(@@;))))〜〜(((((;@@) うろうろ
在宅の日が続くならば、仕事の合間に記事を書けるのですが・・・・
外出が続くとそれもできません。
そんな訳で、今回は神霊のお言葉を紹介させていただきます。
神輿は軽い方が良く、手駒は使い勝手が良い物が良い。それが彼らの考えであり、利用できる者ならば相手を問わず利用し、利用価値がなくなるならば捨て去るのが彼らの手口である。それは自分たちの仲間でも同じであり、利用できる間は利用しても利用価値がなくなれば、何のためらいもなく捨て去る。魔界の者にとっては力こそが全てであり、力の弱い者は力の強い者に使われるのが定めである。
このことは何も心霊世界だけの話ではない。現世においても同じことが行われている。甘い言葉で多くの者たちを集め、人を騙して利益を貪る者たちは多い。彼らは仲間が神仏に捕らえられたとしても助ける者などなく、見限って我先にと逃げる者たちの集まりである。そのため、相手がどんなに巨大な霊団であろうとも烏合の衆であり、何も恐れる必要もない。
だが侮るべきではない。彼らが如何に烏合の衆であろうとも狡猾な者たちであり、現世に生きる者の心の闇に入り込み、現世に生きる者を操ることにかけては巧みな者たちである。彼らが生前に多くの者の心を捕らえ、多くの者たちの心を引き付けたのは何か。それは彼らが多くの者たちの不満や不安を利用して心巧みに相手の心を操ったからである。
誰でもあっても困難な状況に陥るならば、将来に不安を感じるであろう。また、不遇な状況に陥るならば、不満を抱くであろう。彼らはその不安や不満を巧みに利用する。彼らは世の中を覆う不安や世の中に渦巻く多くの者たちの不満を利用した。人々に偽物の希望を与え、克服すべき問題から目を背けるように仕向けた。
心ある者であれば、彼らの説く教えの偽善に気付くことができたであろうが、困難な状況の中で孤立して不安を抱えている者は、それが偽りの教えではあっても僅かな希望を求めて偽りの教えにすがる者が少なくない。しかし、それは阿片と同じである。一時の快楽を得ることはできても精神を荒廃させ、体を蝕むが、そのことに気付く者は少ない。
彼らには世の中が混乱すれば混乱するほど好都合であり、多くの者たちが将来に不安を持ち、将来に希望を持てなくなった状況こそが最善の状態である。それまで世の中の権威が失墜し、全ての価値が破壊され尽くすことが彼らの目標であり、世の中が破壊と混乱に陥るならば、自分たちの天下となると考えている。
そのため、世の中が混乱しているならば、彼らが暗躍していると考えなければならない。それはいつの世でも同じである。そしてそれは個人の人生においても同じである。人生には様々な困難が立ちはだかるであろう。どうして自分だけがこんな苦労を背負わなければならないかと苦悩する者も少なくないであろう。
だが、甘い言葉で近づく者には心を許してはならない。自分に従うことだけを求める者には注意しなければならない。彼らは操り人形が自分の意思で動くことは許さず、兵隊は上官の命令に従っていれば良いと考えている。全ては自分たちが権力を手中に収めるためであり、そのための道具を求めているだけの話である。そのためには、何でも利用するのが彼らの手口である。
次回に続きます。
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ありきたりと言えますが、神社に参拝することの意味は、『御成敗式目』の第一条の「神社修理し祭祀専らにすべき事」の条文にある下記の言葉ではないかと思います。
生命の言葉 令和三年六月 『御成敗式目』
神は人の敬(うやまひ)に依(よ)りて威(い)を増(ま)し
人は神の徳(とく)に依(よ)りて運(うん)を添(そ)ふ
神さまを敬う人の 純粋な真心にふれ 神さまのご威光は さらに輝きを増し
神さまの広き厚き ご神徳のご加護で 人は導かれ運を開く神さまと人とは 一方通行ではなく お互いがお互いを 高めあう存在である
宗教法人 東京都神社庁より
簡潔でな文章ではありますが、神社に参拝することの意味が明確に説かれており、付け加える言葉もないと言ったところです。
尚、現代語訳ではありますが、全文が掲載されているサイトがありました。
第1条:「神社を修理して祭りを大切にすること」
神は敬うことによって霊験(れいげん)があらたかになる。神社を修理してお祭りを盛んにすることはとても大切なことである。そうすることによって人々が幸せになるからである。また、供物(くもつ)は絶やさず、昔からの祭りや慣習をおろそかにしてはならない。関東御分国(かんとうごぶんこく)にある国衙領(こくがりょう)や荘園(しょうえん)の地頭と神主はこのことをよく理解しなければならない。神社を修理する際に領地を持つ神社は小さな修理は自分たちで行い、手に負えない大きなものは幕府に報告をすること。内容を調べた上で良い方法をとる。
知るほど楽しい鎌倉時代 現代語訳「御成敗式目」全文 こちらから
この文章に書き足すことはありませんので、神社仏閣を修理せず、祭りも大切にしなかった場合の話を書きたいと思います。寺社を修理せず、祭りも大切にしないならば、建物は朽ち果てますし、参拝する人も絶えて神社仏閣は衰退します。神社仏閣が衰退するならば、神霊も働き場所を失うことになり、神社仏閣は益々衰退することになります。しかし、これは何も神社仏閣に限られた話ではなく、自宅の神棚や仏壇でも同じことが起きます。神棚や仏壇があっても家族が誰もお参りすることもなく、置物と同じ状態になっていたならば、折角お迎えした神霊が帰られる可能性が高くなります。神霊からするならば、働き場所がなければ、帰られるのも当然の話となります。では、神棚や仏壇は、全くの無人の状態になるかと言えば、そうでもありません。
これは、警察官が不在の交番のような状態となります。交番に警察官が不在ですと、机の上に電話が置かれ、各地の警察署に繋がるようになっているのと同じように、誰かがお参りするならば、神棚や仏壇を通して神仏の世界に祈りが通じます。これは神霊のご加護がそれだけ弱くなっていると言えますが、現世に生きる人間が神仏に関心がないのであるならば、神仏にできることには限界があり、やる気になったならば、連絡して来いと言ったところでしょうか。
同じような事例は数多くあります。寂れた神社なども宿られている神霊の気配を感じることが少なくありません。しかし、祈れば神仏の世界に通じることは可能なことから電話機が置かれた状態と言えます。また、少し変わった事例をご紹介しますと、ある行場に祀られた小さな祠にお参りしたところ、一瞬何かが姿を隠した気がした後に、神霊が姿を現されました。神霊のお話では、増上慢になった行者を相手にしたくないことから姿を隠されているとのお話でした。確かにその行場には、幾つかの問題があることから納得しました。
また、随分と前のことですが、知り合いの僧侶の方から境内にある祠でお勤めをしようとしてもお勤めができなくて困っているとのご相談を受けたことがありました。お話を聞けば、以前は参拝者が多かった祠でしたが、今は参拝者が殆どいないだけでなく、道路の拡張工事でなとで祠が何度か移動しているとのお話でした。知り合いの僧侶の方は、新しく住職としてお寺に入られたことから知り合いの僧侶の方の責任ではないと言ってもお勤めでできない状態でした。理由を調べましたところ、長年放置されていたことで、神霊の機嫌が悪くなっていました。そこで神霊に機嫌を直していただくための方策を調べましたが、後日お勤めができるようになったとのご連絡がありました。
これと似たような事例としては、溜池に祀られていた龍神様が忘れ去られていただけでなく、土地の造成で溜池の一部を埋めたことで怒らせていたこともあります。この他にも古い仏像を多数集めて祀りながらも日々のお勤めを余りされていなかったことから宿られている神霊を怒らせていたこともあります。一般の方からするならば、神仏が祟るのかと疑問を持たれるかもしれませんが、神霊と言っても人間に近い感覚を持つ神霊の場合には、障りを起すことがあります。これらの神霊は、眷属と言うべき神霊の方々と言えますが、大切に祀るならば現世に生きる人間のために働いていただけますが、粗末に扱うならば、怒らせます。
これを在家の人間の立場から考えますと、神社仏閣に参拝して神社仏閣の維持や修繕の為に献金をされるならば、眷属と言うべき神霊の方々のご加護を得やすくなると言えます。これは、最初にご紹介しました「神さまを敬う人の 純粋な真心にふれ 神さまのご威光は さらに輝きを増し 神さまの広き厚き ご神徳のご加護で 人は導かれ運を開く」の教えとなります。
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私がまだ知り合いから霊障解決の相談を受けていた頃の話ですので、随分と昔の話ですが、霊障の原因がご先祖と思われる方に先祖供養をお勧めしたところ、昔御婆さんに「先祖が子孫に障りを起すはずがない」と言われ、気が楽になったと言われたことがあります。気が楽になるのは本人の自由ですが、気が楽になったとしても障りは解消しません。結局その知り合いは、供養をされましたが、長続きせず、霊障が解消することもありませんでした。
人間はどうも甘い言葉に弱く、楽な道を選ぶことが多いようです。「宗教家が、地獄に落ちている先祖は自業自得だから現世に生きる私たちがしっかりと生きることで先祖が見習って成仏するから、先祖供養はしなくて良い」との話もその一例ではないかと思います。しかし、意味もなく困難な道を選ぶ必要はありませんが、安易な選択をされますと、後で払わなければならない代償が大きくなることは少なくありません。
さて、実際の心霊世界の観点から見た場合の話を書きますと、地獄に堕ちている心霊が現世に生きる人間の姿を見習うかと言えば、可能性はあるとしても皆無に近いのではないかと思います。地獄に堕ちている心霊と言っても実際には千差万別であり、画一的に語ることはできません。自分が死んでいる意識もなく、暗闇の中に座り続けている心霊もいれば、人気であったことも忘れてしまっているのかと思う心霊もいます。また、深い闇の中に幾つもの眼だけが光って見えることもありますので、実に多種多様です。
基本的に不成仏霊は、亡くなった時点の意識のままであることが大半です。飢餓状態の中で亡くなった方々は、餓鬼霊と呼ばれる常に飢餓状態が続いていることが多く、将来に希望を持てない絶望的な人生を生きた方々は漆黒の闇とも言うべき闇の中にいるのとが珍しくありません。そんな状態でいる方々が現世に生きる人間の姿を見習うとは考えられません。そんな苦悩の中にいる心霊が大量に押し寄せたならば、生きている人間が押し潰される可能性の方が高くなります。
餓鬼霊の影響が強くなれば、食欲を抑えることが難しくなると言った話は比較的良く聞く話しであり、恨みの念から復讐の鬼になっている怨霊の影響を受けると怒りを抑えることが難しくなるなど、亡くなった方が現世に生きている人間を見習うのではなく、現世に生きている人間の方が、地獄に堕ちている心霊に翻弄されることになります。この他にも大量の不成仏霊が集まるならば、現世に生きる人間は、疲れやすくなるだけでなく、無気力になることも良くある話です。
先祖供養が不要であると言われる方々は、そんな現実を何一つとして知ることもなく、自分の思い込みだけで語っているとしか思えません。自分の思い込みから現実を無視した荒唐無稽な話をする方が余りにも多いことに閉口しています。しかもその荒唐無稽な話を信じる人の多さにめまいがします。現世に生きている人間であってもPTSDの治療は困難であるのに、亡くなられた方々の生前のトラウマが簡単に消えると考える方が無理があります。
自分たちがしっかりと生きている姿を見せることで心が病んでいる人々の病が治るのであれば、この世の中から鬱病になる人は激減するはずであり、アルコール依存症や薬物依存の人々も激減するはずではないでしょうか。しかし、実際には本人の努力と周囲の人々の献身的な努力があっても完治が困難なことは珍しくありません。実際には本人の努力と周囲の人々の献身的な努力があっても完治が困難な病気があるのに、地獄に堕ちている心霊が現世に生きる人の姿を見て、自力で苦悩を解消できるのでしょうか。余りにも能天気な言動に呆れます。
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私が気になるのは「現世に生きる私たちがしっかりと生きることで先祖が見習って成仏する」の部分です。最初に気になるのは「成仏」の言葉をどのような意味で使われているのかが分かりません。そこで本来の意味を大谷大学/大谷大学短期大学部 生活の中の仏教用語 - [224]から引用させていただきます。
成仏という言葉を聞くと、私たち日本人は、「死ぬこと」と理解しがちであるが、本来はそのような意味ではない。成仏とは、文字通り仏に成ることである。仏とは、真理に目覚めた人という意味である。その真理は、縁起の法と言われ、今から二千五百年ほど前に、釈迦族の王子であったゴータマ・シッダールタという青年が、二十九歳の時、老病死の苦しみからの解脱を願って出家し、六年の苦行の後に、菩提樹の下で目覚めた真理である。それは、すべての存在は、それ自身で在るものでなく、他のすべての存在なしには在り得ない、という目覚めであった。
大谷大学/大谷大学短期大学部 生活の中の仏教用語 - [224]
本来の意味での成仏とは、お釈迦様と同じ境地に到達して悟りを得ることです。そのため、「現世に生きる私たちがしっかりと生きることで先祖が見習って成仏する」と言うことは有り得ない話です。恐らくは、仏の世界に行くことができると言われたいのかとは思いますが、何を根拠にして言っているのかが不明です。悟りを得るための修行が容易であるとされ他力門の教えであっても念仏を称えることで極楽往生できるとされますが、現世に生きる私たちがしっかりと生きることで仏の世界に生まれ変わることができるとの教えは知りません。
また、現世に生きているが者がしっかりと生きることで成仏できるのであれば、何のために僧侶は出家するのでしょか。世俗の生活をしているならば、悟りを得ることが困難なことから世俗を離れて修行の日々を重ねることで悟りを得ることを目的としているはずです。もし、しっかりと生きることで成仏できるのであれば、出家する必要もなく、在家の者も念仏を称える必要もなく、坐禅や写経、巡礼などを行う必要もなくなります。
世俗の生活の中では、悟りを得ることが難しいことから出家するのであり、出家することが難しいことから阿弥陀仏の慈悲に縋(すが)るために念仏を称えたり、坐禅や写経、巡礼と言った修行を重ねることを説いているのが仏教です。生きている人間が普通に生きていては悟ることが困難であるなのに、亡くなられた方が生きている人間を見習って成仏できるはずかありません。しっかりと生きることで成仏できるのであれば、仏教は必要がないことになり、仏教の教えを否定しているのと同じことになります。
仏教に関わる者ならば、この程度のことが分らないとは思われませんので、意図的に仏教の価値を卑しめたいと考えているとしか思えません。実は僧侶の中には、僧侶でありながらも左翼思想や唯物論に染まっていることが少なくありません。それらの方々は仏教の教えの中にある迷信的な要素を排除することが大切であるとでも考えているためか、来世とか六道輪廻とか言った教えを極力排除したがる傾向があります。そのため、供養が必要ないとの話もその一環ではないかと思われます。
来世とか六道輪廻とか言った教えを否定することは、仏教を否定することと同じことなのですが、左翼思想や唯物論に染まっている僧侶の方々は、全てを現世の枠の中に限定することが科学的とでも考えているようです。しかし、仏教の教えから死後の世界や申請世界の話を取り除くならば、宗教ではなくなります。哲学や倫理学となりますので、僧籍を離脱され、哲学者でも目指して欲しいと考えます。
このことは阿弥陀仏の信仰に特化していると言える浄土真宗の僧侶も例外ではありません。他力門の教えにおいて来世の存在を否定したならば、他力の教えは成立しません。来世を否定するならば、極楽浄土の存在を否定することであり、極楽浄土に往生するめの念仏の価値を否定することになりますが、檀家の前で平然と死後の世界など存在しないと語る浄土真宗の僧侶もいました。流石に言葉にはしませんでしたが内心では、啞然としました。
真宗大谷派の僧侶の方とお話をしていた際に、このことをお話したところ、浄土真宗は清沢 満之(きよざわ まんし)で本来の教えから逸脱してしまったと嘆かれていました。
清沢 満之(きよざわ まんし、1863年8月10日(文久3年6月26日) - 1903年(明治36年)6月6日)は、日本の明治期に活躍した真宗大谷派(本山・東本願寺)の僧侶、哲学者・宗教家。旧姓は「徳永」。幼名は「満之助」。院号法名は、「信力院釋現誠」。真宗大学(現・大谷大学)の初代学監(学長)。清沢が副住職を務めた愛知県碧南市の西方寺には清沢満之記念館がある。
清沢 満之は、禁書とされていた「歎異抄」を世に出したことで有名ではありますが、本来は素朴な信仰を説く庶民のための教えであった浄土真宗の教えを哲学的な教えにしてしまったと嘆かれていました。私もその意見に同感です。難しいことは分からなくても阿弥陀仏の慈悲を一心に信じることが浄土真宗の教えなのに哲学的な教えにしたがために来世の存在すら平然と否定する僧侶を生み出したならば、本末転倒です。
最後は、浄土真宗の批判となってしまいましたが、私には現世に生きる私たちがしっかりと生きることで先祖が見習って成仏するから、先祖供養はしなくて良いと言われる僧侶は、意図的に仏教の価値を卑しめようとしているとしか思えません。
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]]>私は、ブログを書いてもお金が入ることもなく、広告収入が入ることもないことから、アクセス数は余り気にしていません。しかし、ユーチューバーの方は収入に大きく影響することから大変かと思います。
このブログを動画にして配信したならば、ユーチューバーになれますが、再生回数は全く伸びないと思います。他のオカルトサイトのような宇宙人や未来人の話を取り上げることもなく、超能力の話も取り上げませんので、冒頭のユーチューバーの嘆きのような状態になると思います。その意味では、面白みのない話ばかりを書いているブログにアクセスしていただいている方々には感謝しています。一般の方が喜びそうな神秘体験も数多くはしていますので、神秘体験を書いても良いのですが、多くの方が喜ぶ話よりも、多くの方に役に立つ話を投稿したいと考えています。
さて、読者の方から「宗教家が、地獄に落ちている先祖は自業自得だから現世に生きる私たちがしっかりと生きることで先祖が見習って成仏するから、先祖供養はしなくて良い」と話されているとお知らせいただきました。お知らせいただいた方は、この意見に疑問を持てれているようですが、少し考察してみたいと思います。
最初に抱いた疑問は、地獄に落ちている先祖は自業自得であるとの考えです。これは一見もっともらしい話ではありますが、心霊世界の現実を無視した机上(きじょう)の空論でしかないと思います。過去に数多くの不成仏霊の障りを鑑定しましたが、地獄に落ちてる先祖は自業自得であるとは言い切れないことは数多くありました。例えば、身分制度が厳しい時代には、人権の概念など存在せず、使用人を奴隷扱いしていた時代は長くありました。また穢多非人と呼ばれた人々は、人間扱いすらされませんでした。そんな人々が世の中に恨みを抱き、地獄に堕ちたとしても地獄に落ちている先祖は自業自得と言えるのかと疑問を抱きます。
生前に身分が低いからと自分の利益のために、人間を牛馬のごとく働かせた人間ならば、地獄に堕ちても自業自得と言えますが、生前に過酷な労働を強いられ、劣悪な環境で生きなければならなかった方たちが、強い恨みの念を抱いたとしても、それを非難できるのかとの疑問を持ちます。勿論、生前に強い恨みを抱いたまま、亡くなられるならば、死後の世界において地獄に堕ちる可能性は高くなりますが、過酷な労働を強いられ、劣悪な環境で生きながらも、感謝の念で生きることができたならば、それこそ聖人の境地と言えます。
自動書記が始まった当初の頃に市井の生活の中で悟ることの難しさを神霊が説かれました。その神霊は寺院で修行して悟ることは、悟りを得るための環境が整った場所で悟りを得るのだから悟りを得たとしても当然だとも言えると語られていました。勿論、寺院の中であるとしても悟りを得ることは、困難なことですが、市井の生活の中で悟りを得ることは、寺院で修行して悟りを得るとは、比較にならない程、難しいとの話をされました。それを考えるならば、過酷な労働を強いられ、劣悪な環境で生きなければならなかった方々に、生前の心の持ち方が悪かったと言えるのかと思います。
市井(しせい)
《古く、中国で、井戸のある所に人が多く集まり、市が立ったところから》人が多く集まり住む所。まち。ちまた。goo辞書
これと同じような事例は、他にも幾つもあります。無謀な作戦の犠牲となり、亡くなられた英霊の方々、戦乱に巻き込まれて虐殺された方々、親を助けるために苦海に身を沈めた女性のなど数多くいると思います。そんな方々の存在を忘れて地獄に堕ちるのは自業自得であると言うのは、余りにも世間知らずではないかと言いたくなります。知り合いがお客様の中に戦場で次々と戦友が病気と飢えで亡くなるのを見て毎日神仏に祈り続けたのに神仏は助けてくれなかったと語られる老人がいると言っていました。その方は、善良な方ではあるが、神仏の話になると人が変わると言っていました。
過去の経験では、生前に極悪非道なことを行って地獄に堕ちた人の数よりも絶望の中で亡くなられて死後の世界でも生前の苦悩を抱えている不成仏霊の数の方が遥かに多いと思います。私にはそんな方々を救う力があるはずもなく、神仏に一日も早く生前の苦悩から願うことしかできません。それが亡くなられた方にどれだけ届いているのかも分かりませんが、私にできることをしたいと考えています。
また、「現世に生きる私たちがしっかりと生きることで先祖が見習って成仏するから、先祖供養はしなくて良い」との考えは、僧侶としては、失格と言えます。浄土真宗以外の宗旨では、すべての仏・菩薩ぼさつが起こす四つの誓願とされる四弘誓願(しぐぜいがん)をお経として読みます。その誓願は、限りなく多くの衆生を済度しようという衆生無辺誓願度、計り知れない煩悩を滅しようという煩悩無量誓願断、尽きることのないほど広大な法の教えを学びとろうという法門無尽誓願学、無上の悟りに達したいという仏道無上誓願成と言う四つの誓願です。
地獄に堕ちた者は、自業自得なのだから救わなくて良いと言うのであれば、限りなく多くの衆生を済度しようという衆生無辺誓願度の精神を無視することになります。この衆生無辺誓願度の精神は、大乗仏教の根本精神とも言うべき教えであり、その梱包精神を無視することになります。また、地獄に堕ちた者たちを救うとされる地蔵菩薩や聖観音の働きは無駄働きなのかと聞きたくなります。
デジタル大辞泉 「六観音」
六道それぞれの衆生を救う6体の観音。密教では、地獄道に聖(しょう)観音、餓鬼道に千手観音、畜生道に馬頭観音、修羅道に十一面観音、人間道に准胝じゅんでいまたは不空羂索ふくうけんじゃく観音、天道に如意輪観音を配する。ろっかんのん。
更に付け加えるならば、お経の終わりに読まれる「回向文」の精神にも反しています。
回向文
願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成佛道
訓読
願わくは この功徳を以(も)って 普(あまね)く一切に及ぼし 我等と衆生(しゅじょう)と 皆共(みなとも)に仏道を成(じょう)ぜん
浄土真宗の回向文
原文
願似此功? 平等施一切 同發菩提心 往生安樂國
訓読
願わくはこの功徳をもって 平等一切にほどこし 同じく菩提心をおこして 安楽国に往生せん
いずれの宗旨でも読経の功徳が全てに及ぶことを願っています。そのため、「地獄に落ちている先祖は自業自得だから現世に生きる私たちがしっかりと生きることで先祖が見習って成仏するから、先祖供養はしなくて良い」との言葉は、大乗仏教の精神を無視する言葉であり、僧侶としては有り得ない話となります。
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以前から時折お会いする方からご相談を受けました。以前から参加されている活動のことでご相談を受けていますが、霊障対策をご指導したところ、状況が改善しつつあるとのことでした。相談者の方は、一般の方ですので、現実の人間関係の話をされます。これは当然のことではありますが、現実の動きの背後には、心霊世界の動きがあります。その心霊世界の問題を解消することで現実の世界の問題を解消することが私の仕事なのですが、いつも理解していただくのが難しいと感じます。
例えば、Aさんがやる気がなくて困っているとの話をお聞きした際には、今は○○家の霊障が解消していないから今は動けないよと言った話をしても理解していただけません。これは霊障の典型的な事例なのですが、大量の不成仏霊が押し寄せますと、自宅や職場の霊域が悪化します。霊域が悪化すると疲れやすくなり、注意力も低下して作業効率が低下します。また、意欲も低下して無気力になり易くなります。このような状態ではやらなければならないことは分かってはいても意欲が湧かなくなります。
しかし、これは見えない世界で起きていることであり、目の前にある現実は、無気力なAさんの姿です。そのため、相談者はどうしてこんなに無気力なのかとな嘆くことになります。Aさんには、○○家の霊障が深刻なことや深刻な霊障で起きることの説明と具体的な対策も伝えてあります。Aさんも霊障の解消に理解があるだけでなく、霊障対策の効果も実感されていますので、既に対策はされていますが、余りにも深刻な霊障であることから霊障は改善していても解消には至っていません。
そのことを相談者の方には説明しているのですが、無気力なAさんの姿を見ていると何とかならないかとの気持ちが強くなるようです。Aさんは人柄も良く、才能もありますが、育ちの良さが裏目となり、押しの弱さが目立つ人物であることから相談者の方からすると歯痒くて仕方がないようです。相談者からするならば、折角色々な話が来ているのにどうして放置するのかと怒っておられました。これは心霊世界の動きを実感できないことから仕方がないことなのかも知れません。
また、深刻な霊障は、仕事にも影響しますので、仕事でも色々なトラブルが頻発することになります。これは私も経験していることなのですが、霊障が原因のトラブルの多くは、取引先や外注先の間違いなど自分の力の及ばないことが多く、注意はしていても避けられないトラブルの対応に追われることになり、そのことで精神的に追い詰められることにもなります。
この他にも霊障が原因のトラブルとして不注意で起きるトラブルがあります。これは注意していれば防げるとトラブルではありますが、些細なミスが大きなトラブルになることもあります。これら事情を考えますと、今は無気力なAさんを責めても意味はなく、障りの解消を用船すべきなのですが、理解してもらうことは難しいと感じています。
これとは逆に相談者は良くなったと思っていることでも、私は油断できないと思うこともあります。これは先ほどの事例とは逆の話となりますが、霊障には大きく分けて二つのパターンがあります。一つは生きている人間の身体にとりついている不成仏霊の障りと生きている人間の心を支配している不成仏霊の障りです。どちらも生きている人間に悪影響を及ぼしていることは同じですが、身体にとりついている不成仏霊の障りよりも心を支配している不成仏霊の方がより深刻であり、障りの解消が難しくなります。
