(@@;))))〜〜(((((;@@) うろうろ
在宅の日が続くならば、仕事の合間に記事を書けるのですが・・・・
外出が続くとそれもできません。
そんな訳で、今回は神霊のお言葉を紹介させていただきます。
神輿は軽い方が良く、手駒は使い勝手が良い物が良い。それが彼らの考えであり、利用できる者ならば相手を問わず利用し、利用価値がなくなるならば捨て去るのが彼らの手口である。それは自分たちの仲間でも同じであり、利用できる間は利用しても利用価値がなくなれば、何のためらいもなく捨て去る。魔界の者にとっては力こそが全てであり、力の弱い者は力の強い者に使われるのが定めである。
このことは何も心霊世界だけの話ではない。現世においても同じことが行われている。甘い言葉で多くの者たちを集め、人を騙して利益を貪る者たちは多い。彼らは仲間が神仏に捕らえられたとしても助ける者などなく、見限って我先にと逃げる者たちの集まりである。そのため、相手がどんなに巨大な霊団であろうとも烏合の衆であり、何も恐れる必要もない。
だが侮るべきではない。彼らが如何に烏合の衆であろうとも狡猾な者たちであり、現世に生きる者の心の闇に入り込み、現世に生きる者を操ることにかけては巧みな者たちである。彼らが生前に多くの者の心を捕らえ、多くの者たちの心を引き付けたのは何か。それは彼らが多くの者たちの不満や不安を利用して心巧みに相手の心を操ったからである。
誰でもあっても困難な状況に陥るならば、将来に不安を感じるであろう。また、不遇な状況に陥るならば、不満を抱くであろう。彼らはその不安や不満を巧みに利用する。彼らは世の中を覆う不安や世の中に渦巻く多くの者たちの不満を利用した。人々に偽物の希望を与え、克服すべき問題から目を背けるように仕向けた。
心ある者であれば、彼らの説く教えの偽善に気付くことができたであろうが、困難な状況の中で孤立して不安を抱えている者は、それが偽りの教えではあっても僅かな希望を求めて偽りの教えにすがる者が少なくない。しかし、それは阿片と同じである。一時の快楽を得ることはできても精神を荒廃させ、体を蝕むが、そのことに気付く者は少ない。
彼らには世の中が混乱すれば混乱するほど好都合であり、多くの者たちが将来に不安を持ち、将来に希望を持てなくなった状況こそが最善の状態である。それまで世の中の権威が失墜し、全ての価値が破壊され尽くすことが彼らの目標であり、世の中が破壊と混乱に陥るならば、自分たちの天下となると考えている。
そのため、世の中が混乱しているならば、彼らが暗躍していると考えなければならない。それはいつの世でも同じである。そしてそれは個人の人生においても同じである。人生には様々な困難が立ちはだかるであろう。どうして自分だけがこんな苦労を背負わなければならないかと苦悩する者も少なくないであろう。
だが、甘い言葉で近づく者には心を許してはならない。自分に従うことだけを求める者には注意しなければならない。彼らは操り人形が自分の意思で動くことは許さず、兵隊は上官の命令に従っていれば良いと考えている。全ては自分たちが権力を手中に収めるためであり、そのための道具を求めているだけの話である。そのためには、何でも利用するのが彼らの手口である。
次回に続きます。
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ありきたりと言えますが、神社に参拝することの意味は、『御成敗式目』の第一条の「神社修理し祭祀専らにすべき事」の条文にある下記の言葉ではないかと思います。
生命の言葉 令和三年六月 『御成敗式目』
神は人の敬(うやまひ)に依(よ)りて威(い)を増(ま)し
人は神の徳(とく)に依(よ)りて運(うん)を添(そ)ふ
神さまを敬う人の 純粋な真心にふれ 神さまのご威光は さらに輝きを増し
神さまの広き厚き ご神徳のご加護で 人は導かれ運を開く神さまと人とは 一方通行ではなく お互いがお互いを 高めあう存在である
宗教法人 東京都神社庁より
簡潔でな文章ではありますが、神社に参拝することの意味が明確に説かれており、付け加える言葉もないと言ったところです。
尚、現代語訳ではありますが、全文が掲載されているサイトがありました。
第1条:「神社を修理して祭りを大切にすること」
神は敬うことによって霊験(れいげん)があらたかになる。神社を修理してお祭りを盛んにすることはとても大切なことである。そうすることによって人々が幸せになるからである。また、供物(くもつ)は絶やさず、昔からの祭りや慣習をおろそかにしてはならない。関東御分国(かんとうごぶんこく)にある国衙領(こくがりょう)や荘園(しょうえん)の地頭と神主はこのことをよく理解しなければならない。神社を修理する際に領地を持つ神社は小さな修理は自分たちで行い、手に負えない大きなものは幕府に報告をすること。内容を調べた上で良い方法をとる。
知るほど楽しい鎌倉時代 現代語訳「御成敗式目」全文 こちらから
この文章に書き足すことはありませんので、神社仏閣を修理せず、祭りも大切にしなかった場合の話を書きたいと思います。寺社を修理せず、祭りも大切にしないならば、建物は朽ち果てますし、参拝する人も絶えて神社仏閣は衰退します。神社仏閣が衰退するならば、神霊も働き場所を失うことになり、神社仏閣は益々衰退することになります。しかし、これは何も神社仏閣に限られた話ではなく、自宅の神棚や仏壇でも同じことが起きます。神棚や仏壇があっても家族が誰もお参りすることもなく、置物と同じ状態になっていたならば、折角お迎えした神霊が帰られる可能性が高くなります。神霊からするならば、働き場所がなければ、帰られるのも当然の話となります。では、神棚や仏壇は、全くの無人の状態になるかと言えば、そうでもありません。
これは、警察官が不在の交番のような状態となります。交番に警察官が不在ですと、机の上に電話が置かれ、各地の警察署に繋がるようになっているのと同じように、誰かがお参りするならば、神棚や仏壇を通して神仏の世界に祈りが通じます。これは神霊のご加護がそれだけ弱くなっていると言えますが、現世に生きる人間が神仏に関心がないのであるならば、神仏にできることには限界があり、やる気になったならば、連絡して来いと言ったところでしょうか。
同じような事例は数多くあります。寂れた神社なども宿られている神霊の気配を感じることが少なくありません。しかし、祈れば神仏の世界に通じることは可能なことから電話機が置かれた状態と言えます。また、少し変わった事例をご紹介しますと、ある行場に祀られた小さな祠にお参りしたところ、一瞬何かが姿を隠した気がした後に、神霊が姿を現されました。神霊のお話では、増上慢になった行者を相手にしたくないことから姿を隠されているとのお話でした。確かにその行場には、幾つかの問題があることから納得しました。
また、随分と前のことですが、知り合いの僧侶の方から境内にある祠でお勤めをしようとしてもお勤めができなくて困っているとのご相談を受けたことがありました。お話を聞けば、以前は参拝者が多かった祠でしたが、今は参拝者が殆どいないだけでなく、道路の拡張工事でなとで祠が何度か移動しているとのお話でした。知り合いの僧侶の方は、新しく住職としてお寺に入られたことから知り合いの僧侶の方の責任ではないと言ってもお勤めでできない状態でした。理由を調べましたところ、長年放置されていたことで、神霊の機嫌が悪くなっていました。そこで神霊に機嫌を直していただくための方策を調べましたが、後日お勤めができるようになったとのご連絡がありました。
これと似たような事例としては、溜池に祀られていた龍神様が忘れ去られていただけでなく、土地の造成で溜池の一部を埋めたことで怒らせていたこともあります。この他にも古い仏像を多数集めて祀りながらも日々のお勤めを余りされていなかったことから宿られている神霊を怒らせていたこともあります。一般の方からするならば、神仏が祟るのかと疑問を持たれるかもしれませんが、神霊と言っても人間に近い感覚を持つ神霊の場合には、障りを起すことがあります。これらの神霊は、眷属と言うべき神霊の方々と言えますが、大切に祀るならば現世に生きる人間のために働いていただけますが、粗末に扱うならば、怒らせます。
これを在家の人間の立場から考えますと、神社仏閣に参拝して神社仏閣の維持や修繕の為に献金をされるならば、眷属と言うべき神霊の方々のご加護を得やすくなると言えます。これは、最初にご紹介しました「神さまを敬う人の 純粋な真心にふれ 神さまのご威光は さらに輝きを増し 神さまの広き厚き ご神徳のご加護で 人は導かれ運を開く」の教えとなります。
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私がまだ知り合いから霊障解決の相談を受けていた頃の話ですので、随分と昔の話ですが、霊障の原因がご先祖と思われる方に先祖供養をお勧めしたところ、昔御婆さんに「先祖が子孫に障りを起すはずがない」と言われ、気が楽になったと言われたことがあります。気が楽になるのは本人の自由ですが、気が楽になったとしても障りは解消しません。結局その知り合いは、供養をされましたが、長続きせず、霊障が解消することもありませんでした。
人間はどうも甘い言葉に弱く、楽な道を選ぶことが多いようです。「宗教家が、地獄に落ちている先祖は自業自得だから現世に生きる私たちがしっかりと生きることで先祖が見習って成仏するから、先祖供養はしなくて良い」との話もその一例ではないかと思います。しかし、意味もなく困難な道を選ぶ必要はありませんが、安易な選択をされますと、後で払わなければならない代償が大きくなることは少なくありません。
