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占いと人格障害(星)

テレビも今日から平常の番組に・・・・

今日から仕事始めと言ったところでしょうか・・・

 

( ̄〜 ̄;)ウーン・・・

 

占い師と言っても店舗を構えているならば、今日から仕事始めと言えるのでしょうが・・・・

主にネットでご依頼を受けていますので、明確な仕事始めの実感がありません。

それでも今日から仕事始めと言ったとろでしょうか?

 

それはさておき・・・

 

占いと言っても色々な種類があることから一概には言えないと思いますが、占いにおいて何が大切かと言えば、占いの対象となる人物の価値観ではないかと思います。例えば、トランプやタロットで同じ恋愛を占っても高校生と壮年の人物では、大きく異なります。高校生の恋愛の場合には、依頼者と相手の関係を表すと思われるカードが大半となりますが、30代以降の依頼者の恋愛の場合には、依頼者と相手の関係を表すカードの比率が大きく低下して周囲の人間との関係を表すカードが増加するのが普通です。

 

これは高校生の場合には、親兄弟や学校での人間関係よりも相手との関係だけにしか依頼者の関心がないのに対して、30歳以降の依頼者の場合には、自分の両親や相手の親との関係、仕事の事情、住居の問題など様々なことを考えなければならなくなることを表しています。逆に30歳を過ぎているのに相手との関係だけにしか関心がない場合には、結婚を前提にしていない恋愛である可能性を考えなければならなくなります。

 

この問題は、依頼者の年齢や社会的な立場をお聞きすれば推測可能な話ですが、依頼者や交際相手の考え方となりますと、お話をお聞きしているだけでは分からない場合が大半です。しかし、場合によっては、この考え方が解釈に大きな影響を及ぼすことがあります。管理人がこのように考えるようになったのは、占い師になろうかと考えていた当時に友人を占った経験からです。今から考えるならば、その友人は演技性人格障害ではないかと思いますが、当時は人格障害と言う言葉も知りませんでした。

 

管理人が悩んだのは、友人から聞く話とカードの食い違いででした。本人から聞いている話とカードが大きく食い違っていることからどう解釈すべきかと悩みました。しかし、暫くして久しくあっていなかった知り合いと話す機会があり、管理人が知らない話を色々と聞く機会がありました。どうも管理人が聞いている話とは色々と異なることが多いのですが、2人の話を突き合わせると見えて来なかったことが色々と見えて来ました。

 

更に共通の友人を交えてあれこれ話をしていると占いの依頼をしていた友人は、自分の都合の良い話しかしていないことしか分かりました。そこで彼と幼馴染の知り合いの話を聞きましたところ、知り合いは煙草の箱を手にして「あいつは、こうやって上半分を隠してどう思うと人に尋ね、別の人には下半分を隠してどう思うと尋ねる人間だ。」と言っていました。管理人はそう言うことかと納得しました。

 

最終的には、友人が話していることは、客観的な事実ではなく、友人にとっての事実であると考えた方が合理的であると判断しました。普段は、鑑定の際に先入観を排除することを心掛けていますが、この友人の場合だけは例外となりました。しかし、色々な方の鑑定をさせて頂くようになると友人だけが特別ではないのではないかと思うようになりました。当時は、心理学と言ってもユングやフロイトの心理学程度しか知りませんでしたので、人格障害については全く知りませんでしたが、常識的な解釈が通用しない事例に遭遇するようになりました。

 

今から考えますと回避性人格障害ではないかと思う方を鑑定した際には、相談者の状況とカードの落差に驚かされたことがありました。その方は、知り合いからの紹介であり、失業中で困っているから占ってやって欲しいとのことで鑑定させて頂くことになりました。本人からの積極的なご相談ではなかったこともあるためか、この人は本当に悩んでいるのだろうかと疑問を感じるようなカードが並びました。結局、これと言って気の利いたアドバイスもなく終わってしまいました。

 

似たような経験を何度か繰り返したことからどのように考えるべきか悩みましたが、これは占い師ならば誰しもが経験する話のようです。客観的な事実と鑑定結果が一致している場合には、占いとしては的中していると言えますが、依頼者が認識している事実と大きく異なるならば、依頼者の信頼は失います。それが嫌になって実践の占いから離れ、占い教室の講師になった占い師もいると本に書かれていました。

 

過去の事例では、回避性人格障害と思われる方が一番厄介でした。通常ならば、この状態になれば行動を起こすであろうと思われる状況に陥っても何も行動しないだけでなく、本人の現実逃避が激しすぎて問題があることすら認識していないのではないかと思われました。それでも客観的な事実が分かれば、占いが外れているのか、本人が現実逃避しているかは分かりますが、客観的な事実の確認が困難な場合には、お手上げ状態となります。

 

そんな経験から多少なりとも心理学を勉強しなければならないと痛感するようになりましたが、これは社会生活でも同じてはないかと思います。会社勤めをしていた時代に上司や顧客の言動に疑問を抱いたことは何度もありましたが、今から考えるならば人格障害を抱えた人びとであった気がします。勿論、人格障害だけですべてを説明できるはずもなく、様々な心の病気はありますが、病気について知っておくだけでも対応が楽になります。

 

また、アスペルガー症候群のように病気ではなく、先天的な機能障害を持ちながらも、そのことに気付かずに苦労されている方も多いようです。そのため、生きることに苦痛を感じている場合には、心の病気などを疑ってみることをお勧めします。

 

 

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at 00:05, 星 良謙・子授け地蔵, 心の健康

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雑談が出来ない理由(星)

お正月も3日目となりました。

明日から仕事と言う方も多いのではないでしょうか?

管理人が会社勤めの頃には、仕事始めは5日からでした。

 

しかし、今は自営業であり、店舗も構えていませんので、だらだらと過ごしております。

こんな事で良いのか・・・・と悩んでみたりもしますが、

のんびりと過ごしております。

 

それはさておき・・・・

 

年末の事ですが、朝まで生テレビに田原総一郎氏が出演されていました。番組には興味がなかったのですが、田原総一郎氏が以前に自分は雑談ができないと言われていたことを思い出しました。雑談は他愛もない話であり、深く考えて話すような内容でもないことから雑談ができないとはどう言うことだろうかとの疑問に思っていました。そこで雑談ができないことには何らかの原因があるのだろうかと調べてみました。

 

少し調べてみますと雑談ができない新入社員が増えているとの記事がありました。また、雑談恐怖症との言葉があることも知りました。雑談恐怖症は、対人恐怖症の症状の中の一つであり、自分の話す内容が相手にはウケないのではないか、つまらないのではないか、理解されないのではないか等、悪い方へ考えてしまい言葉が出てこない症状とありました。

 

対人恐怖症は、10人に1、2人いる症状とありましたので、珍しい症例ではないようです。

この対人恐怖症には、自分の性格に問題があると感じて劣等感に苦しむ緊張型対人恐怖症と自分の身体の部位に問題があることから周囲の人から嫌われていると感じる確信型対人恐怖症に分かれます。

 

緊張型対人恐怖症

視線恐怖症・雑談恐怖症・表情恐怖症・あがり症・赤面症・電話恐怖症・会食恐怖症・会議恐怖症・発汗恐怖症・排尿恐怖症・吃音恐怖症

 

確信型対人恐怖症
醜形恐怖症・自己臭恐怖症・脇見恐怖症・おなら恐怖症

 

参考サイト カウンセリングルーム WILL 対人恐怖症に関するお役立ち情報

詳しくは こちらから

 

