2006.09.30 Saturday
飲みニケーションの是非
やりました・・・阪神戦勝利。
( ̄ー ̄)v ブイ!
本当はTVにて観戦していたかったのでが・・・
何せ、昨日はラジオで最後まで観戦して敗戦
その前は、もうだめと諦めたら逆転
その前は、ラジオで最後まで観戦して敗戦
その前は、もうだめと諦めたら逆転
と言うことは・・・・
今回は、何が何でも我慢・・・・
おかけで 柱|-^)v 隠れヴイ
何せ、観戦していませんので・・・・
それはさておき・・・
昨日から鑑定書を ■_ヾ(・・*)カタカタ
と言っても一日中、鑑定書を書いているわけでもありませんが・・・
それでも (ー_ー;) フウ
と言うわけで・・・
Oo。( ̄。 ̄ )y- 〜 と一服・・・
ついでと言うわけではありませんが・・・
なかなかお答えできずにいたご質問を・・・
この質問にお答えするのは難しいと言えます。この問題は一般常識と言うなの価値観の問題や日本人の義理人情などの曖昧な理解や仲間意識などの問題が根底にあります。それらの問題が理解できてればそれほど難しい問題ではありません。
基本的に日本人は議論できない国民であると考えています。こちらが個人的な感情を抜きにして議論したいと考えていてもまともな議論などできたためしがありません。大半と言うよりもほとんどすべてですが、噛み合わない議論の繰り返しと自分の考えに固執する人たちばかりです。
その理由はどこにあるのかを考えると精神的に自立できない国民性であり、また幼児性にあるのではないかと考えています。しかし、この問題に深入りするならば向こう一年間はこの問題だけについて書き続けなければならないほど大きな問題です。
そのためここではこの問題に深入りすることはできませんが、基本的に対立を避けるための手段として飲酒が利用されているのではないかと考えることができるのではないでしょうか。
話し合いや議論とは、相手との意見の違いを前提としてます。最初から相手と意見が同一であるならば話し合う必要などなく、また意見が異なるからこそお互いの意見を聞く必要があるはずです。しかし、日本人はお互いの意見が対立することを嫌います。
管理人は意見が対立したとしても問題点が整理され、よりよい解決策が見出されるのであればそれでよいと考えますが、どうも多く方は異なるようです。
最初はそのことが理解し難かったのですが、意見が対立すれば当然相手の意見を批判することになります。これは相手の人格を否定しているのでもなければ、相手の人格を攻撃しているわけでもありませんが、相手の意見を批判することと相手の人格を否定するのと同意義に受け取られます。
この理由を説明するとなると先程、書きましたように大事とになりますが、いずれにしも日本人は曖昧さこそが人間関係の潤滑油であると考える傾向があります。この曖昧さの極地にあるのが飲みニケーシュンであるのではないでしょうか。
また同時に真剣に相手の話を聞き、相手の立場を理解しようする姿勢を嫌うことの裏返しであると思われます。真剣に相手の話を聞き、相手の立場を理解することは問題点を明確化する行為でしかなく、何事も曖昧なことを求める人々には迷惑な行為となります。
また酒を飲まなければ、本音を語れないと言うのも、酒を免罪符として利用しているだけの話であり、自分の弱さを言い訳にしているのと同じでしかありません。
これを仏教の観点から解説するならば、現実を現実とし受け入れたくない逃避でしかないと考えます。高橋信次氏などは釈尊の説かれた八正道とは、反省の基準であると説かれているようですが、管理人は八正道とは反省の基準ではなく、現実を現実として受け入れるための方法だと考えます。
人間はどうしても何らかの偏見を持って現実を見ています。その偏見を離れて見るためには自分の立場を離れなければなりませんが、それはそれほど簡単な話でもなく、長い修行が必要となります。
ではその観点から飲みニケーシュンについて考えるならば、曖昧さと言う名の希薄な関係を構築するための手段でしかないと思われます。つまり利害関係の調整でもなければ、対立点の明確化でもなく、単に仲間意識だけで問題を曖昧にすることが目的であると考えます。
これは日本が村社会の意識から脱却することなく、また個人の自我を確立することすら受け入れることができない国民性であることを考えれば当然かと思います。
人に頼ることなく、教えを心の指針として生きる決意を持たれるならば、この曖昧さには耐えられないのではないかと思われます。また、曖昧さの中に生きようとする人たちには、自分の心の闇と向き合うことができるはずもなく、そうした曖昧さを拒絶して生きようとする人たちを排除しようとします。
曖昧さの中に安住する人たちには、己に厳しく生きる人は秩序を破壊する者でしかなく、自分たちの世界を崩壊させる破壊者となります。だからこそ相手が僧侶であろうとも酒を勧め、その権威を堕落させることに何の罪悪感も感じないのではないかと思います。田舎では当然の雰囲気があるようですが・・・
蛇足ながら・・・
今はもうほとんど飲むこともなくなりましたが、以前は月に一度ぐらいは出かけていました。ただし、酒は陽気に楽しく飲むものであると考えています。そのため、飲みニケーシュンはお断りです。
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( ̄ー ̄)v ブイ!
