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中道について5(星)

桜が満開となってしまいましたが、暫く前に梅の花が咲いてました。

 

 

 

 

次は、もつと早く投稿します。m(_ _)m

 

それはさておき・・・・

 

本題に入る前に、天台宗の三諦偈(さんたいげ)の教えについて少し解説します。三諦偈(さんたいげ)の教えでは、空(くう)諦、仮(け)諦、中(ちゅう)諦の三諦を説きますが、実践的な修業論においては、一心三観(いっしんさんがん)と呼ばれる観想法が説かれ、空の立場から物事を観察する空観 (くうがん) 、肯定的にとらえる仮観 (けがん) 、そしてこの両者がともにそなわってはじめて真理を把握しうるとする中観 (ちゅうがん) の三観が円融しなけれぱならないとされています。空観は、教えを学ぶだけで身に付かないことから実践的な瞑想の中で体得すべき教えとなります。一般の在家の者が一心三観(いっしんさんがん)の観想法を修得するのは非常に難しいと言えますが、三諦偈(さんたいげ)の教えが日常生活の中でどのように活かされるべきかを知ることは、意味あることではないかと思います。

 

さて、神霊が説かれているのは、苦悩している方の心の闇に潜んでいる不成仏霊を見抜くことではありますが、苦悩する方にどのように対応すべきかの話であるとも言えます。最初に「衆生の心の闇とは、池の水に墨を流し込んだような物です。」と説かれていますが、一般論として考えるならば、煩悩に翻弄され、心に闇を作っていることの比喩であり、仏教では煩悩が人生の苦しみの原因であると考えます。

 

次に「少しばかり修業した者は、心が闇で覆われた者を見れば、その闇は己の煩悩が作り出した闇であると考え、心の闇を解消する方法を説くでしょう。それは間違いではないとしても一面的な見方でしかありません。」と常識的な指導をここで否定します。そして「末法の世にあっては、仏縁なき者は、真っ黒な水の池を見て汚いと蔑むことしかできないように、人生に挫折した者や苦悩する者を見ても人生の敗北者としか見ないのです。それは人生を勝ち負けでしか考えることができない者たちであり、仏の教えとは無縁に生きる者なのです。」と世俗的な見方を否定されています。


人生に挫折した者や苦悩する者を見ても人生の敗北者としか見ない考え方が仏の教えとは無縁に生きる者なのであるとしても、その闇は己の煩悩が作り出した闇であると考え、心の闇を解消する方法を説くことがどうして一面的な見方であるなのかと疑問を持たれる方も多いのではないかと思いますが、どちらの考え方も自分が正しく、相手は間違っているとの二分法的な考え方と言えます。この白か黒かと言った考え方自体に間違いがあります。多くの人は、自分が裁きの玉座に座り、相手を裁くことばかりを考えます。つまり、相手は自分よりも劣っている人間であると相手の価値を否定したり、相手は自分よりも劣っているのだから自分に従うべきであるとの考えに陥りやすいと言えます。

 

この考えの根底にあるのは、苦悩の中にある人が抱えている苦悩を理解する気持ちがないことです。苦悩している人が何を悩み、

その悩みの原因は何かを考えることもなく、一方的に相手を責めることは簡単なことではありますが、自分の考えを相手に押し付けているだけでしかありません。それでは問題が解消するはずもなく、相手を責めて自分が優越感に浸っているだけであると言えます。その原因は何かと言えば、相手の苦悩の原因が何かを考えようとしないことであり、原因と結果の連鎖を考えようとしないことです。つまり、縁起を知らないことであり、仏教の教えに無知なことが原因であると言えます。

 

そして「少しばかり仏の教えを学んだ者は、水の汚れを煩悩であると考え、仏の教えを説くことを考えるでしょう。そして煩悩を消し去ることができるならば、真っ黒な池の水が澄んだ水になるように心は澄み渡り、苦悩が解消することを説くでしょう。」とは、縁起の教えを知っている人の考えではありますが、神霊はこれでも不十分であると説きます。その理由として、苦悩の原因が心の闇だけでなく、心の闇に不成仏霊が隠れている可能性があることを指摘されています。

 

ここでは、心の闇に隠れている不成仏霊を見抜くための話を前提としていることから不成仏霊が潜んでいる可能性を説かれていますが、一般論として考えるならば、他人が知ることができない隠れた事情があるや本人も気付いていないような隠れた事情がある可能性を考慮する必要があると考えるべきではないかと思います。例えば、精神的な問題と思い込んでいたならば、非常に珍しい病気が原因があったとの話もあります。そのため、隠れた原因がある可能性を考慮すべきとなります。

 

次に心の闇に隠れている不成仏霊の存在を見抜く為には、悟りが必要であることを解かれますが、続く「常に魔界の者が潜んでいると考えるべきではなく、魔界の者が潜んでいるはずもないと考えるべきでもないのです。闇の中に光があり、光の中に闇があることを知る者でなければ、見抜けないのです。」とは、空観のことであると言えます。

 

「煩悩に翻弄される者の中に光り輝く仏性を見出すことであり、真っ黒な水を見ながらも目の前の姿に囚われることなく、本来のあるべき姿を見出すことができることこそが、闇の中に隠れた光を見ることなのです。」の考え方は、天台宗のすべての者は悟ることができるとの考え方が前提にありますが、どんなに相手が悪人に思えたとしても相手は迷いの中にあるだけであり、迷いから抜け出すことができるように導くべきであるとの考えですが、神霊はこの考えに囚われてもいけないと説かれます。

 

それが「しかし、闇の中に隠れた光を見ることができる者であっても、それだけでは、闇の中に隠れた者の正体を見抜くことは難しいのです。闇の中に隠れた光を見ることは、優れた悟りではありますが、光に囚われているがために、闇の正体を見抜くことが困難となるのです。闇の中に隠れた者の正体を見抜くためには、光に対する囚われも捨て去らなければならないのです。」との教えです。これは性善説に囚われ過ぎると相手を甘やかすだけであり、相手のためにならないことを説いているとも言えますが、天台宗の教えでは、仮観ではないかと思われます。

 

この境地になりますと言葉では理解することはできますが、実践することは非常に難しくなります。この境地に到達しますと神霊が説かれているように闇にも光にも囚われることがないことから真実の姿を見ることができるようになり、真実の姿を見極めることができるようになると説かれています。この境地が中観であり、本当の意味での中道となります。

 

管理人がどこまでできているかとなりますと・・・・( ̄~ ̄;) ウーン

 

霊障鑑定でもかなりの大物となりますと、何か隠れていることまでは分かっても、正体を見抜くことに苦労することが多いことから中道を悟っていないと思います。しかし、本当に中道を悟ることができたならば、菩薩の仲間入りです。そのことを考えるならば、死ぬまでにこの境地に到達できれば充分と言ったところでしょうか?

