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反省・後悔2(耕心)

前回、後悔と反省について書きましたが、ベンキーマン様より「本当の反省とは何かを書かなければならない」という指摘をいただきました。ごもっともです。
実はすでに用意していたのですが、あれから投稿する機会がなく、今日コメントを見て「しまった!遅かった」と感じています。

後悔した後にそんな自分を責めるのは、別の問題にすりかわり、新たな苦悩を生むだけでどう考えても後悔の延長にしか過ぎず、新たな苦悩を重ねることにしかならないのです。
この場合、自分を責めてどんな学びが得られるというのでしょうか?
このような人からは失敗を元に自分を活かそうとする心は見出せません。そこに「学び」が無いのです。

では、何が本当の反省なのか?
失敗を活かし、自分を活かす道を探すことが「本当の反省」ではないでしょうか。これは至極当然のことですね。
しかし、このときに積極性が加わりすぎると開き直りになりますし、消極性が過ぎると後悔の上塗りになります。「当てつけてやろう」とか「恥」といった感情を排した仏の智慧、即ち「プラスマイナス0」「中道」の心が大切なのです。

自分のことなら簡単かもしれませんが、人の心を大切にされる方ならば、たとえそのことがわかっていても「それは後悔であって反省ではない」などと相手をバッサリ切ることはできないと思います。
そこは不動の慈悲心をもって引き寄せ、利剣で切らなければなりません。本当に相手のことを思うなら、相手の立場になってその言葉にじっと耳を傾け、共に泣き、最後には相手の言葉を使って「本当の反省」を伝えなければなりません。たとえ「あなたには分からない」と相手に嫌われようとも。
すぐには気付いてくれないかもしれません、一年たっても、十年たっても、今生でも、来世でも。けれど信じて伝え続けるしかないのです。

何の力もない私にできるのは、そんなことぐらいです。

at 19:14, 耕心, -

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邪気の鬱積と生気の枯渇15(星)

いつもの如くやる気のない管理人ではありますが・・・・
α~ (ー.ー") ンーー
何故か、午前中から記事を書き始めました。
実は昨日、燃える塵を出すのを忘れたのに続き、今日はプラスチックの塵を出すのを忘れました。・・・・
つまり( ̄。 ̄)ボーーォとしていると言う事でしょうか?
なのに記事を書いている?

と言うことは書かされているか?
ダメ! (T∇T )( T∇T) ダメ!と叫んでも虚しい抵抗・・・
やはり神霊被害者の会を設立せねばと考えています。

それはさておき・・・
えみ様・452jp様、いつもコメントありがとうございます。

コメントに関連して少し補足をしておきます。
人の存在価値に優劣はないのですが人の評価には優劣はあります。その優劣の評価を自分の存在価値であると考える人は多いのです。資産があるから自分は偉い、高い地位にあるから自分は尊敬されて当然であると考えている人は多いのではないでしょうか。

また逆に才能がないから自分には存在価値がない、いつも何をしても失敗ばかりしているから自分には価値がないと考える方も数多くいます。そしてそんな人を利用しようとするのが相手を支配しようとする人たちなのです。

お前は俺が教育してやるから俺の言うことを聞いていればよい式の人間は世の中に数多くいます。これらの人に共通しているのは自分は非常に優れた人間であり人を指導できる人間であるとのうぬぼれとも言えるような虚栄心が強いことです。

そして傍から見ているならばどうしてこんな人間の言うことを聞いているのかと思ってしまうのも実は自分の存在価値を認識できないことが原因であるのです。自分の存在価値を認識できない人は自分に自信がなく、誰かに頼ろうとします。そしてそれが自分を支配して利用ようとしているだけの人間であったとしても誰かに依存することで安心しているのです。

そのため自己否定の気持ちの強い人はそれが見せかけだけの愛情や上辺だけの知識しか持たない相手であり、また相手を支配して隷属させることだけしか考えていない相手であるとしてもそれを自分に対する愛情であると自分を納得させてしまいます。

つまり両者はお互いに依存している関係であると言えます。支配欲の強い人は相手を精神的に支配することで自分の相対的な優位を認識することで自分の存在価値を認識しようとし、逆に支配される人は相手に支配されることで自分の中の不安を解消しようとするのです。