先日、お会いした相談者の方は、それまで何かと対立していたBさんとの関係が大きく改善したと喜ばれていました。Bさんは少しやんちゃな面はありますが、気さくな方であり、人を魅了する力を持つ方ではありますが、相談者の方と何かと対立することが多く、以前からBさんとの関係で相談を受けていました。そこでBさんについて調べましたところ、やはり霊障が隠れていましたので、相談者の方に対策していただきましたところ、関係が大きく改善したと喜ばれていました。
しかし、私からしますと解消した障りは、身体にとりついている不成仏霊の障りであり、心を支配している不成仏霊の障りは解消していない印象がありました。そのことを説明したのですが、相談者の方はBさんとの関係が大きく改善したのにと戸惑われていました。これも現実の姿だけを見ていると分からないことなのですが、身体にとりついている不成仏霊の障りが解消しますと、相手に与える印象が大きく改善します。これは霊感のない方でも身体にとりついている不成仏霊がいますと、相手は無意識に敵対心や嫌悪感を持つことが原因であり、人間関係が悪化する原因となります。
この場合には、Bさんの身体にとりついていた不成仏霊の障りが解消しことで相談者が無意識に抱いていた嫌悪感が解消したこととBさんの感情を翻弄していた不成仏霊の障りが解消したことで人が変わったような印象を受けるようになったことが原因と思われます。しかし、心を支配している不成仏霊の障りは解消していません。心を支配している不成仏霊は、生きている人間の心を支配することから考え方が不成仏霊の影響を受けることになり、非常に厄介です。
最悪の場合には、不成仏霊に心を完全に支配されて不成仏霊の操り人形となります。勿論、本人は自分の意思で行動しているとしか考えませんが、本人は自分の意思と思っている考えの何割かは、不成仏霊の意思であることが少なくありません。この極端な事例が心の中に何人もの人格が存在する多重人格者となりますが、これは誰にでも起きる現象です。例えば、作家や作曲家などが突然のひらめきを得た場合に、降りてきたと表現をされることがありますが、これも心霊世界からの指導の可能性があります。
私からするならば、現実世界と心霊世界は表裏一体であることから、現実世界の動きと心霊世界の動きを区別して考えませんが、一般の方は、現実世界の動きだけで全てを判断されることから、何が起きているのかを理解することが難しいのてはないかと思います。そのため、霊障を解消することは、私にとっては現実の問題を解消するのと大差がなく、霊障を解消した方が現実の問題を解消する早道となることの方が多いと考えています。
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私はこの話を聞いて、不倫をしていた知り合いと相談を受けた霊能者の正体を垣間見た気がしました。知り合いとの縁を切る前に不倫相手のことは聞いていましたが、知り合いの不倫相手は、同棲相手の暴力に悩んでいるとの話でした。その際に妻帯者であるお前に男の暴力を批判する資格はあるのかと語ったことを覚えています。そして不倫相手の相談を受けた際にお前にできることは、離婚してから不倫相手に改めて交際を申し込むか、不倫相手のことを忘れるかの二つに一つであることを言いました。
知り合いは、相手の女性は自分が守ると言っていましたが、お前に何ができるのか、出来もしないことを安易に言うなと知り合いに怒ったことを覚えています。また、自分の嫁の悪口は並べても離婚の話になると嫁が悪いのだから嫁が家を出るべきだと繰り返すばかりでした。不倫相手を忘れることもできない、離婚もできないのであれば、せめて不倫相手の生活費を用意できるのかと言えば、それもできないとの話でしたので、呆れました。
不倫をする前は、小狡い(こずるい)面はあるものの、悪い男ではないと思っていましたので、時折会っていましたが、不倫の相談を受けるようになってからは、距離を置くようになりました。その後、知り合いと何人かの共通の友人から知り合いのことを色々と聞く機会があり、知り合いの嫌な面を知りました。知り合いから聞いていた話の多くが、知り合いにとって都合よく修正された話であることが分り、知り合いと縁を切ることにしました。
その後、不倫をしていた知り合いが霊能者に相談した話を聞きましたが、最初に思ったのが、不倫相手であっても自分にとって大切な女性が激しい暴行を受けてると分かったならば、何としても止めたいと思うのが男として当然ではないかと思いました。まして暴行の原因が自分との関係であるならば、尚更です。また、離婚の問題にしても子供の問題はどうするのかをそんなに簡単に決められるのかとも思いました。子供にとっても両親の離婚は大きな問題なのに何も考えていないのかと思いました。
不倫をしていた知り合いにとっては、不倫相手が大怪我をしても自分のものになれば良く、嫁が家を出てくれるのであれば、子供のことはどうでも良いと考えていたからこそ、霊能者の話を聞いて大喜びしたのではないかと思います。好きな相手を自分が守ると言っていた言葉は、口先だけであり、本心は別でした。本音を隠して自分を飾る言葉を語るときには、饒舌であったことに気付きました。男としても親としても軽蔑しますが、これが魔物の心理ではないかと思います。
恐らくは、不倫していた知り合いと相談をした霊能者は、魔物に支配されていたのだと思われます。そして霊能者が語った不倫が発覚して不倫相手は同棲している相手から激しい暴行を受け、ぼろぼろにされる。本人の家庭は三日間大騒ぎとなり、嫁は家を出る。その後に不倫相手を引き取ってやれば良いとの話は、予言ではなく、背後に隠れている魔物が計画していたことであり、二組の夫婦を離婚させて知り合いを不倫相手と再婚することで、自分の支配をより強固にしようとしたと思われます。
実際はどうなったかと言えば、不倫相手は知り合いとの関係の清算され、知り合いの奥様は不倫関係に気付きましたが、離婚に至ることもなく、家庭内別居の状態になりました。そのため、以前から冷え切っていた夫婦関係が悪化しただけの結果となりましたので、霊能者の予知は大外れでした。この件に関して私は何も関与していませんので、神霊が働かれていたとしても、神霊の判断であり、私は何も祈願していません。しかし、神霊が背後に隠れている魔物が計画を阻止されたのかもしれません。
知り合いの男からするならば、それが魔物の働きであるとしても不倫相手と結婚できるならば、満足であったのかもしれませんが、満足するのは、知り合いの男だけであり、他の関係者は誰も幸せになりません。これが魔物の働きであり、ご利益信仰の末路てあるとも言えます。多くの人の幸せよりも自分だけの利益を追い求めるならば、口先でどんなに立派なことを語っていたとしても、心は魔界へと通じます。心が魔界へと通じているならば、魔物に支配されます。
そして魔物に支配されたならば、魔物に利用される人生となり、現世において何らかの利益を得られたとても、魔物にとって利用価値がなくなれば、使い捨てにされ、死後の世界においては魔物に使役されることになります。しかし、知り合いの行ったことは、魔物に支配されていたとしても、魔物のやり口そのものであり、死後に魔物の手先となったとしても自業自得でしかありません。これは霊障と言うよりも本人の生き方の問題であると言えますが、今から考えるならば、深刻な霊障であったと思います。
大物の魔物ともなれば、簡単には姿を見せることもなく、人の心の奥底に静かに潜みます。そして人間の心を操ります。そのことを知ったのは、それから何年も後のことでした。これは極端な事例ではありますが、魔物に心を支配された男の末路と言えます。
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また、魔物は支配欲が強く、生きている人間を支配することや生きている人間を通して周囲の人間を支配することを求めます。魔物にしてみれば、生きている人間を支配することは、大きな快感を覚えるようです。勿論、魔物にとって生きている人間の幸せなとどは眼中になく、利用することだけが目的だけですので、一時的に社会的な成功を得られたとても長くは続かないようです。勿論、私が見ている事例は数例しかありませんので、個人的な印象でしかありません。
さて、このタイプの最大の厭(いや)らしさは、人の足を引っ張ることではないかと思います。人が嫉妬心を抱いた時に嫉妬心を解消する方法は幾つかありますがね大きく分けるならば、嫉妬心を抱いたことを恥じて嫉妬心を捨てる、ライバルを見返すべく努力する、そして相手の足を引っ張って相手の評価を下げるではないかと思います。嫉妬心を捨てることと自分が努力することに問題はないとしても、相手の評価を下げることは、何の価値も生み出しません。しかし、猜疑心が強く、肥大化した優越感を持つタイプの人の多くは、相手の足を引っ張って相手の評価を下げる努力に専念します。
そしてこれが魔物の心理であると言えます。繰り返しとなりますが、魔界は力が支配する世界であることから猜疑心が消えることはありません。また、魔物は肥大化した優越感を持つことから激しい嫉妬心を抱きますが、常に相手の足を引っ張って相手の評価を下げる道しか選びません。それが魔物が障りしか起さない理由であると言えます。その意味では、猜疑心の塊のような性格であり、白か黒かでしか考えることができず、肥大化した優越感を持つ魔物は、非常に厄介な存在です。
これが生前に厳しい修行を重ねながらも転落した行者や生前に武将として生きた方が激しい恨みから怨霊になった場合などは、電化製品の故障の頻発、転倒などの怪我、交通事故、病気など力技と言うべき障りであり、真正面から攻撃してきます。そのため、転落した行者や武将の障りの対策をしていますと大きな事故や怪我などに巻き込まれる可能性が高くなります。また、古い電化製品が狙い撃ちされることは多くありました。過去の事例では、エアコン、給湯器、洗濯機などが立て続けに故障したこともうありました。
この他にも参拝に向かう途中での飛び石による自動車のフロントガラスの破損が3回ほどありました。一回は修理が不可能な程の傷であり、フロントガラスの交換となり、高額な修理となりました。また、田舎の片道一車線の道路で飛び石でフロントガラスが損傷した際には、どうしてこんな道でと唖然としました。また、参拝に向かう途中で嫌がらせのような追い越しをされることが、頻発することも珍しくありません。
こんな事例は数多くあります。勿論、偶然と言ってしまえば、それまでなのですが、障りの原因を調べたり、障りの解消するための対策を占っていたりしていますと、嫌がらせのように電化製品の故障の頻発、怪我、事故などが起きます。これが一度や二度ならば偶然かと言えますが、余りに多すぎて書ききれない状態です。それでも真っ向から障りを起す怨霊の方が逃げ隠れしない相手であることから対処しやすいと言えます。相手の正体さえ見抜けるならば、どんなに力のある怨霊であっても神仏には勝てませんので、障りの解消は可能となります。勿論、最悪の場合には、命を狙われますので、危険な相手です。
これに対して陰湿な魔物は、人間の心の闇の奥底に潜むことから見つけることが難しくなるたけでなく、姑息な手段で障りを起すことから非常に厄介です。その手口については、過去に何度もご紹介していますが、次回は視点を変えてご紹介したいと思います。
次回に続きます。
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配信者の解説では、オタクに多く見られ性格設定となっているとの話でした。私も人から占い師ではなく、占いオタクだと言われたことはありますが、オタク文化のことは殆ど知りませんので、興味深い話でした。そこでゲームで使用されていた「陰キャ」について調べてみました。
陰キャ
「陰キャ(いんキャ)」は、いわゆる「陰気なキャラクター(陰気な性格の人)」の略。言動や雰囲気が陰気・陰湿・暗い・後ろ向きな人。周りの人の気持ちを暗くさせるような人、コミュニケーション能力のない人、社会性の乏しい人という意味を込めて使われる場合もある。罵り文句として用いられることもあれば、自虐の意味で用いられることもある。
実用日本語表現辞典
陰気な性格の人のことを陰気・陰湿・暗いと決めつけることには疑問を感じますし、コミュニケーション能力のない人、社会性の乏しい人のことを暗いと決めつけることにも疑問を感じていますが、本当にゲームに登場するような猜疑心の塊のような性格設定であり、白か黒かでしか考えられない思考を持ちながらも自尊心だけは極めて高い性格の人物であったならば、社会生活に対応することは非常に難しいと思われます。しかし、ゲームで設定されていたような極端な性格ではないとしても猜疑心の塊のような性格設定であり、白か黒かでしか考えられない思考を持ちながらも自尊心だけは極めて高い性格の人物は存在していることに気付きました。
私が知る何人かの知り合いは、コミュニケーション能力のない人物でもなければ、社会性の乏しい人物でもなく、問題なく社会生活に適応していましたが、猜疑心が強く、白か黒かでしか考える、自尊心が極めて高いなどの性格の人物はいたことを思い出しました。彼らは一応社会生活に適応していましたので、オタクと言った印象もなかったのですが、本質的には「陰キャ」であったと考えるべきなのかと思いました。考えてみれば、猜疑心が強く、白か黒かでしか考える、自尊心が極めて高いなどの性格の人物は、社会的に成功していた人物もいましたが、いずれも幸せな人生は生きていない印象があります。
実は、猜疑心が強く、白か黒かでしか考える、自尊心が極めて高いことなどは、転落した行者や魔物に共通している性格であり、過去に嫌と言う程見てきた不成仏霊の性格でもあります。勿論、疑うことを知らずに簡単に騙されることが良いことであるはずもなく、熟慮すると言っても優柔不断で何も決められないのでは、単なる優柔不断となります。また、自分に自信を持てなくて自己卑下を繰り返しているならば、死後の世界においても力のある不成仏霊や魔物に手下として使役されるだけの話となります。
しかし、ゲームに登場した何を言っても悪く受け取る猜疑心の塊のような性格であり、白か黒かでしか考えられない思考を持ちながらも自尊心だけは極めて高い性格ならば、死後の世界に帰ったなら確実に転落すると思います。また、これで並外れた念の強さや執念深さなど持っていたならば、魔物になる可能性があります。勿論、生きている間は、魔物になる可能性があると言うだけの話ではありますが、このような心で生きているならば、魔物を呼び寄せる可能性は高くなります。魔物の影響を受け続けるならば、猜疑心はより強くなり、独善的な性格は強化されることになります。そして自尊心は益々肥大化して心は魔物に支配されることになります。つまり生きながら魔物の手下となり、魔物に支配された人生となります。
次回に続きます。
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では、どうしてマルクス主義者の障りの場合には、膨大な数の不成仏霊の障りが見つかるのかを考えますと、マルクス主義は被害者意識を煽る思想であり、富める者に対する憎悪があることが原因ではないかと考えるようになりました。マルクス主義では、資産家は労働者を搾取していると定義されていることが理由と思われますが、この考えはマルクス主義の根底にある労働価値説から導かれた考えです。この労働価値説とは、商品の価値とは費やされた労働力で決まるとの考えですが、商品の住地とは費やされた労働力ではなく、需要と供給で決まります。そのため、マルクス主義は根底にある考えが間違っています。
では、どうして多くのことがマルクス主義に魅了されるのかと言えば、自分たちが不幸なのは、差搾取されているからであり、金持ちや権力者が悪いと自分たちの嫉妬心を正当化できるからではないかと思われます。人間は誰しもが嫉妬心を抱えていると思われますので、その嫉妬心を正当して自分は悪くない、悪いには金持ちだと考える思想は、多くの人を魅了するようです。これは何も社会的に成功できない方に限られた話ではなく、社会的に成功した方でも同じだとの話を聞いたことがあります。
一流会社に就職してある程度の地位になっても、自分たちが不幸なのは、差搾取されているとの考えを持ち続けていると話です。その場合には、搾取している者は、自分よりも地位の高い者が対象になると聞きました。つまり富裕層と貧困層と言っても相対的であり、平均的な年収の人間からするならば、富裕層と思っても本人は、自分は貧困層であり、自分よりも高収入を得ている者たちこそが富裕層であり、自分たちを搾取していると考えます。
生きている人間が差別されているとの被害者意識が強く似りますと、生前に自分たちは差別されていたとの強い不満を抱く不成仏霊を呼び込む原因となります。その典型的な事例が被差別部落の住人や穢多非人(えたひにん)と呼ばれた身分の方々、ハンセン病患者などの生前に激しい差別を受けていたと思われる不成仏霊の集団となります。個人的には、被差別部落の方々やハンセン病患者の方々を差別する気持ちはありませんが、死後も世の中に対する強い恨みを抱いている方々が大半ですので、障りの解消には非常に苦労します。
また、マルクス主義者のもう一つの特徴としてマルクス主義者が権力を持つと独裁的になることがあります。権力者を倒す目的は、差別されている人々を解放することであり、平等な社会を構築することが目的であるはずなのですが、マルクス主義者が権力を持つと自分たちとは異なる意見を弾圧して封じる独裁政治を行うことになります。これは日本共産党の党首が党員の自由投票で選ばれていないことや中国などの社会主義国では自由な投票が行われていないことを見ればわかるのではないかと思います。
このことについて詳しく書きますと長くなりますので、深入りしませんが、原因はマルクス主義にあると考えます。マルクス主義は非常に独善的であり、排他的であることから独裁を正当化する思想でもあります。そのため、マルクス主義者は、独善的で排他的な考えを持つことになりますが、この考え方は同じような考えを持つ不成仏霊を呼び集めることになります。つまりマルクス主義者は、世の中に強い不満を持つ不成仏霊と独善的で排他的な不成仏霊の両方を呼び集めることになりますので、非常に厄介な障りとなります。
どちらか一方の障りだけでも解消が困難なのに両方の障りを解消しなければならないとなれば、通常の供養や祈願祈祷では、全く歯が立たない障りとなります。特に長年社会党や共産党を支持し続けているだけでなく、党員として活動しているともなれば、どんな深刻な障りが隠れていても不思議ではない状態なりますので、熱心に障りの解消に取り組まれたとしても、長い歳月が必要となります。そのため、1年や2年で障りが解消する可能性は非常に低く、最低でも5年、10年と言った歳月が必要となります。
個人的には、特定の政党を批判する気持ちはありませんが、社会主義や共産主義の影響を強く受けている政党や政治活動に参加されることや活動を支援されることは、深刻な霊障の原因となる可能性がありますので、とてもお勧めできません。また、最近は恵まれない方々の支援活動や環境保護活動を表看板に掲げているマスクス主義の団体も多いようですので、ご注意下さい。
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ご質問の回答は、なるべくは早くブログで取り上げさせていただくことにします。
それはさておき・・・・
信仰の自由が保障されていますので、マルクス主義が宗教であろうともマルクス主義を信じることは、本人の自由ではありますが、生前に死後の世界を否定していた方は死後の世界で迷う可能性が非常に高くなります。これは考えれば、当然のことでしかありません。生前に死後の世界などないと信じ込んでいたのに、死後の世界があったとするならば、混乱するのが当然です。そして生前に神仏を否定していたことから、神仏に助けを求める方法すら分からない状態となります。
また、客観的に目の前の現実を見ることができるのであれば、自分が置かれている状況を考えるならば、死後の世界が存在していることを受け入れざるを得なくなりますが、頑なに唯物論を信じている場合には、自分の考えが間違っていると考えることなく、目の前の現実を否定します。これは生きている人間でも同じであり、マルクス主義者はソ連か崩壊しようか、東欧諸国が資本主義の国になろうが、マルクス主義が間違っているとは考えないのと同じです。
自分だけの世界だけに閉じこもっている人間にとっては、それが妄想であっても自分の作り上げた世界が全てであり、マルクス主義を頑なに信じている人にとっては、マルクス主義が破綻している理論であることなど絶対に受け入れられない現実となります。そのため、自分の目の前の現実が自分の世界観と異なるならば、現実を否定します。常識的に考えるならば、信じられないと思う方も多いかとは思いますが、現実と自分の考えが異なるならば、現実を否定する人は数多くいます。
私が占い師として活動し始めたばかりの頃ですが、知り合いから相談を受けました。相談内容は、不倫相手との関係でした修復についてでしたが、話を聞いたところ、既に破綻状態であり、占う必要もない状態でした。それでも占ってくれと懇願されたことから占いましたが、関係の修復の可能性は皆無であるとの結果でした。その後も何度も占いを依頼されましたが、結果はいつも同じでした。不倫相手は既に新しい相手と結婚を前提に交際していることから復縁の可能性など皆無でした。
知り合いに繰り返し、復縁の可能性などないことを言っても未練と愚痴を言い続けました。ここまで未練がましくなれるものなのかと呆れていましたが、知り合いの未練と愚痴は際限がないのかと思う程続きました。そして最後は、地元で有名なお祭りに元不倫愛と交際相手が一緒に歩いているのを目撃したとの電話でした。流石に元不倫愛と交際相手が一緒に歩いている姿を見たことは、ショックだったらしく、その後の鑑定依頼はなくなりました。
知り合いにとっては、不倫相手が自分を捨てて別の男と一緒になることなど考えられないことであったようです。私からするならば、鑑定を依頼される前に会った際には、不倫相手が強欲だとぼやいていたのは何だったのかと言いたくなる気分でした。しかし、不倫相手が自分を捨てて別の男と一緒になるかもしれないと分かったことで、自分の作り上げていた世界が崩壊して現実逃避を始めました。その逃げ道が占いであったと思います。占いに淡い期待を求めて縋ったと思われます。
この事例は、恋愛の事例ですが、同じような話は仕事でも珍しい話ではありません。多くの人は自分が長年行っていた仕事の方法に強くこだわる傾向があります。若い頃に覚えた方法を30年以上も守り続けていることもありました。教えられたことを守り続けるのは悪いことではありませんが、その間に何も新しい技術を学ばなかったのかとこちらが不思議になりました。毎日毎日同じことを繰り返すだけの生活に何の疑問も持たないかと思うのですが、何も疑問を持たない人が多いようです。
しかし、本人が何の疑問を持たないとしても、世の中は変わります。その顕著な例がレンタルビデオの業界ではないかと思います。まだ、ビデオデッキが高価であった昭和の時代には、レンタルビデオ業界は急成長していましたが、令和の時代になってからは価格競争が始まり、ネットで映画が見られるようになってからは衰退の一途をたどりました。これは色々な業界で起きたことであり、薬局はドラックストアーとの競争に敗れて衰退し、家電製品の小売店は大型量販店との競争に敗れて衰退しました。また、文具店も100円均一のお店の台頭と子供の数の減少で衰退など大きな時代の流れに飲み込まれて廃業された方も多いと思います。
商取引の世界ならば、本人がいくら現実を否定しても売り上げが低迷するならば、会社を維持することができなくなりますが、目の前の現実が破綻しても現実を認めない人は数多くいます。自分は間違っていない。間違っているのは世の中の方であると頑なに信じます。こんな考え方をしている方が死後の世界に帰ったことで変わるかと言えば、何も変わりません。これは唯物論者でも同じであり、死後の世界に帰っているのに死後の世界は存在していないと考えます。
そのため、自分の死を自覚していないことになりますが、自分の死を自覚しないままに子孫などに助けを求めて障りを起す場合と自分が現世に生きる人間を指導しているような気持で障りを起す場合に分かれます。このどちらの場合も自分の死を自覚していないだけでなく、神仏の存在を否定しいることから神仏が働き掛けても拒絶しますので、一般的な供養を継続されても障りの解消が困難となります。
具体的には、生前に信じていた唯物論が間違いであったことを納得させる必要があります。特にマルクス主義者の場合には、マルクス主義の間違いを納得させることが重要となります。そして自分が既に死亡していることを自覚させる必要がありますが、神仏であっても簡単なことではありません。しかし、この段階を終えなければ、一般的な供養を継続されても障りの解消は困難となりますので、唯物論者の障りを解消することは容易ではありません。
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神仏のように、自分にとって究極的な価値や意味をもっている対象と全人格的な関係をもち、その対象に無条件に依存し献身する心的態度をいう。経験できぬ不確実なものを主観的に確実であると思い込むことではない。宗教的体験や儀礼を繰り返すことによって、しだいに人格の内部に一定の心的態度が信仰として形成される。信仰は個人生活を統合する中心の役割を果たすと同時に、その信仰の表現である信条、組織、制度などにより、共同体の生活を統合する活動の中心にもなっている。
[藤田富雄]
日本大百科全書(ニッポニカ)
信仰を「自分にとって究極的な価値や意味をもっている対象と全人格的な関係をもち、その対象に無条件に依存し献身する心的態度」と定義するならば、唯物論も一つの信仰であると考えることができると思います。続いて「経験できぬ不確実なものを主観的に確実であると思い込むことではない。」とありますが、神仏の存在や死後の世界を否定する人人は、信仰を経験できない不確実なものを主観的に確実であると思い込むことであると考えているではないかと思います。
唯物論の方は、経験できる確実なものが全てであり、経験できない不確実なものを否定することが科学的であると信じていると思われますが、本来の科学的な立場からするならば、経験できない不確実なものを研究の対象とすると聞いています。分からないことがあるからこそ研究するのであり、経験できる確実なものだけで全てを理解できるのであれば、研究する必要がなくなります。しかし、この世の中には、現代科学では解明できない謎は数多くあり、分かっていることの方が少ないと言えます。
唯物論の歴史は古く、お釈迦様が教えを説かれていた時代のインドにもありましたが、個人的には自分が理解できる枠の中で考えているのではないかと思えます。世の中は矛盾だらけであり、不可解なことが満ち溢れていると考えるべきであり、全てを理解できると考えることの方が思い上がりではないかと思います。これは何も心霊世界の話に限られたことではありませんが、自分は全てのことを分かっていると考えるのは、自分の分かる範囲のこと以外のことを無視していると言えます。
その典型がマルクス主義において説かれている「唯物論的歴史観」(史的唯物論)ではないかと思います。昔からマルクス主義に関しては興味がなかったことからマルクスの著書は殆ど読んでいません。唯一、読んだと言えるのが資本論ですが、余りにも支離滅裂な内容であることから三分の一程度読んで読む気を失いました。一応、最後まで読みましたが、読むのが苦痛で斜め読みしました。それでもこんな支離滅裂な内容を多くの人は、本気で信じているのかと悩みました。