 

さて、理想論はここまでとして、世の中の多くの方は、自分の考えを相手に押し付け合っているような気がします。中道の境地は難しいのですが、もう少し自分の考えだけが正しいと思うことを止め、すべては相対的な関係で成り立っていると考えるならば、もう少し人生が生きやすくなるのではないかと思います。

 

 

ご相談は こちらから

at 14:07, 星 良謙・子授け地蔵, 神仏の御言葉

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中道について4(星)

前回投稿した記事で引用した文章の中に天台宗の三諦偈(さんたいげ)の教えがありましたので、その教えを意識したと思われる天台宗の神霊のお言葉をご紹介します。

 

このお言葉は、かなりの大物の転落した行者の障りに悩まれていると思われる依頼者からのご相談を受けた際に、障りを起こしている不成仏霊の正体を見抜けずに困り果てていた際に降りたお言葉です。

 

 

 衆生の心の闇とは、池の水に墨を流し込んだような物です。真っ黒な池の水を見る者は、それが果てしなく深い池の様に思うでしょう。しかし、逆に限りなく透明な水であったならば、誰もその池が果てしなく深い池であると思わないのと同じように、何の執着もなく生きる者には、仏の慈悲に溢れた世界となりますが、衆生も心が闇で覆われるならば、人生は苦悩の連続であり、果てしもない苦悩の連続となります。


 少しばかり修業した者は、心が闇で覆われた者を見れば、その闇は己の煩悩が作り出した闇であると考え、心の闇を解消する方法を説くでしょう。それは間違いではないとしても一面的な見方でしかありません。相手の心の闇だけを見て教えを説くことは、闇だけを見て光を見ていないのと同じであり、闇の中に隠れた光を見ることができない者は、真実の姿を見ることはできないのです。


 それでは多くの衆生の苦悩を見抜くこともできなければ、自らの心の曇りを晴らすことができるはずもありません。相手の真実の姿を知るためには闇の中にある光を見出すことができなければならないのです。闇に囚われる者は、闇を見ることしかできず、闇の中に隠れた真実の姿を知ることはできません。どんな極悪人に見える者であっても仏性が眠ることを忘れてはならないのです。


 衆生の心は、煩悩と言う闇で覆われてはいますが、どんな者であっても仏性が眠っているのです。しかし、多くの衆生は煩悩に翻弄されているがために、心は闇に覆われ、眠っている仏性を目覚めさせることができないだけでなく、果てしない暗闇に思うのです。それは煩悩と言う心の曇りが真実の姿を多い隠し、仏性を自覚することを困難にしているのです。煩悩は、心に闇を作り、煩悩に翻弄される者は、心に深い闇を作り出します。


 魔界の住人は、衆生の心に潜み、衆生の心を惑わすだけでなく、衆生の心を操り、衆生を苦悩に陥れ、仏縁を断ち切るように画策します。そのため、衆生は自分の人生でありながらも心を魔界の住人に操られ、苦悩の人生を生きなければならなくなります。無論、煩悩に翻弄される者であっても仏の教えを学び、戒律を守り、自らの心の波風を静め、執着を離れて悟りを得られるならば、魔界の住人といえども衆生の心を操ることはできません。


 しかし、末法の世において仏縁の浅い衆生は、仏の教えに巡り合うことは難しく、多くの者たちが偽りの教えに心惹かれ、悪しき因縁を作っているのが実情です。そのため、末法の世において、真に仏の教えに触れることができた者は、それだけ過去に陰徳を積んだ者であると言わざるを得ないのです。それだけ、末法の世においては、真の仏の教えに巡り合うことは難しいのです。


 末法の世にあっては、仏縁なき者は、真っ黒な水の池を見て汚いと蔑むことしかできないように、人生に挫折した者や苦悩する者を見ても人生の敗北者としか見ないのです。それは人生を勝ち負けでしか考えることができない者たちであり、仏の教えとは無縁に生きる者なのです。


 少しばかり仏の教えを学んだ者は、水の汚れを煩悩であると考え、仏の教えを説くことを考えるでしょう。そして煩悩を消し去ることができるならば、真っ黒な池の水が澄んだ水になるように心は澄み渡り、苦悩が解消することを説くでしょう。それは間違いではありませんが、真っ黒な池の水の中に魔界の者が潜んでいることを知ることができないのです。そのため、衆生の苦しみを知ることができないのです。しかし、少し悟った者であるならば、真っ黒な池の水の汚れが単に煩悩だけではないことを見抜き、真っ黒な水の中に潜む者の正体を突き止めようとするでしょう。


 真っ黒な池の水の中に魔界の者が潜んでいることを見抜くことは容易ではありません。常に魔界の者が潜んでいると考えるべきではなく、魔界の者が潜んでいるはずもないと考えるべきでもないのです。闇の中に光があり、光の中に闇があることを知る者でなければ、見抜けないのです。


 真っ黒な水を見ながらも本来の池とは、限りなく透き通った水であることを見ることができるように、煩悩に翻弄される者の中に光り輝く仏性を見出すことであり、真っ黒な水を見ながらも目の前の姿に囚われることなく、本来のあるべき姿を見出すことができることこそが、闇の中に隠れた光を見ることなのです。


もし、苦悩する者を見てその者が煩悩にまみれていたとしても、その者の中に仏性を見出し、その仏性を輝かせるための教えをための教えを説くことができないのであるならば、生きた教えを説くことはできないのです。生きた教えを説くとは、苦悩する者を鞭打つことではなく、苦悩する者を悟りへと導くための教えなのです。そのためには、苦悩する者の心の闇の本質を知る必要があるのです。


 しかし、闇の中に隠れた光を見ることができる者であっても、それだけでは、闇の中に隠れた者の正体を見抜くことは難しいのです。闇の中に隠れた光を見ることは、優れた悟りではありますが、光に囚われているがために、闇の正体を見抜くことが困難となるのです。闇の中に隠れた者の正体を見抜くためには、光に対する囚われも捨て去らなければならないのです。


