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臨時休業

今日は所用が重なってしまったこともあって参拝に行ってきました。
が、しかし・・・
本当にうんざりするのがお寺の階段です。
一ヶ所だけならばまだよいのですが・・・
二・三ヶ所参拝しますと (−−; ゲソ〜
と言った気分となります。

ましてこの時期は紅葉狩りの観光客だらけ・・・
駐車場を探すのも大変・・・

と言うわけで・・・
少し疲れ気味にて家に帰ってきました。

が、しかし・・・
もっと疲れることがありました。
ときどき意味不明なコメントが書き込まれていることがありますが・・・
今回は、反論を書くのも面倒なことから削除しました。

以前にも引用と転記を意図的に無視したようなコメントがありましたが、精神世界に興味を持たれる方はご自分の信じている教えが絶対的な真理であると信じ込まれている方が多いようです。

管理人からするならば少なくとも霊界の構造や仕組みには、あまり興味もありませが新興宗教や霊能者、神秘思想家の説く霊界の構造や仕組みは、SFと同じ程度にしか考えておりません。

基本的に仏教の場合には一定の世界観が説かれていますので、それを無視しては教えを理解することが困難になることもあって多少は本を読んでいますが、それ以外はほとんど関心もなく、必要も感じていません。

また、管理人は古神道を神道とは考えていませんし、教派神道に関しても新興宗教としか考えていません。基本的に検証不可能な話には際限のない水掛け論になるだけの話であり、心の教えには何の関係もない話であると考えています。

と言うわけで・・・
あまりのばかばかしさに記事を書く意欲を失いました。m(_ _)m

at 23:23, 星 良謙・子授け地蔵, 管理人のひとりごと

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スピリッチュアル・ヒーリングの危険性

いつもの如く悩んでおります・・・
α~ (ー.ー") ンーー で始めましたが・・・

が、しかし・・・
本当は書くのが面倒と言った気分です。
つまり・・・
( ̄。 ̄)ボーーォ と言ったところでしょうか。

ブログに限った話ではありませんが、心霊現象に関することを記事にしたとしても本当のところはまず伝えることは非常に難しいと考えています。例えばガンダムやスターウォーズは話としては面白いかもしれませんが、(個人的には全く関心がありません。と言うよりもどこが面白いのか理解不能です。)現実を無視した映像の中だけにしか存在することのない話です。

これが娯楽作品の世界であることを前提にしているのならば何も問題はないのですがガンダムやスターウォーズにて描かれている世界と現実の世界が区別できなくなってしまったならばどうなるでしょうか。

まだガンダムやスターウォーズの世界であるならば、少しばかりの科学の知識と少しばかりの軍事関連の知識があれば荒唐無稽な話であることは理解できると思いますが、これが心霊の世界となると全く歯止めがなくなります。

もう好き勝手書いてあると言うか、荒唐無稽な話の洪水状態、そこらじゅうに銀河の果てから使者はやってくるわ、釈迦はあちこちの霊能者の元に出没していわ、弥勒菩薩やら天照大神に至っては乱立状態、更に人類を救済する使命を授かった霊能者に至っては、掃いて捨てるほど・・・これなら地球温暖化の心配など必要ないほど

しかし、そんな話を信じ込んでのめり込む人たちが少なからずいます。そんな人々と随分話もしましたが、何を言っても無駄でした。そこに共通しているのは、一種の思考停止ですが、このことについて書き始めますと話が非常に難解になりますので別の機会に書こうかと考えています。

まあ、さすがにそんな話は小さな集団の教祖さまだけが多いのがせめても救いですが、書店の店頭にはスピリッチュアル・ヒーリング関係の本が山積みです。管理人からするならばスピリッチュアル・ヒーリングとの言葉を使ってはいますが、実質的には心霊体験でしかありません。

しかし、安易な気持ちにて心霊体験を追い求めることは非常に危険なことです。密教が密教である最大の理由もそこにあるのではないかと思います。

例えば格闘技の技を本を読んで覚えたとしても、それだけで喧嘩に勝てると考えるのと同じことですが、ある意味、現実の喧嘩よりも悲惨な結果になることがあります。つまり現実の世界であるならば相手がどんな相手かも分かりますし、相手の人数も確認できます。しかし、心霊の世界では相手の姿も分からなければ、人数すらもわかりません。

そのため自分の守護霊を呼び出したつもりがとんでもない不成仏霊を呼び寄せているいたとしても分からないのです。また相手には時間の感覚もない相手ですので二十四時間、休みなしです。更に一旦、不成仏霊に影響されやすい体質になってしまったならば、その影響を遮断することは並大抵の努力では済みません。

