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ふと閃いた事(影)

大変ご無沙汰しております。
影武者で御座います。m(_ _)m

うわぁ、ブログ書くのって1年ぶりかなあ・・・( ̄Д ̄;)

最近ようやく、数年間悩んでいた大きな問題が自分の中で片付きました。
そして、その大きな問題が片付いたが為に、自分の核心的な問題が出てきて、今それに取り組んでいます。
片付けていて「こんな物まであったの?」と言う気持ちになるのは、まるでゴミ屋敷と同じ状態です。
まあ、あと先祖や他の霊的な問題もまだまだあって、それらが現実に及ぼしている影響に対して
オリャー!! (ノ`A´)ノ ⌒┫ ┻ ┣ ┳ ブザケンナ!
となることもしばしばありますが(笑)、家族も次第に変化しつつあり、ご神仏や色んな人の支えがあって何とかここまで来れました。( ^ー゜)b

さて、自己満足な話ですが、本題です。(^_^;)

私は今まで自分が良くなってきても、人の痛みを忘れたくないと思って、手放しても良いような自分の悲しみや苦しみでさえ、あえて手放しませんでした。
しかし、先程ふと、ご神仏と言うハードディスクに自分の辛かった時期や苦しみなどを預けて、それで自分が人の痛みを忘れそうになったら、そこから引き出す、または(無茶かもしれませんが)インスピレーションと言う形で教えてもらえば良いんだと、思い立ちました。
人の痛みを知ろうと思うことは、とても大事なこだと考えています。
しかし、いつまでも自分がそれを持っていて、その悲しみが却って執着になって自分の足を引っ張る結果になるぐらいなら、いっその事ご神仏に預けた方が良いと。
そう閃いて自分では、お、と思いました。(°o°)!

本題はこれだけです。

ここからは蛇足ですが、
ここまで書いて、何を言うとるか分からない、と思われる方もいると思います。
私の言いたい事がよく分からず、中には不満な方もいると思います。
どんなに言葉を尽くしても、発信者が意図したことを受け手に伝えるのが難しい事だと、ブログやメールを書いていて感じて来ました。
面と向かって発信していない分、分かり辛いのは当然だと思います。(面と向かっていたってお互いの解釈にズレは必ずありますけど)
それについては、先日の「ホンマでっか!?TV」で、メールでも受け手が正確に解釈出来るのは5割だと、取り上げていました。
やはり相手の表情や声色無しで、文字のみと言うのは解釈を困難にするようです。
ブログやツイッターになると何割になるんだろう・・・。( ̄〜 ̄;)ウーン・・・
因みに絵文字を使用すると解釈がより正確になるそうですが、それでも何割程度上がるのか不明です。

なので、昔のように人の目を気にするような書き方はやめます。
発信者と受け手の差があるのを前提で、自由に自分の書きたい事を書いています。( ̄ー ̄)ニヤリ

まあ、本来ブログってそう言うものだし。ヽ( ´ー`)ノ
完璧を求められても出来ませんから。

人の受け方はそれぞれですので、私が思いついたことでも何か感じてもらう事があれば幸いです、と言う事で。(笑)
世の中、何処にヒントが落ちているか分かりませんしね。


影武者

at 17:16, 影武者, 影武者のぼやき

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心あっての・・・・(影)

 星さんの最近の記事で思うことがありましたので、関連した内容を投稿します。( ̄-  ̄ ) ンー

「憑依についてァ弊院法
>「心あっての祝詞であり、祝詞あっての心ではない」との御神霊のお言葉

「憑依について(星)」
>しかし、多くの人はお経を熱心に読むことで特別な人間になったような錯覚に陥ることが多いようです。


霊能力、特別な使命・特別な人間などに対する憧れの気持ちは、以前より殆どないと思っていましたが、それでもまだまだ自分は人とは違うんだと言う思いがあるようです。

先日電車に乗っていました所、外観は如何にも家に帰らず夜遊びばかりしているような少女が横に座ってきました。(←そんな見方をしていてごめんなさい)

その日私はカバンに経本と数珠と祝詞の本を入れていましたので、暇つぶしと言っては何ですが経本をめくり始めました。

すると、横の少女が小さなお子様連れの若いお母さんに席を譲ろうと声をかけていました。
結局、そのお母さんは申し出を断ったのですが、私はその少女に気付かされました。

私は経本を持ち、一応ながらも読めるのに、(多分)お経にも興味が無いような少女はお経を読まずとも、親子連れの方を見て何の迷いも無く席を譲ることが出来る凄さに、ハッとさせられました。