 それは、苦悩する者の中に仏性が存在することを否定することではなく、苦悩する者の心の中にある仏性に囚われないことなのです。それは言葉では説明することができない悟りの境地ではありますが、闇に囚われることなく、光にも囚われることなく見ることができる者でなければ、真っ暗な闇の奥底深く潜む者の正体を見抜くことはできないのです。


 闇にも光にも囚われることがないことから真実の姿を見ることができるのです。それは衆生の心の闇に囚われることがなく、衆生の仏性を過大評価することもなく、ありのままに見ることであり、ありのままに見ることができるならば、真実の姿を見極めることができますが、あるがままの姿をあるがままに見ることは、あらゆる執着を離れた境地となります。

 

※この話の続きがありますが、公開させて頂くことができるのはここまでとなります。


長くなりましたので、解説は次回に投稿させて頂きます。

 

 

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at 20:35, 星 良謙・子授け地蔵, 神仏の御言葉

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土偶の神霊のお言葉(星)

今回は、縄文時代の神霊と思われる方からのお言葉を紹介します。神道が成立する以前の精霊信仰の時代を生きた神霊と思われる方のお言葉であり、現代人の感覚からしますと理解することが難しいとも言えますが、信仰の原点とも言える内容ではないかと思います。


呪術とは何か知っていますか。しかし、呪術について語る前に神や精霊の存在について語らなければなりません。今の世の中では笑い話と考える人も多いと思いますが、私たちが生きていた時代には、神の存在や精霊が存在することは常識であり、誰も疑う事はありませんでした。しかし、今の時代の人々は神の存在や精霊の存在を迷信と切り捨ててしまうことが科学的な考えであり、神の存在や精霊を否定することが文明であると考えているのではないでしょうか。

また、あなた方が江戸時代と呼んでいる時代よりも前には、神の存在や精霊を信じている人々は数多くと言えますが、神とは何か、精霊とは何かを知っている人々は少なく、呪術とは何かを知っている人々は更に少ないと言えるのではないでしょうか。私たちからするならば神や精霊について知らぬ者が呪術について語ることは、それは冬の寒さを知らぬ者が雪や氷について語っているのと同じであり、何の意味もないと思います。

見えない世界の存在を信じることもなく、目に見える物だけを信じることしかできない者には呪術だけでなく、祈りすらも無意味な行為としか思わないでしょう。そしてその者たちにとっては、呪いや祈りも自分の心の持ち方次第であると考えるでしょう。しかし、目に見える物だけしか信じられない者たちは、何を信じているのでしょうか。

私たちには、目に見える物だけしか信じることがられない者たちは、自分の力だけを頼りにしか生きることができない不毛な人生を生きている者たちにしか見えないのです。神の存在を信じることもなく、精霊の存在を信じる事もできない者たちには、自然の息吹すら感じることができないのではないのかと思います。

目に見える物だけしか信じることができない者たちが見ているのは、物としての自然であり、自然の息吹ではあると思えません。しかし、大自然の本当の美しさとは、自然の息吹であり、自然の持つ生命力なのです。それを感じることができなければ、人間の英知を超えた神秘に触れることもできなければ、本当の感動も知らないのではないかと思います。

あなたは私が呪術について説くことを目的としながらもどうしてこのような話をしているのかと疑問を抱いているはずです。しかし、目に見えない物の存在を信じるとは単に神や精霊、死後の世界の存在を信じることではないのです。目に見えない物が存在することを信じるのではなく、人間の英知を超えた存在や自然の息吹を感じることなのです。

 


 

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at 20:25, 星 良謙・子授け地蔵, 神仏の御言葉

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曹洞宗のお言葉2(星)

知り合いから前回のお言葉は理解は出来ても実践は難しいとの話が・・・(-_-)ゞ゛ウーム 

 

自動書記は、自分の意志は無関係に思い浮かぶ言葉を書き留めるだけなので、作業としてはそれほど難しくはなく、自分が理解できる範囲の内容しか話は聞けません。そのため、内容の解説は可能なのですが、・・・・

 

蛇足ながら自動書記は、自分の意志は無関係に思い浮かぶ言葉を書き留める作業なのですが、誰かが何かを言おうとしていることは分かっても言葉にならなかったり、神霊が言いたいことが多過ぎて内容がまとまらなかったりすることがあります。また、古代の神霊などの様に世界観や価値観が大きく異なる場合も苦労します。

 

さて、頭で理解するだけでは、絵に描いた餅と一緒ですので少し解説しなければならないかと思います。しかし、管理人は、曹洞宗に関しては深く学んだことはなく、坐禅をした経験は体験はありますが、修業経験はありません。そのため、曹洞宗の神霊のお言葉を解説する立場でもありませんが、曹洞宗の僧侶の方に解説をお願いすることもできませんので、僭越ながら少しばかり解説せて頂きます。

 

曹洞宗の神霊の説かれているのは、本質的な話です。誰でも同じと思いますが、日常生活において自分の人生について深く考えることはほとんどないと思います。今日の昼は何を食べようか、今度の休日には何をしようかと考えることはあっても自分の人生において何が一番大切か、自分にとって幸せとは何かと言った問題を日常的に考えることはほとんどないと思います。

 

通常の場合、日常生活の行われる判断の大半は、損得や好き嫌いの判断であり、深く考えることはないと思います。そのため、自分の心について考える機会は非常に限られていると思います。思春期などでは自分探しをする方も多いとか聞きますが、本当は自分が何をしたいのか、どんな暮らしをしたいのかを自覚されていないことが多いのではないかと思います。しかし、自分が何をしたいのか、どんな暮らしをしたいのかと自問自答しても分からないことが普通ではないかと思います。

 

揺れ動く感情を自分の気持ちとして考えていますと、揺れ動く感情の下にどのような気持ちが眠っているかを意識することはないのではないでしょうか。例えば、揺れ動く感情の下に劣等感や不安感、焦燥感などの眠っても普段は意識されません。しかし、表面的な意識は、普段意識されることのない潜在意識の影響を受けています。周囲の人からは、攻撃的な性格と思われていても強い劣等感や不安感を隠すために周囲の人に対して攻撃的となっていることがあるように無意識の感情の影響力は無視できません。

 

そして更に普段は意識されることのない無意識の感情を持つ理由を探ると色々な理由があります。勿論、持って生まれた気質は無視できませんが、何らかのトラウマ、幼少期の体験など色々な理由が考えられます。この問題を掘り下げますと心理学の知識が必要となりますが、曹洞宗の神霊が説かれているのは、その手前の話です。

