では、どうしてマルクス主義者の障りの場合には、膨大な数の不成仏霊の障りが見つかるのかを考えますと、マルクス主義は被害者意識を煽る思想であり、富める者に対する憎悪があることが原因ではないかと考えるようになりました。マルクス主義では、資産家は労働者を搾取していると定義されていることが理由と思われますが、この考えはマルクス主義の根底にある労働価値説から導かれた考えです。この労働価値説とは、商品の価値とは費やされた労働力で決まるとの考えですが、商品の住地とは費やされた労働力ではなく、需要と供給で決まります。そのため、マルクス主義は根底にある考えが間違っています。
では、どうして多くのことがマルクス主義に魅了されるのかと言えば、自分たちが不幸なのは、差搾取されているからであり、金持ちや権力者が悪いと自分たちの嫉妬心を正当化できるからではないかと思われます。人間は誰しもが嫉妬心を抱えていると思われますので、その嫉妬心を正当して自分は悪くない、悪いには金持ちだと考える思想は、多くの人を魅了するようです。これは何も社会的に成功できない方に限られた話ではなく、社会的に成功した方でも同じだとの話を聞いたことがあります。
一流会社に就職してある程度の地位になっても、自分たちが不幸なのは、差搾取されているとの考えを持ち続けていると話です。その場合には、搾取している者は、自分よりも地位の高い者が対象になると聞きました。つまり富裕層と貧困層と言っても相対的であり、平均的な年収の人間からするならば、富裕層と思っても本人は、自分は貧困層であり、自分よりも高収入を得ている者たちこそが富裕層であり、自分たちを搾取していると考えます。
生きている人間が差別されているとの被害者意識が強く似りますと、生前に自分たちは差別されていたとの強い不満を抱く不成仏霊を呼び込む原因となります。その典型的な事例が被差別部落の住人や穢多非人(えたひにん)と呼ばれた身分の方々、ハンセン病患者などの生前に激しい差別を受けていたと思われる不成仏霊の集団となります。個人的には、被差別部落の方々やハンセン病患者の方々を差別する気持ちはありませんが、死後も世の中に対する強い恨みを抱いている方々が大半ですので、障りの解消には非常に苦労します。
また、マルクス主義者のもう一つの特徴としてマルクス主義者が権力を持つと独裁的になることがあります。権力者を倒す目的は、差別されている人々を解放することであり、平等な社会を構築することが目的であるはずなのですが、マルクス主義者が権力を持つと自分たちとは異なる意見を弾圧して封じる独裁政治を行うことになります。これは日本共産党の党首が党員の自由投票で選ばれていないことや中国などの社会主義国では自由な投票が行われていないことを見ればわかるのではないかと思います。
このことについて詳しく書きますと長くなりますので、深入りしませんが、原因はマルクス主義にあると考えます。マルクス主義は非常に独善的であり、排他的であることから独裁を正当化する思想でもあります。そのため、マルクス主義者は、独善的で排他的な考えを持つことになりますが、この考え方は同じような考えを持つ不成仏霊を呼び集めることになります。つまりマルクス主義者は、世の中に強い不満を持つ不成仏霊と独善的で排他的な不成仏霊の両方を呼び集めることになりますので、非常に厄介な障りとなります。
どちらか一方の障りだけでも解消が困難なのに両方の障りを解消しなければならないとなれば、通常の供養や祈願祈祷では、全く歯が立たない障りとなります。特に長年社会党や共産党を支持し続けているだけでなく、党員として活動しているともなれば、どんな深刻な障りが隠れていても不思議ではない状態なりますので、熱心に障りの解消に取り組まれたとしても、長い歳月が必要となります。そのため、1年や2年で障りが解消する可能性は非常に低く、最低でも5年、10年と言った歳月が必要となります。
個人的には、特定の政党を批判する気持ちはありませんが、社会主義や共産主義の影響を強く受けている政党や政治活動に参加されることや活動を支援されることは、深刻な霊障の原因となる可能性がありますので、とてもお勧めできません。また、最近は恵まれない方々の支援活動や環境保護活動を表看板に掲げているマスクス主義の団体も多いようですので、ご注意下さい。
星
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]]>メールアドレスが記入されていましたので、非公開とさせていただきましたが、拝見しております。
ご質問の回答は、なるべくは早くブログで取り上げさせていただくことにします。
それはさておき・・・・
信仰の自由が保障されていますので、マルクス主義が宗教であろうともマルクス主義を信じることは、本人の自由ではありますが、生前に死後の世界を否定していた方は死後の世界で迷う可能性が非常に高くなります。これは考えれば、当然のことでしかありません。生前に死後の世界などないと信じ込んでいたのに、死後の世界があったとするならば、混乱するのが当然です。そして生前に神仏を否定していたことから、神仏に助けを求める方法すら分からない状態となります。
また、客観的に目の前の現実を見ることができるのであれば、自分が置かれている状況を考えるならば、死後の世界が存在していることを受け入れざるを得なくなりますが、頑なに唯物論を信じている場合には、自分の考えが間違っていると考えることなく、目の前の現実を否定します。これは生きている人間でも同じであり、マルクス主義者はソ連か崩壊しようか、東欧諸国が資本主義の国になろうが、マルクス主義が間違っているとは考えないのと同じです。
自分だけの世界だけに閉じこもっている人間にとっては、それが妄想であっても自分の作り上げた世界が全てであり、マルクス主義を頑なに信じている人にとっては、マルクス主義が破綻している理論であることなど絶対に受け入れられない現実となります。そのため、自分の目の前の現実が自分の世界観と異なるならば、現実を否定します。常識的に考えるならば、信じられないと思う方も多いかとは思いますが、現実と自分の考えが異なるならば、現実を否定する人は数多くいます。
私が占い師として活動し始めたばかりの頃ですが、知り合いから相談を受けました。相談内容は、不倫相手との関係でした修復についてでしたが、話を聞いたところ、既に破綻状態であり、占う必要もない状態でした。それでも占ってくれと懇願されたことから占いましたが、関係の修復の可能性は皆無であるとの結果でした。その後も何度も占いを依頼されましたが、結果はいつも同じでした。不倫相手は既に新しい相手と結婚を前提に交際していることから復縁の可能性など皆無でした。
知り合いに繰り返し、復縁の可能性などないことを言っても未練と愚痴を言い続けました。ここまで未練がましくなれるものなのかと呆れていましたが、知り合いの未練と愚痴は際限がないのかと思う程続きました。そして最後は、地元で有名なお祭りに元不倫愛と交際相手が一緒に歩いているのを目撃したとの電話でした。流石に元不倫愛と交際相手が一緒に歩いている姿を見たことは、ショックだったらしく、その後の鑑定依頼はなくなりました。
知り合いにとっては、不倫相手が自分を捨てて別の男と一緒になることなど考えられないことであったようです。私からするならば、鑑定を依頼される前に会った際には、不倫相手が強欲だとぼやいていたのは何だったのかと言いたくなる気分でした。しかし、不倫相手が自分を捨てて別の男と一緒になるかもしれないと分かったことで、自分の作り上げていた世界が崩壊して現実逃避を始めました。その逃げ道が占いであったと思います。占いに淡い期待を求めて縋ったと思われます。
この事例は、恋愛の事例ですが、同じような話は仕事でも珍しい話ではありません。多くの人は自分が長年行っていた仕事の方法に強くこだわる傾向があります。若い頃に覚えた方法を30年以上も守り続けていることもありました。教えられたことを守り続けるのは悪いことではありませんが、その間に何も新しい技術を学ばなかったのかとこちらが不思議になりました。毎日毎日同じことを繰り返すだけの生活に何の疑問も持たないかと思うのですが、何も疑問を持たない人が多いようです。
しかし、本人が何の疑問を持たないとしても、世の中は変わります。その顕著な例がレンタルビデオの業界ではないかと思います。まだ、ビデオデッキが高価であった昭和の時代には、レンタルビデオ業界は急成長していましたが、令和の時代になってからは価格競争が始まり、ネットで映画が見られるようになってからは衰退の一途をたどりました。これは色々な業界で起きたことであり、薬局はドラックストアーとの競争に敗れて衰退し、家電製品の小売店は大型量販店との競争に敗れて衰退しました。また、文具店も100円均一のお店の台頭と子供の数の減少で衰退など大きな時代の流れに飲み込まれて廃業された方も多いと思います。
商取引の世界ならば、本人がいくら現実を否定しても売り上げが低迷するならば、会社を維持することができなくなりますが、目の前の現実が破綻しても現実を認めない人は数多くいます。自分は間違っていない。間違っているのは世の中の方であると頑なに信じます。こんな考え方をしている方が死後の世界に帰ったことで変わるかと言えば、何も変わりません。これは唯物論者でも同じであり、死後の世界に帰っているのに死後の世界は存在していないと考えます。
そのため、自分の死を自覚していないことになりますが、自分の死を自覚しないままに子孫などに助けを求めて障りを起す場合と自分が現世に生きる人間を指導しているような気持で障りを起す場合に分かれます。このどちらの場合も自分の死を自覚していないだけでなく、神仏の存在を否定しいることから神仏が働き掛けても拒絶しますので、一般的な供養を継続されても障りの解消が困難となります。
具体的には、生前に信じていた唯物論が間違いであったことを納得させる必要があります。特にマルクス主義者の場合には、マルクス主義の間違いを納得させることが重要となります。そして自分が既に死亡していることを自覚させる必要がありますが、神仏であっても簡単なことではありません。しかし、この段階を終えなければ、一般的な供養を継続されても障りの解消は困難となりますので、唯物論者の障りを解消することは容易ではありません。