そんな恐ろしさに何も触れることなく、能天気にスピリッチュアル・ヒーリングにて癒されたと喜んでいると大変なことになってしまいます。しかし、その理由を説明しようとするならば、何から説明すれば良いのかと頭を抱えてしまいます。

と言うわけで・・・
α~ (ー.ー") ンーー と悩んでおります。

本当は、神道の教えの基本を書こうかと考えていたのですが・・・
ぼやきとなってしまいました。m(_ _)m

at 23:31, 星 良謙・子授け地蔵, ヒーリング

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宗教と論理学

今日は、外出しようかと考えていたのですが・・・
天気は雨がち・・・
せっかく、体調が戻り始めたので家でおとなしくしていることにしました。

と言うわけで・・・
今日は珍しく昼間の投稿となりました。

時々、精神世界のサイトにアクセスしてみるのですが、その多くが長時間アクセスしていることが困難なサイトです。しかし、何件かに一件は長時間アクセスすることが可能なサイトがあります。

先日もそんなサイトを見つけましたので暫く記事を読んでいました。そのサイトはある仏教系新興宗教の開祖を信奉するサイトでしたが、何か違和感を感じていました。そのサイトからは別に悪意も感じませんでしたし、狂信者との印象も受けませんでした。

何が違うのかなと考えていたのですが、「仏教の倫理思想・宮元啓一・講談社学術文庫」を読んでいてこれかなと思う事がありました。

ちょっと、その前に・・・
本来の仏教とは非常に論理的な教えであるとの印象があります。ただ印度の論理学は西洋の論理学が知識のための知識とも言うべき主知的な思想であるのに対して印度の論理学は宗教的解脱を目指しています。

そのため印度の論理学は合理的な思考と神秘体験とも言える解脱を結ぶ思想と言えます。しかし、独善的な形而上学を排除して現実を直視する批判的な態度は西洋の論理学と同じです。

また中国では純粋な論理学は発展しませんでしたが、論理学がなかったわけではなく、儒教を中心にして正しい認識を獲得するための論理学は存在しました。また老荘思想においては否定の弁証法と易経の肯定の弁証法が存在しました。

では日本ではどうかと言うと・・・
中国から伝えられはしましたが、結局論理学が定着することはありませんでした。簡単に書けば人気がなかったと言うべきでしょうか。日本において中心となったのは、情緒と言う名前の無論理、非合理です。言葉を換えるならば知的であること理屈っぽいと嫌われたと言うことでしょうか。

その代償が日本の情緒の論理と言うか、情緒の文化の発展であると言えます。それを日本人の優れた国民性であると主張される方も多いのですが、少なくとも宗教、特に仏教においては「やめてくれ!」と言うのが管理人の気持ちです。

実は管理人が感じていた仏教系の新興宗教の教祖が説く教えの違和感とは、この部分なのです。しかし、これは新興宗教の教えに限られた話ではなく、一般的な宗教書全般に見受けられる傾向です。逆に本来の仏教の教えに忠実に論理的な理詰めに忠実な内容となると実に不評・・・

例えば、極論するならば教えを説く人がどんなに苦労したか、不運な境遇にて育ったかは教えの価値とは何も関係がないと言えるのではないでしょうか。無論、宗祖の生い立ちを知ることが教えを理解するための手掛かりとなることは否定するつもりはありませんが、宗祖が苦労されたから教えが立派とは限りません。

しかし、多くの人の共感を集めるのは教えの内容ではなく、一人の人間としての共感の部分ではないかと思うことが多いのです。そして新興宗教の教えの多くは知的な探求ではなく情緒的な理解が大半であり、知的な探求をする者は教祖の教えを疑う信仰心がない者であるとして排除される傾向があるようです。

その意味においては仏教系の新興宗教の大半は、本来の仏教の精神を受け継ぐことのない日本人に受け入れられやすいように変質した教えでしかないと考えます。それは欧米において食べられている寿司が日本人からするならば到底、寿司と呼ぶことなどできない食べ物であるとしても欧米の人はそれを寿司であると考えるのと同じことです。

個人的には仏教に限らず、宗教を感情にて理解すべきではないと考えていますし、感情にて理解するならば思考停止するだけであると考えています。しかし、こんなことを書くと教祖さまにはなれないことだけは確かです。教祖さまになろうと考えるならば難しい理論の解説などどうでもよく、ただひたすらに感情に訴えかけるような教えと現世利益だけが大切なのですから・・・

at 13:37, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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好転反応

