対立するのは当然かと思います。

 

そのため、○○組合と言った個人事業主や企業の集まりの場合には、業界の利益として総論には賛成となっても具体論としての各論になった場合には、お互いの利益が対立して話が難航することは珍しくありません。業界の発展の為とか、地域の活性化のためと言った大義名分はあっても自分の既得権益が脅かされるとなれば反対が続出して話が進まなくなります。

 

理想論を語っている時には、多くの人から賛同を得ることは可能ですが、それを実践する段階になると利害の対立から計画がとん挫することは珍しくありません。理想論や夢を語り、人々に希望を与えることは大切ですが、それを実践するとなれば、様々な難関が待ち構えています。しかし、そのことを無視して理想だけを語ることで多くの人から支持されることも多いようです。高い理想を実現できるだけの手腕と能力、それと不屈の精神がなければ理想を実現することは困難であり、多くの場合には志半ばで挫折します。

 

この状況を打破するためには、組織の崩壊を覚悟してでも改革を成し遂げようとする意志と強い権限が必要となります。そのどちらが欠けても理想を実現することは難しく、改革を成功させるためには、更に専門的な知識と実務能力が必要となります。これらが揃わなければ、危機的な状態に陥った組織を立て直すことは難しいのが現実ですので、危機的な状況にある組織の改革が成功する可能性は低いのが実情です。

 

良くある話としては、社長の息子がこのままでは会社の将来はないと強い決意で強引に会社を改革しようとしても専門的な知識と実務能力が不足していたことから経営を悪化させただけの結果になることもあります。また、改革を成し遂げようとする意志と能力はあっても権限がないことから会社を見限って退社することになります。つまり組織が衰退するときには、優秀な人材ほど早く流出することになります。

 

これとは別の方法としては、反対している人々との難しい利害関係を調整することができる能力と人脈を持つ人物ならば、難局を打開することが可能なこともありますが、この場合には、その組織で誰もが一目を置く人物でないと誰からも相手にされない結果になる可能性が高くなります。これは、改革を成し遂げようとする意志と強い権限を持ち、専門的な知識と実務能力を持つ人物を探す以上に難しいと言えます。

 

しかし、状況が悪ければ悪いほど、人は僅かな希望に縋(すが)ろうとします。そして大風呂敷を広げる人に希望を託したり、実現不可能な計画が支持されることが少なくありません。これはジリ貧を恐れてドカ貧になるパターンであり、改革に挫折する典型的なパターンです。冷静な判断力があれば見抜ける矛盾であっても希望を求めている人には、その矛盾を見抜くことができないだけでなく、我らの救世主として熱心な支持者が数多く生まれることが少なくありません。

 

では、どうして多くの人から支持されるかと言えば、人々が求めている夢を語ることであり、人々が信じたい話を語るからではないかと思います。例えば、「同じ組織の人間だから話し合えば分かり合える」と言えば、多くの人の賛同は得られるかもしれませんが、お互いの利害で対立しているのが実情であり、それが可能ならば問題は深刻になる前に解消しています。本人も本当に「同じ組織の人間だから話し合えば分かり合える」と信じているならば、嘘とは言えませんが、現実の問題を夢と言うオブラートに包むことで問題がないように思わせるのが手口と言えます。

 

実は、これが霊能者や新興宗教の手口でもあります。耳触りのいい言葉だけを並べ、夢が簡単に実現できるかのように期待させるのが彼らの常套手段です。しかし、現実の世界である政治や経済の分野でも見かけるようになりました。これを見抜くには、冷静な判断力と知識が必要となります。専門家ならば気付く矛盾でも一般の人間には気付かないことも多いのが実情であるだけでなく、専門家や知識人と言われる人でも参加していることは少なくありません。それだけ日本社会の闇が深刻になっているのかと思います。

 

 

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at 13:19, 星 良謙・子授け地蔵, 心の健康

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馬の耳に念仏(星)

このところ、記事は書き溜めることにしていたのですが・・・・

 

投稿を予定していた記事を読み直すとまとまりがない・・・

 

( ̄〜 ̄;)ウーン・・・

 

いつもの事との声が聞こえそうなのですが・・・・

 

急遽、差し替えました。

 

ロ_ヘ(^^;) カタカタ

 

