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霊障と性格(星)

一般の方は霊障の解消には神通力や霊能力と言った一般の方には分からない不思議な力が大切と考える方が大半かと思いますが、神通力や霊能力は、ないよりはあった方が便利な程度としか考えていません。意外に思われるかもしれませんが、魔物の正体を見抜かなければならないときにも、自分の霊能力を駆使しようと考えることもありませんし、自分の力で魔物と対決しようとも考えることも考えていないと言えます。

 

転落した魔物の多くは、生前に厳しい修行を積んだ行者が多く、転落しているとは言っても並の力ではありません。そんな魔物に力で対抗しようとしても勝てるはずもないと考えています。そのため、最初から力で対決しようとは考えてはいませんが、これまでに強い神通力を持つ僧侶と言われる方が、自分の手に負えないと断られた霊障を何件か解消しました。個人的には、自分の力で魔物を退治した自覚もなく、全て神仏が魔物を退治されたのであり、直接的には祈願祈祷をされた僧侶や神職の方のお力であって、自分は何処で何をすべきかを占っているだけの自覚しかありません。

 

その意味では、霊能者との自覚もなければ、霊感を駆使して占っている自覚もありません。私にできる程度のことならば、修行を積まれた行者や優れた霊能力を持つ霊能者ならば、もっと大きな仕事ができるのではないかと思いますが、意外と魔物の正体を見抜けなかったり、自分の手には負えないと断られることが少なくないようです。私も過去に自分ではとても手に負えないと思ったことは何度かありますが、ご神仏の働きで何とか障りを解消しました。

 

では、どうして厳しい修行を積んだ行者や強い霊能力を持つと言われる霊能者が、自分の手に負えないと断る障りを修行らしい修行を障りを解消できるのかとの疑問が残ります。最初は、魔物が一介の占い師に何ができると油断していることが理由かと考えていましたが、どうも別に理由があるのではないかと思うようになりました。そこで色々と考えてみましたが、理由が自分でも良く分かりませんでした。

 

信仰心については、厳しい修行をされている僧侶の方に比べるならば、所詮は在家の者の信仰です。霊能力と言っても私よりも優れた霊能力を持つ方は数多くいると思います。私は不得手であり、私よりも詳細に霊視する霊能者は数多くいると思います。自分には霊感などないと言われる方であっても、直感で言われることがかなりの確率で言い当てることあることから霊能力が強いとの実感もありません。

 

しかし、魔物が一番恐れているのは、神通力や霊能力ではなく、私の考え方ではないかと思うようになりました。自分が悟っているとも考えていませんが、若い頃から人と少し違った思考をしていると言われることが少なくありませんでした。そのことを自覚したのは、エゴグラム性格診断を受けた際のことでした。私は、物事を冷静に判断する論理的な思考が非常に強い性格との結果となりまし。また、先日のことですが、ネットでMBTI診断をしてみたところ似たような結果となりました。蛇足ながらどちらの性格診断も簡単な質問に答えるだけであり、検索されるならば、無料で性格診断を受けることができるサイトが直ぐに見つかります。

 

論理的な思考が強いことが良いことであるとも考えていませんが、霊障に対する取り組みに関しては、この論理的思考の強さが大きく影響していると思います。一般的に心霊世界における力は良くも悪くも念の強さとも言えます。勿論、魔物は憎悪や怒り、不満などの負の念であり、神仏は圧倒的な慈悲や善と言えますが、魔物の念は感情的な念であるとも言えます。その多くは、憎悪や怒り、不満などであり、感情的な力と言えます。これに対して冷静に判断する論理的な思考は、感情を排除した考えですので、魔物の力を受けにくいと言えま。

 

過去の経験でも魔物に限らず、不成仏霊の障りを受けますと閉塞感や不安感に悩まされるだけでなく、無気力になったり、苛立ちが強くなったりするなどの感情が翻弄されることが多くなります。勿論、不成仏霊の障りは感情面だけではなく、病気や経済的な損失などの現実的な災いも少なくありませんが、感情面の悪影響は大きいと言えます。そのため、不成仏霊にとっては感情を翻弄できないことは大きな痛手となるのではないかと思われます。そのことが魔物にとっては受け入れがたいことであり、目の敵にされやすいようです。

 

いずれにしても過去の経験則からの仮説ではありますが、不成仏霊の対策として感情が翻弄されないようにすることは有効な対策と言えるのではないかと思います。

 

 

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at 00:05, 星 良謙・子授け地蔵, 霊感・霊能力について

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霊能力信仰の危険性13(星)

いつもは、( ̄。 ̄)ボーーォとしておりますが・・・

 

今日は一日外出・・・・

 

(@@;))))〜〜(((((;@@) うろうろ

 

カミサマ! ( ̄人 ̄)

 

今日は何か所かの神社に参拝しました。

 

( ̄^ ̄)えっへん

 

威張るような話ではないのですが・・・

 

それはさておき・・・・

 

過去に色々な霊能者にお会いしたことがありますが、多かれ少なかれ妄想を抱いてる霊能者が多かった印象があります。割と多いのが「自分が日本を守っている」でした。何から日本を守っているのか知りませんが、日本中に結界を張って回っていると語っている霊能者も複数いました。また、霊能者の自宅や事務所が世界の縮図であり、ここで起きていることは現実世界で起きると語っていた霊能者もいました。こんな話は他にも幾つかありますが、本人は真剣に信じているようでした。

 

流石にそれはないと言いたくなったのが、弘法大師が般若心経を作ったとの話でした。その霊能者は真言宗系であったと思われますが、指導霊と称する心霊の中に弘法大師がいました。その霊能者は、弘法大師を自称する心霊を語らしていましたが「自分が中国に亘った際に中国で般若心経を作った」と語りました。余りにも馬鹿げた話でしたが、紹介してくれた友人の手前、黙っていましたが、後で友人には間違いであることを伝えました。

 

一般的に般若心経と呼ばれてい御経の正式名称は、般若波羅蜜多心経であり、玄奘(げんじょう)三蔵法師(602年 - 664年3月7日)の訳とされています。そして弘法大師が唐に渡られたのが延暦23年(803年)ですので、弘法大師が唐に渡られる以前から般若心経は存在していました。そのため、弘法大師が翻訳された可能性はなく、弘法大師が般若心経を作られた可能性は皆無です。この話を聞いたのは、20年近く前であり、インターネットが普及していなかった当時ではありますが、調べれば直ぐに分かる話なのにと思ったことを覚えています。

 

また、自分は国政を動かしていると豪語していた霊能者もいましたが、よく聞けば国会議員の私設秘書が信者であるだけの話でした。与党の重鎮とされる国会議員が信者だとしても国政を動かしているとまで言えないのに、国会議員の私設秘書が信者と言うだけでは、国政に何の影響もないと言えますので、内心呆れました。蛇足ながら議員の秘書は、公設秘書と私設秘書に分かれます。公設秘書は1人の国会議員に3人までつけることができ、国家公務員という扱いであり、給料は国から支払われます。一方、私設秘書は議員が個人的に雇う秘書であり、仕事内容は事務的な内容や雑用が中心となります。

 

