2006.04.30 Sunday
真宗の霊能力修行?
世の中は大型連休突入・・・のはず。。。 なのに。。。
何の予定もない。。。
寂しい予定表!!! 空白だらけ・・・・
休みだから占いでもと言う人もなく、休みだから行楽が世の中の常識!
みんな外へ遊びに出掛ける→お客が減る→お金がない→頭が痛い!
みんな外へ遊びに出掛ける→PCはお休み→このサイトも誰も見てくれない→投稿する気が起きない
と考えていたら、そうでもない・・・・
と言うわけで急遽予定を変更して投稿することにしました。
昨日の続きを書いてもいいのですが前から書こうかと考えていた真宗の霊能力修行について書きます。
0.本題に入る前に
管理人は何気なく真宗と書いてしまうのでが一般の方の多くは浄土真宗と書くべきではないかと思われているのではないかと思います。しかし大谷派の場合には浄土真宗大谷派ではなく、真宗大谷派が正式な名称となります。そのため真宗で何も問題はありません。
ちなみに本願寺派の場合には浄土真宗本願寺派となります。
1.真宗の霊能力修行?
結論から書くならば真宗の教えに忠実に従うならば霊能力修行は否定されるべきことでしかありません。真宗の教えでは自力を捨てて阿弥陀仏にひたすらにすがることがすべてにおいて優先されるべきであり、自分の霊能力を向上させようなどとの考え方は真っ向から否定されます。
真宗の教えにおいては念仏を称えることで来世の往生は約束されおり、また日常的に念仏を称える者たちを多くの仏たちが陰となり、ひなたとなり、守っていただけることから修行など必要としないとの考え方があります。
では念仏を称えることは修行ではないのかとの考えることもできますが真宗においては念仏を称えることを修行とは考えません。念仏を称えることを修行と考えるならば自分の力にて念仏を称えなければなりませんが、真宗の教えでは阿弥陀仏の働きにて念仏を称えることができるとの考え方が前提にあります。
そのため我々が来世の極楽往生を願って念仏を称えることは阿弥陀仏の慈悲のお力に自分の力で称えた念仏の功徳を上乗せしようとの心でしかないと考えます。それでは一人残らず救いたいとの阿弥陀仏の慈悲を信じていないことになるとの教えなのです。
これは管理人がこれまでに学んだ教えを要約して書いていますので間違いがあるかもしれませんがいずれにしても真宗においては修行よりも阿弥陀仏の慈悲を信じることを重視しています。
2.結果としての霊能力
では真宗の教えを学び、日々念仏を称え続けたとしても霊能力を身に付けることができないのかと言うとそうでもないのです。
ただし、これは真宗の教えとは矛盾するかもしれませんが結果としてそうなると考えてください。管理人は別に真宗の教えを批判するつもりもありませんのでご了承ください。
例えば神仏に帰依する気持ちもなく、単に霊能力を身に付けるために荒行を実践されるのであるならば真宗の名刹や古刹にて念仏を称え続けた方が遥かに安全であり、また確実です。
つまり霊能力を身に付けるために念仏を称えるのではなく、念仏を称え続けることで霊能力が自然に身に着くと考えるべきなのです。
3.霊能力のメカニズム
管理人は以前に霊能力とは肉体と精神のバランスが崩れることで得ることができると書きましたがこれも基本的には同じです。別に修行のための長時間の念仏ではないとしても長時間(最低でも三十分以上)念仏を称え続けるならば精神的な高揚状態となります。
また長時間念仏を称え続けるならば自分の心が内省的となり、怒りや憎しみの感情が少しずつおさまり、心霊との意識との交流が容易になることもあります。
つまり長時間念仏を称えることで感情の乱高下がなくなり、自分の心を省みる時間を持つことの意味と念仏を称え続けることで心霊からの働きかけが容易となる二つの意味があります。
このことを宗教的な境地として考えるのであるならば仏と一体感と言えるのではないでしょうか。
4.霊能力としての限界
管理人の印象としては長時間念仏を称えることで得られる霊能力は良くも悪くも自己完結型ではないかと思います。
通常は霊能者と言えば霊視や霊聴、除霊などの積極的な能力を連想されるのではないかと思いますがその意味では霊能力としての限界はあると思われます。
しかし、密教でも加持祈祷は一定の修行を積んだ修行者だけに許さた行為なのです。管理人も基本的には霊能力だけを身に付けるための修行をお勧めすることはできません。
霊能力を身に付けたいと考えるのであるならば霊能力に振り回されないだけの力を身に付けるべきであり、また霊能力とは人間の心を知ることである程度は身に付けることが可能だと考えています。
それらのことを考えるならば念仏を称えることで得られる霊能力が多分に防御的な意味しかないとしても一般的に考えるならば有益であると考えることができるのではないかと思われます。
しかしここで注意しなければならないのは結果して仏と一体の境地になれるのであって仏と一体になることを目指して念仏を称えるならば仏と一体になることは難しくなることを忘れないでください。
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何の予定もない。。。
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休みだから占いでもと言う人もなく、休みだから行楽が世の中の常識!