単純に経本を持っていて読めるだけでは何の役にも立たないと。
お経や祝詞を読むことも大事ですが、それ以前にその心が重要なんだと改めて気付かされました。

また、見た目で人を判断してはいけないと思いながらもやはり見た目で判断していた自分、それと同時に、自分の心の中に、在家ながらも自分はお経や祝詞がこれだけあげれるんだから人とは違うんだ、との馬鹿馬鹿しい虚栄心があったことに気付きました。

情けない・・・・・・。orz

本当に色んな人から学ぶことが多いですし、その気付きを見過ごさないようにしたいと思っています。

日々の生活の中に活かせて初めて神仏のお心に近づくことが出来るのだろうと、改めて考えさせられた影武者でした。



影武者

at 00:53, 影武者, 影武者のぼやき

comments(11), trackbacks(0), pookmark

ご神仏の働き(影)

皆様、ご無沙汰しております。残暑お見舞い申し上げます。m(_ _)m

影武者のお蔵入りシリーズです。(笑)何度も加筆修正繰り返しましたが、言いたいことを書き連ねていますので、読み辛く長い記事になりましたが何卒ご容赦を・・・ぺこ <(_ _)>

よく「ご神仏が本当にいるなら何故戦争は起こるの?」と言われます。私も過去、それは疑問でした。
しかし、神仏の働きを体感すればするほど、人間は意外と神仏の心を人間の物差しで測って都合良く考えているなあ、と改めて思います。

神仏でも人間を操ることは出来ない、と言うのは再三御神霊から言われます。
戦争など悲惨なことや理不尽なことなどは人間の意志によって起こるもので、神仏が働いていないから起こる訳ではないと思います。

昔私が大好きで見ていた古い外国のドラマで、ユダヤ教の人がこう言っていたのを思い出しました。
「神は人間に善と悪を選ぶ自由を下さった」
ユダヤ教のことなど何一つ分かりませんが、この言葉は印象的でした。
操り人形ではないからこそ、自分たちの意思で選択する自由があり、その結果一部の人間の意思によって戦争など悲惨なことは起こってしまうのではないか、と感じています。

また、そこに平和を唱える人間、無関心な人間、それらも全て自分たちが選んでいることであります。
戦争を起こしてしまう人間の心を思いとどまらせたい気持ちは同じですが、そこで人間の意思を操ってしまったならば、人間の意思はなくなり、神の思うままの世界になってしまうとなると思います。
全ての人間が自発的に争いも憎しみも持たなくなり、皆が高い境地ならば、それはこの世と言うものではなくり、神仏の世界になる事を意味しています。( ̄~ ̄;) ウーン

人間たちの意思によって引き起こされた事柄を都合の良い時だけ神仏に縋って、何でなくならないのか、と言うのは違うと思います。
私が感じるのは、「なんて悲惨な状態なんだ」と思うことが多くありますが、しかしそれでも神仏は働かれていると感じます。人間の意思を操ることは出来なくても、気付きを与えて必死に食い止めようとされていると思います。
仮にご神仏が働かれていなかったならば、もっと悲惨な状態だったのかも知れない、と私は考えてしまいます。( ̄-  ̄ ) ンー

神仏が働いていてこんな程度しか良くならないのか、と思われるかも知れませんが、それだけ人間の意思は自由であると同時にとても頑ななもの、神仏と言えど魔法のように変えれない人間の意思だからこそ、人間同士の助けや力もいるのだと思います。
一生懸命戦争を食い止めようとする人にも、ご神仏は少しでもその人たちやその人たちを通して戦争が減るように働かれていると思います。

神仏が出来るのは気付く機会を与えて下さり、後押しするだけだと感じます。
神仏は国民(くにたみ)や衆生の幸せを願われて日夜働き続けて下さっていますが、人の心は容易に変わるものではなく、それでも人間が変わるのを待つ、信じられないぐらいの時の長さの間、人間に働きかけておられるその慈悲深さにはいつも圧倒されます。(°д°;;)

中には奇跡と言われるものも起こっているようですが、私は俗に言われるよく言われるような奇跡は体験していません。また、そのような奇跡が何で起こるのか私にも分かりません。
ただ、ご神仏が働かれて小さな動きの積み重ねや様々な気付き(私にはこれらが充分奇跡だと感じていますが)によって自分自身も変わりましたし、また他にも変わっていった方を何人か見ました。
しかしそれらは神仏だけの力でなく、人間自身の心が動かない限り、神仏がどんなに働きかけても事態は動かないように感じます。
人間が本当に真からの意思が伴った時(自分の殻を破ること)に初めて、神仏もその人間に働きかけやすくなるようです。