霊能者と言っても色々であり、一概には言えませんが、妄想の世界の中で生きているのではないかと思うことが少なくありませんでした。霊能力は心霊世界との関わりの深く、心霊世界は心の世界であることとから現実感が希薄になることが、妄想の中で生きることになる理由かもしれません。しかし、通常は、妄想の中で生きているならば、社会生活を維持すること困難となりますが、霊能者が妄想の中で生きながらも社会生活が破綻しないのは、霊能者の語る妄想を信じている信者の存在が大きいのではないかと思います。

 

一般の人が「自分が日本を守っている」と公言するならば、気は確かかと言われると思いますし、一般の方が自宅や事務所が世界の縮図であり、ここで起きていることは現実世界で起きると語るならば、誰からも相手にされないと思いますが、相手が霊能者となりますと、霊能者の話を信じる方が増えるようです。その多くは病気が治った、事業が好転したなどの何らかの奇跡と言えるような体験をされることで信じることになるようです。しかし、霊能者は一般の方が持っていない能力を持っていることは事実であるとしても、妄想の世界の住人になりやすいのも事実です。

 

別に霊能者に憧れを持つ方の夢を打ち砕くことを目的にしている訳ではありませんが、こんな話ばかりを書き続けることに少し疲れを感じています。書こうと思えば暫くは続けることは可能ですが、霊能力に関する話は今回で終わりにしようかと考えています。そこで最後に多くの霊能者を頼った理由を書いておこうかと思います。何度もか聞いた話ではありますが、原因不明の閉そく感や不穏な空気に悩まされていた頃に、それが霊障と教えられ、霊障を解消する方法を探し続けました。

 

シナの武術の世界には、7年間修業するよりも7年かけて師を探せと言われていると本で読んだ記憶がありますが、右も左も分からない状態では何をすれば良いのかも分からなかったことから師を求めました。胡散臭い人物と思いながらも会ったことは少なくありませんでしたし、力だけはありそうだからと思って会ったこともありました。多くの場合には、友人や知り合いの紹介でしたが、著書を読み、セミナーのようなものに参加したこともありました。

 

しかし、大半の霊能者は妄想の世界の住人であり、自分の能力に酔いしれているようにしか思えませんでした。いずれも長続きせず。無駄金を使っただけでしたが、今となってみますと何らかの意味があったのだろうかと考えています。少なくとも霊能者の実態を知ることができただけても貴重な経験であったと考えています。

 

 

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at 01:01, 星 良謙・子授け地蔵, 霊感・霊能力について

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霊能力信仰の危険性12(星)

昨日、知り合いと話をしていたところ、台風の話となりました。

幸いにも台風の接近を意識することもない天気が続いていましたので、気にしていませんでした。

 

α~ (ー.ー") ンーー

 

自分でも何とも能天気な・・・・

 

静岡に上陸前に熱帯低気圧に変わったとのことですが・・・

 

地域によっては豪雨であったとか・・・

 

被害が少しでも軽いことを願っております。

 

それはさておき・・・・・

 

若い頃から何人かの霊能者から弟子入りを勧められましたが、自分に霊能力があるとの実感もなく生きていました。その理由は、霊視の体験がなかったことから自分に霊能力があるとは考えていませんでした。それは現在でも同じであり、亡くなられた方をリアルに霊視することは皆無に近いと思います。神仏のお姿ならば何度も霊視していますが、これは霊視と言うよりも神仏が何らかの目的でお姿を見せているのであり、霊能力とは無関係ではないかと考えています。

 

では、全く霊視ができないかと言えば、そうでもありません。亡くなられた方をリアルに霊視することは皆無に近いのですが、気配や空気とでも呼ぶべき感覚はあります。そのため、霊感ではなく、気の感覚が鋭いだけではないかと考えていました。これは今でも同じであり、普通の霊能者が語るような体験はありませんが、不成仏霊や魔物などは邪気や不穏な気配として感じます。しかし、意識すれば、不成仏霊の意思や状態が分ることがあります。不成仏霊の姿を霊視することもありますが、自分の意思で見ていると言うよりも神仏が見せている印象があります。

 

そのため、霊能力を持っている自覚はありませんが、気の感覚ならば他の人よりも敏感であり、気の感覚だけで鍼灸や指圧で用いるツボの位置が分かります。特に治療すべきツボは、気の感覚が明確に異なりますので、自宅でお灸をする際には、いつも気の感覚でツボの位置を探しています。また、最近は加齢で気のエネルギー量が大幅に低下しましたので、気功治療は行っていませんが、30代の頃には知り合いに頼まれると気功治療をしていました。そのため、占い師になるか、気功師になるか悩んでいた時期があります。

 

さて、話を戻しますと、過去に霊能力を持つ方とは何人も話をさせていただきましたが、霊視と言っても人によって見える範囲が異なることに気付きました。亡くなられた方をリアルな映像として見えることを霊視とて考える方も多いのではないかと思いますが、見える範囲は異なるようです。この場合の範囲とは、視野の広さと言った意味ではなく、霊格の高低の範囲です。これは誰にも共通することではありますが、霊能力があると言っても全てが見えることはなく、一定の幅があります。また、リアルに映像として見えるだけでなく、何かを感じることも少なくありません。そのため、霊視と言っても千差万別であり、自分には霊能力などないと公言されている方であっても自分に関係していることだけは、漠然と何かを感じたり、映像が見えたりすることがあるようです。

 

霊能力があると言っても全てが見えることはなく、一定の幅がありますと書きましたが、悟りの高さと関係しているのだろうかと思うことがあります。その理由として、本人の悟りの段階に近い段階のことは分かっても、高い霊格の神霊のこととなると全く何も感じないと言われることが少なくありませんでした。また、逆に余りにも深刻な障りの場合にも全く何も感じないと言われることも多いことがあります。そのため、本人の悟りを基準にして一定の幅の範囲でしか見えていないのではないかと思うようになりました。

 

また、漠然とした印象なのですが、リアルな映像として見えることが多い霊能者は、見える範囲が狭く、ぼんやりと見えることが多い霊能者の場合には、見える範囲が広いのではないかと思うことがあります。これはFM放送が電波の届く範囲が狭くても音質が良いのに対して、AM放送は電波の届く範囲は広くても音質が劣るのに似ているのではないかと思います。私の場合には、このどちらでもなく、海外でも受信可能な短波放送と言ったところでしょうか。基本的にはいずれも一長一短がありますので、どれが優れているとは思いませんが、私は少し特殊なタイプのようです。

 

霊視に限られた話ではありませんが、霊能力は不安定な能力であると考えています。霊視をしている本人には何らかの映像が見えていることは間違いないとしても、本人の先入観や不成仏霊の惑わしがあります。そのため、霊視した映像が先入観や不成仏霊の惑わしである可能性があります。そのため、霊能力で得られた情報は、取り扱いを慎重にすべきなのですが、霊能力を過信されている方は、霊視で見えたことを信じる方が多いようです。

 

個人的には、霊能者が○○であると断定した話は、参考にはしても信用はしないことにしています。これが常に信用できないのであれば、最初から信用しなければ良いだけの話なのですが、胡散臭い霊能者の話でも何らかの手掛かりを得られることがあります。これは霊能者を指導しているのが低級霊であることから低級霊の障りを見抜けると言えるのかもしれませんが、優れた霊能者でも全てを見抜くことはできないと思います。

 

しかし、ここまでの話は個人的な経験則から導かれた推論です。過去に出合った霊能者や霊感を持つとされる人の数が数百人もいるはずもないことから限られた人数から導かれた推論でしかありませんので、どこまで正しいのかは自分にも分かりません。一人の霊能者が漠然と感じている程度の話とお考え下さい。

 

 

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at 13:55, 星 良謙・子授け地蔵, 霊感・霊能力について

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霊能力信仰の危険性10(星)

今日も今日としてい言った日々を過ごしています。

 

何か、ワンパターンのような気が・・・

 

何やら気配が・・・・

 

日日是好日(にちにちこれこうじつ)

 

お説教されてしまったような!