さて、実際の心霊世界の観点から見た場合の話を書きますと、地獄に堕ちている心霊が現世に生きる人間の姿を見習うかと言えば、可能性はあるとしても皆無に近いのではないかと思います。地獄に堕ちている心霊と言っても実際には千差万別であり、画一的に語ることはできません。自分が死んでいる意識もなく、暗闇の中に座り続けている心霊もいれば、人気であったことも忘れてしまっているのかと思う心霊もいます。また、深い闇の中に幾つもの眼だけが光って見えることもありますので、実に多種多様です。
基本的に不成仏霊は、亡くなった時点の意識のままであることが大半です。飢餓状態の中で亡くなった方々は、餓鬼霊と呼ばれる常に飢餓状態が続いていることが多く、将来に希望を持てない絶望的な人生を生きた方々は漆黒の闇とも言うべき闇の中にいるのとが珍しくありません。そんな状態でいる方々が現世に生きる人間の姿を見習うとは考えられません。そんな苦悩の中にいる心霊が大量に押し寄せたならば、生きている人間が押し潰される可能性の方が高くなります。
餓鬼霊の影響が強くなれば、食欲を抑えることが難しくなると言った話は比較的良く聞く話しであり、恨みの念から復讐の鬼になっている怨霊の影響を受けると怒りを抑えることが難しくなるなど、亡くなった方が現世に生きている人間を見習うのではなく、現世に生きている人間の方が、地獄に堕ちている心霊に翻弄されることになります。この他にも大量の不成仏霊が集まるならば、現世に生きる人間は、疲れやすくなるだけでなく、無気力になることも良くある話です。
先祖供養が不要であると言われる方々は、そんな現実を何一つとして知ることもなく、自分の思い込みだけで語っているとしか思えません。自分の思い込みから現実を無視した荒唐無稽な話をする方が余りにも多いことに閉口しています。しかもその荒唐無稽な話を信じる人の多さにめまいがします。現世に生きている人間であってもPTSDの治療は困難であるのに、亡くなられた方々の生前のトラウマが簡単に消えると考える方が無理があります。
自分たちがしっかりと生きている姿を見せることで心が病んでいる人々の病が治るのであれば、この世の中から鬱病になる人は激減するはずであり、アルコール依存症や薬物依存の人々も激減するはずではないでしょうか。しかし、実際には本人の努力と周囲の人々の献身的な努力があっても完治が困難なことは珍しくありません。実際には本人の努力と周囲の人々の献身的な努力があっても完治が困難な病気があるのに、地獄に堕ちている心霊が現世に生きる人の姿を見て、自力で苦悩を解消できるのでしょうか。余りにも能天気な言動に呆れます。
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私が気になるのは「現世に生きる私たちがしっかりと生きることで先祖が見習って成仏する」の部分です。最初に気になるのは「成仏」の言葉をどのような意味で使われているのかが分かりません。そこで本来の意味を大谷大学/大谷大学短期大学部 生活の中の仏教用語 - [224]から引用させていただきます。
成仏という言葉を聞くと、私たち日本人は、「死ぬこと」と理解しがちであるが、本来はそのような意味ではない。成仏とは、文字通り仏に成ることである。仏とは、真理に目覚めた人という意味である。その真理は、縁起の法と言われ、今から二千五百年ほど前に、釈迦族の王子であったゴータマ・シッダールタという青年が、二十九歳の時、老病死の苦しみからの解脱を願って出家し、六年の苦行の後に、菩提樹の下で目覚めた真理である。それは、すべての存在は、それ自身で在るものでなく、他のすべての存在なしには在り得ない、という目覚めであった。
大谷大学/大谷大学短期大学部 生活の中の仏教用語 - [224]
本来の意味での成仏とは、お釈迦様と同じ境地に到達して悟りを得ることです。そのため、「現世に生きる私たちがしっかりと生きることで先祖が見習って成仏する」と言うことは有り得ない話です。恐らくは、仏の世界に行くことができると言われたいのかとは思いますが、何を根拠にして言っているのかが不明です。悟りを得るための修行が容易であるとされ他力門の教えであっても念仏を称えることで極楽往生できるとされますが、現世に生きる私たちがしっかりと生きることで仏の世界に生まれ変わることができるとの教えは知りません。
また、現世に生きているが者がしっかりと生きることで成仏できるのであれば、何のために僧侶は出家するのでしょか。世俗の生活をしているならば、悟りを得ることが困難なことから世俗を離れて修行の日々を重ねることで悟りを得ることを目的としているはずです。もし、しっかりと生きることで成仏できるのであれば、出家する必要もなく、在家の者も念仏を称える必要もなく、坐禅や写経、巡礼などを行う必要もなくなります。
世俗の生活の中では、悟りを得ることが難しいことから出家するのであり、出家することが難しいことから阿弥陀仏の慈悲に縋(すが)るために念仏を称えたり、坐禅や写経、巡礼と言った修行を重ねることを説いているのが仏教です。生きている人間が普通に生きていては悟ることが困難であるなのに、亡くなられた方が生きている人間を見習って成仏できるはずかありません。しっかりと生きることで成仏できるのであれば、仏教は必要がないことになり、仏教の教えを否定しているのと同じことになります。
仏教に関わる者ならば、この程度のことが分らないとは思われませんので、意図的に仏教の価値を卑しめたいと考えているとしか思えません。実は僧侶の中には、僧侶でありながらも左翼思想や唯物論に染まっていることが少なくありません。それらの方々は仏教の教えの中にある迷信的な要素を排除することが大切であるとでも考えているためか、来世とか六道輪廻とか言った教えを極力排除したがる傾向があります。そのため、供養が必要ないとの話もその一環ではないかと思われます。
来世とか六道輪廻とか言った教えを否定することは、仏教を否定することと同じことなのですが、左翼思想や唯物論に染まっている僧侶の方々は、全てを現世の枠の中に限定することが科学的とでも考えているようです。しかし、仏教の教えから死後の世界や申請世界の話を取り除くならば、宗教ではなくなります。哲学や倫理学となりますので、僧籍を離脱され、哲学者でも目指して欲しいと考えます。
このことは阿弥陀仏の信仰に特化していると言える浄土真宗の僧侶も例外ではありません。他力門の教えにおいて来世の存在を否定したならば、他力の教えは成立しません。来世を否定するならば、極楽浄土の存在を否定することであり、極楽浄土に往生するめの念仏の価値を否定することになりますが、檀家の前で平然と死後の世界など存在しないと語る浄土真宗の僧侶もいました。流石に言葉にはしませんでしたが内心では、啞然としました。
真宗大谷派の僧侶の方とお話をしていた際に、このことをお話したところ、浄土真宗は清沢 満之(きよざわ まんし)で本来の教えから逸脱してしまったと嘆かれていました。
清沢 満之(きよざわ まんし、1863年8月10日(文久3年6月26日) - 1903年(明治36年)6月6日)は、日本の明治期に活躍した真宗大谷派(本山・東本願寺)の僧侶、哲学者・宗教家。旧姓は「徳永」。幼名は「満之助」。院号法名は、「信力院釋現誠」。真宗大学(現・大谷大学)の初代学監(学長)。清沢が副住職を務めた愛知県碧南市の西方寺には清沢満之記念館がある。
清沢 満之は、禁書とされていた「歎異抄」を世に出したことで有名ではありますが、本来は素朴な信仰を説く庶民のための教えであった浄土真宗の教えを哲学的な教えにしてしまったと嘆かれていました。私もその意見に同感です。難しいことは分からなくても阿弥陀仏の慈悲を一心に信じることが浄土真宗の教えなのに哲学的な教えにしたがために来世の存在すら平然と否定する僧侶を生み出したならば、本末転倒です。
最後は、浄土真宗の批判となってしまいましたが、私には現世に生きる私たちがしっかりと生きることで先祖が見習って成仏するから、先祖供養はしなくて良いと言われる僧侶は、意図的に仏教の価値を卑しめようとしているとしか思えません。
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]]>私は、ブログを書いてもお金が入ることもなく、広告収入が入ることもないことから、アクセス数は余り気にしていません。しかし、ユーチューバーの方は収入に大きく影響することから大変かと思います。
このブログを動画にして配信したならば、ユーチューバーになれますが、再生回数は全く伸びないと思います。他のオカルトサイトのような宇宙人や未来人の話を取り上げることもなく、超能力の話も取り上げませんので、冒頭のユーチューバーの嘆きのような状態になると思います。その意味では、面白みのない話ばかりを書いているブログにアクセスしていただいている方々には感謝しています。一般の方が喜びそうな神秘体験も数多くはしていますので、神秘体験を書いても良いのですが、多くの方が喜ぶ話よりも、多くの方に役に立つ話を投稿したいと考えています。
さて、読者の方から「宗教家が、地獄に落ちている先祖は自業自得だから現世に生きる私たちがしっかりと生きることで先祖が見習って成仏するから、先祖供養はしなくて良い」と話されているとお知らせいただきました。お知らせいただいた方は、この意見に疑問を持てれているようですが、少し考察してみたいと思います。