通常、風邪と言えば・・・
(>0<)クシュン( ̄ii ̄)ジュル の鼻風邪か・・・
{{(T−T)}} ブルブル の寒気か・・・
なのですが・・・・

今年はどうも・・・・
モレル・・ | WC |ヘ(´σ))))))=====びゅ〜
の胃腸風邪が流行しているようです。

が、しかし・・・
それのどれにもあてはまらず・・・
(_ _)(・.*)(~O~)(・\) ゆたらとネムイ・・・

やっと少しずつ体調が戻ってきたのですが・・・
どうも考えて見ると・・・
日曜日に谷汲山華厳寺に参拝した御利益の好転反応+月曜日の整体の好転反応+このところの朝晩の冷え込みの複合にて体調を崩したのかと考えています。

それはさておき・・・
ブログの投稿を少し休んでしまうと書くのが面倒になってしまいます。
これも習慣なのでしょうか・・・

本当は霊能力と超能力の違いについて書くべきなのでしょうが・・・
定義が難しいので少し下調べをしてから投稿しようかと考えています。
と言うのも・・・
一般的に超常現象と言われている現象は霊能力や超能力に限られた話ではなく、気功・陰陽道・仙道・魔術などに範囲を広げて考える必要があります。
仏教においても法力とか神通力と言われる特殊な能力について語られることや瑞気と言われる超常現象について語られることもあります。
それらについて書き始めると際限のない話となるだけでなく、まとまりのない話となってしまうことから少し整理してから書きたいと思います。

とは言いながら・・・・
少しは関連した話をと言うわけで好転反応について書きます。

整体や按摩、漢方薬など東洋医術においては、好転反応と言われる現象が起きることがあります。もっとも単に症状が悪化した場合にも言い訳として利用されていることもありますので少し解説しておきます。

基本的に好転反応として起きる現象とは、下痢、多尿、多汗が代表的な症状ですが、他には疲れがどっとでることはよくあります。
珍しい例としては、不眠があります。この場合には眠れなくても体が非常に軽く感じることや体調は非常に良いのが特徴です。これらの症状は、不眠に限らず体が軽く感じることが多いようです。

しかし、これらとは逆に体調が悪化する場合がありますが、この場合には一定の法則があり、ただ意味もなく体調が悪化するわけではありません。
一、隠れていた病気が顕在化する。結果として早期発見となります。
二、これは一とも関連しますが、完治してなかった古い傷や傷めた箇所が痛む。
普通は、この二つであり、治療中の病気が悪化することはほとんどありません。

この好転反応は東洋医学に限られたことではなく、祈願や祈祷を受けた場合にも似たよな現象が起きることがよくあります。その一番典型的な例は、祈願を受けた場合に強烈な眠気に襲われることです。他にも下痢、多尿、多汗などもよくあります。

また、隠れていた病気が顕在化することや完治してなかった古い傷や傷めた箇所が痛むこともあります。しかし、祈願や祈祷の場合と異なるのは人間関係においても同じことが起きることです。つまり隠れいてた問題や先送りされていた問題が顕在化することです。

ここで注意して欲しいことは新たに何か問題が起きるのではなく、押さえ込んでいた不満が爆発するように不平不満が噴出して家族の対立が激化するなど隠れていた問題が顕在化することです。

ただし、例外があります。その例外とは先祖供養をされた場合ですが事情が大きく異なります。追善供養がなされていない期間が長く、ご先祖の大半が悲惨な状況にあった場合に先祖供養をしますと成仏されていないご先祖が集まってくる場合があります。

管理人でも数多くの不成仏霊に囲まれたならば体調を崩してしまいますので一般の方ならば極端に体調が悪化してしまうことも珍しくありません。しかし、これも一時的な現象であり、暫くすれば改善されることです。ただ、新興宗教などにて先祖供養などをされた場合にはこの限りではありません。

尚、詳しくは「開運の方法」を参考にしてください。

at 22:26, 星 良謙・子授け地蔵, -

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不覚にも

不覚にも風邪をこじらせ
月曜日以降、寝込んでおりました・・・
(−−)zzz.。ooOO○
一日の睡眠時間を更新したと言うところです。

もっもそこは悲しき自営業者、依頼があれば早速営業と考えたのですが・・・
カードを並べても意味が繋がらず・・・
つまり初心者状態・・・・
(_ _ ??)/◇ ワカラン・・・
崩れ去る信用・・・
(°°;))。。オロオロッ。。・・((; °°)