 

orz

 

それはさておき・・・・・

 

何人かの霊能者から良く当たると評判の占い師の背後には動物霊が教えていると聞きました。個人的には、亡くなった動物が生きている人間に障りを起すのだろうかとの疑問を抱いています。心霊世界は心の世界であることから力のある心霊が動物の姿を生きている人間に見せることも可能です。いつも書いていることではありますが、心霊世界のことは検証が困難なことばかりですので、全ては推論となります。しかし、本当に動物霊が占い師を指導しているかは疑問ですが、低級霊が占い師を指導していることで的中率が高くなる可能性はあります。

 

このように考える理由としては、過去の経験があります。今から30年以上前のことですが、拝み屋の方が信者の家のご先祖が「お経を読まないと悪いことが起きる」と言っているが、「お経を読まなければ、悪いことを起すと言っている意味だ」と語っていました。また、既に他界した叔父が「あの霊能者は悪いことだけは良く当てるが、良いことはちっとも当たらない」と語られていました。その時はさして気にもしていませんでしたが、どちらも低級霊が指導していたと考えるならば、納得できます。

 

経験則の話となりますが、霊格の高い神仏の指導は、棚からぼた餅の幸運を与えてくれることは余りありません。与えて下さるのはチャンスであり、自分が挑戦すべきことであったりします。仕事が一番分かり易いのですが、神仏のご加護で仕事を受注したと感じることは何度かありましたが、受注した場合には何らかの改善をしなければならない状況に陥ったり、新しいことに取り組まなければならないなどの課題がいつもありました。つまり会社として実力を養えと言われている気がしました。

 

つまり霊格の高い神霊は、長期的な観点から抱えている問題を一つずつ解消することに主眼が置かれます。これは仕事に限られた話ではなく、人間関係でも同じです。改善すべき点があるならば、その改善すべき問題に気付きを与えて下さるのが、神仏の指導ではないかと思います。これを何度か繰り返していますと、次第に人生が好転し始めるだけでなく、気付けば地力がついているとでも言うべき状態となります。

 

これに対して霊格の低い神霊は、長期的な観点からの指導はありません。仕事が分かり易いのですが、霊格の低い神霊が働かれますと仕事量は増大します。しかし、どの会社でも同じですが、仕事をこなせる量には限界があります。能力以上の仕事量を抱えると色々な問題が生じます。それは生産体制の問題なのか、物流体制の問題なのかは分かりませんが、比較的暇な状態では問題に奈良買ったことが次々と発生して大混乱に陥ることになり、お客様の信用を失うことになります。

 

まとめますと、霊格の高い神霊のご加護は長期的な観点からの指導であり、生きている人間の努力を助けるご加護となります。これに対して、霊格の低い神霊のご加護は、即効性はありますが、着実な成功とはならないだけでなく、混乱を招くことすらあります。このことを前提にして考えますと、霊格の高い神霊の指導がありますと、依頼者の抱えている問題の本質を見抜くことに主眼が置かれることになります。これに対して霊格の低い神霊が指導されますと、依頼者の抱えている問題の本質よりも目先の損得や利害が主眼に置かれた指導となります。

 

これが低級霊となりますと、依頼者の抱えている問題に余り関心もなく、目先の損得や利害すらにも関心がないのではないかと思います。では何を重視するかと言えば、自己顕示欲です。つまり占い師を指導している低級霊は、占い師を通して自分の力を誇示することが最優先されます。勿論、相談者の利益など一切無視されることになります。このように書きますと、的中率の高い占い師を動物霊が指導していると言われる理由を理解できない方も多いのではないかと思います。

 

しかし、実際に占い師として活動をしていますと、その理由が良く分かります。一般的に悩みの渦中にある方は、本質的な問題には関心がありません。関心がないどころか、本質的な問題を持ち出されることを嫌がります。そんなことはどうでもいいから知りたいことを教えてくれと言った態度の方が少なくありません。それらの方が知りたがることは、目先のことが大半です。次に多いのが気休めでしかないとしても楽観的な結果です。問題の本質を見極めて状況を打開する気持のない方が求めているのは、目先の問題の解決であり、何とかなるとの希望です。

 

そんな依頼者の希望を叶えるのが、動物霊とも言われる低級霊が指導する占い師です。依頼者が求めているのは、目先の話であり、問題の本質ではありません。そのため、目先の些細な問題が的中するならば、依頼者は満足します。そして低級霊は自己顕示欲が強いことから依頼者が驚くであろうことを言うように占い師を指導します。他人が知っているはずもないことを言われた依頼者は凄い占い師であると思うことになります。そして気休めでも希望を与えるならば、依頼者は大満足で帰ることになります。

 

商売として考えるならば、お客様の欲求を満たしているのですから何も問題はなく、別に詐欺をしていませんし、騙していもいないので何も問題はありません。結果が悪かったとしても依頼者の努力が不足していたかもしれませんので、道義的な責任を負う必要もないのかもしれません。そのため、個人的には、批判する気もありませんが、占い師としの良心があるかとなれば、疑問が残ります。

 

また、冒頭で書きました「お経を読まなければ、悪いことを起すと言っている意味だ」の話と「あの霊能者は悪いことだけは良く当てるが、良いことはちっとも当たらない」の話も低級霊が指導していると考えると分かり易いのではないかと思います。指導しているのが低級霊であるからこそ、低級霊の気持ちや手の内に精通できると考えるべきではないかと思います。もし、霊格の高い神霊が指導していたならば、不成仏霊が障りを起さないように働かれるはずであり、悪いことが起きると予想される場合には、未然に防ぐための指導をされるはずです。

 

いずれにしても人は目先のことで翻弄され易いようです。

 

 

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at 00:27, 星 良謙・子授け地蔵, 霊感・霊能力について

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霊能力信仰の危険性9(星)

おせち料理の予約が開始されていました。

 

(´`;) ? もうそんな時期?