最初に抱いた疑問は、地獄に落ちている先祖は自業自得であるとの考えです。これは一見もっともらしい話ではありますが、心霊世界の現実を無視した机上(きじょう)の空論でしかないと思います。過去に数多くの不成仏霊の障りを鑑定しましたが、地獄に落ちてる先祖は自業自得であるとは言い切れないことは数多くありました。例えば、身分制度が厳しい時代には、人権の概念など存在せず、使用人を奴隷扱いしていた時代は長くありました。また穢多非人と呼ばれた人々は、人間扱いすらされませんでした。そんな人々が世の中に恨みを抱き、地獄に堕ちたとしても地獄に落ちている先祖は自業自得と言えるのかと疑問を抱きます。
生前に身分が低いからと自分の利益のために、人間を牛馬のごとく働かせた人間ならば、地獄に堕ちても自業自得と言えますが、生前に過酷な労働を強いられ、劣悪な環境で生きなければならなかった方たちが、強い恨みの念を抱いたとしても、それを非難できるのかとの疑問を持ちます。勿論、生前に強い恨みを抱いたまま、亡くなられるならば、死後の世界において地獄に堕ちる可能性は高くなりますが、過酷な労働を強いられ、劣悪な環境で生きながらも、感謝の念で生きることができたならば、それこそ聖人の境地と言えます。
自動書記が始まった当初の頃に市井の生活の中で悟ることの難しさを神霊が説かれました。その神霊は寺院で修行して悟ることは、悟りを得るための環境が整った場所で悟りを得るのだから悟りを得たとしても当然だとも言えると語られていました。勿論、寺院の中であるとしても悟りを得ることは、困難なことですが、市井の生活の中で悟りを得ることは、寺院で修行して悟りを得るとは、比較にならない程、難しいとの話をされました。それを考えるならば、過酷な労働を強いられ、劣悪な環境で生きなければならなかった方々に、生前の心の持ち方が悪かったと言えるのかと思います。
市井(しせい)
《古く、中国で、井戸のある所に人が多く集まり、市が立ったところから》人が多く集まり住む所。まち。ちまた。goo辞書
これと同じような事例は、他にも幾つもあります。無謀な作戦の犠牲となり、亡くなられた英霊の方々、戦乱に巻き込まれて虐殺された方々、親を助けるために苦海に身を沈めた女性のなど数多くいると思います。そんな方々の存在を忘れて地獄に堕ちるのは自業自得であると言うのは、余りにも世間知らずではないかと言いたくなります。知り合いがお客様の中に戦場で次々と戦友が病気と飢えで亡くなるのを見て毎日神仏に祈り続けたのに神仏は助けてくれなかったと語られる老人がいると言っていました。その方は、善良な方ではあるが、神仏の話になると人が変わると言っていました。
過去の経験では、生前に極悪非道なことを行って地獄に堕ちた人の数よりも絶望の中で亡くなられて死後の世界でも生前の苦悩を抱えている不成仏霊の数の方が遥かに多いと思います。私にはそんな方々を救う力があるはずもなく、神仏に一日も早く生前の苦悩から願うことしかできません。それが亡くなられた方にどれだけ届いているのかも分かりませんが、私にできることをしたいと考えています。
また、「現世に生きる私たちがしっかりと生きることで先祖が見習って成仏するから、先祖供養はしなくて良い」との考えは、僧侶としては、失格と言えます。浄土真宗以外の宗旨では、すべての仏・菩薩ぼさつが起こす四つの誓願とされる四弘誓願(しぐぜいがん)をお経として読みます。その誓願は、限りなく多くの衆生を済度しようという衆生無辺誓願度、計り知れない煩悩を滅しようという煩悩無量誓願断、尽きることのないほど広大な法の教えを学びとろうという法門無尽誓願学、無上の悟りに達したいという仏道無上誓願成と言う四つの誓願です。
地獄に堕ちた者は、自業自得なのだから救わなくて良いと言うのであれば、限りなく多くの衆生を済度しようという衆生無辺誓願度の精神を無視することになります。この衆生無辺誓願度の精神は、大乗仏教の根本精神とも言うべき教えであり、その梱包精神を無視することになります。また、地獄に堕ちた者たちを救うとされる地蔵菩薩や聖観音の働きは無駄働きなのかと聞きたくなります。
デジタル大辞泉 「六観音」
六道それぞれの衆生を救う6体の観音。密教では、地獄道に聖(しょう)観音、餓鬼道に千手観音、畜生道に馬頭観音、修羅道に十一面観音、人間道に准胝じゅんでいまたは不空羂索ふくうけんじゃく観音、天道に如意輪観音を配する。ろっかんのん。
更に付け加えるならば、お経の終わりに読まれる「回向文」の精神にも反しています。
回向文
願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成佛道
訓読
願わくは この功徳を以(も)って 普(あまね)く一切に及ぼし 我等と衆生(しゅじょう)と 皆共(みなとも)に仏道を成(じょう)ぜん
浄土真宗の回向文
原文
願似此功? 平等施一切 同發菩提心 往生安樂國
訓読
願わくはこの功徳をもって 平等一切にほどこし 同じく菩提心をおこして 安楽国に往生せん
いずれの宗旨でも読経の功徳が全てに及ぶことを願っています。そのため、「地獄に落ちている先祖は自業自得だから現世に生きる私たちがしっかりと生きることで先祖が見習って成仏するから、先祖供養はしなくて良い」との言葉は、大乗仏教の精神を無視する言葉であり、僧侶としては有り得ない話となります。
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以前から時折お会いする方からご相談を受けました。以前から参加されている活動のことでご相談を受けていますが、霊障対策をご指導したところ、状況が改善しつつあるとのことでした。相談者の方は、一般の方ですので、現実の人間関係の話をされます。これは当然のことではありますが、現実の動きの背後には、心霊世界の動きがあります。その心霊世界の問題を解消することで現実の世界の問題を解消することが私の仕事なのですが、いつも理解していただくのが難しいと感じます。
例えば、Aさんがやる気がなくて困っているとの話をお聞きした際には、今は○○家の霊障が解消していないから今は動けないよと言った話をしても理解していただけません。これは霊障の典型的な事例なのですが、大量の不成仏霊が押し寄せますと、自宅や職場の霊域が悪化します。霊域が悪化すると疲れやすくなり、注意力も低下して作業効率が低下します。また、意欲も低下して無気力になり易くなります。このような状態ではやらなければならないことは分かってはいても意欲が湧かなくなります。
しかし、これは見えない世界で起きていることであり、目の前にある現実は、無気力なAさんの姿です。そのため、相談者はどうしてこんなに無気力なのかとな嘆くことになります。Aさんには、○○家の霊障が深刻なことや深刻な霊障で起きることの説明と具体的な対策も伝えてあります。Aさんも霊障の解消に理解があるだけでなく、霊障対策の効果も実感されていますので、既に対策はされていますが、余りにも深刻な霊障であることから霊障は改善していても解消には至っていません。
そのことを相談者の方には説明しているのですが、無気力なAさんの姿を見ていると何とかならないかとの気持ちが強くなるようです。Aさんは人柄も良く、才能もありますが、育ちの良さが裏目となり、押しの弱さが目立つ人物であることから相談者の方からすると歯痒くて仕方がないようです。相談者からするならば、折角色々な話が来ているのにどうして放置するのかと怒っておられました。これは心霊世界の動きを実感できないことから仕方がないことなのかも知れません。
また、深刻な霊障は、仕事にも影響しますので、仕事でも色々なトラブルが頻発することになります。これは私も経験していることなのですが、霊障が原因のトラブルの多くは、取引先や外注先の間違いなど自分の力の及ばないことが多く、注意はしていても避けられないトラブルの対応に追われることになり、そのことで精神的に追い詰められることにもなります。
この他にも霊障が原因のトラブルとして不注意で起きるトラブルがあります。これは注意していれば防げるとトラブルではありますが、些細なミスが大きなトラブルになることもあります。これら事情を考えますと、今は無気力なAさんを責めても意味はなく、障りの解消を用船すべきなのですが、理解してもらうことは難しいと感じています。
これとは逆に相談者は良くなったと思っていることでも、私は油断できないと思うこともあります。これは先ほどの事例とは逆の話となりますが、霊障には大きく分けて二つのパターンがあります。一つは生きている人間の身体にとりついている不成仏霊の障りと生きている人間の心を支配している不成仏霊の障りです。どちらも生きている人間に悪影響を及ぼしていることは同じですが、身体にとりついている不成仏霊の障りよりも心を支配している不成仏霊の方がより深刻であり、障りの解消が難しくなります。
先日、お会いした相談者の方は、それまで何かと対立していたBさんとの関係が大きく改善したと喜ばれていました。Bさんは少しやんちゃな面はありますが、気さくな方であり、人を魅了する力を持つ方ではありますが、相談者の方と何かと対立することが多く、以前からBさんとの関係で相談を受けていました。そこでBさんについて調べましたところ、やはり霊障が隠れていましたので、相談者の方に対策していただきましたところ、関係が大きく改善したと喜ばれていました。
しかし、私からしますと解消した障りは、身体にとりついている不成仏霊の障りであり、心を支配している不成仏霊の障りは解消していない印象がありました。そのことを説明したのですが、相談者の方はBさんとの関係が大きく改善したのにと戸惑われていました。これも現実の姿だけを見ていると分からないことなのですが、身体にとりついている不成仏霊の障りが解消しますと、相手に与える印象が大きく改善します。これは霊感のない方でも身体にとりついている不成仏霊がいますと、相手は無意識に敵対心や嫌悪感を持つことが原因であり、人間関係が悪化する原因となります。