と言うわけで
日を改めて再鑑定・・・

普段は霊感に頼っていないつもりだったのですが・・・
管理人も霊感に頼っていたのかと感じております。
α~ (ー.ー") ンーー 困った・・・

と言うのも・・・
霊感などなくとも何も困らないと考えていたのですが・・・
もっとも霊感があろうがなかろうが・・・
体調不良ではまともな思考が働かないのですが・・・

いつもならば一見するとバラバラに見えるカードの奥にある事情が透けて見えるのですがつながりません。
と、言うわけで・・・
もう少し体調が戻りましたら記事を投稿します m(_ _)m

at 22:07, 星 良謙・子授け地蔵, ご挨拶

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高橋信次氏の印象

知り合いの整体の先生に治療をしてもらいました。
腕は良いのですが、ただ欠点が一つ・・・
治療効果が高い分、好転反応も強烈・・・
そのため、( ̄。 ̄)ボーーォとしおります。
誰ですか、いつものことだと言っている人は・・
が、しかし・・・
いつものことのような気がしないでも

それはさておき・・・
読者の方からのご質問が
高橋信次についてどう思いますか?小生、高橋信次に傾倒する霊能者に縁あります。この方はどの団体にも所属してません。また霊能者と超能力者の違いを教えて下さい。

高橋信次氏ですか、難しいご質問です。心霊関係に興味を持たれている方であるならば高橋信次氏を知らない方はいないのではないかと思うほど有名な方であり、その影響を受けられた方は多いのではないかと思います。

高橋信次氏についてご存知ない方は こちら

一人の人間としての高橋信次氏は立派な方であると思いますし、その志の高さや人格も優れた方であったと思います。しかし、残された教えとなると少し評価は異なります。

ただこのことに関して深入りしたくないと考えています。その理由として立証不可能なことを幾ら議論したとしても結論などでないからです。つまり心霊世界のことを如何に議論したとしても誰にも実証できないことでしかなく、高橋信次氏の教えのここが間違っていると指摘したとしても高橋信次氏の残された教えを絶対視する人は同じように反論されるだけであると思います。

そのため実証不可能なことを如何に議論したとしても際限のない水掛け論が続くことになります。このように書きますと管理人は心霊現象について書いているではないかと思われるかもしれませんが、これまでの経験から導き出された経験則に限定してます。

極端に書くならば万人が追体験可能な法則論を理想としています。霊能力を持たない人間には体験不可能であるのに万人が追体験可能な法則とは矛盾していると考えられるかもしれませんが、密教における修行の階梯や禅定における階梯にしても同じことではないかと考えています。

特殊な体験ではあるとしても一定の手順さえ守りながら追体験できるならばそれは万人に追体験可能な法則論ではないかと思われます。このことは霊能力に限られた話ではなく、一流の運動選手の技術にしても理論的には万人にも追体験可能であると言うだけでとても真似できないのと同じことではないでしょうか。

しかし、人類の起源や霊界の構造論は話は別となります。また高橋信次氏は自分の前世は釈迦であると主張されていたようです。高橋信次氏の前世が釈迦であったと考えられるのであるならば、原始仏教経典と高橋信次氏の残された教えの整合性を検証されることをお勧めします。

無論、前世と同じ教えを説くことが証明になるとは考えてはいませんが、思想的な高さや論理性、洞察力などを比較することは可能ではないかと思います。また高橋信次氏の前世が釈迦であったしても、常識的に考えるならば、教えを修正される場合には教えを修正した理由を説かれるのではないでしょうか。

尚、霊能力と超能力に関しては長くなりますので機会を改めて投稿します。何せ、今日は早く寝たい気分ですので・・・m(_ _)m

at 23:50, 星 良謙・子授け地蔵, -

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心霊対策と病気治療

今日はあいにくの雨だったのですが・・・
谷汲山 華厳寺まで参拝に行ってきました。

それがどうしたと言われれば、それまでなのですが・・
が、しかし・・・
今日は珍しく弟子?と一緒でした。と言っても単なる知り合いと言うべきなのですが、時々相談に乗っていることから師匠と呼ばれております。

何せ、師匠がこんな人間ですので弟子も至って霊能力に関心がないと言うべきか、「霊能力などいならい」と公言しています。そんな知り合いと帰りの車の中にてから占いなどよりも気功での治療を優先してはどうかと勧められました。

以前は頼まれれば気功にて治療もしていたのですが、占いと気功の両立が大変なことからいつしか気功はやめてしまいました。病人を治せる程度の力を維持しようとなると訓練を継続しなけばならないので大変なんです。
《‖b=(`o´;)=d‖》鍛えてます《♪・・∠( ~ ~)」 もりもり〜
と言うほどではありませんが・・・