 

まだ、9月なのに・・・・

 

早期割引とか・・・・

 

( ̄-  ̄ ) ンー

 

何か早すぎるような気がしています。

 

それはさておき・・・・

 

ある仏教系の新興宗教の会報に神が人間を創造したと書いていたのを見たことがありました。これは仏教を教えの根幹とするのであれば、一発でOUTとなります。サッカーや野球ならば即退場では済まされない話であり、永久追放処分になる話です。その理由を書きますと、仏教の根本思想である三法印(さんぼういん)の教えから逸脱するからです。これがキリスト教ならば、何も問題はない話となりますが、神道となると少し微妙です。日本の神話では神が人間を創造したとの話は登場しません。

 

精選版 日本国語大辞典

「三法印」さん‐ぼういん 

〘名〙 仏語。仏教の根本的立場を明らかにした三つの旗印で、仏教であることを証明する規準。諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の三つをいう。〔法華玄義‐八・上〕

 

尚、「一切皆苦」(一切行苦)を加えて四法印と呼ぶこともあります。

 

三法印(さんぼういん)は、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の三つの教えであり、この三つの教えが仏教と他の教えとの区別を明らかにするとされている重要な教えです。そのため、仏教である限りは、どんな宗旨宗派であっても教えの根幹には、この三法印の教えがあります。逆に言えば、この三法印の教えを否定する教えを説くならば、どんなに仏教の教えを説いたとしても仏教を名乗ることは許されないことになります。これは仏教を少しでも勉強したことのある人間ならば常識なのですが、仏教の教えを看板に掲げながらも神が人間を創造したとか、魂の永遠を説く教祖がいるようです。

 

諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の内容を簡単に書きますと、下記の内容となります。

 

「諸行無常」 この世の一切は続かないこと

「諸法無我」 すべてのものは互いに影響をしながら出来ていること

「涅槃寂静」 一切の欲望を離れた静かな安らぎの境地のこと

 

少し解説しますと「諸行無常」は、この世の一切は続かないことを説く教えであり、永遠の存在を否定する教えです。しかし、世の中の無情やはかなさを説く教えではありません。次の「諸法無我」は、相互依存の関係を説く教えであり、すべてのものは互いに影響をしながら出来ていることを説きます。そのため、万物の創造主である神の存在や魂の永遠不滅を認めるならば、仏教の根幹の教えを否定することになり、仏教を名乗ることはできません。

 

高橋信次氏の著書を初めて読んだ当時は、仏教に関して初歩的な知識しかありませんでしたが、高橋信次氏をお釈迦様とキリストとモーゼが指導しているとの話を読んだ際に、教えの整合性はどうなるのかと疑問を抱きました。キリスト教とユダヤ教は万物の創造主としての神の存在を前提とする教えであるのに対して、お釈迦様の教えでは万物の創造主である神の存在や魂の永遠不滅を認めません。この矛盾に高橋信次氏は著書の中でこのことに何も触れていなかったと記憶しています。

 

著書に神が人間を創造したと書かれてあった仏教系の新興宗教は、信者の数も多く巨大な教団です。当然のことながら信者の皆さんは、教祖の説く教えを信じていると思いますが、新興宗教の信者の方は、教祖の説く教えだけを信じていることから仏教の基本的な教えを知らないのではないかと思います。また、仏教の入門書はどうしても難しい話を避けるためか、この三法印の話が紹介されていないことが多いようです。

 

いずれにしても神が人間を創造したとか、魂は永遠不滅であるとか説くのは、お釈迦様の教えを否定することになります。そのことを考えますと、生前にお釈迦様に帰依し、お釈迦様のの教えを学んだ神霊が教祖を指導している可能性は非常に低いと思われます。ではどんな心霊が教祖を指導していたかとなりますが、私にはその正体を突き止めることができるだけの力はありませんし、その正体を突き止めたとしても障りを解消することは更に困難となります。

 

以前にネットである新興宗教の教祖が魔物について詳しいのは、自分が魔物であるからだとの記事がありました。その可能性は否定できませんが、巨大な新興宗教の教祖を魔物が操っているとするならば、その魔物は巨大な霊団の支配者であり、膨大な数の手下を抱えてると思われますので、強い信仰心があったとしても個人の力で対応できるとは思えません。個人で対応できるのは、霊能者に集まる教団とも言えないような集団が限界ではないかと思います。そのため、霊能力を持つ人間は、分かっていてもこのことに触れないと思います。

 

また、仏教学者も新興宗教の教えの間違いを指摘することもありません。新興宗教の教えが間違っていると分かっていてもそのことを指摘して得る物がないだけでなく、熱心な信者からの嫌がらせを受ける可能性を考えるならば、わざわざ火中の栗を拾うことをしないと思います。新興宗教の批判を繰り返している団体の多くは、創価学会と顕正会のように敵対する宗教団体のようです。この場合には、同じ日蓮正宗の教えの流れを組む教団の内部対立の印象があります。この他に宗教カルトの撲滅の運動をされている方もいるようですが、批判の中心は強引な勧誘や経済的な負担の大きさなどの現実的な問題であり、教えの内容ではないようです。

 

まとめますと、新興宗教の教えに問題があると分かっていても、この問題に繰り組む人は非常に少ないと思います。斯(か)く言う私もできることは、ブログで取り上げる程度のことしかできません。

 

 

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at 00:26, 星 良謙・子授け地蔵, 霊感・霊能力について

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霊能力信仰の危険性8(星)

夏バテなのでしょうか?

 

( ̄。 ̄)ボーーォ

 

ダラダラした一日を過ごしています。

 

やらなければならないことは山積みなのですが・・・・

 

サア・・・( ̄ー ̄∂) ポリポリ

 

たまにはこんな日があっても良いかと・・・

 

それはさておき・・・・・・

 

ここまで色々と書きましたが、霊能力信仰の問題点は何かを考えますと、ご利益信仰の弊害ではないかと思います。ご利益信仰と書きますと余り良い印象はありませんが、浄土真宗系を除く大半の神社仏閣では、現世利益を得るための祈願祈祷が行われていますので、ご利益信仰を一概に悪いと決めけるべきではないと思います。個人的にも神社仏閣で当病平癒や商売繁昌などの祈願祈祷を受けることは多いことから悪いとも考えていません。

 

では、ご利益信仰の何が問題かを少し考察してみたいと思います。この問題に入る前に祈願祈祷の原理について考えてみたいと思います。祈願祈祷には、幾つかの方法論があります。例えば、曹洞宗や臨済宗では、大般若経の転読が行われます。これは僧侶が経巻を転読して経巻で経机を叩き、の除災与楽(じょさいよらく)を祈ります。また、真言宗や天台宗なとで行われる護摩は、梵語でホーマ(homa)といい、焚く・焼くなどの意味を持ち、仏の智慧の火を以て煩悩を焼きつくすことを表しますとされています。

 

いずれの方法にしても仏と祈願祈祷を行う僧侶と祈願祈祷を受ける信者の心が一つになった場合に仏の働きが具現化されるとされています。そのため、現世利益を願う行為ではありますが、仏の働きであり、祈願祈祷も仏の働きの一部であることからご利益信仰と批判されるべきではありません。また、これは神道においても基本的には同じであり、神様と神職と信者の心が一つになった場合に神の働きが具現化されると思われます。

 

ご利益信仰の問題点は、神仏とこの祈願祈祷を行う僧侶や神職と祈願祈祷を受ける信者の心が一つになることにあるのではないかと思います。最初に考えなければならないのは、霊能者や新興宗教が祀る神仏が現世に生きる人々を指導できるだけの霊格の高い神霊なのかが問題となります。特に霊能者の場合には、霊能者を指導している心霊がどんな心霊であるかが分かりません。新興宗教の場合には、神道系か、仏教系かの見当はつきますが、転落した僧侶や行者が神仏を名乗っている可能性もあります。