支配されることで自分の心の不安を解消するのは優劣の比較とは関係はないと思われるかもしれませんが優劣の比較にて自分の存在価値を認識できないがために不安に陥るのです。その不安を解消するために誰かに隷属することで不安を解消しようとするのですがそれは根本的な問題の解決ではないことから不安を感じ続けます。

同じように支配する側は常に相手を支配し続けなければ自分の権威を確認できないがために相手を縛ろうします。しかしこの場合にも相手を支配することでしか自分の存在価値を認識できないがために常に心は不安となります。

また誰かに依存している人にしても依存することで自分の存在価値を認識することができるわけではないことから際限のない同情を求めることになります。しかし同情される方はたまったものではありません。何せこう言った人の愚痴には際限がありませんのでエンドレステープのように際限なく愚痴が続きます。

これらの問題を解消しようとするためには心の奥底に眠る不安感を解消しなければなりませんがこの不安感を解消する方法の代表が信仰となります。また専門家のカウンセリングもその方法論の一つであると言えます。

ただいずれの方法を選択したとしても人間の心とは複雑怪奇であり、簡単に理解できると考えるべきではありません。簡単に理解できると考えるのであれば自分の理解できる範囲にてすべてを理解していると錯覚しているだけであり、分かれば分かるほど疑問が増大してしまうのが本当ではないかと考えています。

つまり素人の手に負えない問題であると言えます。そのため自分の力で問題を解決しようとしても難しい問題です。

at 11:19, 星 良謙・子授け地蔵, 邪気の鬱積と気の枯渇

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邪気の鬱積と生気の枯渇14(星)

実は、週末にお墓のセミナーに参加していました。
何せ、開催されたのが師匠
当然の如く ( ^ ^)r゛゛  おいでおいで 
( ^^)/ m(..m) m(..m)ははっー

週末は休みたかったのですが・・・(- .-)ヾ ポリポリ
などとは口が裂けても言えず。(T_T) ウルウル

何せ管理人は真宗の家に育った人間
般若心経も読まなければ、追善供養もなし、正式には位牌もなければ(法名軸と過去帳だけ)、お施餓鬼もなし(浄土宗はあるようです)、当然の如くお墓に関してもこだわらない仏教界の異端児の宗旨

そのためお墓に関する知識は限りなく素人・・・(^^;;;
そんなわけであれこれ収穫の多い二日間でした。

それはさておき・・・
耕心さんの記事と重複してしまいますが心の壁の続きを書きます。前回は反省について書きましたが管理人の書きたかったのは感情論と現実の認識の問題です。つまり耕心さんの書かれた記事の趣旨と同じようなことです。

このことを少しばかり掘り下げて解説しますと相対的な価値の認識と現実の認識の関係について説かなければならなくなります。このことは以前にも書きましたが現実を如何に認識するかの問題です。

現実を如何に認識するかとは同じ現実を前にしたとしてもその受け取り方は人によって異なります。これはある意味仕方がないと言えますが心に壁を構築している人は現実を現実てして認識しようとしない現実があります。

つまり如何なる現実を目の前にしたとしても自分に都合の悪い現実を否定したり、過小評価しり、或いはその価値を否定することや議論をすり替えることで自分の価値観を守ろうとしてします。それが自分の心の中のレンガ職人であることは以前にも書きました。

そしてその原因が価値の認識を相対的な評価に依存することであることも書きましたがこれを理解できる方は非常に少ないのが現実です。この相対的な評価と価値を厳密に区別できることが簡単にできるならば宗教における修行など無用であるとも言えます。

宗教において目指すべき境地とは外部的な要因にて心が揺らぐことのない心の静寂であり、心の平静であると言えます。そしてその境地に必要不可欠なのが現実をありのままに受け入れることではないかと思います。

現実を現実としてありのままに受け入れて心が乱れることがない境地とはあらゆる偏見を離れた境地であると考えます。ではそのあらゆる偏見を離れた境地に到達するためには自分の中に存在する偏見を離れる必要がありますが、それは簡単なことではありません。

ではどうして偏見を離れることが困難であるのか、その理由を守護霊は相対的な評価にて自分の価値を認識していることが原因であると説きます。

例えば前回の記事にて耕心さんは「人は悲劇のヒーロー・ヒロインになりたいものだ」との話を紹介されていましたがこれも自分の価値を相対的な評価にて認識していることが原因であると守護霊は説きます。

自分の価値を相対的な優劣で認識することの弊害は何も相手を見下すことだけではありません。自分が悲劇の主人公であると認識することで自分の存在価値を見出そうとする人たちもいるのです。