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神仏のように、自分にとって究極的な価値や意味をもっている対象と全人格的な関係をもち、その対象に無条件に依存し献身する心的態度をいう。経験できぬ不確実なものを主観的に確実であると思い込むことではない。宗教的体験や儀礼を繰り返すことによって、しだいに人格の内部に一定の心的態度が信仰として形成される。信仰は個人生活を統合する中心の役割を果たすと同時に、その信仰の表現である信条、組織、制度などにより、共同体の生活を統合する活動の中心にもなっている。
[藤田富雄]
日本大百科全書(ニッポニカ)
信仰を「自分にとって究極的な価値や意味をもっている対象と全人格的な関係をもち、その対象に無条件に依存し献身する心的態度」と定義するならば、唯物論も一つの信仰であると考えることができると思います。続いて「経験できぬ不確実なものを主観的に確実であると思い込むことではない。」とありますが、神仏の存在や死後の世界を否定する人人は、信仰を経験できない不確実なものを主観的に確実であると思い込むことであると考えているではないかと思います。
唯物論の方は、経験できる確実なものが全てであり、経験できない不確実なものを否定することが科学的であると信じていると思われますが、本来の科学的な立場からするならば、経験できない不確実なものを研究の対象とすると聞いています。分からないことがあるからこそ研究するのであり、経験できる確実なものだけで全てを理解できるのであれば、研究する必要がなくなります。しかし、この世の中には、現代科学では解明できない謎は数多くあり、分かっていることの方が少ないと言えます。
唯物論の歴史は古く、お釈迦様が教えを説かれていた時代のインドにもありましたが、個人的には自分が理解できる枠の中で考えているのではないかと思えます。世の中は矛盾だらけであり、不可解なことが満ち溢れていると考えるべきであり、全てを理解できると考えることの方が思い上がりではないかと思います。これは何も心霊世界の話に限られたことではありませんが、自分は全てのことを分かっていると考えるのは、自分の分かる範囲のこと以外のことを無視していると言えます。
その典型がマルクス主義において説かれている「唯物論的歴史観」(史的唯物論)ではないかと思います。昔からマルクス主義に関しては興味がなかったことからマルクスの著書は殆ど読んでいません。唯一、読んだと言えるのが資本論ですが、余りにも支離滅裂な内容であることから三分の一程度読んで読む気を失いました。一応、最後まで読みましたが、読むのが苦痛で斜め読みしました。それでもこんな支離滅裂な内容を多くの人は、本気で信じているのかと悩みました。
個人的には、マルクス主義が破綻していることは、歴史的な事実だと考えています。私が学生時代の頃には、左翼思想に傾倒する若者が多かった時代であり、社会主義が資本主義よりも優れていると本気で信じている人も多かった時代でした。また、唯物論的歴史観では、無階級社会から階級社会へ、階級社会から無階級社会へと、生産力の発展に照応して生産関係が移行していくとされ、共産主義がもっとも進んだ段階であるから、資本主義は共産主義になるとされていました。しかし、現実は資本主義が共産主義になることはなく、社会主義国であるソ連は崩壊しました。
中国は資本主義を取り入れて発展しましたが、社会主義体制に戻りつつあります。チヤイナウオツチャーの多くは、経済的に没落するであろうとの予測しています。他に社会主義体制の国は幾つかありますが、資本主義国が共産主義体制になる可能性は非常に低いと思われます。しかし、今でもマルクス主義を信奉している方は数多くいます。また、環境保護活動や男女平等などの活動家は、マスクス主義者が多いとも聞いていますので、マルクス主義の人気は高いようです。
私はこれらのことが唯物論は思想ではなく、信仰と考えるべきではないかと考える理由です。私は宇宙人や未来人の存在を肯定も否定もしません。否定できるだけの知識もなく、存在を証明することもできません。宇宙人の存在を証明するとされる証拠を見せられたとしても本物か偽物かを判断することもできないことから、否定も肯定もできません。死後の世界にしても同じことです。私には死後の世界の存在を証明することはできません。
勿論、私は死後の世界の存在を信じていますが、それは過去の個人的な体験の積み重ねの結果であり、それを信じるかどうかは、個人の判断です。また、神仏の存在にしても同じことであり、私は信じていると言うだけのことです。では、本来の科学的な立場からするならば、どう考えるべきかとなりますが、否定も肯定もしないのが、科学的な立場ではないかと思います。分からないからこそ研究の対象となると言えますが、死後の世界の存在や神仏の存在を研究する科学者はいないだけのことです。
死後の世界の存在や神仏の存在を研究する科学者もいないのに、どうして死後の世界や神仏が存在しないと断言できるのでしょうか。突き詰めて考えるならば、唯物論者の主張は思い込みでしかないと言えます。しかし、唯物論者の多くは、意固地になって否定している印象を受けます。このように考えますと唯物論は思想ではなく、信仰に思えます。特にマルクス主義者に関しては、この傾向が顕著であり、マルクスの思想に間違いがあるはずがないと信じているのではないかと思うことがあります。
次回に続きます。
星
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今朝になり、そのことに気付きましたので、順番を訂正しました。
ご迷惑をお掛けして申し訳あません。
m(_ _)m
それはさておき・・・・
前回取り上げました自己愛性パーソナリティ障害と並んで対応が難しいとされているのが、境界性パーソナリティ障害です。以前に読んでいた心理学の本にも対応が難しい病気として紹介されていました。
「ゆくん【公認心理師】@心理カウンセラー」にも境界性パーソナリティ障害に関する動画は幾つか紹介されていますが、幾つか紹介しておきます。
【ボーダーのサイン】境界性パーソナリティ障害の見分け方5選|外見・行動 こちらから
境界性パーソナリティ障害の方が自分がわからなくなる理由&自分を理解するための5ステップ こちらから
【総集編】境界性パーソナリティ障害の全てがわかる動画 こちらから
1:24:30と非常に長い動画です。
境界性パーソナリティ障害とは
気持ちや行動、対人関係が不安定になりやすく、日常生活や仕事で著しい苦痛や支障を引き起こしてしまう障害です。基本的には、相手の気持ちを敏感に察することができるため、相手のために(時として必要以上に)頑張ったり、思いやりのある行動をとったりすることが多い方々です。
ただ、相手が自分を見捨てて離れていく、自分を大事にしてくれていない、と感じると、不安や怒りが急に強くなり、うまくコントロールできなくなってしまいます。
冷静になると、なぜあんなことをしてしまったのか…と自分を責めてしまい、とても辛い気持ちになり、さまざまな影響が出ます。
アメリカの調査では有病率は一般人口の約2%で、その約7割が女性であり、わが国でも同程度と考えられています。
元記事 酒田駅前メンタルクリニック こちらから
境界性パーソナリティ障害についての詳しい解説は、専門家の方にお任せしますが、自己愛性パーソナリティ障害と境界性パーソナリティ障害のどちらも周囲の方にとっては対応が困難な病気なことは間違いがないようです。専門家でも対応が難しい病気ではありますが、霊障の観点から考えますと、この病気の方は深刻な霊障の可能性が高いのではないかと思います。自己愛性パーソナリティ障害も深刻な霊障ではないかと思われる点が多いのですが、自己愛性パーソナリティ障害の霊障とは異なるタイプの霊障ではないかと思います。
勿論、これは個人的な印象ではあり、詳しくは個別に鑑定してみませんと断定的なことは書くべきではないと思いますが、境界性パーソナリティ障害の解説を聞いていますと、典型的な霊障の症状であり、幾つもの原因が折り重なるように隠れている解消が非常に困難な霊障であると思いました。膨大な数の不成仏霊による霊障であることは間違いがないと思いますが、恐らくはかなりの大物の魔物が隠れているのではないかと思われます。
過去の経験では、境界性パーソナリティ障害に限らず、愛着障害などの病気は、家庭環境が大きな原因になっている印象があります。そして更に原因を探りますと家庭の霊域が非常に悪いことが多いことから、心の病気の多くは、霊障と密接な関係があるのではないかと考えています。残念ながら心理学を専門的に学んだ経験もないことから心の病気と霊障の関係に関しては、漠然とした印象程度でしか語れませんが、何らかの関係があるのではないかと思います。
さて、話を境界性パーソナリティ障害に戻しますと、基本的には生前に抑圧され続けた不成仏霊が障りを起している可能性が高いのではないかと思われます。現代においても社会の底辺で生きる人々は社会的に抑圧されていると言えますが、少し時代を遡るならば、身分制度や家柄に縛られて本人の才能や努力とは無関係に忍耐を強要され続けた人生を生きなければならなかった人々の数ははかりしれません。
境界性パーソナリティ障害の特徴として、「相手の気持ちを敏感に察することができるため、相手のために(時として必要以上に)頑張ったり、思いやりのある行動をとったりすることが多い方々です。」とありますが、これは生前に権力者の顔色を窺うことでしか自分の身の安全を保つことしかできなかった不成仏霊の影響も考えられます。勿論、全てを霊障と考えるべきではないことは分かっていますが、過去の事例では理由のない不安感などは霊障が解消すると消えてしまうことがあります。
また、「ただ、相手が自分を見捨てて離れていく、自分を大事にしてくれていない、と感じると、不安や怒りが急に強くなり、うまくコントロールできなくなってしまいます。」とありますが、これも霊障の典型的な症状の一つです。不成仏霊や魔物が現世に生きる人間を操る常套手段は、人間の不安や怒りを煽ることです。大半の人間は、不安や怒りを抱えていますが、不成仏霊や魔物は不安や怒りを煽ることで現世に生きる人間を操ります。
特に重度の霊障の場合には、不成仏霊や魔物の抱えている恨みや怒りを代弁していることも少なくありません。これは不成仏霊や魔物に心を乗っ取られている状態とも言えますが、このような状態になりますと、際限のない恨みや怒りが沸き起こる状態となります。つまり、本人の怒りの炎に不成仏霊や魔物が油を注いでいることから際限のない恨みや怒りとなります。勿論、本人は自分の感情だと思っているのですが、実体は不成仏霊や魔物に翻弄されていると言えます。