(@@;))))〜〜(((((;@@) うろうろ

 

それはさておき・・・・

 

西洋の列強諸国が世界中に植民地を持っていた頃に植民地を統治する方法として「分割統治」を利用していました。「分割統治」と言っても一般的には馴染みのない言葉ですので、日本大百科全書から引用させていただきます。

 

日本大百科全書(ニッポニカ)「分割統治」の解説
分割統治  ぶんかつとうち divide and rule

支配者が被支配者を分割、すなわち被支配者の団結を妨げて分裂させ、それをもって統治を容易にさせようとすること。「分割して統治せよ」ということばは、元来は古代ローマ帝国のその支配地域における統治術をさしたものである。そこでは被支配部族・民族が互いに離反・対立するように策し、ローマの支配に対する彼らの敵愾心(てきがいしん)を分散させ、被支配者の連帯よりもローマへの忠誠心を生み出すようにした。そうすることでローマ帝国の統治を容易にした。こうした統治術は植民地時代に欧州列強によって用いられ、イギリスやフランスなどは分割統治を原則として植民地住民を統治した。たとえば、スーダンにおける統治でイギリスは北部住民(アラブ系)と南部住民(ネグロイド系)の対立を利用し、南部住民を軍隊に用いて北部住民を抑え込むなどした。

なお、この分割統治ということばは、いろいろな政治状況で用いられるが、日本では、比例代表区のブロック制導入によって政党支持票の分断といった事態や、それを通じて野党の連携を困難にさせる場合にも使用されることがあった。

 

要約するならば、支配する地域の民族をお互いに離反し、対立するように仕向け、内輪揉めを起させて統治を容易にすることです。これは外国の侵略を容易にする方法でもあり、孫氏の兵法などにおいても説かれています。敵国の国民が一致団結している状態で敵国を攻めるならば、被害は甚大となりますが、敵国の国民が内輪揉めを起しているならば、敵国を征服することは容易となります。そのため、戦争を始める前に敵国を油断させることや敵国の内輪揉めを煽ることは、重要な戦略であり、武器を用いることのない戦争でもあります。

 

これは現代においても行われていることであり、ロシアがクルミア半島を殆ど抵抗らしい抵抗もなく併合したのは、偶然ではなくロシアが事前に様々な工作活動をした結果であると言われています。軍事的な話や政治的な話に深入りする気持ちはありませんので、ロシアの話に関しては、これ以上は控えますが、同じようなことは一般の社会でもよくある話です。

 

社会生活をしているならば、人は何らかの集団に帰属して生きることになります。それは家族であり、親兄弟などの親族、学校や会社、地域社会、国家などの様々な集団に属して生きることになりますが、その集団に対する帰属意識は人によって異なります。ある人にとっては、家族が何よりも大切だと考える人もいれば、家族よりも会社を大切に考える人もいます。そして日本国民であることを誇りに思う人もいれば、日本国民であることをあまり自覚していない人もいます。これは何を意味しているかと言えば、その人が何に帰属しているかを重視するかは、その人の価値観の違いと言えます。

 

このことを考えるならば、どうして自分の国を征服している外国に忠誠を尽くすのかも理解できるのではないかと思います。その人にとって自国よりも自分の部族が大切であると考えるならば、自分の部族の権益のために自分の国を裏切ることに罪悪感を持たないとしても不思議ではなく、自分の家族や自分の一族が何よりも大切であり、国家への帰属意識が希薄ならば、自分の国を裏切ることに何の罪悪感を持たないとしても不思議ではありません。これは何も特別なことではなく、中国共産党の幹部の多くは不正に蓄財した資金を海外に送金しているだけでなく、子供を海外に移民させていると聞きます。

 

これは倫理観の問題として考えるべきではなく、本人の価値観の問題となります。例えば、革命思想の持ち主であるならば、国家を転覆する革命こそが大義であり、革命を実現することが何よりも優先されるべきことです。しかし、それは現状の体制を支持する人々にとっては国家を転覆する重大な犯罪行為です。そのため、同じ行為がある人にとっては、正しい行為であっても、別の人には重大な犯罪となります。これと同じように自分の家族のことを最優先に考えるならば、汚職や不正行為を重ねて蓄財した資金を海外に送金することや家族を移民させることにも何も罪悪感を覚えないこととしても不思議ではありません。