知り合いは、「霊能力など欲しいとも思わないが、唯一欲しいのが難病を治す力である」と言っていました。医者に見離された患者が世の中にどれほど溢れているかを知り合いは力説していました。

管理人は自分の霊能力がそれほど優れているとも考えてはいませんが多くの霊能者が自慢げに書いている程度の奇跡ならば何回か経験はしています。しかし、純粋に霊能力だけで難病を治療しようとすると結構大変なのです。

多くの方が期待するような一度か二度の祈願や祈祷にて完治する例は、それほど多くはなく、難病となると一度か二度の祈願や祈祷では症状を抑える程度のことは可能でも完治は難しいのが現実です。

また心霊の働きにて病気を治療する場合には患者の自宅の霊的な環境次第でその効果が大きく左右されてしまうことも少なくありません。つまり仏壇や神棚の神仏がその力を発揮されて不成仏霊が近づくこともできない状態か、逆に不成仏霊だらけの場合かによって事情は大きく異なります。

このことは何も病気治療に限られたことではなく、商売繁盛でも良縁祈願でも同じことなのですが、霊的な環境が整っている場合と整っていない場合ではその効果に天と地ほどの差が生じてしまいます。

そんな経験が「開運の方法」を書いた動機となったのですが、心霊現象について書くことの難しさや心の働きについて書くことの難しさを改めて痛感しています。これまでに不成仏霊だらけの家や怪奇現象などに悩まされている方などの相談に乗ってきたことから理屈は抜きにして対策だけをご紹介していたのですが、本当はそれぞれの宗旨の教えを学ばれているならば心霊現象は自然に解消すると考えています。

ただそれが五年先か、十年先かの問題であり、当面の問題を即座に解決したいとなれば別の話となってしまいますが、それでも霊能者巡りをされるよりは問題の解決は早いのが現実です。

管理人の体験としては霊能者が治せる程度の病気は気功でも治せる病気でしかありませんでした。つまり病人の体力によって病気の治り方が大きく左右されるのと同じように霊的な環境によって病気の治る確率は大きく左右されてしまいます。

そのため霊能者に頼ろうと考えられる前に御自宅の宗旨の入門書でも購入されて少し勉強されるだけでも仏との縁を深めることはできます。神仏が本当に望まれていることは一人でも多くの人が悟りを得ることであり、そのために日々働かれているのです。

at 22:19, 星 良謙・子授け地蔵, -

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禅宗の教え3

落合監督は、小笠原選手の獲得をしないとか、巨人に入団するのでしょうか?
谷選手をトレードで獲得、これで小笠原選手までFAで獲得するとなると・・・
今ですら各チームの寄せ集めのような印象が更に強くなるような気が・・・
巨人ファンではない管理人ですら心配してしまうことから巨人ファンの方はさぞかし複雑な心境ではないでしょうか?

それはさておき・・・
霊能者のサイトでは一番品ないサイトを自負していたのに・・・
こんな真面目な記事ばかりでいいのか・・・
(ー’`ー;) ウーン
と、ここ暫く悩んでおります。

が、しかし・・・
最近はアクセス解析を見ても検索項目がいつも150件を超えています。
つまり検索項目はバラバラ・・・
これも気分次第で記事を書いてきたツケでしょうか・・

と言うわけで悩んでいても仕方がないので前回の続きを書きます。

曹洞宗の場合には公案はあまり重視されないようですが、一般的には禅宗と言いますと禅問答のイメージがあるようです。そこで今回は曹洞宗を少し離れますが、禅問答について少し書いてみたいと思います。

ちょとその前に・・・
一応、曹洞宗の禅と臨済宗の禅の違いに触れておきます。

Q臨済禅との違いは
 曹洞宗の坐禅と臨済宗の坐禅で、一目でわかる大きな違いは、曹洞宗が壁に向かって坐るのに対し、臨済宗では壁に背を向けて坐ることである。さらに坐禅する姿ではなく、内面的な違いをいえば、道元禅師が只管打坐(しかんたざ)という表現で、ひたすら坐禅すること、坐禅に徹することを示されたのに対し、臨済宗では、公案(こうあん)という一種のテーマを与えられて、師に認められる回答を工夫することを目的として、坐禅するのである。 中略
 ただし、曹洞宗の坐禅と臨済宗の坐禅が、まったく相容れないものだというわけでない。大慧と宏智もお互いを認め合っていたし、道元禅師も、正しい仏法か否かを重視されたのであって、臨済宗を排他的に否定されるようなことはなかった。
大法輪 平成十八年十月号 P88−89 花園大学教授 中尾 良信著