お笑い芸人の中にも人見知り芸人もいることから対人恐怖症である可能性は否定できませんが、田原総一郎氏が対人恐怖症なのだろうかと悩みました。そこで対人恐怖症を離れて雑談ができない理由を探してみました。

 

少し調べてみたところ、ADHD(注意欠陥・多動性障害)も雑談が苦手な事が分かりました。ADHDは不注意(集中力がない)、多動性(じっとしていられない)、衝動性(考えずに行動してしまう)の3つの症状がみられる発達障害であり、70〜80人に1人の割合とされることから対人恐怖症よりも割合は低いのですが、珍しい障害ではないようです。

 

また、ADHDと似たような症状としてアスペルガー症候群もあります。この2つの障害は症状が似ていることから混同されやすいのですが、対処方法も異なるようです。

 

参考サイト 発達ナビ ADHDとアスペルガー症候群の7つの違い - 症状の比較と合併症状について

詳しくは こちらから

 

障害を持つ方でも社会的に成功されている方は少なくないのですが、雑談ができないだけで対人恐怖症やADHD、アスペルガー症候群と決めつけることはできませんので、雑談ができない理由を探してみました。

 

色々なサイトに色々な話が書いてありましたが、嫌われたくないとか、馬鹿にされたくないとの気持ちが強すぎて話がてせきなくなってしまうことが原因であるとされていることが多いようです。それに対して仕事の話などの場合には、何を話せば良いのかが、分かっていることから話が苦にならないとされていました。田原総一郎氏は、相手から馬鹿にされたくないとの気持ちが強い野だろうかとの疑問を持ちました。

 

また、相手に嫌われたくない気持ちが強すぎて相手がどう考えるばかりかを気にしすぎて自分の気持ちが分からなくなっている場合にも自分の気持ちが分からなくなっていることから自分の気持ちを素直に話せないことがあります。これは対人恐怖症とも言えるような症状であり、話は振出しに戻ります。次に考えられる可能性として過去の失敗経験から雑談をすることに対して不安を持つ場合や普段から会話に自信がない可能性も考えられますが、これも可能性が低い気がします。

 

嫌われたくないとか、馬鹿にされたくないとの気持ちが強すぎて話がてせきなくなってしまうことが原因であるとされていることが多いようですが、逆もまた真なりと言う言葉もありますので、相手のことに関心がないと考えることもできるのかもしれません。雑談は、相手との共通の話題があるからこそ成り立ちますが、自分が全く関心のない話をされても会話が成り立ちません。例えば、管理人にアイドルやアニメの話をされても黙って聞く程度のことしかできません。

 

営業の世界では、雑談の話題として天気や景気などの当たり障りのない話題から入り、相手の会話を続けますが、無意識に相手との共通の話題を探っているのだろうかと思います。そのため、田原総一郎氏は相手が何に関心を持ってるかを推し量る気持ちがないと考える方が納得できる気がします。勿論、これはテレビ番組から受ける印象であり、断定することはできませんが、自己主張の強い方であるとの印象がありますので、相手の気持ちを推し測ろうとの気持ちが希薄ではないかとの結論となりました。

 

 

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at 16:05, 星 良謙・子授け地蔵, 心の健康

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思い込みと気遣い(星)

このところ、なるべく毎日投稿させて頂いていますが、もう少し短時間で内容をまとめられたらと考えております。

以前ならば、一時間程度で書いていましたが、最近は時間がかかっています。

 

鑑定のお問い合わせなどで日常的に文章を書いていますが、事務的に書くことと自由に書くのとでは微妙に異なります。

もう少し早く書けるようにと思ってはおりますが、これも慣れなのでしょうか?

 

それはさておき・・・・

 

暫く前のことですが、ラジオでフラッシュ・モブでプロポーズしようとしたところ、相手の女性が激怒して帰ってしまった場面に偶然居合わせた方の話をしていました。フラッシュ・モブが始まって間もなく、女性は帰ってしまったものの、ダンサーは踊り続け、最後に残された男性を取り囲んだそうです。それを見ていた男性の老人が「そんなこともある」と言われたと内容でした。

 

この話を取り上げようとネットで検索したところ、同じような失敗は何件かあるようです。ラジオで取り上げられていた話の女性は、大勢の人前で恥をかかされたと激怒されたようですが、気持ちは分かります。勿論、管理人がフラッシュ・モブをされる可能性は皆無ですが、間違ってもされたくはありません。

 

確かに女性の7割は、サプライズ的なプロポーズを期待しているとのアンケート結果があると聞いたことはありますが、逆に言えば残りの3割はサプライズ的なプロボースを望んでいないと考えることもできます。勿論、アンケートの問いでアンケート結果は変わりますし、アンケート結果の詳細も分かりませんので、断定的なことは書けませんが、少なくとも派手な演出のプロポーズが嫌いな女性がいることに間違いはないと思います。派手な演出のプロポーズよりも落ち着いた雰囲気の中で静かにプロポーズして欲しいと思う女性がいたとしても不思議ではなく、それを咎めることなどできないと思います。

 

もし、間違いがあるとするならば、男性の相手の女性が必ず喜んでくれるはずとの思い込みではないかと思います。お笑い芸人のレーザーラモンが誕生日のプレゼントをもらったときに嬉しくなくない物をもらっても喜ばなければならないことが苦痛になることから自分がお祝いを渡す際には、一律5000円の現金を渡していると話していていました。誕生日のお祝いに現金を渡すのは、どうなのかとは思いますが、言いたいことは分かる気がします。

 

随分前のことですが、友人が台湾のお土産として激辛の干し肉を持ってきたことがありました。個人的には激辛は苦手であり、そのことは知り合いも知っていたはずなのですが、辛いけどおいしいから持ってきたと言っていました。パッケージ越しにいかにも辛そうな印象を受けましたので食べる気にもなれず、もらい物なので捨てるのも申し訳ないことから会社に放置してあったとがありました。結局、食べることもなく人に貰って貰いましたが、何とも苦痛でした。

 

贈り物を選ぶには、単刀直入に相手に欲しい物を聞くのが一番無難ではありますが、ちょっとしたお祝いやお中元、お歳暮などですと気遣い無用と断られてしまうこともあり難しい問題です。しかし、相手への気遣いは大切ではないかと思います。冒頭に紹介したフラッシュ・モブでプロポーズしようとした男性にしても相手を喜ばせようと考えて時間とお金をかけて準備したと思われます。また、台湾のお土産を持ってきた友人にしても現地で買い求め、会社まで届けてくれたのですから気遣いはしていてくれたと思います。

 

しかし、フラッシュ・モブをされた女性は激怒し、管理人は貰ったお土産の扱いに困りました。両方に共通しているのは、相手の気持ちを無視した思い込みではないかと思います。海外旅行のお土産程度ならば笑って済ますこともできますが、人生の記念日ともなるプロポーズであるならば、もっと相手の気持ちを考えるべきではなかったかと思います。少なくとも相手が普段から派手なことを嫌う女性であったならば、論外であり、もっと別のプロポーズを考えるべきであったと言えます。

 

このようなことは日常生活や仕事でも多いのではないかと思います。ちょっと確認すれば済むことでも「〇〇は△△だから」と考えて行動して相手を不快にさせてしまうことは多いのではないでしょうか。ちょっとした確認作業ではありますが、思い込みで判断するよりは有益と思います。

 

 

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at 10:27, 星 良謙・子授け地蔵, 心の健康

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死の受容の五段階(星)

 

芙蓉の花が咲いていました。

 