 

これは日本においても例外ではありません。企業の経営者が企業の利益を最優先することだけを考えるならば、国益は無視されることになります。日本の企業であっても日本への貢献や日本人を豊かにしようとか言ったことは無視され、自社の利益のためならば、日本の国益が損なわれることにも関心を持たないことになります。また、これは国益だけでなく、自社で働く従業員にも言えることであり、自社の利益だけにしか関心がないのであれば、従業員の福祉には最低限の関心しか持たないことになります。

 

これは何も最近のグローバル企業に限られた話ではなく、今から40年・50年前からある話です。工場はおんぼろでも工場の裏にある経営者の自宅は豪邸であると言った話は時折耳にしました。また、ある中小企業の経営者が娘の嫁入り道具を経費で購入したことから誤って会社に荷物が届き、経費で購入したことが社員に発覚して大騒ぎになったとの話を聞いたこともあります。これらは経営者が会社の利益よりも自分の利益を優先した結果であり、その経営者にとって何が一番大切であったのかを表しています。

 

企業がお客様や従業員、取引先を大切に考え、日本の国の発展に寄与することが理想であるとしても、自社の利益を最優先して業界の利益も日本の国益を考えないだけでなく、自社の従業員の待遇にも関心がないこともあります。日本の国益にも従業員の待遇にも関心がない経営者に国益の大切さや従業員の待遇改善を説いても馬の耳に念仏となります。悲しい現実ではありますが、相手が何を考えているかを知らなければ、相手の気持ちを変えることは難しいと言えます。

 

 

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at 11:55, 星 良謙・子授け地蔵, 心の健康

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突然訪れる危機(星)

忙中閑有り

 

そんな気分で記事を書いています。

 

近くに公園であれば・・・・

 

[(~∇、~;)ボケー

 

そんな時間を過ごしたいのですが・・・

 

まあ、肩に力が入らない内容にしたいとは思ってます。

 

それはさておき・・・

 

危機が迫っていても、それが現実とならない限りは認めようとしない人は少なくないようです。最初は人によって見えている景色が違うのだろうかと考えましたが、見えている景色が違うこと以上に見たくない物は見ないのではないかと考えるようになりました。自分が見たくない現実は、それが自分の目の前で起きたとしても現実逃避して自分の世界に閉じこもる人がいます。それは見えていないのではなく、意図的に無視して何もみていないことにしていると言えます。

 

乗っている船に行く手に滝があったならば、滝に近づく前に船から降りることを考えるのが普通ですが、滝が近づいていても慌てることもなく、逃げようとすることもなく、何の危険も感じていないのに似ています。お花畑と言ってしまえばそれまでの話ですが、一日でも長く今の平穏な生活を維持することだけを願い、危機が迫っているとの警告に耳を塞ぎ、今日の一日が何事もなく終わるならば、何も問題はないと考える人は、何を考えているのだろうかと不思議でした。

 

若い頃に1+1=2が分からない人間に何を言っても無駄だと言ったことがありました。目の前の現実を直視するならば、簡単に分かることなのに現実を認めたくないのか、認めることができないのか分かりませんが、現実逃避する人が少なくありませんでした。

儲からない仕事ばかりを選び、儲からない仕事を熱心にしていたならば、儲からないのは当然の話となります。一つの仕事の利益、作業時間などを考えれば、粗利は計算できるはずなのですが、そんなことすら考えない人がいました。手元に当面の生活費だけが残れば良いとでも考えているのかと思いましたが、機械や店舗の償却などが大きな負担となることを考えていないのかと疑問に思いました。

 

また、安易に借金をする人がいます。借金は当然のことながら返済する必要があることから借金をするのは良いが返済することはできるのかと聞いても何とかなるとしか言わない人がいたらどう思うでしょうか。自分の給与の金額は分かっているはずであり、自営業であっても毎月の売り上げの見込みはあるはずです。自分の収入が分かれれば、毎月いくらならば返済できるかも分かるはずなのですが、安易に借金を重ねる人がいます。自己破産をしなければならない状況に陥る前に考えることができなかったのたろうかと思います。

 