 

個人的には、新興宗教とは距離を置くことにしていますが、新興宗教が全て魔物に支配されていると断言する気持ちはありません。また、教祖が二代目、三代目に代わることで指導霊が入れ替わることや教団の教えが修正されることもありますので、一概には言えないと言えます。ただ、伝統的な神社仏閣よりも新興宗教の神社仏閣で祈願祈祷を受けようとは思わないだけの話です。

 

伝統的な神社仏閣の場合には、安全性は高いと言えますが、僧侶の問題があることがあります。生臭坊主と言いたくような僧侶でもない限りは、仏道修行者として敬うことにしていますが、時々本当に僧侶の自覚はあるのだろうかとの疑問を抱くことがあります。浄土真宗の僧侶でありながら死後の世界を否定される方もいます。死後の世界を否定することは、阿弥陀仏の存在を否定することになりますので、浄土真宗の教えを根底から否定していることになることをどう考えているのか疑問を抱きます。死後の世界を否定している僧侶に読経していただいても仏に通じているとは思えませんが、これは他の宗旨でも同じです。

 

しかし、死後の世界を信じ、仏の存在を信じている僧侶ならば良いのかと言えばそうでもありません。僧侶の方の中には霊能力を持たれている方や過去に修行をされた自信から自分の祈祷に自信を持っている方もいますが、霊能力やこれまでに積み重ねた修行が仏と一体になることの障害となることがあります。大切なことは、神仏と一体になることであり、祈祷する僧侶や神職の力ではありません。しかし、霊能力を持たれている方や過去に修行をされた自信から自分の祈祷に自信を持っている方の場合には、神仏の力で問題を解消しようとする意識よりも自分の力に頼る気持ちが強くなります。

 

皮肉な話ではありますが、祈願祈祷をされる僧侶や神職が懸命になればなるほど、自分の力に頼ることになり、神仏と同体化することが困難となり、祈願祈祷のご利益は低下します。このことは個人的に何度か経験しています。祈願祈祷をされる僧侶や神職が懸命になればなるほど、神仏のお力を感じなくなり、淡々と祈願祈祷をされる僧侶や神職の方が神仏のお力を強く感じたことが何度かあります。そのため、祈願祈祷において求められるのは、厳しい修行を積むことや霊能力よりも神仏に帰依する心ではないか思います。

 

残念ながら外観からでは、心を知ることはできませんが、本当に力のある僧侶の場合には、祈祷前に入る前に印を組まれただけで堂内の空気が変わり驚いたこともありました。また、神職の方が摂社の前で拝礼をされただけで、周辺の空気が一瞬にして変わり、驚いたこともありました。本当に日々精進をされている方の凄みを実感したことを覚えています。これに似た経験は何度かしていますが、いつも祈願祈祷には厳しい修行を積むことや霊能力は必要ないのではないかと思います。

 

さて、ここで祈願祈祷を受ける際の心構えに触れておきます。大切なことは人生の主役は祈祷を受ける本人であり、神仏ではないことを自覚することではないかと思います。サッカーや野球などで試合を行うのは選手であり、コーチや監督ではありません。コーチや監督ができることは、的確な指示と助言を与えることだけです。神仏のご加護も同じことではないかと思います。神仏が祈願祈祷を受けた方の人生を代わりに生きて問題を解消することはありませんが、祈願祈祷を受けることで神仏の指導を受けられるようになると考えるべきではないかと思います。

 

そして祈願祈祷を受ける方も神仏と心を一つにされることを心掛けるならば、神仏と祈願祈祷を行う僧侶や神職と祈願祈祷を受ける信者の心が一つになり、神仏のお力が発揮されることになるのではないかと思いますが、ご利益だけを願ってご利益があったならば神仏を拝み、ご利益がなかったら神仏に背を向ける態度では、神仏と一体らなることはできず、ご加護を得ることは難しくなると思います。祈願祈祷を受けても問題が解消しないのであれば、より大きな問題が隠れていることが少なくありません。それが何かは個々の事例によって異なりますが、願いが叶ったか叶わなかったかで神仏のご加護があるかを判断することはお勧めできません。

 

まとめますと祈願祈祷は神仏と祈願祈祷をされる僧侶や神職と祈願祈祷を受ける信者の心が一体になることで神仏のご加護を得られるのに対して、霊能力信仰は祈願祈祷を行う者が自らの力で問題を解消することであり、祈願祈祷を受ける者は祈願祈祷を受ける者の力に頼ることになります。そのため、神社仏閣で行われている祈願祈祷とは内容が異なります。そのため、現実を自分の思うように変えたいと願われるならば、神仏に願うよりは霊能者に頼った方が良いと言えますが、お勧めはしません。

 

 

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霊能力信仰の危険性7(星)

思いつくままに書いているブログではありますが・・・・・

 

こんな訳の分からない話で良いのかと思うこともあります。

 

ブログの投稿を再開してからアクセス数は伸びていますので、「まあ良いか!」と考えています。

 

毎日、見えない世界の仕事ばかりしていますとストレスが溜まるんです!

 

勿論、気晴らしで書いてます。

 

まあ、心霊世界の仕事をしている人間の妄想とお考え下さい。

 

それはさておき・・・・

 

新興宗教の教祖や霊能者が自分は神に選ばれた人間であると思い込むことが多いことは既に書きましたが、これが更に進みますと自分は釈迦の生まれ変わりてあるとか公言するようになります。GLAの創設者である高橋信次氏も自分はお釈迦様の生まれ変わりであると公言されていたようです。また、キリストとモーゼが自分を指導していると著書の中で書かれていた記憶があります。何分にも随分と昔に読んだ本であり、既に手元にはないことから確認できませんが、記憶に間違いはないと思います。この他にも幸福の科学の創設者である大川隆法氏も自分はお釈迦様の生まれ変わりであると公言していただけでなく、宇宙の創造神を名乗っていたようです。

 

共に既に亡くなられた方であることから余り悪くは書きたくないのですが、お二人とも余り仏教に精通されていない印象があります。仏教書を読んでいますと、その煩雑さにうんざりすることが少なくありませんが、お釈迦様の言葉を伝えているとされる原始仏教経典に書かれているお釈迦様の教えは、同じ話の繰り返しの多さには閉口しますが、単純明快です。その理由は、悟りを得るために必要なことしか説かれていないからではないかと思います。勿論、原始仏教経典であっても後世の弟子による加筆修正があると思われますので、本当のお釈迦様の説かれた教えは、今となっては分かりません。

 

原始仏教経典ですらお釈迦様の本当の言葉が何処まで残っているのか不明ですが、大乗仏教経典は全て後世の弟子の創作です。後世の弟子の創作であるからと言って大乗仏教経典に価値がないとは思いませんが、GLAの創設者である高橋信次氏や幸福の科学の創設者である大川隆法氏が本当に釈迦の生まれ変わりであったのであれば、原始仏教経典のどの部分がお釈迦様の本当の言葉であり、どの部分が後世の弟子の加筆修正なのかを指摘できるはずです。しかし、高橋信次氏も大川隆法氏も仏教に対する理解は浅く、仏教の専門書を多少読んだ程度の知識しかない印象があります。