そして「冷静になると、なぜあんなことをしてしまったのか…と自分を責めてしまい、とても辛い気持ちになり、さまざまな影響が出ます。」とありますが、恨みや怒りの感情を煽っていた不成仏霊や魔物の影響が減少することで本人の意識が強くなり、後悔することになります。しかし、一時的にでも不成仏霊や魔物の影響が減少するかと言えば、そうでもありません。減少するのは恨みや怒りの感情を煽っていた不成仏霊や魔物の影響だけです。
本人の後悔の念が強くなるならば、今度は生前に絶望感や不安感を抱えていた不成仏霊の影響が強くなります。これらの不成仏霊の多くは、人間に対する不信感が強く、強い猜疑心を抱えています。その強い猜疑心を抱えている不成仏霊や魔物の強い影響を受けることになり、非常に悲観的な考えにとらわれるようになります。つまり、この二つのタイプの不成仏霊や魔物が入れ替わることで常に不成仏霊や魔物の影響を受け続けることになり、本人の気持ちは乱高下することになります。
しかし、大半の方には、目の前にいる人間のことしか分かりませんので、境界性パーソナリティ障害の患者に翻弄されることになります。勿論、カウンセラーにしても事情は同じであり、霊能者であっても本当の霊障の原因を見抜ける方は、非常に少ないのではないかと思います。また、膨大な数の不成仏霊の影響を受けている場合には、かなりの大物の魔物が潜んでいる可能性が高くなることから霊障の解消には長い歳月が必要となる可能性が高くなります。逆に言えば、かなりの大物の魔物が潜んでいるから深刻な霊障になるとも言えます。
境界性パーソナリティ障害についてあれこれ書きましたが、心霊世界のことを否定する方からするならば、全ては妄想と思われるのではないかと思います。私は、霊障であると証明する方法を知りませんので、反論する気もありません。また、境界性パーソナリティ障害に関しても素人の知識ですので、全ては個人的な推論でしかありません。私も自分の考えに間違いがないとも考えてはいませんが、専門家でも対応が難しい病気であることから、霊障の可能性を疑うべきではないかと思います。
星
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お客様にもご迷惑をお掛けしています。こんなブログを書いている暇があるならば、仕事をしろと言われそうなのですが、好き勝手なことを書いている時間が大切な息抜きとなっています。
遅れている鑑定に関しては、順次鑑定しますので、少しお待ち下さい。
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先日のことですが、自己愛性パーソナリティ障害を分かり易く解説された動画を見つけました。心理学に関しては、多少は勉強していますが、何分にも素人であり、やはり専門家の分かり易い解説は助かります。
ゆくん【公認心理師】@心理カウンセラー
【転落人生】自己愛性パーソナリティ障害男性の末路〜特徴、職場、接し方〜 こちらから
関連の動画が幾つかありますので、心理学に興味のある方にはお勧めのサイトです。さて、流石に心理カウンセラーの方が編集された動画ですので、自己愛性パーソナリティ障害の原因や周囲に与える影響は分かり易いのですが、同時に心理学の限界を感じました。
自己愛性人格障害の行動パターンと行く末はどうなるのか解説
自己愛性人格障害とは、自分を過大評価する一方で他人を下げることや共感性の欠如が特徴的な疾患です。
賞賛されたいという気持ちが強く、周りから自己中心的だと思われることが多いです。
自身の利益のためなら他人を使うことに遠慮がなく、ときにはごう慢な言動が見られます。
自分や周囲の人が自己愛性人格障害にかかっているかもしれないと、頭を抱えている人も多いのではないでしょうか
おおかみこころのクリニックHPより 元記事
自己愛性パーソナリティ障害の方は、自分を過大評価する一方で他人を下げることや共感性の欠如が特徴的なことから周囲には迷惑な存在です。私が勤めていた会社の上司も自己愛性人格障害であったと考えるならば、納得できる面が少なくありません。しかし、不幸にして自分の上司や親が自己愛性人格障害であったならばどうすべきなのかとなりますと、非常に厄介な話となります。動画の中でも自己愛性パーソナリティ障害の方は、自分が人格障害であると考えないことから、本人が受診する可能性は非常に低くなります。
どんなに優秀な医者でも本人を診察をしなければ、治療できません。強制的に受診させることが可能ならば話は別ですが、現実の問題として本人に病気を自覚させることは困難なことから病気だと分かっても、周囲の人間が迷惑を受け続けることは同じです。病気だと分かっていても何もできないのであれば、不治の病と思って諦めて下さいと言われているのと同じではないかと思えます。勿論、対処の仕方を学ぶことはできますが、周囲の人間にとっては苦痛が多少軽減する程度の話であり、治療方法がないと言われているのと同じことでしかありません。
私が最初に就職した会社の上司は、自己愛性パーソナリティ障害ではなかったと思われる人物でした。その上司は部下を怒鳴り散らすことを仕事と考えているのではないかと思う人物でした。但し、この攻撃対象は、営業成績の悪い部下であり、同期の同僚がいつも餌食になっていました。その同僚は上司の人格否定とも言えるような暴言に耐え続けていましたが、これは当事者でなくても気分の良いことではなく、社内の雰囲気は最悪となりました。一日の業務の終わりに日報を提出する際に同僚は、毎日10分以上も怒鳴られていました。しかし、同僚の営業不振は続いたことから、一日の業務の終わりだけでなく、朝礼の後にも怒鳴られるようになり、最後には別室で延々と怒鳴られていました。
私は、その後配置転換となり、同僚は退職しました。後で分かったことは、同僚が目の敵にされる前は、前年の新入社員が標的にされ、同僚が退社後は余り営業成績が良くなかったベテランが標的にされるようになったとの話でした。そのベテランは一年後に閑職とも言うべき部品配送の部署に配属になりました。私からするならば優れた成績は残せなかったと言ってもベテランであり、お客様との信頼関係も気付き上げていた営業を部品の配送の部署に追いやる意味が分かりませんでした。
その上司も人事異動で降格とは言えませんが、左遷に近い扱いとなりました。その後、その上司について、他の管理職が酷評に近い評価をしているのを聞き、かつての上司の評価が、この程度であったのかと知りました。これは私が管理職と懇意にしていたということではなく、管理職の方の立ち話を偶然に聞く機会があっただけのことでしたが、既に元上司に関心もなかったことからこれと言った感情も抱きませんでした。
個人的には、配置転換で暴言を繰り返す上司から解放されましたが、運が良かっただけのことでした。人事異動がなかったら次の標的は、私であったかもしれません。しかし、あの頃に私が心理学に精通していたとしても、私にできることは殆どなかったと思います。私のような下っ端の人間が、他の中間管理職の人を差し置いて上司に意見をすることなどできるはずもなく、親しい先輩に相談する程度のことしかできなかったと思います。
しかし、今の私がパワハラに悩むお客様から相談を受けたとしたら、最初に過去世の因縁を疑います。過去世で敵対関係にあった相手とは、今世においても敵対することが多くなります。次にパワハラを繰り返す上司の背後に魔物が潜んでいないかを疑います。上司の背後に魔物が隠れている場合には、魔物が怒りの感情を煽っていることがあります。この場合には、背後に隠れている魔物の障りを解消することで、上司の方が落ち着きを取り戻すことがあります。つまり、現実的に対処しようとしても何の対処もできない場合でも、霊障ならば対処が可能となります。そのため、一見するならば、現実社会とは無関係に思える霊障対策の方が現実の苦悩を解消する有効な手段となるのではないかと考えます。
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(o´Д`)=з 疲れた・・・
それでも、何とかやっております。
今年もギリギリかとは思いますが、間に合いそうです。
それはさておき・・・・
「霊障を解消する理由7」で他界した母のことを書きましたが、一般的に老人は愚痴や同じ話を繰り返すことが多いようです。私も人のことを言えない年齢ではありますが、意識が未来よりも過去に向いていることが原因ではないかと思います。武田邦彦先生が「若者は生きるか死ぬかだが、老人は いつ死ぬかだ。」と言われていましたが、老人にとっては残された時間は限られていることから意識が過去に向くことは仕方がないのかもしれません。
私も気付けば、中年と言う年齢でもなくなっていますので、終活ではありませんが、思い残しがないように霊障のことに関しては少しでも多く書き残して置きたいと考えています。このブログを書き始めた理由は、世の中に氾濫している荒唐無稽な話の多さに閉口していたからでした。除霊だ浄霊だと言った怪しげな文字が並ぶサイトは今も数多くありますし、霊感商法も根絶されることはないことから書き続けることができる間は書き続けたいと考えています。
さて、私の母が生きた戦前と戦後の時代について人情味のあった良い時代であったと美化する人と軍国主義と拝金主義の時代であったと批判する人に大きく分かれる気がします。個人的には、そのどちらも否定する気はありません。人情味があったと言えば聞こえは良いのですが、隣近所の嫉妬や見栄なども今よりも深刻だった気がしています。今は隣近所との関係が昔よりも希薄な気がしますので、一長一短があります。また、年功序列的な社会の弊害も知っていますが、社会秩序の崩壊した社会にも疑問を感じています。
そのため、過去を美化する気持ちも過去を否定する気もありませんが、終戦後から高度成長期の時代を考えますと、大半の人は今よりも狭い人間関係の中で生き、限られた情報を頼りに生きていた気がします。今はインターネット社会であることから政治経済の話題にしてもスポーツ芸能の話題にしても簡単に手に入ります。しかし、携帯電話すらなかった時代には、情報源と言えば、テレビ・ラジオ・新聞・週刊誌と言ったマスコミの垂れ流す情報だけに限られていました。