ご神仏と言う存在を人間にとって都合の良い便利屋と無意識に思っている人も多いと思いますが、人間が神仏のお心を自分たちの枠内だけで考えようとしたり、推し量れると思う事は神仏の慈悲を何一つ理解していないも同然だと感じます。

確かに最後は言葉では伝えれなくなります。

神仏の働きは奇跡的なことや不思議な現象だけではないと感じています。
神仏の働きは人間が測り知ることなど到底出来ないと思う事の連続です。それらは言葉を超えたことで、個々によっても感じ方も違うと思いますし、実際には徐々に感じとっていただくより他ないと思います。

昔の私はシンクロや様々な不思議な現象があり、それらを神仏の働きや心霊現象などと思っていましたが、今はそう言う事に囚われなくなりました。
神仏の慈悲や働きははそのような現象に集約されてなないと気付いたからです。
勿論、御神霊の働きもあるので、全てが違うわけではありませんが、中には神仏を名乗る資格のない心霊の惑わしの場合もあるので、自分の周りで如何に不思議なことが起ころうとも常に疑いの目は持っています。

神仏のご加護が強くなると少しずつ惑わしを受けにくくなるので、それらの事が惑わしだった場合はそれらの事も次第に起こらなくなってくると思います。

しかし、それでも惑わしを受けることがあります。霊媒体質や霊感体質の人は特に注意された方が良いと思うのが、霊媒体質と霊感体質4(星)
にも取り上げられていましたが、霊能者、霊能力、オカルト系、心霊世界、ヒーリング、暴力的な描写のものなど、精神世界に通じるようなものは避けたほうが良いと思います。

私自身もこれらを暫く避けていました。特に霊能者類に関しては元々沢山見ていた訳ではありませんでしたが、現在でも見る気も無くなったのもあり、殆ど見ません。お陰様で神社仏閣のサイトがお気に入りに沢山入っていますが(笑)(⌒o⌒;) ・・・・

話が逸れました。\( ̄_\)(/_ ̄)/ ソレハアッチニ オイトイテ
つまり、自らが惑わしを受けるような所に首を突っ込んでいると、たとえ開運の方法を実践されていたとしても、心霊の邪魔などによってご加護が受けにくくなったり効率が悪くなったりします。
しかし、個人の信仰や趣味を「それは駄目だ」と言って「これだけを信じなさい」と言ってしまうと新興宗教と変わらなくなるので、個人の判断にお任せするより他ないと思います。
私の経験上、上記のことは避けた方が変な影響がない分、開運の方法を実践される場合効率は良くなると感じています。
まあ、当の星さんは教祖になる気がないので(笑)、個人の信仰などに関して弊害は説いても、本人の意思を無視してまで「こうしなさい」と強く言う気も無いと思いますが・・・( ̄ε ̄;)

また、全てをやれ心霊現象だとか、神仏のお導きだから安心、とも思いません。見えないことに関しては分からない事が大前提であり、自分の見ている感じているもの、たとえ神仏と名乗ろうとも疑いを持つ目がないと、惑わされやすくなると感じています。

自分の都合の良い事が起きた時はご神仏の指導や慈悲と思い込み、自分にとって都合の悪い事が起きると心霊に邪魔されているのではないか、と思うことも方もいると思います。
しかし、自分に都合の良い様なことが必ずしもご神仏の指導とは言えないと私は感じています。逆に足止めされて自分は今動きたいのに今は動くな、と言われる時もあります。

ご神仏の働きは本当に人間には推し量れないものだと思うと同時に、いくらご神仏だと名乗られても何の検証も出来ないことばかりである為(心霊現象も同じく)、私は勿論、星さんの書くことでもこれが正しいとは言い切れないことばかりです。最後は個々で様々な経験をされて納得されるしかないと思っています。

自分の周囲を見た時に、(自覚はないのでしょうが)自分のことを棚上げにして神仏に幸せにして欲しい、自分や周囲の状況をただ変えて欲しいなどと魔法を求めている人が多いんだなあと感じます。
聞かれれば一応話してみますが、人に伝えることの難しさや、人の心の頑なさに何とも言えなくなる今日この頃です・・・・。llllll(-_-;)llllll ずーん


影武者

at 01:40, 影武者, 影武者のぼやき

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自分の人生を生きれない人(影)

