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戒律と布施4(星)

寒い日が続いております。

{{(>−<)}}サムイ・・・

 

しかし、管理人は基本的に家の中で仕事をしています。

 

□_ヾ('_' ) カタカタ 

 

そのため、ストーブで暖をとることができますが、外でお仕事の方は大変かと・・・・

 

特にこのところは、インフルエンザが猛威を振るっているとか・・・・

 

体調にはご注意下さい。

 

それはさておき・・・・

 

前回は、親鸞聖人の教えと戒律について書きましたので、今回は法然上人の教えと戒律について書きたいと思います。

親鸞聖人を宗祖とする浄土真宗では戒律を授かることはありませんが、同じ他力の教えでも法然上人を宗祖とする浄土宗では戒律を授かります。これは親鸞聖人と法然上人の戒律に対する考え方の違いであり、戒律から親鸞聖人と法然上人の教えの違いについて書きたいと思います。

 

●三学の器でない

 法然は、「わがこの身には戒行において、一つの戒も持てず、禅定において、一つも此(こ)れを得ず、智慧においては、煩悩を断ちきってさとりを開く正しい智慧を得ない。(中略) 凡夫の心は物にしたがって移りやすく、集中して平静を保つことはむずかしい」(弁長[べんちょう]『徹選択集』[てつせんちゃくしゅう])と語る。仏道修行の第一歩の自戒ということも、いくら戒を持つ生活をし、行いや語る言葉や心の思いを調えようとしても、生身(なまみ)の人間である限り、いつもの心は散り乱れてしまうのである。たとえ散り乱れる心を統一できたとしても、いつまでも持統できる保証はない。そして、法然は、「ここに私のような者は、もはや戒・定・慧の三学の器ではない。この三学のほかに、わが心に相応(ふさわ)しい教えがあるのか、わが身に堪(た)えることのできる修業があるのか」と、悲痛な叫びを発する。三学の枠を外して仏教の教えなどあるはずもないのに。

 

図解雑学 法然 ナツメ社 P60

 

法然上人が天台宗の僧侶であり、比叡山で修業されていたことは良く知られていると思いますが、法然上人は厳しい修業をされながらも悟りを得ることができずに苦悩されました。「わがこの身には戒行において、一つの戒も持てず」とありますが、法然上人は終生戒律を破ることもなく生きられたとされています。そのため、法然上人は親鸞聖人と同じく、自分に対して非常に厳しく生きられたと思われます。また、「智慧においては、煩悩を断ちきってさとりを開く正しい智慧を得ない。」とありますが、法然上人は教学においても非常に優れた方です。

 

保元元年(1156年)、法然上人が24歳の春に行き詰まりを打開するために、愛宕山(あたごやま)の麓の嵯峨清凉寺(さがせいりょうじ)釈迦堂に7日間の参籠をされた後に、自分の学びに間違いがないかを確認するために興福寺に法相宗の学僧の蔵俊(ぞうしゅん)を訪ね、更に三論宗の学僧の寛雅(かんが)、華厳(けごん)宗の慶雅(けいが)を訪ねられていますが、いずれの方も法然上人の理解の深さと正しさを賞賛されたとされています。そのため、「智慧においては、煩悩を断ちきってさとりを開く正しい智慧を得ない。」とは、さとりに至るための知識が得られないことを嘆かれた言葉であると思われます。

 

補足

法相宗(ほっそうしゅう)、三論宗(さんろんしゅう)、華厳宗は、律宗、成実宗(じょうじつしゅう)、倶舎宗(くしゃしゅう)と共に南都六宗と言われる奈良時代に成立した宗旨です。現在残っているのは法相宗、華厳宗、律宗だけであり、三論宗(さんろんしゅう)、成実宗(じょうじつしゅう)、倶舎宗(くしゃしゅう)は学問としてだけ残っています。

 

 

●自戒・破戒にとらわれず

 一方、戒は阿弥陀仏が誓われた本願の行いではないとする。「持戒の行は仏の本願にはない行であるから、堪(た)えられるにしたがって、戒を持つべきである」と、また、「少々戒行が破れていても、極楽浄土に生まれることは、戒によらないことである」(『拾遺和語燈録』下)というように、戒を持つことは南無阿弥陀仏の救いのみ心にかなう本願の行ではないので、最重要としない。

 しかし、その戒を持つことがまったく必要ないといっているのではない。「悪を排し善を行うのは、諸仏に共通の戒めである。しかし、現在の私たちは、すべてそのことに背いた身であるから、仏の本願を深く信じ、阿弥陀仏のみ名を称えさせてみもらっている。智慧ある者も、ない者も、戒を持つことができる者も、破る者も、区別することなく、阿弥陀仏は迎えに来て救ってくださる」(『和語燈録』5「百四十五箇条問答)」と、戒を持つ、持たないにかかわらず、念仏を称える者は救われるというのである。

 

図解雑学 法然 ナツメ社 P140

 

 

法然上人の教えは、親鸞聖人の教えに比べますと寛容である印象があります。法然上人は、阿弥陀仏以外の仏や神社に参拝しても極楽往生の妨げにならないと説かれています。そのため、この世のことを神仏に祈ることを否定されていません。そのため、浄土宗のお寺では阿弥陀仏以外の仏が祀られていることは珍しいことではありません。それに対して親鸞聖人は、末法の世においては阿弥陀仏だけを信じる他に助かる道はないと説かれています。そのため、浄土真宗のお寺では阿弥陀仏以外の仏が祀られていることは珍しく、僅かに親鸞聖人や歴代の高僧が祀られること程度です。

 

このことについては、書きたいことが多いのですが、このことについて書き始めますと戒律の話から逸脱することになりますので、機会を改めて取り上げたいと思いますが、少なくとも浄土宗においては戒律を否定されていません。また、法然上人は多くの方に戒律を授けているだけでなく、自らも戒律を守り続けられました。その意味では、法然上人は戒律を守ることを否定されていないと言えます。

 

 

ご相談は こちらから

at 21:15, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

comments(1), -, pookmark

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白ギツネ, 2017/01/27 2:04 PM

凡人東日本代表の私からすれば、親鸞聖人の教えは厳し過ぎて涙目です。戒律に必死に向き合い、そして守れず、自分のダメさ加減にきちんと絶望しきって、それで1発目の南無阿弥陀仏となる。後の南無阿弥陀仏は報恩なのですよね?それは裏を返せば、1発目に全身全霊賭ける覚悟(完全なる絶望)が必要ですよね?阿弥陀仏に全てを委ね1発目の直後に死すとも些かの不安もなし的な。正直、法然上人の教えでもやっとやっとです。
。・°°・(>_<)・°°・。