また、当時は女性の社会進出と言った風潮もなく、離婚した女性が安心して働ける職場は限られていたと思います。これは仮定の主婦にしても同じであり、今ならばスーパーやコンビニで店員と働くことはできますが、当時は主婦が収入を得る手段は限られ、内職仕事程度しかなかったと思います。それらのことを考えますと、終戦後から高度成長期の時代を生きた女性は、経済的な自立が困難なことから忍耐と我慢を強要されたのではないかと思われます。
この他にも当時の社会風潮としては、男は企業戦士であることを求められていた時代であり、男は仕事中心であった時代でした。私が働き始めた頃には残業未亡人との言葉がありました。これは連日の残業続きで、奥様は未亡人と同じであるとの意味ですが、朝早く出社して夜遅く帰宅することから夫婦の会話もない状態が続くことを揶揄した言葉です。実際、残業だけでなく、休日出勤があったりと仕事中心の生活が当然でした。この他にも接待の飲食や接待麻雀などを口実にして帰宅が遅くなるだけでなく、家庭を顧みない男性が多かった時代ではないかと思います。
また、嫁姑、兄嫁、小姑と言った家庭内の問題にしても男尊女卑の風潮と同じように嫁を見下す風潮が根強く残っていた時代でした。そのため、夫は仕事を口実に家庭を省みることなく、姑や兄嫁などに虐められるなど、家庭内でも孤立していたのではないかと思われます。現代ならば、気晴らしに一人で習い事やママ友と一緒に昼食を楽しむこともできますが、当時は外食すること自体が贅沢な時代であったことを考えると難しかったと思います。これらの事情を考えますと、戦前と戦後の時代を生きた母の愚痴が多いのも当然であると言えます。
ここまでが母の愚痴が多かった時代背景となりますが、もう一つだけ付け加えるとするならば、良妻賢母の理想像があるのではないかと思います。今でも昔の女性を礼賛する方の多くの語る女性は良妻賢母です。良妻賢母は、一つの理想ではありますが、良妻賢母でなくてはならないとの無言の圧力があったのではないかと思います。料理がうまく、家の中はいつも片付いている働き者のお母さんが理想であるとしても、この理想像が多くの女性を苦しめたのではないかと思います。
ここまで長々と書きましたが、この抑圧されて溜め込み続けた苦悩が生きている間は、際限のない愚痴となり、死後の世界においては怨念となるのではないかと思います。そして厄介なことに自分が嫁として虐められたのに、自分が姑の立場になると今度は自分が嫁を虐めることは少なくありません。これのことを心理学の観点で解説することは可能なのでしょうが、抑圧された怨念や亡くなられた方々の怨念の働きではないかと思います。
個人的な経験則でしかありませんが、霊障対策を継続していると愚痴が多い方であっても徐々に愚痴が少なくなり、表情が穏やかになることはあります。勿論、障りを起していると思われる同じような境遇を生きた不成仏霊の障りを解消するだけでも大変であり、本人が長年溜め続けた負の想念を解消することは簡単ではありませんが、生きている間に溜め込んだ怨念を解消することが大切ではないかと思います。
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それでも、何とかやっております。
今年もギリギリかとは思いますが、間に合いそうです。
それはさておき・・・・
「霊障を解消する理由7」で恨みの障りに関して書きましたが、話が大き過ぎて内容が中途半端になった気がしています。織田信長公の行った比叡山焼き討ちや石山合戦などの背景を解説しなければならないことは、分かってましたが、書き始めますと前置きが長くなることから結論を急ぎました。しかし、やっぱり無理があったのかなと考えています。
さて、戦国時代の宗教界を考える際に仏教書には書かれていない宗教界の事情を知る必要があります。
少し長くなりますが、中世において寺社がどのような力を持っていたかを解説している資料がありましたので、少し引用します。
強大な経済力・文化力を持つ寺社
中世の日本を動かしていた「寺社勢力」は、なぜ、それほどまでに強大になったのでしょうか?
一言で言えば、強大な「経済力」を持っていたから、と言えます。
著者の伊藤正敏氏は、次のように比叡山延暦寺の経済力の大きさについて指摘しています。
京都の経済は叡山なしには成り立たない。米は叡山領荘園の多い越前・加賀、さらには膝元の近江から来る。それを運ぶ琵琶湖の船運は叡山に握られている。その米を京に運び入れる運送業者もまた、叡山の支配下にある大津・坂本の馬借だ。
中略
ところで、中世の経済と言えば、酒屋や土倉以外にも「座」が有名ですよね。室町時代に一般的になる土倉や酒屋といった「高利貸し業者」が金融を動かしていましたが、その前から存在していたのが「座」でした。どんな「座」がありましたっけ。
そう、石清水八幡宮を本所とする離宮八幡宮油座や祇園社を本所とする綿座、北野社を本所とする麹座などが教科書に出てきます。これらの「座」は本所が寺社となっています。「座」に入っていなければ、生産も流通も販売もできない状態でした。もし、座に入っていない者が販売しようものなら、「暴力集団」がやってきて商売ができないようにされてしまいました。一方、「座」に入っている者は「座役」を収めることで、商売ができる特権を与えられ、保護されていたのでした。
なお、伊藤正敏氏によれば、寺社勢力は荘園領主とはまた別の、「領主としての顔」を持っていたといいます。例えば、高野山は領内の武士を軍事力として動員しました。軍忠状と感状が交換され、それが荘官が役職を保持する根拠になったのです。
これって、御恩と奉公の関係ですよね。高野山は中世を通じて、領内武士に対し、一貫して主従制の「主」であり続けたのです。親分」が高野山、「子分」が領内の武士というわけです。主従制は武家社会だけの専売特許ではなく、中世社会を貫く規範だった、と言えるんですね。
元記事 京都市教育委員会
第 9 回 『寺社勢力の中世』 〜無縁・有縁・移民〜 伊藤正敏、ちくま新書、2008年 (中) こちらから
引用した内容をお読みいただければ、分かると思いますが、寺社と言っても中世においては現代とは社会的な役目が全くことなっていたと言えます。つまり人々にとって精神的な柱である以上に巨大な経済利権を持つ存在であり、今ならば主要な産業や金融を傘下に持つ巨大財閥とも言うべき存在でした。そして寺社勢力は自分たちの権益を守るために兵力を抱えていましたので、戦国大名以上の実力を持つ領主とも言える側面がありました。これは比叡山に限られた話ではなく、どの宗旨のお寺も同じような状態であってと思われます。
参考サイト 戦国ヒストリー 巨大集金マシンと化した中世の比叡山延暦寺 こちらから
また、当時の寺社は自衛のために武装するのが、当然であったことを忘れてはならないと思いますが、先の引用サイトにそのことの解説がありましたので、引用します。
さて、織田信長が比叡山延暦寺を攻めて多くの僧侶を殺し、堂塔を焼き尽くしたという話は有名ですよね。そして、「信長は恐ろしい男だ」と結論づけられる場合が多いです。
でも、前提が現在とは違うと思うのです。現在の僧侶はもとより、江戸時代の僧侶も「丸腰」で武器などを持ち歩きません。でも、中世の比叡山などの僧侶は「武装」していましたよね。武装している勢力に「武装解除」を迫ったのが織田信長でした。しかし、信長の命令に比叡山は従いませんでした。だから、信長は比叡山を攻めたのですね。それに対して、当然、比叡山の山法師たちは抵抗しますが、多勢に無勢、敗れ去ってしまいました。興福寺の場合は、比叡山延暦寺の様子を見て武装解除しましたから、被害はありませんでした。
引用した記事にもありますが、中世の僧侶は武装していました。これは、一向一揆でも同じであり、石山合戦においても実際に戦闘の中心は農民ではなく、武士でした。
石山合戦
交戦勢力
本願寺 雑賀衆・ 毛利水軍・村上水軍
織田氏 織田水軍・三好氏
指導者・指揮官
本願寺 顕如・下間頼廉・ 鈴木重秀・ 乃美宗勝・村上武吉
織田氏 織田信長・九鬼嘉隆
Wikipediaより
Wikipediaから交戦勢力を引用しましたが、石山合戦は織田家と反織田家の勢力連合軍の戦いと言うべきであり、単純に信長公が寺社を攻めたと考えるべきではありません。これは長島一向一揆でも変わらず、当時の長島は本願寺勢力が強大な力を持ち、自治領となってました。当然のことながら地元の武装勢力である国人も支配下にいれていましたので、実体は戦国大名に近い存在であっただけでなく、北伊勢の小豪族も一部が織田家に反旗を翻し一揆に加担しています。
つまり信長公にしてみれば、比叡山焼き討ちや石山合戦なとの合戦は、天下統一の妨げとなる武装勢力の駆逐が目的であり、他の戦国大名との合戦と同じであったのではないかと思われます。そのため、信長公の家臣も同じ気持ちであり、寺社を相手に戦っているとの意識も希薄であったのではないかと思います。その意味では、信長公の行為が残虐非道な行為であったとまでは言えないと思います。蛇足ながら信長公に討伐された比叡山延暦寺の僧兵は、同じ天台宗の流れを組む園城寺(三井寺)との仲が悪く、何度も焼き討ちにしています。
ここまでが、信長公の比叡山焼き討ちや石山合戦などの背景の事情となりますが、信長公の行ったことは当然の行為であったとしても織田家に対する恨みが消えるわけではありません。合戦で亡くなられた方が非常に多いだけでなく、僧侶や熱心な信者など生前に念が非常に強かったと思われる人々の集団であることから恨みの念も強烈となります。その憎悪は、当然のことながら信長公の家臣にも向かいますので、過去世において織田家の家臣であった方は、これらの障りに悩まされることになります。
この障りが厄介なことは、恨みを抱く相手が僧侶や熱心な信者などであることです。当時は幼い頃から出家することが多かったと思われますので、現代の僧侶よりも厳しい修行を積まれています。また、同じ信者であっても信仰を守るために戦った方も少なくないと思われますので、少々の功徳を積んでも焼け石に水となります。そのため、巷の霊能者が太刀打ちできるような相手ではないことから障りの解消に苦労することになります。
星
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そこで気晴らしの意味でブログを書くことにしました。
え・・・何か問題でも?