個人的には、マルクス主義が破綻していることは、歴史的な事実だと考えています。私が学生時代の頃には、左翼思想に傾倒する若者が多かった時代であり、社会主義が資本主義よりも優れていると本気で信じている人も多かった時代でした。また、唯物論的歴史観では、無階級社会から階級社会へ、階級社会から無階級社会へと、生産力の発展に照応して生産関係が移行していくとされ、共産主義がもっとも進んだ段階であるから、資本主義は共産主義になるとされていました。しかし、現実は資本主義が共産主義になることはなく、社会主義国であるソ連は崩壊しました。
中国は資本主義を取り入れて発展しましたが、社会主義体制に戻りつつあります。チヤイナウオツチャーの多くは、経済的に没落するであろうとの予測しています。他に社会主義体制の国は幾つかありますが、資本主義国が共産主義体制になる可能性は非常に低いと思われます。しかし、今でもマルクス主義を信奉している方は数多くいます。また、環境保護活動や男女平等などの活動家は、マスクス主義者が多いとも聞いていますので、マルクス主義の人気は高いようです。
私はこれらのことが唯物論は思想ではなく、信仰と考えるべきではないかと考える理由です。私は宇宙人や未来人の存在を肯定も否定もしません。否定できるだけの知識もなく、存在を証明することもできません。宇宙人の存在を証明するとされる証拠を見せられたとしても本物か偽物かを判断することもできないことから、否定も肯定もできません。死後の世界にしても同じことです。私には死後の世界の存在を証明することはできません。
勿論、私は死後の世界の存在を信じていますが、それは過去の個人的な体験の積み重ねの結果であり、それを信じるかどうかは、個人の判断です。また、神仏の存在にしても同じことであり、私は信じていると言うだけのことです。では、本来の科学的な立場からするならば、どう考えるべきかとなりますが、否定も肯定もしないのが、科学的な立場ではないかと思います。分からないからこそ研究の対象となると言えますが、死後の世界の存在や神仏の存在を研究する科学者はいないだけのことです。
死後の世界の存在や神仏の存在を研究する科学者もいないのに、どうして死後の世界や神仏が存在しないと断言できるのでしょうか。突き詰めて考えるならば、唯物論者の主張は思い込みでしかないと言えます。しかし、唯物論者の多くは、意固地になって否定している印象を受けます。このように考えますと唯物論は思想ではなく、信仰に思えます。特にマルクス主義者に関しては、この傾向が顕著であり、マルクスの思想に間違いがあるはずがないと信じているのではないかと思うことがあります。
次回に続きます。
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今朝になり、そのことに気付きましたので、順番を訂正しました。
ご迷惑をお掛けして申し訳あません。
m(_ _)m
それはさておき・・・・
前回取り上げました自己愛性パーソナリティ障害と並んで対応が難しいとされているのが、境界性パーソナリティ障害です。以前に読んでいた心理学の本にも対応が難しい病気として紹介されていました。
「ゆくん【公認心理師】@心理カウンセラー」にも境界性パーソナリティ障害に関する動画は幾つか紹介されていますが、幾つか紹介しておきます。
【ボーダーのサイン】境界性パーソナリティ障害の見分け方5選|外見・行動 こちらから
境界性パーソナリティ障害の方が自分がわからなくなる理由&自分を理解するための5ステップ こちらから
【総集編】境界性パーソナリティ障害の全てがわかる動画 こちらから
1:24:30と非常に長い動画です。
境界性パーソナリティ障害とは
気持ちや行動、対人関係が不安定になりやすく、日常生活や仕事で著しい苦痛や支障を引き起こしてしまう障害です。基本的には、相手の気持ちを敏感に察することができるため、相手のために(時として必要以上に)頑張ったり、思いやりのある行動をとったりすることが多い方々です。
ただ、相手が自分を見捨てて離れていく、自分を大事にしてくれていない、と感じると、不安や怒りが急に強くなり、うまくコントロールできなくなってしまいます。
冷静になると、なぜあんなことをしてしまったのか…と自分を責めてしまい、とても辛い気持ちになり、さまざまな影響が出ます。
アメリカの調査では有病率は一般人口の約2%で、その約7割が女性であり、わが国でも同程度と考えられています。
元記事 酒田駅前メンタルクリニック こちらから
境界性パーソナリティ障害についての詳しい解説は、専門家の方にお任せしますが、自己愛性パーソナリティ障害と境界性パーソナリティ障害のどちらも周囲の方にとっては対応が困難な病気なことは間違いがないようです。専門家でも対応が難しい病気ではありますが、霊障の観点から考えますと、この病気の方は深刻な霊障の可能性が高いのではないかと思います。自己愛性パーソナリティ障害も深刻な霊障ではないかと思われる点が多いのですが、自己愛性パーソナリティ障害の霊障とは異なるタイプの霊障ではないかと思います。
勿論、これは個人的な印象ではあり、詳しくは個別に鑑定してみませんと断定的なことは書くべきではないと思いますが、境界性パーソナリティ障害の解説を聞いていますと、典型的な霊障の症状であり、幾つもの原因が折り重なるように隠れている解消が非常に困難な霊障であると思いました。膨大な数の不成仏霊による霊障であることは間違いがないと思いますが、恐らくはかなりの大物の魔物が隠れているのではないかと思われます。
過去の経験では、境界性パーソナリティ障害に限らず、愛着障害などの病気は、家庭環境が大きな原因になっている印象があります。そして更に原因を探りますと家庭の霊域が非常に悪いことが多いことから、心の病気の多くは、霊障と密接な関係があるのではないかと考えています。残念ながら心理学を専門的に学んだ経験もないことから心の病気と霊障の関係に関しては、漠然とした印象程度でしか語れませんが、何らかの関係があるのではないかと思います。
さて、話を境界性パーソナリティ障害に戻しますと、基本的には生前に抑圧され続けた不成仏霊が障りを起している可能性が高いのではないかと思われます。現代においても社会の底辺で生きる人々は社会的に抑圧されていると言えますが、少し時代を遡るならば、身分制度や家柄に縛られて本人の才能や努力とは無関係に忍耐を強要され続けた人生を生きなければならなかった人々の数ははかりしれません。
境界性パーソナリティ障害の特徴として、「相手の気持ちを敏感に察することができるため、相手のために(時として必要以上に)頑張ったり、思いやりのある行動をとったりすることが多い方々です。」とありますが、これは生前に権力者の顔色を窺うことでしか自分の身の安全を保つことしかできなかった不成仏霊の影響も考えられます。勿論、全てを霊障と考えるべきではないことは分かっていますが、過去の事例では理由のない不安感などは霊障が解消すると消えてしまうことがあります。
また、「ただ、相手が自分を見捨てて離れていく、自分を大事にしてくれていない、と感じると、不安や怒りが急に強くなり、うまくコントロールできなくなってしまいます。」とありますが、これも霊障の典型的な症状の一つです。不成仏霊や魔物が現世に生きる人間を操る常套手段は、人間の不安や怒りを煽ることです。大半の人間は、不安や怒りを抱えていますが、不成仏霊や魔物は不安や怒りを煽ることで現世に生きる人間を操ります。
特に重度の霊障の場合には、不成仏霊や魔物の抱えている恨みや怒りを代弁していることも少なくありません。これは不成仏霊や魔物に心を乗っ取られている状態とも言えますが、このような状態になりますと、際限のない恨みや怒りが沸き起こる状態となります。つまり、本人の怒りの炎に不成仏霊や魔物が油を注いでいることから際限のない恨みや怒りとなります。勿論、本人は自分の感情だと思っているのですが、実体は不成仏霊や魔物に翻弄されていると言えます。
そして「冷静になると、なぜあんなことをしてしまったのか…と自分を責めてしまい、とても辛い気持ちになり、さまざまな影響が出ます。」とありますが、恨みや怒りの感情を煽っていた不成仏霊や魔物の影響が減少することで本人の意識が強くなり、後悔することになります。しかし、一時的にでも不成仏霊や魔物の影響が減少するかと言えば、そうでもありません。減少するのは恨みや怒りの感情を煽っていた不成仏霊や魔物の影響だけです。
本人の後悔の念が強くなるならば、今度は生前に絶望感や不安感を抱えていた不成仏霊の影響が強くなります。これらの不成仏霊の多くは、人間に対する不信感が強く、強い猜疑心を抱えています。その強い猜疑心を抱えている不成仏霊や魔物の強い影響を受けることになり、非常に悲観的な考えにとらわれるようになります。つまり、この二つのタイプの不成仏霊や魔物が入れ替わることで常に不成仏霊や魔物の影響を受け続けることになり、本人の気持ちは乱高下することになります。
しかし、大半の方には、目の前にいる人間のことしか分かりませんので、境界性パーソナリティ障害の患者に翻弄されることになります。勿論、カウンセラーにしても事情は同じであり、霊能者であっても本当の霊障の原因を見抜ける方は、非常に少ないのではないかと思います。また、膨大な数の不成仏霊の影響を受けている場合には、かなりの大物の魔物が潜んでいる可能性が高くなることから霊障の解消には長い歳月が必要となる可能性が高くなります。逆に言えば、かなりの大物の魔物が潜んでいるから深刻な霊障になるとも言えます。
境界性パーソナリティ障害についてあれこれ書きましたが、心霊世界のことを否定する方からするならば、全ては妄想と思われるのではないかと思います。私は、霊障であると証明する方法を知りませんので、反論する気もありません。また、境界性パーソナリティ障害に関しても素人の知識ですので、全ては個人的な推論でしかありません。私も自分の考えに間違いがないとも考えてはいませんが、専門家でも対応が難しい病気であることから、霊障の可能性を疑うべきではないかと思います。
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お客様にもご迷惑をお掛けしています。こんなブログを書いている暇があるならば、仕事をしろと言われそうなのですが、好き勝手なことを書いている時間が大切な息抜きとなっています。
遅れている鑑定に関しては、順次鑑定しますので、少しお待ち下さい。
m(_ _)m
先日のことですが、自己愛性パーソナリティ障害を分かり易く解説された動画を見つけました。心理学に関しては、多少は勉強していますが、何分にも素人であり、やはり専門家の分かり易い解説は助かります。
ゆくん【公認心理師】@心理カウンセラー
【転落人生】自己愛性パーソナリティ障害男性の末路〜特徴、職場、接し方〜 こちらから
関連の動画が幾つかありますので、心理学に興味のある方にはお勧めのサイトです。さて、流石に心理カウンセラーの方が編集された動画ですので、自己愛性パーソナリティ障害の原因や周囲に与える影響は分かり易いのですが、同時に心理学の限界を感じました。
自己愛性人格障害の行動パターンと行く末はどうなるのか解説
自己愛性人格障害とは、自分を過大評価する一方で他人を下げることや共感性の欠如が特徴的な疾患です。
賞賛されたいという気持ちが強く、周りから自己中心的だと思われることが多いです。
自身の利益のためなら他人を使うことに遠慮がなく、ときにはごう慢な言動が見られます。
自分や周囲の人が自己愛性人格障害にかかっているかもしれないと、頭を抱えている人も多いのではないでしょうか
おおかみこころのクリニックHPより 元記事
自己愛性パーソナリティ障害の方は、自分を過大評価する一方で他人を下げることや共感性の欠如が特徴的なことから周囲には迷惑な存在です。私が勤めていた会社の上司も自己愛性人格障害であったと考えるならば、納得できる面が少なくありません。しかし、不幸にして自分の上司や親が自己愛性人格障害であったならばどうすべきなのかとなりますと、非常に厄介な話となります。動画の中でも自己愛性パーソナリティ障害の方は、自分が人格障害であると考えないことから、本人が受診する可能性は非常に低くなります。
どんなに優秀な医者でも本人を診察をしなければ、治療できません。強制的に受診させることが可能ならば話は別ですが、現実の問題として本人に病気を自覚させることは困難なことから病気だと分かっても、周囲の人間が迷惑を受け続けることは同じです。病気だと分かっていても何もできないのであれば、不治の病と思って諦めて下さいと言われているのと同じではないかと思えます。勿論、対処の仕方を学ぶことはできますが、周囲の人間にとっては苦痛が多少軽減する程度の話であり、治療方法がないと言われているのと同じことでしかありません。
私が最初に就職した会社の上司は、自己愛性パーソナリティ障害ではなかったと思われる人物でした。その上司は部下を怒鳴り散らすことを仕事と考えているのではないかと思う人物でした。但し、この攻撃対象は、営業成績の悪い部下であり、同期の同僚がいつも餌食になっていました。その同僚は上司の人格否定とも言えるような暴言に耐え続けていましたが、これは当事者でなくても気分の良いことではなく、社内の雰囲気は最悪となりました。一日の業務の終わりに日報を提出する際に同僚は、毎日10分以上も怒鳴られていました。しかし、同僚の営業不振は続いたことから、一日の業務の終わりだけでなく、朝礼の後にも怒鳴られるようになり、最後には別室で延々と怒鳴られていました。
私は、その後配置転換となり、同僚は退職しました。後で分かったことは、同僚が目の敵にされる前は、前年の新入社員が標的にされ、同僚が退社後は余り営業成績が良くなかったベテランが標的にされるようになったとの話でした。そのベテランは一年後に閑職とも言うべき部品配送の部署に配属になりました。私からするならば優れた成績は残せなかったと言ってもベテランであり、お客様との信頼関係も気付き上げていた営業を部品の配送の部署に追いやる意味が分かりませんでした。
その上司も人事異動で降格とは言えませんが、左遷に近い扱いとなりました。その後、その上司について、他の管理職が酷評に近い評価をしているのを聞き、かつての上司の評価が、この程度であったのかと知りました。これは私が管理職と懇意にしていたということではなく、管理職の方の立ち話を偶然に聞く機会があっただけのことでしたが、既に元上司に関心もなかったことからこれと言った感情も抱きませんでした。
個人的には、配置転換で暴言を繰り返す上司から解放されましたが、運が良かっただけのことでした。人事異動がなかったら次の標的は、私であったかもしれません。しかし、あの頃に私が心理学に精通していたとしても、私にできることは殆どなかったと思います。私のような下っ端の人間が、他の中間管理職の人を差し置いて上司に意見をすることなどできるはずもなく、親しい先輩に相談する程度のことしかできなかったと思います。
しかし、今の私がパワハラに悩むお客様から相談を受けたとしたら、最初に過去世の因縁を疑います。過去世で敵対関係にあった相手とは、今世においても敵対することが多くなります。次にパワハラを繰り返す上司の背後に魔物が潜んでいないかを疑います。上司の背後に魔物が隠れている場合には、魔物が怒りの感情を煽っていることがあります。この場合には、背後に隠れている魔物の障りを解消することで、上司の方が落ち着きを取り戻すことがあります。つまり、現実的に対処しようとしても何の対処もできない場合でも、霊障ならば対処が可能となります。そのため、一見するならば、現実社会とは無関係に思える霊障対策の方が現実の苦悩を解消する有効な手段となるのではないかと考えます。
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(o´Д`)=з 疲れた・・・
それでも、何とかやっております。
今年もギリギリかとは思いますが、間に合いそうです。
それはさておき・・・・
「霊障を解消する理由7」で他界した母のことを書きましたが、一般的に老人は愚痴や同じ話を繰り返すことが多いようです。私も人のことを言えない年齢ではありますが、意識が未来よりも過去に向いていることが原因ではないかと思います。武田邦彦先生が「若者は生きるか死ぬかだが、老人は いつ死ぬかだ。」と言われていましたが、老人にとっては残された時間は限られていることから意識が過去に向くことは仕方がないのかもしれません。
私も気付けば、中年と言う年齢でもなくなっていますので、終活ではありませんが、思い残しがないように霊障のことに関しては少しでも多く書き残して置きたいと考えています。このブログを書き始めた理由は、世の中に氾濫している荒唐無稽な話の多さに閉口していたからでした。除霊だ浄霊だと言った怪しげな文字が並ぶサイトは今も数多くありますし、霊感商法も根絶されることはないことから書き続けることができる間は書き続けたいと考えています。
さて、私の母が生きた戦前と戦後の時代について人情味のあった良い時代であったと美化する人と軍国主義と拝金主義の時代であったと批判する人に大きく分かれる気がします。個人的には、そのどちらも否定する気はありません。人情味があったと言えば聞こえは良いのですが、隣近所の嫉妬や見栄なども今よりも深刻だった気がしています。今は隣近所との関係が昔よりも希薄な気がしますので、一長一短があります。また、年功序列的な社会の弊害も知っていますが、社会秩序の崩壊した社会にも疑問を感じています。
そのため、過去を美化する気持ちも過去を否定する気もありませんが、終戦後から高度成長期の時代を考えますと、大半の人は今よりも狭い人間関係の中で生き、限られた情報を頼りに生きていた気がします。今はインターネット社会であることから政治経済の話題にしてもスポーツ芸能の話題にしても簡単に手に入ります。しかし、携帯電話すらなかった時代には、情報源と言えば、テレビ・ラジオ・新聞・週刊誌と言ったマスコミの垂れ流す情報だけに限られていました。
また、当時は女性の社会進出と言った風潮もなく、離婚した女性が安心して働ける職場は限られていたと思います。これは仮定の主婦にしても同じであり、今ならばスーパーやコンビニで店員と働くことはできますが、当時は主婦が収入を得る手段は限られ、内職仕事程度しかなかったと思います。それらのことを考えますと、終戦後から高度成長期の時代を生きた女性は、経済的な自立が困難なことから忍耐と我慢を強要されたのではないかと思われます。
この他にも当時の社会風潮としては、男は企業戦士であることを求められていた時代であり、男は仕事中心であった時代でした。私が働き始めた頃には残業未亡人との言葉がありました。これは連日の残業続きで、奥様は未亡人と同じであるとの意味ですが、朝早く出社して夜遅く帰宅することから夫婦の会話もない状態が続くことを揶揄した言葉です。実際、残業だけでなく、休日出勤があったりと仕事中心の生活が当然でした。この他にも接待の飲食や接待麻雀などを口実にして帰宅が遅くなるだけでなく、家庭を顧みない男性が多かった時代ではないかと思います。
また、嫁姑、兄嫁、小姑と言った家庭内の問題にしても男尊女卑の風潮と同じように嫁を見下す風潮が根強く残っていた時代でした。そのため、夫は仕事を口実に家庭を省みることなく、姑や兄嫁などに虐められるなど、家庭内でも孤立していたのではないかと思われます。現代ならば、気晴らしに一人で習い事やママ友と一緒に昼食を楽しむこともできますが、当時は外食すること自体が贅沢な時代であったことを考えると難しかったと思います。これらの事情を考えますと、戦前と戦後の時代を生きた母の愚痴が多いのも当然であると言えます。
ここまでが母の愚痴が多かった時代背景となりますが、もう一つだけ付け加えるとするならば、良妻賢母の理想像があるのではないかと思います。今でも昔の女性を礼賛する方の多くの語る女性は良妻賢母です。良妻賢母は、一つの理想ではありますが、良妻賢母でなくてはならないとの無言の圧力があったのではないかと思います。料理がうまく、家の中はいつも片付いている働き者のお母さんが理想であるとしても、この理想像が多くの女性を苦しめたのではないかと思います。
ここまで長々と書きましたが、この抑圧されて溜め込み続けた苦悩が生きている間は、際限のない愚痴となり、死後の世界においては怨念となるのではないかと思います。そして厄介なことに自分が嫁として虐められたのに、自分が姑の立場になると今度は自分が嫁を虐めることは少なくありません。これのことを心理学の観点で解説することは可能なのでしょうが、抑圧された怨念や亡くなられた方々の怨念の働きではないかと思います。
個人的な経験則でしかありませんが、霊障対策を継続していると愚痴が多い方であっても徐々に愚痴が少なくなり、表情が穏やかになることはあります。勿論、障りを起していると思われる同じような境遇を生きた不成仏霊の障りを解消するだけでも大変であり、本人が長年溜め続けた負の想念を解消することは簡単ではありませんが、生きている間に溜め込んだ怨念を解消することが大切ではないかと思います。
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それはさておき・・・・
「霊障を解消する理由7」で恨みの障りに関して書きましたが、話が大き過ぎて内容が中途半端になった気がしています。織田信長公の行った比叡山焼き討ちや石山合戦などの背景を解説しなければならないことは、分かってましたが、書き始めますと前置きが長くなることから結論を急ぎました。しかし、やっぱり無理があったのかなと考えています。
さて、戦国時代の宗教界を考える際に仏教書には書かれていない宗教界の事情を知る必要があります。
少し長くなりますが、中世において寺社がどのような力を持っていたかを解説している資料がありましたので、少し引用します。
強大な経済力・文化力を持つ寺社
中世の日本を動かしていた「寺社勢力」は、なぜ、それほどまでに強大になったのでしょうか?
一言で言えば、強大な「経済力」を持っていたから、と言えます。
著者の伊藤正敏氏は、次のように比叡山延暦寺の経済力の大きさについて指摘しています。
京都の経済は叡山なしには成り立たない。米は叡山領荘園の多い越前・加賀、さらには膝元の近江から来る。それを運ぶ琵琶湖の船運は叡山に握られている。その米を京に運び入れる運送業者もまた、叡山の支配下にある大津・坂本の馬借だ。
中略
ところで、中世の経済と言えば、酒屋や土倉以外にも「座」が有名ですよね。室町時代に一般的になる土倉や酒屋といった「高利貸し業者」が金融を動かしていましたが、その前から存在していたのが「座」でした。どんな「座」がありましたっけ。
そう、石清水八幡宮を本所とする離宮八幡宮油座や祇園社を本所とする綿座、北野社を本所とする麹座などが教科書に出てきます。これらの「座」は本所が寺社となっています。「座」に入っていなければ、生産も流通も販売もできない状態でした。もし、座に入っていない者が販売しようものなら、「暴力集団」がやってきて商売ができないようにされてしまいました。一方、「座」に入っている者は「座役」を収めることで、商売ができる特権を与えられ、保護されていたのでした。
なお、伊藤正敏氏によれば、寺社勢力は荘園領主とはまた別の、「領主としての顔」を持っていたといいます。例えば、高野山は領内の武士を軍事力として動員しました。軍忠状と感状が交換され、それが荘官が役職を保持する根拠になったのです。
これって、御恩と奉公の関係ですよね。高野山は中世を通じて、領内武士に対し、一貫して主従制の「主」であり続けたのです。親分」が高野山、「子分」が領内の武士というわけです。主従制は武家社会だけの専売特許ではなく、中世社会を貫く規範だった、と言えるんですね。
元記事 京都市教育委員会
第 9 回 『寺社勢力の中世』 〜無縁・有縁・移民〜 伊藤正敏、ちくま新書、2008年 (中) こちらから
引用した内容をお読みいただければ、分かると思いますが、寺社と言っても中世においては現代とは社会的な役目が全くことなっていたと言えます。つまり人々にとって精神的な柱である以上に巨大な経済利権を持つ存在であり、今ならば主要な産業や金融を傘下に持つ巨大財閥とも言うべき存在でした。そして寺社勢力は自分たちの権益を守るために兵力を抱えていましたので、戦国大名以上の実力を持つ領主とも言える側面がありました。これは比叡山に限られた話ではなく、どの宗旨のお寺も同じような状態であってと思われます。
参考サイト 戦国ヒストリー 巨大集金マシンと化した中世の比叡山延暦寺 こちらから
また、当時の寺社は自衛のために武装するのが、当然であったことを忘れてはならないと思いますが、先の引用サイトにそのことの解説がありましたので、引用します。
さて、織田信長が比叡山延暦寺を攻めて多くの僧侶を殺し、堂塔を焼き尽くしたという話は有名ですよね。そして、「信長は恐ろしい男だ」と結論づけられる場合が多いです。
でも、前提が現在とは違うと思うのです。現在の僧侶はもとより、江戸時代の僧侶も「丸腰」で武器などを持ち歩きません。でも、中世の比叡山などの僧侶は「武装」していましたよね。武装している勢力に「武装解除」を迫ったのが織田信長でした。しかし、信長の命令に比叡山は従いませんでした。だから、信長は比叡山を攻めたのですね。それに対して、当然、比叡山の山法師たちは抵抗しますが、多勢に無勢、敗れ去ってしまいました。興福寺の場合は、比叡山延暦寺の様子を見て武装解除しましたから、被害はありませんでした。
引用した記事にもありますが、中世の僧侶は武装していました。これは、一向一揆でも同じであり、石山合戦においても実際に戦闘の中心は農民ではなく、武士でした。
石山合戦
交戦勢力
本願寺 雑賀衆・ 毛利水軍・村上水軍
織田氏 織田水軍・三好氏
指導者・指揮官
本願寺 顕如・下間頼廉・ 鈴木重秀・ 乃美宗勝・村上武吉
織田氏 織田信長・九鬼嘉隆
Wikipediaより
Wikipediaから交戦勢力を引用しましたが、石山合戦は織田家と反織田家の勢力連合軍の戦いと言うべきであり、単純に信長公が寺社を攻めたと考えるべきではありません。これは長島一向一揆でも変わらず、当時の長島は本願寺勢力が強大な力を持ち、自治領となってました。当然のことながら地元の武装勢力である国人も支配下にいれていましたので、実体は戦国大名に近い存在であっただけでなく、北伊勢の小豪族も一部が織田家に反旗を翻し一揆に加担しています。
つまり信長公にしてみれば、比叡山焼き討ちや石山合戦なとの合戦は、天下統一の妨げとなる武装勢力の駆逐が目的であり、他の戦国大名との合戦と同じであったのではないかと思われます。そのため、信長公の家臣も同じ気持ちであり、寺社を相手に戦っているとの意識も希薄であったのではないかと思います。その意味では、信長公の行為が残虐非道な行為であったとまでは言えないと思います。蛇足ながら信長公に討伐された比叡山延暦寺の僧兵は、同じ天台宗の流れを組む園城寺(三井寺)との仲が悪く、何度も焼き討ちにしています。
ここまでが、信長公の比叡山焼き討ちや石山合戦などの背景の事情となりますが、信長公の行ったことは当然の行為であったとしても織田家に対する恨みが消えるわけではありません。合戦で亡くなられた方が非常に多いだけでなく、僧侶や熱心な信者など生前に念が非常に強かったと思われる人々の集団であることから恨みの念も強烈となります。その憎悪は、当然のことながら信長公の家臣にも向かいますので、過去世において織田家の家臣であった方は、これらの障りに悩まされることになります。
この障りが厄介なことは、恨みを抱く相手が僧侶や熱心な信者などであることです。当時は幼い頃から出家することが多かったと思われますので、現代の僧侶よりも厳しい修行を積まれています。また、同じ信者であっても信仰を守るために戦った方も少なくないと思われますので、少々の功徳を積んでも焼け石に水となります。そのため、巷の霊能者が太刀打ちできるような相手ではないことから障りの解消に苦労することになります。
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そこで気晴らしの意味でブログを書くことにしました。
え・・・何か問題でも?