先週、親知らずの抜歯をしてきました。0(>_<)0
いくら麻酔をしているとは言っても、歯茎を切って縫う・・・・\(〇_o)/コワイヨー 
抜歯よりも、それの方が恐怖だと叫んでいたら、周囲の人に「かつてリストカットや自傷行為をしていた人物とは思えない発言だなあ」と冗談混じりに言われていました。(笑)

現在では、棘が刺さってそれを針でつつく事すら、ぎゃー!!!と言うくらい駄目です。
昔の私をを知っている方からするならば、信じられない、と言った感じです・・・(^◇^ ;)(笑)

歯が真横に生えていた為、抜歯は大変でしたが、歯茎を切るのも縫うのも心配していた程ではなく、一安心しました。術後の痛みも思った程なく、お陰様で順調に回復しました。

抜歯前に熱田神宮の内天神(少彦名命)をお参りし、近くのお薬師様にもお参りしたので、今回のお礼参りと2本目の親知らずを抜歯する祈願をして来ねば・・・・(;^_^ A フキフキ

さて本題です。
少し前に、昔仲が良かったある方と会った時、詳細は書けませんがある事が気になった事と、顔が暗く、笑顔も引きつっていたので思わず、「何かありました?」と聞いてしまいました。私と仲が良かった当時、その方は生き生きとした笑顔をよくしていました。

当の本人は「何もないですよ〜」と言っていたものの、やはり私から見たら明らかに笑顔が引きつっていました。
私が嫌われてる可能性も充分に考えられますが、他の人に接している姿を見ても何だか表情が硬いように見え、未だに自分の意志で自分の人生を生きれていないように見えて、悲しくなりました。

仲が良かった頃、その方は周囲の人の目を気にし怯え、自分の心の弱さを悟られないように自分は何処かで満点を演じていると私に教えてくれました。
本当はこのままでいい筈がないと気づいていた様で「変わりたい」と言ってはいましたが、踏み出す勇気もなく、現実を忘れたい気持ちから見果てぬ夢を追い求めたり、人に依存したりしていました。(これに関しては本人は逃避だと言う自覚が無かったと思います)
ところが、変わらざるを得ない状況に追い込まれ、動きかけましたが、現実の厳しさに耐えれなくなり、問題解決どころか悪化したままうやむやな状態で、また問題を先送りにしたようです。一時しのぎの対策はしたのかも知れませんが、根本的な問題についてはうやむやなままだと思います。

私もその当時は自殺願望の絶頂期だったので、人の事は言えません。llllll(- _ -;)llllll
この方は「自分は絶対自殺しない」と語っていましたが、いつも酷く怯え、それすらも周りに気づかれたくないという思い、そして今迄の自分には無かったものを追い求め、心がフラフラしていた気持ちは少なからず分かります。
しかし、考えたくない問題を先送りにして逃げてしまったり、周囲が怖いからこそ自分を良く見せようと躍起になり、人の賞賛を得るような行動、それ故にまた考えるのを止め、楽な方に身を委ねてしまう・・・・今思えば自分を大事に出来ないという点では、それも一種の自傷行為にも思えたりします。

流されて生き続けた人が、今までの人生は何だったんだ?と気付いてしまって、そこから脱そうとし、自分の意志を持って生きようとすることは本当に大変だと感じています。
しかし、自分の意志で生きること、自分らしく生きることは現実の問題を放棄する事や、我儘に生きることは違います。

その方を可哀想だなんて思ってはいけないのかも知れませんが、ついつい心の片隅で思ってしまいます。
どうにか本当の自分に気づいて、自分らしく生きて欲しいと思いますが、人の人生を良い悪いと自分の価値観で勝手に裁くのは価値観の押し付けにしかなりません。(と、思いつつ裁いているんだろうな、自分・・・orz)お節介どころか迷惑になると思います。(;-_-;) ウーム

その方が自分で気づくようにとご神仏に祈ることが出来ても、ご神仏もその方の殻を崩す事は難しいと思いますし、本人の意識が変わらない限り、私も何も出来ません。

こんな事を書いている私も今まで自分の意志で人生を生きてこれたか、と言えば明らかに過去の自分は我儘はし放題でしたが、本当の意味では自分の意志で人生は生きていなかったですし、現在は過去よりも「自分の意志で人生を生きる事の意」を少しは考えれるようになった、としか言えないレベルです。
現在の自分が何処まで自分の意志で人生を生きれているかは、殆ど出来ていないと思いますが、このままの状態でいる気持ちはありません。死ぬまでに少しでも、自分の人生を自分の意志で生きている、となれる様になりたいと思っています。