いいんです。このブログは開設当初から管理人の気分次第のブログです。
( ̄^ ̄)えっへん
それはさておき・・・・
鳥山 明氏が他界されました。心からご冥福をお祈り申し上げます。個人的には、敬愛する数少ない漫画の一人でした。
私が子供の頃には、PTAなどから漫画は目の敵にされ、子供にとって有害図書扱いされていた記憶があります。何分にも鉄人二十八号や鉄腕アトムを見て育った世代であり、手塚治虫氏や石ノ森 章太郎氏が活躍されていた時代でした。そんな世代ですので、漫画に抵抗感は全くありませんが、最近では滅多に漫画を読むことはなりました。以前は、喫茶店なとで漫画雑誌を手することはありましたが、読むのは数冊の本を手にしても一作品程度でした。このような書き方をすると漫画家に失礼なことは承知していますが、最近の漫画家は基礎的なデッサンすらまともにできていないのが当たり前であり、多少なりとも絵画を勉強した人間としては、デッサンや構図などが気になって見る気になれません。
別に専門学校で学んではいませんが、大学時代に入部していた美術部が何故か、運動部並の厳しい倶楽部でした。そのため、デッサンも基礎から叩き込まれました。そのため、先輩の中にはプロとして活躍されている方やプロ級の腕を持つ先輩も何人か揃っていました。そんな環境で絵を描いていましたので、いつしか絵を見る目だけは身に着けてました。これは悪いことではなく、絵を見れば作者の意図や狙いなども分かりることも多く、人に解説することもあります。しかし、これはある意味不幸でもあります。
その理由が、漫画を見てもデッサンや構図などが気になって見る気にないことです。デッサンの狂いや構図は我慢することもできるのですが、表現力のなさは致命的です。絵を描いていた仲間と話す際に「線が生きている」「線が死んでいる」と言った表現をすることがあります。その言い方をするならば、今の漫画家の描く線の大半は死んでいます。生きている線を描ける漫画家は数少なく、その数少ない漫画家の一人が鳥山 明氏でした。
では、「線が生きている」「線が死んでいる」とは何かと言えば、表現力です。画家はスケッチの際に鉛筆やコンテなとを使用しますが、上手い画家は鉛筆やコンテで葉の軽さ、レンガや石の重さ、川の流れ、空の広がりなどを全て描き分けます。同じ線であっても柔らかさ、固さを描き分けなければなりません。それは動きでも同じです。歩いている人は、歩いている人の動きを感じさせることが必要であり、川は水の流れを感じさせることが必要になります。それらが表現されているならば、「線が生きている」と言われ、それらの表現ができていなければ、「線が死んでいる」と言われました。
勿論、初心者にそんな芸当ができるはずもありませんが、練習を重ねていると少しずつではありますが、可能となります。そしてその極地が巨匠と呼ばれている方の素描です。ダビンチの素描は、写真で見てもその凄さは分かります。一本の線でどうしてここまで表現できるのかと溜息しかでません。質感や動き、空間どころか、人物の内面まで描かれていることには言葉がありません。もう神業の領域です。勿論、これは極端な例ですが、鉛筆だけで光の強弱や風の動きまでも表現する画家は数多くいます。
私も絵を描いていた頃には、そんな表現ができるようになりたいと願っていましたが、働きながら絵を描き続けることの限界を感じて25歳で筆を折りました。その後は鉛筆画を描くことはありましたが、20年以上前から絵を描くことはなくなりました。それでも絵を見るポイントのような感覚だけは覚えています。覚えていると言うよりも身についていると言うべきかもしれません。それは漫画でも同じであり、漫画を読んでいても絵が気になります。そのため、私が安心して読める漫画家で名前を憶えているのは、亡くなられた方を別にすれば、「あだち充」「高橋 留美子」「黒鉄ヒロシ」だけです。他にも何人かはいますが、殆ど漫画を読まないことから名前を記憶していません。
これはアニメでも同じです。以前から宮崎駿氏の作品が好きになれなかったのですが、宮崎駿氏のドキュメンタリー番組の中で作品を制作する際に意図的に遠近法を無視しているとの話があり、自分の感じていた違和感の理由が分かりました。一般の方ならば、気にならないレベルであり、効果的な手法なのかもしれませんが、私には違和感しかありません。何とも言えない居心地の悪さのような物を感じます。そのため、見る気が失せると言った感覚に陥ります。
これはある意味不幸なのかとも思います。一般の方が名作と褒めたたえている漫画の大半が、私には見る気になれない漫画でしかないことから内容を全く知りません。絵が上手いとされている漫画家の絵が、私には柄にしか見えません。漫画家に画家としての技量を求める気はなく、漫画に芸術性を求める気持ちはありませんが、激しい動きが描いてあっても静止画に見えますし、風景は平坦にしか見えません。人物はデッサンの狂いが気になり、気が向くと何処の部分のデッサンが狂っているのかの間違い探しをすることもあります。これは別に難しいことではなく、肩や首、腰などの位置関係を調べるだけのことです。
それでも漫画ならば見なければ良いだけの話なのですが、これが霊感となると話は変わります。若い頃から霊障に悩まされていましたので、見えない世界の存在に影響されないように訓練はしていますが、それでも完全に遮断はできません。特に相手が大物の魔物ともなりますと、こちらが無視しようとしても影響は受けます。YouTubeの動画でも大物の魔物の影響下にあると思われる人の話は、気聞いていても話の内容が入らなくなります。これはデッサンの下手な漫画を見ているのと同じ状態となります。
動画を視聴していてもこの状態ですので、深刻な霊障の方と話をするとこれが更に酷くなります。相手の霊障が余りにも深刻ですと、話が頭に入らなくなります。そして相手の方の背後に隠れている魔物に意識が向いてしまいます。別に相手の方を無視する気持ちはないのですが、無意識に背後に隠れている魔物の意識を探っていることが少なくありません。しかし、一般の方には、そんな事情が分かるはずもないことから相手は自分が無視されていると思われるようです。
一般の方からするならば、一般の人間には分からないことが分ることは、優れた特技や才能と思われるかもしれませんが、分かることが良いとは限りません。分からない方が素直に楽しめることも少なくありません。特に霊感や霊能力は、生活全般に影響しますので、通常の社会生活をしていますと負担になることが少なくありません。その意味では、霊能力がなかったならば、どんな人生を生きていたのかと考えることがあります。
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私も個人事業主ですので、確定申告をしなければなりません。そのため、暫くは投稿を休む日が多くなるかもしれません。
記事を書く時間はなくても多少の時間があれば、ご神霊のお言葉を投稿させていただきます。
確定申告が終わりましたならば、通常に戻ります。
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さて、今回は迷っている不成仏霊ではなく、怨念や憎悪を持つ不成仏霊の集団について書くことにします。障りを起している不成仏霊には大きく分けて供養を求めていることを現世に生きる人間に知らせるために障りを起している不成仏霊と恨みを晴らすことを目的として障りを起している不成仏霊に分けることができます。供養を求めている不成仏霊は、現世に生きる人間が供養を継続することが分れば、障りは軽減することが多いのですが、現世に生きる人間に恨みを抱いている不成仏霊の場合には、供養をしても障りが軽減しないことが珍しくありません。
これは現世に生きる人間に恨みを抱いている不成仏霊が求めているのは、供養ではなく復讐であることが理由ですので、供養しても障りの解消は期待できません。それでも個人的な恨みの場合には、供養することで多少は障りの軽減は期待できますが、集団の恨みとなると障りの解消は難しくなります。特に僧侶や神職、熱心な信者の集団が一番厄介です。具体的には、一向一揆の恨み、比叡山焼き討ちの恨み、南都焼き討ちなどとなります。
一向一揆の恨みには、石山合戦、長島一向一揆、加賀一向一揆、越前一向一揆、三河一向一揆などがあります。また、比叡山の焼き討ちは有名ですが、琵琶湖東岸にあった天台宗のお寺の多くも焼き討ちされ、廃寺になったり、大幅に縮小したりしているお寺があることは余り知られていないのではないかと思います。この他にも室町末期、織田信長公と豊臣秀吉公による紀州征伐の根来衆の恨み、隠れキリシタンの弾圧の恨みなど日本でも宗教戦争とも言える争いは幾つかあります。
関係者を整理すますと下記のようになります。
織田信長公 石山合戦、長島一向一揆、加賀一向一揆、越前一向一揆、比叡山焼き討ち、紀州征伐・根来衆(根来寺)
上杉謙信公 加賀一向一揆
朝倉氏 加賀一向一揆
豊臣秀吉公 紀州征伐・根来衆(根来寺)
徳川家康公 三河一向一揆、隠れキリシタン
平家 南都焼き討ち 東大寺・興福寺など