いいんです。このブログは開設当初から管理人の気分次第のブログです。
( ̄^ ̄)えっへん
それはさておき・・・・
鳥山 明氏が他界されました。心からご冥福をお祈り申し上げます。個人的には、敬愛する数少ない漫画の一人でした。
私が子供の頃には、PTAなどから漫画は目の敵にされ、子供にとって有害図書扱いされていた記憶があります。何分にも鉄人二十八号や鉄腕アトムを見て育った世代であり、手塚治虫氏や石ノ森 章太郎氏が活躍されていた時代でした。そんな世代ですので、漫画に抵抗感は全くありませんが、最近では滅多に漫画を読むことはなりました。以前は、喫茶店なとで漫画雑誌を手することはありましたが、読むのは数冊の本を手にしても一作品程度でした。このような書き方をすると漫画家に失礼なことは承知していますが、最近の漫画家は基礎的なデッサンすらまともにできていないのが当たり前であり、多少なりとも絵画を勉強した人間としては、デッサンや構図などが気になって見る気になれません。
別に専門学校で学んではいませんが、大学時代に入部していた美術部が何故か、運動部並の厳しい倶楽部でした。そのため、デッサンも基礎から叩き込まれました。そのため、先輩の中にはプロとして活躍されている方やプロ級の腕を持つ先輩も何人か揃っていました。そんな環境で絵を描いていましたので、いつしか絵を見る目だけは身に着けてました。これは悪いことではなく、絵を見れば作者の意図や狙いなども分かりることも多く、人に解説することもあります。しかし、これはある意味不幸でもあります。
その理由が、漫画を見てもデッサンや構図などが気になって見る気にないことです。デッサンの狂いや構図は我慢することもできるのですが、表現力のなさは致命的です。絵を描いていた仲間と話す際に「線が生きている」「線が死んでいる」と言った表現をすることがあります。その言い方をするならば、今の漫画家の描く線の大半は死んでいます。生きている線を描ける漫画家は数少なく、その数少ない漫画家の一人が鳥山 明氏でした。
では、「線が生きている」「線が死んでいる」とは何かと言えば、表現力です。画家はスケッチの際に鉛筆やコンテなとを使用しますが、上手い画家は鉛筆やコンテで葉の軽さ、レンガや石の重さ、川の流れ、空の広がりなどを全て描き分けます。同じ線であっても柔らかさ、固さを描き分けなければなりません。それは動きでも同じです。歩いている人は、歩いている人の動きを感じさせることが必要であり、川は水の流れを感じさせることが必要になります。それらが表現されているならば、「線が生きている」と言われ、それらの表現ができていなければ、「線が死んでいる」と言われました。
勿論、初心者にそんな芸当ができるはずもありませんが、練習を重ねていると少しずつではありますが、可能となります。そしてその極地が巨匠と呼ばれている方の素描です。ダビンチの素描は、写真で見てもその凄さは分かります。一本の線でどうしてここまで表現できるのかと溜息しかでません。質感や動き、空間どころか、人物の内面まで描かれていることには言葉がありません。もう神業の領域です。勿論、これは極端な例ですが、鉛筆だけで光の強弱や風の動きまでも表現する画家は数多くいます。
私も絵を描いていた頃には、そんな表現ができるようになりたいと願っていましたが、働きながら絵を描き続けることの限界を感じて25歳で筆を折りました。その後は鉛筆画を描くことはありましたが、20年以上前から絵を描くことはなくなりました。それでも絵を見るポイントのような感覚だけは覚えています。覚えていると言うよりも身についていると言うべきかもしれません。それは漫画でも同じであり、漫画を読んでいても絵が気になります。そのため、私が安心して読める漫画家で名前を憶えているのは、亡くなられた方を別にすれば、「あだち充」「高橋 留美子」「黒鉄ヒロシ」だけです。他にも何人かはいますが、殆ど漫画を読まないことから名前を記憶していません。
これはアニメでも同じです。以前から宮崎駿氏の作品が好きになれなかったのですが、宮崎駿氏のドキュメンタリー番組の中で作品を制作する際に意図的に遠近法を無視しているとの話があり、自分の感じていた違和感の理由が分かりました。一般の方ならば、気にならないレベルであり、効果的な手法なのかもしれませんが、私には違和感しかありません。何とも言えない居心地の悪さのような物を感じます。そのため、見る気が失せると言った感覚に陥ります。
これはある意味不幸なのかとも思います。一般の方が名作と褒めたたえている漫画の大半が、私には見る気になれない漫画でしかないことから内容を全く知りません。絵が上手いとされている漫画家の絵が、私には柄にしか見えません。漫画家に画家としての技量を求める気はなく、漫画に芸術性を求める気持ちはありませんが、激しい動きが描いてあっても静止画に見えますし、風景は平坦にしか見えません。人物はデッサンの狂いが気になり、気が向くと何処の部分のデッサンが狂っているのかの間違い探しをすることもあります。これは別に難しいことではなく、肩や首、腰などの位置関係を調べるだけのことです。
それでも漫画ならば見なければ良いだけの話なのですが、これが霊感となると話は変わります。若い頃から霊障に悩まされていましたので、見えない世界の存在に影響されないように訓練はしていますが、それでも完全に遮断はできません。特に相手が大物の魔物ともなりますと、こちらが無視しようとしても影響は受けます。YouTubeの動画でも大物の魔物の影響下にあると思われる人の話は、気聞いていても話の内容が入らなくなります。これはデッサンの下手な漫画を見ているのと同じ状態となります。
動画を視聴していてもこの状態ですので、深刻な霊障の方と話をするとこれが更に酷くなります。相手の霊障が余りにも深刻ですと、話が頭に入らなくなります。そして相手の方の背後に隠れている魔物に意識が向いてしまいます。別に相手の方を無視する気持ちはないのですが、無意識に背後に隠れている魔物の意識を探っていることが少なくありません。しかし、一般の方には、そんな事情が分かるはずもないことから相手は自分が無視されていると思われるようです。
一般の方からするならば、一般の人間には分からないことが分ることは、優れた特技や才能と思われるかもしれませんが、分かることが良いとは限りません。分からない方が素直に楽しめることも少なくありません。特に霊感や霊能力は、生活全般に影響しますので、通常の社会生活をしていますと負担になることが少なくありません。その意味では、霊能力がなかったならば、どんな人生を生きていたのかと考えることがあります。
星
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私も個人事業主ですので、確定申告をしなければなりません。そのため、暫くは投稿を休む日が多くなるかもしれません。
記事を書く時間はなくても多少の時間があれば、ご神霊のお言葉を投稿させていただきます。
確定申告が終わりましたならば、通常に戻ります。
星
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さて、今回は迷っている不成仏霊ではなく、怨念や憎悪を持つ不成仏霊の集団について書くことにします。障りを起している不成仏霊には大きく分けて供養を求めていることを現世に生きる人間に知らせるために障りを起している不成仏霊と恨みを晴らすことを目的として障りを起している不成仏霊に分けることができます。供養を求めている不成仏霊は、現世に生きる人間が供養を継続することが分れば、障りは軽減することが多いのですが、現世に生きる人間に恨みを抱いている不成仏霊の場合には、供養をしても障りが軽減しないことが珍しくありません。
これは現世に生きる人間に恨みを抱いている不成仏霊が求めているのは、供養ではなく復讐であることが理由ですので、供養しても障りの解消は期待できません。それでも個人的な恨みの場合には、供養することで多少は障りの軽減は期待できますが、集団の恨みとなると障りの解消は難しくなります。特に僧侶や神職、熱心な信者の集団が一番厄介です。具体的には、一向一揆の恨み、比叡山焼き討ちの恨み、南都焼き討ちなどとなります。
一向一揆の恨みには、石山合戦、長島一向一揆、加賀一向一揆、越前一向一揆、三河一向一揆などがあります。また、比叡山の焼き討ちは有名ですが、琵琶湖東岸にあった天台宗のお寺の多くも焼き討ちされ、廃寺になったり、大幅に縮小したりしているお寺があることは余り知られていないのではないかと思います。この他にも室町末期、織田信長公と豊臣秀吉公による紀州征伐の根来衆の恨み、隠れキリシタンの弾圧の恨みなど日本でも宗教戦争とも言える争いは幾つかあります。
関係者を整理すますと下記のようになります。
織田信長公 石山合戦、長島一向一揆、加賀一向一揆、越前一向一揆、比叡山焼き討ち、紀州征伐・根来衆(根来寺)
上杉謙信公 加賀一向一揆
朝倉氏 加賀一向一揆
豊臣秀吉公 紀州征伐・根来衆(根来寺)
徳川家康公 三河一向一揆、隠れキリシタン
平家 南都焼き討ち 東大寺・興福寺など
織田信長公は、一大勢力であった本願寺勢力と戦っただけでなく、天台宗と真言宗とも戦っていますので、僧侶から激しく恨まれているとしても不思議ではありません。過去に何人かのお客様が織田信長公の家臣の過去世でしたが、いずれも本願寺勢力や天台宗の勢力から恨まれていました。先日も織田信長公の家臣の過去世であった方ことが分った方とお話をしていところ、昔から琵琶湖東岸の地域が好きになれないと言っておられました。恐らくは過去世で琵琶湖東岸のお寺の焼き討ちに参加されたのではないかと思います。
蛇足ながら基本的に対面での鑑定はしておらず、メールでのやり取りが中心ですが、例外は知り合いからの依頼された場合です。対面での鑑定はしませんが、お会いした際に鑑定結果の解説をすることはあります。何分にも霊障鑑定は、不成仏霊の惑わしが激しことから仕事などの鑑定のように、その場で鑑定してお答えすることが難しいだけでなく、過去世の障りなどの場合には、鑑定結果と歴史的な事実が符合するかなどを調べる必要があります。また、対策となる神社仏閣の選定のための下調べの時間が必要となることから対面での霊障鑑定はしていません。
話を戻しますと、生きている人間からするならば、自分の過去世と言っても記憶もないことであるだけでなく、何百年も前の恨みと言われても何の実感もない話ではないかと思う方が大半ではないかと思います。しかし、恨みを抱く心霊は恨みを抱き続けるようです。例えば、霊障鑑定をしていますと古墳時代の障りが見つかることがあります。古墳時代は、3世紀から7世紀頃でかので、どれだけ執念深いのかと思いますが、これまでに古墳時代の障りは数多く見つかりました。正直な気持ちとしては、どれだけ障りを解消すれば、古墳時代の恨みは解消するのかと途方に暮れています。
しかし、恨みを抱き続けるのは、心霊世界に限られた話ではなく、現世においても珍しくないのではないかと思います。私の他界した母は、愚痴の多い人間でした。そのため、気晴らしにと花の名所に何度か出掛けて帰りに食事をしたことがありました。流石に出掛けている間は、愚痴を言わないのですが、帰りの車の中ではいつもの状態に戻りました。そこで気分良く過ごした帰りにまで愚痴を言うなと母に怒ったことが何度もありました。恐らく母の心の中は、解消されることのない不平不満が鬱積していたりのではないかと思います。
母の葬儀の際に叔母が女学生であった時代の話をしていましたが、登下校の際に近所の大学生と出会ったことから立ち話をしただけで不良扱いされたと話されていました。勿論、これは戦前の話ではありますが、母が生きた時代は抑圧と忍耐の人生であったのではないかと思います。しかし、抑圧と忍耐は何もは母の時代に限られた話ではなく、私が働き始めた頃もパワハラやセクハラが蔓延していた時代であり、職場でのいじめは日常茶飯事でした。売り上げ至上主義の会社で売り上げが低迷するならば、上司から罵声の荒しとなるだけでなく、給料泥棒扱いされました。
いじめに耐えられず辞職する社員は多く、同期で入社した新入社員の多くが退社しました。最初のボーナスが支給された後に半分が退社、冬のボーナスが支給されると更に半分が退社とボーナスが支給される毎(ごと)に同期に入社した社員が半減しました。二十数人の同期がいましたが、四年後には4人程度に減少していました。今ならばブラック企業と言われると思いますが、当時はそんな会社が珍しくありませんでした。
しかし、配置転換で本社に移動したことで、部下に罵声を浴びせていた上司が本社での営業会議で役員から責められていることや部長クラスの方の大半が不眠症に悩んでいることを知りました。上司の罵声は、個人の責任ではなく、会社の企業体質に原因があることを知りました。当時は売り上げ至上主義の風潮が蔓延していた時代であり、企業戦士と言った言葉があった時代でしたので、それが当たり前と考えられていたのではないかと思います。
僅か40年前、50年前ですらこの状態でしたので、江戸時代以前ならば、もっと過酷な扱いが多かったのではないかと思われます。そのため、虐げられた人々が深い恨みを持つのも当然かと思いますが、問題は虐げていた人間が何の罪の意識もなく、人々を虐げていたことではないかと思います。私が勤めていた会社の上司も部下を怒鳴り散らしていましたが、恐らくは罪の意識などなかったと思います。
そのことは、織田信長公も同じではないかと思います。当時の社会情勢を考えるならば、本願寺や延暦寺は戦国大名並の兵力を持ち、数々の権益を持っていましたので、天下統一の妨げとなっていました。そのため、合戦となったことを考えるならば、織田信長公が極悪非道なことを行ったとは思いませんが、戦乱の中で亡くなった人々の恨みは激しいと思われます。そんな人々の恨みは生まれ変わっても消えることなく、障りとなります。
過去世の因縁と言ってしまえば、それまでの話かもしれませんが、何故か人から嫌われると感じている方や理由もなく人から虐められていると思われる方は、過去世で誰かに恨まれているのではないかと疑う必要があります。
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そんなことを考えていたところ、ヒッピー文化を思い出しました。
1960年代後半にアメリカのヴェトナム反戦運動や公民権運動を中心とする反体制運動から生まれた、「ラブ&ピース」を提唱し自然回帰を目指す若者の総称およびそのムーヴメント。語源については諸説あり定かではない。60年代後半は、フランスでは学生を中心とした五月革命が起こり、日本でも学園紛争が多発するなど、既存の政治や文化といった価値観にアンチテーゼを唱える機運が若い世代を中心に世界的に高まっていた。
Artwords(アートワード)より 元記事
何分にも子供の頃の記憶のため、ヒッピー文化と言っても詳しいことは分かりませんでしたが、「ラブ&ピース」がやたらと流行していたことを記憶しています。少し検索してみましたが、今でもヒッピー文化を擁護している人は少なくないようですが、個人的には余り良い印象はありません。日本でもアメリカの影響を受けて何となく時代の潮流のような雰囲気があったことを覚えていますが、「皆で手を繋いで一緒に歌えば、世界は平和になる」と言っていた程度のことしか覚えていません。
今の若い方は、ヒッピーと言っても知らない方も多いかと思いますが、自然回帰の提唱、既存の政治や文化といった価値観にアンチテーゼなど今の左翼運動の源流ではないかとも思います。自然回帰の提唱、既存の政治や文化といった価値観にアンチテーゼの価値を否定する気はありませんが、フリーセックスや大麻などの薬物乱用など負の側面も小さくなかったと思います。また、思想的にも禅などの東洋思想を持ち上げていましたが、表面的な理解であり、「皆で手を繋いで一緒に歌えば、世界は平和になる」と言った安直な運動であった印象があります。
歌うことで世の中が平和になるはずもないのですが、当時はそんな風潮がありました。その背景には、冷戦構造・人種部問題などの様々な社会問題があり、時代の閉そく感とも言うべき社会情勢であったと思います。これは日本でも同じであり、日本で多発した学生運動にしても背景には高度成長期の貧富の差の拡大や経済至上主義などに対する反発があったと思われますが、現実を無視して理想ばかりを声高に叫んでいることに関しては同じではないかと思います。
このことは精神世界でも同じではないかと思います。戦前には曲がりなりにも存在していた日本人としての精神性が敗戦によって無秩序となりましたが、人々の精神的な柱となるべき宗教界には、人々の苦悩に答える力はなく、多くの人が新興宗教に救いを求めました。これはいつの時代も同じであり、時代の混乱期には新興宗教が拡大します。しかし、大半の新興宗教は一時的に急成長しても尻すぼみとなります。
では、どうして大半の新興宗教が一時的に急成長しても尻すぼみとなるのかと言えば、教えを実践しても救われないからではないかと思います。浄土宗や浄土真宗、日蓮宗などの宗旨は、いずれも教えが説かれた当時には新興宗教でしたが、今でも教えが残っているのは、それだけ多くの人の心をつかんで離さない教えであると言えるのではないかと思います。しかし、そんな教えであっても長い歴史の中で力を失い、人々の苦悩を救うだけの活力を失っていることから人々の支持を失ったと言えます。
仏教にしても神道にしても心霊世界の存在を前提にした教えであったはずなですが、現代ではお寺で障りについて相談することすらできない雰囲気があります。これでは人々の苦悩を救えるはずもなく、多くの人が新興宗教や霊能者を頼ることになるのも当然の話となります。しかし、その新興宗教や霊能者はどうかと言えば、胡散臭さ満載と言ったところです。それはヒッピー文化に似ています。建前は立派でも教えは色々な教えの継ぎ接ぎだらけであったり、荒唐無稽とも言える内容であったりします。
そして忘れてはならないのが、素朴な唯物論者です。死後の世界や神仏の存在を否定することが科学的と考えているのかもしれませんが、いつ科学で死後の世界や神仏の存在が否定されたのでしょうか。現代科学で分かっていることは、僅かなことであり、分かっていないことの方が遥かに多いことをご存じないのかと思います。武田邦彦氏は、科学者は分からないことがあるから研究するのであって、全て分かっているならば、研究する必要はないと言われています。そのことは心霊世界でも同じです。知れば知るほど新たな謎が生まれます。
そんな奇々怪々な心霊世界ではありますが、仏教や神道は先人たちが心霊世界について探求した長い歴史があることから無視することはできないと思います。そのため、伝統的な宗教は、人々の苦悩を救う力が衰えているとしても仏教や神道に救いを求める
べきであり、新興宗教や霊能者には頼るべきではないと考えています。新興宗教や霊能者の説く救いに関しては、ヒッピー文化と同じであり、仇花(あだばな)ではないかと思います。
個人的には、霊能力や心霊世界の知識に大きな意味などないと考えています。大切なことは仏教ならば悟りであり、神道ならば神を敬う心でしょうか。いずれにしても人生の苦悩を解消して穏やかな心で生きることが大切だと考えています。しかし、それは簡単そうでいて簡単には手に入らないことですが、多くの人は簡単な方法を求めます。そして「皆で手を繋いで一緒に歌えば、世界は平和になる」と言った教えを有難がる方が多いことから警告で気の重くなるような話ばかりを書いています。
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恐らくは生前に長年虐げられて生きた人々であり、反抗する意欲すら奪われた人々ではないかと考えています。これは個人的な印象であり、何の根拠もない話ではありますが、大きくはずれてはいないのではないかと思います。ここまでの闇となりますと、障りを回使用するのは容易ではなくなります。それは大量の難民を救済するのに似ています。戦乱などを逃れた大規模な難民キャンプの映像をご覧になったことのある方も多いのではないかと思いますが、死後の世界で同じことが起きていると考えるならば、分かり易いのではないかと思います。
現実の世界では、大量の難民が押し寄せるならば、嫌でも分かりますが、見えない世界では、何が起きているのかが分かりません。また、これらの不成仏霊たちは、無気力の極地にあることから自分たちから何かを伝えようともしません。しかし、それは何も障りを起していないことを意味していません。無気力の極地にあるような不成仏霊が大量に押し寄せるならば、確実に霊域が悪化するだけでなく、現世に生きる人間に様々な悪影響を及ぼします。
まず最初に書かなければならないことは、家の中が何とも言えない陰気な雰囲気となります。内装や照明は明るいのに何となく、薄暗い雰囲気となります。次に家に帰ると気分が塞ぎ込むようになったり、落ち着かない気分になります。そして何度も書いていますが、思考能力の低下、集中力も低下して作業効率が低下します。そのことが判断ミスの増加の原因となり、雑用が増加します。そして生気が奪われ、慢性的に疲労感を覚えるようなります。
過去に何人もの重度の霊障に悩まれている方からのご相談を受けましたが、大半の方は慢性的な疲労感を抱え、充分な睡眠を確保していても身体が重いと嘆かれていました。そのため、何をするにしても意欲が起こらず、怠惰な生活となってしまう方が多いようです。これが更に深刻となりますと、難病や奇病を発病されることが多くなり、事態はさらに悪化することが少なくありません。ここまで状況が悪化しないとしても、鬱病などの病気になることは多いようです。
これに収入の低下などの経済的な困窮が加わりますと、状況は更に悪化して霊障の立て直しが困難となります。霊障が初期の段階や霊障が悪化していても経済的なゆとりが多少なりともあれば、霊障の解消は大変でも打つ手はありますが、経済的な困窮している状況となりますと、ご相談を受けても打つ手が限られます。特に日々の生活費にも困窮するような状態の場合には、神社仏閣に参拝するにも交通費は費用となることから非常に厳しいに陥ります。
実は、この絶望的な状況の中で生きなければならなかった方々が死後の世界で迷っているのが、冒頭でご紹介した無気力な不成仏霊の集団であり、底なし沼のような漆黒の闇の中で光る眼だけが見える集合念です。恐らくは生前に極貧の生活を強いられ、生きることだけで精一杯であった人々ではないかと思われますが、余りにも闇が深いことから生前の意識や生活などを探ることすら困難でしたが、対策を模索している過程で生前の苦悩が推測されました。
彼らに悪意はないとしても彼らの生み出す力は、現世に生きる者たちを彼らの生前と同じような環境に陥れます。そのため、霊障対策をしなければ、待っているのは彼らと同じような生活です。このような絶望しかない不成仏霊の障りを受ける理由は、色々あります。ご先祖が多くの人から恨まれていた場合やご先祖が使用人に対して過酷な労働していた場合など、この他に新興宗教や拝み屋、霊能者を頼ったことで障りを受けることもあります。いずれにしても気持ちの持ち方や自分の考え方を変えることで解消することは、非常に難しい障りです。
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r(-◎_◎-) 考え中
しかし、ブログを書くことが仕事はありませんので・・・・
オリャー!! (ノ`A´)ノ ⌒┫ ┻ ┣ ┳ ウマイウマ
いつものちゃぶ台返し
やはり、気の向くままに書くことにします。
それはさておき・・・・・
前回は、強い劣等感が霊障の根底にある感情である事例を書きましたが、今回は同じ強い劣等感が隠れていても前回の事例とは、異なるタイプについて書きます。前回の事例は、強い劣等感が強い猜疑心となり、狭い世界の人間関係だけの世界で生きることは同じでも、これに無気力が加わることがあります。私の父の場合には、嫌になる程の悲観的な考え方や自己中心的な考え方をする人間でしたが、これとは別に変に楽観的であったりするタイプの方もいました。
悲観的であるよりは、楽観的な考え方の方が良い印象がありますが、心の根底に強い劣等感がある場合には、楽観的な考えと言っても現実逃避の傾向が強くなるのではないかとの印象を持ちました。周囲の人間としては、いつも憂鬱な顔をされて愚痴を聞かされるよりは、楽観的な言葉を聞いていた方が気は楽なのですが、「何とかなる」「暗い顔をしていても仕方がない」だけでは何ともならないことは少なくありません。こちらとしては何をどうするのかと言った具体的な話を聞きたいのですが、いつも答えはなく、問題から逃げるばかりでは頼りになりません。
心理学を勉強された方ならば、もう少し詳しく分析することは可能かと思いますが、心霊世界の観点から見たならば、悲観的な考え方にとらわれるか、楽観的な態度を装って問題から逃避するかの違いはあっても、大差はありません。どちらも膨大な数の不成仏霊に支配されていることは同じです。違いは、悲観的な考え方から抜け出せなくなっている不成仏霊が集まっているか、無気力で自分の保身だけしか考えられなくなっている不成仏霊が集まっているかの違いだけです。
悲観的な考えを持つならば、悲観的な考えを持つ不成仏霊が集まり、無気力な考え方を持つならば、無気力な考えを持つ不成仏霊が集まります。そのため、自分の考え方を改めるならば、不成仏霊も集まらなくなると言えますが、これが可能なのは、霊障の初期の段階です。幼少期から不成仏霊の影響を受け続け、人格の一部になってしまっている場合には、自分の考え方を改めようと努力されても考え方を変えることは至難の業なります。
今回の「霊障を解消することの意味」でも書きましたが、不成仏霊の影響を受けると思考能力が低下します。自分では考えているつもりでも思考能力が低下しているだけでなく、注意力も散漫となることから考えがまとまらず、不注意となります。そして不成仏霊は、本人が考え方を変えさせないように妨害をします。不成仏霊としては、現世に生きる人間が明るく前向きな考え方をするならば、自分たちの居場所を失うことになりますので、激しく妨害します。
これは麻薬患者が麻薬を止めるのと同じではないかと思います。悲観的な考えを持つ方は、悲観的な考えを持つことに安住する傾向があります。つまり居心地の良さを感じていると言えます。本人にとっては、明るく前向きな考えを持つことは不安であり、居心地の悪さを感じることから強い決意が必要となりますが、その決意を揺さぶるのが不成仏霊です。不成仏霊が感情を揺さぶることで現世に生きる人間を支配するのは、彼らの常套手段です。
しかし、現世に生きている人間は、不成仏霊が感情を揺さぶられているとは考えないことから自分の意思が弱いと考えるか、自分には能力がないと考えます。また、自分の意思が弱いのではなく、周囲が悪いと責任転嫁するとも少なくありません。いずれにしても不成仏霊に翻弄されているとは考えません。そのため、何度も挫折を繰り返すことになり、挫折を繰り返すことで負の想念は、強化され、不成仏霊の支配は強化されることになります。
この負のループから抜け出す方法が霊障の解消です。霊障を解消することで不成仏霊の影響が低下するならば、悲観的な考えにとらわれることが少しずつではあっても低下します。霊障の原因は、数多くあるだけでなく、簡単には解消しないことも数多くありますが、それでも気合と根性で自分の考え方を変えようとするよりも効率的ではないかと思います。
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父は、周囲からは生真面目と思われていたようですが、私からするならば、小心者でした。小心者であることが周囲からすると生真面目との印象を与えていたのではないかと思います。また、小心者であるためか、陰気な性格でもありました。自分の思う通りにならないことがあれば、愚痴が多かった気がします。特に酷かったのが、当時主要な得意先を失った際にこの世の終わりのような狼狽をしていたことから出入り業者から廃業されるのですかとの質問を受けた程の酷さでした。
そんな父の性格の成り立ちを考えますと、父の心の根底にあったのは、強い劣等感ではなかったかと思います。学校の成績は比較的優秀であったようであり、水泳が得意であったと話していたことから運動能力も悪くはなかったと思いますが、祖父母は俗に言う毒親であり、機能不全の家庭環境であったことから両親の愛情に恵まれずに育ったと思われます。しかし、私が物心ついた頃には既に祖父は他界しており、祖母のことも余り覚えていませんので、詳しいことは分かりません。
私の父の性格を考えますと強い劣等感が根底にあり、この劣等感を中心にして性格が成り立っているのではないかと考えました。劣等感が強いことから自己肯定感を持つことができず、小心者となっただけでなく、劣等感が強いことから人との交わりが苦手となったと思われます。常識的に考えるならば、学校の成績は比較的優秀であり、運動能力も悪くはなかったならば、自分に自信を持っても不思議ではないのですが、閉鎖的な考え方の人間でした。
父が閉鎖的な考えになった理由を考えますと、やはり霊障の影響が強いのではないかと思います。今から考えますと父は深刻な霊障でした。父の霊障に関しては、生前から酷いことは分かっていましたが、当時は霊障をどうしたら解消できるのかも分かっていなかったことから色々と試行錯誤を続けていましたが、何をしても父の霊障が改善することはなく、当時の私にはお手上げの状態でした。
その原因を考えますと、父の性格の根底にあった強い劣等感であったのではないかと思われます。恐らくは両親から充分な愛情を得られなかったことが健全な自我を持てなかった理由ではないかと思われますが、幼少期から強い劣等感があったとするならば、新婚な霊障の原因となった可能性は、高いのではないかと思われます。過去の事例では、強い劣等感は不成仏霊を集めやすい傾向があります。これは何分にも経験則からの推測となりますが、強い負の想念が不成仏霊を呼び寄せます。
また、もう一つの原因として、父の実家が非常に霊域の悪い家であったことも大きいと思われます。後になって分かったことですが、父方の家系は曽祖父の代でかなり恨まれたらしく、深刻な霊障に悩まされていたことから、幼少期から霊障を受け易い環境であったと思われます。このことが深刻な霊障の原因と思われますが、深刻な霊障に陥っている方の大半は、先天的な要因と後天的な要因が重なって深刻な霊障になるようです。
いずれにしても幼少期から霊域の悪い環境の中で過ごした場合には、不成仏霊の影響が本人の性格にも影響を与えていることが多く、本人の考え方を変えようとても容易ではありません。その理由を本人の意思の弱さや自信のなさに求める方が多いのですが、心霊世界の観点から考えますと、膨大な数の不成仏霊に押し潰されいると言えます。そのため、本人が自分を変えようとの強い意思を持ったとしても簡単に潰されることになります。
これはどんな霊障においても共通している話と言えますが、膨大な数の不成仏霊を背負ったままでは、本人が変わろうとしても変わることが難しくなります。また、通常は膨大な数の不成仏霊を背負った状態では、本人が自分で変わろうとする気持ちになるだけでも大変です。大半の場合には、卑屈な性格となり、何を言っても悪く受け取るなど、猜疑心が強い性格となることが少なくないと思います。そして更に厄介なのが自分の狭い世界だけでしか考えないことです。