自分の人生を自分の意志で生きることが大事だと思っていても、今迄の積み上げた生活で現実それが許されない状況下にあったり、過去の自分の安易さに腹が立つこともあるかと思います。
しかし、困難な状況下でも自分の意志で少しでも、より良い選択をしていけれる様に、出来ないならば出来ないなりに、自分の中でそのような気持ちを持とうと言う気持ちは大事だと思います。

最後に、その方が自分の殻を破る日が来ることをご神仏にお祈りしています。



影武者

at 00:13, 影武者, 影武者のぼやき

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弥陀の摩訶不思議な力(影)

影武者のお蔵入りシリーズ第?段です。(笑)今回は半年以上お蔵入りさせてしまっていた記事です。しっかり熟成されて・・・・・・・・いるかどうかは分かりませんが・・・・(;^_^AA


私が念仏に関して感じた事を書きます。分かりにくかったらスミマセン・・・・・(TωT)

「弥陀の摩訶不思議な力にて我々は念仏を称える事が出来る。」と親鸞聖人の御言葉がありますが、摩訶不思議な力で称える事が出来るとは?自分で称えるているのではないの?と疑問に思いました。

浄土真宗に於いて阿弥陀様のお力は絶対であり、全ての悩みや苦痛は阿弥陀様のお力に縋る事で浄土を約束され、また自分は弥陀から許されていると認識する事で心の安らぎを得れるとなられています。また宗旨問わず阿弥陀様の慈悲は果てしなく深い方だと感じています。

数多くの不成仏霊に悩まされて霊障が深刻な場合、霊障に限らず深刻な悩みを抱えている場合など、心がかき乱され念仏を称える事が頭に無い状態にあると思いますが、どんな状況に於いても、称えようと思えば心の中でも念仏を称える事は出来ますよね。

称えると言う行為は脳から筋肉に電気信号が行き、口を開く・・・・と、よく分かりませんが医学的な見地からはこの様な事を言われるのでしょうけど・・・

しかし私が言いたいのは称える意識になる事自体、阿弥陀様のお力によるものではないかと思ったのです。

私が過去に経験した事になってしまいますが、ある時に不成仏霊に体も支配され、自分の意識とは無関係な言葉を吐き出し自分の意識も薄れて行きそうな時、助けを請うつもりで「南無阿弥陀仏」となんとか口に出さずとも心で称える事は出来ました。(この時憑依していた方はその後阿弥陀様に救って頂きました。)
都合の良い解釈に過ぎないと思われるかも知れませんが、自分の意識が薄れて行く時に何とか念仏を称える事が出来たのは、もしかしたら自分が称えようとしたのでは無く、阿弥陀様のお力で称えるように意識を促され、称える事が出来たのではないかとある瞬間感じたことがありました。

また、霊障に限らず心が乱れてパニックになっている時に一瞬でも念仏を称える気になったのならば、その様な阿弥陀様の偉大なお力が働いているのかも知れません。そのような阿弥陀様の摩訶不思議なお力によって我々は念仏を称える事が出来ているのかも知れないと思った次第です。

勿論、ご神仏はいつでも衆生を救おうと手を差し伸べてくれていますが、阿弥陀様の場合は念仏を称える事によってより差し伸べられた手を掴み易くする為のキッカケともいえるかも知れません。

大げさと思われるかも知れませんが、やはり阿弥陀様は偉大だと感じてしまいます。

念仏を称える際、「自分が今念仏を称えているのは阿弥陀様の偉大なお力によって称える事が出来きている」、その事を心の片隅において阿弥陀様に感謝しながら御慈悲に縋らせて頂くつもりで称えてみてはいかがでしょうか。



影武者

at 18:07, 影武者, 影武者のぼやき

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私の前世観(影)

今回の記事はお蔵入りしていた記事です。書いてはみたものの、弊害や誤解を恐れ半年ほどねかしてしまったものです。
しかし恐れていても仕方ないので載せます。・・・・ただの手抜きだったりして・・・・σ(TεT;)

「前世」「過去世」・・・・・・。
少し思うところがあり今回は私の自分の前世観について書いてみようと思います。( ̄-  ̄ ) ンー
これはあくまでも私の意見ですので異論があるかと思います。しかし何分絶対的な確証が得れる問題ではないので、絶対私が正しいとは思っていませんし人によって意見が違っても良いと思います。