 

普段自分が自分の気持ちとして意識しているのは、揺れ動く感情であり、自分の本当の気持ちではないことに気付きなさいと言うことです。そのためには、自分が自分の気持ちについて何も考えていないことに気付きなさいと説かれています。そして自分の気持ちに気付く為には、自分がどんな気持ちで生きているかを知りなさい。それがこの神霊の言われたいことです。

 

そのために必要な時間は僅かな時間ですが、自分の感情に気付くことで自分を客観的に見ることが可能です。自分を客観的に見ることができるようになれば、自分がどうしてその感情を持つのかを考えることができるようになります。自分がいつも怒っているならば、その怒りの原因は何か、どうして怒ってばかりいるのか、その原因を考える前にいつも自分が怒っていることに気付く必要があるのです。

 

しかし、多くの人は怒りを持ったことだけにとらわれ、怒ったことだけを後悔します。そして今度は怒らない様にしようと考えますが、また怒りってしまいます。そしてまた後悔する。これを繰り返しているのではないでしょうか。同じ失敗を何度も繰り返すのには理由があるはずです。勿論、脳に問題がある場合もありますが、多くの場合には自分の潜在意識が多いと思われます。そのため、普段は意識することのない潜在意識を変えなければ同じことを繰り返すことになります。

 

曹洞宗の神霊ですので、自分の心を静め、自分の心を見詰めるために坐禅を勧めたいのかもしれませんが、自分の心を見詰め直す方法論は、坐禅だけでなく、幾つかの方法があります。それらの方法論をご紹介することができるだけの知識はありませんので、ご紹介はできませんが、自分の感情に気付くことは自分の気持ちを見詰め直すための入口になると思います。

 

この方法は、自分の気持ちを見詰め直すために有効な方法ではありますが、霊障の解消にも有効な方法です。不成仏霊の悪影響の多くは、感情を乱されることです。一般的に不成仏霊の影響を受けますと、怒りや不安感、焦りと言った感情を煽り、感情が乱されます。場合によっては、自分の意志で怒りの言葉を吐いていても不成仏霊の気持ちを代弁していることもあります。そのため、怒っても怒っても際限なく怒りの感情が湧き起ってくる場合には、不成仏霊に感情が煽られている場合があります。

 

同じ様に理由の分からない不安感や焦りなどの感情も不成仏霊に煽られている場合もあります。そのため、供養を継続していたらそれまで得体のしれない不安感が消えなかったのにいつのまにか解消してしまったとのお話やいつも焦りが消えなかったのにいつのまにか消えてしまったとのお話をお聞きしています。これらは不成仏霊の影響が解消したことで負の感情が解消した事例ですが、自分が冷静になることで不成仏霊の影響が減少します。

 

具体的には、怒りが収まらないときや不安で仕方がない場合など、自分の感情を抑えきれないときに、自分の感情だけでなく、不成仏霊に煽られているのではないかと考えてみて下さい。

 

 

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at 12:31, 星 良謙・子授け地蔵, 神仏の御言葉

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曹洞宗の教え(星)

先日の事ですが、車検を受けました。

もう古い車ですので、前回も次の車検はないだろうなと考えておりましたが、大きなトラブルもないことから乗り続けております。

以前は、ディーラーに任せておりましたが、前回から大手企業の子会社が経営しているオートプラザで受けています。

 

前回見積もりをとったところ、激安・・・(◎-◎;) ドキッ!!

 

それだけディーラーが高かったのでしょうか?

しかし、流石にゴムの部品はしなければなりませんでした。

 

( ̄〜 ̄;)ウーン・・・ こればかりはどうもなりません。

 

結局、タイヤの交換もしなければならなかったことから少しばかり予算オーバーとなりました。

 

ε〜(;@_@) ガクン

 

それでもディーラーに任せていた頃に比べますと大幅に安く済みました。

 

(⌒ー⌒) ニヤリ

 

それはさておき・・・・

 

以前に降りた曹洞宗のご神霊のお言葉を要約しようとしていましたところ、曹洞宗の神霊からの自動書記が始まりました。

一般論てして教えが説かれていますので、ご紹介させて頂きます。

 

 

自分が怒りの感情に翻弄されるならば、怒りの心で自分を見失います。自分の心が悲しみに覆われるならば、悲しみの心で自分を見失います。こんなはずではなかったと後悔する者は数多くいます。しかし、それは後悔であって反省ではありません。大切なことは、その怒りの奥にどんな気持ちが隠れているかを知ることなのです。怒りの感情を持ったことを反省しても怒りの感情を抑え込んでいるだけの話であり、怒りの感情の奥に隠れている心に気が付かないままで終わります。


怒りの感情の奥底に隠れた感情を知ることが出来なければ、何度後悔したとしても同じことを繰り返すことになるでしょう。そのため、怒りの感情の奥に隠れている気持ちを知ることが大切なのです。しかし、それは簡単なことではありません。まずは、感情に翻弄されている自分に気付くことが大切です。自分が感情に翻弄されていると気付くことができるならば、自分の姿を客観的に見ることができるようになります。


その時になって始めて本当の意味で反省や懺悔が可能となります。そのためには、まず自分を責めることを止め、自分がどんな気持ちで生きているかを考えてみて下さい。一日に一度、僅かな時間があれば、今日の一日をどんな気持ちで生きたかを考えてみて欲しいのです。それがすべての始まりなのです。夜空の星を見上げる時間があったならば、自分が今日の一日をどんな気持ちで生きたかを振り返って欲しいのです。


自分がその時々の感情に任せて生きているのであるならば、それは感情のままに生きているだけの話であり、焦りや怒り、悲しみで一杯になっていたあるならば、感情に翻弄されて生きているなると言えるのです。あなたの心とは、その時々に湧き起る感情なのでしょうか。そうでないのならば、自分の心に気付くことが先決となります。それができないのであるならば、自分の心を見失っているのです。


多くの者たちは、感情に翻弄される心を自分の心だと考えて生きています。しかし、それは自分の感情であって自分の心ではありません。そのことが分からずに時々の感情に翻弄されて生きているのです。しかし、それがあなたの本当の心ですかと私は問いたいのです。私は何も毎日坐禅をしろと言っているのではありません。自分がどんな気持ちで生きているかを時々振り返って欲しいのです。