 

恐らくは芙蓉(ふよう)の花だと思うのですが・・・・

 

 

それはさておき・・・・・

 

今回は、「死の受容の五段階」の話を取り上げさせて頂きます。

この話は、今回書きました経営書の中でも紹介しましたが、終末医療の先駆者であるキューブラー・ロスが『死ぬ瞬間』の中で「死の受容の五段階」として示した話です。


※エリザベス・キューブラー・ロス(Elisabeth Kübler-Ross;1926〜2004年)
「死」に関する科学的な認知を切り開いた精神科医であり、終末期研究の先駆者

 

1. 否認・隔離
頭では理解しようとするが、感情的にその事実を否認する段階。

 

2.怒り
自分が死ぬという事実は認識できも自分が死ななければならないことに対する強い反発がある段階。

 

3.取引
何とか死なずにすむように取引をしようと試みる段階。

 

4.抑うつ
現実を認めなければならない状況に追い込まれ、絶望的な気分となり、投げやりとなる段階。

 

5.受容
自分に都合の悪い現実を受け入れながらも今の自分に何ができるかを模索する段階。

 

この「否認→怒り→取引→抑うつ→受容」の5つの段階は、終末医療の研究から生まれた段階ですが、受け入れることができない現実を受け入れる段階にも適用できるのではないかと思います。勿論、この5つの段階は、死を受け入れるまでの過程であり、一般的な事柄に適応することはできない場合もありますが、受け入れ難い現実に直面した場合の人間の心理分析には役立つと思います。

 

そこで経営書でも取り上げてみました。最初は経営者が時代の変化に対応できない場合を考えてみましたが、この「否認→怒り→取引→抑うつ→受容」の5つの段階の順番にはならないこともあります。「否認」の段階にあっても伝統技術を頑なに守り続ける経営者のように伝統技術が見直されることがあります。

 

また、この5つの段階を人間関係に置き換えて考えてみましたが、やはり5つの段階の順番にはならないこともあるように思えました。この5つの段階は終末医療の患者がモデルであり、患者は本人の意志とは無関係に死を迎えますが、人間関係の場合には、特定の段階で思考停止する場合があります。

 

本の中では、経営者と従業員の関係で書きましたが、今回は夫婦関係が悪化した場合を考えてみたいと思います。夫婦関係が悪化してもご主人には全く問題意識がないと仮定してみます。つまりご主人は、現実に起きていることを受け入れることが、出来ずに現実逃避しているとします。この状態で奥様も現実逃避しますと仮面夫婦となりますが、奥様が怒りの段階に移行する場合も珍しくありません。それに対してご主人は、相変わらず現実逃避して問題が存在していることを認めない場合もあります。

 

奥様が次の段階になりますと、何とか状況を打開しようと取引の段階になります。しかし、ご主人には何の問題意識もないことから話が全くかみ合わない。これも良くある話ですが、この次の段階が「抑うつ」、つまりあきらめの段階となります。「死の受容の五段階」では、この次の段階が自分に都合の悪い現実を受け入れながらも今の自分に何ができるかを模索する段階である「受容」の段階となりますが、夫婦関係の場合には、家庭内別居か、離婚となる可能性が高くなります。

 

しかし、実際にはもっと複雑であり、ご主人は「否認」の段階で思考停止している場合もあれば、奥様が「怒り」や「取引」の段階で思考停止している場合もあります。そのため、この「否認→怒り→取引→抑うつ→受容」の5つの段階をすべての人間関係に置き換えることには無理がありますが、人間関係を考える際には、参考になるのではないかと思います。

 

本当は、此処で終わるべきなのでしょうが・・・・・

 

人間関係で悩んでいる知り合いを「否認→怒り→取引→抑うつ→受容」の5つの段階で占ってみました。具体的には、知り合いと相手の方がどの段階にあるかを易で鑑定してみました。

 

う・・・ん、相手方が見事に否認の段階で思考停止していました。相手の方が否認の段階で思考停止していると話し合いにもならないと言ったところでしょうか。

 

at 21:07, 星 良謙・子授け地蔵, 心の健康

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負のループ(星)

毎年の事ですが・・・・

確定申告に追われています。今年こそは早く片付けようと、準備していたのですが・・・・

あたふた (((^^;)(;^^) ))あたふた

今年もぎりぎりの提出になりそうです。

ウーム (; _ _ )/

それはさておき・・・・

管理人が大学を卒業したのは、遠い昔の話ですが、当時は厳しい就職難の時代でした。大手企業はコネでもなければ、採用されるのは難しく、地方公務員に至ってはコネがあるのが当たり前であり、採用されるかどうかは、コネの強さが物を言うような状況でした。管理人には親の七光りも何のコネもありませんでしたので、ある企業に営業として就職しましたが、配属された営業所の所長は、高度成長期の夢を抱き続けていたような人物でした。

経済が拡大し続けている時期は、黙っていても市場は拡大し続けていることからまじめに働いてさえすれば、売り上げはついて来ますが、低成長期の時代になれば、まじめに働いていても売り上げが伸びるとは限りません。しかし、所長は「まじめに働いてさえすれば、売り上げはついて来る」の思考から抜け出せない人物であり、これは配属先の所長だけでなく、会社全体に蔓延している空気でした。

勿論、現場の実情を熟知している係長クラスは、まじめに働いていても売り上げが伸びるとは限らないことは知っていましたが、会社の方針を変えるような力はありませんでした。その結果がどうなったかと言えば、営業成績を残せない社員に対しては、所長の罵声が吹き荒れていました。これは管理人が配属された営業所に限られた話ではなく、どの営業所も同じ様な状況でした。そのため、春に30人近く採用された新入社員も夏のボーナス(寸志)を支給されると半分に減り、冬のボーナスを支給されと更に半分に減りました。

そして3年目の春に残っていたのは、片手にも満たない人数でした。しかし、その数少ない人数の中には、最初から別の部門に配属が決まっていた人間と役員のコネで入社した人間がいましたので、実力で生き残った人間は皆無にも近い状態でした。そんな会社でしたので、管理人も転職する事ばかりを考えていました。更に家族の中にも問題があり、自宅に帰っても気が休まることがない日々が続いていたことや父はとにかく我慢しろといか言わない人間であったことからノイローゼ気味でした。

そんな頃に、ある方から自分の思考を図式化することを勧められました。自宅に帰り、早速思考を図式化することを試したところ、出口のないことに悩んでいることに気付きました。出発点は当然のことながら転職ですが、不況のため新卒でも就職先も見つけるが大変な状況でしたので、直ぐ就職先が見つかるはずもない、これと言った資格も特技もない、安月給でしたのでこれと言った貯金もないことから家を出ることも出来ない、紙に書き出してみますとあれもだめ、これもだめの連続となり、結局は今の仕事を続けるしかないとの結論となりました。

これでは振出しに戻っただけなのですが、悩んでいるときには、この負のループとも言うべき思考から抜け出せなくなっていました。自分では何とかしたいと色々と考えているつもりでしたが、これでは同じ悩みを繰り返しているだけであり、解決策など見つかるはずもないことにやっと気づきました。

では、どうしたかと言えば、悩みのループから抜け出すことでした。自分には出来るはずもないと考えていたことをやってみました。これがドラマの世界ならば、成功して「やれば出来るじゃないか」と拍手喝采のハッピーエンドですが、実際は、実力もないのに上手く行くはずもありません。当然、失敗して挫折しましたが、取り敢えずは失敗しても挑戦しました。挑戦して分かったことは、挑戦して失敗するのと、失敗を恐れて何もしないのでは、周囲の見る目が違うことです。挑戦して失敗して怒られたとしても、変わろうと努力していることは周囲の人間も分かります。