管理人の印象としては、現実逃避の傾向のある人は一日でも長く平穏な生活を維持することだけを願い、危機が迫っているとの警告に耳を塞ぎ、今日の一日が何事もなく終わるならば、何も問題はないと考えているのではないかと思うようになりました。立ち向かうべき問題があっても触りたくない、触れたくない、触れて欲しくもないとの気持ちが強く、将来の危機を警告しても嫌な顔をするたけで聞く耳を持ちませんでした。その経験から人は同じ現実を見ていても自分が信じたい現実だけを信じ、自分が信じたくない現実は無視すると考えるようになりました。

 

このように考えるようになったのは、仕事で心霊世界との関りを持つようになったことも理由の一つです。心霊世界は心の世界であることから外の世界を遮断して自分の世界に閉じこもっている心霊は少なくありません。死後1000年、2000年の歳月が過ぎても自分の心の世界に閉じこもっていることが可能な世界です。それらの心霊は外の世界に何の関心もないことから時が止まったような状態となります。

 

これと同じことが現世において起きていると考えられます。世間の動きに関心もなく、非常に狭い範囲の人間関係で生きていることに何の疑問も持っていないならば、現実の世界に生きながらも閉鎖された自分だけの世界の中で生きているのと大差がありません。自分だけの世界の中で生きているならば、外の世界の現実には関心もなく、自分の生活空間が破壊されなければ、危機が迫っているとの認識も持たないのも当然となります。大切なことは、今日の一日が何事もなく終わることとなります。

 

また、これとは少し異なりますが、外の世界に積極的に働きかけながらも自分が作り上げた妄想の世界に生きている人もいます。このタイプの人は、宗教カルトや社会運動などの特定の思想に染まっていることが多く、現実の世界よりも自分が信じている理想こそがあるべき現実であり、現実の世界は無視されます。そのため、同じ現実を見ていても自分が信じたい現実だけを信じ、自分が信じたくない現実は無視することに関しては同じです。

 

このタイプが厄介なのは、現実の世界で起きていることよりも自分たちが作り上げるべだと考える理想を優先することです。その理想が本当に多くの人を幸せにする理想ならば良いのですが、往々にして現実を無視した空理空論であり、矛盾に満ちた理想論であることが少なくありません。そのため、自分たちの理想を実現しようと熱心に活動すればするほど社会を混乱に陥れることになりますが、本人たちはそれが混乱であるとも考えていないようです。

 

自分の世界に閉じこもり、外の世界に関心を持たない人も自分たちの理想に生きる人も共に現実を直視していないことは同じです。そのため、現実の世界が何らかの理由で崩壊するならば、この両者にとっては突然の崩壊となります。しかし、それは現実を目の前にしながらも見たくない現実を無視して見たい現実をみていることから起きることであり、客観的に物事を見ることができる人からば、予想されていたことでしかないと言えます。しかし、目の前の現実が破綻しても現実を受け入れることができずに自分の世界に閉じこもる人もいます。

 

 

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at 12:38, 星 良謙・子授け地蔵, 心の健康

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成功は失敗の父2(星)

この記事を書くために各戦闘機のデータを調べようと検索しましたところ、検索の上位に並んだのはプラモデルのサイトばかりでした。

 

それだけプラモデルの需要は多いのでしょうか?

 

個人的には、昔から初期のジェット機が好きで専門雑誌を買っていた時期もありましたが、次第に飛行機よりも飛行機の運用に興味が移り、更に戦略や戦術の方が面白くなりました。

 

そして最後に架空戦記に嵌(はま)り、架空戦記を随分読みました。最近はあまり読んでいませんが、本棚には捨てられない架空戦記の小説がずらりと並んでいます。

 

(*@_*#) ンー?

 

自覚はないのですが、オタクの領域なのでしょうか?