それは反省ではありません。毎日自分の心を確認する作業なのです。感情に翻弄される暮らしの中に安らぎはありません。誰であっても喜びや悲しみ、怒りや憎しみが湧き起るこることは当然のことですが、その感情の奥に自分の心が隠れているのです。それは恐怖心かも知れませんし、権力欲かも知れませんが、私はそのことを咎めているのではありません。


ありのままの自分の姿を知ることが大切なのです。そこが出発点なのです。しかし、多くの方がしているのは、ありのままの自分を否定して理想化した自分の姿を自分の本来の姿であると考えているのです。その理想化された自分の姿と現実の自分の姿の落差に苦しみ、自分を責めているのです。


感情に翻弄されるならば、自分を見失うと言いますが、その見失った自分の心をどれだけの人が知っているでしょうか。その多くは、自分の心ではなく、自分が理想化した自分の姿なのです。理想化した自分を追い求め、自分の現実の姿に落胆しているのです。その理由は自分のありのままの姿を否定しているのと同じことであり、それではいつまで経っても心の安らぎは得られないのです。本当の心の安らぎを得たいと願うのであるならば、自分の本当の心に気付くことが先決なのです。


そして自分の本当の心に気付くことが出来たならば、自分のありのままの姿を受け入れなさい。自分で自分を責める必要もなければ、自分で自分を否定すべきではありません。ありのままの自分の姿を受け入れることで初めて反省できるのです。後悔を重ねるのであるならば、自分が感情に翻弄されて生きていることに気付きなさい。そして自分の本当の心に気付きなさい。それがすべての始まりなのです。

 


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at 10:08, 星 良謙・子授け地蔵, 神仏の御言葉

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ある不成仏霊の言葉(星)

今回は少し変わった自動書記をご紹介します。
後で解説はさて頂きますが、まずはお読みください。
 

怖い。とてつもなく怖い。真っ暗闇だよ。

あなたはちゃんと前を見ているの?
目をつぶっていたら何も見えないわよ。

怖い。出来ない。そんな怖いこと出来ない。
赤ちゃんでいたい。お母さんのお腹の中にいたい。

ならどうして悪さばかりするの
悪さばかりしていたらお母さんに叱られるわよ。
みんな迷惑して怒っているのよ。

みんなが虐めるから
みんなから嫌われているか
誰も僕の事なんか振り向いてもくれないし、誰も僕の事なんか気にもしてくれない
誰も僕と遊んでくれなかった
誰も僕の事を大事にしてくれなかった

僕はそんなに悪い子なの
誰か教えて僕が悪い子だからお母さんは僕を捨てたの
僕が悪い子だからお母さんはどこかへ行っちゃったの

僕は良い子だったよね。
父さんはちっとも褒めてくれなかったけど、僕は良い子だったよね。
ちゃんと言われたことはやったよね。
たまには間違えたけど、ちゃんと出来たよね。

僕が良い子にしていたらお母さんに会えるかな

会えますよ。
ただ、その前にあなたはたくさんの悪さをしたわね。
ちゃんと皆に謝らなければいけないよ。

みんなが僕の事を馬鹿にするからみんなが悪いんだ。

あなたが悪さをするからみんながあなたのことを嫌いになるのよ。
あなたがみんなに悪さをしなければみんな仲良くしてくれるわよ。
仏様の住んでいる世界には、あなたを虐める子な誰もいないわよ。
みんなが仲良く楽しく暮らしているのよ。

その仏様の住んでいる世界でお母さんも待っているわよ。
お母さんの待っている世界に行くためには、まずあなたが悪さをするのをやめることが大切なのよ。

そんなことしたら僕がいる場所がなくなっちゃう。

ここにいる必要はないのよ。
ここはあなたがいる場所じゃないの、あなたの家は仏様の世界にあるの。
仏様の世界には、あなたのお母さんやあなたと仲良くしてくれるお友達が沢山待っているのよ。

本当なの僕には信じられない。
だって僕だってお母さんを探し続けたよ。
「お母さん」「お母さん」と呼び続けた。
何年も何年も探し続けた。
だけど、どこにもいなかったよ。
だから、お母さんは僕を見捨てたと思ったんだよ。

仏様の世界は探した?

だって仏様の世界がどこにあるか知らないもん。

あなたがみんなに意地悪な事ばかりしたから仏様の世界に行けなかったのよ。
仏様の世界はみんなと仲良くできる人だけの世界なの、だからみんなに意地悪している子ははいれないのよ。
だから意地悪をした人にあやまって、みんなと仲良くすることが大事なの。



ここまで読まれてどのような印象を持たれたでしょうか。常識的に考えるならば、幼児の母親代わりの女性との対話との印象を受けられたのではないかと思います。しかし、この自動書記は、人並み外れた力を持つ術者と女性神の対話とですと書きますと、違和感を覚える方が大半ではないかと思います。少し解説しますと、この術者の霊も最初の頃は大人の意識で話をしていただけでなく、神仏に対しても不遜な内容の内容の話を語っていました。

この術者の霊に限らず、平安時代など古い時代の陰陽師や行者などの術者の力は非常に強い力を持っています。そのため、転落した場合には、祈願祈祷や供養を繰り返していても成仏が難しいだけでなく、強烈な反撃を食らうことも少なありません。この転落した術者も障りを起こしていましたが、何とか神仏のお力で次第に追い詰めることが出来ました。しかし、ある日子供の意識になっていることに気付きました。何か言っている気がして書き留めたのが、上記の内容です。

後で分かったのは、このは術者は、母親の愛情を知ることなく育てられ、愛着障害であった可能性が高いことでした。愛着障害は機能不全に陥った家庭などで育てられ、子供の頃に得るはずだった愛情を十分に得られなかったことが原因です。また、愛着障害を抱えた人が回復していく過程において、生きている人間でも愛着障害を克服する過程で、幼いころの状態や問題を順次再現しながら、成長してゆく様子が見られることがあるようです。

この術者は幼い頃から母親のいない家庭であり、幼少期から厳しい修業に明け暮れたと思われます。そのため、生前の力を神仏に封じられ、素直になった途端に子供の意識に戻ったようです。本当は寂しくて仕方がないのに、人を信じることが出来ず、自分の力で相手を恐れさせることや自分の力を誇示して周囲の注目を集めることでしか自分を保てなかったことから転落したと思います。

