2006.07.31 Monday
仏の慈悲にとは・補足
このところ本の宣伝やら難しい話が続いておりますのでランキングが落ちているだろうなとは思っていたのですが・・・・
ε〜(;@_@) ガクン・・・・
ランキングが奈落の底へ・・・・orz
これもみんな指導霊の責任だ!と喚く管理人
聞こえないふりをする指導霊・・・
前回の記事はほぼ自動書記なのです。
管理人にあんな真面目な話ができわけないから当然だとの陰の声
うーん (+_+)どう考えるべきか?
と考えても仕方がないので少し解説しておきます。
慈悲や悟りは言葉で説明すると難しくなってしまいます。
元臨済宗の僧侶でキリスト教の宣教師になられた方が書いていた本の中にあった説明では、禅の悟り(臨済宗)とは、息を止めて深くもぐった後で再び息をしたときの感激に似ていると書かれていました。
同じ空気なのにすがすがしく、同じ空なのに輝いて見える。何一つ変わっていないのにすべてが新しく感じると表現されていました。
また以前、テレビの番組の中で同じようなことを言われていた僧侶の方がおられました。どうしても悟りとは何かがわからずにいた頃にその方は、とにかく走り続けることにしたそうです。
その方は、毎日、毎日、走り続けていたところ、ある日突然、何もかもが有り難く感じられるようになったと話されていました。この二つの話に共通していることは自分を追い詰めることであり、そしてその壁を突き破ったときに世界観が変わることです。
しかし、これは専門家向きの修行方法ではないかと思います。この方法は身近に優れた指導者に恵まれるならば、優れた方法であると言えるのですが身近にそのような指導者に恵まれない場合には、慢心しやすい欠点があります。
では他力門はどうかと言えば、念仏さえ称えていればよいとの安易な解釈をされたり、逆にただ念仏を称えるだけではだめで、特定の教えを学ばなければ救われないとの異説が生まれたりします。他力の教えを真摯に学ぶならば、そのような教えが異説であることはわかるのですが、どうしても教えではなく、生き仏とされる人に頼りたくなるようです。
他力門の異説においては、善知識と呼ばれることが多いようですが、本来の意味は別ではなかったかと思います。(まだ調べてません)いずれにしても他力門の教えである限りは、帰依するのは阿弥陀仏以外には考えられないことなのです。つまり阿弥陀如来の前ではすべての者が平等であるとの考えを否定するならば、他力門の教えを否定するのと同じことになってしまいます。
しかし、個人的には神道が長かったことからあまり悟りについて考えることもありませんでした。また自宅の宗旨も浄土真宗大谷派ですのでこちらも悟りとは無縁な教えですので、霊界通信が始まってから悟りについて考えるようになった泥縄です。(笑い)
そのため、悟りだ、慈悲だと声高に叫ぶ気持ちもありませんが、霊能力に強い憧れを持つ人や救世の情熱に燃えて布教活動に邁進されている新興宗教の信者の方々を見ると何か勘違いをされているのではないかと思います。
管理人には何か自分の人生を否定して理想化された他人の人生を生きようとしているように感じてしまいます。自分の人生がどれだけつまらぬ人生であるとしても他人の人生を生きることはできません。ならば自分の人生について考えるべきであると思われます。
うーん、結局、話が難しくなってしまいました。これもみんな守護霊の責任だと喚く管理人です。と言うことは、そうなんです。この自分の人生について考えろとは、守護霊の教えであり、自分の人生を自分の責任で生きることが守護霊の教えの根幹なのです。
あーまたランキングが奈落の底へ・・・・(T T)
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これもみんな指導霊の責任だ!と喚く管理人
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管理人にあんな真面目な話ができわけないから当然だとの陰の声
うーん (+_+)どう考えるべきか?
と考えても仕方がないので少し解説しておきます。
慈悲や悟りは言葉で説明すると難しくなってしまいます。
元臨済宗の僧侶でキリスト教の宣教師になられた方が書いていた本の中にあった説明では、禅の悟り(臨済宗)とは、息を止めて深くもぐった後で再び息をしたときの感激に似ていると書かれていました。
同じ空気なのにすがすがしく、同じ空なのに輝いて見える。何一つ変わっていないのにすべてが新しく感じると表現されていました。
また以前、テレビの番組の中で同じようなことを言われていた僧侶の方がおられました。どうしても悟りとは何かがわからずにいた頃にその方は、とにかく走り続けることにしたそうです。
その方は、毎日、毎日、走り続けていたところ、ある日突然、何もかもが有り難く感じられるようになったと話されていました。この二つの話に共通していることは自分を追い詰めることであり、そしてその壁を突き破ったときに世界観が変わることです。
しかし、これは専門家向きの修行方法ではないかと思います。この方法は身近に優れた指導者に恵まれるならば、優れた方法であると言えるのですが身近にそのような指導者に恵まれない場合には、慢心しやすい欠点があります。
では他力門はどうかと言えば、念仏さえ称えていればよいとの安易な解釈をされたり、逆にただ念仏を称えるだけではだめで、特定の教えを学ばなければ救われないとの異説が生まれたりします。他力の教えを真摯に学ぶならば、そのような教えが異説であることはわかるのですが、どうしても教えではなく、生き仏とされる人に頼りたくなるようです。
他力門の異説においては、善知識と呼ばれることが多いようですが、本来の意味は別ではなかったかと思います。(まだ調べてません)いずれにしても他力門の教えである限りは、帰依するのは阿弥陀仏以外には考えられないことなのです。つまり阿弥陀如来の前ではすべての者が平等であるとの考えを否定するならば、他力門の教えを否定するのと同じことになってしまいます。
しかし、個人的には神道が長かったことからあまり悟りについて考えることもありませんでした。また自宅の宗旨も浄土真宗大谷派ですのでこちらも悟りとは無縁な教えですので、霊界通信が始まってから悟りについて考えるようになった泥縄です。(笑い)
そのため、悟りだ、慈悲だと声高に叫ぶ気持ちもありませんが、霊能力に強い憧れを持つ人や救世の情熱に燃えて布教活動に邁進されている新興宗教の信者の方々を見ると何か勘違いをされているのではないかと思います。
管理人には何か自分の人生を否定して理想化された他人の人生を生きようとしているように感じてしまいます。自分の人生がどれだけつまらぬ人生であるとしても他人の人生を生きることはできません。ならば自分の人生について考えるべきであると思われます。
うーん、結局、話が難しくなってしまいました。これもみんな守護霊の責任だと喚く管理人です。と言うことは、そうなんです。この自分の人生について考えろとは、守護霊の教えであり、自分の人生を自分の責任で生きることが守護霊の教えの根幹なのです。
あーまたランキングが奈落の底へ・・・・(T T)
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