これらの問題を現実的な対策で解消することは、殆ど不可能ではないかと思います。しかし、そんな人間であっても霊障を解消することで少しずつ性格が変わることが多いようです。勿論、深刻な霊障を解消することは簡単ではなく、長い歳月と少なくない経済的な負担もありますが、それでも現実的な対策で性格を変えようとするよりも遥かに効率が良いと思います。父が存命の頃には、何とか説得しようと努力していましたが、もっと早い時期から霊障対策に取り組んでいたならば、父の人生も少しは変わったのではないかと思います。
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(^ー^ )ゞポリポリ
どうしても時間に追われていますので、投稿を休む日があるかと思いますが・・・
そんなときはお許しください。
それはさておき・・・・・
前回は、不成仏霊に支配された場合を書きましたが、私の他界した父は不成仏霊に心を支配され、猜疑心が強くなった典型的な事例でした。大人しく真面目な人間ではあったことから余り悪い評判は聞かなかったのですが、人の話を聞く気持ちがなく、自分の思い込みと偏見だけでしか考えることができないのではないかと思ったことが何度もありました。「石橋を叩いて渡る」とのことわざがありますが、「石橋を叩いて渡る」ような慎重なのであるならば、救われるのてすが、思い込みが激し過ぎて人の話を全く聞く気がありませんでした。
そのため、「石橋を叩いて渡る」のではなく、石橋を叩き壊して納得しているのではないかと思うことがありました。父の仕事の知識は1960年代頃で止まっているのではないかと思うことがありました。当然のことながら時代は変わりますので、業界の常識も変化しますが、父の頭の中にある常識は、1960年代頃の常識のため、そんな古い常識は通用するはずもなく、お客様を怒らせることが何度かありました。
その際に父は自分が間違っていると考えることはなく、お客様を怒らしても平然としていました。父にはそんな昔の常識は今では通用しないことを何度言っても聞く耳を持たず、古い商習慣を頑なに守り抜きました。また、商習慣だけでなく、技術も進歩しているのに古い知識のままで止まっていました。その結果、何が起きるかと言えば、目の前の現実よりも自分の頭の中を優先することになります。
例えば、見積もりの際に父の常識が通用しないと何度言っても○○は、××でなければならないと言い張ります。仕方なく父の言う通りの見積もりを持参すると、お客様からは、どうしてこんなに高いのかと、言われることになります。こちらとしては、苦労して見積もりに参加したのに、全ての苦労は水の泡となりますが、父にとってはそんなことはどうでも良い話のようでした。つまり、父にとっては、目の前の現実よりも自分の頭の中にある現実の方が大切であり、両者が異なるならば、目の前の現実を否定しました。
私からするならば、こんな話は二度と来ないと思えるような話でも、父にとって大切なことは、自分の頭の中にある常識であり、現実と言う名前の石橋を叩き壊さなければ、納得できなかったのではないかと思います。しかし、これは私の父に限られた話ではなく、現実よりも自分の考える常識を優先する方は、世の中に多いようです。
その典型がカルトではないかと思います。カルトには宗教カル、政治カルト、経済カルトなどがありますが、いずれも独善的な考えに陥っているだけでなく、思考停止していることは同じです。この思考停止は、霊障の影響ではないかと疑っています。過去の経験では、余り言われていませんが、霊障の代表的な症状の一つが思考能力の低下だと考えています、これは気付きにくい霊障ではありますが、不成仏霊の影響を受けますと思考能力が低下します。
そしてこれが長期間続くと思考停止の状態に陥ります。考える力を失うことで日常生活は単調な作業繰り返しとなり、自分の生活に何の疑問も持たないようになります。極端な言い方をするならば、命令に黙々と従う奴隷状態と大差のない生活となります。これはカルトでも同じではないかと思います。上の者の考えに忠実であることだけを求められ、自分の考えを持たないことにおいては、同じことです。
この状態は、現世に生きている人間を意のままに操りたい魔物にとっては一番都合が良い状態となります。そのため、魔物は生きている人間の思考する力を奪い、自分で考えることや自分の意思を持つことを妨害すると思われます。しかし、自分で考え、自分の意思を持つことは、生きている人間にとっては大きな負担なります。考える必要がなければ、考えたくない人は多いのではないかとおもいます。そのため、誰かに指示され、その指示に従うことを求める人は少なくありません。
これは、自分で考え、自分で決めていると思っている方も例外ではありません。自分では、自分の考えと思っている考えの多くは、自分の感情であることが少なくありません。あれこれ理由を並べても本当は自分の感情を正当化しているだけとしか思えないことが少なくありません。本当の理由は、あいつが嫌いだからでも、それを言えないからもっともらしい理由を並べると言ったことは、良くある話です。
では、本当に自分で考えるとは何かについて書きますと、簡単ではありません。何冊かの本を書けるような壮大なテーマになる話であると思います。世の中は矛盾だらけであり、複雑怪奇です。その矛盾だらけであり、複雑怪奇な話を理解できないからと単純明快な話だけで理解しようとするならば、自分で考える力は身につかないと思います。分からないとしても分からないなりに少しでも分かるようにするしかありません。
少なくとも魔物は、柔軟な発想や深い思考を嫌うことは間違いがなく、感情を煽り、感情を煽ることで生きている人間を支配しようとすることは分かっています。
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現世に生きる人間が何らかの苦悩を抱えますと、同じような悩みを抱えた不成仏霊を呼び集めることになります。これは本人の意思とは無関係であり、人の負の想念が不成仏霊を呼び集めると言えます。現実の世界においても自分と同じような生き方や考え方を持つ人が親しみを持ちやすく、親しい関係になりやすいのと同じではないかと思います。これは経験則からの推測ではありますが、一つの法則と言えるのではないかと考えています。特に思い込みが強い方は、この傾向が強くなります。
自分と同じような悩みを抱えている不成仏霊を呼び集めると言っても何らかの理由で気持ちが変わったり、考え方を変えることができた場合には、不成仏霊との意識のずれが生じ、不成仏霊の影響が弱くなります。当然のことながら気持ちの揺れはあっても負の感情が減少するならば、不成仏霊の影響は減少しますので、次第に不成仏霊の影響を受けなくなります。しかし、これとは逆に不成仏霊の影響を受け続け、負の感情が増大しますと、不成仏霊の影響が強くなり、不成仏霊に支配された状態に陥ることがあります。
こうなってしまうと自分の意識と不成仏霊の意識が混在する状態となり、自分の意識と不成仏霊の意識を区別することが困難な状態となります。霊能者が憑依と言う状態は、このように不成仏霊に意識を乗っ取られたような状態ではないかと思われます。これがさらに悪化しますと、自分の意識が不成仏霊に乗っ取られたような状態となります。このような状態に陥ってしまうと自分で意識的に考え方を変えようとしたり、気分転換をしても意識を切り替えることは難しくなります。
不成仏霊は、生きている人間が積極的な意思を持つことや自分で考えて自分の責任で判断するようになるならば、生きている人間を支配することが困難となることから生きている人間が積極的な意思を持つことや自分で考えて自分の責任で判断することを徹底的に妨害します。その結果どうなるかと言えば、不成仏霊の支配を受けている方は、常に悲観的な考え方となり、自分で考えることを嫌い、常に誰かに依存する生き方とかできなくなります。
これが更に悪化すると全てにおいて悲観的になり、猜疑心が強くなることから周囲の人間に対しても不信感の塊となることが少なくありません。このような状態にまで陥ってしまうとこの状態から抜け出すことは非常に難しくなります。強い猜疑心から少しでも相手に疑惑を感じるならば、相手の全てを否定する極端な考えに陥ったり、自分だけの世界に閉じこもって外の世界との交流を遮断してしまうことも多いようです。
また、逆に自尊心が肥大化して極端な自己中心的な考え方に陥ることも少なくないようです。この場合にも根底にあるのは、猜疑心であり、強い不信感であることは同じです。攻撃性が内に向かうか、外に向かうかの違いではないかと思いますが、この辺の話は霊障として考えるよりも心理学として考えるべきと思いますので、深入りは控えます。いずれにしてもこの段階まで状況が悪化しますと現実的な対応では、状況の改善は困難となります。
霊障の観点から見てもこの状況まで悪化しますと、一般的な供養や祈願祈祷では障りの解消は困難であり、時間的にも経済的にもかなり大きな負担となります。正直な話として鑑定をするだけでも障りを受ける可能性を考えなければならない段階であり、この段階を過ぎますと一家離散や家系断絶に向かう可能性が高くなります。そのため、一家離散や家系断絶の一歩手前の状況であり、霊障としては末期症状です。
勿論、この段階になるまでには、数多くの段階があり、徐々に悪化しますので、もっと早い段階で霊障対策を始められるにらば、ここまで霊障が悪化することはありません。しかし、この段階にまで悪化してしまうと、幾つかの幸運が重ならないと人生を立て直すことは難しくなりますが、何よりも自分の人生を再建しようとの意欲が必須となります。多くの場合には、自分の人生を再建しようとの意欲すら失っているか、破天荒な人生を生きることに疑問を持たなくなっていますので、霊障を解消することは絶望的となります。
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海外の心霊であっても言葉を降ろしてくる心霊は、数多くいましたので、深く考えることもあれませんでしたが、確かに何か言っていても生前に使用していた言葉で話すならば、こちらには意味不明であり、雑音にしか聞こえない可能性はあることに気付きました。しかし、心霊が生前に使用していた言葉で話すならば、海外の心霊に限らず、日本の心霊であっても奈良時代や平安時代と言った古い時代の心霊の語る言葉は、こちらには意味不明となるはずです。
それでも現代の言葉で書き留めることが可能なのは、潜在意識のいたずらとも考えられます。しかし、過去に数多くの自動書記を経験していますが、心霊の言葉の裏付けをとるために調べたことは何度かありました。勿論、私には知らない話であることから自動書記の内容が歴史的な事実と符合するかの確認作業でした。今のところ、資料が残っていることに関しては、確認していますが、奈良時代以前となりますと、残された資料が少なく、確認できないことも多くなります。
今のところは、明らかに潜在意識のいたずらや思い込み、妄想と思われるような内容は見つかっていませんが、霊界通信自体が実に不安定であり、玉石混合の世界です。神霊が○○神や○○仏、○○公などの名乗ったとしても、その真偽を確認する方法はありません。神霊が上杉謙信や武田信玄を名乗ったとしても、疑うことは可能でも否定も肯定もできないままに自動書記を続けることになります。しかし、自動書記の内容から低級霊の惑わしと判断した場合や内容がないと判断した場合には、即中止します。
低級霊の惑わしの場合には、書いていますと漠然とした違和感を感じることが多く、内容がないと判断して中止することが大半です。最近は殆どなくなりましたが、自動書記が始まった当初は、良くありました。自動書記が始まった当初は、こちらも慣れていなかったことや数多くの神霊からのお言葉があったことも理由かと思われます。
さて、心霊が生前に使用していた言葉で話すならば、こちらが理解できない言葉になるはずとの疑問について少し考えてみますと、理由としては、脳内での言葉の置き換えが考えられます。これは感覚としては、意識が合うと言った感覚となります。心霊が何かを言っている気はしても何を言っているのか分からないことは、珍しいことではありません。しかし、何を言っているのか分からなければ、言葉を書き留めることはできませんので、無視することになります。
また、感情だけが伝わってくることは比較的多いと言えます。稀にやイメージで伝えようとする心霊もいますが、相手が明確に何かを伝えようとしていると感じない場合も無視することになりますので、やはり言葉として受け止められない場合には、心霊が何かを伝えようとしていても無視することになりますので、古い時代の心霊や外国の心霊の自動書記は難しいと言えます。
但し、相手がどんな心霊であっても、心霊との意識が同通し易い場合には、自動書記は容易となります。これは色々な要因が考えられますが、過去世で日本に生まれた経験のある心霊は、比較的問題が少ないようです。また、私の意識と霊格が同格か、私の意識よりも霊格が低い場合も問題が少ないようです。この他に相手の心霊が何かを伝えたいとの強い意思がある場合には、少し時間はかかっても伝えたい内容が分かることが多いようです。
いずれにしても霊界通信のメカニズムについて解明したいとの気持ちを持つこともありませんでしたので、何がどうなっているのか分からないことだられけです。私にとっては、自動書記や霊界通信は、誰かが何かを伝えようとしている感覚から始まり、頭の中に浮かぶ言葉を書き留める作業でしかありません。それは突然にかかって来る電話と同じであり、相手が名乗る名前や肩書が本当なのかを判断することが困難なのと同じです。そのため、自動書記はその内容で真偽を判断するしかなく、本当に霊格の高い神霊の言葉であるとしても学ぶべき価値もない内容ならば、駄文でしんないと考えることにしています。
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このブログでは霊障について取り上げることが多いのですが、「霊障を解消することの意味」についてご質問がありました。
世の中には、死後の世界を否定される方が少なくありません。確かに死後の世界が存在することを証明した人間はいませんし、死後の世界から帰ってきた人間もいません。私にしても死後の世界が存在することを証明することはできませんし、死後の世界について分かっていることも余りありません。死後の世界に関しては、分かっていないことの方が遥かに多く、分かっていることなど僅かなことだけだと考えています。
そのため、霊界世界の話と言っても基本的に個人的な経験則から導かれる推論であり、全ては仮説でしかないと言えます。そのため、全てが妄想の産物と言われても否定する気もなく、死後の世界を否定する人に死後の世界の存在を認めさせようとの気持ちもありません。誰にも死後の世界の存在を証明することも、死後の世界が存在しないことの証明もできないのであるならば、どちらを信じるかは個人の判断に任せるしかありません。
私は若い頃から漠然とした閉塞感を抱えていました。その理由を深く考えることもありませんでしたが、大学を卒業を前にした就職活動の時期から自分の人生が何か大きな力に翻弄されているような気持ちを持つようになりました。努力しているのにいつも努力が報われない気持ちを持つようになりましたが、その理由が分かりませんでした。そして社会に出てからは仕事に悩み、人間関係に悩むようになりました。
そしてその頃から不穏な空気や気配と言った得体のしれない力を感じるようになりましたが、それが何か全く分かりませんでした。ただただ部屋に重たく重苦しいような空気を感じると言った感覚でした。そして仕事に悩み、人間関係に悩み、自分の人生に悩み、解決策を探し求める日々が続きました。試行錯誤が続くばかりで解決の糸口すら見つかることのない日々が続きましたが、ある方から霊障だから滝行を勧められました。それがこの世界に足を踏み入れたきっかけでした。
漠然とした閉塞感や努力しているのにいつも努力が報われない気持ちを持ったことのない方には、霊障の話を理解することは難しいのではないかと思います。努力をしていれば、必ず報われると信じている方に、霊障の話をしても気持ちの持ち方と笑い飛ばされるかと思います。また、才能と努力で成功できると信じている方からするならば、詐欺商法と思われるのではないかと思いますので、信じてもらおうとも考えていません。
話は変わりますが、先日あるお寺の僧侶の方が、ご先祖を大切にされている方の家は、明るい雰囲気であり、ご先祖を大切にされていない家は、暗い雰囲気であると言われていました。実は、これが私が若い頃に感じていた閉塞感です。このことは、私が数多くの方からご相談を受けるようになって痛感していることでもあります。まだ、この仕事を始めた当初は、知り合いからの紹介が中心でしたので、相談者のお宅にお伺いしていました。その当時に感じたことは、お伺いしたお宅の雰囲気の暗さでした。殺伐として雰囲気や整頓されてない雑然とした雰囲気でした。
これは客商売の場合には、もっと明確となります。繁昌しているお店には活気があり、明るい雰囲気ですが、繁昌していないお店は活気がなく薄暗い印象を受けます。人間は無意識に陰気な雰囲気を嫌いますので、客足が遠のくことになります。勿論、落ち着いた雰囲気と陰気な雰囲気は異なりますが、霊域が悪くなると、内装や照明とは無関係に、陰気な雰囲気を感じます。これと同じことが家庭内においても起こります。
家庭が陰気な雰囲気ですと家族は家庭で過ごす時間が苦痛になります。子供は家に帰るよりも外で遊んでいた方が楽しいことから世遊びなどを繰り返すようになります。また、ご主人は家に帰っても落ち着かないことから仕事に逃げて家族を顧みなくなったり、浮気をするようになったりします。そして奥様は無気力になったり、精神的に不安定になることが多いようです。しかし、先祖供養を始めますと次第に状況が好転し始めることが多いようです。
これは過去に先祖供養を始められた方からお聞きした話ですが、気付けば家族が喧嘩しなくなった。家の中が整理整頓していめことが多くなった。いつも疲れていたのに体が軽く感じるようになったなどの声を聞いています。これは迷われていたご先祖が落ち着かれて障りを起さなくなったことや霊域が改善したことで家庭の雰囲気が改善された影響と思われます。勿論、霊障の原因は数多く、ご先祖だけが霊障の原因ではありませんので、ご先祖の障りが解消しても霊障が解消することは少ないとも言えます。しかし、ご先祖の障りが解消することで家庭の雰囲気が改善することは多いようです。
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神社仏閣に参拝しなくても家で祈っているだけで充分だと考える方は少なくないようです。また、神棚や仏壇はあっても拝むことのない方も多いようですが、神棚や仏壇の前に座ってお参りしてないだけで、日常的に心の中で神仏に祈っていると言われる方もいます。しかし、個人的には祈りの時間は、日常の時間ではなく、非日常の時間であった方が有効てはないかと思います。例えば、読経にしても慣れない間は、読むのに精一杯でも、慣れるならば他事(ほかごと)を考えながらでも読めるようになります。
祈りとは、神仏との意識の交流と考えるならば、他事(ほかごと)を考えながらお経を読んでいても心が仏に通じているとも思えません。それならば、短い時間だけでも仏と向きあう時間を持つように心掛けた方が良いと言えますが、実際にやってみると簡単ではありません。いずれにしても日常生活の中で神仏を意識することは簡単ではないと考えます。
さて、私が苦悩の中にあった頃に神社仏閣に参拝することで日常の生活を離れた時間を過ごせたのは、参拝が非日常的な時間だけであったからではないと思います。二十代の前半にも参拝はしていましたが、非日常的な時間ではあっても心の平穏は得られませんでした。この違いは何かを考えますと、自分の心が神仏に向いていたか、神仏に向いていなかったのかの違いではないかと思います。二十代の前半に参拝していた頃は、神仏にお願いはしていても、関心は自分の苦悩が解消されることだけであった気がしています。
これに対して三十代になって神社に参拝していた当時は、神仏に苦悩の解消をお願いはして言いましたが、占いや運勢を変える力を持つ存在であるとの気持ちの方がありました。その違いが大きかったのではないかと思います。同じお願いをするにしても神仏を自分の力を遥かに超えた偉大な存在と考えるのか、自分の願いを叶えてくれる便利屋のような存在と考えるのかの違いです。この違いが神仏に心が通じるか、通じないかの差になるのではないかと思います。
多少なりとも神仏に心が通じるならば、目には見えなくとも神仏の働き掛けがあり、心の闇が軽減することで心が楽になったのではないかと思います。当時は、今よりも熱心に神棚に参拝はしていましたが、心が軽く感じたのは神社仏閣への参拝でしたので、自宅で神棚や仏壇を拝むよりも参拝した方が心が軽くなる気がしました。
この違いを考えますと、当時の自宅や会社の霊域の悪さがあったのではないかと思われます。あの当時は、両親が重度の霊障であり、嫌になる程の霊域の悪さでした。そのため、自宅や会社の神棚を拝んでいても神仏に心が通じることが難しかったと言えます。また、参拝することで日常生活とは、異なった時間を持つことで、自分の気持ちに少しばかりのゆとりを持つことができたのかもしれません。
これは心霊世界の観点から見るならば、不成仏霊の影響を受け難い環境と不成仏霊の影響を受け易い環境の違いであるとも考えられます。このことは供養の場合に顕著となります。不成仏霊の数が余りにも多い環境の中で供養を行いますと、周辺に漂っている不成仏霊を呼び集めることになります。勿論、供養される方が陰徳を積まれた方であり、神仏に心が通じているならば、お経の功徳で不成仏霊を成仏させることができますが、在家の者には難しい話となります。それを知らずにご先祖が迷っているからと霊域が極端に悪い中で供養をしますと、不成仏霊に押し潰されるような状態になります。
そのため、最初はお寺に参拝して供養のお経を読むようにしていました。お寺で供養のお経を読むと不成仏霊に押し潰されるようなことはありませんでした。何か憑き物が落ちたような気分になることはできましたが、境内を出た途端に不成仏霊が集まって来るような感覚を受け、嫌になったことが何度かありました。そんな経験を何度かしたことから供養に関しては、僧侶にお任せして自分の力で先祖を成仏させようとすることは止めました。
いずれにしても神社仏閣の境内は聖域であり、神仏に心が通じやすく、不成仏霊の影響を受け難い空間です。そのため、自宅で神仏に祈るよりも神仏に心が通じやすいと言えますので、お近くの神社仏閣に足を運ばれることをお勧めします。
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]]>「なぜ、社寺にお参りするのが良いことなのか。神棚などで礼拝するのが良いことなのか。」のご質問がありました。私は僧侶でもなければ、神職でもなく、宗教学者でもありませんので、経典などの解説ではなく、心霊世界から見た参拝や拝礼の意味についてのご質問かと思います。そのため、内容としては個人的な体験や過去の経験則からの推測となりますので、一般論して語ることには無理があることをご理解下さい。
さて、霊障に悩まされていた若い頃から神社仏閣に随分と参拝させていただきました。しかし、二十代の後半の頃に解消の糸口すら見えない苛立ちや霊障に悩まされていることを神仏はどのような気持ちで見ているのかとの疑問から神社仏閣への参拝や神棚の参拝を止めていた時期があります。その期間に何をしていたかと言えば、占いの勉強でした。当時は、インターネットなど夢のまた夢の時代であり、どんな本を読めば良いのかを調べるのも大変な時代でした。
その頃に考えていたのは、人間の幸不幸は運命で決まるのかとの疑問でした。元々占いを趣味にしていましたが、趣味の範囲であったことから改めて勉強しました。この頃に占いの本は入門書から専門書まで随分と読みましたが、占いの背後にある神秘思想に関心が移りました。神秘思想となると、対象が広がりすぎて雑学の勉強のような状態に陥りました。しかし、占いの勉強をしていて分かったことは、運命はあっても運命だけで全ては決まらないことでした。
また、知り合いの依頼で鑑定した結果が外れたことも一つの転機となりました。当時は少しばかり天狗になっていたこともありますが、自分の占いが外れるはずがないと思っていましたが、結果的に外れました。後で本人から聞いた話では、私の占いの通りに事態は進展しましたが、最後の土壇場で私の予想とは異なる結果となりました。私には占いを超える力が働いたとしか考えられず、神仏の働きなのだろうと考えるようになり、神社仏閣への参拝を再開しました。
別に誰かから強制されて参拝したのではなく、全ては自分の意思でした。それを続けることができたのは、神社仏閣で過ごす時間が心地良かったからでした。当時は、お経を読むこともなければ、祝詞を奏上することもしていませんでしたので、一般の方と同じように参拝するだけでしたが、参拝した後で大きな神社の池のほとりでぼんやりとした時間を過ごすことが多かった気がしています。それはヒーリングとでも言うべき時間であったのかもしれませんが、日常の悩みを忘れる時間でした。
私の知り合いが悩んでいた際に地元の大きな神社への参拝を勧めたところ、頻繁に参拝するようになりました。その知り合いは、参拝をすると何故か、気持ちが楽になる。その心地良さがあるから参拝すると言っていました。個人的には、神社仏閣に参拝することの意味はこれだけで充分ではないかと思います。私が二十代の後半の頃に神社仏閣への参拝を止めたのは、苦悩が解消されなかったからですが、三十歳の頃に再び参拝を始めた頃には、苦悩が解消されることよりも日常の悩みを忘れる時間を求めていた気がします。
こんな風に書きますと宗教家の説く教えのような内容となりますが、日常生活に疲れは果てた末に見つけた自分の居場所であった気がします。別に参拝だけをしているならば、説法を聞く必要もなく、行事に参加する必要もなく、気の向いた時間に足を運ぶだけであったことから続けることができたのではないかと思います。そんな生活を続けていたところ、心の中の何かが少しずつ変わり始めた気がしました。
今から考えるならば、ご神仏のご指導なのかとは思いますが、迷いが少しなくなったがしました。特に何が変わったとの実感もありませんが、困難に立ち向かう気力を持てるようになったと言うべきでしょうか。その体験から言えることは、参拝することで得られるものがあるとすれば、日常を離れた時間です。少しの時間だけも悩みを忘れ、神仏と向きあう時間を持つことは大切ではないかと思います。
次回に続きます。
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尚、「他力の教えとキリスト教」の記事で日本仏教学院 「現代人の仏教教養講座」 仏教ウェブ入門講座から仏教とキリスト教の違いを引用しました。同じサイトで浄土宗と浄土真宗の違いについて書ていましたので、引用しようかと考えましたが、明らかな間違いがあります。
浄土宗と浄土真宗の3つの違
1.本尊
浄土宗の本尊は、阿弥陀如来の木像や絵像ですが、
浄土真宗は南無阿弥陀仏の名号のみを本尊とします。
これは明らかに間違いです。西本願寺や東本願寺などの浄土真宗のお寺の本尊は阿弥陀仏の立像であり、名号ではありません。仏壇に祀る本尊は、「南無阿弥陀仏」(六字名号)の掛け軸を用いることもありますが、阿弥陀仏の仏画が一般的です。
一応、真宗大谷派のお寺で本尊について書かれていた記事がありましたので、引用しておきます。
お内仏の中に飾る物を「荘厳」(おかざり)と言います。普段のお内仏の荘厳について、説明しましょう。
ご本尊(ごほんぞん)
阿弥陀如来のご絵像、または「南無阿弥陀仏」(六字名号)の掛け軸お脇掛(おわきかけ)
向かって右側に「帰命尽十方無碍光如来」(十字名号) または親鸞聖人の御影の掛け軸
向かって左側に「南無不可思議光如来」(九字名号) または蓮如聖人の御影の掛け
真宗大谷派 富士見山佑浩寺HPより
日本仏教学院を名乗られていることから詳しく調べることもなく引用しましたが、この件に関しては明らかな間違いでした。
今後はもう少し慎重に調べます。
さて、話を浄土宗と浄土真宗の話に戻しますと、一番分かり易い違いは浄土宗では、亡くなった後に極楽往生が決まると考えるのに対して、浄土真宗では生前に極楽往生が決まると考えます。この教えの違いから浄土宗と浄土真宗では、色々なことが異なっています。例えば、浄土宗では亡くなられた方に読経や念仏の功徳を回向しますが、浄土真宗では亡くなられた方に読経や念仏の功徳を回向しません。浄土真宗でも他の宗旨と同じように法要は行われますが、亡くなられた方を偲び、縁のある者が集まって阿弥陀仏に感謝することが目的であり、亡くなられた方の供養が目的ではありません。
亡くなられた方の供養をしないことに関しては、キリスト教と同じではありますが、浄土真宗の教えにおいては最初に称えた念仏で極楽往生が決まるとされています。これに対してキリスト教におては、亡くなられた方が天国に生まれるのか、地獄に堕ちるのかは、神の意思であり、人間が関与することはできません。つまり同じ亡くなられた方の供養をしないと言っても全く意味が異なります。
デジタル大辞泉 「法蔵比丘」
ほうぞう‐びく〔ホフザウ‐〕【法蔵比丘】阿弥陀如来の、過去世で世自在王仏のもとで出家し修行していたときの名。法蔵菩薩。法蔵。
世自在王仏
せじざいおうぶつ/世自在王仏
阿弥陀仏が法蔵菩薩(比丘びく)であった因位のときに帰依し導かれた仏。ⓈLokêśvara-rājaⓉ’jig rten dbaṅ phyug rgyal po。楼夷亘羅と音写し、世鐃王仏とも訳す。『無量寿経』上によると、久遠の昔、錠光じょうこう如来が世に出て衆生を教化した後、次々と五三仏が出世して、その次に出た過去仏とされる。世自在王仏は法蔵菩薩のために二百一十億の諸仏刹土の天人の善悪、国土の粗妙を説き、これを示現して観見させ、これにより法蔵菩薩は四十八願を発おこすこととなった。法然は『選択集』三の阿弥陀仏の本願を説明するなかで、法蔵比丘と世自在王仏との関係を述べ、「選択」と「摂取」の語について説明している。『大宝積だいほうしゃく経』「無量寿如来会」と『十住毘婆沙論』は過去仏の順序が逆で、世自在王仏から始まり順に次第して錠光仏に至るとなっている。
また、キリスト教の神は全知全能の神であり、天地創造の神ですが、阿弥陀仏は法蔵比丘が世自在王仏に帰依して気の遠くなる期間の修行を重ねて仏に成ったとされています。そして法蔵比丘は四十八の誓願をおこされ、悟りを得て誓願が成就したとされています。その誓願の中の一つが念仏を称えることで極楽往生できることです。そのため、キリスト教で説かれている裁きを下す神ではなく、念仏を称える者を極楽浄土へと迎え入れることを誓願とされています。
浄土宗と浄土真宗では、極楽往生が死後に決まるか、生前に決まるかの違いはありますが、どちらも阿弥陀仏の誓願を根拠に教えが成り立っていますので、キリスト教の教えとは大きく異なる教えです。
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]]>他力門の教えは、阿弥陀如来の慈悲を重視する教えであり、特に浄土真宗では阿弥陀仏だけの信仰と言うべき教えであることからキリスト教に似ていると言えます。しかし、他力門の教えも仏教であり、仏教の根本的な教えから逸脱している教えではありません。
そこで今回は仏教とキリスト教の教えの違いを取り上げてみたいと思います。
最初に下記のサイトに簡潔にまとめられた記事
日本仏教学院 「現代人の仏教教養講座」 仏教ウェブ入門講座
仏教とキリスト教の違い 元記事 こちらから
キリスト教と仏教の7つの違い
No.