 

お釈迦様が説かれた教えの内容は、出家して戒律を守り、禁欲的に生きることで煩悩を断ち、教えを学んで瞑想することを説いています。インドのヒンドゥー教の修行者の中には、現代でも釈迦が説かれた修行方法に近い修行を実践している修行者は少なくないようです。そのことを考えますと、お釈迦様が生きていた時代の社会情勢を前提にした教えであり、現代の日本でお釈迦様の教えを実践することは非常に難しいと思われます。そのため、お釈迦様が生まれ変わったならば、どんな教えを説かれるかと考えます。

 

さて、話を戻しますと、高橋信次氏と大川隆法氏は、お釈迦様の生まれ変わりであると語られていますが、その真偽を確認する方法はないと言えます。何を持ってお釈迦様の生まれ変わりであると証明するのかの問題があるだけでなく、何を持ってお釈迦様の生まれ変わりではないとするのかの問題があります。そのことを考えますと、客観的な事実として高橋信次氏と大川隆法氏は、お釈迦様の生まれ変わりであるかどうかの検証は不可能ではないかと思います。勿論、GLAや幸福の科学の信者の方々にとっては、お釈迦様の生まれ変わりであることは真実なのでしょうが、それは信仰上の真実となります。

 

これから先は個人的な見解となりますが、高橋信次氏と大川隆法氏は、自分はお釈迦様の生まれ変わりであると信じていたのではないかと思います。それを妄想と断言することは可能なのでしょうが、お釈迦様を名乗る心霊が高橋信次氏と大川隆法氏を指導していたのではないかと思います。心霊世界は心の世界であることから力のある心霊ならば、様々な姿を生きている人間に見せることが可能であり、生前に僧侶として修行していた心霊であるならば、仏教を深く学んでいない人間にもっともらしい教えを説くことは容易です。

 

仏教の教えに精通しているだけでなく、長年厳しい修行を積んだはずの修行僧や行者であっても慢心するならば、簡単に転落するようです。転落した修行僧や行者の多くは、自分が神仏であると名乗る意向があります。最近は、滅多に自動書記を行わないのですが、頻繁に自動書記をしていますと、稀に自動書記の内容に疑問を持つことがありました。自動書記は、一方的に言葉が入って来ることから本当に霊格の高い神霊か、低級霊の惑わしかの判断は、説いている教えの内容でしか判断できません。そのため、途中でおかしいと思ったならば、いつも自動書記を書いた紙を破り捨てていました。

 

しかし、多くの霊能者や新興宗教の教祖は、神仏を名乗る心霊から言葉が降りるだけで信用してしまうようです。そして心霊が数々の奇跡を起こすならば、神仏に間違いがないと確信しまうことになります。そして数々の奇跡を起こすならば、奇跡に人が群がり、ミニ教団が出来上がります。また、霊能者や教祖を操っている心霊に大物の魔物クラスの力があり、多数の手下を抱えている場合には、巨大な宗教団体になるようです。大物の魔物ともなれば、手下と言っても並の不成仏霊ではなく、かなりの力を持っていますので侮れません。

 

これに似た話として池田大作本仏論があります。少し解説しますと、創価学会は日蓮正宗の信者の集まりでしたので、教義などは日蓮正宗の教えを受け入れていました。日蓮正宗には日蓮上人を本仏とする教えがあります。蛇足ながら日蓮宗では法華経の如来寿量品第十六の文中に無量長寿の釈迦牟尼仏が登場する釈迦牟尼仏を本仏としています。尚、創価学会は平成3年(1991)11月に日蓮正宗から破門されています。

 

補足 本仏(ほんぶつ)とは、無数の仏(如来)の中で、根本となる仏(如来)のこと。

 

前置きが長くなりましたが、池田大作本仏論は日蓮正宗の日蓮本仏論をベースにしていると思われますので、日蓮本仏論から解説しますと、末法の世においては釈迦牟尼仏ではなく、日蓮上人を本仏とすべきであるとの教えです。この教えに関しては、色々な意見があり、門外漢が立ち入れるような話ではありません。いずれにしても池田大作本仏論は日蓮上人を池田大作氏に置き換えようとする教えであり、池田大作氏を仏として拝むことになります。

 

創価学会の会員ではありませんので、創価学会の会員が誰を仏として拝むのかに関心はありませんが、権力者は最終的に神仏として崇められることを求めるようになるようです。心霊世界は、現実の世界と表裏一体の世界であることを考えるならば、慢心した僧侶が死後の世界において神仏を名乗ったとても不思議ではないと思います。

 

では、本当の神仏とは何かを最後に書きますと、本当の神仏の心を知ることができる程の高い悟りは得ていませんまで、本当の神仏とは何かを書くことはできません。霊格の高い神霊となりますと、そのエネルギー量は半端ではなく、圧倒的な慈悲であり、圧倒的な光としか表現できません。それは言葉を超えた世界であり、体験でしか分からないと言えます。しかし、それですら本当の神仏の世界なのかは疑問です。それは個人的に体験することが可能であった世界でしかなく、お釈迦様が到達された境地には及ぶはずもないと考えています。

 

 

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霊能力信仰の危険性6(星)

まだまだ暑い日が続いています。

 

(^^;;;;;; アセガトマラン

 

そんな暑い日には、かき氷を食べる機会も多くなりますが・・・・

 

幼い頃の体験が影響しているためか、宇治金時を頼むことが多い気がしています。

 

子供の頃の記憶

せんじ   買える範囲

イチゴ   買える範囲

 

金時    贅沢品

ミルク   贅沢品

 

ミルク金時 高嶺の花

宇治金時  高嶺の花

 

この歳になって子供の頃の夢を実現しています。

 

それはさておき・・・・・

 

占いのサイトを見ていますと、略奪愛とか、復活愛とか言った文字が躍っています。宣伝文句なのかもしれませんが、少しばかり疑問を持ちます。人を好きになり、盲目的になっている場合には、何としても意中の人と一緒になりたいと願うことは多いかと思いますが、意中の人と一緒になることと、幸せな結婚生活になることは別の話となります。最近は「押しかけ女房」と言っても意味の分からい方も多いのですが、男性の同意もなしに一方的に押しかけて相手の家に住む女性のことです。ここまで極端ではないとしても、女性の側が強引に話を押し進めて結婚することはあるようです。

 

個人的には、そんな夫婦を何組か知っています。当然のことながら詳細な話を書くことはできませんが、幸せな結婚生活とは言えない夫婦が多いようです。そのため、やはり双方が納得して合意してから結婚した方が幸せではないかと思います。その意味では、略奪愛とか、復活愛はお勧めできません。過去に何度か、どうしても好きな人と一緒になりたいとのご相談を受けたことはありますが、できることは相手の気持ちや二人の関係が今後どうなるかを予測する程度のことしかできません。

 