この場合には、Bさんの身体にとりついていた不成仏霊の障りが解消しことで相談者が無意識に抱いていた嫌悪感が解消したこととBさんの感情を翻弄していた不成仏霊の障りが解消したことで人が変わったような印象を受けるようになったことが原因と思われます。しかし、心を支配している不成仏霊の障りは解消していません。心を支配している不成仏霊は、生きている人間の心を支配することから考え方が不成仏霊の影響を受けることになり、非常に厄介です。
最悪の場合には、不成仏霊に心を完全に支配されて不成仏霊の操り人形となります。勿論、本人は自分の意思で行動しているとしか考えませんが、本人は自分の意思と思っている考えの何割かは、不成仏霊の意思であることが少なくありません。この極端な事例が心の中に何人もの人格が存在する多重人格者となりますが、これは誰にでも起きる現象です。例えば、作家や作曲家などが突然のひらめきを得た場合に、降りてきたと表現をされることがありますが、これも心霊世界からの指導の可能性があります。
私からするならば、現実世界と心霊世界は表裏一体であることから、現実世界の動きと心霊世界の動きを区別して考えませんが、一般の方は、現実世界の動きだけで全てを判断されることから、何が起きているのかを理解することが難しいのてはないかと思います。そのため、霊障を解消することは、私にとっては現実の問題を解消するのと大差がなく、霊障を解消した方が現実の問題を解消する早道となることの方が多いと考えています。
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私はこの話を聞いて、不倫をしていた知り合いと相談を受けた霊能者の正体を垣間見た気がしました。知り合いとの縁を切る前に不倫相手のことは聞いていましたが、知り合いの不倫相手は、同棲相手の暴力に悩んでいるとの話でした。その際に妻帯者であるお前に男の暴力を批判する資格はあるのかと語ったことを覚えています。そして不倫相手の相談を受けた際にお前にできることは、離婚してから不倫相手に改めて交際を申し込むか、不倫相手のことを忘れるかの二つに一つであることを言いました。
知り合いは、相手の女性は自分が守ると言っていましたが、お前に何ができるのか、出来もしないことを安易に言うなと知り合いに怒ったことを覚えています。また、自分の嫁の悪口は並べても離婚の話になると嫁が悪いのだから嫁が家を出るべきだと繰り返すばかりでした。不倫相手を忘れることもできない、離婚もできないのであれば、せめて不倫相手の生活費を用意できるのかと言えば、それもできないとの話でしたので、呆れました。
不倫をする前は、小狡い(こずるい)面はあるものの、悪い男ではないと思っていましたので、時折会っていましたが、不倫の相談を受けるようになってからは、距離を置くようになりました。その後、知り合いと何人かの共通の友人から知り合いのことを色々と聞く機会があり、知り合いの嫌な面を知りました。知り合いから聞いていた話の多くが、知り合いにとって都合よく修正された話であることが分り、知り合いと縁を切ることにしました。
その後、不倫をしていた知り合いが霊能者に相談した話を聞きましたが、最初に思ったのが、不倫相手であっても自分にとって大切な女性が激しい暴行を受けてると分かったならば、何としても止めたいと思うのが男として当然ではないかと思いました。まして暴行の原因が自分との関係であるならば、尚更です。また、離婚の問題にしても子供の問題はどうするのかをそんなに簡単に決められるのかとも思いました。子供にとっても両親の離婚は大きな問題なのに何も考えていないのかと思いました。
不倫をしていた知り合いにとっては、不倫相手が大怪我をしても自分のものになれば良く、嫁が家を出てくれるのであれば、子供のことはどうでも良いと考えていたからこそ、霊能者の話を聞いて大喜びしたのではないかと思います。好きな相手を自分が守ると言っていた言葉は、口先だけであり、本心は別でした。本音を隠して自分を飾る言葉を語るときには、饒舌であったことに気付きました。男としても親としても軽蔑しますが、これが魔物の心理ではないかと思います。
恐らくは、不倫していた知り合いと相談をした霊能者は、魔物に支配されていたのだと思われます。そして霊能者が語った不倫が発覚して不倫相手は同棲している相手から激しい暴行を受け、ぼろぼろにされる。本人の家庭は三日間大騒ぎとなり、嫁は家を出る。その後に不倫相手を引き取ってやれば良いとの話は、予言ではなく、背後に隠れている魔物が計画していたことであり、二組の夫婦を離婚させて知り合いを不倫相手と再婚することで、自分の支配をより強固にしようとしたと思われます。
実際はどうなったかと言えば、不倫相手は知り合いとの関係の清算され、知り合いの奥様は不倫関係に気付きましたが、離婚に至ることもなく、家庭内別居の状態になりました。そのため、以前から冷え切っていた夫婦関係が悪化しただけの結果となりましたので、霊能者の予知は大外れでした。この件に関して私は何も関与していませんので、神霊が働かれていたとしても、神霊の判断であり、私は何も祈願していません。しかし、神霊が背後に隠れている魔物が計画を阻止されたのかもしれません。
知り合いの男からするならば、それが魔物の働きであるとしても不倫相手と結婚できるならば、満足であったのかもしれませんが、満足するのは、知り合いの男だけであり、他の関係者は誰も幸せになりません。これが魔物の働きであり、ご利益信仰の末路てあるとも言えます。多くの人の幸せよりも自分だけの利益を追い求めるならば、口先でどんなに立派なことを語っていたとしても、心は魔界へと通じます。心が魔界へと通じているならば、魔物に支配されます。
そして魔物に支配されたならば、魔物に利用される人生となり、現世において何らかの利益を得られたとても、魔物にとって利用価値がなくなれば、使い捨てにされ、死後の世界においては魔物に使役されることになります。しかし、知り合いの行ったことは、魔物に支配されていたとしても、魔物のやり口そのものであり、死後に魔物の手先となったとしても自業自得でしかありません。これは霊障と言うよりも本人の生き方の問題であると言えますが、今から考えるならば、深刻な霊障であったと思います。
大物の魔物ともなれば、簡単には姿を見せることもなく、人の心の奥底に静かに潜みます。そして人間の心を操ります。そのことを知ったのは、それから何年も後のことでした。これは極端な事例ではありますが、魔物に心を支配された男の末路と言えます。
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また、魔物は支配欲が強く、生きている人間を支配することや生きている人間を通して周囲の人間を支配することを求めます。魔物にしてみれば、生きている人間を支配することは、大きな快感を覚えるようです。勿論、魔物にとって生きている人間の幸せなとどは眼中になく、利用することだけが目的だけですので、一時的に社会的な成功を得られたとても長くは続かないようです。勿論、私が見ている事例は数例しかありませんので、個人的な印象でしかありません。
さて、このタイプの最大の厭(いや)らしさは、人の足を引っ張ることではないかと思います。人が嫉妬心を抱いた時に嫉妬心を解消する方法は幾つかありますがね大きく分けるならば、嫉妬心を抱いたことを恥じて嫉妬心を捨てる、ライバルを見返すべく努力する、そして相手の足を引っ張って相手の評価を下げるではないかと思います。嫉妬心を捨てることと自分が努力することに問題はないとしても、相手の評価を下げることは、何の価値も生み出しません。しかし、猜疑心が強く、肥大化した優越感を持つタイプの人の多くは、相手の足を引っ張って相手の評価を下げる努力に専念します。
そしてこれが魔物の心理であると言えます。繰り返しとなりますが、魔界は力が支配する世界であることから猜疑心が消えることはありません。また、魔物は肥大化した優越感を持つことから激しい嫉妬心を抱きますが、常に相手の足を引っ張って相手の評価を下げる道しか選びません。それが魔物が障りしか起さない理由であると言えます。その意味では、猜疑心の塊のような性格であり、白か黒かでしか考えることができず、肥大化した優越感を持つ魔物は、非常に厄介な存在です。
これが生前に厳しい修行を重ねながらも転落した行者や生前に武将として生きた方が激しい恨みから怨霊になった場合などは、電化製品の故障の頻発、転倒などの怪我、交通事故、病気など力技と言うべき障りであり、真正面から攻撃してきます。そのため、転落した行者や武将の障りの対策をしていますと大きな事故や怪我などに巻き込まれる可能性が高くなります。また、古い電化製品が狙い撃ちされることは多くありました。過去の事例では、エアコン、給湯器、洗濯機などが立て続けに故障したこともうありました。
この他にも参拝に向かう途中での飛び石による自動車のフロントガラスの破損が3回ほどありました。一回は修理が不可能な程の傷であり、フロントガラスの交換となり、高額な修理となりました。また、田舎の片道一車線の道路で飛び石でフロントガラスが損傷した際には、どうしてこんな道でと唖然としました。また、参拝に向かう途中で嫌がらせのような追い越しをされることが、頻発することも珍しくありません。