 

閑話休題

 

ゼロ戦と言えば、傑作機と言われていますが、アメリカ軍機に対して優勢であったのは、大戦初期の話であり、アメリカ軍の新型機が登場するとその優位は揺らぎ始め、大戦末期の頃になると時代遅れとなったことは、あまり知られていないのではないかと思います。

 

最初に参考までに当時の日本海軍とアメリカ海軍の主力戦闘機の基本性能をご紹介します。

 

零式艦上戦闘機二一型  採用時期 1942年(昭15年)採用

エンジン:出力940馬力
最高速度 533.4 km/h 
航続距離 巡航3,350 km(増槽あり)

 

零式艦上戦闘機五二型      1943年(昭16 年)8月から生産 

エンジン:出力1,130馬力
最高速度 565km/h
航続距離 1,920km(正規)/全速30分+2,560km(増槽あり)

 

零式艦上戦闘機三二型      1944年(昭和17年)4月頃から量産が開始

エンジン:出力1,130馬力

最高速度 544.5km/h
航続距離 全速30分+1,052km(正規)


零式艦上戦闘機二二型      1944年(昭和17年)末より翌18年8月 製造

エンジン:出力1,130馬力
最高速度 540.8km/h
航続距離 全速30分+1,482km(正規)/全速30分+2,560km(増槽あり)

F4F-4 ワイルドキャット    1942年から部隊配備

エンジン:出力1,200馬力

最大速度 512km/h

航続距離 1,239km

 

F6F-5 ヘルキャット      1943年1月から部隊配備

エンジン 出力2,200馬力

最大速度 621km/h

機内燃料による航続距離:1,674km

 

F4U-1D コルセア        1944年4月から引渡し

エンジン 出力2,130馬力

最大速度 658km/h

航続距離 2,414km 150galタンク搭載時

 

主要な機種だけを掲載しましたが、この他にも派生型があります。

 

大戦初期の日本軍の主力戦闘機は、零戦二一型であり、アメリカ海軍の主力戦闘機はF4F-4 ワイルドキャットでした。性能を比較しますと、二一型のエンジンの出力は940馬力、F4F-4 ワイルドキャットのエンジンの出力1,200馬力とF4F-4 ワイルドキャットの方が優位ですが、二一型の最高速度が565km/h、F4F-4 ワイルドキャットの最大速度 512km/hとゼロ戦が優位であり、二一型の航続距離 は巡航3,350 kmであり、F4F-4 ワイルドキャットの航続距離は1,239kmと大きな差がありました。勿論、戦闘機の性能は、最高速度や航続距離だけでは決まりませんが、ゼロ戦が優位であったことは数字からも読み取れます。

 

しかし、1943年になるとアメリカ海軍は、F6F-5 ヘルキャットが投入します。日本では零戦五二型の生産が始まりますが、零戦五二型のエンジン出力は1,130馬力、F6F-5 ヘルキャットのエンジン出力は出力2,200馬力と倍近く、最高速度は零戦五二型が565km/hであるのに対してF6F-5 ヘルキャットにの最高速度は621km/hとF6F-5 ヘルキャットの方が56km/h優位であっただけでなく、ゼロ戦が被弾すると炎上しやすいの対してF6F-5 ヘルキャットは堅牢性や防御性能に優れていたことからゼロ戦の優位は崩れました。

 

そして1944年4月になるとF4U-1D コルセアが登場します。最高速度は零戦五二型が565km/hであるのに対してF4U-1D コルセアの最高速度は658km/hと更に拡大して100km/h以上の差となりました。当初は不具合が多い機体ではありましたが、不具合が改善されると1944(昭和19)年12月から本格的に空母への搭載が開始されました。このF4Uは戦闘爆撃機としても使えたことから傑作機と言われています。

 

これに対して日本海軍の主力戦闘機は、最後まで零戦五二型でした。当然のことながら次期主力戦闘機として零戦の後継となる「一七試艦戦」を開発してましたが、試作1号機の初飛行は1944(昭和19)年5月となりました。その機体は後に「烈風」として制式化されましたが、既に戦局の悪化していたことから量産することなく終わりました。この他も局地戦闘機として「紫電」や「紫電改」もありましたが、戦局の悪化もあり、主力戦闘機とはなりませんでした。

 

日本海軍の主力戦闘機の切り替えができなかった原因としては、当時の日本の国力や技術力など様々な問題があったと思われます。個々の問題としては、2,000馬力級の信頼できるエンジンを作れなかったことなどもありますが、ゼロ戦にこだわり過ぎたのではないかと思います。ゼロ戦は当時としては驚異的な飛行距離と戦闘能力を兼ね備えた戦闘機ではありますが、防弾性能や機体強度などを犠牲にして機体の軽量化をした戦闘機でしたので、機体の改良には限界がありました。そのため、早い段階で次期戦闘機の開発に全力を注いでいたならばと思えてしまいます。