今考えるならば、そのことが一番大切ではなかったかと思います。誰でも最初は素人であり、出来なくて当然と開き直ることが出来れば良いのですが、人に出来て自分に出来なければ誰もが悩みます。まして日々売り上げのノルマに追われ続ける営業の世界では、罵声が飛び交うのは日常茶飯事でした。そんな生活に耐えきれずに多くの人間が退社しました。管理人もその会社には4年間勤めましたが、別の会社に転職しました。転職した理由は、管理職になってもノルマに追われ続ける実態が分かったことや経理や人事などのノルマとは無縁に思えるような部署の社員の愚痴を聞くようになったことでした。

転職先の仕事もやはり営業でしたが、前の会社ほどはノルマに追われ続ける事もありませんでした。しかし、一般事務に比べるならば、定着率が低いのは同じでした。営業の世界は、売れれば天国、売れなければ地獄と言った世界でしたが、懸命に努力している人間に罵声を浴びせる管理職はいませんでした。これはどの世界でも同じではないかと思います。悩んで何も出来ずに立ちすくんでいるのは、周囲の人間を苛立たせるだけですが、失敗しても変わろうと努力しているならば、成果は残せなくてもその努力は認められます。その努力が周囲から認められるならば、結果は残せなくても道は開かれると書けば楽観的と言われるかもしれませんが、出口のないことで悩んでいるならば、失敗を恐れずに挑戦することが大切だと思います。



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at 10:03, 星 良謙・子授け地蔵, 心の健康

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無気力について(星)

先日の事ですが、タレントの「見栄晴」が「しくじり先生」に出演していました。人気のある番組であることから見られた方も多いのではないかと思います。さすがにタレントだけであって話は軽妙ではありましたが、話の内容には少しばかり驚かされました。話の内容は、生まれてから一度も夢や希望を持ったことがない「無気力人生」であり、運だけを頼りに生きて来たと言った話でした。

また、大学受験会場にまで行きながら周囲の受験生が優秀そうなことを理由に受験を諦めて帰ったり、せっかく大学に合格しながらもパチンコ三昧の日々で中退、競馬にのめり込み借金を数百万の借金、親に返済してもらうも再び借金・・・・

う・・・ん、流石に管理人も引きました。

どうしてそこまで無気力になれるのか?

家庭環境なのか、持って生まれた性格なのか、何らかの病気なのか
職業病と言うか、つい気になってしまいました。
そこで前回に続き、今回も数秘術で占ってみました。

しかし、数秘術と言ってもあまり一般的ではないことから、数秘術について少し解説します。
数と神秘思想のつながりは紀元前からあることから、そのルーツは明確ではありませんが、現在「数秘術」として知られている占いとは異なるようです。また、欧米では数秘術は生年月日から運勢を判断するのではなく、アルファベットを数字に置き換える西洋流の姓名判断が主流である本で読んだことがあります。事実、日本でも数秘術と言えば、名前をローマ字に置き換えて判断する鑑定が主流のようです。

また、数字の意味には、ピタゴラス学派の流れを組む解釈とカバラの流れを組む解釈があり、微妙に異なります。ラッキーカラーに違いがあると聞いたこともありますが、ラッキーカーラーに疑問を感じていますので、正直なところ良く分かりません。

具体的な占い方は、タレントの「見栄晴」を例に解説します。

見栄晴
1966年(昭和41年)11月13日

やり方は、構成している数字を足します。
そして、一桁になるまで更に数字を足します。

1+9+6+6+1+1+1+3=28
2+8=10
1+0=1

これが基本数の「1」となります。この基本数で性格や相性、年運、月運などを占うのが一般的です。
尚、姓名判断の場合には、アルファベット順にA を1、 Bを2、Cを3、Dを4、Eを5・・・・と順に当てはめます。

管理人も基本数は重視しますが、主に構成される数字の偏りから性格の傾向性を占っています。

3     66    9

1111

w(@。@;)w オウ〜

「1」が4つに「6」が2つ、欠落している数字が「2」「4」「5」「7」「8」

α~ (ー.ー") ンーー 何とも極端な・・・

通常は基本数が「1」の人は強い意思を持つとされているのですが・・・・(- .-)ヾ ポリポリ

少し解説しますと「1」は物事の始まりを表す数字であり、根源的な力を表すことから基本数が「1」の人は強い意思を表すとされます。そのため、一般的には強い意思を持つとされていますが、本人の性格とは大きく異なります。

しかし、「1」が4つは精神的な働きが非常に活発であり、思考と表現に大きな落差のあることを表します。このタイプの人は、頭の回転が速すぎて、言葉の表現が追い付かない傾向があります。また、このタイプの人は一般的に自己主張や欲求も強いことから自己中心的になりやすい傾向もあります。

次に「3」「6」「9」の列が揃う場合には、完全な精神の列を表し、安定した精神を持つとされます。

そして「6」の2つは、家庭内での不安や過保護を表します。

さて、ここまで書きましたが、「見栄晴」の無気力さの原因が解明できないような気もしますが・・・・・

「2」「4」「5」「7」「8」「9」の欠落を考えると少しばかり見えてきます。

「2」は感受性の欠落、「4」は安定性や着実さの欠落、「5」は活動力や行動力の欠落、「7」は計画性や思いやりの欠落、「8」は事務能力や財務能力の欠落を表します。また、「2」「5」「8」の欠落は、思いやりや社交性の欠落を表します。

最初に特徴的な「1」の4つから考察しますと、頭の回転が速い人の欠点としては、考え過ぎることがあります。つまり、行動する前に結論を出してしまう傾向があります。これは悪い方に働きますとあきらめが早くなります。更に「2」「5」「8」が欠落しているだけでなく、計画性や夢を追い求める「7」が欠落していまることが、無気力の原因と思われます。

また、「4」と「8」が欠落していますので、金銭管理が苦手であり、安易に借金してのではないかと思われます。

う・・・ん、本当は人間関係の問題にまで触れたかったのですが、長くなりましたので、ここまでとさせて頂きます。m(_ _)m

at 00:32, 星 良謙・子授け地蔵, 心の健康

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先入観の危うさ5(星)

前回の投稿は、引用ばかりが長くなってしまい申し訳ありません。
引用ではなく、要約を投稿したかったのですが・・・・
元々が難解な話ですので、抜粋するのが精一杯と言ったところです。(- .-)ヾ ポリポリ

前回ご紹介したのは、六師外道(ろくしげどう)と呼ばれる釈迦在世時の中インドの代表的な六人の思想家です。

プーラナ・カッサバ 道徳否定論
パクダ・カッチャーヤナ 因果否定論・七要素説
マッカリ・ゴーサーラ 宿命論
アジタ・ケーサカンバラ 唯物論・快楽主義
サンジャヤ・ベーラッティプッタ 懐疑論
原始ジャイナ教 ニガンタ・ナータプッタ

勿論、六師外道とは仏教側の呼び名です。
釈迦は、上記の道徳の否定論・唯物論・宿命論・不可知論・厳格な戒律の遵守と苦行を重視するジャイナ教が異端として排斥しました。ここで気になるのは、当時のインドで主流派であったバラモン教(後のヒンドゥー教)を排斥してないことです。この点は気になりますが、話が逸脱しますので、今回は見送らせて頂きます。