これはどちらが正しいのかと言うべきものではなく、悟りに対する考え方の違いであるとも言えるのかもしれません。ただ一般的に禅と言えば禅問答を連想されることから今回とりあげようかと考えました。

が、しかし・・・
ここで禅問答の一例を取上げて管理人が解説すると考えたあなた、あなたは甘い・・
v(ー_ー)チッチッチッ
このへそ曲がりな管理人がそんな全うな記事を書くはずがありません。

一般的に禅問答と言えば意味不明と同意義にも使われますが、禅問答、つまり公案は最初から論理的な回答を期待していない質問なのです。つまり相手を悟りへと導くための質問であることから求められているのは答えではなく悟りなのです。そのため禅問答のやりとりを解説してみたところで何の意味もないのではないかと思います。

無論、管理人も「無門関」は何回か読んでもいますし、本棚の飾りにはなっていますが「臨済録」もあります。また解説書もありますが、解説書を読んでいると解説書を読んでいることに疑問を感じてしまいます。

随分前のことになりますが、ピカソに「あなたの絵には何が描いてあるのか」との質問をしたところ、ピカソが「あなたは小鳥が何を話しているのか考えるだろうか」と逆に問い返したとの話を読んだことがありました。

管理人は昔、絵を描いていましたのでピカソの言いたいことがわかる気がします。絵を解説してもその絵の良さを伝えることはできませんし、また絵の良さは解説して理解できるものではありません。解説で理解できることは作品の背景や意図であって作品の良さではないからです。

特に抽象画の場合には、何が描いてあるかを理解しようとするならば作品の良さを理解することはできなくなると思います。しかし、これは何も抽象画に限られたことではありません。写真のように精密な描写であると褒め言葉のつもりで語られる方がおられますが、その言葉を聞いて喜ぶ作家はいないと思います。

写真が存在しない時代であるならば記録としての精密さは重要であったかもしれませんが現代ではそのことに重要性は少なく、表現としての技術以上の価値はありません。つまり作家が表現したいのは自分の技術ではなく、芸術性なのです。

そのため自分が表現したかった主題が絵を鑑賞する人に伝わらなかったとするならば作家としては目的を達成できなかったことになります。

禅問答もこれと同じではないかと思います。解説書を読んで理解することができたとしてもそれはただ理解した気分になっているだけのことでしかなく、何の意味もないのではないかと考えています。

ちなみに管理人のピカソの印象・・・観ているだけで疲れます。抽象画ならばまだマチスの方が好きです。
ついでに、「無門関」の感想・・・・分かるわけがない。( ̄^ ̄)えっへん と開き直っています。

at 22:14, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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禅宗の教え2

「せんき」と言っても意味の分かる方はほとんどいないと思いますが・・・
「せんき薬師」と言う名前の真言宗のお寺があります。「せんき」とは疝気と書き、スジの病のことだそうです。
と言っても何のことか分からない方も多いのではないかと思うのですが・・・
具体的には神経痛・リュウマチ・腰痛・脱腸などとのことです。
しかし、いま一つイメージがわかないことからご住職にお尋ねしたところ、神経痛やリュウマチなどの体の痛みとのことでした。

せんき封じのお寺は全国でも唯一とのことであり、遠方からも多くの方が参拝されるようです。



せんき薬師 西福院 地図 こちらから

それはさておき・・・
前回の続きですが・・・「(ーヘー;) え〜と
と悩んでおります・・・

管理人は仏教学者でもなければ、得度もしていませんので宗旨の教えについて語るべき立場にもなく、また禅宗と言っても曹洞宗、臨済宗、黄檗宗があり、その教えも同一でもありません。

しかし、管理人も感じているのですが、仏教書はどうしてこんなにも難解なのかと思うことも数多くあります。一般の人間が仏教書を読んだ場合に最初に立ちはだかるのが難解な専門用語であり、その次に待ち構えるのが普段使うことのない漢字だと思います。

更に付け加えるならば哲学用語と俗字と古文です。そのため専門書を読み始めた頃には、漢和辞典・国語辞典・古語辞典・カタカナ語辞典と四種類の辞典を積み上げて専門書を読んでいました。そのため本を読んでいる時間よりも辞書で調べている時間の方が長い本もありました。

無論、仏教用語辞典の購入も考えたのですが、図書館にて調べて見ると意外に役に立たない気がして二の足を踏んでいます。そんな事情を考えるならば、管理人が禅宗について書くことにも少しは意味があるのかと考えて駄文を書くことにしました。