どうしても好きな人と一緒になりたいのであれば、神仏にお願いすることをお勧めしますが、神仏は縁を結ぶことが二人にとって幸せになれるかを判断されることになりますので、神仏が願いを聞き届けられるかどうかは別の問題となります。そのため、略奪愛や復活愛を成就させることを約束できるはずもありません。そのため、略奪愛や復活愛の成就を約束できるとするならば、神仏以外の力の働きと思われます。その力が術者の霊能力なのか、魔界の者の力でも利用するのかは分かりませんが、神仏が本人の願望のままに働かれるとは思われません。

 

霊能者は、霊格の低い心霊を眷属として使役している方も多いことから、眷属を使役しているのかもしれませんが、眷属は与えられた役目に忠実ではありますが、自分で善悪を判断することはありません。そのため、依頼者にとって幸せな結果になるか、不幸な結果になるかを判断することはありません。但し、魔物と対決するできるだけの力を持たないのが大半であり、役目は限定的と思われます。蛇足ながらこれまでに眷属を使役したことはなく、これからも眷属を使役することはないと思います。その理由は、霊能者として活動していないことから神仏に祈願することが基本であり、必要があれば神仏が眷属に指示されると考えています。

 

話を戻しますと、いずれにしても何らかの術を利用して意中の人の心をつかむことは、お勧めできません。恋愛の達人と言われる人は、人を自分の思うように動かすことで恋愛を楽しんでいるようですが、それは恋愛をゲームとして楽しんでいるだけであり、本当に人を愛することと異なるのではないかと考えます。それが心霊世界の力を利用した方法であれ、何らかの術であったとしても相手の心を操っていることに違いはありません。相手の心を操って結婚したとしても幸せな結婚生活とは言えない可能性が高いのであれば、やはり双方が納得して合意してから結婚した方が幸せではないかと思います。

 

これは何も道徳論から書いているのではありません。どうしても好きな人と一緒になりたいと考える方の多くの場合には、過去世において相手との縁があった場合が多く、過去世が相手に激しく執着している場合が少なくありません。そのため、本人は自分の感情と考えている恋愛感情が過去世の意識に振り回されていることが少なくありません。また、過去世の意識と同体化している場合には、相手に対する執着が倍増することになります。特に過去世において身分さなどから恋焦がれながらも近付くことができなかった場合や何らかの事情で結婚できなかった過去世の場合には、相手に対する執着は激しくなります。

 

霊能者を名乗るのであれば、依頼者の過去世の執着を見抜き、過去世の暴走を解消して依頼者に本当の自分の気持ちに気付かして欲しいのですが、そんなことをする霊能者は少ないようです。それよりも依頼者の希望を実現しようとするならば、過去世からの執着を増大させることになります。過去世からの執着は執念になっていることが多く、結婚が目的となっていることが多く、本人にとって幸せかどうかは無関係となります。

 

現実を考えるならば、分かれることがお互いの為と依頼者は分かっていても依頼者の感情を翻弄して苦しめていることが少なくありません。また、慎重に話を進めるならば、可能性があっても過去世に翻弄され、相手に嫌われる結果になることもあります。そのため、依頼者の過去世の執着を見抜き、過去世の暴走を解消することは重要なのですが、依頼者が求めるのは、意中の人と結婚することであり、それ以外のことには興味がないことが大半です。こちらとしても依頼されていなことを鑑定しませんので、忠告することはあっても干渉はしないことにしています。

 

多くの人は自分の願望を実現するために霊能者を頼ると思いますが、自分の願望を実現することと幸せな人生を生きることになるとは限らないことを知っておかれるべきと思います。

 

 

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at 00:08, 星 良謙・子授け地蔵, 霊感・霊能力について

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霊能力信仰の危険性5(星)

以前は疲れると整体院に通っていたのですが?

 

(``)へ(へ^) こってますね〜♪お客さん

 

最近は、鍼治療を受けています。

何度か治療を受けていますが、以前から抱いていた疑問を尋ねてみました。

 

必殺シリーズの定番となっている針を使う必殺技で使われるツボは、本当にありますか?

一応、ツボはあるとのことでしたが、緊急事態でなければ使わないツボとのことでした。

 

いずれにしても通常の針治療で使う針では、必殺技とはならないとのことでした。

 

それはさておき・・・・

 

前回は、GLAの開祖である高橋信次氏が、講演会の最中に眠ってしまう人が多い理由を、魔物が説法を聞かせないために強制的に眠らしてしまっていると考えたことに対して、突然の眠気は神社仏閣での祈祷中や気功の施術、悪魔祓いの儀式においても起きることを書きましたが、今回はこの話の続きを書きます。

 

さて、個人的な私見であり、仮説となりますが、神社仏閣での祈祷中や気功の施術、悪魔祓いの儀式に起きる突然の眠気が起きる理由を考察してみたいと思います。最初に書かなければならないのは、人には精神的なエネルギーや生命力のエネルギーを受け止められる器とも言うべき容量があり、その容量を超えるエネルギーが入ると意識を失うのではないかと考えます。勿論、高橋信次氏が聴衆に向けて発していたエネルギー、祈願祈祷の際のエネルギー、悪魔祓いの儀式のエネルギー、気功のエネルギーなどを全て同一に扱っても良いのかの疑問が残ります。

 

しかし、高橋信次氏にお会いしたことはありませんが、残された記録を拝見するならば、優れた霊能者であったことは間違いはないと思われるだけでなく、並はずれたエネルギーを持っていたと思われます。また、講演会の際には、指導霊の指導が入ったはずですので、エネルギー量は非常に大きかったと思われます。また、祈願祈祷の際のエネルギー、悪魔祓いの儀式のエネルギー、気功のエネルギーは、通常の生活の中では経験することのないエネルギー量であることは共通しています。

 

そのため、GLAの開祖である高橋信次氏が、講演会の最中に眠ってしまう人が多かった理由は、魔物が説法を聞かせないために強制的に眠らしてしまっていると考えるよりも、通常の生活の中では経験することのないエネルギーを受けることで意識を失ったと考えた方が合理的ではないかと思います。勿論、この仮説は、人には精神的なエネルギーや生命力のエネルギーを受け止められる器とも言うべき容量があり、その容量を超えるエネルギーが入ると意識を失うことを前提としていますが、この仮説が成立しなければ、この仮説は成立しません。

 

何分にも気功ですら科学的に解明されていないことを考えるならば、何が起きているのかを科学的に解明される日が来るのかすら分からないのが現状です。そのため、何を書いたとしても仮説でしかなく、全ては推論となります。私が危惧するのは、この部分です。別にGLAの開祖である高橋信次氏が、講演会の最中に眠ってしまう人が多い理由を、魔物が説法を聞かせないために強制的に眠らしてしまっていると考えたことを間違いであると否定する気はなく、間違いであると証明することもできません。しかし、重要なことは全ては仮説でしかないことが無視されていることです。

 

高橋信次氏の意見は、何も知らない方が聞くならば納得される可能性は高いと思いますが、このように一応もっともらしい説明はされていても、本当はどうなのかは誰にも分からないことは世の中に数多くあります。特に精神世界の話は、玉石混合を通り越しているような状態であり、荒唐無稽な話が山ほどあります。しかし、厄介なことは、荒唐無稽とも思える話であっても一片の真理を含んでいる場合があります。そのため、何が本当であり、何が間違いかを見極めることが非常に難しいことです。

 