織田信長公は、一大勢力であった本願寺勢力と戦っただけでなく、天台宗と真言宗とも戦っていますので、僧侶から激しく恨まれているとしても不思議ではありません。過去に何人かのお客様が織田信長公の家臣の過去世でしたが、いずれも本願寺勢力や天台宗の勢力から恨まれていました。先日も織田信長公の家臣の過去世であった方ことが分った方とお話をしていところ、昔から琵琶湖東岸の地域が好きになれないと言っておられました。恐らくは過去世で琵琶湖東岸のお寺の焼き討ちに参加されたのではないかと思います。
蛇足ながら基本的に対面での鑑定はしておらず、メールでのやり取りが中心ですが、例外は知り合いからの依頼された場合です。対面での鑑定はしませんが、お会いした際に鑑定結果の解説をすることはあります。何分にも霊障鑑定は、不成仏霊の惑わしが激しことから仕事などの鑑定のように、その場で鑑定してお答えすることが難しいだけでなく、過去世の障りなどの場合には、鑑定結果と歴史的な事実が符合するかなどを調べる必要があります。また、対策となる神社仏閣の選定のための下調べの時間が必要となることから対面での霊障鑑定はしていません。
話を戻しますと、生きている人間からするならば、自分の過去世と言っても記憶もないことであるだけでなく、何百年も前の恨みと言われても何の実感もない話ではないかと思う方が大半ではないかと思います。しかし、恨みを抱く心霊は恨みを抱き続けるようです。例えば、霊障鑑定をしていますと古墳時代の障りが見つかることがあります。古墳時代は、3世紀から7世紀頃でかので、どれだけ執念深いのかと思いますが、これまでに古墳時代の障りは数多く見つかりました。正直な気持ちとしては、どれだけ障りを解消すれば、古墳時代の恨みは解消するのかと途方に暮れています。
しかし、恨みを抱き続けるのは、心霊世界に限られた話ではなく、現世においても珍しくないのではないかと思います。私の他界した母は、愚痴の多い人間でした。そのため、気晴らしにと花の名所に何度か出掛けて帰りに食事をしたことがありました。流石に出掛けている間は、愚痴を言わないのですが、帰りの車の中ではいつもの状態に戻りました。そこで気分良く過ごした帰りにまで愚痴を言うなと母に怒ったことが何度もありました。恐らく母の心の中は、解消されることのない不平不満が鬱積していたりのではないかと思います。
母の葬儀の際に叔母が女学生であった時代の話をしていましたが、登下校の際に近所の大学生と出会ったことから立ち話をしただけで不良扱いされたと話されていました。勿論、これは戦前の話ではありますが、母が生きた時代は抑圧と忍耐の人生であったのではないかと思います。しかし、抑圧と忍耐は何もは母の時代に限られた話ではなく、私が働き始めた頃もパワハラやセクハラが蔓延していた時代であり、職場でのいじめは日常茶飯事でした。売り上げ至上主義の会社で売り上げが低迷するならば、上司から罵声の荒しとなるだけでなく、給料泥棒扱いされました。
いじめに耐えられず辞職する社員は多く、同期で入社した新入社員の多くが退社しました。最初のボーナスが支給された後に半分が退社、冬のボーナスが支給されると更に半分が退社とボーナスが支給される毎(ごと)に同期に入社した社員が半減しました。二十数人の同期がいましたが、四年後には4人程度に減少していました。今ならばブラック企業と言われると思いますが、当時はそんな会社が珍しくありませんでした。
しかし、配置転換で本社に移動したことで、部下に罵声を浴びせていた上司が本社での営業会議で役員から責められていることや部長クラスの方の大半が不眠症に悩んでいることを知りました。上司の罵声は、個人の責任ではなく、会社の企業体質に原因があることを知りました。当時は売り上げ至上主義の風潮が蔓延していた時代であり、企業戦士と言った言葉があった時代でしたので、それが当たり前と考えられていたのではないかと思います。
僅か40年前、50年前ですらこの状態でしたので、江戸時代以前ならば、もっと過酷な扱いが多かったのではないかと思われます。そのため、虐げられた人々が深い恨みを持つのも当然かと思いますが、問題は虐げていた人間が何の罪の意識もなく、人々を虐げていたことではないかと思います。私が勤めていた会社の上司も部下を怒鳴り散らしていましたが、恐らくは罪の意識などなかったと思います。
そのことは、織田信長公も同じではないかと思います。当時の社会情勢を考えるならば、本願寺や延暦寺は戦国大名並の兵力を持ち、数々の権益を持っていましたので、天下統一の妨げとなっていました。そのため、合戦となったことを考えるならば、織田信長公が極悪非道なことを行ったとは思いませんが、戦乱の中で亡くなった人々の恨みは激しいと思われます。そんな人々の恨みは生まれ変わっても消えることなく、障りとなります。
過去世の因縁と言ってしまえば、それまでの話かもしれませんが、何故か人から嫌われると感じている方や理由もなく人から虐められていると思われる方は、過去世で誰かに恨まれているのではないかと疑う必要があります。
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そんなことを考えていたところ、ヒッピー文化を思い出しました。
1960年代後半にアメリカのヴェトナム反戦運動や公民権運動を中心とする反体制運動から生まれた、「ラブ&ピース」を提唱し自然回帰を目指す若者の総称およびそのムーヴメント。語源については諸説あり定かではない。60年代後半は、フランスでは学生を中心とした五月革命が起こり、日本でも学園紛争が多発するなど、既存の政治や文化といった価値観にアンチテーゼを唱える機運が若い世代を中心に世界的に高まっていた。
Artwords(アートワード)より 元記事
何分にも子供の頃の記憶のため、ヒッピー文化と言っても詳しいことは分かりませんでしたが、「ラブ&ピース」がやたらと流行していたことを記憶しています。少し検索してみましたが、今でもヒッピー文化を擁護している人は少なくないようですが、個人的には余り良い印象はありません。日本でもアメリカの影響を受けて何となく時代の潮流のような雰囲気があったことを覚えていますが、「皆で手を繋いで一緒に歌えば、世界は平和になる」と言っていた程度のことしか覚えていません。
今の若い方は、ヒッピーと言っても知らない方も多いかと思いますが、自然回帰の提唱、既存の政治や文化といった価値観にアンチテーゼなど今の左翼運動の源流ではないかとも思います。自然回帰の提唱、既存の政治や文化といった価値観にアンチテーゼの価値を否定する気はありませんが、フリーセックスや大麻などの薬物乱用など負の側面も小さくなかったと思います。また、思想的にも禅などの東洋思想を持ち上げていましたが、表面的な理解であり、「皆で手を繋いで一緒に歌えば、世界は平和になる」と言った安直な運動であった印象があります。
歌うことで世の中が平和になるはずもないのですが、当時はそんな風潮がありました。その背景には、冷戦構造・人種部問題などの様々な社会問題があり、時代の閉そく感とも言うべき社会情勢であったと思います。これは日本でも同じであり、日本で多発した学生運動にしても背景には高度成長期の貧富の差の拡大や経済至上主義などに対する反発があったと思われますが、現実を無視して理想ばかりを声高に叫んでいることに関しては同じではないかと思います。
このことは精神世界でも同じではないかと思います。戦前には曲がりなりにも存在していた日本人としての精神性が敗戦によって無秩序となりましたが、人々の精神的な柱となるべき宗教界には、人々の苦悩に答える力はなく、多くの人が新興宗教に救いを求めました。これはいつの時代も同じであり、時代の混乱期には新興宗教が拡大します。しかし、大半の新興宗教は一時的に急成長しても尻すぼみとなります。
では、どうして大半の新興宗教が一時的に急成長しても尻すぼみとなるのかと言えば、教えを実践しても救われないからではないかと思います。浄土宗や浄土真宗、日蓮宗などの宗旨は、いずれも教えが説かれた当時には新興宗教でしたが、今でも教えが残っているのは、それだけ多くの人の心をつかんで離さない教えであると言えるのではないかと思います。しかし、そんな教えであっても長い歴史の中で力を失い、人々の苦悩を救うだけの活力を失っていることから人々の支持を失ったと言えます。
仏教にしても神道にしても心霊世界の存在を前提にした教えであったはずなですが、現代ではお寺で障りについて相談することすらできない雰囲気があります。これでは人々の苦悩を救えるはずもなく、多くの人が新興宗教や霊能者を頼ることになるのも当然の話となります。しかし、その新興宗教や霊能者はどうかと言えば、胡散臭さ満載と言ったところです。それはヒッピー文化に似ています。建前は立派でも教えは色々な教えの継ぎ接ぎだらけであったり、荒唐無稽とも言える内容であったりします。
そして忘れてはならないのが、素朴な唯物論者です。死後の世界や神仏の存在を否定することが科学的と考えているのかもしれませんが、いつ科学で死後の世界や神仏の存在が否定されたのでしょうか。現代科学で分かっていることは、僅かなことであり、分かっていないことの方が遥かに多いことをご存じないのかと思います。武田邦彦氏は、科学者は分からないことがあるから研究するのであって、全て分かっているならば、研究する必要はないと言われています。そのことは心霊世界でも同じです。知れば知るほど新たな謎が生まれます。
そんな奇々怪々な心霊世界ではありますが、仏教や神道は先人たちが心霊世界について探求した長い歴史があることから無視することはできないと思います。そのため、伝統的な宗教は、人々の苦悩を救う力が衰えているとしても仏教や神道に救いを求める