そこで今回はお問い合わせのありました曹洞宗から・・・
と言っても肝心な部分は押さえなければなりませんのでまた引用します。

Q曹洞宗では「悟り」「成仏」とはどのような状態をいうのか

 基本的に、曹洞宗では「悟り」や「成仏」という概念を否定することはしないが、それを、修行の結果として獲得される素晴らしい境涯として捉えない。「今ある自分を改変して<仏に成る>」ものとはしないのである。
 道元は、「悟り」の状態を、「すべての存在が既に悟った状態(仏)としてあること」と定義する。つまり、この世界には、悟っていないもの、仏でないものは存在しないのであって、その意味からは、「成仏」といっても、仏でない自己が仏となることではなく、自分自身が仏であることを認識すること、ということになる。<中略>
 道元はそれを是正するため、「悟った状態」は恒常的に維持されるものではなく、それゆえ、真実に悟った者は、自分を完成された状態とは意識し得ないとした。これによって、修行は必要不可欠なものとなった。道元禅は、黙照禅を母胎としつつ、その欠陥を是正した独自の禅なのである。
大法輪 平成十年十月号 特集 曹洞宗がわかるQ&A P68−69


難しい話は別として修行の継続を重視することだけは理解していただけるのではないでしょうか。この考え方の背景を説明しようとしますと管理人にも手に負えないほどの難解な話となってしまいますが、人間は最初から悟った存在であるとの考え方があります。

本来、悟っているはずの人間であるならば、何故、修行しなければならないのか、そんな疑問に対する回答が修行の継続であると考えたのが曹洞宗の考え方ではないかと思われます。

しかし、この悟りの継続こそが悟りであると考えるならば在家の人間は悟りとは無縁に生きなければならないのではないか、禅宗とは一部の出家者のためだけの教えなのかとの疑問が生まれるのではないでしょうか。

これは別に禅宗の教えを批判するために書いているのではありません。ただ禅宗の教えが出家者を対象にした教えの体系であることを指摘したいだけなのです。管理人が何を書きたいのかと言えば、禅宗のお寺にて開催されている参禅の会などに参加されるのは大変に功徳のあることではありますが、雰囲気に酔っている方もいるのではないかと危惧しています。

管理人の参禅の体験と言ったところで遠い昔の学生の頃でしかなく、社会人になってからは一度も参禅した経験がありません。ただ札所などにて巡礼の集団に遭遇したときにこの人たちは何のために巡礼をしているのかと疑問を感じることがよくあります。

坐禅にしても巡礼にしても何か特別な経験をしなければ修行でないと考えるのであるならばそれは仏道修行ではなく、仏道修行の雰囲気に酔いしれているだけのことではないかと思います。

在家の人間が出家者と同じ修行ができるはずもなく、また在家の人間が出家者と同じ学びをすることは非常に困難なことでしかありません。在家の人間が月に一度、坐禅を体験することは貴重な体験ではあるとしてもそれで仏の教えを理解できると考えるべきでもないと考えます。

管理人は曹洞宗の心霊から少しばかり教えを学んではいますが、心霊が説かれるのは禅の精神にて生きることであって坐禅の実践ではありません。在家は在家としての修行を第一に考えるべきであると言いたいのではないか、そんな印象を抱いています。

では在家にとっての修行とは何か・・・
それは難しい問題ではありますが、手始めに食事の前にお祈りをされてはいかかでしょうか。

五観の偈
一つに、功の多少を計り、彼(か)の来処(らいしょ)を量る。
二つには、己れが徳行の全缺(ぜんけつ)を忖(はか)って、供に応ず。
三つには、心(しん)を防ぎ過貧等(とがとんとう)を離ることを宗とす。
四つには、正(まさ)に良薬を事とするは、形枯(ぎょうこ)を療(りょう)ぜんがためなり。
五つには、成道(じょうどう)の為の故に、今此(いまこ)の食(じき)を受く。

内容は、食事にかけられた手間と施主に感謝し、自分にはそれだけの徳があるかを考え、不平不満を戒め、この食事は修行のためであると自分に言い聞かせることです。
これは僧侶の方々が食事の前に唱えるべきお経とも言うべきお経であることから在家の者には必要ないのかもしれませんが、食事の前に感謝の気持ちを持つだけでも一つの修行となるのではないでしょうか。

at 00:07, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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禅宗の教え

松坂の話題か、小笠原の話題から入ろうかと考えていたのですが、テレビでは先程から津波の警報が流れ続けております。管理人には何がでるわけでもなく、ただ被害が少しでも少ないことを願うだけしかできません。