いつも書いていることではありますが、生きている人間も死んだ人間の苦悩も同じです。この術者の霊は、通常ならば怨霊と言うべき存在でしたが、一人の人間として考えるならば、孤独な心を抱えて苦悩していたと言えます。しかし、理由はどうあれ、生きている人間に障りを起こし続けていたことは許されることではありません。

管理人ならば「地獄に堕ちろ」と言ってしまうと思いますが、それでも迷っている者を導くのが神仏であると、改めて感じました。神霊は、この術者の霊をどうやって導くのかと思っていましたが、流石に神霊の導き方は巧みであり、管理人には、とても出来ない芸当です。



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at 02:42, 星 良謙・子授け地蔵, 神仏の御言葉

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不成仏霊の気持ち12(星)

今回のシリーズもとうとう11回目の投稿となってしまいました。

過去に書き溜めた自動書記を投稿するだけですので、負担は少ないのですが・・・・

これだけ、同じような内容ばかりを投稿していていも良いのかなと悩みます。
また、内容が内容だけに、なんとなく後ろめたさが・・・・

そんなわけで、「不成仏霊の気持ち」は今回で終了させて頂こうかと考えています。

それはさておき・・・

今回の自動書記は、西洋人に虐げられた人々の自動書記と民族神のお言葉です。
 

部族の心霊の言葉
約束を守らない
仲間を殺した
女、子供をすべて殺した
神は助けてくれなかった
信用できない

どうして私たちを無視するのか?
私たちは誇り高き部族

今の者たちは信用できない
白人に魂を売ってしまった者たち
部族の誇りを忘れた者たち
我らは子孫が部族の誇りを取り戻すのを待ち・・・・


ここまで書いたところで、民族神の神霊からお言葉がありました。
 

民族神のお言葉
違う、嘘をつくな。お前たちは迷っていただけた。そして現世にて得られなかった富や権力を求め続けていただけである。現世で得られなかった富や権力を得たいがために現世に執着し、現世に生きる者たちの肉体を利用したかっただけの話である。

だが、子孫の者たちにはお前たちが望むような富や権力を持つ者はおらず、富や権力を持つ者たちはお前たちを迫害した白人ばかりであった。しかし、お前たちは、生前に抱いていた白人に対する恐怖心から白人に近づくことすら出来なかった。

そのため、お前たちは自分たちの子孫よりも富や権力を持ちながらも白人ではない者たちに目を付けたのであろう。それがお前たちが苦しめている者たちの先祖である。(先祖=相談者の先祖)

なんと嘆かわしき話であろうか。子孫でもなければ、同じ民族でもない者たちまでも巻き込み、自分たちの欲望を満たそうとする気持ちを持つとは、あまりにも情けない話である。

お前たちは、生前に白人に迫害されたために、死後の世界においても白人を恐れ、白人たちから逃げ惑っている。そうでなければ、どうしてお前たちは自分たちの故郷とは遠く離れた地で、自分たちとは何の縁もない者たちに障りを起こしているのか。

お前たちの誇りとは、弱い者を虐めることであり、心優しい者たちを利用することであろうか。お前たちにとって部族の誇りとは、弱い相手を選んで勝つことだけであろうか。お前たちの誇りとは、敵に勝つことだけでしか保てないのであろうか。

我はあまりにも情けない。お前たちの先祖は本当の勇者であった。

中略

本当の勇者とは、困難を恐れず、恐怖に打ち勝ち、多くの者から信頼され、多くの者たちを導くことが出来る者たちである。それが出来てこそ本当の勇者である。だが、お前たちのやっていることは、生きている者たちを混乱させ、惑わしているだけのことでしかない。そして自分たちは闇に隠れ、勝ち誇った気持ちになっているだけである。それのどこが勇者であろうか。

勇者でありたいと思うのであるならば、どうして未だに恐怖に怯え続けている者たちを励まし、救おうとしないのか。そして彼らを我らの住む世界へと導こうとはしないのか。それが本当の勇者がなすべきことである。我らはお前たちが我らの世界に来ることを遠い先祖の者たちと待っている。

真の勇者となれ、それが迷いから抜け出す道である。


at 22:53, 星 良謙・子授け地蔵, 神仏の御言葉

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不成仏霊の気持ち11(星)

( ̄。 ̄)ボーーォ とやる気のない管理人です。

こんなことを書きますと、いつもはやる気があるのかと言われそうなのですが・・・

神仏のお言葉を紹介していますが、別に教祖になろうとの気持ちはありませんので、やる気がない程度で丁度のではないかと勝手に思っております。

α~ (ー.ー") ンーー 何か、怒られているような気がしないでもありませんが・・・・

それはさておき・・・・

今回は、神道系の神霊が西洋人に虐げられた人々について説かれたお言葉をご紹介します。
 

彼らが槍を向け、弓を射ようとしているのは、失われた誇りを取り戻したいとの気持ちなのです。彼らはそうすることでしか自分たちの誇りを取り戻すことしか出来ないのです。彼らはあなた方を傷つけたいのでもなければ、あなた方を殺したいのでもありません。彼らは自分たちの誇りを取り戻したいのです。彼らは霊界で迷っている自覚もなく、ただ生前に傷ついた誇りを取り戻したい気持ちが強いのです。それがあなたに槍を向け、矢を射る姿となっているのです。

彼らにとって最大の苦悩は傷つけられたことや仲間が殺されたことではなく、自分たちの誇りが奪われたことなのです。そして彼らにとっては、その失われた誇りを取り戻す唯一の方法が敵から恐れられることなのです。彼らは決して平和を愛して穏やかな暮らしをしていた者たちではありません。彼らは部族間の闘いを繰り返していのです。

あなた方からするならば、小競り合い程度の闘いであっても命がけであり、その闘いに勝ち抜くことが彼らの誇りであり、彼らは自分たちを勇敢な戦士であると信じていたのです。しかし、彼らは海から来た者たちに完膚なきまでに負けたのです。彼らはそのことに深く傷つき、自分たちの誇りを取り戻した気持ちに凝り固まっているのです。

あなたに彼らが槍を向け、弓を射ようとしているのもあなたが彼らの姿を霊視することが出来るからであり、彼らはあなたを恐れさせたいだけであり、他に他意はありません。しかし、あなたは彼らが槍を向け、弓を射ようする姿を見ても何も動じません。それどころか、神仏のお力で彼らの敵意を消し去ってしまうことから彼らは困っているのです。