私も昔は前世を知りたがった人間です。知りたい理由はよくありがちな理由でした。今の苦悩は前世からのものではないか?と思い、前世が見えると語る一般の霊感が強い方や霊能者の人に頼ったりしたものです。

色々な方から様々な自分の前世に関して教えて頂きましたが、得られた情報の確証は勿論何も無く、どれもバラバラな話でした。しかし見えない世界への憧れから信じてしまう自分がいました。

今思えば馬鹿げた事です。しかしその当時の私は見えない何かに縋りたい気持ち、自分が生きている意味を前世に見出そうしたかった気持ち、またたとえその前世なる情報が嘘でも今の自分への言い訳や納得する材料を探していた為に、確証も無い話にただ飲み込まれてしまっていました。
「前世がこうだから現世もこうなる」と思い込んだり、前世の話をいい事に人から都合の良い様に扱われたり、自分も周りをも振り回し、生き方を制限した結果、今の自分の存在というものを否定してしまって来た様な気がします。

しかし、ある時から自分自身でこれは前世かなあ、と思う映像が見え始め、あれこれ色々な出来事があった末、これは多分そうだろうな・・・・と思いました。今まで人から聞いていた前世よりも自分が感じた前世や過去世の方が納得いきました。たとえそれが自分にとって都合良く創り出したものであっても、それで人に迷惑をかけることは無ければ良いと思えました。

前世を求めていた人間ならば「これが前世だ!」と思って嬉しいのかもしれませんが、不思議と私は逆に自分の見ているものを信用できずにいました。まるで断片的な映像が増えていく毎に見える映像に関してそれが一体何なのか悩みもしましたし、邪魔にも思えました。

それらの映像を繋ぎ合わせて話の内容が分かりましたが、自分の脳が都合良く創り出したものではないかと疑いを持ちつつ、見えれば見えるほど他人の話に思えてきて、いつの間にか前世にこだわって来た自分がどうでも良くなりました。いちいち前世に振り回されなければまあ良いやと思って受け止めています。

確かに現世での人間関係や人生の出来事など、私の今の人生も前世からの影響が無いとは言えないこともありますが、「前世からの縁だからこの人といる」とか「だからこう言う運命になる」「前世こんな事をしてしまったから現世は酷い目に遭う」などど縛られて生きる気も行動する気もありません。

確証も無い話ですから、如何に影響があったとしても前世が悪いなどと思わなくなりました。むしろ「悲しい思いをしたなあ」とか、他人のような自分に向かって「一体何してきたんだよ〜!」と一人で突っ込みを入れている程度ですが・・・・・。オモイッキリ アヤシイヒトダッテ・・・・・(  ̄д ̄;)

仮に本当に前世から引きずっていると問題があるとしても解決するのは前世でも来世でもなく、やはり今を生きる自分だとしか思っていません。
前世を知れば現世の問題が解決出来るという考えは如何なものかと思っています。前世を求める人は原因を過去に求める事で現在の苦悩が軽減される事を願われるのでしょうが、実際はそればかりとは限らず、逆に自分の首を絞めてしまう結果になることもあると思います。
私の場合、自分の前世や過去世が出てくれば来るほど、2倍、3倍・・・と今の自分の課題が増えただけの気がしています。仮に今世で問題をクリアー出来てもまた課題が来るわけですから焦る気は無いです・・・・(笑)ヽ(  ̄д ̄;)ノ オテアゲー

そもそも単純に考えれば過去の歴史に於いて人口の殆どが農民や平民で、戦、餓死、天変地異、無実の罪で処刑、産まれてすぐ亡くなる、伝染病等の病死、など、今の時代以上に悲惨な亡くなり方が殆どであり、逆に階級が高い人物でも宮廷内などで繰り広げられる政権や派閥での陰湿な争い、革命などを考えれば「その有様を知って嬉しいか?」とも思ってしまいます。

「知らぬが仏」と言ったところでしょうか・・・・。(^^;;)


影武者

at 18:04, 影武者, 影武者のぼやき

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ご神仏の御心(影)

今回の話は何かと内容が重複するところも多いとは思いますが、何卒ご容赦を・・・・。m(_ _)m ゴメンナサイ

ご神仏や信仰や悟りや心の問題は自分が知識を如何に持っていたとしても人に理解出来る様に説明は出来ないと感じています。(_ _;)ムツカシイ・・・
やはり最後は体感だと。知識と体感でご神仏の教えを理解できるようになる事は至難の事でもありますが、それが極まり全てを超越してしまえるならば弘法大師さんのようになれるかも知れません。(笑)


