2008.05.24 Saturday
生き神と生き仏(星)
どうも、このところ不調と言うか・・・・α~ (ー.ー") ンーー
少しばかり元気のない管理人です。
管理人は肥満と言うほどの体型ではありませんが、最近は少しばかりお腹の肉が気になり始めました。
そこで今日、黒烏龍茶なる物を買い込んできました。
うーん、何やら虚しい抵抗のような気が・・・
いっそこのまま太り続けて和服でも着れば、管理人の著書も少しは売れるようになるのでしょうか?
それは、さておき・・・
前回の記事を投稿しようと「加持祈祷の本」を読み直していましたところ、「経典を絶対視する僧侶と生き神・生き仏にすがる民衆」のタイトルが目に入りました。
加持祈祷の本 (NSMブックスエソテリカ宗教書シリーズ)
藤巻 一保 P32−33
内容としては、僧侶や行者は経典を絶対視して経典に書かれている加持を行うことから、霊験が得られることは当然であると考え、民衆には経典の内容を理解することもできないために、法力を持つと考えられた僧侶や行者を生き神・生き仏として崇め、すがったとの内容です。
内容としては十一世紀半ばに書かれた「法華験記」が引用されていますので、古い時代の話として書かれていますが、管理人には今も昔も何一つとして変わっていない気がします。管理人は密教の修行僧でもなければ、行者ではありませんので加持祈祷をすることもありません。
そのため加持祈祷の根拠を経典に求めても、知識以上の価値はありませんが、僧侶や行者の方は、今でも経典を絶対視されているようです。また苦悩の中にある人の多くが、自分の苦悩を解消してくれる生き神様や生き仏を求めています。
現実の問題として多くの人が宗教に求めるのは、心の教えではなく現世利益です。そのため、ご利益信仰・葬式仏教と批判されたとしても祈願や供養がなければ、伝統的な教団であるとしても教団を維持することは困難であると思われます。また様々な問題で苦しむ人々の苦悩が、解消されるを神仏に祈願することや他界された方を供養することが悪いことであるとも思えません。
そして在家の人間には出家者や神職に布施をする機会となり、僧侶や神職は布施を受けることで修行を継続できるだけでなく、祈願や供養をすることで神仏との縁を深めることや教えを学ぶ機会を得ることができると言えます。
しかし、ここで一つの疑問が生じます。それは神仏と衆生の間に仲介者は必要なのかとの疑問です。管理人はこの疑問に対する明確な答えを得られないでいます。ただ現時点において到達した考えは、僧侶や神職の方に祈願や供養を依頼したとしても、神仏のお力を受け止めることができるか否かは、本人の心次第であることです。
そのため僧侶や神職の方、或いは祈祷師や行者の方が、神仏と衆生の間に立つとしても僧侶や神職の方を生き神様や生き仏としてその法力や神通力にすがるとなれば、少しばかり問題があるのではないかと思います。僧侶や神職の方が、神仏の仲介者であるとしても代理人ではなく、僧侶や神職の方を神仏の代理人と考えるならば、僧侶や神職の方に依頼することが神仏への祈願となります。
しかし、加持祈祷にしても祈願にしても神仏に対する働きかけであり、僧侶や神職の方、或いは祈祷師や行者の方が、どれだけ熱心に祈られたとしても神仏に対する働きかけであると言えます。そのため加持祈祷や祈願を受ける側は、神仏と向き合う心が求められるのではないかと思われます。
そして加持祈祷や祈願を行う側は、現世利益を約束するだけでなく、少しでも苦悩する人を導けるように心掛けることが求められるのではないかと思われます。
星
少しばかり元気のない管理人です。
管理人は肥満と言うほどの体型ではありませんが、最近は少しばかりお腹の肉が気になり始めました。
そこで今日、黒烏龍茶なる物を買い込んできました。
うーん、何やら虚しい抵抗のような気が・・・
いっそこのまま太り続けて和服でも着れば、管理人の著書も少しは売れるようになるのでしょうか?
それは、さておき・・・
前回の記事を投稿しようと「加持祈祷の本」を読み直していましたところ、「経典を絶対視する僧侶と生き神・生き仏にすがる民衆」のタイトルが目に入りました。
加持祈祷の本 (NSMブックスエソテリカ宗教書シリーズ)
藤巻 一保 P32−33
内容としては、僧侶や行者は経典を絶対視して経典に書かれている加持を行うことから、霊験が得られることは当然であると考え、民衆には経典の内容を理解することもできないために、法力を持つと考えられた僧侶や行者を生き神・生き仏として崇め、すがったとの内容です。
内容としては十一世紀半ばに書かれた「法華験記」が引用されていますので、古い時代の話として書かれていますが、管理人には今も昔も何一つとして変わっていない気がします。管理人は密教の修行僧でもなければ、行者ではありませんので加持祈祷をすることもありません。
そのため加持祈祷の根拠を経典に求めても、知識以上の価値はありませんが、僧侶や行者の方は、今でも経典を絶対視されているようです。また苦悩の中にある人の多くが、自分の苦悩を解消してくれる生き神様や生き仏を求めています。
現実の問題として多くの人が宗教に求めるのは、心の教えではなく現世利益です。そのため、ご利益信仰・葬式仏教と批判されたとしても祈願や供養がなければ、伝統的な教団であるとしても教団を維持することは困難であると思われます。また様々な問題で苦しむ人々の苦悩が、解消されるを神仏に祈願することや他界された方を供養することが悪いことであるとも思えません。
そして在家の人間には出家者や神職に布施をする機会となり、僧侶や神職は布施を受けることで修行を継続できるだけでなく、祈願や供養をすることで神仏との縁を深めることや教えを学ぶ機会を得ることができると言えます。
しかし、ここで一つの疑問が生じます。それは神仏と衆生の間に仲介者は必要なのかとの疑問です。管理人はこの疑問に対する明確な答えを得られないでいます。ただ現時点において到達した考えは、僧侶や神職の方に祈願や供養を依頼したとしても、神仏のお力を受け止めることができるか否かは、本人の心次第であることです。
そのため僧侶や神職の方、或いは祈祷師や行者の方が、神仏と衆生の間に立つとしても僧侶や神職の方を生き神様や生き仏としてその法力や神通力にすがるとなれば、少しばかり問題があるのではないかと思います。僧侶や神職の方が、神仏の仲介者であるとしても代理人ではなく、僧侶や神職の方を神仏の代理人と考えるならば、僧侶や神職の方に依頼することが神仏への祈願となります。
しかし、加持祈祷にしても祈願にしても神仏に対する働きかけであり、僧侶や神職の方、或いは祈祷師や行者の方が、どれだけ熱心に祈られたとしても神仏に対する働きかけであると言えます。そのため加持祈祷や祈願を受ける側は、神仏と向き合う心が求められるのではないかと思われます。
そして加持祈祷や祈願を行う側は、現世利益を約束するだけでなく、少しでも苦悩する人を導けるように心掛けることが求められるのではないかと思われます。
星