本当はTVにて観戦していたかったのでが・・・
何せ、昨日はラジオで最後まで観戦して敗戦
その前は、もうだめと諦めたら逆転
その前は、ラジオで最後まで観戦して敗戦
その前は、もうだめと諦めたら逆転
と言うことは・・・・
今回は、何が何でも我慢・・・・
おかけで 柱|-^)v 隠れヴイ
何せ、観戦していませんので・・・・
それはさておき・・・
昨日から鑑定書を ■_ヾ(・・*)カタカタ
と言っても一日中、鑑定書を書いているわけでもありませんが・・・
それでも (ー_ー;) フウ
と言うわけで・・・
Oo。( ̄。 ̄ )y- 〜 と一服・・・
ついでと言うわけではありませんが・・・
なかなかお答えできずにいたご質問を・・・
私は自分が表面だけの人付き合いが大嫌いということ、酒が嫌いということもあり、今の酒中心の人付き合いに大変疑問を感じております。酒が入らないと本音はでないという人がいましたが、酒を飲んで出るのは本音ではなく罵詈造言だと感じています。第一酒を飲んだ興奮状態でまともに語り合うことができるはずがないと。しかしながら、人付き合いの上で必ず求められるのは「酒を飲むこと」です。「すみません」とお断りするのですが、酒付き合い、飲みニケーションを主張する人たち(ほぼ全員)にはなかなか理解してもらえません。人間関係の中核である人付き合いとは、こんなものなのでしょうか・
この質問にお答えするのは難しいと言えます。この問題は一般常識と言うなの価値観の問題や日本人の義理人情などの曖昧な理解や仲間意識などの問題が根底にあります。それらの問題が理解できてればそれほど難しい問題ではありません。
基本的に日本人は議論できない国民であると考えています。こちらが個人的な感情を抜きにして議論したいと考えていてもまともな議論などできたためしがありません。大半と言うよりもほとんどすべてですが、噛み合わない議論の繰り返しと自分の考えに固執する人たちばかりです。
その理由はどこにあるのかを考えると精神的に自立できない国民性であり、また幼児性にあるのではないかと考えています。しかし、この問題に深入りするならば向こう一年間はこの問題だけについて書き続けなければならないほど大きな問題です。
そのためここではこの問題に深入りすることはできませんが、基本的に対立を避けるための手段として飲酒が利用されているのではないかと考えることができるのではないでしょうか。
話し合いや議論とは、相手との意見の違いを前提としてます。最初から相手と意見が同一であるならば話し合う必要などなく、また意見が異なるからこそお互いの意見を聞く必要があるはずです。しかし、日本人はお互いの意見が対立することを嫌います。
管理人は意見が対立したとしても問題点が整理され、よりよい解決策が見出されるのであればそれでよいと考えますが、どうも多く方は異なるようです。
最初はそのことが理解し難かったのですが、意見が対立すれば当然相手の意見を批判することになります。これは相手の人格を否定しているのでもなければ、相手の人格を攻撃しているわけでもありませんが、相手の意見を批判することと相手の人格を否定するのと同意義に受け取られます。
この理由を説明するとなると先程、書きましたように大事とになりますが、いずれにしも日本人は曖昧さこそが人間関係の潤滑油であると考える傾向があります。この曖昧さの極地にあるのが飲みニケーシュンであるのではないでしょうか。
また同時に真剣に相手の話を聞き、相手の立場を理解しようする姿勢を嫌うことの裏返しであると思われます。真剣に相手の話を聞き、相手の立場を理解することは問題点を明確化する行為でしかなく、何事も曖昧なことを求める人々には迷惑な行為となります。
また酒を飲まなければ、本音を語れないと言うのも、酒を免罪符として利用しているだけの話であり、自分の弱さを言い訳にしているのと同じでしかありません。
これを仏教の観点から解説するならば、現実を現実とし受け入れたくない逃避でしかないと考えます。高橋信次氏などは釈尊の説かれた八正道とは、反省の基準であると説かれているようですが、管理人は八正道とは反省の基準ではなく、現実を現実として受け入れるための方法だと考えます。
人間はどうしても何らかの偏見を持って現実を見ています。その偏見を離れて見るためには自分の立場を離れなければなりませんが、それはそれほど簡単な話でもなく、長い修行が必要となります。
ではその観点から飲みニケーシュンについて考えるならば、曖昧さと言う名の希薄な関係を構築するための手段でしかないと思われます。つまり利害関係の調整でもなければ、対立点の明確化でもなく、単に仲間意識だけで問題を曖昧にすることが目的であると考えます。
これは日本が村社会の意識から脱却することなく、また個人の自我を確立することすら受け入れることができない国民性であることを考えれば当然かと思います。
人に頼ることなく、教えを心の指針として生きる決意を持たれるならば、この曖昧さには耐えられないのではないかと思われます。また、曖昧さの中に生きようとする人たちには、自分の心の闇と向き合うことができるはずもなく、そうした曖昧さを拒絶して生きようとする人たちを排除しようとします。
曖昧さの中に安住する人たちには、己に厳しく生きる人は秩序を破壊する者でしかなく、自分たちの世界を崩壊させる破壊者となります。だからこそ相手が僧侶であろうとも酒を勧め、その権威を堕落させることに何の罪悪感も感じないのではないかと思います。田舎では当然の雰囲気があるようですが・・・
蛇足ながら・・・
今はもうほとんど飲むこともなくなりましたが、以前は月に一度ぐらいは出かけていました。ただし、酒は陽気に楽しく飲むものであると考えています。そのため、飲みニケーシュンはお断りです。
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