べきであり、新興宗教や霊能者には頼るべきではないと考えています。新興宗教や霊能者の説く救いに関しては、ヒッピー文化と同じであり、仇花(あだばな)ではないかと思います。
個人的には、霊能力や心霊世界の知識に大きな意味などないと考えています。大切なことは仏教ならば悟りであり、神道ならば神を敬う心でしょうか。いずれにしても人生の苦悩を解消して穏やかな心で生きることが大切だと考えています。しかし、それは簡単そうでいて簡単には手に入らないことですが、多くの人は簡単な方法を求めます。そして「皆で手を繋いで一緒に歌えば、世界は平和になる」と言った教えを有難がる方が多いことから警告で気の重くなるような話ばかりを書いています。
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恐らくは生前に長年虐げられて生きた人々であり、反抗する意欲すら奪われた人々ではないかと考えています。これは個人的な印象であり、何の根拠もない話ではありますが、大きくはずれてはいないのではないかと思います。ここまでの闇となりますと、障りを回使用するのは容易ではなくなります。それは大量の難民を救済するのに似ています。戦乱などを逃れた大規模な難民キャンプの映像をご覧になったことのある方も多いのではないかと思いますが、死後の世界で同じことが起きていると考えるならば、分かり易いのではないかと思います。
現実の世界では、大量の難民が押し寄せるならば、嫌でも分かりますが、見えない世界では、何が起きているのかが分かりません。また、これらの不成仏霊たちは、無気力の極地にあることから自分たちから何かを伝えようともしません。しかし、それは何も障りを起していないことを意味していません。無気力の極地にあるような不成仏霊が大量に押し寄せるならば、確実に霊域が悪化するだけでなく、現世に生きる人間に様々な悪影響を及ぼします。
まず最初に書かなければならないことは、家の中が何とも言えない陰気な雰囲気となります。内装や照明は明るいのに何となく、薄暗い雰囲気となります。次に家に帰ると気分が塞ぎ込むようになったり、落ち着かない気分になります。そして何度も書いていますが、思考能力の低下、集中力も低下して作業効率が低下します。そのことが判断ミスの増加の原因となり、雑用が増加します。そして生気が奪われ、慢性的に疲労感を覚えるようなります。
過去に何人もの重度の霊障に悩まれている方からのご相談を受けましたが、大半の方は慢性的な疲労感を抱え、充分な睡眠を確保していても身体が重いと嘆かれていました。そのため、何をするにしても意欲が起こらず、怠惰な生活となってしまう方が多いようです。これが更に深刻となりますと、難病や奇病を発病されることが多くなり、事態はさらに悪化することが少なくありません。ここまで状況が悪化しないとしても、鬱病などの病気になることは多いようです。
これに収入の低下などの経済的な困窮が加わりますと、状況は更に悪化して霊障の立て直しが困難となります。霊障が初期の段階や霊障が悪化していても経済的なゆとりが多少なりともあれば、霊障の解消は大変でも打つ手はありますが、経済的な困窮している状況となりますと、ご相談を受けても打つ手が限られます。特に日々の生活費にも困窮するような状態の場合には、神社仏閣に参拝するにも交通費は費用となることから非常に厳しいに陥ります。
実は、この絶望的な状況の中で生きなければならなかった方々が死後の世界で迷っているのが、冒頭でご紹介した無気力な不成仏霊の集団であり、底なし沼のような漆黒の闇の中で光る眼だけが見える集合念です。恐らくは生前に極貧の生活を強いられ、生きることだけで精一杯であった人々ではないかと思われますが、余りにも闇が深いことから生前の意識や生活などを探ることすら困難でしたが、対策を模索している過程で生前の苦悩が推測されました。
彼らに悪意はないとしても彼らの生み出す力は、現世に生きる者たちを彼らの生前と同じような環境に陥れます。そのため、霊障対策をしなければ、待っているのは彼らと同じような生活です。このような絶望しかない不成仏霊の障りを受ける理由は、色々あります。ご先祖が多くの人から恨まれていた場合やご先祖が使用人に対して過酷な労働していた場合など、この他に新興宗教や拝み屋、霊能者を頼ったことで障りを受けることもあります。いずれにしても気持ちの持ち方や自分の考え方を変えることで解消することは、非常に難しい障りです。
星
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r(-◎_◎-) 考え中
しかし、ブログを書くことが仕事はありませんので・・・・
オリャー!! (ノ`A´)ノ ⌒┫ ┻ ┣ ┳ ウマイウマ
いつものちゃぶ台返し
やはり、気の向くままに書くことにします。
それはさておき・・・・・
前回は、強い劣等感が霊障の根底にある感情である事例を書きましたが、今回は同じ強い劣等感が隠れていても前回の事例とは、異なるタイプについて書きます。前回の事例は、強い劣等感が強い猜疑心となり、狭い世界の人間関係だけの世界で生きることは同じでも、これに無気力が加わることがあります。私の父の場合には、嫌になる程の悲観的な考え方や自己中心的な考え方をする人間でしたが、これとは別に変に楽観的であったりするタイプの方もいました。
悲観的であるよりは、楽観的な考え方の方が良い印象がありますが、心の根底に強い劣等感がある場合には、楽観的な考えと言っても現実逃避の傾向が強くなるのではないかとの印象を持ちました。周囲の人間としては、いつも憂鬱な顔をされて愚痴を聞かされるよりは、楽観的な言葉を聞いていた方が気は楽なのですが、「何とかなる」「暗い顔をしていても仕方がない」だけでは何ともならないことは少なくありません。こちらとしては何をどうするのかと言った具体的な話を聞きたいのですが、いつも答えはなく、問題から逃げるばかりでは頼りになりません。
心理学を勉強された方ならば、もう少し詳しく分析することは可能かと思いますが、心霊世界の観点から見たならば、悲観的な考え方にとらわれるか、楽観的な態度を装って問題から逃避するかの違いはあっても、大差はありません。どちらも膨大な数の不成仏霊に支配されていることは同じです。違いは、悲観的な考え方から抜け出せなくなっている不成仏霊が集まっているか、無気力で自分の保身だけしか考えられなくなっている不成仏霊が集まっているかの違いだけです。
悲観的な考えを持つならば、悲観的な考えを持つ不成仏霊が集まり、無気力な考え方を持つならば、無気力な考えを持つ不成仏霊が集まります。そのため、自分の考え方を改めるならば、不成仏霊も集まらなくなると言えますが、これが可能なのは、霊障の初期の段階です。幼少期から不成仏霊の影響を受け続け、人格の一部になってしまっている場合には、自分の考え方を改めようと努力されても考え方を変えることは至難の業なります。
今回の「霊障を解消することの意味」でも書きましたが、不成仏霊の影響を受けると思考能力が低下します。自分では考えているつもりでも思考能力が低下しているだけでなく、注意力も散漫となることから考えがまとまらず、不注意となります。そして不成仏霊は、本人が考え方を変えさせないように妨害をします。不成仏霊としては、現世に生きる人間が明るく前向きな考え方をするならば、自分たちの居場所を失うことになりますので、激しく妨害します。
これは麻薬患者が麻薬を止めるのと同じではないかと思います。悲観的な考えを持つ方は、悲観的な考えを持つことに安住する傾向があります。つまり居心地の良さを感じていると言えます。本人にとっては、明るく前向きな考えを持つことは不安であり、居心地の悪さを感じることから強い決意が必要となりますが、その決意を揺さぶるのが不成仏霊です。不成仏霊が感情を揺さぶることで現世に生きる人間を支配するのは、彼らの常套手段です。
しかし、現世に生きている人間は、不成仏霊が感情を揺さぶられているとは考えないことから自分の意思が弱いと考えるか、自分には能力がないと考えます。また、自分の意思が弱いのではなく、周囲が悪いと責任転嫁するとも少なくありません。いずれにしても不成仏霊に翻弄されているとは考えません。そのため、何度も挫折を繰り返すことになり、挫折を繰り返すことで負の想念は、強化され、不成仏霊の支配は強化されることになります。
この負のループから抜け出す方法が霊障の解消です。霊障を解消することで不成仏霊の影響が低下するならば、悲観的な考えにとらわれることが少しずつではあっても低下します。霊障の原因は、数多くあるだけでなく、簡単には解消しないことも数多くありますが、それでも気合と根性で自分の考え方を変えようとするよりも効率的ではないかと思います。
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父は、周囲からは生真面目と思われていたようですが、私からするならば、小心者でした。小心者であることが周囲からすると生真面目との印象を与えていたのではないかと思います。また、小心者であるためか、陰気な性格でもありました。自分の思う通りにならないことがあれば、愚痴が多かった気がします。特に酷かったのが、当時主要な得意先を失った際にこの世の終わりのような狼狽をしていたことから出入り業者から廃業されるのですかとの質問を受けた程の酷さでした。
