立ち向かう心・解説2(星)
毎年、この時期になると花を咲かせてくれます。
春蘭の仲間だとは思うのですが、正確な品種名まではわかりません。
何株があるのですが、昨年はほとんど手入れもできなかったのですがきれいな花が咲いてくれました。
それはさておき・・・
前回に続き、神霊のお言葉を少しばかり解説します。
そなたはそのことをどれだけ考えたことがあるであろうか。神仏が偉大な力を持つ存在であるならばそのお心も推し量ることなどできず、衆生にできることはただ偉大なる存在を前にして畏怖することであり、自分の本分をまっとうすることを願うことだけである。
自分の本分を全うすることとは何か、それは自分がなすべきことをなすことであり、画一的に説かれるべきことではない。大人には大人としてなすべきことがあり、子供には子供としてなすべきことがある。夫には夫としてなすべきことがあり、妻には妻としてなすべきことがある。
しかし世の多くの者は自分の本分をまっとうすることを嫌い、自分が立ち向かうべき試練から逃れることを願って神仏に助けを求める。それを神仏は悲しき心にて見守られていることをどれだけの者が知っているのであろうか。
お言葉の中に「自分の本分をまっとうすることを願う」とありますが「自分の本分」は誤解されやすい言葉ではないかと思います。神道には具体的な教えの体系が残されていませんので「自分の本分」と言われると儒教的な精神などにて考えてしまうことが多いのではないかと思われます。
しかしそれは神霊の本意ではないと思われます。以前のことですが神道の神霊は、世俗の学びと神の教えの学びを同一に考えてはならないと説かれたことがありました。
世俗の教えとは人生をよりよく生きるための知恵ではあり、それは大神様の教えではない。世俗の教えと大神様のお教えを同一に考えてはならない。大神様の働きとは教えとは人と人との繋がりの中にある働きである。
大神様はすべての國民の幸せを願い、すべての國民が幸せになることができるように働かれておられる。その働きを知るならば自然に頭をたれ、大神様を敬う。それが我等の教えであり、それを言葉に残したとしても何の意味もない。大神様の働きは國民の生活の中に溢れている。それを言葉にて説明したところで何の意味があろうか。
神霊は「世俗の教えとは人生をよりよく生きるための知恵ではあり、それは大神様の教えではない。」と説かれ、「大神様の働きとは教えとは人と人との繋がりの中にある働きである。」と説かれています。しかしこれでは具体的にどのように考えるべきかがわかりません。そのことをお訊ねしましたところ、下記のようなお言葉がありました。
イチローなる者は自分の技を磨くことで多くの者に感銘を与えているではないか。彼の者はその技を磨き、技を極めることで多くの者に感銘を与えているではないか。そこに言葉は必要であろうか。
つまり誰かのために何かをすることが大切ではなく、自分が最善を尽くし、自分を磨くみことが大切であるとのお教えではないかと思われます。そのため神霊の語られている「自分の本分まっとうすること」とは自分の抱えている人生の課題とも言うべき問題のことを言っているのであり、儒教的な教えを前提にした意味ではないと思われます。
例えば学生の本分は勉強であると考えることは可能であるとしても神霊のお言葉を借りるならばそれは世俗の知恵であるとしても大神様の教えではないと言えます。では学生は勉強しなくても良いのかと言えばそうではありません。大神様の教えとは勉強を通して自分を磨くことであり、自分の得た知識で多くの人のために尽くすことにあります。
勉強して優秀な成績を修め、社会的に成功することは賞賛されるべことではあるとしてもそれは大神様の教えではなく、世俗の知恵であると説かれています。それに対して大神様の教えとは勉強を通して自分を磨くことが目的であり、自分の得た知識で多くの人のために尽くすことであっても社会的な成功は結果でしかありません。
その多くの人のために尽くす働きの極致が神様の働きであり、その働きを知るならば自然に頭をたれ、神様を敬うのが神道の教えであると説かれています。
立ち向かうべき試練から逃れることを求め、苦悩から逃れることを求める者には神仏の加護は期待できないと考えよ。神仏は試練に立ち向かう者にはその気概に応じた加護を与える。それは神仏が自分の意思で自分の人生を力強く生きることを求めるからであり、神仏がその者の人生の主役となることを求めていないからである。
「立ち向かうべき試練から逃れることを求め、苦悩から逃れることを求める者には神仏の加護は期待できないと考えよ。」とは厳しいお言葉ではありますが、これは人生の主役は自分であると自覚せよとのことです。人生の主役は自分であり、自分の意思で自分の人生を生きようとの気概がなければ、神仏を頼られたとしても神仏はその願いには応えてはくれないと説かれています。
神仏に苦悩が解消されることを求めるのであるならば神仏に苦悩に立ち向かうことを誓え、神仏の力にて苦悩が解消されることを求めるのであるならば神仏に苦悩に立ち向かう力が与えられることを求めよ。
さすれば神仏は苦悩に立ち向かう勇気を与え、苦悩に立ち向かう力を与えるであろう。そして苦悩に立ち向かう者を加護し、その苦悩が解消されるようにと働かれるであろう。
自分の意思で自分の人生を生きようとの気持ちを持つことが一番大切であると説かれたいのだと思われます。
星