彼らが障りを起こしているのも同じ理由からなのです。彼らは自分たちの力を誇示することでしか自分たちの誇りを取り戻せないと考えているのです。そのため、自分たちを恐れさせたいのです。そのことが我らの説得を拒絶するだけでなく、神仏の救いすらも拒絶する結果となっているのです。

私たちは、彼らに和の大切さを説き、平和で穏やかな生活を取り戻すことこそが幸せであることを説いているのですが、彼らは全く聞く気持ちがありません。彼らにとって私たちが異国の神であるとしても、私たちが高い霊格を持つ神であることは彼らにも分かるはずなのですが、彼らには敵意しかありません。そのことが彼らを救うことを難しくしているのです。



 

at 21:27, 星 良謙・子授け地蔵, 神仏の御言葉

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不成仏霊の気持ち10(星)

中日ドラゴンズが快調に首位を走っております。( ̄^ ̄)えっへん

┌( ̄0 ̄)┐ウオーホッホッホッホ

シーズンに入る前は、何かと言われておりましたが・・・・

けが人が多くても首位、それだけ若手の選手の元気がいいと言いたいところですが・・・

ドミニカの選手頼りが少し寂しい気もします。

それはさておき・・・

今回は前回に続きです。霊界は心の世界であることから言葉が異なる外国の心霊でも自動書記は可能ではありますが、考え方や価値観があまりにも違いすぎる場合や生きている人間に言葉を伝えた経験がない場合には、イメージや感情は伝わってきても明確な言葉にはならないことが少なくありません。

そのため、アイヌの神霊に状況を解説して頂く結果になりました。
 

アイヌの神霊の解説
今、彼らは混乱しています。そして意見が分かれています。生前に部族の長をしていた者が集まり、それぞれの意見を述べていますが、まとまっていません。彼らは、それぞれが独立した部族であり、生前にはそれぞれの部族が集まり話し合う機会は非常に少なかったのです。

そのため、彼らは統一された意思で動いていたわけではなく、お互いの思惑で行動していただけなのです。彼らの大半は論理的な思考が出来ない者たちであり、彼らを支配しているのは怒りや憎しみの感情と恐怖と悲しみ、そして消すことが出来ない劣等感なのです。

その生前から続く怒りや憎しみ、そして劣等感を消し去ることができないことが、神仏の言葉が彼らの心に届かない原因なのです。それは、彼ら自身が気付かねばならないことなのですが、あまりにも生前の続く怒りや憎しみ、劣等感が強いために彼らは気付けないのです。

それでも、一部の者たちは、憎しみや怒りを捨てるべきだと思い始めているのですが、彼らの意見はまとまっていません。また、彼らは自分たちに教えを説いているのが、本当に神なのかと疑っています。民族神であっても精神的に高い境地に到達している神霊ならば、彼らにも偉大な存在である程度のことは分かりますが、彼らにとって神とは、自分たちに豊かさや勝利を与えてくれる存在であり、教えを説く存在ではなかったのです。

そのため、彼らは民族神の説く教えを信じるべきかとどうかで意見が分かれているのです。

 
詳細は書けませんが、生前に暮らしていた地域は分かっていましたので、彼らが生前に信仰していたと思われる民族神に指導して頂けないかとお願いしていましたところ、彼らが生前に信仰していたと思われる民族神からのお言葉がありました。
 

○○の民族神の教え
どうして飢えに苦しむこともない食べ物に満ち溢れた世界に帰ろうとしないのか。争いのない平和な世界に帰ろうとしないのか。お前たちは、生前に信じた神の言葉が信じられないのか。お前たちは、いつまで争いを続ける気持ちなのか。

争いをやめよ。もうお前たちを迫害する者たちはいない。それがどうして分からないのか。お前たちが真の勇者ならば、我の言葉を信じよ。お前たちが真の勇者ならば、我が言葉に偽りのないことは分かるはずである。お前たちが自分たちの家族を愛するならば、我が言葉を信じよ。お前たちは、自分たちの家族を守るために闘っていたのではないか。本当に自分たちの家族のために闘っていたのであるならば、お前たちの家族の幸せを考えよ。

自分たちの周りを見渡してみよ。何処にお前たちを迫害した者たちの姿があるのか。お前たちは何を恐れているのであろうか。お前たちはいつまで生前の恐怖に怯えているのであろうか。もう槍を下せ、弓を手にすることは止めよ。

私たちの世界の者たちは、誰も相手を傷つけたりはしない。私たちの世界の者たちは、誰も相手を憎むこともない。誰も相手を傷つけず、誰も相手を憎まない。誰も相手を傷つける必要もなく、誰も相手を憎む必要がない世界である。もし、誰かを傷つけたいと願い、誰かを憎む心があるならば、我らの世界には住めないのだ。誰も相手を傷つける気持ちがなく、誰も相手を憎む気持ちがないならば、どうして争う必要があろうか。

食べ物はいつも豊かにあり、人々は穏やかに暮らす。争いのない世界にどうして帰ろうとしないのか。お前たちがその豊かな世界に帰るためには、争いを止めなければならないのだ。争いを止め、人を憎むことを止めなければならない。争いを止め、人を憎むことを止め、人を傷つけることを止めなければ、我らの世界には帰れないのだ。

お前たちにも家族があったはずだ。年老いた親がいたはずである。その者たちのことを考えるならば、出来るはずである。いつまで自分たちの誇りにこだわるのか、いつまで白人の恐怖に怯え続けるのか。

お前たちが守ろうとした部族の誇りとは、敵から恐れられることではなかったはずである。敵から恐れられることを誇りと考えたのは、敵から恐れられることで敵からの闘いを防ぐことであり、それは部族の者たちを守る為であったはずである。敵から恐れられたとしても、部族の者たちを守ることが出来ないならば、敵からいくら恐れられても部族の誇りなどない。

今のお前たちの家族を見よ。年老いた両親や女子供は恐怖に怯えているではないか。或いは飢えに苦しんでいるではないか。それなのにどうしてお前たちは、部族の誇りを言うのであろうか。本当に部族の誇りを大切にするならば、自分たちの家族を大切にするはずである。自分たちの家族を大切に出来ない者に部族の誇りを言うことは我が許さぬ。

家族が大切ならば、家族の幸せを願うならば、槍を下し、弓を手にすることは止めよ。そして部族の者たちが大切ならば、槍を下し、弓を手にすることを止めよ。そしてお互いに助け合え、相手が困っているならば相手を助けよ。その心があれば、我らはお前たちを喜んで我らの国に迎える。


少し補足しますと、「槍を下し、弓を手にするのを止めよ」とありますが、これは自動書記をしようとすると威嚇するように槍を構え、弓を手にしていた姿を霊視しましたので、民族神がこのようなことを説かれたと思われます。

さて、精霊信仰には体系的な教えは残されていない可能性が高いと思われますが、この神霊はそれなりに高い霊格を持つ心霊であるとの印象を受けました。難しいことは言われてはいませんが、成仏するためには何をすべきかを端的に説かれています。

宗教は異なっても精神的に高い境地に到達することは、可能と言うことなのでしょうか?

at 11:30, 星 良謙・子授け地蔵, 神仏の御言葉

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不成仏霊の気持ち9(星)




先週のことですが、桜が散りかけているのに、梅が咲いていました。
別の場所では、桃の花が咲いていました。
梅と桜と桃の花が同時に咲いていることに不思議な気がしています。
これも異常気象が原因なのでしょうか?

