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他力と成仏1(星)

fumi様と龍様、コメント有難う御座います。

今回は龍様からご依頼のありました、前回の自動書記の内容の解説をさせて頂きます。

さて、読者の方が疑問を持たれたのは、迷っている心霊が念仏を称えても、阿弥陀仏の慈悲に救われなかったのかと言うことではないかと思います。管理人が他力の僧侶であったならば、このような内容の自動書記をご紹介するのは、自殺行為とも言えます。他力の教えは、念仏を称えることで極楽往生が出来ることが前提であり、念仏を称えても極楽往生出来ないとなれば、他力の教えが否定されたのと同じことになります。

そのため、どのような解説が良いのかと悩ましたが、この問題は、自動書記が始まった当時に自分でも抱いた疑問であり、浄土宗の神霊にお聞きした疑問でした。神霊からのお答えは、管理人の著書「霊界通信 南無阿弥陀仏」の中でご紹介していますので、少し引用させて頂きます。

 

あなたの言いたいことはわかる。念仏を称えながらも、念仏の心を理解する者が少ないではないか。あるいは、念仏を称えながらも、自分の生活を改める心がなければ、何のための念仏なのか。そのことを否定しようとは思わない。念仏とは許しの教えでもあるのだ。罪深き者、悟りに生きることがむずかしい者に対する、救いの教えである以上、それはさけて通れない問題でもある。

どれだけ、わたしたちが許しの気持ちを持っていても、自分の罪の自覚のない者に許しを与えることは出来ないのも確かなことだ。

言い訳としか聞こえないかもしれないが、まず、許されることが前提の教えがあってもよいとは考えられないだろうか。人は罪なくしては生きられないのだ。生きている限りは罪を犯すのだ。

神仏は許しの存在でもある。許しを乞えば、いつでも許して下さる存在なのだ。まして、弥陀は、他の仏が見捨てる程の罪深い者であっても、許すと言われている。(阿弥陀仏とは、生きとし生けるものを支える力であり、智恵であり、慈悲であると考えられるが、阿弥陀仏は、浄土門の所依『しょえ』の教典の中心になっている仏で、一切の差別を超えて、すべての衆生を救おうという誓願をもつと考えられている。)だから私は、まず許しを説いたのだ。

あなたがたは、すでに許されているのですと言いたかったのだ。自分を苦しめてはならない、自分の罪の意識に苦しまなくてもよいのだと、言いたかったのだ。多くの者は自分の罪の重さに苦しんでいる。だから、自分の罪を認められない。そして他人の罪も許せない。

罪が許されていると信じることが出来るならば、自分の罪を認めることも出来る。あなたの罪は許されている。それが弥陀の誓願でもある。許された自分がそこにある。

仏は許されている。彼らに、あなたがたはすでに許された存在なのだと教えてあげたいのだ。現実には地獄に落ちる者たちはいる。それは事実だ。しかし、彼らとて許されているのだ。彼らは自分たちが許されていることを認めないのだ。


これは言葉の遊びではない。彼らは自分が悪いことをしたとは思っていないのだ。だから自分は許される必要などないと言っているのだ。

だから、まず、あなたは許されているのだと言いたい。だから、もっと素直に自分のおろかさを認め、ひたすらに弥陀にすがりなさいと、さとしたいのだ。

皆、本当は、心の奥底で苦しんでいる。それは自分が許されない存在であると思っているからだ。その苦しみが自分の心に闇をつくっている。彼らは、そのことに気付いていない。


最初から悪人として生まれる者などいない。しかし、人間は罪なくして生きることは不可能だ。母親の腕にいだかれた幼な子のように、常に母親の愛にいだかれていることを知る者は、常に心安らぎ、安心して眠ることも出来るはずだ。しかし、多くの者は、いつも母親が見守っていてくれることを忘れてしまう。自分が興味を持ったおもちゃで遊ぶうちに、母親の姿をみうしなってしまう。そして泣き叫んでいるのだ。