今回は、お釈迦様の説いた教えと六師外道の批判について、「原始仏教 その思想と生活 中村 元著 NHKブックス」より引用させて頂きます。

α~ (ー.ー") ンーー 冷たい視線を感じるような・・・・

 

 初期の仏教聖典の中には、この事態がくりかえし論述されている。

『世の学者たちは、めいめいの見解に住みついて、お互いに異なった執着を懐き、みずから真理への熟達者であると称して、種々(しゅじゅ)に論ずるー「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ完全者ではない。』と
それらの哲学者はみな自説だけが絶対に真実な完全説であり、他の説は虚偽であると主張する。

かれらはみずから自己の哲学説が完全なものであると思いなおし、心の中でみずから「完全な者」であると自認している。かれらの立場の根拠を検討すると、必ず一様ではないが、互いに相抗争しているという点では共通である。

中略

釈尊(しゃくそん)の批判
 ゴータマ(釈尊)は、哲学者たちが互いに争っている事実に対して、『かれらは自己の見解に耽溺(たんでき)して汚れに染まっているが故である。』と批判した。

中略

論争の超越
 ゴータマはこのような論争は無意義であるとして、論争に加わることは欲しなかった。釈尊(しゃくそん)の教えはもろもろの哲学的見解を超越したものなのである。したがって仏は『諸(もろもろ)の論争を超越している。』といわれるが、かれは争いを捨て去っているのである。
 『一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。』という立場に立っていた。だから最初期の仏教は哲学説にとらわれない立場に立っている。「邪悪を掃い除く」ということをめざしているのであって、特殊な形而上(けいじじょう)学説を樹立しようとするのではないのである。

原始仏教 その思想と生活 中村 元著 NHKブックス



この本の中では、この後に「捨置記(しゃちき)」とか「置答(ちとう)」と言われる話が続きます。
簡単にまとめますとお釈迦様は下記の質問には答えなかったとされています。

我および世界は常住であるか(時間的に無限)、あるいは常住ならざるもの(時間的に有限)であるか
我および世界は(空間的に)有限であるか、あるいは(空間的に)無限であるか
身体と霊魂は一つであるか、あるいは別物であるか
人格完成者(如来)は死後に生存するか、あるいは生存しないのか

ここでは8種類の質問に答えなかったとされていますが、「十無記」(じゅうむき)、「十四無記」(じゅうしむき)、「十六無記」(じゅうろくむき)の説もあります。

この世は
1.常 (時間的に無限) であるか
2.無常 (時間的に有限) であるか
3.常にして無常であるか
4.常でも無常でもないか
5.有辺 (空間的に有限) であるか
6.無辺 (空間的に無限) であるか
7.有辺にして無辺であるか
8.有辺でも無辺でもないか

一切の生物は
9.死後に有であるか
10.無であるか
11.有にして無であるか
12.有でも無でもないか
13.霊魂と身体とは同一であるか
14.同一でないか

数の違いは設問の設定の違いであると言えます。

しかし、お釈迦様が死後の世界について語ることを拒絶しているとなると他力の教えはお釈迦様の教えではないのかとの話になります。勿論、他力の教えに限られた話ではなく、大乗仏教がお釈迦様の教えではないと言うことになってしまいます。このことは大乗仏教の否定につながる話となりますが、このことに関しては別の機会に取り上げさせて頂きます。
 

ともかく、以上の考察を通じてわれわれは、初期の仏教の基本的な立場に顕著な二つの特徴を認めることができる。

一 無意義な、用のないことがらは議論するな。
二 われわれは、はっきりした確実な根拠をもっているでなければ、やたらに議論してはならぬ。

かくして妄想(戯論)を捨てることによって、はじめて安らぎ(ニルヴァーナ)に到達しうるという。

原始仏教 その思想と生活 中村 元著 NHKブックス


戯論(けろん) 仏教用語。無意味で無益な言論のこと。
ニルヴァーナ 仏教用語。究極的目標である永遠の平和,最高の喜び,安楽の世界を意味する。

解説の必要もないと思いますが、お釈迦様の教えは確証のない話を拒絶する立場です。
しかし、各宗旨宗派の教えの違いや対立は、経典の解釈の違いや検証が不可能な内容の意見の違いです。

例えば、浄土宗と浄土真宗の教えの違いは突き詰めれば、死後に救われるか、生前に救われるかの違いです。
また、浄土真宗本願寺派と真宗大谷派の中興の祖の蓮如上人と真宗高田派の中興の祖の真慧上人の教えの違いは、阿弥陀仏の慈悲を信じることを重視すべきか、阿弥陀仏の慈悲を信じるからこそ念仏を称えることを重視すべきかの違いです。
門外漢からするならば、争う必要のないことで対立している気がします。
検証が不可能な話である以上は、どんなに議論しても際限がなくなります。
そのため、「かくして妄想(戯論)を捨てるこてによって、はじめて安らぎ(ニルヴァーナ)に到達しうるという。」の教えは、素直に納得してしまいます。
 

教説の実践的性格
 初期の仏教は特殊な教説を立てて他の宗教や哲学と争おうとしなかったが、めざす究極の境地に到達するために、民衆のそれぞれの精神的素質や立場を尊重しながら真理を説くことを忘れなかった。そこで同一の真理が異なったしかたで説かれることが許される。また相手の素質に応じて教えを説く対機説法とか、方便思想とかは、仏教の教化方法の特徴的なものとして重視された。

原始仏教 その思想と生活 中村 元著 NHKブックス


宗教家としては、実に寛容と言うか、理想的と言えます。
それだけ、お釈迦様は偉大というしかありません。

at 12:59, 星 良謙・子授け地蔵, 心の健康

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先入観の危うさ4(星)

あらゆる既成概念にとらわれることなく、ありのままに物事を見ることが仏教の根本の教えとも言える中道ではありますが、このあらゆる既成概念にとらわれないと言うのが実に厄介です。自分では意識していなくても実際には何らかの既成概念を持っているのが普通です。以前のことですが、海外で暮らしている日本人の方が日本で暮らしているときには、自分は無宗教であると考えていたが、海外で暮らしていると日本人的な宗教観を身に着けていると感じると言われていました。

これは普段何気ない生活の中に宗教が溶け込んでいることから自覚できないだけで、多かれ少なかれ神道や仏教の説く、死生観や世界観の影響を受けているではないかと思います。このように考えますとあまりに話が広がり過ぎて何が排除すべき既成概念かが分からなくなりますので、今回は「原始仏教 その思想と生活 中村 元著 NHKブックス」を参考にお釈迦様が生きた時代に説かれていた異端の思想をご紹介したいと思います。勿論、これは仏教徒が異端として扱った思想です。

 

二 異端の思想家たち

(一)道徳否定論(プータナ)
 当時の社会には道徳を否定するのみならず、その否定を公然と表明する思想家がいた。その代表はプーラナ・カッサパである。プーサラは奴隷の子であり、その主人の牛舎で生まれ、主人のもとから逃れ、そのとき衣を取られて以来裸形でいたといわれる。当時のインドには裸形の行者が多勢いたから、かれもその一人であったのであろう。

中略

 ここでは世間一般に美徳として賞賛されていることを否認しているのである。かれは、善悪の区別は人間がかりに定めたものであり、真実においては実在しないものであり、業に対する応報もあり得ないと考えて、道徳観念を否定したのであった。
 道徳否定論は、かれにつづく幾多の思想家によって公然と唱えられたが、この事実は当時の都市文化の爛熟(らんじゅく)と、それにともなう道徳頽廃(たいはい)の現象に対応するものであった。