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と考えていたら、そうでもない・・・・
と言うわけで急遽予定を変更して投稿することにしました。
昨日の続きを書いてもいいのですが前から書こうかと考えていた真宗の霊能力修行について書きます。
0.本題に入る前に
管理人は何気なく真宗と書いてしまうのでが一般の方の多くは浄土真宗と書くべきではないかと思われているのではないかと思います。しかし大谷派の場合には浄土真宗大谷派ではなく、真宗大谷派が正式な名称となります。そのため真宗で何も問題はありません。
ちなみに本願寺派の場合には浄土真宗本願寺派となります。
1.真宗の霊能力修行?
結論から書くならば真宗の教えに忠実に従うならば霊能力修行は否定されるべきことでしかありません。真宗の教えでは自力を捨てて阿弥陀仏にひたすらにすがることがすべてにおいて優先されるべきであり、自分の霊能力を向上させようなどとの考え方は真っ向から否定されます。
真宗の教えにおいては念仏を称えることで来世の往生は約束されおり、また日常的に念仏を称える者たちを多くの仏たちが陰となり、ひなたとなり、守っていただけることから修行など必要としないとの考え方があります。
では念仏を称えることは修行ではないのかとの考えることもできますが真宗においては念仏を称えることを修行とは考えません。念仏を称えることを修行と考えるならば自分の力にて念仏を称えなければなりませんが、真宗の教えでは阿弥陀仏の働きにて念仏を称えることができるとの考え方が前提にあります。
そのため我々が来世の極楽往生を願って念仏を称えることは阿弥陀仏の慈悲のお力に自分の力で称えた念仏の功徳を上乗せしようとの心でしかないと考えます。それでは一人残らず救いたいとの阿弥陀仏の慈悲を信じていないことになるとの教えなのです。
これは管理人がこれまでに学んだ教えを要約して書いていますので間違いがあるかもしれませんがいずれにしても真宗においては修行よりも阿弥陀仏の慈悲を信じることを重視しています。
2.結果としての霊能力
では真宗の教えを学び、日々念仏を称え続けたとしても霊能力を身に付けることができないのかと言うとそうでもないのです。
ただし、これは真宗の教えとは矛盾するかもしれませんが結果としてそうなると考えてください。管理人は別に真宗の教えを批判するつもりもありませんのでご了承ください。
例えば神仏に帰依する気持ちもなく、単に霊能力を身に付けるために荒行を実践されるのであるならば真宗の名刹や古刹にて念仏を称え続けた方が遥かに安全であり、また確実です。
つまり霊能力を身に付けるために念仏を称えるのではなく、念仏を称え続けることで霊能力が自然に身に着くと考えるべきなのです。
3.霊能力のメカニズム
管理人は以前に霊能力とは肉体と精神のバランスが崩れることで得ることができると書きましたがこれも基本的には同じです。別に修行のための長時間の念仏ではないとしても長時間(最低でも三十分以上)念仏を称え続けるならば精神的な高揚状態となります。
また長時間念仏を称え続けるならば自分の心が内省的となり、怒りや憎しみの感情が少しずつおさまり、心霊との意識との交流が容易になることもあります。
つまり長時間念仏を称えることで感情の乱高下がなくなり、自分の心を省みる時間を持つことの意味と念仏を称え続けることで心霊からの働きかけが容易となる二つの意味があります。
このことを宗教的な境地として考えるのであるならば仏と一体感と言えるのではないでしょうか。
4.霊能力としての限界
管理人の印象としては長時間念仏を称えることで得られる霊能力は良くも悪くも自己完結型ではないかと思います。
通常は霊能者と言えば霊視や霊聴、除霊などの積極的な能力を連想されるのではないかと思いますがその意味では霊能力としての限界はあると思われます。
しかし、密教でも加持祈祷は一定の修行を積んだ修行者だけに許さた行為なのです。管理人も基本的には霊能力だけを身に付けるための修行をお勧めすることはできません。
霊能力を身に付けたいと考えるのであるならば霊能力に振り回されないだけの力を身に付けるべきであり、また霊能力とは人間の心を知ることである程度は身に付けることが可能だと考えています。
それらのことを考えるならば念仏を称えることで得られる霊能力が多分に防御的な意味しかないとしても一般的に考えるならば有益であると考えることができるのではないかと思われます。
しかしここで注意しなければならないのは結果して仏と一体の境地になれるのであって仏と一体になることを目指して念仏を称えるならば仏と一体になることは難しくなることを忘れないでください。
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