こんな事例は数多くあります。勿論、偶然と言ってしまえば、それまでなのですが、障りの原因を調べたり、障りの解消するための対策を占っていたりしていますと、嫌がらせのように電化製品の故障の頻発、怪我、事故などが起きます。これが一度や二度ならば偶然かと言えますが、余りに多すぎて書ききれない状態です。それでも真っ向から障りを起す怨霊の方が逃げ隠れしない相手であることから対処しやすいと言えます。相手の正体さえ見抜けるならば、どんなに力のある怨霊であっても神仏には勝てませんので、障りの解消は可能となります。勿論、最悪の場合には、命を狙われますので、危険な相手です。
これに対して陰湿な魔物は、人間の心の闇の奥底に潜むことから見つけることが難しくなるたけでなく、姑息な手段で障りを起すことから非常に厄介です。その手口については、過去に何度もご紹介していますが、次回は視点を変えてご紹介したいと思います。
次回に続きます。
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配信者の解説では、オタクに多く見られ性格設定となっているとの話でした。私も人から占い師ではなく、占いオタクだと言われたことはありますが、オタク文化のことは殆ど知りませんので、興味深い話でした。そこでゲームで使用されていた「陰キャ」について調べてみました。
陰キャ
「陰キャ(いんキャ)」は、いわゆる「陰気なキャラクター(陰気な性格の人)」の略。言動や雰囲気が陰気・陰湿・暗い・後ろ向きな人。周りの人の気持ちを暗くさせるような人、コミュニケーション能力のない人、社会性の乏しい人という意味を込めて使われる場合もある。罵り文句として用いられることもあれば、自虐の意味で用いられることもある。
実用日本語表現辞典
陰気な性格の人のことを陰気・陰湿・暗いと決めつけることには疑問を感じますし、コミュニケーション能力のない人、社会性の乏しい人のことを暗いと決めつけることにも疑問を感じていますが、本当にゲームに登場するような猜疑心の塊のような性格設定であり、白か黒かでしか考えられない思考を持ちながらも自尊心だけは極めて高い性格の人物であったならば、社会生活に対応することは非常に難しいと思われます。しかし、ゲームで設定されていたような極端な性格ではないとしても猜疑心の塊のような性格設定であり、白か黒かでしか考えられない思考を持ちながらも自尊心だけは極めて高い性格の人物は存在していることに気付きました。
私が知る何人かの知り合いは、コミュニケーション能力のない人物でもなければ、社会性の乏しい人物でもなく、問題なく社会生活に適応していましたが、猜疑心が強く、白か黒かでしか考える、自尊心が極めて高いなどの性格の人物はいたことを思い出しました。彼らは一応社会生活に適応していましたので、オタクと言った印象もなかったのですが、本質的には「陰キャ」であったと考えるべきなのかと思いました。考えてみれば、猜疑心が強く、白か黒かでしか考える、自尊心が極めて高いなどの性格の人物は、社会的に成功していた人物もいましたが、いずれも幸せな人生は生きていない印象があります。
実は、猜疑心が強く、白か黒かでしか考える、自尊心が極めて高いことなどは、転落した行者や魔物に共通している性格であり、過去に嫌と言う程見てきた不成仏霊の性格でもあります。勿論、疑うことを知らずに簡単に騙されることが良いことであるはずもなく、熟慮すると言っても優柔不断で何も決められないのでは、単なる優柔不断となります。また、自分に自信を持てなくて自己卑下を繰り返しているならば、死後の世界においても力のある不成仏霊や魔物に手下として使役されるだけの話となります。
しかし、ゲームに登場した何を言っても悪く受け取る猜疑心の塊のような性格であり、白か黒かでしか考えられない思考を持ちながらも自尊心だけは極めて高い性格ならば、死後の世界に帰ったなら確実に転落すると思います。また、これで並外れた念の強さや執念深さなど持っていたならば、魔物になる可能性があります。勿論、生きている間は、魔物になる可能性があると言うだけの話ではありますが、このような心で生きているならば、魔物を呼び寄せる可能性は高くなります。魔物の影響を受け続けるならば、猜疑心はより強くなり、独善的な性格は強化されることになります。そして自尊心は益々肥大化して心は魔物に支配されることになります。つまり生きながら魔物の手下となり、魔物に支配された人生となります。
次回に続きます。
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では、どうしてマルクス主義者の障りの場合には、膨大な数の不成仏霊の障りが見つかるのかを考えますと、マルクス主義は被害者意識を煽る思想であり、富める者に対する憎悪があることが原因ではないかと考えるようになりました。マルクス主義では、資産家は労働者を搾取していると定義されていることが理由と思われますが、この考えはマルクス主義の根底にある労働価値説から導かれた考えです。この労働価値説とは、商品の価値とは費やされた労働力で決まるとの考えですが、商品の住地とは費やされた労働力ではなく、需要と供給で決まります。そのため、マルクス主義は根底にある考えが間違っています。
では、どうして多くのことがマルクス主義に魅了されるのかと言えば、自分たちが不幸なのは、差搾取されているからであり、金持ちや権力者が悪いと自分たちの嫉妬心を正当化できるからではないかと思われます。人間は誰しもが嫉妬心を抱えていると思われますので、その嫉妬心を正当して自分は悪くない、悪いには金持ちだと考える思想は、多くの人を魅了するようです。これは何も社会的に成功できない方に限られた話ではなく、社会的に成功した方でも同じだとの話を聞いたことがあります。
一流会社に就職してある程度の地位になっても、自分たちが不幸なのは、差搾取されているとの考えを持ち続けていると話です。その場合には、搾取している者は、自分よりも地位の高い者が対象になると聞きました。つまり富裕層と貧困層と言っても相対的であり、平均的な年収の人間からするならば、富裕層と思っても本人は、自分は貧困層であり、自分よりも高収入を得ている者たちこそが富裕層であり、自分たちを搾取していると考えます。
生きている人間が差別されているとの被害者意識が強く似りますと、生前に自分たちは差別されていたとの強い不満を抱く不成仏霊を呼び込む原因となります。その典型的な事例が被差別部落の住人や穢多非人(えたひにん)と呼ばれた身分の方々、ハンセン病患者などの生前に激しい差別を受けていたと思われる不成仏霊の集団となります。個人的には、被差別部落の方々やハンセン病患者の方々を差別する気持ちはありませんが、死後も世の中に対する強い恨みを抱いている方々が大半ですので、障りの解消には非常に苦労します。
また、マルクス主義者のもう一つの特徴としてマルクス主義者が権力を持つと独裁的になることがあります。権力者を倒す目的は、差別されている人々を解放することであり、平等な社会を構築することが目的であるはずなのですが、マルクス主義者が権力を持つと自分たちとは異なる意見を弾圧して封じる独裁政治を行うことになります。これは日本共産党の党首が党員の自由投票で選ばれていないことや中国などの社会主義国では自由な投票が行われていないことを見ればわかるのではないかと思います。
このことについて詳しく書きますと長くなりますので、深入りしませんが、原因はマルクス主義にあると考えます。マルクス主義は非常に独善的であり、排他的であることから独裁を正当化する思想でもあります。そのため、マルクス主義者は、独善的で排他的な考えを持つことになりますが、この考え方は同じような考えを持つ不成仏霊を呼び集めることになります。つまりマルクス主義者は、世の中に強い不満を持つ不成仏霊と独善的で排他的な不成仏霊の両方を呼び集めることになりますので、非常に厄介な障りとなります。
どちらか一方の障りだけでも解消が困難なのに両方の障りを解消しなければならないとなれば、通常の供養や祈願祈祷では、全く歯が立たない障りとなります。特に長年社会党や共産党を支持し続けているだけでなく、党員として活動しているともなれば、どんな深刻な障りが隠れていても不思議ではない状態なりますので、熱心に障りの解消に取り組まれたとしても、長い歳月が必要となります。そのため、1年や2年で障りが解消する可能性は非常に低く、最低でも5年、10年と言った歳月が必要となります。
個人的には、特定の政党を批判する気持ちはありませんが、社会主義や共産主義の影響を強く受けている政党や政治活動に参加されることや活動を支援されることは、深刻な霊障の原因となる可能性がありますので、とてもお勧めできません。また、最近は恵まれない方々の支援活動や環境保護活動を表看板に掲げているマスクス主義の団体も多いようですので、ご注意下さい。
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ご質問の回答は、なるべくは早くブログで取り上げさせていただくことにします。
それはさておき・・・・
信仰の自由が保障されていますので、マルクス主義が宗教であろうともマルクス主義を信じることは、本人の自由ではありますが、生前に死後の世界を否定していた方は死後の世界で迷う可能性が非常に高くなります。これは考えれば、当然のことでしかありません。生前に死後の世界などないと信じ込んでいたのに、死後の世界があったとするならば、混乱するのが当然です。そして生前に神仏を否定していたことから、神仏に助けを求める方法すら分からない状態となります。
また、客観的に目の前の現実を見ることができるのであれば、自分が置かれている状況を考えるならば、死後の世界が存在していることを受け入れざるを得なくなりますが、頑なに唯物論を信じている場合には、自分の考えが間違っていると考えることなく、目の前の現実を否定します。これは生きている人間でも同じであり、マルクス主義者はソ連か崩壊しようか、東欧諸国が資本主義の国になろうが、マルクス主義が間違っているとは考えないのと同じです。