 

これは何も日本海軍に限られた話ではなく、どこにでもある話です。最初は成功を収め方法や商品であっても次第に勢いがなくなることは良くあることです。しかし、勢いがなくなったと言っても売れている間や大きな問題が起きなければ、変化することを嫌がる人は多いようです。今のままではいずれは行き詰ると提言しても変化することを嫌い、小手先の修正だけを繰り返すことでお茶を濁すことは何度も見てきました。しかし、小手先の修正では何ともならなくなるならば、全てが手遅れとなり、立て直すことは至難の業となります。

 

順調に回っている間に将来のことを考えて準備をすることの大切さは分かっていても、人は成功体験に囚われてその成功にこだわり続けると言えます。その典型がゼロ戦の成功ではなかったかと思います。

 

 

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at 11:43, 星 良謙・子授け地蔵, 心の健康

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成功は失敗の父1(星)

このところ、ネットの動画で株式投資のCMを見かけることが多くなった気がします。

 

しかし、その内容に疑問を抱くことがあります。( ・_・)ん?

 

株式の運用益で生活費を上回る資金を得ることができるとか、資金を何十倍にもできると言ったCMには疑問を抱きます。

 

株式の運用利回りで生活費を上回るような資金を得ようとするならば、かなりの資金が必要となります。年に10パーセントの運用益を得たとしても元金が3000万円で運用資金が300万円となります。専門家の運用するファンドでも年に10パーセントの運用益を得ることは難しいのが現実です。暫く前までならば、米国の株式市場が右肩辺りであったことからかなりの運用益は見込めたと思いますが、金利の値上げから株価は低迷してますので、米国株でもこの時期の高配当は難しいと思います。

 

また、短期間で大幅に値上がりする株があることは否定する気はありませんが、競馬で言えば万馬券のようなものであり、滅多にあるとは思えません。また、それを見つけ出す方法があるとするならば、人に教えることなく自分で買います。人に知られていないからこそ安値で買うことができますが、多くに教えるならば、それだけで値上がりすることになります。

 

安く仕入れた株を高値で売り抜けるために有望株であると盛んに宣伝する投資家もいるとの話もあります。どこまで信用できる話かは分かりませんが、株取引は自己責任ですので、ご注意下さい。

 

それはさておき・・・・

 

「失敗は成功の母」と言われますが、「失敗が成功の母」ならば、「成功は失敗の父」と言えるのではないかと思います。勿論、こんなことわざは存在しませんが、失敗を積み重ねても失敗の原因を分析して改善を重ねることで成功に至るように成功体験に囚われて失敗する事例は数多くあります。例えば、日本海海戦は対馬沖で大日本帝国海軍の連合艦隊とロシア海軍との間で行われた海戦であり、大日本帝国海軍が勝利したことで有名な海戦ですが、この勝利が大東亜戦争の敗因の一つになったことはあまり知られていないのではないかと思います。また、一般的にはゼロ戦と呼ばれる零式艦上戦闘機にしても開戦初期にはアメリカ軍の航空機を圧倒したことが大東亜戦争の敗因の一つになったとも言えます。

 

これは少し解説が必要となりますが、日本海海戦が行われた背景には日本海の制海権を巡る争いがありました。もし、派遣されたロシア艦隊がウラジオストクに無事に入港したならば、日本の船はロシア軍の脅威にされされることなり、陸上の戦闘は大きく制約を受けることになります。そこで大日本帝国海軍はロシア海軍に決戦を挑むことになりますが、ウラジオストクへの航路としては対馬海峡経由、津軽海峡経由、宗谷海峡経由の3箇所がありました。しかし、3箇所すべてに戦力を分散すれば各個撃破される可能性が高いことから戦力を集中していずれか1箇所に賭けるしかありませんでした。

 

勿論、当時の日本軍はロシア海軍がどの航路を選択するかを必死に調べてはいましたが、ロシア海軍が対馬沖の航路を選択していなかったならば、日本海海戦はなく、日露戦争も別の結末を迎えていたかもしれません。そのため、日本海海戦は先人達の努力と幾多の幸運に恵まれた勝利であり、非常に危うい勝利であったと言えます。しかし、この日本海海戦に勝利したことが大きな禍根を残すことになります。