だから、わたしは母親の存在を教えてあげているのだ。安心しなさい。おかあさんは、ここにいるではありませんか、と、言っているのだ。

いたずらをして、転ぶ子供もいるかもしれない。しかし、母親は、時にはただ黙って見守ることもある。それは決して子供を見捨てたのではない。子供が自分で立ち上がることを覚えさせる必要があるからだ。しかし、子供にはそれがわからない。自分は親から見捨てられたとしか考えない。しかし、親は子供が立ち上がるのを待っているのだ。

わたしたちは、立ち上がりなさい、母親はあなたのそばにいるではないか、あなたには、涙で見えないかもしれないが、あなたのそばにいるではないか、と言っているのだ。

わたしは、仏を母親とたとえたが、しかし、仏と人間の関係は、母親と子供との関係ではない。仏はあまりにも偉大すぎて、他にたとえることが出来ないのだ。空を見たことのない者に、空の広さをどうやって教えるか。海を見たことのない者に、海の大きさをどう教えるか。

仏とは、それほど偉大な存在なのだ。
仏はすべての者を救おうとする慈悲の存在だ。わたしたちには、その心のすべてがわかるわけではない。しかし、その慈悲の心は伝わってくるのだ。

おわかりになるだろうか。その慈悲の心を知ったならば、その心を伝えたいと思うわたしたちの心が それがわたしたちの悟りでもある。


長い話から一部を抜粋していますので、読者の方の疑問に必ずしもお答え出来ていないかもしれませんが、浄土宗の神霊のお考えを要約しますと、念仏を称えるとは、阿弥陀仏に許しを求めることであり、念仏を称えても成仏できないとは、阿弥陀仏に許されていることを実感できないことであると説かれています。

では、どうして念仏を称えながらも、阿弥陀仏に救われないかとの問いに対する神霊の答えは、迷っている心霊が自分の罪を認めないことが原因であると説かれています。つまり念仏を称えながらも成仏できない理由は、阿弥陀仏に救いを求めながらも自分の罪を認めることが出来ないからであると説かれています。

自分の罪を認めていると言いながらも内心では、自分だけが悪いのではない、本当は自分は被害者なのだとの気持ちは、言い換えれば、自分は神仏に許される必要がないと考えていると言えますが、神霊はその原因を恐怖心であると考えていると思われます。つまり、自分は神仏から咎められるのではないかとの恐怖心があるから、自分は悪くないとの言い訳の心が生まれるとのお考えです。

神霊は、繰り返し阿弥陀仏の慈悲深さを説き、あなた方は既に阿弥陀仏に許されているのだと説かれていますが、これは神仏に咎められるのではないかとの恐怖心を消し去ることが目的です。神仏に咎められるのではないかとの恐怖心が消え去ったならば、阿弥陀仏の慈悲を実感することも可能となり、極楽往生も可能となると神霊は説かれたいのだと思われます。

次回は、「霊界通信 南無阿弥陀仏」より浄土真宗の神霊のお言葉をご紹介させて頂きたいと思います。

at 12:32, 星 良謙・子授け地蔵, 読者からの質問

comments(2), -, pookmark

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白ギツネ, 2017/01/23 5:31 PM

阿弥陀仏がどのような存在であるか、所詮我々凡人には知覚不可能なわけです。知覚不可能なものを徹底的且つ全面的に信じ、一切合切を任せきるというのは、瞑想で悟りを開くのと同程度、或いはそれ以上に難しいことではありませんか?

龍, 2015/04/03 9:42 PM

星さん解説ありがとうございます。

う〜ん。中々に理解が進みません。

お釈迦様がアーナンダに最後におっしゃった言葉(観無量寿経)は嘘ではないと思いますし、法然上人が唯々「南無阿弥陀仏」と唱えよ。とおっしゃった事も嘘ではないと思います。
ただ不成仏霊が言ってる事も嘘ではないと思います。
恐怖心があるために南無阿弥陀仏と唱えても救われないのであれば、阿弥陀仏は阿弥陀仏として存在してない事になります。

もしかすると、心の底から「南無阿弥陀仏」とお唱えしないと届かないのかもしれないですね。