それはさておき・・・・

今回は、少し変わったお言葉を投稿します。

管理人は自動書記が出来ると言っても自由自在に言葉が聞けるわけでもなく、誰かが何かを伝えようとしていると感じても、実際には何を伝えようとしているのか、全く分からないときも少なくありません。

今回ご紹介する自動書記も、最初は断片的な言葉だけが伝わってくるだけであり、何を言いたいのか分かりませんでした。

 

言いたくても言えないこと
上手く説明できないこと

すべてを破壊された
多くの者たちが死んだ
助けて欲しい

言葉では説明できない心があることを理解して欲しい。
難しい話は分からないが、人間が人間として誇りを持って生きることが悪いのか。だが、ある日見知らぬ者たちが、我々からすべてを奪い去った。我々の生活も我々の誇りもすべてを奪い尽くした。
誇りを奪われた者たちの怒りと悲しみ


少し補足しますと、西洋人に征服され、奴隷として扱われた人々の言葉でした。
これまでに数多くの自動書記を経験しましたが、西洋人に征服され、奴隷として扱われた人々の自動書記は初めての経験であり、戸惑っていましたが、アイヌの神霊と思われる方に、彼らの気持ちを解説して頂けました。
 

あなたに、彼らの気持ちを理解するとは難しいと思います。彼らは、自分たちの暮らしも、自分たちの部族としての誇りも、すべて奪われた者たちなのです。彼らは文明を非常に憎んでいます。そして文明を敵視しています。

彼らにすれば、文明が自分たちのすべてを奪い、文明が自分たちのすべてを破壊したと考えています。また、彼らにとっては、神仏も文明なのです。彼らにとっては、神とは自然であり、神とは精霊なのです。そこには、あなた方が考えるような信仰の世界はありません。

また、忘れてはならないことは、彼らの世界が現代人の考えるような○○の楽園ではなく、良くも悪くも人間的であり、部族間の争いもあれば、激しい闘いも繰り広げられていたのです。ただ、部族間の闘いであるならば、彼らの暮らしのすべてを破壊しつくことはなかったのです。

あなたからするならば、彼らは精霊信仰に生きたと言えるでしょうが、それはあなたが考えるような精霊信仰ではないのです。もっと泥臭いと言うべき精霊信仰であると言えるのです。そのため、あなたは、彼らの気持ちを理解することが難しいのです。

私たちは、良くも悪くも日本人の精神の影響を受けましたが、自分たちの信仰や自分たちの誇りを忘れたことはありません。私たちの信仰は、神社のような立派な祭殿もなく、荘厳さを感じさせるような作法もありませんが、私たちは自分たちの信仰を恥じる気持ちはありませんでした。

しかし、彼らは、その誇りさえ奪われ、部族としての誇りも、人間としての誇りすらも、奪われたのです。彼らにあるのは、文明に対する怒りと憎しみ、そして自分たちの信仰を奪われた悲しみと怒り、部族としての誇りだけでなく、人間としての誇りすら、奪われた者たちの悲しみと絶望なのです。彼らは文明社会の恩恵を何一つとして受け取ることなく、文明社会にすべてを奪われたのです。

彼らはあなたと異なり、論理的な思考を学んではいません。また何の教育も受けていないことから、難しい話をしても通じる相手ではありません。そのため、筋道を立てて話すように求めても無駄なのです。彼らに筋道を立てて話をするように求めても、彼らは、自分たちの感情のままにしか話すことしか出来ないのです。

勿論、あなたは、相手が感情のままに話をしたとしても、相手の感情の洪水を整理して、相手の本音を見抜くことが出来る方ではありますが、彼らの心の中にあるのは、失われた部族としての誇りと失われた人間としての誇り、そして絶望感だけなのです。それ以外には何もないと言えるのです。そのため、彼らは何をどのように話せばよいのかも分からないのです。

しかし、彼らは文明を憎んではいますが、あなた方を憎んではいません。正確には、日本人を憎んではいないと言うべきです。彼らにとっては欧米人も日本人も同じ異国の人間であり、文明人ではあっても、日本人を憎んではいません。彼らは自分たちを迫害したのが日本人ではないことを分かっています。そのため、彼らは同じ文明人でありながら、自分たちを迫害しなかった日本人である、あなた方ならば、自分たちの苦悩を理解してくれるのではないと期待しているのです。

彼らは、自分たちが平和を愛し、争いもなく暮らしていたと言うつもりはありませんが、自分たちの暮らしを奪われ、自分たちの信仰を奪われ、部族としての誇りだけでなく、人間としての誇りすら奪われてしまったことに激しい怒りと悲しみ、そして絶望感を抱いているのです。

そのことを理解して欲しいのと、自分たちを救ってくれる者が現れるのを待ち続けているのです。ただ、彼らの悲しみや怒り、そして絶望感があまりにも激しすぎるだけでなく、彼らは自分たちの気持ちを上手く伝えることが出来ないが為に、誰も気づかなかったのです。

私には、彼らの気持ちは分かりますが、私には彼らを救うだけの力はありません。また、私たちとは考え方も異なるだけでなく、信仰も違いすぎるのです。しかし、あなたたちならば、出来るのではないかと彼らは期待しているのです。


考えてみれば、世界には数多くの宗教があります。そして今回のように生前に自然や精霊を神として崇めていた人々がいること分かっていてしたが、そんな人々の自動書記があるとは考えてもいませんでした。

次回に続きます。

at 11:14, 星 良謙・子授け地蔵, 神仏の御言葉

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