項目 キリスト教 仏教
1 開祖 イエス(大工の子・35才) 釈迦(王様の子・80才)
2 聖典 旧約聖書と新約聖書の2冊 一切経七千余巻
3 世界観 世界は神の創造したもの。 因果の道理に従って無始無終。
始まりと終わりがある。 一人一人が自分で生みだした世界に生きている。
4 人間観 全知全能の神が造った一度きりの人生。 因果の道理にしたがって果てしない過去から輪廻転生する。
信ずる人を愛ししもべにする。 仏の慈悲はすべての生命が救いの対象。
信じない人は怒り滅ぼす。
5 科学 奇跡をイエスが神である証拠とするので相容れない 因果の道理に立脚するので調和する
6 運命と罪悪 神の与えたもの 自業自得
アダムとイブが知恵の木の実を食べた原罪が全人類の罪 煩悩によって罪悪を造る
7 救い 神を信じる人は最後の審判で神のしもべになれる すべての人が仏になれる
最初に書かなければならないことは、キリスト教においては神は全知全能であり、世界は神の創造物とされています。そのため、神は絶対的な存在となります。これに対して仏教においては全ては因果の道理に従うとされることから天地創造の神話は存在していません。そのため、キリスト教で説かれる神と仏教で説かれる仏では全く意味が異なります。
例えば、他力門の教えでは死後に極楽往生することが教えの中心となりますが、浄土真宗では極楽往生したならば、阿弥陀如来のお力で誰もが等正覚(とうしょうがく)の悟りを得ることができるとされています。等正覚の悟りは、菩薩の五十二の階位のうちの第五十一番目の「等覚位」(ほとんど仏に近い境地)のことだとされます。これは弥勒菩薩の悟りとも言われています。
そのため、他力門の教えでは単純に豊かで平和な世界に生まれ変わるだけでなく、阿弥陀仏のお力によって高い悟りを得ることができるとされています。これに対してキリスト教では、どんなに敬虔なキリスト教徒が天国に生まれ変わったとしても天国で修行をすることで神になることは有り得ない話です。
尚、天台宗でも念仏を称えて極楽往生を願いますが、天台宗では極楽浄土は色々な人間が入り混じった浄土であることから極楽で修行した後により高い世界を目指すことを説いています。これに対して親鸞聖人は、極楽浄土で高い悟りを得たならば、現世に生まれ変わり、現世で衆生を救うはずだとのお考えがあったようです。
何分にも仏教とキリスト教では、世界観が大きく異なることから極楽浄土と天国を同一に考えることには無理があります。何が違うのかを書き始めますと際限がなくなりますので控えますが、浄土真宗が阿弥陀仏だけを拝む教えであると言っても浄土真宗も仏教の教えであり、キリスト教の教えとは大きく異なります。
そのため、他力の教えは、キリスト教の教えが仏教に取り入れられたと考えるのは、仏教の教えを無視した考えではないかと思います。
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]]>基本的には、読経の功徳と祝詞奏上の功徳も同じ神仏の働き掛けと思いますが、神と仏では働きの違いがある印象があります。これは以前から感じていたことではありますが、就職や試験などの祈願祈祷の場合には、お寺での祈願祈祷よりも神社での祈願祈祷の方が効果的である印象があります。勿論、これは過去の経験から受ける印象であり、個別に比較したこともなく、統計をとったこともありません。
しかし、過去の体験からこの印象は、間違いではないと思うことがありました。読経の功徳の考察で膨大な数の不成仏霊の障りでこれまでかと思った際の経験を書きましたが、同じような経験をしたことがあります。その際は、生きる意欲を根こそぎ奪われる感覚がありました。その時には、何もする気力すら起こらない状態に陥りましたが、唐突に暗闇の中に光が現われ、「死ぬことは許さぬ」との声が頭の中に響きました。
私はその時にある武将のお声と思いました。その2・3日前にある武将をご祭神として祀る神社に参拝していたことから直感で○○公と思いました。そしてお言葉が降りた直後に背中に大きな赤い玉のような物を背負った騎馬武者が現われました。その時に「赤母衣衆(あかほろしゅうの方か」と思いました。
母衣衆
武士の組織化が進んだ戦国時代には、母衣は赤や黄など目立つ色で着色されており、敵味方からも識別しやすい母衣は大名の精鋭の武士や、本陣と前線部隊の間を行き来する使番に着用が許される名誉の軍装として使われることがあり、それら使番の集団を「母衣衆(幌衆)」と称した。次節で紹介する織田信長の母衣衆が特に有名である。織田氏の職制を参考にしたと思われるが、豊臣秀吉にも黄母衣衆や、赤母衣衆、腰母衣衆、大母衣衆などがあり、江戸時代の諸藩の中にも藤堂家や仙台伊達家などのように、軍制としての位置づけは形骸化しているが、側近を表す名誉職として母衣衆を置く藩があった。ウィキペディアより
母衣衆の方は、戦場での伝令の役目の方であることからお言葉を伝えに来られたのかと考えましたが、その直後から身体に生気が戻り、気力が充実し始めました。「死ぬことは許さぬ」とは何とも人使いの荒い方だと思いましたが、それまでの倦怠感や疲労感が消え去りました。これも阿弥陀様のお力と全く異質ではありますが、神仏の働きかけと思われます。
不成仏霊が抱えている負の想念は、怒りや憎しみだけではなく、失意や絶望感、無気力、怠惰、劣等感などの負の想念を抱えていることが少なくありません。この時には、膨大な量の失意や絶望感、無気力、怠惰、劣等感などの負の想念に押し潰されていたと思われますが、その負の想念を消し去っていただいたのではないかと思います。
勿論、仏様も失意や絶望感、無気力、怠惰、劣等感などの負の想念を消し去るお力は強いと思いますが、この体験を通して改めて神道のご神霊のお力を実感しました。
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何故か外出しなければならない用件が重なりました。
オロオロ(T_T;))((;T_T)オロオロ
投稿が遅くなりました。m(_ _)m
それはさておき・・・・
前回の投稿で不思議な体験の話をご紹介しましたが、亡くなられた方がどんな気持ちで読経を聞いているのかは、亡くなられた方に聞く以外に方法はありませんが、個人差があることは避けられないと思われます。例えば、クラシック音楽が好きな方にとっては、クラシックのコンサートは至福の時間でも、興味のない人間には子守歌となってしまうかもしれません。同じようにハード・ロックが好きな方にとっては、ロック・バンドのコンサートは大興奮する時間でも興味のない方にはうるさいだけかもしれません。私の場合には、普段から聞きなれたお経がいつもとは異なった心地よさを感じましたが、これが別の宗旨のお経を聞いていたならば、全く異なった印象であったのかもしれません。
しかし、個人的な感想ではありますが、お経を聞いたことで感じた心地良さは、音楽を聞くことで得られれるような心地良さではなく、心が穏やかとなり、心の中から不安感や苦悩が消え去るような心地良さであることを考えるならば、神仏の働き掛けではないかと思いました。これは言葉で表現することが難しく、体感しなければ分からない感覚でした。そのことを考えますと、読経は神仏の働き掛けと密接な関係があるのではないかと思われます。
読経は神仏の働き掛けと密接な関係があるとするならば、成仏を求めている不成仏霊は供養を求める理由も分かる気がします。不成仏霊が成仏できない理由が、生前の怒りや憎しみ、不満などである可能性は高いと思われます。これは過去の不成仏霊の霊言からの推察とですが、迷いから抜け出すとは、生前から抱き続けた負の想念の清算ではないかと思われます。激しい恨みや憎しみにとわれていた心霊が障りを起すことを止めた後の霊言が数件ありますので、いずれ機会があれば、迷いから抜け出した直後の心霊の霊言をご紹介したいと思います。
生きている人間でも怒りや憎しみを抑え込むは比較的容易であっても怒りや憎しみを消し去ることは簡単ではありません。その消し去ることが困難な怒りや憎しみ、不満と言った負の想念を消し去るのが神仏の働きではないかとも考えます。勿論、長年溜め続けた怨念が一瞬にして消えることはないとしても徐々に怒りが収まり、穏やかな心になるように働きかけるのが神仏の働き掛けの力ではないかと思われます。
勿論、これは個人的な印象であり、推論でしかありせんが、以前に泊まり込みで念仏三昧の生活をすると、最初は鬼のような形相であった方が数日後には仏のような顔に変わると言分けていました。その話をされた方は、そんな風に変わった方を何人も見ているから間違いはないと言われていました。しかし、念仏三昧の生活で仏の顔になった方も実生活に戻ると元ら戻ってしまうとの話をされていましたので、話は簡単ではないとも言われていましたが、念仏や読経を縁として神仏の働き掛けがあると考えることができるのではないかと思われます。
しかし、復讐の鬼となっている怨霊や自分の力を誇っている魔物は、この神仏の働きを非常に嫌がるようです。その理由を考えますと、最初に怨霊や魔物が手下として使役している不成仏霊が救われることで手下の数が減ることを嫌がることが思い浮かびます。過去の経験では、魔界は力の世界であり、力のある魔物は、数多くの手下を抱え、力の弱い不成仏霊を使役しています。そしてそれらの手下を使役して障りを起すのが彼らの常套手段です。そのため、手下の数が減ることは霊界における自分の力が弱まることであることから読経や祝詞の奏上を嫌がるのではないかと思われます。
また、復讐の鬼となっている怨霊にとっては、怨念や怒りが自分の力であり、自分の存在価値であるとの気持ちが強いことから、怒りや憎しみの心が弱まることを嫌うのではないかとも考えられますが、怨霊や魔物が読経を聞いて何を考えているのかは、分からないのが正直なところです。分かっているのは、怨霊や魔物が読経を嫌がることであり、支配している人間を法要などに参加させないように妨害することです。
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これは現世に生きている人間が死後の世界の住人である心霊の気持ちを理解することの限界と考えるべきではないかと言えます。いつも書いていることではありますが、これは死後の世界に限られた話ではなく、現世でも同じではないかと思います。例えば、親知らずで大変な思いをした人は、親知らずの痛みを痛みを体験した人は、その痛みが分かっても、親知らずの痛みを経験したことのない人には、その痛みが分からないのと同じではないかと思います。
その意味では、現世を生きている人間は、死後の世界の住人である心霊の気持ちを理解することは不可能と言えますが、似たような状態になった場合には、心霊の気持ちに近い体験をすることは可能ではないかと思います。現世を生きる人間が死後の世界の住人に近い状態とは、死を目前にした状態ですので、臨死体験でもしない限りは、心霊世界の住人である心霊の気持ちを理解できないと言えます。そのため、現世を生きる人間が心霊の気持ちを体験することは非常に困難なことになります。
個人的な体験となりますが、霊障鑑定をしていますと死を身近に感じることが何度かありました。霊障鑑定は日常的に魔物を相手にしていますので、それなりの対策はしていますが、相手が非常に強大な力を持つ魔物の場合には、危機に陥ることはあります。危険は最初から覚悟していますので、今回は危ないかなと思っても乗り越える自信はありますが、今回だけは駄目かなと思ったことがありました。
それは膨大な数の不成仏霊の大群が集まっていることは分かっていましたが、その数が尋常ではなく、祓いきれずにいました。やがて起きていることも困難となり、横になりましたが、不思議と心は落ち着いていました。死に対する恐怖感はありませんでしたが、やり残したことだけが気になりました。最期に聞きなれた真宗大谷派の阿弥陀経を聞きたくなり、重たい身体を引き起こして動画を流しました。
いつも聞きなれているはずのお経なのに、まるで身体に染み渡るようにお経が聞こえました。それは何とも不思議な程の心地よさであり、ずっと聞いていたい気分になりました。そして頭の中に阿弥陀経の文字が流れました。それは映画の字幕にも似ていましたが、お経にあわせて文字が流れてい行くような映像でした。また、普段は気にしていないような僧侶の方の読まれるお経の抑揚なども鮮明に伝わってきました。
幸いにして危機的な状況を抜け出すことはできましたが、何とも不思議な体験でした。その時に供養を受けている心霊も同じような気持ちでお経を聞いているのだろうかと考えました。しかし、その心地良さは、聞きなれたお経であったからなのか、お経を読まれている僧侶の方の力なのか、それとも阿弥陀仏のお力なのかは、分かりませんでした。ただただ心地良いとしか言えない不思議な感覚でした。
次回に続きます。
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さて、祈願祈祷を受けた際に何も感じることもない時もあれば、激しい睡魔に襲われたり、圧倒的な力の圧力を感じたりすることがあります。基本的に非日常的な体験をされるならば、神仏の働き掛けを実感されることも可能となりますが、非日常的な体験をしなければ、神仏の働きがないと考えるべきではないと考えています。個人的な体験の範囲でしか書けませんが、神仏の働き掛けを実感するか、神仏の働き掛けを実感しないかは、幾つか要因があり、条件が揃った際に起きるのではないかと考えています。
しかし、僧侶が仏前で読経されたり、神職が神前で祝詞を奏上されたりすることで神仏の働き掛けを実感することができたとしても、それは今回のテーマである読経や祝詞を奏上と神仏の働きとの関係の解明ではありませんが、前回の考察で書きましたが、経典に根拠を求めても納得できる理由を得ることは困難ではないかと思われます。供養や祈願祈祷を受ける立場から考えますと、理由が分からなくてもご利益が得られるならば、それで良いとの考えもできますし、考えても答えが得られない問いであるとも言えます。
その理由として考えられるのが、我々が体験しているのは、現世に生きる人間としての体験であり、死後の世界の住人としての体験ではないからではないかと考えることができます。私が若い頃にある霊能者がご先祖が般若心経を一貫読まなければ、悪いことが起きると言っていると語ったことがありました。そして続けて悪いことが起きるのではなく、悪いことを起すとの意味だと言いながらお経を読まれました。
個人的にも亡くなられた方がお経を聞きたがっていると思ったことは、何度かありましたが、どうして亡くなられた方が読経を求める理由は、良く分かりませんでした。また、逆に障りを起している魔物は、読経や祝詞の奏上を嫌がることも体験的に知っていますが、魔物にとって読経や祝詞の奏上をどのように感じているのかは分かりません。ただ、経験的に読経や祝詞の奏上が神仏の働き掛けと密接な関係があることだけは分かっていました。
これに対する答えとして、ある霊能者は言霊の力とあると説いていました。言霊とは、古代日本で、言葉に宿っていると信じられていた不思議な力です。お経の言葉に力があるとの考えるならば、お経を読むことで神仏のご加護が得られることの説明にはなりますが、真偽を検証することはできません。また、お経を読む際に魂魄を込めなければ不成仏霊を救うことができないと言われる方もいます。魂魄とは人間の精神的肉体的活動をつかさどる神霊、魂のことであり、分かり易く言えば、気持ちを込めなければ、お経の力は期待できないと言った趣旨の話です。
個人的には、こちらの方が納得できますが、それよりも大切なことは、神仏に向きあう気持ちではないかと思います。過去の経験では同じお経でも読む方によって感じる力は異なります。また、鬼気迫る形相でお経を読まれる僧侶のお経よりも淡々とお経を読まれる僧侶の方の方が力を感じることがあります。その違いは何かと考えますと仏に向きあう心の違いではないかと思います。自分には霊能力はないからと言われる方でも真摯に仏と向きあっている印象を受ける方のお経には力を感じることが多い印象があります。
次回に続きます。
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goo辞書から引用した解説に「3 浄土真宗で、阿弥陀仏が人々に救いの働きを差し向けて浄土に迎えること。」とあります。
このことについて少し解説を補足しますが、浄土真宗では他の宗旨とは「回向」の意味が異なります。一般的には「回向」と言えば、現世に生きる人間が積んだ功徳を亡くなられた方に手向けることとされていますが、阿弥陀仏が人々に救いの働きを差し向けて浄土に迎えることとされています。正確に言えば、浄土真宗では「往相回向」と「還相回向」の二種類の回向が説かれます。
衆生が命終わって浄土へ往生し、成仏することが往相回向
衆生が仏と成った後に浄土から現世に還かえってきて、他の人々を救済するべく活動することが還相回向
共に阿弥陀仏の働きとされています。
興味のある方は、下記のサイトに詳しい解説があります。
真宗大谷派 東本願寺 正信偈の教え−みんなの偈− 往相の回向と還相の回向 こちらから
一般の方からするならば、回向は亡くなられた方に読経の功徳を手向けることであり、それは浄土真宗の門徒でも同じように考えていると思いますが、親鸞聖人は全ては阿弥陀仏の働きであり、亡くなった方が極楽浄土に迎えられることも極楽浄土で悟りを得た衆生が現世に生まれ変わることも阿弥陀仏の働きであると説かれています。
また、浄土真宗では最初に称えた念仏で極楽往生は決定するとされていることから他の宗旨の回向とは、異なった意味としてとらえていると思われます。但し、浄土真宗では極楽往生することができるのは、信心決定している者に限られると説かれています。これは少し解説が必要となりますが、親鸞聖人は二種類の浄土を説かれています。つまり阿弥陀仏の慈悲を心から信じて疑わなかった者の「真実の浄土」と阿弥陀仏に疑いを持った者は「仮の浄土」となります。
この話を詳しく解説しても煩瑣な話となりますので深入りは控えますが、いずれにしても浄土真宗の教えでは、読経の功徳を亡くなられた方のために回向する教えはなく、亡くなられた方が救われるのは、阿弥陀仏のお力とされています。そのため、他の宗旨とは教えが異なり、読経の功徳を回向するとの教えがありません。
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随分昔の話となりますが、深刻な霊障に悩まされていた頃に、どうしてお経を読むことで救われるのかと疑問を持ちました。何が説かれているのか分からない漢文を読むことに何の意味があるのかと考えました。今ならば、ネットで般若心経の解説を簡単に検索することができますし、般若心経の内容を紹介するサイトは数多くありますが、当時はコンピューターと言えば、業務用の巨大なコンピューターしか存在していませんでしたので、書店で入門書を買い求める程度のことしかできませんでした。その当時にベストセラーになっていた入門書を読んでみましたが、内容は道徳論の印象しかありませんでした。その後も何冊かの本を読みましたが、多少の仏教知識が増えただけであり、何の収穫もありませんでした。
蛇足ながら般若心経の解説に限られた話ではありませんが、仏教を学ぼうとしますと、経典の解釈が中心になりますか、これは壮大な森をさまようことに似ています。仏教と言っても原始仏教、小乗仏教と大乗仏教に大きく分かれているだけでなく、大乗仏教も幾つもの宗旨宗派に分かれていますので、仏教の全体像を把握するだけでも至難の業となります。その学びの中でどうしてお経を読むことで救われるのかと疑問を解消することは至難の業でした。
その答えの手掛かりとなるのは、「供養」と「回向」ですので、「供養」と「回向」の意味をご紹介します。
〘名〙 (pūjanā の訳語。進供資養の義で、仏・法・僧の三宝や父母、師長、亡者などに供給し、資養することをいう) (サ変として用いられる場合、近世以前にはザ行にも活用した) 仏語。
? 本来は香華(こうげ)、灯明、幡(はた)、あるいは飲食、衣服、資材などの施物を行なうことを主とするが、また、精神的なものをも含める。その供える物の種類、供える方法、および対象によって種々に分類され、敬供養、行供養、利供養などがある。
? 法会(ほうえ)を営むこと、死者の冥福を祈って回向する追善、施餓鬼(せがき)などのこと。また、開眼(かいげん)供養、鐘供養、経供養などの仏教行事をいう。
? (僧の側から) 喜捨を受けること。また、施される飲食物、衣服などの布施をいう。
精選版 日本国語大辞典
え‐こう〔ヱカウ〕【回向/×廻向】 の解説
[名](スル)仏語。
1 死者の成仏を願って仏事供養をすること。「冥福を祈って—する」2 自分の修めた功徳 (くどく) を他にも差し向け、自他ともに悟りを得るための助けとすること。
3 浄土真宗で、阿弥陀仏が人々に救いの働きを差し向けて浄土に迎えること。
4 寺への寄進のこと。
「沙金錦絹を徳長寿院へ—し奉るべし」〈盛衰記・一〉
5 「回向文 (えこうもん) 」の略。
goo辞書
供養の本来の意味は、香華(こうげ)、灯明、幡(はた)、あるいは飲食、衣服、資材などの施物を行なうことや仏を拝むことや仏を礼賛することも供養とされています。そして供養の中にお経を読むことも含まれます。これらの供養は、徳を積む行為とされていますが、本来は供養した本人の功徳と考えられていましたが、時代が下ると自分が積んだ功徳を他人に手向けることが可能であるとの考えが生まれます。それが回向の思想です。この回向の思想が一般的な先祖供養で読経することでご先祖の成仏を助けることができると考えられている理由です。
しかし、どうしてお経を読むことで徳を積むことができるのかとなると今一つ疑問が残ると言えます。個人的には、疑問を持ちながらも経験からお寺で読経をお願いすることの効果を実感していましたし、少なくともお寺で読経することで神仏のお力を感じましたので、理由は分からないが、効果があることから読経を行っていたと言うのが実情でした。
お経を読むことがどうして功徳があるのかの理由を調べても経典の中にお経を読むことに功徳があると書かれている以上は、仏教徒の立場からするならば、それ以上の理由を探しても意味がない言えます。どうしてお経を読むことに功徳があるのかと疑問を持つことは、お経の内容を疑うことになります。そのため、仏教の教えとして考えるならば、お経に書いてあるからとしか言えないのですが、心霊世界の観点から考えますと少し事情が異なります。
次回は、心霊世界の観点から見た読経の意味について書きたいと思います。
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思わぬ急用が・・・・・
(( アタフタ(^^;)(;^^)アタフタ ))
気付けば、日付が変わっていました。
m(_ _)m
それはさておき・・・・
以前のことですが、織田家と縁の深いお寺のご住職が織田家は敵が多く、子孫が苦労されていると話をされていました。
それを聞いて思わず納得しました。
霊障鑑定で過去世の障りを調べることは多いのですが、織田家の武将であった過去世を持つ方が何人かいます。残念ながら柴田勝家や丹羽長秀、佐久間信盛、佐々成政、前田利家、森蘭丸と言った有名な武将の生まれ変わりの方を鑑定ことはありませんが、有名武将の部下であったと思われる方は何人かいました。それらの方の多くは、経営者であるか、企業の経営陣の仲間入りされています。そのため、過去世で武将をされていた方は、独立志向が強いのかと思うことがあります。
織田家の有力な武将の場合には、記録が残っていることが多いことから過去世の個人名を特定することが可能なことが少なくありません。しかし、記録が残っていると言っても家臣の中でも有力な家臣だけですので、基本的には運が良ければ名前が分かりますが、名前が分からないことが大半です。
さて、自分の過去世が歴史に名を残している武将であるならば、誇りを持つ方も多いのではないかと思います。有名な武将は数多くの武勲を残されています。これは武将としては名誉なことであり、立派なことではありますが、それだけ多く人々から恨まれていることになります。そのため、織田家の家臣であった過去世が見つかりますと、過去世からの恨みが数多く隠れていると考えなければなりません。
鑑定としては、過去世において仕えていた武将の名前が分かれば、参加した合戦も分かりますので、障りの鑑定も参加した合戦を先ず調べることになりますが、流石に乱世を勝ち抜いて天下統一の基礎を築かれただけあって激戦が数多くあります。織田家の家臣の武将の過去世を持つ方の障りとして良くも見つかるのが、石山合戦(石山本願寺の戦い)、長島一向一揆、越前一向一揆、加賀一向一揆、比叡山焼き討ち、根来衆との戦いなとですが、これらは全て宗教勢力との戦いです。
戦国時代には、伝統的な仏教教団が僧兵を抱え、戦国大名並の武力を保持していました。また、本願寺は織田信長公と激しく対立していましたが、自分たちの信仰を守るための戦いであったとは言えない側面があり、利害の対立が激しい戦いの要因であったのではないかと思われます。例えば、越前一向一揆では同じ浄土真宗教団である真宗高田派の門徒は、一向一揆には無関係な立場でした。そのため、単純に宗教戦争とは言えないのではないかと思います。
また、一向一揆の障りは、何も織田信長公に限られた話ではなく、徳川家康公と三河一向宗も徳川家を二分する程の激しい戦いを繰り広げています。特に平安時代末期の源氏と平家の争いや南北朝時代の南朝と北朝の争いなどは深刻な障りが隠れていることが少なくありません。この他にも平家の南都焼き討ちも深刻な恨みの原因と一つです。いずれにしても過去世において高い地位の武将として生きた方の場合には、どうしても激しく恨まれていることが多いようです。
脅かしのような内容となってしまいましたが、過去世の身分が高い場合には、それだけ恨まれることが多いと言えますので、喜んでばかりはいられないと言えます。
星
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]]>もう少し落ち着いたならば、書き下ろしの記事を投稿します。
そんな訳で、今回もご神霊のお言葉を投稿します。
人を愛することは苦しいことであると思いますか、ある者にとっては身を裂かれる程に苦しく辛いものです。しかし、別の者にとっては此の幸せの中で命を果てたいと思う程の至福の時間ともなります。その違いとは、自分の愛する者から自分が愛されるか、自分の愛する者から自分が愛されないかの違いなのです。
自分が愛していない者からどれだけ愛されたとしても嬉しくはなく、自分が愛する者から愛を得られないならば、この世の終わりと思える程の落胆を味わうので普通の人なのです。自分はその人の幸せを願っていると言う人の大半は、本当に相手の幸せを願っているのではなく、自分と相手との幸せを願っているのです。
それは本当の愛ではないと切り捨ててしまう事は簡単ではありますが、大半の者にとってはそれが愛なのです。あなたの心の中には男のずるさを憎む気持ちが強くあります。それは一人の男としては非常に潔い心であり、尊ぶべき心ではありますが、あまりにも潔い心であるが為に弱い者の気持ちが分からなくなるのです。
あなたからするならば、弱い女性を守るべき男ならば、潔くあるべきとの気持ちが強いのですが、男もまた弱い者たちなのです。その弱さを理解してあげることも大切な事なのです。これは決してずるさを認めることではありません。ずるさを認めるのではなく、ずるさを理解することが大切なのです。ずるさの裏側にあるのは弱さなのです。弱いからこそずるくなるのです。
弱さを理解できなければ、ずるさも理解できないのです。弱い者にずるさを捨てることを求めることは強く生きろと言っているのと同じことなのです。ずるく生きることしかできない者は、強く生きることができない為にずるく生きているのです。その心の弱さを理解しなければ、ずるく生きる者たちを理解することはできないのです。
自分の好きな相手に異性を近づけさせたくない。その行為は、相手が自分の婚約者や自分の伴侶であったとしても醜い嫉妬心であると言えます。しかし、その醜い嫉妬心こそが多くの者にとっては愛の証となるのです。それは相手からするならば、迷惑な話であっても本人の気持ちの中では、嫉妬心こそが愛の証なのです。
星
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詐欺師は真実と虚言を織り交ぜて相手を騙すが、この者はあなたを騙す必要はない。騙すとは自分が味方であると思わせて裏切ることであるが、この者は最初からあなたの信頼を得ようとは考えていない。あなたの人生を無価値な物としたいだけであり、あなたから信頼されることなど考えてはいない。それは〇〇や〇〇に対しても同じである。あなたや〇〇子、それに○○を殺そうとしているのでもなければ、傷つけようともしていない。求めているのは、あなたたちの人生が価値のない人生になることである。
そのことにあなたも気付いているはずである。だが、あなたは気付いているが、その考えに疑問を抱いているはずである。そこまでの労力を費やしながら、その程度の目的しかないのだろうかとの疑問を持っているはずである。激しい恨みを抱いているのであれば、憎い相手の人生を破滅させるであろうし、死に追いやることを考えるはずであるのにねそれをしないのは何故かと考えている。その答えが得られないがために、別の理由を考えている。しかし、それは世俗の中で生きる者の考えであり、相手は世俗を離れて生きていた者であることから、世俗の者の考えは通用しないと考えるべきである。
問い
どんな術を使用していますか?
神霊
基本的には呪いの言葉であるが、言霊の力ではない。人々の心の中に蠢く闇の力を利用していると言えるが、本人は神を動かしていると考えているであろう。精霊と呼ばれる者たちの中には、気が向けば彼のような者にも手を貸す者もいる。彼らは、そのことで報酬を得ることはないが、現世に生きる者たちを翻弄することに、快感を覚えている者もいる。それは闘いの中に生き甲斐を求める者がいるのと同じである。
そのため、呪詛と言っても、あなたが考えているような複雑な手順を踏むことが、厳格に決められているような呪詛ではなく、霊媒が神を呼び出し、神に自分の願いを叶えることを求める行為に似ている。そのため、術と言うよりも祈りに近い術である。
問い
バラモン教やヒンドゥー教であっても聖典があり、教えが残されていますので、世俗を離れた修行者が魔界の者とも言えるような者たちを使役するのでしょうか。
神霊
世俗を離れて修行する者の全てが心清らかな者であるはずもなく、心が慈悲に満たされた者ではない。厳しい修行に明け暮れながらも心穏やかではない者も少なくない。それは今のインドの姿を見ればわかるであろう。どうしてカースト制度が今でも存在し続け、人として生まれながらも人として扱われていないのであろうか。神がそのようなことを望んでいるとでも考えるのであろうか。
どんなに崇高な教えを説き、どんなに立派な志を持っていたとしても人々の幸せを願うここがなければ、心が神々の世界に通じることはない。心が神々に通じていない者が神を呼び出したとしても現われるのは、その者の心に応じた者たちである。その者の心が魔界に通じていれば、魔界の者が現われ、その者の心が修羅に通じていれば、修羅が現われるであろう。
問い
効果的な対策はあるでしょうか?
神霊
私は気休めの言葉を語る気持ちはありません。あなたの人生を価値のない人生にしようとしている者は、生前に厳しい修行を重ねたものであり、魔界の者たちをいかにすれば、使役できるかを心得ている者です。魔界の者たちに慈悲は通用しません。それは暴れまわる暴徒に言葉が通用しないのと同じであり、強い力で抑え込むしかありません。
その意味では、あなたのやっていることに間違いはありませんが、インドの神にこだわる必要はありません。インドの神ならば彼の手口は知っていますが、今はそれよりも力で抑え込むべきです。そのため、インドの神かどうかよりも荒々しい働きの神の力を借りるべきなのです。
星
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しかし、お前からするならば、自分に恥をかかせた女が男に捨てられることほど面白いことはなかったのであろう。私は生前に何度も警告したはずである。人間の価値は家柄では決まらない。人間の価値は知識の量では決まらない。どんなに聖典に精通していても人間としての生き方が間違っているならば、何の価値もないことを説いたはずである。
私は仏の教えを学ぶものであり、女人との縁を持つことは許されない者であったがために、男女の道に関しては疎いことは認めよう。だが、お前が過去世においてしようとしていたことは、男女の道にも劣ることである。お前が過去世において今世の伴侶の過去世を本当に恋焦がれていたのであるならば、同情すべき面もあったであろう。だが、お前は今世の伴侶の過去世の者に恋心を抱いていたわけでもなく、利用したかっただけである。
好きにはさせない。
諦めよ。素直に仏に帰依せよ。既に牙城は崩れたのである。お前がどんなにあがいたとしても元には戻らない。
霊言2
あなたがやっていることのすべてが気にいらないのです。バラモンからするならば神の意向を伝えることや神の導きを伝えることは尊い家系に生まれた者以外が行ってはならないのです。彼らは、その役目を独占することで、自分たちの社会的な地位を守っていたのです。しかし、あなたは尊い家系に生まれていないだけでなく、専門的な学びすら受けていないのに、彼ら以上の実績を残していることに我慢ができないのです。
あなたは今の仕事をする前であっても多くの人のために動いていました。彼らからするとそれだけでも我慢ができないのに、今の仕事を始めてからは、彼らにもできなかった程の実績を残しています。そのため、彼らにはあなたが存在すること自体が許せないのです。彼らからするならば、貴い身分に生まれなかった者に許されるのは、自分たちの教えにしたがうことだけなのです。
もし、貴い身分に生まれなかった者が、何らかの事情で祭祀に関わるようなことがあったとしても、自分たちに成り代わることは許せないのです。その例外は、呪詛の分野だけなのです。彼らも建前では神の教えを説く者であり、公には呪詛を行わないことになっていたのです。そのため、あなたが呪詛を請け負うものであれば、彼らはあなたを放置していたと思います。
呪詛を解くことは呪詛をかける以上に難しいことであり、それを尊い家系の生まれでもなければ、何の修行もしていない者が行っていることに、彼らは恐怖を覚えているのです。それは彼らからするならば、自分たちの存在価値を否定されているのと同じであり、何事にもまして受け入れ難いことなのです。
問い
彼らはインドがイスラム教徒やイギリスに支配されたことをどのように考えているのでしょうか?