自分だけの世界だけに閉じこもっている人間にとっては、それが妄想であっても自分の作り上げた世界が全てであり、マルクス主義を頑なに信じている人にとっては、マルクス主義が破綻している理論であることなど絶対に受け入れられない現実となります。そのため、自分の目の前の現実が自分の世界観と異なるならば、現実を否定します。常識的に考えるならば、信じられないと思う方も多いかとは思いますが、現実と自分の考えが異なるならば、現実を否定する人は数多くいます。
私が占い師として活動し始めたばかりの頃ですが、知り合いから相談を受けました。相談内容は、不倫相手との関係でした修復についてでしたが、話を聞いたところ、既に破綻状態であり、占う必要もない状態でした。それでも占ってくれと懇願されたことから占いましたが、関係の修復の可能性は皆無であるとの結果でした。その後も何度も占いを依頼されましたが、結果はいつも同じでした。不倫相手は既に新しい相手と結婚を前提に交際していることから復縁の可能性など皆無でした。
知り合いに繰り返し、復縁の可能性などないことを言っても未練と愚痴を言い続けました。ここまで未練がましくなれるものなのかと呆れていましたが、知り合いの未練と愚痴は際限がないのかと思う程続きました。そして最後は、地元で有名なお祭りに元不倫愛と交際相手が一緒に歩いているのを目撃したとの電話でした。流石に元不倫愛と交際相手が一緒に歩いている姿を見たことは、ショックだったらしく、その後の鑑定依頼はなくなりました。
知り合いにとっては、不倫相手が自分を捨てて別の男と一緒になることなど考えられないことであったようです。私からするならば、鑑定を依頼される前に会った際には、不倫相手が強欲だとぼやいていたのは何だったのかと言いたくなる気分でした。しかし、不倫相手が自分を捨てて別の男と一緒になるかもしれないと分かったことで、自分の作り上げていた世界が崩壊して現実逃避を始めました。その逃げ道が占いであったと思います。占いに淡い期待を求めて縋ったと思われます。
この事例は、恋愛の事例ですが、同じような話は仕事でも珍しい話ではありません。多くの人は自分が長年行っていた仕事の方法に強くこだわる傾向があります。若い頃に覚えた方法を30年以上も守り続けていることもありました。教えられたことを守り続けるのは悪いことではありませんが、その間に何も新しい技術を学ばなかったのかとこちらが不思議になりました。毎日毎日同じことを繰り返すだけの生活に何の疑問も持たないかと思うのですが、何も疑問を持たない人が多いようです。
しかし、本人が何の疑問を持たないとしても、世の中は変わります。その顕著な例がレンタルビデオの業界ではないかと思います。まだ、ビデオデッキが高価であった昭和の時代には、レンタルビデオ業界は急成長していましたが、令和の時代になってからは価格競争が始まり、ネットで映画が見られるようになってからは衰退の一途をたどりました。これは色々な業界で起きたことであり、薬局はドラックストアーとの競争に敗れて衰退し、家電製品の小売店は大型量販店との競争に敗れて衰退しました。また、文具店も100円均一のお店の台頭と子供の数の減少で衰退など大きな時代の流れに飲み込まれて廃業された方も多いと思います。
商取引の世界ならば、本人がいくら現実を否定しても売り上げが低迷するならば、会社を維持することができなくなりますが、目の前の現実が破綻しても現実を認めない人は数多くいます。自分は間違っていない。間違っているのは世の中の方であると頑なに信じます。こんな考え方をしている方が死後の世界に帰ったことで変わるかと言えば、何も変わりません。これは唯物論者でも同じであり、死後の世界に帰っているのに死後の世界は存在していないと考えます。
そのため、自分の死を自覚していないことになりますが、自分の死を自覚しないままに子孫などに助けを求めて障りを起す場合と自分が現世に生きる人間を指導しているような気持で障りを起す場合に分かれます。このどちらの場合も自分の死を自覚していないだけでなく、神仏の存在を否定しいることから神仏が働き掛けても拒絶しますので、一般的な供養を継続されても障りの解消が困難となります。
具体的には、生前に信じていた唯物論が間違いであったことを納得させる必要があります。特にマルクス主義者の場合には、マルクス主義の間違いを納得させることが重要となります。そして自分が既に死亡していることを自覚させる必要がありますが、神仏であっても簡単なことではありません。しかし、この段階を終えなければ、一般的な供養を継続されても障りの解消は困難となりますので、唯物論者の障りを解消することは容易ではありません。
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神仏のように、自分にとって究極的な価値や意味をもっている対象と全人格的な関係をもち、その対象に無条件に依存し献身する心的態度をいう。経験できぬ不確実なものを主観的に確実であると思い込むことではない。宗教的体験や儀礼を繰り返すことによって、しだいに人格の内部に一定の心的態度が信仰として形成される。信仰は個人生活を統合する中心の役割を果たすと同時に、その信仰の表現である信条、組織、制度などにより、共同体の生活を統合する活動の中心にもなっている。
[藤田富雄]
日本大百科全書(ニッポニカ)
信仰を「自分にとって究極的な価値や意味をもっている対象と全人格的な関係をもち、その対象に無条件に依存し献身する心的態度」と定義するならば、唯物論も一つの信仰であると考えることができると思います。続いて「経験できぬ不確実なものを主観的に確実であると思い込むことではない。」とありますが、神仏の存在や死後の世界を否定する人人は、信仰を経験できない不確実なものを主観的に確実であると思い込むことであると考えているではないかと思います。
唯物論の方は、経験できる確実なものが全てであり、経験できない不確実なものを否定することが科学的であると信じていると思われますが、本来の科学的な立場からするならば、経験できない不確実なものを研究の対象とすると聞いています。分からないことがあるからこそ研究するのであり、経験できる確実なものだけで全てを理解できるのであれば、研究する必要がなくなります。しかし、この世の中には、現代科学では解明できない謎は数多くあり、分かっていることの方が少ないと言えます。
唯物論の歴史は古く、お釈迦様が教えを説かれていた時代のインドにもありましたが、個人的には自分が理解できる枠の中で考えているのではないかと思えます。世の中は矛盾だらけであり、不可解なことが満ち溢れていると考えるべきであり、全てを理解できると考えることの方が思い上がりではないかと思います。これは何も心霊世界の話に限られたことではありませんが、自分は全てのことを分かっていると考えるのは、自分の分かる範囲のこと以外のことを無視していると言えます。
その典型がマルクス主義において説かれている「唯物論的歴史観」(史的唯物論)ではないかと思います。昔からマルクス主義に関しては興味がなかったことからマルクスの著書は殆ど読んでいません。唯一、読んだと言えるのが資本論ですが、余りにも支離滅裂な内容であることから三分の一程度読んで読む気を失いました。一応、最後まで読みましたが、読むのが苦痛で斜め読みしました。それでもこんな支離滅裂な内容を多くの人は、本気で信じているのかと悩みました。
個人的には、マルクス主義が破綻していることは、歴史的な事実だと考えています。私が学生時代の頃には、左翼思想に傾倒する若者が多かった時代であり、社会主義が資本主義よりも優れていると本気で信じている人も多かった時代でした。また、唯物論的歴史観では、無階級社会から階級社会へ、階級社会から無階級社会へと、生産力の発展に照応して生産関係が移行していくとされ、共産主義がもっとも進んだ段階であるから、資本主義は共産主義になるとされていました。しかし、現実は資本主義が共産主義になることはなく、社会主義国であるソ連は崩壊しました。
中国は資本主義を取り入れて発展しましたが、社会主義体制に戻りつつあります。チヤイナウオツチャーの多くは、経済的に没落するであろうとの予測しています。他に社会主義体制の国は幾つかありますが、資本主義国が共産主義体制になる可能性は非常に低いと思われます。しかし、今でもマルクス主義を信奉している方は数多くいます。また、環境保護活動や男女平等などの活動家は、マスクス主義者が多いとも聞いていますので、マルクス主義の人気は高いようです。
私はこれらのことが唯物論は思想ではなく、信仰と考えるべきではないかと考える理由です。私は宇宙人や未来人の存在を肯定も否定もしません。否定できるだけの知識もなく、存在を証明することもできません。宇宙人の存在を証明するとされる証拠を見せられたとしても本物か偽物かを判断することもできないことから、否定も肯定もできません。死後の世界にしても同じことです。私には死後の世界の存在を証明することはできません。
勿論、私は死後の世界の存在を信じていますが、それは過去の個人的な体験の積み重ねの結果であり、それを信じるかどうかは、個人の判断です。また、神仏の存在にしても同じことであり、私は信じていると言うだけのことです。では、本来の科学的な立場からするならば、どう考えるべきかとなりますが、否定も肯定もしないのが、科学的な立場ではないかと思います。分からないからこそ研究の対象となると言えますが、死後の世界の存在や神仏の存在を研究する科学者はいないだけのことです。