つまり自分が世の中から評価されないのは自分は数多くの不運に遭遇しているからであり、自分は世の中の人々から同情されて当然であるとの考えがそこにあります。つまり弱者の開き直りとも言うべき傲慢さがそこにあります。これらの人々に共通しているのは救いの手が差し伸べられても拒絶することが特徴です。

困っているのであるならば救いの手を差し伸べられたならば積極的に自分の不運に立ち向かい、その不運を克服しようとするのが当然であると思われるかもしれませんが、悲劇の主人公の願望を持っている人が求めるのは同情であって問題の解決ではありません。そのめ救いの手を拒絶して多くの人から同情されることだけを求めます。

それとは逆に自分は成功者であると考える人や自分の考えにて多くの人を指導できると考えている人は自分の考えで相手に自分の考えを押し付け、相手を自分の考えの枠に押し込めることが相手のためであると考えます。これは相手を支配しようとしているだけのことでしかないのですがそれに気付かない人が多いようです。

つまり自分の考え方が間違っていることを認めるならば自分の価値観が崩壊して自分の存在価値すら認識できなくなってしまいます。そのため現実が如何に破綻していようとも常に自分は指導的な立場にあると主張しなければならず、相手に自分の考えを押し付け、また相手を支配しなければならなくなります。

これらに共通しているのは自分の存在価値を優劣の評価でしか考えることができないことがすべての原因であると言うのが守護霊の考えです。

at 02:12, 星 良謙・子授け地蔵, 邪気の鬱積と気の枯渇

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後悔・反省(耕心)

酒にだらしない先輩が、ある日「二日酔い、後悔すれど反省なし」と描かれた帽子を被ってきたことがあり、「何とこの人にピッタリな言葉だろう」と思いつつ、パロディ商品でありながら「深い」と関心したことがありました。
後悔→反省が正しい順序なのでしょうが、感情豊かな日本人は後悔する自分に酔い、そこで満足してしまう傾向が強いと思います。
これは星様が「邪気の鬱積と生気の枯渇13」で書かれたことや子授け地蔵様の「学び」の話と多少リンクします。

先日ある人に「人は悲劇のヒーロー・ヒロインになりたいものだ」と言われましたが、思い当たることは数知れず、私の周りは不幸自慢をする人ばかりであることに気付きました。そしてそのような人たちは後悔はしても反省をしていないのです。つまりその不幸から何も学んでいない、更に言うとその不幸に乗っかっているのです。乗っかるとは「こういうことがあったから」という言い訳に使うのです。それを反省したことと勘違いしている人は大勢います。新たな苦悩はこのような短絡的な考えからも発生します。
後悔と反省の違いをよく理解していない人が何と多いことか。

この世は苦の世界です。では私達は何のために生まれ、何のために生き、死ぬのか。
「学びのため」です。
そのためにも、何かで後悔した後は、必ず反省しましょう。学びはそこから生まれます。

at 21:11, 耕心, -

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現世利益とお試し(星)

前回、続きは明日と書いたことを少し後悔しています。 ウーン /(-_-)\
明日どころか、明後日になっても投稿できず。
しかもこのところアクセス数も低迷・・・・ウーム (; _ _ )/

何とかせねばと考えていますが管理人も個人事業主、子授け地蔵さんも少人数の会社に勤務のため少しばかり仕事が重なるとパニック・・・
そして耕心は真面目すぎると言うか、適当に書けない方・・・

と言うわけでこのところ四人目の投稿者をスカウトしていました。おかげさまで来月の上旬には新たな投稿者に投稿していただけそうです。それはそれで何かと手間が掛かりましてそのことがまたまた投稿できない原因になっていました。

が、しかし・・・
また五人目と六人目の投稿者候補とも現在交渉中です。まだどうなるかは不明ですが候補者は全員伝統的な宗教教団との関係がある方ばかりです。ただし所属している団体に迷惑がかかることを恐れて名前をだされない方もいるかとは思います。

別に在家の方を排除する気持ちはありませんが、読者の皆さんの学びになるような記事を書いていただけそうな方と思ってさがしていましたら伝統的な教団に関係する人たちばかりとなってしまいました。また本当は女性の方に投稿をお願いしたかったのですが、今回は見送りになりそうです。