(二)七要素説(パクダ)
 唯物論者は霊魂と身体を一体と見なしたのであるが、一部の思想家は霊魂という独立の原理を認めるとともにそれを物質的なものとみなして、身体を構成している物質的要素と同じ資格のもと解した。物質的な五元素(地・水・火・風・空)のほかに、アートマンを第六の要素と見なす説が当時行われていたということを、ジャイナ教の聖典は伝えている。こういう思想傾向の一つの発展形態としてパクダの七要素説が現れたのである。

中略

 そこで実践の問題に関して異様な結論がみちびき出される。−故に世の中には、殺す者も殺さしめる者もなく、聞く者も聞かしめる者もなく、識別する者も識別せしめる者も存在しない。利剣(りけん)を以(もっ)て頭を断つとも、これによって何人も何人の生命を奪うこともない。ただ剣刃が七つの要素の間隙(かんげき)を通過するのみである-と。
 かれは霊魂というものを認めているから、その思想は純粋の唯物論または感覚論ではないけれども、著(いちじる)しく唯物論的である。そうしてこう立場の哲学説は実践(じっせん)論的には道徳を否定するものであり、その点はプーラナやのちにのべるアジタの場合と同様である。

(三)宿命論(ゴーサーラ)とアージヴィカ教
 宿命論または決定論はインド一般に異端説の一つとみなされているが、特にゴーサーラを開祖とするアージヴィカ教によって唱導(しょうどう)されたものである。

中略

このように、かれは自由意志にもとづく行為を否定し、したがって個人の因果応報を否定し、徹底的な決定論あるいは宿命論を説いたのである。意志の自由を否定した最初の思想家であったと言えるであろう。

(四)唯物論(アジタ)
 プーラナなどに見られるような道徳否定論は、哲学的には唯物論によって基礎づけられる。おそらく道徳否定論を基礎づけるために、唯物論がやや遅れて現われたらしい。その代表的理論家はアジタである。

中略

 アジタによると、人間が死ぬと、人間を有制していた地は外界の地の集合に帰り、水は水の集合に、火は火の集合に、風は風の集合に帰り、もろもろの機官は虚空に帰入する。人間そのものは死とともに無となるのであって、身体のほかに死後にも独立する霊魂なるものはあり得ない。愚者も賢者も身体が破壊されると消滅し、死後には何も残らない。したがって現世も来世も存ぜず、善業あるいは悪業をなしたからとて、その果報を受けることもない(仏教ではこのような見解を「断見」すなわち断滅論とよんでいる。)。施しも祭祀(さいし)も供犠(1)も無意義にものである。世の中には父母もなく、また人々を教え導く「道の人」(沙門)・バラモン(2)も存在しないと主張した。
 ここにプーラナの主張した道徳否定論が哲学的に基礎づけられたことになるのである。したがって、かれは哲学的に唯物論であり、認識論の上では感覚論、実践生活の上では快楽論の立場にたっていたと考えられる。

補足
供犠(くぎ) 供物やいけにえを神霊に供えること
沙門(しゃもん) 僧となって仏法を修める人 
バラモン インドの4つのカーストのなかで最上位の階級。司祭者階級で,『リグ・ベーダ』以下の4ベーダその他の聖典を伝承し,祭祀を司り,その祭祀によって神々を動かす力をもつとされ,他の階級を指導した。

(五)懐疑論(サンジャヤ)
 真実をあるがままに認識し、叙述することは不可能であるという主張、すなわち不可知論(無知論)は、インドにおいても古くからあらわれた。その代表的な思想家はサンジャヤである。

中略

ゴータマ・ブッタ(1)の二大弟子サーリプッタ(舎利弗・しゃりほつ)と大モッガラーナ(大目犍連・だいもくけんれん)は初めはこの人の弟子であったが、ゴータマ・ブッタがさとりを開いた翌年に王舎城(2)に来たときに、同門のもの二百五十人とともにゴータマの弟子になったので、サンジャヤは「血を吐いた」と伝えられている。これは、歴史的にみて、仏教はサンジャヤの懐疑論をのりこえたところに現れ出た新しい思想運動であったことを示している。

中略

かれの立場は「鰻のようにぬらぬらして捕え難い議論」と呼ばれ、また形而上(けいじじょう)学的問題に関して確定的な知識を与えないと言う点で「不可知論」とも称せられる。ここにインド思想史上初めてまた形而上(けいじじょう)学的問題に関する判断中止の思想が明らかにされた。

補足
ゴータマ・ブッタ お釈迦様のこと

王舎城(おうしゃじょう) 古代インド、マガダ国の首都。現在のビハール州南部のラージギルはこの旧跡。釈尊に非常に関係のある都城で、王舎城の東にある霊鷲山 (りょうじゅせん) や郊外の竹林精舎は、釈尊が長く住んで国王の供養を受け、民衆の教化を行なったので知られている。

形而上学(けいじじょうがく) 世界の根本的な成り立ちの理由(世界の根本原因)や、物や人間の存在の理由や意味など、見たり確かめたりできないものについて考える。

(六)原始ジャイナ教

 ジャイナ教は独自の哲学体系を発展させたが、それはやや年月を経過してからのことであるらしい。ジャイナ教の特徴は、そのきびしい修業である。
 ジャイナ教によると、霊魂は業に束縛されて、このような悲惨な状態に陥っているが、それから脱し、永遠のやすらぎである至福の状態に達するためには、一方では苦行によって過去の業を滅するとともに、他方では新しい業の流入を防止して、霊魂を浄化し、霊魂の本性を発揮せしめるようにしなければならない。この修業を徹底的に執行することは、世俗的な在家の生活においては不可能である。そこで、出家して修行者(沙門)となり、妻子と離れ一切の欲望を捨て、独身の遊行(ゆぎょう)生活を行うことを勧めている。このような修行者はビク(乞う者の意)とも称せられ、托鉢乞食の生活を行っていた。仏教でも修行僧のことをビク(比丘)というが、それはジャイナ教などからとり入れたものである。またその修業はバラモン法典に説く「遍歴」に対応する。

中略

 かれらのためには多数の戒律が制定されているが、まず第一に遵守(じゅんしゅ)すべきものは、不殺生・真実語・不盗・不婬・無所有の五つの大戒である。すなわち、
1 生きものを殺すなかれ。
2 真実のことばを語れ。
3 盗むなかれ。
4 婬事を行うなかれ。
5 何も所有するなかれ(=執着するなかれ。)
というのである。
 ジャイナ教の修行者は戒律を厳格に遵守(じゅんしゅ)し、実行している。戒律を破るよりはむしろ死を選んだほどである。

中略

ジャイナ修行者はさらに断食・禅定など種々(しゅじゅ)の苦行を修めなければならない。ものすごい苦行の実情が叙(じょ)せられている。

中略

 ところでジャイナ教は不殺生の戒律の実行を世俗の人々に対しても要求する。それを徹底的に実行すると、生産に従事し得ないことになる。木樵りにはなれない。木を伐ると、樹上の鳥の巣を害(そこな)うからである。干拓してはならない。水中の虫が死ぬからである。田を耕すのもこのましくない。みみずなどを傷つけるからである。そこで残る職業は、小売業と金貸行だけである。

原始仏教 その思想と生活 中村 元 NHKブックス P16-30


長々と引用しましたが、基本的には道徳の否定論・唯物論・宿命論・不可知論・厳格な戒律の遵守と苦行を重視するジャイナ教が異端として排斥さていると言えます。最後のジャイナ教は今日もなおわずかながらも無視できない信徒数を保っています。