死後の世界の存在や神仏の存在を研究する科学者もいないのに、どうして死後の世界や神仏が存在しないと断言できるのでしょうか。突き詰めて考えるならば、唯物論者の主張は思い込みでしかないと言えます。しかし、唯物論者の多くは、意固地になって否定している印象を受けます。このように考えますと唯物論は思想ではなく、信仰に思えます。特にマルクス主義者に関しては、この傾向が顕著であり、マルクスの思想に間違いがあるはずがないと信じているのではないかと思うことがあります。
次回に続きます。
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今朝になり、そのことに気付きましたので、順番を訂正しました。
ご迷惑をお掛けして申し訳あません。
m(_ _)m
それはさておき・・・・
前回取り上げました自己愛性パーソナリティ障害と並んで対応が難しいとされているのが、境界性パーソナリティ障害です。以前に読んでいた心理学の本にも対応が難しい病気として紹介されていました。
「ゆくん【公認心理師】@心理カウンセラー」にも境界性パーソナリティ障害に関する動画は幾つか紹介されていますが、幾つか紹介しておきます。
【ボーダーのサイン】境界性パーソナリティ障害の見分け方5選|外見・行動 こちらから
境界性パーソナリティ障害の方が自分がわからなくなる理由&自分を理解するための5ステップ こちらから
【総集編】境界性パーソナリティ障害の全てがわかる動画 こちらから
1:24:30と非常に長い動画です。
境界性パーソナリティ障害とは
気持ちや行動、対人関係が不安定になりやすく、日常生活や仕事で著しい苦痛や支障を引き起こしてしまう障害です。基本的には、相手の気持ちを敏感に察することができるため、相手のために(時として必要以上に)頑張ったり、思いやりのある行動をとったりすることが多い方々です。
ただ、相手が自分を見捨てて離れていく、自分を大事にしてくれていない、と感じると、不安や怒りが急に強くなり、うまくコントロールできなくなってしまいます。
冷静になると、なぜあんなことをしてしまったのか…と自分を責めてしまい、とても辛い気持ちになり、さまざまな影響が出ます。
アメリカの調査では有病率は一般人口の約2%で、その約7割が女性であり、わが国でも同程度と考えられています。
元記事 酒田駅前メンタルクリニック こちらから
境界性パーソナリティ障害についての詳しい解説は、専門家の方にお任せしますが、自己愛性パーソナリティ障害と境界性パーソナリティ障害のどちらも周囲の方にとっては対応が困難な病気なことは間違いがないようです。専門家でも対応が難しい病気ではありますが、霊障の観点から考えますと、この病気の方は深刻な霊障の可能性が高いのではないかと思います。自己愛性パーソナリティ障害も深刻な霊障ではないかと思われる点が多いのですが、自己愛性パーソナリティ障害の霊障とは異なるタイプの霊障ではないかと思います。
勿論、これは個人的な印象ではあり、詳しくは個別に鑑定してみませんと断定的なことは書くべきではないと思いますが、境界性パーソナリティ障害の解説を聞いていますと、典型的な霊障の症状であり、幾つもの原因が折り重なるように隠れている解消が非常に困難な霊障であると思いました。膨大な数の不成仏霊による霊障であることは間違いがないと思いますが、恐らくはかなりの大物の魔物が隠れているのではないかと思われます。
過去の経験では、境界性パーソナリティ障害に限らず、愛着障害などの病気は、家庭環境が大きな原因になっている印象があります。そして更に原因を探りますと家庭の霊域が非常に悪いことが多いことから、心の病気の多くは、霊障と密接な関係があるのではないかと考えています。残念ながら心理学を専門的に学んだ経験もないことから心の病気と霊障の関係に関しては、漠然とした印象程度でしか語れませんが、何らかの関係があるのではないかと思います。
さて、話を境界性パーソナリティ障害に戻しますと、基本的には生前に抑圧され続けた不成仏霊が障りを起している可能性が高いのではないかと思われます。現代においても社会の底辺で生きる人々は社会的に抑圧されていると言えますが、少し時代を遡るならば、身分制度や家柄に縛られて本人の才能や努力とは無関係に忍耐を強要され続けた人生を生きなければならなかった人々の数ははかりしれません。
境界性パーソナリティ障害の特徴として、「相手の気持ちを敏感に察することができるため、相手のために(時として必要以上に)頑張ったり、思いやりのある行動をとったりすることが多い方々です。」とありますが、これは生前に権力者の顔色を窺うことでしか自分の身の安全を保つことしかできなかった不成仏霊の影響も考えられます。勿論、全てを霊障と考えるべきではないことは分かっていますが、過去の事例では理由のない不安感などは霊障が解消すると消えてしまうことがあります。
また、「ただ、相手が自分を見捨てて離れていく、自分を大事にしてくれていない、と感じると、不安や怒りが急に強くなり、うまくコントロールできなくなってしまいます。」とありますが、これも霊障の典型的な症状の一つです。不成仏霊や魔物が現世に生きる人間を操る常套手段は、人間の不安や怒りを煽ることです。大半の人間は、不安や怒りを抱えていますが、不成仏霊や魔物は不安や怒りを煽ることで現世に生きる人間を操ります。
特に重度の霊障の場合には、不成仏霊や魔物の抱えている恨みや怒りを代弁していることも少なくありません。これは不成仏霊や魔物に心を乗っ取られている状態とも言えますが、このような状態になりますと、際限のない恨みや怒りが沸き起こる状態となります。つまり、本人の怒りの炎に不成仏霊や魔物が油を注いでいることから際限のない恨みや怒りとなります。勿論、本人は自分の感情だと思っているのですが、実体は不成仏霊や魔物に翻弄されていると言えます。
そして「冷静になると、なぜあんなことをしてしまったのか…と自分を責めてしまい、とても辛い気持ちになり、さまざまな影響が出ます。」とありますが、恨みや怒りの感情を煽っていた不成仏霊や魔物の影響が減少することで本人の意識が強くなり、後悔することになります。しかし、一時的にでも不成仏霊や魔物の影響が減少するかと言えば、そうでもありません。減少するのは恨みや怒りの感情を煽っていた不成仏霊や魔物の影響だけです。
本人の後悔の念が強くなるならば、今度は生前に絶望感や不安感を抱えていた不成仏霊の影響が強くなります。これらの不成仏霊の多くは、人間に対する不信感が強く、強い猜疑心を抱えています。その強い猜疑心を抱えている不成仏霊や魔物の強い影響を受けることになり、非常に悲観的な考えにとらわれるようになります。つまり、この二つのタイプの不成仏霊や魔物が入れ替わることで常に不成仏霊や魔物の影響を受け続けることになり、本人の気持ちは乱高下することになります。
しかし、大半の方には、目の前にいる人間のことしか分かりませんので、境界性パーソナリティ障害の患者に翻弄されることになります。勿論、カウンセラーにしても事情は同じであり、霊能者であっても本当の霊障の原因を見抜ける方は、非常に少ないのではないかと思います。また、膨大な数の不成仏霊の影響を受けている場合には、かなりの大物の魔物が潜んでいる可能性が高くなることから霊障の解消には長い歳月が必要となる可能性が高くなります。逆に言えば、かなりの大物の魔物が潜んでいるから深刻な霊障になるとも言えます。
境界性パーソナリティ障害についてあれこれ書きましたが、心霊世界のことを否定する方からするならば、全ては妄想と思われるのではないかと思います。私は、霊障であると証明する方法を知りませんので、反論する気もありません。また、境界性パーソナリティ障害に関しても素人の知識ですので、全ては個人的な推論でしかありません。私も自分の考えに間違いがないとも考えてはいませんが、専門家でも対応が難しい病気であることから、霊障の可能性を疑うべきではないかと思います。
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お客様にもご迷惑をお掛けしています。こんなブログを書いている暇があるならば、仕事をしろと言われそうなのですが、好き勝手なことを書いている時間が大切な息抜きとなっています。
遅れている鑑定に関しては、順次鑑定しますので、少しお待ち下さい。
m(_ _)m
先日のことですが、自己愛性パーソナリティ障害を分かり易く解説された動画を見つけました。心理学に関しては、多少は勉強していますが、何分にも素人であり、やはり専門家の分かり易い解説は助かります。
ゆくん【公認心理師】@心理カウンセラー
【転落人生】自己愛性パーソナリティ障害男性の末路〜特徴、職場、接し方〜 こちらから
関連の動画が幾つかありますので、心理学に興味のある方にはお勧めのサイトです。さて、流石に心理カウンセラーの方が編集された動画ですので、自己愛性パーソナリティ障害の原因や周囲に与える影響は分かり易いのですが、同時に心理学の限界を感じました。
自己愛性人格障害の行動パターンと行く末はどうなるのか解説
自己愛性人格障害とは、自分を過大評価する一方で他人を下げることや共感性の欠如が特徴的な疾患です。
賞賛されたいという気持ちが強く、周りから自己中心的だと思われることが多いです。
自身の利益のためなら他人を使うことに遠慮がなく、ときにはごう慢な言動が見られます。
自分や周囲の人が自己愛性人格障害にかかっているかもしれないと、頭を抱えている人も多いのではないでしょうか
おおかみこころのクリニックHPより 元記事