彼らするならば、自国が異教徒に占領されたとてもそれは自分たちの責任ではなく、自分たちの教えに従わなかった者たちの責任であるとしか考えていないのです。神の代理人であり、神の奉仕者である自分たちを蔑ろにしたことが異教徒によって国を失った理由であり、自分たちを蔑ろにしなければ国が亡びることはなかったとしか考えません。
彼らにとって現実は関係ないのです。彼らにとっての現実とは、彼らが自分の心の中に作り上げた妄想であり、その妄想こそが彼らにとっての現実であり、今もその妄想の中で生きていると言えます。
○○は恨まれていますか?
恨まれていると言う言葉は適切ではないと思います。彼らからするならば、自分たちの考えに忠実であれば良く、自分の考えで判断して行動すること自体が思い上がった行為となります。彼らはそれが当然であり、過去世からのカルマを背負ってその償いに一生を捧げるべきであり、自分たちに奉仕すべき者たちであるとしか考えていなのです。
星
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記事を書きたい気持ちはありますが、気付けば一日が終わっている状態です。
できれば一週間程度の休みを確保してのんびりしたい気分ですが・・・・
貧乏暇なしの状態が続いています。
それはさておき・・・・・
マヤの神官の霊言は、まだ残ってはいますが、今回はインドの不成仏霊と神霊の話をご紹介します。
不成仏霊
お前の力では何も分かるまい。翻弄され続けるだけであり、何の手足も出せぬままに苦しみ続けるのが定めである。それは我らを蔑ろにした罪であり、我らを屈辱した報いである。苦しめ、苦しみ続けよ。その苦しみに終わりはない。我らの勝利は近い。
笑わせるな。大笑いだ。たかがその程度の事で縁が持てるとでも思うのか。我らの力の前には何の意味もない話である。お前が何を使用しても何の成果などない。全ては無駄な努力である。全ては我らの手の内にある。永遠に逃さぬ。永遠の苦しみの中を生きるのがお前の運命であり、その運命から逃れる方法などあるはずがない。
全ては我らが決める。それ以外に道はない。
神霊
お前たちは、力で相手を支配することしか知らず、力で相手を黙らせることしか知らない。自分が神だとでも思い上がっているか。何もかも支配していなければ不安で仕方がないのが本心であろう。その自分たちの支配がいつ崩れるのか不安で仕方がないから過敏に反応しているだけの話であろう。
私からするならば、お前たちが何に怯え、何を恐れているのかも分かっている。余りにも愚かな話である。自分の肥大化した自尊心が全ての原因である。そして、その肥大化した自尊心が、現実から目をそむけているのだ。お前にとっては、現実など何の意味も持たないのであろう。全てを支配していなければ、不安で仕方がない。それが全てである。
お前は、過去世において支配できなかった男を伴侶として支配することに成功した。これで過去世において成し遂げられなかったことを成し遂げることができたと考えたのであろう。そのために、お前は用意周到に準備を重ねた。○○の生まれ変わりが力を発揮することができないように罠を仕掛け、二度と自分の野望を邪魔できないようにと考えたのであろう。
お前の伴侶が、過去世の再現をしたときのことも、お前にとっては予想の範囲であり、それを機会にお前は伴侶の支配を完璧にしたのであろう。お前は自分の伴侶を意のままに動かすことで、自分の虚栄心を満たすだけでなく、それが過去世の復讐であると考えていたのであろう。
お前にとっては全てが筋書き通りであり、笑いが止まらなかったのであろう。過去世において自分が利用しようとしていた男を奪った○○を精神の崩壊に追い込み、生きる屍とした。生きる屍として生き続けさせるか、死に追い込むことで、死後の世界でも利用し続けようとしたのであろう。だからお前にとっては自分が利用しようとしていた男を奪った○○の生死には関心がなかったのであろう。
次回に続きます。
星
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彼が知っているのは、人間の心の醜さであり、人間の弱さだけなのです。その人間の醜さや人間の弱さを克服した神とも言うべき方々に勝てるはずもないのです。そのため、彼はあなた方の神から逃げ回っていたのです。あなたの心が神と繋がっているときには、彼は手も足も出すことができず、心の闇の中に潜んでいたのです。そのような状態にありながらも彼が強気でいられたのは、自分の隠れ家とも言うべき、彼の作り上げた世界の場所を突き止められるはずがないと考えていたからです。
私は、「そこで参拝の際には、私を連れて参拝して下さい。この国の神に私から事情を説明させて頂きます。」と語りました。あなたは、その言葉の意味を深く考えられなかったのではないかと思いますが、それはこの国の神に彼の居場所を教えることであったのです。それこそが彼にとっては致命傷となることなのです。しかし、そのことをあなたに説明したとしても理解できるとは思いません。霊界には霊界の法則があり、霊界の法則をあなたに説明しようとしても比喩でしか説明できないのです。そのため、私は多くを語らなかったのです。
あなたはあなたの国の神々がどうして彼を捕まえられないかと疑問を抱いていたと思いますが、私からするならば捕まえられなかったのではなく、見つけられなかったのです。そのことの意味をあなたに説明することは困難であり、あなたに理解できるように説明する自信もありません。ただ、彼の問題はあなたが考えている以上に大きな問題であり、彼の起こし続けた障りは、個人の問題ではなくなっているのです。
私もそのことを自覚していましたが、私には彼を止めるだけの智慧も力もありませんでした。私自身が生前の罪に悩み続け、出口を探し続けていたのです。私は何年も前からあなたの存在には気付いていましたが、私自身が生前の罪の意識に囚われていただけでなく、あなたは彼が次々と送り込む者たちの障りの対応に追われ続けている状態であり、私はあなたに言葉を降ろしたくても降ろせなかったのです。
補足
最初に「彼が知っているのは、人間の心の醜さであり、人間の弱さだけなのです。その人間の醜さや人間の弱さを克服した神とも言うべき方々に勝てるはずもないのです。」とありますが、この指摘は非常に重要です。どうして神仏は悪霊や魔物に打ち克つことができるのかの根拠を明確に示す教えを学んだことはありませんでした。しかし、この短い教えがその根拠を説いていると言えます。
次に「それはこの国の神に彼の居場所を教えることであったのです。それこそが彼にとっては致命傷となることなのです。」とありますが、これも重要な教えです。このブログで何度も魔物の最大の武器は、心の闇に隠れることであると書いていますが、神仏であっても人間の心の闇に隠れた魔物を見つけることは難しいようです。そのため、神社仏閣に参拝しても魔物は人間の心の闇に隠れることで神仏の目から逃れます。逆に言えば、魔物が神仏に居場所を知られるならば、魔物は最大の武器を失うことになり、障りの解消が容易となります。
「あなたの国の神々がどうして彼を捕まえられないかと疑問を抱いていたと思いますが、私からするならば捕まえられなかったのではなく、見つけられなかったのです。」とありますが、人間の心の闇に隠れるとの表現も比喩でしかなく、詳細が分かっているわけではありません。闇の中に目だけが光って見えるような霊視は過去に何度かしていますが、それがどんな魔物なのかは、私にも分かりませんでした。
「霊界には霊界の法則があり、霊界の法則をあなたに説明しようとしても比喩でしか説明できないのです。そのため、私は多くを語らなかったのです。」とありますが、神秘体験を言葉で説くことには限界があるのと同じように神霊が心霊世界を現世に生きる人間に説くことには限界があると思います。個人的な体験としては、幽体離脱をして心霊世界を訪れたとの経験はありませんが、幽体離脱をして心霊世界を訪れたとしても同じではないかと考えています。
過去に色々な霊視の体験はしておりますが、基本的に神霊が意図的に見せているのではないかと考えています。そのため、神霊が仏の姿で現れることもあれば、光の柱として姿を現していると思われます。また、不成仏霊の場合も同じであり、霊視してている姿は、不成仏霊の意識の投影ではないかと考えています。
これは数式の法則を理解するのに似ているのではないかと思います。物理学などでは、解説に数式が並んでいることがあります。本来は複雑な数式でしか証明できない法則を理解するためには、数式を理解しなければなりませんが、数学が嫌いだった人間には、数式の羅列は意味不明でしかなく、数式を用いない解説を読み、何となく分かった気になっているのと同じではないかと思います。
多くの霊能者や心霊研究家が心霊世界について語っていますが、心霊世界のことを何となく分かった気になっているだけであり、現世に生きる人間に分かるように置き換えられているのが実態ではないかと思います。これは私も例外ではなく、心霊世界のことを何処まで理解しているかと言われれば、分かることは僅かなことでしかないと考えています。
星
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彼は認められたいとの気持ちが強いのです。認められることを願いながらも認められなかったがために、屈折した精神となったのです。彼の心を理解することは難しいことであり、彼の言い分を認めることは不可能であると言えます。彼は周囲から認められるためには自分に権威がなければならないと思い込んでいるのです。その間違いを気付かせることができなければ、彼の苦悩は解消しないと思います。
彼は権威がなければ多くの者から認められないと考えていますが、多く者から尊敬されるからこそ多くの者から認められるのであって、多くの者から尊敬されることがない者が権威を持つならば、多くの者は尊敬の念ではなく、恐怖心を抱くのです。しかし、多くの者たちの恐怖心は、彼の劣等感を忘れさせる力があったのです。
そのことが彼を狂気へと導いたと言えますが、彼は謙虚さを忘れて傲慢となりました。そのため、彼は益々恐れられ、人びとから畏怖されるようになったのです。人びとから畏怖されることで彼は自分の劣等感を忘れることはできましたが、彼の劣等感が消えることはありませんでした。
彼の作り上げた世界の崩壊が始まっています。それは大きな洞穴に近い世界と言えるでしょう。真っ暗で大きな洞穴が彼の作り上げた世界であり、その暗闇の世界の中に彼は潜んでいるのです。その暗闇の中で彼は恐怖に怯えています。できることがあれば何でもしたいと言うのが今の彼の心境です。
彼は自分の作り上げた世界の崩壊が近いことに気付いています。以前ならば、あなたが神に祈ったとしても彼は恐れませんでした。彼が手駒としていた者たちが障りを起こせなくなったとしても、彼は次があると考えていたのです。心に闇がある限りは、手駒にできる者たちに事欠くことはないと考えていたことから何の不安も感じていなかったのです。
しかし、今の彼は焦っています。その理由は、彼の居場所があなた方の神に知れ渡ったからなのです。私たちも生前には神の存在も信じていましたし、死後の世界の存在も信じていましたが、あなた方の神の教えに比べるならば、死後の世界に対する理解は幼稚でした。そのため、彼がいかに神近き者であると強がったとしても死後の世界においては幼稚な考えしか持っていないのです。
星
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転落した神官
神の代理人である私の力を封じようといるとは人間の思い上がりである。私の力がこの程度のことで封じることができるとでも思っているのか。私は神の代理人であり、神から与えられた力は無限である。その無限の力を持つ私の力を封じることができるなどと考える方が愚かである。
改心した神官
彼は自分の正体を見抜かれたことを恐れているのです。彼にとっては正体を見抜かれることや自分の意図を知られることが恐ろしいのです。彼は人の不安感を利用して人の心の闇に潜むことで人の不安感や恐怖心を利用していますが、何が起きているかが分からない事こそが最大の不安であり、最大の恐怖なのです。
しかし、自分の正体を知られ、自分の意図が明らかにされ、自分の手口を知られるならば、その最大の武器を失うのです。人は知らないからこそ何が起きるのかと不安に怯え、何が起こっているのかと不安に思うのです。そのため、彼の手口は、人の心の闇に潜み、自分の正体を隠しながら人の感情を翻弄して不安感や怒りを煽り、心の闇を大きくすることで自分の力を誇示しているのです。
その心の闇は、同じような心の闇を持つ者たちを引き寄せるのです。そして彼はその者たちを自分が作り上げた心の闇に引きずり込み、自分の手足として使っているのです。しかし、彼の巧みな事は決して自分が表には立たない事なのです。つまり、迷っている者たちを力で支配して自分の意のままに操っているのではなく、迷いや憎しみの心を持つ者たちを上手く利用しているのです。
怒りに燃える者には、怒りを煽り、憎しみを持つ者には憎しみを増大させ、生前の執着に苦しむ者には、甘い言葉をささやき、執着心を増幅させるのです。そのため、彼に狙われた者は、次々と不条理とも思えるような災いに遇うのですが、それを陰で操っているのが彼の手口なのです。
これは彼が生前から行っていたことなのです。彼は自分が生贄となる者たちの生死を自分が握っていることの権力に酔いしれていたのです。それは愚かな話ではありますが、生贄となる者たちの不安感や恐怖心を操ることの快感に酔いしれ、いつしか自分が神から選ばれた者であるとの錯覚に陥ったのです。
そして死後の世界でも生前と同じことを繰り返しているのです。死後の世界においても人の恐怖心や不安感を操り、その心の闇の中に潜み、人の心を操っているのです。そして人の心を操りながらも自分が決して表に立たないのは、生前から常に誰かの権力を利用して生きていたからでもあるのです。
彼は神の代理人であると語り、神近き者であると語ることはあっても自分が神であるとは名乗らないはずです。神近き者であるとは言っても自分が神である名乗らないのは、本心では神を恐れているからであり、彼の心の中は不安と恐怖に溢れているからなのです。自分の心の中が不安と恐怖に満ち溢れているからこそ、不安と恐怖について知り尽くしているのです。
補足
神の代理人を名乗る不成仏霊の心境は、古今東西を問わないようです。また、転落した行者や僧侶が起こす障りの手口も古今東西を問わないと言えます。過去に何件もの転落した行者や僧侶の障りを解消してきましたが、転落した理由は異なっていても増上慢に陥っていることや生きている人間に障りを起す手口は同じです。そのため、この霊言は参考になると思います。
星
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それが悲劇の始まりだったのです。彼は生前から異常に高い自尊心を持っていましたが、その自尊心を大きく傷つけたのが少年だったのです。彼からするならば、自分が愛する相手は自分を愛するのが当然でしたが、少年は最後まで彼に対して心を開かなかったのです。つまり、体を支配することはできても心を支配することはできなかったのです。そのことを彼は受け入れることができませんでした。
彼は少年が自分に対して心を開かないのは、女が原因であると邪推して復讐心を燃やすようになったのです。そのため、女さえいなくなれば、少年は心を開くと考えたのですが、女がいなくなっても少年は心を開かなかったのです。そのことが彼を嫉妬に狂わせ、狂気の始まりとなったのです。
彼は生前と同じように少年を愛しながらも少年に受け入れられないことに苦しみ続けています。彼にできることは少年を支配することだけなのですが、決して少年が心を開かないことを受け入れられないのです。そのため、彼は少年を支配しながらも少年と共にいることが苦しいのです。その苦しさから逃れる手段が女に責任を負わせ、女に嫉妬するすることだったのです。
そして女に嫉妬して女に復讐することを理由にして少年から距離を置き、少年の心変わりを待ち続けていたのです。そしてその歪んだ精神は、いつしか自分が神の代理人であるとの妄想を抱かせることになりました。その妄想は彼にとっては最高の気分であり、その妄想を真実であるし信じ込むようになったのです。
彼には私がこのような話をしていること自体が耐えられない程の苦痛であり、屈辱なのです。真実を知られることは、彼の作り上げた妄想の破壊であり、彼は現実を直視しなければならなくなるのです。彼がどんなに現実から目を背け続けたとしても現実を直視しなければならない状況に陥ったならば、彼はすべての力を失うことになるのです。
私は彼の手口を知り尽くしています。彼の手口を知り尽くしているからこそ、こうして言葉を降ろせるのです。しかし、私には彼を改心させるだけの智慧と力はありません。そこで参拝の際には、私を連れて参拝して下さい。この国の神に私から事情を説明させて頂きます。それが彼にとっては致命傷になると思います。
星
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転落した神官
お前に何が分かると言うのか。神に仕えた経験もなければ、神を前にしたときの作法すら知らず、神の捧げるための言葉すら満足に覚えていない者が、私の心を読めるとでも言うのか。お前に私の心が読めるはずもなく、私の考えを知る事などできるはずもない。私は神近き者であり、私は神の代弁者であり、私は神の代理人である。そのため、私は神より偉大な権限を与えられた者である。
私には恐れなどない。私が神の代理人であるからには何を恐れる必要はなく、すべての者は私にひれ伏さなければならない。私に礼を尽くし、私を崇めよ。私こそが神の代理人であり、私こそが全ての権限を握る者である。その私と対等に口を利くことすら不遜であり、私の心を読もうとすることは、神をも恐れぬ行為に等しい。
私には恐れる者など誰もいない。お前には神の代理人である私を捕えることなど不可能な話であり、指一本を触れることもできぬであろう。私は何も恐れはしない。お前たちが神と崇める者であっても私には何一つとしてできないではないか。だが、私は生きている人間の心を支配して思うがままに操っている。それに比べてお前たちの神とやらは、何をしているというのか、何もできないではないか。
転落した神官
私は神の代理人であり、すべての権限を持つ者である。その私が何をおそれるというのか、大神官であろうが、今の私は恐れる必要など感じてはいない。大神官と言ったところで親の威光を借りているだけであり、神の代理人ではない。神の代理人は私だけであり、唯一無二の者である。私以外の者が神の言葉を取り次ぐことは許されず。私以外の者が神の前に立つことも許されない。それが神の意志である。
改心した神官
恐らくはこれが彼の本音だと思います。憐れな者であるとも言えますが、彼の犯した罪はあまりにも大きすぎます。今のあなたが彼の心を理解することは至難の業だと思います。あなたが彼の心を理解するには、あまりにも彼の心が歪み過ぎているのです。彼は自分が神の代理人であると信じていると言えるでしょう。しかし、彼が神の代理人であるはずもなく、すべては彼の妄想なのです。
彼は自分が神の代理人であると信じ込むことで、自分の世界を作り上げているのです。そして、その世界が壊れることを何よりも恐れているのです。彼は現実の世界から目を背け続け、自分の世界に安住することで、かろうじて自分の精神を維持しているのです。それができなくなったならば、すべてが崩壊することに既に気付いているのです。
彼は今でも生前に執着していた少年の事を忘れてはいません。今も少年の事を忘れることができないでいると言うべきなのかもしれません。しかし、同時に自分が少年から愛されていないことに気付いていますが、決して認めることができないのです。彼は少年に愛されることを願いながらも少年に愛されることはなかったことから少年を支配することを選びました。
補足
この霊言があった当時にマヤで同性愛があったかを調べてみました。マヤ文明では文字の記録がないことから詳細は不明ですが、同性愛の文化はあったようです。
次回に続きます。
星
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]]>既に記事は書いていますので、今更ながらではありますが、投稿することにしました。
多くの方は神仏のご利益に限らず近視眼的に物事を考えるのではないかと思うことがあります。商売をされている方ならば、兎に角(とにかく)売り上げを伸ばしたいと考えても会社の抱えている問題点を改善することには関心がない傾向があります。商品を製造している場合には、商品を改善して商品の魅力を向上させることが重要となりますが、売れないのは営業が怠けているとしか考えない経営者は少なくないようです。会社に勤めていた頃には、そんな上司に悩まされていました。押し売り同然でも詐欺同然の売り方でも良いから売り上げを作る営業が優秀な営業であり、顧客との信頼関係を築くことや返品率などには関心がない経営者が少なくなかった気がします。
また、物流に関しても改善しようとする気がないのではないかと思うことが少なくありませんでした。売り上げが伸びるならば、売り上げの増加に伴って物流も多くなりますが、物流を改善する気がなく、忙しくても皆が頑張れば乗り切れると言った根性論が主流でした。全てが万事この調子であり、間違いが起こりやすいのであれば、間違いが起こりにくいシステムに改善した方が良いのにと思うのですが、改善策を提案しても気をつければ良いでいつも終わりました。その頃から成長できない企業には、成長できないだけの理由があり、成長する企業には成長できるだけの理由があると考えるようになりました。
これらの問題を数学的に解き明かしたのが、前回にご紹介したクープマンモデルではないかと思います。クープマンモデルはマーケッティングの世界では有名であり、市場占有率の分野で良く登場するようですが、個人的には最初に軍事学の本で知ったことから今でも軍事シュミレーションのモデルの印象が強くあります。話を戻しますと、クープマンモデルでは、戦略兵器の予算を戦術兵器の二倍にすると最大の戦力を得ることを表していますが、これは本質的な問題に関しては、対応策の二倍の労力を費やすべきとことを表していると言い換えることが可能ではないかと考えます。
このことは神仏の働きにおいても例外ではないことを前回の記事で書きましたが、今回は本質的な問題を解消しないままの状態で売り上げだけを伸ばした場合の事例を紹介します。占い師として仕事を始める前のことですが、職場の霊域を改善することで売り上げを改善することができるのではないかと考え、幾つかの方法を試してみたことがありました。結論から書きますと、幾つかの条件が揃うならば、劇的に売り上げを伸ばすことが可能なことが分りました。
しかし、根本的な問題を改善しないままの状態で売り上げだけを劇的に伸ばすと弊害も非常に大きいことも分かりました。また、根本的な問題を改善しないままの状態で売り上げだけを劇的に伸ばしても効果は長続きしないことも分かりましたので、現在は霊域を改善する必要がある場合に限ってお勧めすることにしています。その理由を書きますと、根本的な問題を抱えたままの状態で売上が激増しますと、抱えている問題が顕在化して混乱に陥るだけでなく、そのことが原因でお客の信用を失います。
過去にこの方法を試された飲食店の店主の方の話では、確かに売り上げは劇的に伸びるが、仕込みや人手などの準備を万全に整えてからでないと怖くてできないと話されていました。また、事前の準備をおろそかにしたままでこの方法を繰り返されますと逆に売り上げが低迷することになります。これはお客様があの店はいつも混雑している、接客の対応が悪い、料理が遅いなどの印象を持ち、敬遠することが理由と思われます。
また、このことは商売に限られた話ではありません。例えば縁結びを祈願された場合も同じです。縁結びを祈願され、ご縁を得たとしても縁を得られる相手が自分の期待するような相手とは限りません。これは自分と同じレベルの相手としか縁を得ることが難しいことが理由です。もし、自分よりも高いレベルの相手との縁を得られたとしても長続きしないのが普通です。そのため、自分が良縁を得たいと思われるのであれば、自分が求める相手にふさわしい人間になる必要があります。
このことを祈願とご利益の観点から考えますと神道の神霊の説かれた「この世は神の働きで溢れている」との教えが全てを語っているのではないかと思います。現世に生きる人間は、自分の願望が叶えられることを願い、自分の願望が叶うか、叶わないかで神仏のご加護の有無を考えますが、神仏は本人の気付かない隠れた問題を解消するために働かれています。しかし、現世に生きる人間は、自分の願望が叶うか、叶わないかで神仏のご加護の有無を考えることから神仏の働きに気付かないと言えます。
星
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「絶対的な真理は言葉での解説を拒絶する」と言いたいのですね。それに至る道筋を説くことは可能であるとしても、それに至る道筋は一つではないこともあなたは承知している。だからこそあなたは、相手に応じて道筋を説くことしかできないと考えているのではないでしょうか。
やっとおぼろげながらも自分が何を間違っていたのかが、見えてきた気がします。多くの者たちは、神典に書かれていることを根拠にして正当性を語りますが、あなたは神典に書かれていることを無条件に正当性の根拠とする気持ちはない気がします。あなたはそれが自分には、本当の真理かどうかは分からないとしても、それを受け入れるのは自分の責任だと考えている。それがあなたの強さなのかもしれません。
何を信じるかは自分の責任であり、騙されたと文句を言うべきことではないのかもしれません。あなたのように神とは何かを問い続ける気持ちがあったならば、今の私の苦悩はなかったと思います。その意味では自分の責任から逃げていたと言えます。昔からの言い伝えを信じ、昔からの教えを信じながらも本当は信じてはいなかったのです。
あなたにとって大切なことは、その教えが何を説き、何を伝えようとしているのかであり、それは教えの本質であると言えると思いますが、私が信じていたのは、信仰の本質ではなく、信仰の形式であり、作法だったと思います。まして、その教えを信じることに関して自分の責任など考えたこともありませんでした。
その意味では自分の責任から逃げていたのです。多くの者たちに恵みと健康と幸せを与えるはずの神が、どうして人間の血を求めるのかと疑問を抱きながらも、その疑問から目を背け続けたのは、神を信じていなかったことが理由だと思います。本当に神を信じ続けていたならば、その理由を神に問い続け、その答えが得られなければ、信仰を捨てるべきだったと思います。
私はやっと長年探し続けた答えを見つけることができたのではないかと思います。私にとって必要な教えとは、許されることであり、自分が許されていることを知ることであったと分かりました。自分が許されていることを知ることができない者に人を許すことができないことに気付きました。
私の心の罪の意識と贖罪をしなければならないとの意識が、私の分身たちにも影響を与えてしまっています。そのことに心を痛めながらも自分が何をすべきかが分からなかったのです。それが最初にあなたへの質問となったのです。その答えの予想はつきましたが、あなたに応えて欲しいと考えました。しかし、その答えはあなたの探求心であり、自己責任の意識である気がしています。
星
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あなたにとって過去世とはどのような意味があるのでしょうか。あなたは普通の人ではないと思えます。普通の人ならば同じような人生をくり返し、同じような人生を生きながらも同じ様な失敗を繰り返します。しかし、あなたの過去世の方々はいずれもが個性的であり、同じような人生を生きていない気がします。その意味ではあなたは変わっている方であり、あなたのような方は自分の過去世についてどのような印象を抱いているのでしょうか。
あなたは、そのことを聞くことに意味があるのかと考えているようですが、今からお話ししようとする話の参考にしたいのです。私にとってはそのことが大きな意味があるのです。それは過去世と現世に生きる者との関係でもあり、同じ失敗を繰り返さない理由を知る手掛かりが欲しいのです。
繰り返しとなりますが、普通の者たちは同じような人生をくり返し、同じような人生を生きながらも同じ様な失敗を繰り返します。そして前世での失敗を繰り返さないようにと考える者たちは、同じ失敗を恐れるあまり、真逆の選択をして失敗します。あなたからするならば、根底にある原因は同じであり、人生の選択は真逆であっても何の解決にはなっていないと思われることは分かっています。
しかし、普通の者たちは、同じ失敗をしないようにと考えることは、真逆の選択をすることなのです。それ以外に考えが浮かばないと言うべきなのかもしれません。だが、あなたは同じ失敗を繰り返していないと言うよりも同じ人生を繰り返していないと言うべきなのかもしれません。私の分かる範囲では、国も異なれば身分も異なるだけでなく、考え方やその歩んだ人生も異なるのです。
私もあなたと同じように生きることができていたならば、私の魂も少しは高い境地に到達できたのではないかと思いますが、私の魂の兄弟たちは、私と同じように悩みながらも答えを得られずに迷い続けています。そして私も同じ悩みを抱き続けています。あなたからすれば、答えが目の前にあるのに何を悩んでいるのかと思われるかも知れませんが、それが凡人の悲しさなのです。
沈黙※
あなたが私の問いに対する答えを言葉で残されようとしない理由は分かりました。それを言葉で残されたとしても現世に生きる者たちに理解できるはずもなく、言葉で理解できたとしても何の意味はないと思います。それはあなた方が悟りと呼ぶ考えではないかと思います。
しかし、できることならば、言葉として残して欲しいと思います。あなたは私の苦悩の本質を見抜き、私の苦悩を解消するための教えを用意された。これは凡人にはできないことなのです。勿論、苦悩を解消するための答えを教えて頂いても、その教えの真意を知り、納得できなければ、私の苦悩が解消するはずもありませんが、私の苦悩を解消するための教えがあることを知ることはできました。
だからこそ、私はあなたに問いたかったのです。どうして過去世と同じような失敗をしたとしても過去世にはない成果を残すことができたのでしょうか。それが過去世と同じ失敗を繰り返さない秘訣ではないかと思います。これは私からのお願いなのです。私と同じように苦しみ続けている者は数多くいるのです。その者たちに何が間違っていたかを教えることで彼らも救われるのです。
沈黙※ 補足
自動書記の際に心霊との会話は可能です。会話は言葉にする必要はなく、考えるだで自分の意思を伝えることは可能ですが、この神霊は過去世において神官をされていただけあって特に答えを考える必要もなく、こちらの考えていることを理解しました。そのため、特に回答と言える程の回答を考えていません。
尚、自動書記の際に心霊との会話は可能ではありますが、神霊の霊格が非常に高い場合には、言葉を書き留めるのが精一杯であり、会話をする余裕はなくなります。
星
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自尊心が異常に強く、自分は神に仕えた者であるとの誇りだけを頼りに自分の精神を保っている者にとって生贄の文化が間違いであり、神は殺生を禁じていると認めることができるはずもないのです。そのことを認めることは彼には死刑を宣告されるよりも恐ろしいことであり、人格が崩壊する可能性が高いのです。
彼にそのようなことができるはずもなく、彼は何が何でも自分の価値観を守ろうと必死なのです。自分の価値観を守るためであるならば、どんなことも躊躇なく行うと思います。それだけ彼は必死なのです。神官として神に仕え、神に生贄を捧げ続けたことが間違いであり、罪であると認めるならば、彼はすべてを失うだけでなく、極悪人に成り下がるのです。
自分が極悪人だと認めることができる者は、自分が極悪人であると知りながらも自分が極悪人だと認めたくない者だけなのです。自分が何の罪を犯していないと考えている者に罪を認めさせることは容易な事ではないだけでなく、それが神のために行われていたと信じていることから尚更難しいことなのです。
そのことは、生贄として自らの命を捧げた者にとっても同じなのです。神に対する最高の捧げ物であると信じていたからこそ自らの命を捧げることができたのです。しかし、神は生贄を喜ばないとするならば、自分の死が無駄であったと言われているのと同じことであり、絶対に受け入れられないことなのです。そのため、自らの意志で生贄となった者たちを救うことも容易ではないのです。
既にお気づきかと思いますが、私も極悪人なのです。私も彼と同じようにあまりにも大きすぎる罪を犯しました。彼と私が違うのは、生前に生贄に疑問を抱いていたことです。神が人間に多くの恵みをもたらし、健康と幸福を約束し、勝利を与えるのであるならば、どうしてその人間の血を求めるのかと疑問を抱いたのです。しかし、生きている間には、そのことを誰にも語ることはできませんでした。
私にできることは、可能な限り人間の血ではなく、動物の血を神に捧げることだけでした。当時は、人間の血こそが神への最高の捧げ物であるとは常識であり、それを否定することは神を冒涜することでした。当時の社会では、生贄を否定することなど考えられず、そのようなことを語るならば、社会的に抹殺されるだけでなく、神を冒涜した者として命を奪われるのは明白な事でした。
そのため、私は生きている者に人としての道を説く資格などない者であり、今も贖罪の日々を過ごしています。私にとって生前のことは思い出したくない記憶であり、私の心傷なのです。こうしてあなたに話をしているのは、私にとっての贖罪なのです。
星
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誰でも自分の信じていることや自分が成し遂げたことを否定されるならば、それが正論であればあるほど、受け入れられなくなるだけでなく、反発するのです。それはあなたの守護霊が語っているはずです。人間は誰しもが自分の存在価値を認められることを求めているのです。そして自分の存在価値を認められるために努力しているとも言えるのです。
その者が自分の存在価値を社会から認められると考えているのが、その者が信じている価値観であり、その価値観が否定されるならば、その者は自分の存在価値を否定されたと受け取ると説いているはずです。この者も同じなのです。生贄の血が最高の神への捧げ物であると信じ、神に生贄を捧げる役目こそが自分にとって最高の名誉であり、自分に与えられた使命であると考えている者にとって生贄を捧げることの価値を否定されたならば、自分の存在価値を否定されたのも同じなのです。
自分の存在価値を否定されることは、生きている人間にとっては社会的な死を意味するように既に死後の世界にいる者にとっても耐え難い屈辱なのです。そして同じ理由で生贄として神に自らの命を捧げた者にとっても生贄の価値を否定されることは自分の存在価値を否定されたのと同じことになるのです。
そのため、生贄の文化を否定することは、生贄を捧げた者だけでなく、生贄として自らの命を捧げた者にとっても屈辱であり、自分の存在価値を否定されたと受け取るのです。そのため、あなたがどんなに理路整然と人としての道を説いたとしても彼らは決して受け入れることができないのです。
彼らは生贄に対して何の疑問も抱いてないだけでなく、それが神の教えであり、人間の血こそが神への最高の捧げ物であると心から信じているのです。そのため、あなたが神の慈悲を説き、神は殺生を禁じていると説いても彼らは聞き入れる気持ちがないのです。特に神官は、あなた方の神の教えを受け入れるならば、自分は極悪人であり、絶対に許されることのない罪人であると認めることになります。
星
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神霊1
話をして分かる相手ではなく、感情のままに話し、感情のままに行動する者たちである。彼らは滅ぼされたのではなく、滅びるべくして滅びた者たちである。部族としての誇りを忘れ、神を敬う心すらも忘れた者たちである。
神霊2
彼らには教えと言った理念は通用しない。目の前の損得だけでしか考えず、将来に備えようとの思慮もない。彼らには助け合う気持ちがない。その気持ちを忘れてしまったが為に部族間での争いが絶えなかった。もし、彼らに助け合う気持ちがあったならば、白人の侵略を受けたとしても部族が協力して抵抗することが出来たであろう。だが、彼らは自分たちの保身だけしか考えることが出来なかったがために、白人に対して抵抗らしい抵抗が出来なかった。
彼らは生前の失敗から何一つとして学んでいない。彼らのしていることは、闇に潜み、災いを起こすだけである。それ以外には何もしていない。彼らにはお互いに助け合う気持ちを持つ気持ちがない。そのため、勇者の誇りもない。
勇者としての誇りとは何か、強い敵に立ち向かい、強い敵を倒すことではない。猛獣であっても必要がなければ闘うことはない。避けるべき危険は避けるが、闘うべき時には危険を顧みることなく戦いに臨む。それこそが本当の勇者である。男は女や子供を守るために闘い、女は子供を守るために自分の危険を顧みない。それこそが本当の勇気ある者たちである。
彼らに教えを説くことは容易ではない。彼らは優しさを弱さとしか考えない。悲しい話ではあるが、自分たちの罪を自覚させることから始めなければならない。
星
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部族の心霊
約束を守らない
仲間を殺した
女、子供をすべて殺した
神は助けてくれなかった
信用できない
どうして私たちを無視するのか?