そんな父の性格の成り立ちを考えますと、父の心の根底にあったのは、強い劣等感ではなかったかと思います。学校の成績は比較的優秀であったようであり、水泳が得意であったと話していたことから運動能力も悪くはなかったと思いますが、祖父母は俗に言う毒親であり、機能不全の家庭環境であったことから両親の愛情に恵まれずに育ったと思われます。しかし、私が物心ついた頃には既に祖父は他界しており、祖母のことも余り覚えていませんので、詳しいことは分かりません。
私の父の性格を考えますと強い劣等感が根底にあり、この劣等感を中心にして性格が成り立っているのではないかと考えました。劣等感が強いことから自己肯定感を持つことができず、小心者となっただけでなく、劣等感が強いことから人との交わりが苦手となったと思われます。常識的に考えるならば、学校の成績は比較的優秀であり、運動能力も悪くはなかったならば、自分に自信を持っても不思議ではないのですが、閉鎖的な考え方の人間でした。
父が閉鎖的な考えになった理由を考えますと、やはり霊障の影響が強いのではないかと思います。今から考えますと父は深刻な霊障でした。父の霊障に関しては、生前から酷いことは分かっていましたが、当時は霊障をどうしたら解消できるのかも分かっていなかったことから色々と試行錯誤を続けていましたが、何をしても父の霊障が改善することはなく、当時の私にはお手上げの状態でした。
その原因を考えますと、父の性格の根底にあった強い劣等感であったのではないかと思われます。恐らくは両親から充分な愛情を得られなかったことが健全な自我を持てなかった理由ではないかと思われますが、幼少期から強い劣等感があったとするならば、新婚な霊障の原因となった可能性は、高いのではないかと思われます。過去の事例では、強い劣等感は不成仏霊を集めやすい傾向があります。これは何分にも経験則からの推測となりますが、強い負の想念が不成仏霊を呼び寄せます。
また、もう一つの原因として、父の実家が非常に霊域の悪い家であったことも大きいと思われます。後になって分かったことですが、父方の家系は曽祖父の代でかなり恨まれたらしく、深刻な霊障に悩まされていたことから、幼少期から霊障を受け易い環境であったと思われます。このことが深刻な霊障の原因と思われますが、深刻な霊障に陥っている方の大半は、先天的な要因と後天的な要因が重なって深刻な霊障になるようです。
いずれにしても幼少期から霊域の悪い環境の中で過ごした場合には、不成仏霊の影響が本人の性格にも影響を与えていることが多く、本人の考え方を変えようとても容易ではありません。その理由を本人の意思の弱さや自信のなさに求める方が多いのですが、心霊世界の観点から考えますと、膨大な数の不成仏霊に押し潰されいると言えます。そのため、本人が自分を変えようとの強い意思を持ったとしても簡単に潰されることになります。
これはどんな霊障においても共通している話と言えますが、膨大な数の不成仏霊を背負ったままでは、本人が変わろうとしても変わることが難しくなります。また、通常は膨大な数の不成仏霊を背負った状態では、本人が自分で変わろうとする気持ちになるだけでも大変です。大半の場合には、卑屈な性格となり、何を言っても悪く受け取るなど、猜疑心が強い性格となることが少なくないと思います。そして更に厄介なのが自分の狭い世界だけでしか考えないことです。
これらの問題を現実的な対策で解消することは、殆ど不可能ではないかと思います。しかし、そんな人間であっても霊障を解消することで少しずつ性格が変わることが多いようです。勿論、深刻な霊障を解消することは簡単ではなく、長い歳月と少なくない経済的な負担もありますが、それでも現実的な対策で性格を変えようとするよりも遥かに効率が良いと思います。父が存命の頃には、何とか説得しようと努力していましたが、もっと早い時期から霊障対策に取り組んでいたならば、父の人生も少しは変わったのではないかと思います。
星
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(^ー^ )ゞポリポリ
どうしても時間に追われていますので、投稿を休む日があるかと思いますが・・・
そんなときはお許しください。
それはさておき・・・・・
前回は、不成仏霊に支配された場合を書きましたが、私の他界した父は不成仏霊に心を支配され、猜疑心が強くなった典型的な事例でした。大人しく真面目な人間ではあったことから余り悪い評判は聞かなかったのですが、人の話を聞く気持ちがなく、自分の思い込みと偏見だけでしか考えることができないのではないかと思ったことが何度もありました。「石橋を叩いて渡る」とのことわざがありますが、「石橋を叩いて渡る」ような慎重なのであるならば、救われるのてすが、思い込みが激し過ぎて人の話を全く聞く気がありませんでした。
そのため、「石橋を叩いて渡る」のではなく、石橋を叩き壊して納得しているのではないかと思うことがありました。父の仕事の知識は1960年代頃で止まっているのではないかと思うことがありました。当然のことながら時代は変わりますので、業界の常識も変化しますが、父の頭の中にある常識は、1960年代頃の常識のため、そんな古い常識は通用するはずもなく、お客様を怒らせることが何度かありました。
その際に父は自分が間違っていると考えることはなく、お客様を怒らしても平然としていました。父にはそんな昔の常識は今では通用しないことを何度言っても聞く耳を持たず、古い商習慣を頑なに守り抜きました。また、商習慣だけでなく、技術も進歩しているのに古い知識のままで止まっていました。その結果、何が起きるかと言えば、目の前の現実よりも自分の頭の中を優先することになります。
例えば、見積もりの際に父の常識が通用しないと何度言っても○○は、××でなければならないと言い張ります。仕方なく父の言う通りの見積もりを持参すると、お客様からは、どうしてこんなに高いのかと、言われることになります。こちらとしては、苦労して見積もりに参加したのに、全ての苦労は水の泡となりますが、父にとってはそんなことはどうでも良い話のようでした。つまり、父にとっては、目の前の現実よりも自分の頭の中にある現実の方が大切であり、両者が異なるならば、目の前の現実を否定しました。
私からするならば、こんな話は二度と来ないと思えるような話でも、父にとって大切なことは、自分の頭の中にある常識であり、現実と言う名前の石橋を叩き壊さなければ、納得できなかったのではないかと思います。しかし、これは私の父に限られた話ではなく、現実よりも自分の考える常識を優先する方は、世の中に多いようです。
その典型がカルトではないかと思います。カルトには宗教カル、政治カルト、経済カルトなどがありますが、いずれも独善的な考えに陥っているだけでなく、思考停止していることは同じです。この思考停止は、霊障の影響ではないかと疑っています。過去の経験では、余り言われていませんが、霊障の代表的な症状の一つが思考能力の低下だと考えています、これは気付きにくい霊障ではありますが、不成仏霊の影響を受けますと思考能力が低下します。
そしてこれが長期間続くと思考停止の状態に陥ります。考える力を失うことで日常生活は単調な作業繰り返しとなり、自分の生活に何の疑問も持たないようになります。極端な言い方をするならば、命令に黙々と従う奴隷状態と大差のない生活となります。これはカルトでも同じではないかと思います。上の者の考えに忠実であることだけを求められ、自分の考えを持たないことにおいては、同じことです。
この状態は、現世に生きている人間を意のままに操りたい魔物にとっては一番都合が良い状態となります。そのため、魔物は生きている人間の思考する力を奪い、自分で考えることや自分の意思を持つことを妨害すると思われます。しかし、自分で考え、自分の意思を持つことは、生きている人間にとっては大きな負担なります。考える必要がなければ、考えたくない人は多いのではないかとおもいます。そのため、誰かに指示され、その指示に従うことを求める人は少なくありません。
これは、自分で考え、自分で決めていると思っている方も例外ではありません。自分では、自分の考えと思っている考えの多くは、自分の感情であることが少なくありません。あれこれ理由を並べても本当は自分の感情を正当化しているだけとしか思えないことが少なくありません。本当の理由は、あいつが嫌いだからでも、それを言えないからもっともらしい理由を並べると言ったことは、良くある話です。
では、本当に自分で考えるとは何かについて書きますと、簡単ではありません。何冊かの本を書けるような壮大なテーマになる話であると思います。世の中は矛盾だらけであり、複雑怪奇です。その矛盾だらけであり、複雑怪奇な話を理解できないからと単純明快な話だけで理解しようとするならば、自分で考える力は身につかないと思います。分からないとしても分からないなりに少しでも分かるようにするしかありません。
少なくとも魔物は、柔軟な発想や深い思考を嫌うことは間違いがなく、感情を煽り、感情を煽ることで生きている人間を支配しようとすることは分かっています。
星
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