今日も酷暑日とか・・・
当然の如く、だらーとしております。〈(゜。゜) ポケラー
が、しかし・・・
ただ、管理人が「だらー」としていたと考えているあなた!
あなたは甘い!・・・
虚静功をしていました。と言うものの、傍から見ていたら「だらー」としているだけのような気がしないでも・・・
とは、言うもののこれも気功の一種なのです。
多くの人が誤解しているのではないかと思うのですが、気は強ければ良いのではなく、気の流れの乱れていると病気になってしまいます。
そこでこの数日、身体の緊張感を虚静功で緩和していたのですが、どうもいま一つ効果がない・・・
と言うわけで、本来はあまり使いたくない裏技を使用
あまり知られていないようですが、大豆ペプチドは脳の疲れを取る効果がありますのでストレスが溜まっているときに効果的です。
今回は、一日一袋(大豆ペプチド 1500mg)から二袋のところを三袋
ただし、摂取後、暫くすると眠くなりますのでご注意ください。無論、一日一袋を摂取しているならばこのようなことはありません。
これを自分で作るとなると結構面倒なのですが、最近は便利なものが市販されているので助かります。豆乳に生のパイナップルジュースを混ぜて湯煎すれば作れますが、保存できる期間も短く結構手間です。
それはさておき、投稿間隔を少し空けるか、暫く投稿を休んで充電したいとの気持ちもあるですが何故か、アクセス数もPV数も上昇・・・(・_・。)) マイッタナァ
唐突ではありますが、冥王星が惑星から除外されたとか・・・
星占いはどうなるのか?管理人も頻繁ではないものの、利用していますので少し気がかりではありますが、専門家にお任せします。
それでもプロかとの非難の声は無視、管理人の専門はカードですと開き直る。
再び、閑話休題(今度は漢字にしてみました)「
愚痴と恨み」の記事の中で「自分と他人との区別がなくなった境地」とはどのような境地かとのご質問がありました。
これは仏の教えを学び、日々修行されている方々が目指している悟りの境地であり、管理人のような門外漢が説くべき教えではないので、出家者の方が開設されて・・
「仏の道には、出家も在家も関係ないのがまだわからぬか!」
ひえー、そんなご無体な・・・・チュドーン*****≫))))(/_x)/アレー
1.自分と他人との区別がなくなった境地
管理人はどこかの新興宗教の教祖のように釈迦の悟りを超えたと言う気持ちもありませんのでどのように解説すべきか迷います。教えとして解説するだけであるならば宗教学者の書かれた解説を引用するのが一番良いかとは思いますが、それでもどの本を引用すべきかと迷います。
つまり各宗旨の教えの根幹とも言える内容であることから宗旨が異なれば、その境地の解説も異なると言えます。しかし、それらの説明は専門用語の羅列であり、引用したとしてもまず大半の方には理解できない内容であるとも言えます。それではここで取上げる意味もなく、参考書を紹介した方がよいと言えます。
そこで何とか自分の言葉にて解説しようと無謀なことに挑戦するならば、一切のこだわりが消えた境地であると言えるのではないかと思います。一般的には無分別とは思慮の足りない行為の意味にて使用されますが、仏教用語としては逆に一切のこだわりが消えた境地を意味することから良い意味にて使用されます。
ただこれだけでは観念的な理解しかできないのではないかと思います。一切のこだわりを捨てる。仏教的に言うなれば執着を断つとのことになりますが、このことを観念的に理解しようとしてたとしても何の意味もなく、ただの道徳論となります。
一般的な新興宗教が説いているのは、大抵はこの段階までなのです。執着することの愚かさを説き、伝統的な仏教の教えを借用すれば、如何にももっともらしいことを言っているように見せかけることは実に簡単な話です。
しかし本当に人生の苦悩を解消するための知恵としては、これではほとんど役に立ちません。本当に人生の苦悩を解消しようと考えるのであるならば、自分がどうして執着するのかを知る必要があると考えます。そうでないと執着は悪である、贅沢は悪であるとの紋切り型の思考しかできなくなります。
2.人生観の問題
仏教に限られた話ではありませんが、説かれている教えを道徳論や処世術と同一に考えるならば、その本質を知ることは到底不可能な話です。宗教において説かれているのは開祖の得た精神的な境地に到るための修行のプロセスであり、その精神的な境地に到達することで得られた人生観と言えるのではないかと思います。
つまり自分と他人との区別がなくなった境地とは、釈迦が悟りを得られて到達された境地なのです。そのためその境地に如何にすれば到達できるかを説いているのが仏教の教えであり、どの宗旨にしても自分の宗旨こそが、その境地に到達するための正しい教えであるとの自負があります。
しかし、いずれの教えを学ばれたとしてもそう簡単には到達できる境地ではなく、真剣に修行されたとしてもその境地に到達できぬままに他界される修行僧が数多くいるほどの高い精神的な境地です。
勿論、管理人もその境地に到達できているとは考えていませんが、過去に霊視した仏から感じる力の中に善悪を超えた境地や自分や他人の区別を超えた境地を感じたことは何度かあります。ただそれは言葉では説明しようがないのです。
これはある意味矛盾しているとも言えます。善悪を超えた境地や自分や他人の区別を超えた境地と説明することはできてもその境地は言葉では説明できないと言えば矛盾ではありますが、これが実感なのです。
ではどうして目指すべき境地として言葉で説明することができ、そこに到る修行論も残されているのに、その境地に到達することが限りなく難しいのかを書くならば、それは追体験でしか知りえぬ境地であるだけでなく、その過程が際限のない自己否定の連続であることもあります。
宗教は際限のない自己否定の連続であるとは説かれていますが、どうもこの言葉は誤解が多いような気がしています。新興宗教の多くで説かれている自己否定とは、それまでの自分の考え方を否定してその教団の教えを受け入れることでしかなく、これではただの盲信でしかありません。
この問題は掘り下げるならば、非常に大きな問題であり、簡単に説明することなどできないことですが、新興宗教の自己否定とは自分以外の場所に自分の理想を求めているのではないかと思えます。つまり現実の自分の姿を否定して教祖の説く教えと同化している自分を理想としているだけにすぎないと思われます。
これに対して本来の意味での自己否定とは、自分以外の場所に自分の理想を求めているのではなく、自分の中に自分の理想を追い求める行為であると考えます。これは他力門の教えでも例外ではありません。阿弥陀如来の慈悲にすがることができない自分の否定であると考えるべきでなく、阿弥陀如来にすがりきることができない自分を知ることが重要ではないかと思います。
現実の自分以外に理想化された自分がいるわけでないのに理想化された自分を追い求めたとしても理想の自分にめぐり合えることはありません。弱い自分がいるのであるならばその自分の弱さと向き合う以外に道はないのです。
自分と他人を区別することがない境地とは、自分の中にある自分と他人を区別して考える理由を知ることとでしか乗り越えることはできないのです。それを単純に親子関係の延長や仲間意識の延長と考えるべきではありません。親子関係の延長や仲間意識の延長と考えるならば理解できる教えではありません。
自分と他人を個別の存在であることを前提にしながら、同時に自分と他人とを同一に考える矛盾した境地なのです。これは個人と仏との関係にて考えるならばまだ理解しやすいかもしれません。念仏や真言、題目を長時間唱え続けるならば没我の状態となり、仏との一体感を味わうことは可能ですが、この感覚に近いのではないかと思います。
つまり仏とは別の存在でありながら仏と一体になる。この感覚が自分と他人との区別がなくなった境地に近いのではないかと思います。
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