 

どうして日本海海戦の勝利が後の日本海軍に禍根を残したの説明に入る前に少し説明しなければならないことがあります。平時において仮想敵国との戦争を前提にして軍備を整えることは世界の常識であり、当時の日本海軍も対米戦争に備えていました。当然のことながら仮想敵国と開戦となった場合を考え、どんな作戦で敵国に立ち向かうかの研究もされていました。それが漸減邀撃作戦でした。今も昔もアメリカは強国であり、その強国のアメリカに如何にして立ち向かうかの観点から考えられた作戦でした。

 

日本とアメリカの間には、太平洋がありますので、アメリカが日本を攻める場合には太平洋を横断しなければなりません。そのため、アメリカ海軍が日本に近づく前に潜水艦での雷撃、次に駆逐艦での夜間攻撃、次に空母からの飛行機での攻撃をすることで強力なアメリカ海軍の力を削いだ後に戦艦での艦隊決戦に持ち込もうとの作戦でしたが、この作戦は日本海海戦の焼き直しとも言うべき作戦でした。そのため、日本海海戦と同じ問題を抱えていました。

 

アメリカが日本を攻める場合には、太平洋の北側を経由して千島樺太方面からの攻撃、中部太平洋を経由して硫黄島から小笠原諸島からの攻撃、南太平洋を経由して台湾から沖縄方面からの攻撃が考えられました。しかし、この問題は無視され、全ての準備が艦隊決戦を想定しされていました。当時の主力艦である戦艦を作るには数年の歳月と膨大な予算が必要であり、戦艦だけあっても戦争には勝てないことから巡洋艦や駆逐艦、空母、潜水艦など様々な艦船が必要となります。それらの艦艇の建造や装備、作戦の全てが艦隊決戦を前提にしていました。

 

これに対してドイツ海軍は艦隊決戦を前提とした軍備ではなく、有名なUボートやSボートと言われる魚雷艇を用いて輸送船を撃沈することを重視した軍備でした。この背景には、当時の英国やロシアは、アメリカからの大量の軍事支援を受けることで戦線を維持していました。そのため、アメリカからの軍事支援を断ち切るならば、ドイツが勝利する可能性が高くなります。これは通商破壊と呼ばれる戦略であり、軍事物資の補給を重視する戦略であり、艦隊決戦のような派手さはありませんが、現代戦でも重視されています。

 

これに対して日本海軍は補給を軽視する傾向があり、敵の通商破壊作戦から味方の輸送艦を守るための護衛艦も貧弱な状態でした。当時のアメリカとの経済格差を考えるならば、艦隊決戦に勝つためには全ての軍備を艦隊決戦のために集中するしかなく、通商破壊のための軍備や味方の輸送艦を守るための護衛艦のための予算を確保できなかった結果とも言えます。しかし、大東亜戦争においては、艦隊決戦は行われることはなく、日本の輸送船はアメリカ海軍の潜水艦に数多く沈められました。そのため、日本海軍はアメリカ海軍の潜水艦に負けたとの意見もあります。

 

南方の地域を占領して軍事物資を確保しても本土に軍事物資を輸送できなければ意味はなく、占領地域に軍事物資を補給できなければ前線の兵士は戦線を維持することができません。これらのことは当時の日本海軍の上層部も分かっていたことですが、軽視されました。艦隊決戦でアメリカ海軍を殲滅するならば、制海権は確保されることから輸送も安全となるとの考えていたようです。これは幻想にしか過ぎなかったのですが、当時の日本海軍を支配していた考えです。その原因を考えますと、日本海海戦の勝利が呪縛となっていたのではないかと思われます。

 

勿論、日本海軍の内部でもヨーロッパの戦争の推移は知られていましたので、通商破壊を重視すべきであるとの声も一部にはあったようですが、方針を変更するまでには至りませんでした。これはいつの時代にも通用する話であり、一つの考えが支配的となるとそれに反対する意見があっても無視されるか、異端児扱いされることが大半となります。

 

α~ (ー.ー") ンーー

 

ゼロ戦の話も書きたかったのですが、長くなりましたので次回の投稿とします。

 

 

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at 09:03, 星 良謙・子授け地蔵, 心の健康

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