仏教の基本的な考え方にまで触れれたかったのですが、引用が長くなりましたので、次回に続きます。

at 14:50, 星 良謙・子授け地蔵, 心の健康

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先入観の危うさ3(星)

シリーズ化する気持ちもなく、「先入観の危うさ」で書き始めましたが、この問題は根の深い問題であることから、このテーマを少しばかり継続しようかと思っています。

さて、今回取り上げるのは、織田信長の話です。織田信長の躍進の原動力となったのが、鉄砲の活用・楽市楽座・農兵分離であると言われることか多いのですが、調べてみますと史実と異なることが多いようです。

 

根拠のない定説
 信長が三千挺の鉄砲を三段撃ちもさせて、武田の騎馬隊を撃滅したというのが「定説」目玉であるが、これは小瀬甫庵(1)の『信長記』という書物に出てくるもので、なんら根拠のある話ではない。たとえば信長の旧臣・太田牛一の著書『信長公記』の自筆本には、三千挺どころか、「千挺ばかり」という数値が挙げられているにすぎない。この点を最初に指摘されたのは藤本正行氏だが、甫庵の『信長記』と『信長公記』との資料としての信頼度を考えれば、後者に従うのは当然であろう。
 三段撃ちにしても同じである。この戦いに関係した者の書簡や覚書などには、そんなことはいっさい出てこないし、『信長公記』ももちろん触れていない。それだけでも否定されておかしくないし、信長がこうした戦法を考えついたとも思えない。仮に考えたとしても、信長にとっては実行の可能性もなければ、必要性もないものであった。
 もし三段撃ちをやってみようとすれば、予定された戦線をカバーできるほどの大量の鉄砲と複雑な運動をこなせる、よく訓練された兵士とそのような運動ができる空間が必要であるが、長篠の信長にはすべて欠けていた。鉄砲は千挺ほどしかなかったし、それを操る兵士たちは、共同訓練を経たことのない寄せ集めの連中だった。おまけに、もともと狭い所に何重もの障害物を設けたため、彼らが入れ替わりながら動けるよちなどなかった。
 一方、大勢の従兵を何段にも並べ、ひっきりなしに撃たせる必要があるのは、敵方も同じように横長に展開して、一斎とぎれることなく、攻撃をかけてきたような場合である。ところが、長篠の武田勢は、織田・徳川勢よりもずっと人数もすくなかったうえに、全軍が一斉に仕掛けてきたわけてもない。とすれば敵が目の前にいる、いないにかかわらず、絶え間なしに一斉射撃をかけるといった無駄なことをする必要はなにもない。
 三千挺の三段撃ちというのは、こういう具合にまったくのデタラメなのだが、陸軍参謀本部が明治三十六年(一九〇三)に編集した『日本戦史』が真説であるかのようにこれを取り上げた。それ以来、ネコもシャクシも主張するようになったものである。
 武田の騎馬隊とか騎馬軍団つかいうのも、同様に甫庵の記述などから生まれた勝手な妄想にすぎない。この時代には、騎馬武者だけを集めて一隊をつくるなどということはありえなかった。軍隊の構造が、そのようにできていなかったからである。また、騎馬武者も、戦闘にあたっては、ほとんどが下馬してしまうのが、長篠の戦いなどのずっと以前からの慣行であった。その点については、いくらもたしかな証拠がある。(2)

講談社現代新書 謎とき日本合戦史 鈴木眞哉著 P131-132


補足1
小瀬 甫庵(おぜ ほあん、1564年(永禄7年) - 1640年10月6日(寛永17年8月21日))
戦国時代から江戸時代初期にかけての儒学者、医師、軍学者。『太閤記』『信長記』の著者として知られる。

 

鉄砲は天下を統一したか?
 鉄砲が天下と統一を促進したというのも、よく見かける主張である。それをいっている人たちは、例外なく信長を念頭においていて、彼は鉄砲を活用することによって、覇業を達成したとするのである。
 「信長」派の人たちが判で押したようにいいたがるのは、群雄たちの中でも、信長はとりわけ大量の鉄砲を使用したということである。そういうことを始めたのは信長であるとか、それができたのは信長だけであるとか強調している人も少なくない。
 それがあやまりであることは、すでに触れた元亀元年の摂津野田・福島両城での戦い(1)をみてもわかる。それ以前にも、永禄四年(一五六一)、豊後の大友宗麟(おおともそうりん)(義鎮)が、豊前門司城を毛利氏から奪い返すため、鉄砲千二百挺を用意したというような事例もある。
 これに対しては、『信長公記』や信長関係のたしかな文章を見ていった限りでは、さほど大量の鉄砲を集めたことはない。もっとも大きな数値が出ているのは長篠(ながしの)の戦いのときで、『信長公記』によれば別働隊に五百挺、主戦場に約千挺を配備している。ただし、前者は直属の鉄砲衆のものだが、後者の約千には、たまたま帰属していた諸将から提供させたむものが相当数含まれている。
 信長が鉄砲を活用したという戦例も、長篠以外には、ほとんどみられない。逆に、天正八年(一五八〇)まで、ちょうど十年間続いた石山合戦、その支作戦である二度の紀伊雑賀攻(きいさいかぜ)め(一五七七)では、相手方の鉄砲衆のため、しはしば苦杯を喫している。
 どうしてそのようになったかというと、そもそも鉄砲が統一を促進する(はずだ)という前提がおかしいのである。鉄砲の本場であり、歴史的な状況もかなり似ていたはずのヨーロッパでも、そんな現象は起こっていない。なぜかといえば、当時の鉄砲は、戦闘(battle)のレベルまでは、なんとか左右できたとしても、戦争(war)そのものを動かせるほど強力な武器ではなかったからである。
 仮に強力な武器であったとしても、それが天下統一に役立つためには、統一者側だけが大量の鉄砲を確保できるという前提条件が必要である。もし、他の勢力も、これに対抗できるだけの鉄砲を用意できれば、かえって割拠を容易にしてしまう。信長と、石山合戦の一方の主役ともいうべき紀州雑賀衆との間に起ったことは、そういうことであった。
 ヨーロッパには、火薬が平等をもたらしたというような考え方がある。誰でも火薬を手にすれば、領主たちと互角に戦えるようになったというほどの意味である。紀ノ川下流域の土豪集団にすぎない雑賀衆が、何十倍もの信長の大軍を迎え撃って負けなかったのも、まさにそれである。鉄砲の普及は、統一を促進したというよりも、かえってむずかしくしてしまったところがあった。

講談社現代新書 謎とき日本合戦史 鈴木眞哉著 P146-147


補足
野田・福島の戦い
元亀元年(1570)三好三人衆(三好長逸・三好政康・ 岩成友通)が動き出し、摂津(現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)に進出したとの知らせが、将軍、足利義昭から岐阜の信長のもとに入りました。信長は、岐阜を立ち京都に到着して京都の守りを固めて河内(現在の大阪府東部)へ行き、摂津に進軍。三好三人衆に籠る野田城・福島城の2つの城に攻撃をかけました。この戦いにおいて三好三人衆の援軍として根来衆(ねごろしゅう)・雑賀衆(さいかしゅう)・湯川衆および紀伊国奥郡衆約二万が来援し、住吉や天王寺に陣を張って織田勢へ鉄砲三千挺を撃ちかけたとされています。