私たちは誇り高き部族
今の者たちは信用できない
白人に魂を売ってしまった者たち
部族の誇りを忘れた者たち
我らは子孫が部族の誇りを取り戻すのを待ち・・・・
民族神
違う、嘘をつくな。お前たちは迷っていただけた。そして現世にて得られなかった富や権力を求め続けていただけである。現世で得られなかった富や権力を得たいがために現世に執着し、現世に生きる者たちの肉体を利用したかっただけの話である。
だが、子孫の者たちにはお前たちが望むような富や権力を持つ者はおらず、富や権力を持つ者たちは、お前たちを迫害した白人ばかりであった。しかし、お前たちは、生前に抱いていた白人に対する恐怖心から白人に近づくことすら出来なかった。
そのため、お前たちは自分たちの子孫よりも富や権力を持ちながらも、白人ではない者たちに目を付けたのであろう。それがお前たちが苦しめている者たちの先祖である。
なんと嘆かわしき話であろうか。子孫でもなければ、同じ民族でもない者たちまでも巻き込み、自分たちの欲望を満たそうとする気持ちを持つとは、あまりにも情けない話である。
お前たちは、生前に白人に迫害されたために、死後の世界においても白人を恐れ、白人たちから逃げ惑っている。そうでなければ、どうしてお前たちは自分たちの故郷とは遠く離れた地で、自分たちとは何の縁もない者たちに障りを起こしているのか。
お前たちの誇りとは、弱い者を虐めることであり、心優しい者たちを利用することであろうか。お前たちにとって部族の誇りとは、弱い相手を選んで勝つことだけであろうか。お前たちの誇りとは、敵に勝つことだけでしか保てないのであろうか。
我はあまりにも情けない。お前たちの先祖は本当の勇者であった。困難を恐れず、恐怖に打ち勝ち、果敢に海を渡り、新天地を求めた。それこそが本当の勇者である。本当の勇者でなければ、どうして海を渡り、新天地を求めることが出来たであろうか。本当の勇者でなければ、どうして小さな船で海に漕ぎ出せたであろうか。
遠くの島々の者たちと交易をすることが出来たのも、そなたたちの先祖が本当の勇者であったからである。本当の勇者とは、困難を恐れず、恐怖に打ち勝ち、多くの者から信頼され、多くの者たちを導くことが出来る者たちである。それが出来てこそ本当の勇者である。だが、お前たちのやっていることは、生きている者たちを混乱させ、惑わしているだけのことでしかない。そして自分たちは闇に隠れ、勝ち誇った気持ちになっているだけである。それのどこが勇者であろうか。
勇者でありたいと思うのであるならば、どうして未だに恐怖に怯え続けている者たちを励まし、救おうとしないのか。そして彼らを我らの住む世界へと導こうとはしないのか。それが本当の勇者がなすべきことである。我らはお前たちが我らの世界に来ることを遠い先祖の者たちと待っている。
真の勇者となれ、それが迷いから抜け出す道である。
星
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]]>今回のお言葉は、民族神のお言葉です。体系的な教えとなっている宗教ではありませんが、その分だけ分かり易い言葉の教えとなっています。
どうして飢えに苦しむこともない食べ物に満ち溢れた世界に帰ろうとしないのか。争いのない平和な世界に帰ろうとしないのか。お前たちは、生前に信じた神の言葉が信じられないのか。お前たちは、いつまで争いを続ける気持ちなのか。
争いをやめよ。もうお前たちを迫害する者たちはいない。それがどうして分からないのか。お前たちが真の勇者ならば、我の言葉を信じよ。お前たちが真の勇者ならば、我が言葉に偽りのないことは分かるはずである。お前たちが自分たちの家族を愛するならば、我が言葉を信じよ。お前たちは、自分たちの家族を守るために闘っていたのではないか。本当に自分たちの家族のために闘っていたのであるならば、お前たちの家族の幸せを考えよ。
自分たちの周りを見渡してみよ。何処にお前たちを迫害した者たちの姿があるのか。お前たちは何を恐れているのであろうか。お前たちはいつまで生前の恐怖に怯えているのであろうか。もう槍を下せ、弓を手にすることは止めよ。
私たちの世界の者たちは、誰も相手を傷つけたりはしない。私たちの世界の者たちは、誰も相手を憎むこともない。誰も相手を傷つけず、誰も相手を憎まない。誰も相手を傷つける必要もなく、誰も相手を憎む必要がない世界である。もし、誰かを傷つけたいと願い、誰かを憎む心があるならば、我らの世界には住めないのだ。誰も相手を傷つける気持ちがなく、誰も相手を憎む気持ちがないならば、どうして争う必要があろうか。
食べ物はいつも豊かにあり、人々は穏やかに暮らす。争いのない世界にどうして帰ろうとしないのか。お前たちがその豊かな世界に帰るためには、争いを止めなければならないのだ。争いを止め、人を憎むことを止めなければならない。争いを止め、人を憎むことを止め、人を傷つけることを止めなければ、我らの世界には帰れないのだ。
お前たちにも家族があったはずだ。年老いた親がいたはずである。その者たちのことを考えるならば、出来るはずである。いつまで自分たちの誇りにこだわるのか、いつまで白人の恐怖に怯え続けるのか。
お前たちが守ろうとした部族の誇りとは、敵から恐れられることではなかったはずである。敵から恐れられることを誇りと考えたのは、敵から恐れられることで敵からの闘いを防ぐことであり、それは部族の者たちを守る為であったはずであ。敵から恐れられたとしても部族の者たちを守ることが出来ないならば、敵からいくら恐れられても部族の誇りなどない。
今のお前たちの家族を見よ。年老いた両親や女子供は恐怖に怯えているではないか。或いは飢えに苦しんでいるではないか。それなのにどうしてお前たちは、部族の誇りを言うのであろうか。本当に部族の誇りを大切にするならば、自分たちの家族を大切にするはずである。自分たちの家族を大切に出来ない者に部族の誇りを言うことは我が許さぬ。
家族が大切ならば、家族の幸せを願うならば、槍を下し、弓を手にすることは止めよ。そして部族の者たちが大切ならば、槍を下し、弓を手にすることを止めよ。そしてお互いに助け合え、相手が困っているならば相手を助けよ。その心があれば、我らはお前たちを喜んで我らの国に迎える。
星
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南方戦線で亡くなられた戦没者の言葉
笑わせるな。何が仏だ。
俺は神仏(かみほとけ)など信じない。
神が何をしてくれた。仏が何をしてくれた。
死んでいった。たくさんの仲間が死んでいった。
それでも信じろというのか。それでも救われると言うのか。
坊主が何をした。神主が何をしてくれた。
俺たちがどんな想いで死んで行ったかお前たちに分かるはずもあるまい。
どれだけ苦しかったか、どれだけ悲しかったか。
そしてどれだけ悔しかったか。
自分達がどうして死ななければならないのかの理由も分からぬままに死ななければならなかった者たちの気持ちなど分かるまい。
何が靖国の英霊だ。そんなものは糞くらえだ。
俺たちを捨て駒のように殺しておいて死んだら英霊か。
笑わせるな。
神が本当にいるならば、どうして俺たちは死ななければならなかったのか。
仏が本当にいるならば、どうして俺たちは救われないのか。
念仏なら称えたぞ。どうせ死ぬことなど分かっていたからな。
お題目も唱えたぞ。戦友を弔うのに他に何ができと言うのか。
坊主など何処にもいない戦地で何ができたと言うのか。
俺たちの死んだ戦場で坊主が一人でも来たとでも言うのか。
何が慈悲だ。笑わせるな。国の為に死んでいった者たちを救うことも出来ずに何が慈悲だ。
それとも仏の為に餓死した坊主は生き仏で国の為に戦いながらも餓死した兵士は亡霊とでも言うのか。どちらも衆生とやらのために死んだことに違いはあるまい。
俺たちは見捨てられたのだ。国の為に戦いながら国に見捨てられ、神仏(かみほとけ)に祈りながらも神仏(かみほとけ)に見捨てられた。
お前にその悔しさが分かるとでも言うのか。
問い
ガダルカナルですか、それともインパール作戦でしょうか。
少しは知っているのか。だが我らにとっては何処も同じ死に場所でしかない。
異国のジャングルの中と言うだけである。それがサイパンであろうが、ガダルカナルであろうが、死に行く者にとって何の意味があるのか。
問い
毎年、各地の神社仏閣で戦没者の慰霊祭が行われていますが、供養は届いていないのでしょうか。
神霊
残念ながら彼らには届いていないのです。正確には届いていなかったと言うべきかもしれません。怒りと悲しみ、絶望、恐怖などに心を支配されていた者たちなのです。彼らはやっと人間的な感情を取り戻しつつあると言うべきなのです。
星
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「高貴な魂であることはあなたの魂の特徴ではありますが、高貴な魂とは繊維な魂ではあありますが、繊細であることは必ずしも長所とは限りません。繊細であることは敏感すぎることになるだけでなく、脆さにもつながるのです。そのため、繊細であるよりも鈍感である者の方が現世を生きやすいとも言えます。」
一般的に過去世が高貴な身分であったことが分ると喜ばれる方が多いのですが、高貴な身分の過去世を持つ方の魂は、繊細なことが多く、競争社会を生き抜くだけの強さが欠落していることが少なくありません。そのため、高貴な魂の方は、少し浮世離れした方が多い傾向があり、社会的に成功できなかったり、他人に利用されたりすることが多い傾向がありますので、幸福な人生を生きているとは限りませんので、自分が高貴な魂を持つとは考えてもいない方が多くなります。
「自分の力を誇り、慢心するならば転落の始まりとなりますが、自分には手に負えない問題ではないかとの迷いは挫折の始まりとなるのです。その両極端を離れた道こそが仏の働きであり、仏の教えなのです。そのどちらに偏ったとしても仏の世界に心が通じないのです。」
このあたりの話から中道の話が続くことになりますが、「自分の力を誇り、慢心するならば転落の始まりとなりますが、自分には手に負えない問題ではないかとの迷いは挫折の始まりとなるのです。」との話は参考になると思います。慢心が転落の始まりとなることは多くの方が語っていることとですが、諦めが挫折の始まりとなるとの話は聞かないと思います。しかし、神霊が説かれたいのは中道にあると思われます。自分の力に慢心することも自分の力に限界を感じて心が折れることも避けるべきであることが大切と思われます。
また、そのどちらに偏ったとしても仏の世界に心が通じないのです。」と神霊は説かれていますが、苦悩の最中(さなか)にありますと一つの考えにとらわれて抜け出せなくなることが少なくありません。こうなってしまうと神仏に懸命に祈ってもその祈りは神仏に届かなくなると説かれています。このことは重要な観点であり、祈りが神仏に届かない要因ではないかと思われます。
「それに対してあなたの魂は繊細であり、傷つきやすい魂です。しかし、それは短所ではあっても長所でもあるのです。あなたの持つ繊細さが最大限に発揮された場合には、あなたの魂は光り輝くのです。それはあなたの魂の特徴であり、あなたが特別な使命を持っていると考えるべきではありません。」
高貴な魂の持ち主であると知るならば、自分は特別な役目を負った人間であるとか、自分は選ばれた人間であると考える方もいるようです。また逆に社会生活に適応できないことから自分は劣った人間であると考える方も少なくありませんが、このどちらも偏った考えであり、この偏った考え方を離れた中道を説きたいのが神霊の真意と思われます。その中道を生きるためには、自分の魂の特徴を知ることが大切であり、自分の魂の輝かせるためには中道が大切になることを神霊は説きたいのだと思われます。
「伝教大師も弘法大師も選ばれた魂ではあったとしても、自分が選ばれた魂であるとは考えていなかったのです。また、自分が特別な使命を持っていたとも考えてはいなかったのです。伝教大師も弘法大師も共に仏の教えを学び、仏の教えを伝えることにしか関心がなかったのです。それは僧侶として当然であると言えますが、彼らにも迷いはありました。しかし、迷いながらも原点に立ち返ることで迷いから抜け出したのです。」
※伝教大師 日本天台宗の開祖、最澄の生前の行ないをほめたたえておくる名。
ここで神霊は、伝教大師と弘法大師の事例を紹介されていますが、自分の魂が優れているか、自分は大きな使命を持つかと言ったことには関心もなく、仏の教えを伝えることにしか関心がなかったと説かれていますが、これが中道の実践となります。中道の教えを解説することは簡単ではありませんが、慢心や自己卑下を離れた境地であることに間違いはないと思います。
星
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「真に高貴な魂を持つ者は、自分が高貴な魂を持つことを自覚できず、自分が高貴な魂を持つ者であると考える者の大半は、卑しき魂の持ち主なのです。高貴さとは身分や権力とは無縁であり、誇らずとも滲み出すような徳なのです。そのため、自分が高貴な魂を持つ者であると自慢げに語る者が高貴な魂を持つことはなく、自分が優れた魂であると自慢げに語る者は、虚栄心が生み出した幻想なのです。」
過去に自分は○○の生まれ変わりであると自称する霊能者に何人か会いましたが、どの方もお話していて高貴さを感じることはありませんでした。どちらかと言えば、俗っぽいと言うよりも俗人でした。勿論、自称する過去世の真偽を証明する方法はありませんので否定も肯定もできませんが、本人の思い込みであったならば、名前を騙られた神霊を怒らせがありまするのではないかと心配していたことを覚えています。
これに対して過去世で公家や女官などをされていた方は、何処となく他の方とは異なる雰囲気を持っておられます。勿論、今世の家柄や社会的な地位も影響しているとは思いますが、ごく平凡な生活をされていても過去世の影響は、その人の人格にも影響を与えるようです。また、神霊が語られているように過去世で高貴な身分であったと思われる方は、今世の自分は庶民として生きているのだから過去世が高貴な身分であったとは全く考えていないことが大半です。
「あなたの魂が持つ魂の記憶はあなた自身の人格であり、あなたの魂が持つ傾向はあなたの傾向でもあるのです。あなたは多くの者たちがあなたの魅力であると考えている魅力は、過去世の者たちの魅力であり、自分の魅力ではないと考えているかもしれませんが、あなた自身の人生にも反映しているのです。」
一般的に過去世の人格は今世の人格に大きな影響を与える傾向があります。そのため、過去世の人格と言っても今世の人格の一部手あり、過去世の魅力なのか、今世の魅力なのかを区別したとしても意味がないと言えます。しかし、過去世の人格と今世の人格は融合しているとは言えず、過去世の人格は今世の人格とは別に存在していますが、過去世の人格の意思は、今世の人格の意思に強い影響を及ぼすことも分かっています。
例えば、過去世において親しい関係であった相手の生まれ変わりに出合いますと、初対面であっても相手に親近感を覚えることが多いようです。また、過去世において恋愛関係にあった相手の生まれ変わりに巡り合った場合には、運命の人との出会いと考えることも少なくありません。幸いにして両者が共に独身であった場合には良いのですが、不幸にしてどちらかが既婚者であった場合には、話がややこしくなります。今世の人格は相手は既婚者なのだからと自分を納得させようと思っても、過去世が暴走して不倫関係に陥ることや自分は既婚者なのだからと自分を抑えようとしても自分の感情を抑えきれなくなることもあるようです。
「あなたは今世の自分は社会不適合者でしかないと考えているかもしれませんが、それはあなたが高貴な魂を持つ者であるとの証でもあります。あなたの過去世が、あなたと同じ家庭環境に生まれ、あなたと同じように生きたならば、あなたと同じように社会生活になじむことが出来ずに苦しむことになります。」
これは現実世界においても同じことが言えるのではないかと思います。例えば、IT分野の知識が豊富であってもITの環境が全く整っていない地域では、その知識は活かすことができす、資産運用に優れた才能があってもアマゾンの奥地では、その知識を活かすことはできないと言えますが、農業や漁業などの技術は活かせるかもしれません。つまり環境が異なるならば、求められる知識や才能が異なることから自分が過去世の魂がどんなに高貴な身分であっても、何の役にも立たないことも珍しくありません。
「あなたの今の苦悩は、あなたが高貴な魂を持つことが原因であるとも言えます。美しく咲くことを求められる花にもたとえられる魂なのにたくましく生きることを求められているのが、今のあなたなのです。あなたのその魂の特徴を見抜くことが出来る者は、多くはありませんが、あなたの魂の高貴さに魅力を感じる者は少なくありません。それは生きている人間に限られた話ではなく、死後の世界の住人達にとっても同じであり、死後の世界の住人達の方が、あなたの魂の高貴さを敏感に感じることが出来ると言えます。」
心霊世界の住人は、今世の姿を見ているのではなく、過去世の姿を見ているのではないかと思うことがあります。これは現実世界においても同じではないかと思います。青春時代に憧れの俳優は、年老いても憧れの人であることは珍しくありません。そのため、若い人からするならば、品の良い老人でしかなくても同世代の老人には、憧れの人であるのとおなじことではないかと思います。勿論、憧れの俳優も年齢を重ねるならば、老いることになりますが、年老いても憧れは消えないのと同じことではないかと思います。
星
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あなたが実社会で働くべきか、実社会を離れて出家すべきかは、この二つの両極端のどちらを選ぶべきかの悩みでしかありません。そのどちらを選んだとしてもあなたの苦悩は解消しないのです。逆にあなたがその両極端を離れることが出来たならば、どちらの道を選んだとしてもあなたの悩みは解消するとも言えます。つまりどちらの道を選ぶべきかの問題ではないのです。
あなたは昨日、不快な思いをされました。そしてその原因が自分にあるのか、相手にあるのかと悩まれました。しかし、真実はどちらでもあり、どちらでもないと言えます。相手だけに非があり、自分にだけ非があると考えるべきではありません。どちらも正しく、どちらも間違いと考えることも出来るのです。それは曖昧であることを是とすることが良いと言っているのではありません。
大切なことは相手の感情にも自分自身の感情にも翻弄されないことなのです。常に相手を責め立てて、相手を追い詰めることが正しいと考えるならば、傲慢となり、常に相手を許して自分が悪いと考えるならば、自己卑下となるだけでなく、相手は同じ過ちを繰り返すことになります。そのため、この二つの極端を離れて考えることが大切なのです。それが仏の教えであり、中道の教えこそが仏の教えなのです。
しかし、中道の教えを実践することは容易ではありません。また、中道の教えを実践することで悟りを得ることが出来たとしても、それは自分だけの悟りに安住する小乗の悟りなのです。仏の願いは、すべての者を悟りへと導くことであり、そのための教えが大乗の教えなのですが、中道が仏の教えの根本にあることを忘れてはならないのです。
現世を離れた世界の者があなたを苦しめています。私はあなたの心に問題があるから現世を離れた世界の者があなたを苦しめていると説くつもりはありません。現世に生きる大半の者たちには、心に間違いがあり、心に苦しみを抱えています。そのため、多くの者たちが現世を離れた世界の者に苦しめられていると言えます。しかし、あなたは繊細すぎる魂であるがために、現世を離れた世界の者たちに翻弄されやすいのです。
仏は人間の苦しみの原因は執着であり、すべての執着を離れた境地こそが悟りの世界であると説かれました。現世を離れた世界の者の苦しみの原因もまた執着であり、彼らも生前に抱いていた執着を離れることが出来ないが為に苦しんでいるのです。しかし、その執着の大半は、中道の教えを守ることで解消することが出来るのです。
あなたにとって中道の教えを守ることは容易ではないと思います。生前からあなたに執着を抱く者たちは、あなたが中道から外れ、両極端に悩むことを願っています。彼らにとっては、あなたが心に悩みを抱えれば抱えるほど居心地が良くなるのです。しかし、あなたが中道の教えを守るならば、彼らの居場所はなくなるのです。
私はあなたに悟れと言っているのではありません。両極端な考えを少し改めるだけでも十分に効果はあるのです。そのためには、まずあなたが自分の魂について知ることが大切なのです。
星
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問い
伝教大師や弘法大師だけでなく、各宗旨の開祖や中興の祖は偉大な方々ではありますが、世俗の権力者からの援助を得ていたからこそ偉大な業績を残せたことは間違いがないと思われます。しかし、高貴な魂ではあっても実社会でたくましく生きることを苦手であることが苦悩の原因であるならば、実社会から逃れ、出家することでしか生きる道はないのでしょうか。
実社会でたくましく生きることは、この者にとっては苦痛なことであることから、出家も一つの方法論であることを否定するつもりもありません。しかし、それは私がこの者が出家すべきであるとの考えを持っていると受け取っても貰いたくはありません。あくまでも選択肢の一つであり、それ以上でもなければ、それ以下でもありません。
私が説きたいのは、この者が繊細な魂であることを自覚して欲しいのです。高貴な魂であることを理由に選ばれた人間であると考えるべきではなく、現世の生活に適応していないから社会的な落ちこぼれであると自己卑下すべきでもないのです。また、繊細な魂の持ち主であるからこそ利用されやすいことを自覚して欲しいのです。
それは現世に生きる者たちに限られた話ではありません。現世に生きる者たち以上に、現世を離れた者たちにも利用されやすいのです。ある者は高貴な魂を穢すことで自分の虚栄心を満たそうとしたり、ある者は繊細な魂を利用することで自分が神として崇められることを求めたりする者もいます。更に繊細な魂であることから邪悪な者たちの影響も受けやすいと言えます。
それらのことは既に承知しているとしても、高貴な魂であることと選ばれた者ではないことや高貴な魂であるなら特別な魂であると考えるべきではないことを分かっていないように思えるのです。また、繊細な魂が現世でたくましく生きることが難しいとしても、そのことを恥じる必要はないのです。しかし、そのことを十分には理解していないのです。
高貴な魂であることを自覚することを、自分が慢心する原因になるのではないかと恐れ、繊細な魂であることが現世を生き抜くたくましさを持てない原因であると自己卑下するならば、現世の者たちに利用されるだけでなく、現世を離れた者たちの恰好の餌食になってしまうのです。
そのため、高貴な魂であるなら特別な魂であると考えるべきではなく、繊細な魂が現世でたくましく生きることが難しいとしても、そのことを恥じる必要はないことを自覚することが大切なのです。その二つの極端な考えから離れることこそが中道であり、その二つの極端な考えから離れることこそが仏の教えなのです。
伝教大師や弘法大師が自分たちの悟りを誇り、自分は特別な人間であると考えたでしょうか、また彼らは農業に従事していないだけでなく、実社会では何一つとして生産していませんが、そのことを恥じたでしょうか。それと同じことなのです。
自分は特別であると慢心すべきでもありませんが、同時に実社会では何の役に立っていないと自己卑下すべきではないのです。その両極端を離れることが出来ないがために、現世に生きる者や現世を離れた世界の住人に翻弄されているのです。
星
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