最近気になった事を思うままに書きます。ρ(-ω- ) イジイジ

初詣の最中に若い男の子が「どうせ願いなど叶わないから拝む必要なんかない」と言っていたのを聞いて少しばかり悲しく思いました。
叶わないと思うのは自分にとって都合の良い結果が得られない事を指していて、ご神仏をまるで何でも叶えてくれるスーパーマンとでも思っているのか、叶えてくれないならば敬う必要は無いと言いたいのだろうか・・・・と。
しかしそんな事を思ってしまう自分こそ、その男の子に「その様に言って欲しくない」と自分にとって都合の良い事を願っているのではないかと、情けない自分にまた悩み・・・・(ー’`ー;) ウーン

ご神仏との関係を親と子で考えるならば、親が子供の願いを叶えてくれないからと言って親を尊敬したり、大事にする心がなくても良いと言う訳ではないと思います。(人間の親子関係では正直そうとも言えない状況がありますが・・・・)

自分にとって必ずしも都合の良い様にご神仏は働いて下さるわけではなく、また気付きを下さると言うのは試練になる事もあり、今まで先送りにしていた問題、隠れて気付かなかった問題など問題が多ければ多い程気付きという試練が大きくなります。

試練が厳しいからと言って現実を無視し思い通りにしようとする人には、以前星さんが紹介して下さいました古代ギリシャの御神霊のお言葉「奇跡を求める者」が当てはまるなあと思ってしまいます。

(中略)
されば奇跡だけを求め
慰めだけを求めるならば
神殿を去り
自らの願望を叶える神を求めよ


このお言葉を聞いて厳しいと言うより、厳しさを通り越えて一瞬何か物凄い恐怖を感じました。しかし私はバッサリ切り捨てるこのお言葉が好きです。また自分がそのようにならないよう、肝に銘じなければと思いつつ自分の心を振り返るようにしています。

私がご神仏と言う存在に対してずっと感じて来た事は、ご神仏が思っている人間の幸せとは地位や名誉や財産が多いだけの物質的な豊かさではなく、また自分の思い通りになる世界ではありません。
物質的に豊かに越したことはないのですが、たとえ物質的に貧しくても真に心の豊かであって欲しいとご神仏は人間に願っていると思います。(この“真に”というものが途方も無く難しい事で先人の方々も悩まれたことと思います)
それは安心感や揺るがない自分になる事でありますが、だからと言って誰もがその境地にならなければならないとか完璧な人間になれという事をご神仏は人間に求めてはいません。
生きている間に隠れた自分をどれだけ見つけ、自覚し心の問題に真に向き合い、自分の心の枷をどれだけ減らしていくことが、幸せの鍵だと思います。

蛇足ながら隠れた自分を知って対処していけば、徐々に冷静に客観的に物事を判断できるようになると思います。
渦中にある時に自分では冷静と思って選択してもやはりどこかで冷静さに欠けている事が私自身もよくありました。あとで振り返るとその様な事が多かったように思います。

あまりにも偉大で計り知れないほどの慈悲を持たれている方々であることは言えますが、私たち人間の考えていることの次元を超えられているので、その御心は分からないに等しいものです。私たち人間が知ることの出来るご神仏の御心は何万分の一どころか何億分の一にも満たないのだろうと私は感じています。



影武者

at 00:11, 影武者, 影武者のぼやき

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自分を語る(影)

「飾らない自分」「素の自分」そう言う言葉が好きな影武者です。今回の内容は感じたまま書いておりますので上手く表現が出来なくて申し訳ないのですが・・・・。m(_ _)m ゴメンナサイ

唐突ですが皆様は自分の事を語れますか?自分の事と言っても職業や学歴、趣味、友人、恋人、家族構成と言ったことでなく、そう言う社会的な要因や肩書きなどを全て取り払い「素の自分」と言うものを自分自身に対して語ることは出来ますか?