この本は、日本の戦いの歴史の中で白兵戦が行われていた時代があったかをテーマとした内容の本であり、この本の中では映画や小説で描かれている合戦のように刀が主な武器として使用されていなかったことを検証した内容となっています。そのため、多くの方々が抱いてるイメージは、主に講談などの創作が元になっていると書かれています。その意味では、多くの人々の夢を打ち砕く内容となっているとは言えますが、非常に面白い内容であり、戦国時代に興味のある方ならば、お勧めの一冊です。

さて、長文の引用となってしまいましたが、これを読んで頂ければ、織田信長の活躍の原動力を鉄砲に求めるのには無理があることを理解して頂けるのではないかと思います。この本は2001年9月20日が初版となっていますが、三千挺の鉄砲の三段撃ちの俗説を信じている方は少なくなく、経営書などでは、その俗説を前提にして解説している本も少なくないようです。しかし、長篠(ながしの)の戦いの鉄砲の三段撃ちを否定しているのは、この本の著者だけではないことから資料の下調べをされていないのかとの疑問を感じます。また、楽市楽座や農兵分離にしても俗説とは異なっているようです。何分にも歴史の専門家でもないことから詳しく解説できるほどの知識もありませんが、鉄砲や楽市楽座の導入、農兵分離に信長の躍進の理由を求めるのは安直すぎると思います。

このようのうなことを書くのかを書きますと、経営書の執筆をした際に信長を取り上げたかったのですが、あまりにも俗説が多過ぎて断念した経緯があります。確かに信長は優れた戦略を持つ武将であり、信長の戦いに学ぶべきことは非常に多いのですが、調べれば調べるほど一般に信じられている信長の生涯と史実が異なり過ぎることが分かりました。そのため、織田信長を取り上げようとするならば、史実の検証から始めなければならず、史実の検証を書きますと経営書ではなく、歴史の本になってしまうことから断念しました。

しかし、経営の本としては、史実とは異なるとしても俗説を前提とした方が、話は単純明快となり、分かりやすい話となります。逆に史実を重視しますと、信長の強さの秘密を解説するのは簡単ではありません。一般的に信じられている俗説を検証する作業から始めるだけでなく、当時の織田家の状況や周辺地域の状況、時代背景などを解説する必要があり、単純明快に説明することは出来ませんが、当時の織田家の状況や周辺地域の状況、時代背景などを調べますと、信長の優れた戦略に気付きます。

それらの事情を無視して話を単純化するならば、話は分かりやすくなりますが、本質が分からなくなるだけの話ですが、そんな話が氾濫しています。この背景にあるのは、根拠のない思い込みが独り歩きすることです。そしてその思い込みが世の中の常識となることも珍しくなく、一度定着してしまった思い込みの常識は、容易に解消しないようです。

今回引用させて頂いた「謎とき日本合戦史」のテーマも日本の戦いの歴史は主に刀を使用した白兵戦であったとの考えが単なる思い込みでしかなかったことの検証がテーマです。この著者によれば、日本の合戦の歴史において刀が主役であったことは一度もなく、常に弓矢・鉄砲などの飛び道具が主役であったことを検証されています。

これは何も日本に限られた話ではなく、西洋の軍隊においても鉄砲や大砲などによる攻撃よりも銃剣などを使用した白兵戦を重視した歴史がありました。しかし、その思い込みが打ち砕かれたのが、第一次世界大戦であり、余程特殊な場合を除き、鉄砲や大砲などの前には、白兵戦は成立しませんでした。そのため、西洋においては、白兵戦重視から火力を重視するようになりましたが、日本は第一次世界大戦に参戦はしたものの、ヨーロッパ戦線には参戦しなかったことから白兵戦を重視し続けたとあります。

本職の軍人ですら大多数の人が正しいと信じた思い込みを解消することは難しいことであり、現実を客観的に見ることは容易ではないと言えます。

at 07:57, 星 良謙・子授け地蔵, 心の健康

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先入観の危うさ2(星)

昨日から雨が降り続いていますが・・・・

買い物程度しか外出することもなく過ごしております。( ̄。 ̄)ボーーォ

このところ、少し時間があれば、以前に読んだ架空戦記を読み返しています。
架空戦記は、現実から離れた架空の小説ではありますが、作家によっては史実を少し修正することで、その後の歴史がどのように変わったかのシュミレーションの姿勢を貫いています。作品によっては荒唐無稽な新兵器を登場させ、日本軍が大活躍する小説もありますが、それよりも史実を少し修正することで、その後の歴史がどのよう変えることが出来るかに興味があります。これは一種の遊びなのですが、昔からはまっています。

しかし、考えてみますと、20年以上も第二次世界大戦を中心とした架空戦記の小説を読み続けていますので、最近では史実の記憶の方が曖昧になってしまいました。α~ (ー.ー") ンーー

それはさておき・・・・

前回の投稿で先入観を持つことの危惧について書きましたが、仏教の説く中道と先入観の関連について少しばかり考察してみたいとおもいます。中道は仏教の教えの根幹ではありますが、中道とは何かについて明確に説かれた本は非常に少ないと思います。一般的には中道とは、両極端を排除した考えと説かれることは多いのですが、両極端を否定するだけならば、折衷主義と同じではないかとの話となってしまいますが、仏教書に取り上げられている話は、折衷主義と受け取られかねない話が多い気がします。
 

中道
仏陀(ぶっだ)の境涯(きょうがい)。仏陀は渇愛に基づく快楽や、極端な苦行のどちらに偏っても真理には到達できないことを悟った。

Books Esoterica9 釈迦の本 P82


確かに間違いはないのですが、誤解を招きやすいと思います。しかし、この本の中には八正道の解説の中で下記のような表現があります。
 

【正見】(しょうけん) あるがままを見据える正しい見解
もしも人が見解(けんげ)(概念化された誤った固定観念)によって清らかになりうるならば、あるいはまた人間が知識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それでは煩悩(ぼんのう)にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によって清められることになるであろう。(スッタニパータ/中村元訳)

何をもって正しいとするのか? われわれの日常生活は概念化された固定観念に支配されている。仏陀はこうした見解を誤った見方としたむ。初転法輪(しょてんぽうりん)において説かれた中道論(ちゅうどうろん)とは、あるがままの姿を見きわめる見解であった。正見(しょうけん)はこの中道観を得るための智慧(ちえ)である。

Books Esoterica9 釈迦の本 P142


こちらの話の方が分かりやすいのですが、固定概念を捨て去り、あるがままの姿を見きわめるとは、先入観を捨て去り、あるがままの姿を見きわめると言い換えることが出来るのではないかと言えます。しかし、これは言葉で言えば簡単な事ですが、実践することは容易ではなく、固定概念を捨て去り、あるがままの姿を見きわめるための方法論が、正見から始まる八正道の教えです。これは仏教の根本的な修業方法であり、正思惟(しょうしゆい)・正語(しょうご)・正業(しょうごう)・正命(しょうみょう)・正精進(しょうしょうじん)・正念(しょうねん)・正定(しょうじょう)を実践することで悟りを目指します。

当然のことながら八正道を日々実践しても簡単に悟れるはずもなく、それだけ固定概念や先入観を捨て去ることは非常に難しいことであると言えます。禅問答の難解な問いもこの固定概念を打ち破ることを目的にしているのではないかと思います。既成概念や常識を打ち破るためには、常識で考えていては答えを得られない問いが禅問答と言えるのではないかと思います。

at 09:01, 星 良謙・子授け地蔵, 心の健康

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