自己愛性パーソナリティ障害の方は、自分を過大評価する一方で他人を下げることや共感性の欠如が特徴的なことから周囲には迷惑な存在です。私が勤めていた会社の上司も自己愛性人格障害であったと考えるならば、納得できる面が少なくありません。しかし、不幸にして自分の上司や親が自己愛性人格障害であったならばどうすべきなのかとなりますと、非常に厄介な話となります。動画の中でも自己愛性パーソナリティ障害の方は、自分が人格障害であると考えないことから、本人が受診する可能性は非常に低くなります。
どんなに優秀な医者でも本人を診察をしなければ、治療できません。強制的に受診させることが可能ならば話は別ですが、現実の問題として本人に病気を自覚させることは困難なことから病気だと分かっても、周囲の人間が迷惑を受け続けることは同じです。病気だと分かっていても何もできないのであれば、不治の病と思って諦めて下さいと言われているのと同じではないかと思えます。勿論、対処の仕方を学ぶことはできますが、周囲の人間にとっては苦痛が多少軽減する程度の話であり、治療方法がないと言われているのと同じことでしかありません。
私が最初に就職した会社の上司は、自己愛性パーソナリティ障害ではなかったと思われる人物でした。その上司は部下を怒鳴り散らすことを仕事と考えているのではないかと思う人物でした。但し、この攻撃対象は、営業成績の悪い部下であり、同期の同僚がいつも餌食になっていました。その同僚は上司の人格否定とも言えるような暴言に耐え続けていましたが、これは当事者でなくても気分の良いことではなく、社内の雰囲気は最悪となりました。一日の業務の終わりに日報を提出する際に同僚は、毎日10分以上も怒鳴られていました。しかし、同僚の営業不振は続いたことから、一日の業務の終わりだけでなく、朝礼の後にも怒鳴られるようになり、最後には別室で延々と怒鳴られていました。
私は、その後配置転換となり、同僚は退職しました。後で分かったことは、同僚が目の敵にされる前は、前年の新入社員が標的にされ、同僚が退社後は余り営業成績が良くなかったベテランが標的にされるようになったとの話でした。そのベテランは一年後に閑職とも言うべき部品配送の部署に配属になりました。私からするならば優れた成績は残せなかったと言ってもベテランであり、お客様との信頼関係も気付き上げていた営業を部品の配送の部署に追いやる意味が分かりませんでした。
その上司も人事異動で降格とは言えませんが、左遷に近い扱いとなりました。その後、その上司について、他の管理職が酷評に近い評価をしているのを聞き、かつての上司の評価が、この程度であったのかと知りました。これは私が管理職と懇意にしていたということではなく、管理職の方の立ち話を偶然に聞く機会があっただけのことでしたが、既に元上司に関心もなかったことからこれと言った感情も抱きませんでした。
個人的には、配置転換で暴言を繰り返す上司から解放されましたが、運が良かっただけのことでした。人事異動がなかったら次の標的は、私であったかもしれません。しかし、あの頃に私が心理学に精通していたとしても、私にできることは殆どなかったと思います。私のような下っ端の人間が、他の中間管理職の人を差し置いて上司に意見をすることなどできるはずもなく、親しい先輩に相談する程度のことしかできなかったと思います。
しかし、今の私がパワハラに悩むお客様から相談を受けたとしたら、最初に過去世の因縁を疑います。過去世で敵対関係にあった相手とは、今世においても敵対することが多くなります。次にパワハラを繰り返す上司の背後に魔物が潜んでいないかを疑います。上司の背後に魔物が隠れている場合には、魔物が怒りの感情を煽っていることがあります。この場合には、背後に隠れている魔物の障りを解消することで、上司の方が落ち着きを取り戻すことがあります。つまり、現実的に対処しようとしても何の対処もできない場合でも、霊障ならば対処が可能となります。そのため、一見するならば、現実社会とは無関係に思える霊障対策の方が現実の苦悩を解消する有効な手段となるのではないかと考えます。
星
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(o´Д`)=з 疲れた・・・
それでも、何とかやっております。
今年もギリギリかとは思いますが、間に合いそうです。
それはさておき・・・・
「霊障を解消する理由7」で他界した母のことを書きましたが、一般的に老人は愚痴や同じ話を繰り返すことが多いようです。私も人のことを言えない年齢ではありますが、意識が未来よりも過去に向いていることが原因ではないかと思います。武田邦彦先生が「若者は生きるか死ぬかだが、老人は いつ死ぬかだ。」と言われていましたが、老人にとっては残された時間は限られていることから意識が過去に向くことは仕方がないのかもしれません。
私も気付けば、中年と言う年齢でもなくなっていますので、終活ではありませんが、思い残しがないように霊障のことに関しては少しでも多く書き残して置きたいと考えています。このブログを書き始めた理由は、世の中に氾濫している荒唐無稽な話の多さに閉口していたからでした。除霊だ浄霊だと言った怪しげな文字が並ぶサイトは今も数多くありますし、霊感商法も根絶されることはないことから書き続けることができる間は書き続けたいと考えています。
さて、私の母が生きた戦前と戦後の時代について人情味のあった良い時代であったと美化する人と軍国主義と拝金主義の時代であったと批判する人に大きく分かれる気がします。個人的には、そのどちらも否定する気はありません。人情味があったと言えば聞こえは良いのですが、隣近所の嫉妬や見栄なども今よりも深刻だった気がしています。今は隣近所との関係が昔よりも希薄な気がしますので、一長一短があります。また、年功序列的な社会の弊害も知っていますが、社会秩序の崩壊した社会にも疑問を感じています。
そのため、過去を美化する気持ちも過去を否定する気もありませんが、終戦後から高度成長期の時代を考えますと、大半の人は今よりも狭い人間関係の中で生き、限られた情報を頼りに生きていた気がします。今はインターネット社会であることから政治経済の話題にしてもスポーツ芸能の話題にしても簡単に手に入ります。しかし、携帯電話すらなかった時代には、情報源と言えば、テレビ・ラジオ・新聞・週刊誌と言ったマスコミの垂れ流す情報だけに限られていました。
また、当時は女性の社会進出と言った風潮もなく、離婚した女性が安心して働ける職場は限られていたと思います。これは仮定の主婦にしても同じであり、今ならばスーパーやコンビニで店員と働くことはできますが、当時は主婦が収入を得る手段は限られ、内職仕事程度しかなかったと思います。それらのことを考えますと、終戦後から高度成長期の時代を生きた女性は、経済的な自立が困難なことから忍耐と我慢を強要されたのではないかと思われます。
この他にも当時の社会風潮としては、男は企業戦士であることを求められていた時代であり、男は仕事中心であった時代でした。私が働き始めた頃には残業未亡人との言葉がありました。これは連日の残業続きで、奥様は未亡人と同じであるとの意味ですが、朝早く出社して夜遅く帰宅することから夫婦の会話もない状態が続くことを揶揄した言葉です。実際、残業だけでなく、休日出勤があったりと仕事中心の生活が当然でした。この他にも接待の飲食や接待麻雀などを口実にして帰宅が遅くなるだけでなく、家庭を顧みない男性が多かった時代ではないかと思います。
また、嫁姑、兄嫁、小姑と言った家庭内の問題にしても男尊女卑の風潮と同じように嫁を見下す風潮が根強く残っていた時代でした。そのため、夫は仕事を口実に家庭を省みることなく、姑や兄嫁などに虐められるなど、家庭内でも孤立していたのではないかと思われます。現代ならば、気晴らしに一人で習い事やママ友と一緒に昼食を楽しむこともできますが、当時は外食すること自体が贅沢な時代であったことを考えると難しかったと思います。これらの事情を考えますと、戦前と戦後の時代を生きた母の愚痴が多いのも当然であると言えます。
ここまでが母の愚痴が多かった時代背景となりますが、もう一つだけ付け加えるとするならば、良妻賢母の理想像があるのではないかと思います。今でも昔の女性を礼賛する方の多くの語る女性は良妻賢母です。良妻賢母は、一つの理想ではありますが、良妻賢母でなくてはならないとの無言の圧力があったのではないかと思います。料理がうまく、家の中はいつも片付いている働き者のお母さんが理想であるとしても、この理想像が多くの女性を苦しめたのではないかと思います。
ここまで長々と書きましたが、この抑圧されて溜め込み続けた苦悩が生きている間は、際限のない愚痴となり、死後の世界においては怨念となるのではないかと思います。そして厄介なことに自分が嫁として虐められたのに、自分が姑の立場になると今度は自分が嫁を虐めることは少なくありません。これのことを心理学の観点で解説することは可能なのでしょうが、抑圧された怨念や亡くなられた方々の怨念の働きではないかと思います。
個人的な経験則でしかありませんが、霊障対策を継続していると愚痴が多い方であっても徐々に愚痴が少なくなり、表情が穏やかになることはあります。勿論、障りを起していると思われる同じような境遇を生きた不成仏霊の障りを解消するだけでも大変であり、本人が長年溜め続けた負の想念を解消することは簡単ではありませんが、生きている間に溜め込んだ怨念を解消することが大切ではないかと思います。
星
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