極端な話ですが真っ黒なで全てが無の世界に自分の意識がポツンとあるだけの状態でも自分と言うものが語れるかどうか・・・・と言ったところでしょうか。

自分を語ると言う事は自分を深く知ることに繋がって行く事ではないかと私は考えます。自分の中の嫌な面を知る事は怖いと思われるかも知れませんが、自分の中の善も悪、曖昧さや日常の生活の中で隠れてしまいがちな自分の複雑さも知らなければ自分の事が語れないと思うのです。

しかし今すぐに自分の事を語れないとしても、少しずつ語れる事が増えていけば良いと思います。一つでも増えたならばそれは自分の事を一つずつ認めて行っている事だと思います。また自分の段階が一歩進んだと思っても良いのではないかと思います。

偉そうな事を書いてしまっている私ですが(汗)私も自分の事がどこまで語れるか自信はありません。ただ今以上に自分の事を語れるようになりたいと思っています。

拙い表現で申し訳ないのですが、何となく伝わって頂けたならば幸いです。




影武者

at 00:08, 影武者, 影武者のぼやき

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不動明王の慈悲(影)



皆様、ご無沙汰しております。
m(_ _)m
異常な暑さも無くなり日が落ちるのも早くなり、ようやく秋らしくなってきました。
紅葉が好きな私ですので見頃のシーズンになるのが待ち遠しく・・・・・・

へ(^^へ)))))(((((ノ^^)ノ うほほーい
勿論食べ物も美味しい季節ですから、ついつい食べ過ぎて後で ウギャーー
((((/*0*;)/ と後悔するような事は無いように気をつけたいのですが・・・・・汗


先日、犬山成田山にて護摩供養に参列させて頂きました。
やはりお不動さんの御力の強いこと、いつもの様にヘロヘロになりながら色々な方の祈願と自分の事を報告と言う感じでお不動さんに心を向けておりました。

ふと自分の悲しい思い出が甦り、いてもたってもいられず敢えて火に怒りをぶつけ燃やして頂こうと思いました。自分の悲痛な思いをお不動さんに委ねました。

そうしていましたらお不動さんが自分の苦しみを分かって下さり、怒りでは無く悲しんで一緒に泣いて下さってるように感じました。

「ああ・・・・だからこそこの方は炎を背負い、私たちの苦しみを燃やされているんだ・・・。」と思いました。
心にとてつもない慈悲を抱き我々衆生の悲しみを痛いほどに分かっているからこそ、炎を背負い憤怒の形相をしているんだ、と感じたのです。
護摩を見ていて涙が止まらなくなりました。

確かにそれまで言葉上で「お不動さんは慈悲の方」と言う事は理解していたつもりでしたが、この時にその言葉の真意を痛感させられました。



影武者

at 20:51, 影武者, 影武者のぼやき

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清き心(影)


9月に入って少し秋らしくなったかな〜と思っていたら、また猛暑・・・・・・・・へ(×_×;)へ ヘニョヘニョ・・・・・


今日は『清き心』について、私の思っている事を書きます。

清き心は善の心。正しい心。美しい心。と一般的には思われていると思います。

良い心を持とうと言う心がけは必要ですし、醜い心は少ないに越したことはありません。

しかし、清き心とは自分を偽ることを止めて、自分の中の醜い心を認める事が清い心へのスタートラインだと思います。その“認める”という作業をしないで、“醜い心、汚い心は持たず良い心だけ持ちましょう”と言っているだけでは、ただ感情を押し殺したりするだけで何の解決にもならないと思うのです。
悲しい事に、自分の中の醜い心や修羅の心を認めれず目を背け続け、臭い物には蓋をし、醜い心があることすら麻痺して忘れてしまっている方も少なくありません。

日常の煩わしさ等から、微々たる量でも醜い心が湧き上がると思います。生きているのだから醜い心が有るのは当然です。真っ白な人間なんていないと思います。

そういう醜い気持ちがあると言う前提を踏まえ、仏教では煩悩を消すことが大事と言われるのであると思います。一生かけてどれだけ煩悩の数を消していくか、と言うことだと思います。

これは蛇足ですが、醜さがある事を認める事で己の心を正そうと心がけ、それを乗り越えようと試行錯誤し、悩み右往左往し、散々無駄な時間を過ごしたと思っても、それが後に人にアドバイス出来る材料となったり、その体験が後に人の役に立てることだってあるのです。
またその様な苦い体験をする事で本当の意味で人の痛みが理解できる様になっていくのだと思います。

清き心を持つことは容易ではありません。心の中に一点の黒も無く、善の心だけだったら、神様でも仏様の代わりにでも鎮座していられます。(笑)

私も日々自分の中の醜い心と向き合うよう努めています。私も自分で気が付いていない心の闇や、醜さがあると思いますが、その様な心が出て来る度に向き合い、少しずつ受け止めていっています。

皆様はご自分のお心の中とどのように向き合われていますか?


影武者

at 00:48, 影武者, 影武者のぼやき

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