心霊世界との関わりを持つようになってから30年以上の歳月が流れましたが、今でも分からないことだらけです。分かっていることは、ほんの一部であり、大部分は分からないと言うべきと考えています。16世紀の西洋医学は、今となっては考えられない程、遅れた医療技術ではありますが、当時はそのことに疑問を持つ人が少なかったのと同じような状態ではないかと思います。そのため、面倒ではあっても確実なことを積み上げながら霊障対策を模索しています。

 

しかし、世の中の大半の人は、複雑怪奇な話よりも単純明快な話を好みます。これは心霊世界を理解する場合には、非常に危険なことではないかと思います。政治の世界でも同じですが、自民党と言っても実際には左翼的な思想の持ち主が多くいますし、財界の利権を代表するような議員もいますが、高い志を持って議員活動をされている議員もいます。そのため、単純に自民党だからと決めつけることはできませんが、世の中の多くの人は、黒か白かと言った二分法的な判断を好みます。それでも現実の世界の話ならば、事実確認をすることが可能なことが少なくありませんが、心霊世界のことは事実確認が困難なことばかりです。そのため、どんな荒唐無稽な話であったとしても出鱈目であると断言することが困難となります。

 

そのため、基本的に心霊世界の話は検証できないと考えなければならないのですが、霊能者の多くは神仏の教えであると間違いがないと考えるだけでなく、霊能者の信者とも言うべき人々は霊能者の語る話を何の疑問を持つこともなく、信じることが多いようです。個人的には、霊能者の語る霊界理論は、SF小説と大差がないと考えています。霊能者の語る霊界理論がどんなに緻密な理論であっても検証できない話であることから真偽は不明なのですが、霊能者はそれが真実である語り、信者はそれが真実と信じることを危惧します。

 

 

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霊能力信仰の危険性4(星)

一つのテーマにこだわらずに気ままに書こうかと思うのですか・・・・

気付くと一つのテーマの記事を書き続けています。

別に特に意識もしていないのですが・・・

 

そんな訳で今回も4回目となりました。

今回は、10回までは続かないと思いますが、もう暫く続けようかと考えています。

 

しかし、読者の方には参考になるのかな?と思うのですが・・・

 

(@@;;;) はて?

 

自己満足で書いています。

 

<(`^´)> エッヘン

 

それはさておき・・・・・

 

暫く前のことですが、新興宗教であるGLAの創設者の高橋信次氏が3大魔として色魔・睡魔・慈悲魔を説かれていたことを知りました。色魔に関しては疑問を持ちませんが、睡魔については疑問を感じました。最後の慈悲魔に関しては、余り知識がないことから調べてみましたが、仏教において取り上げられることは少なく、日蓮上人が説かれている程度でした。この慈悲魔に関しては改めて考察したいと考えていますが、今回は睡魔について考察してみたいと思います。

 

睡魔は急に来る眠気あるいはあらぬ時に来る眠気のことですが、高橋信次氏は、講演会の最中に眠ってしまう人が多いことを睡魔が原因と考えられたと思われます。これは参加者に憑依している魔物が説法を聞かせないために強制的に眠らしてしまっていると考えたようです。個人的には、一度や二度、説法を聞いた程度で悟りを得られるはずもないと考えますが、確かに魔物は憑依している人が神仏との縁を持つことを妨害することはあります。

 

勿論、この場合には、高橋信次氏が高い悟りを得ていることが前提の話となりますが、高橋信次氏がそこまで高い悟りを得ていたのかとなりますと疑問を抱きます。これは高橋信次を馬鹿にしているのではなく、憑依している魔物が何としても話を聞かせたくない相手となれば、本物の救世主と言えます。勿論、高橋信次氏を救世主と考える方は少なくないとは思いますが、客観的に考えるならば、高橋信次氏がそこまで高い悟りを得ているとは思われません。

 

さて、不成仏霊や魔物が俗に言う憑依と呼ばれる現象を起している場合には、憑依している人間が神仏との縁を持つことを妨害することは良くあることです。生きている人間が魔物に支配されている場合には、家の中に神仏を祀ることも拒絶することが珍しくありません。個人的に聞いた話では、亡くなられたご主人の位牌も気持ち悪いからと拒絶したと話していた人もいました。ここまで来ると常識を疑いますが、魔物に支配されていると神仏との縁を極端に嫌うようです。

 

一般の方の場合にはここまで極端ではありませんが、霊障を解消しようと神社仏閣に向かおうとすると車を運転していると走り慣れている道を間違えたり、思わぬトラブルに巻き込まれるなどの妨害があることは珍しくありません。また、今日は何事もなく順調にこれたと思っていたならば、いつもは開いている社務所が閉まっていたこともありました。そのため、不成仏霊や魔物が高橋信次氏の話を聞かせたくないのであれば、講演会に行けないように妨害するのではないかと思われます。

 

次に考えなければならないのは、突然の睡魔に襲われることは祈祷中にも起こる現象です。過去に祈祷中に意識を失ったとの話は何度も聞いていますし、極端な方は祈祷が始まったと同時に意識がなくなり、気付いたならば祈祷が終わっていたと話す方もいました。勿論、お経はお釈迦様の教えではありますが、その大半は漢文です。僧侶が読み上げるお経の意味を理解している方は、非常に少ないことを考えるならば、不成仏霊や魔物がお経を聞かせないために強制的に眠らせているとは思われません。

 

また、気功でも施術を受けている方が施術中に眠ってしまうことは珍しいことではありません。後で話を聞くと自分が眠ってしまったことの自覚もない方が多いことから意識を失った状態に近いのではないかと思われます。勿論、気功は、宗教とは無関係であることから祈祷や悪魔祓いの儀式と同一に語ることはできませんが、意識を失うことにおいては同一です。

 

似たような事例は、キリスト教の悪魔祓いの儀式においても見られます。映画「悪魔祓い 聖なる儀式」の予告編の中で神父が信者の頭に手を当てていると立ってる信者が崩れ落ちるように倒れるシーンが登場しますが、これも信者が意識を失った状況と思われます。個人的には、信者が意識を失って倒れることが予想されるのであれば、最初から椅子に座らせるなどの対処をしないことが不思議です。悪魔祓いの儀式を受けて悪魔祓いに成功しても転倒して怪我をしたのでは意味がありません。

 

映画「悪魔祓い 聖なる儀式」 公式サイト・予告編 こちらから

 

この映画は視聴しましたが、映画の中に登場する悪魔祓いと似たような経験はしていますので、やらせではないと思います。しかし、力の弱い不成仏霊ならば、祓うことはできても魔物クラスは、祓うことはてせきないであろうと思いました。

 

蛇足ながら悪魔祓いの儀式で行われている父が信者の頭に手を当てる行為が気功と同じような効果があるとするならば、危険な行為ではないかと思います。気功で相手に気を送り込みますと、相手の自己免疫力は向上しますが、同時に血流が良くなります。血流が良くなるのは良いのですが、頭に気を送り込むと脳内の血流量が急激に上昇することになり、脳血栓の危険が高まります。そのため、気功では頭に気を入れることは避けていますので、大丈夫だろうと考えてしまいます。

 

話の途中ではありますが、次回に続きます。

 

 

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