とある新興宗教の教祖は地震は人類の悪想念が原因であるとか言っていた記憶がありますが、震源地が海の中であるならば、海の魚の悪想念が原因であるとでも言うのでしょうか。管理人には被災に合われた方々の神経を逆なでにするような言葉でしかないと思うですが・・・

などと書いてみたところで・・・
熱心な信者の方は何を言っても聞く耳を持たれないようです。

それはさておき・・・
曹洞宗の話をとのご依頼がありました。
が、しかし・・・・
ウーム (; _ _ )/
何を書こうかと・・・・
悩んでおりました。

時々、書いていますが管理人の信仰は神道が原点です。ただ、神道の教えは解説することが困難な教えです。もっとも正確には分かり易く解説しようとするのが困難と言うべきでしょうか。

教えの体系が明確に残されいないことから仏教のような解説が困難です。教えを解説しようとするならば神道の心霊の説く教えを紹介するのが一番早いのですが、それでは新興宗教と大差がなくなってしまいます。

そのため神道の成立の歴史から神道の教えの根幹や考えた方を解説すべきなのでしょうが国家神道との関係もあり、簡単な話ではありません。ただ仮にそれを解説できたとしてもそれで神道の教えを解説できるかとなれば、また別の話です。

つまり神道の教えの輪郭を解説することはできますが、教えの根幹を伝えることは体験を通してしか伝えられないことが多いのです。

このことは禅宗においても同じです。宗教は実践を無視して知識だけで理解しようとしても本質を理解することはできないのですが、特に禅宗はその傾向を強く感じます。

他力門の場合には難しいことなど考えることなく、日々念仏を称え続けていればいいと言った極端な考え方も可能な教えです。それが良いか悪いかは別としてどこまで徹底できるかがすべてであるとも言える教えです。

では禅宗の場合にはただ坐っていれば良いのかとなるとそうではありません。無論、禅宗と言っても曹洞宗、臨済宗、黄檗宗とあり、すべてを同一に語ることはできませんが、坐禅を瞑想と同一に考えるべきではないと思います。

また真言宗や天台宗の場合には教えの体系が確立されていることから難解ではありますがある程度の段階までは知的な探求が可能です。ただし、知的な探求と言っても実践のための教えであることに変わりはありませんので、知識だけで理解しようとするならば悟りの周辺をうろつくだけでしかありません。

蛇足ながらこれは宗教学者に多いパターンです。宗教学者が専門分野の本を書いている場合には参考になることは多いのですが、個人的な信仰について書かれた本となると途端に内容が薄っぺらになってしまいます。

話を禅宗に戻しますと管理人が感じている禅宗の特徴を書くことが禅宗を知る手掛かりとなるのではないかと思います。

一、出家主義の傾向がある。
一、師弟関係を重視する。
一、不立文字と言いながらも文献が多い

これらの特徴の背景にあるのは、悟りとは個人の体験でしか得られないとの考え方が徹底しているからではないかと思います。無論、悟りは個人の体験を離れてはありえないと言うべきなのですが、このような特徴は禅宗における悟りの定義にあるのではないかと思います。

が、しかし・・・・
管理人が禅宗の悟りについて解説するのは無理がありますので、手元の資料を引用しておきます。

曹洞宗の教義の特徴
 曹洞宗の教義の特徴は只管打座(しかんたざ)・本証妙修の修証観にある。修行はなにも坐禅にかぎらないが、坐禅(只管打座)が諸修行の基本であって、この坐禅を根幹とする諸修行において悟りを目的とせず、この自己の修行がそのまま仏としての行(本証妙修)であるとの自覚をもって行うのを要諦とする。
 したがって、修行における威儀作法が重んじられ、行持(ぎょうじ)は綿密であり、厳粛に行われる。
 このような修証観から、「曹洞宗には悟りがない」とか、「悟りを軽んずる」とか言われるが、そうではない。ただ、悟りを求めないのである。悟りを求めたら、その修行は打算となる。打算の修行で得られるのは所詮、打算の悟りであり、真の悟りとは言えない。悟りを求めない修行のところにこそ悟りは現成(げんじょう)するのである。無所得・無所求・無所悟の行でなければならない。

日本仏教十三宗ここがちがう 大法輪閣 P163−164


管理人がどれだけ曹洞宗の教えを理解できているか自信もないことからあまり曹洞宗の悟りについて解説することは避けたいのですが、修行し続ける日々を何よりも重視されるとの印象があります。

管理人は曹洞宗の教えについて詳しく解説することにあまり意味があるとは思えませんが霊能者の立場からならば何がしかの意義もあるかと思われますので次回はそんな観点から少し解説してみたいと思います。

at 23:04, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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