それはさておき・・・
蛇口療法には全くコメントなし・・・α~ (ー.ー") ンーー
何が問題なのか?
などと考えておりました。

それはさておき、その2
前回の続きは暫く先になるかと思います。理論的な解説をしようかと考えていたのですが疲れすぎて書く意欲がありません。(−−; ゲソ〜

それはさておき、その3
同上の理由にて気の枯渇についても暫く先になるかと思います。

それはさておき、その4
古い記事を修正しているのかとのお問い合わせがありました。本来であるならば修正すべき記事も多いのですが投稿すらできない状態が続いていますので修正できないでいます。ただ先日、難癖とも思えるようなコメントがありました。反論を書くのも面倒なことからコメントを削除して記事も修正しました。

日本人は議論ができない国民ではないかと思うことがありますが、精神世界の話となりますとなおさらその傾向が激しくなります。しかし管理人は水掛け論のような不毛な議論をするつもりはありません。またご自分の主張を展開されたいのであるならばご自分でHPなり、ブログを開設されてそこで主張することをお勧めします。

それはさておき、その5
先日、ある方から少し変った質問を受けました。
その方は縁あって歓喜天(聖天)を参拝される機会があったのですが、その後で財布の落し物を拾われる経験を繰り返されたとのことでした。そのためその方は現世利益はこのような形にて与えられるのかと疑問を持たれていました。

この現象を解説するのに二つの観点から解説することができるのではないかと思います。一つには試されているとの考え方です。そしてもう一つが低級霊の悪戯です。結果としてはどちらも意味は同じであり、受け止め方の違いです。つまり落し物をどのように扱うかを神仏に試されていると考えることもできますし、低級霊に惑わかされているとも言えます。

それが神仏の試しであるならば落し物を自分の物にしてしまうならば神仏のご加護を自分から断つ行為になってしまいますし、低級霊の惑わしであるとするならばそれを自分の物にすることで低級霊との縁を深めてしまうことになり、神仏のご加護を受けることは難しくなります。

at 00:11, 星 良謙・子授け地蔵, 読者からの質問

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釈尊像(耕心)

少し前に、子授け地蔵様の記事に「すばらしい人の真似をする」という一文を読んで、私の師も、「仏の真似をして生きる」とおっしゃったのを思い出しました。

実践してみようと思い始めてから、私の心の中には釈尊がいつもいらっしゃるような気がします。
真似をする対象がいないと始まらないので当然のことではあります。
しかし、私の中の釈尊は、私の意識とは別のところで動かれているようです。「なんでそんなお顔をされるのか?どうして??」と思うことも多々あります。
よく考えてみると、いつも冷静な自分とは…釈尊???

糞掃衣を身にまとい、合掌してすすす…とひどくゆっくり動かれています。
話されることはありませんし、泣いたり怒ったりされることもありません。
微笑ともつかない笑みをたたえ、ただただすすす…と歩き続けているのです。
「静か」という表現が本当にぴったりです。
そういえば、私が怒ったりしたときはひどく悲しそうなお顔をされます。
また、私が悲しむときも一緒に悲しんでいらっしゃるような…。
友達といて楽しいときや、馬鹿騒ぎをしているときはいつもどおりのお顔です。

弘法大師を始め、各宗派の御祖師様を思い浮かべても皆さん同じように静か(日蓮
聖人だけはなぜか怒っていらっしゃいます)なのですが、釈尊は更に静かです。

何かの判断に迷ったときは、心の中の釈尊のお顔をお伺いしているのかもしれません。
その度に笑顔で頷かれたり、困ったお顔をされたり、悲しいお顔をされたり。
少しでもお心に沿うことができているような気がすることはありますが、真似ができているわけではありません。(もちろん完璧に真似をすることは不可能ですが…)。

とりとめも無い話になってしまいました。
あなたの心の中の釈尊はどんな方ですか?

at 23:41, 耕心, -

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嬉しい・楽しい・気持ちいい(子

たしか以前にも書いたような気がしますが、改めてお話します。

喜怒哀楽といいますが、人間だけに与えられた感情ではありません。

犬を見ていれば分かると思います。
猿や象も仲間が死んだときには哀悼の意を表します。
しかし、それはほとんど本能の発露です。
人間は理性があるので、あるいは男は泣くなとか、人前で感情を出すな、などの躾けをされてきました。

その結果、感情表現の下手な人が増え、ストレス社会になっているのです。

ただ、本能のままに喜怒哀楽を出すのではなく、人として理性を持った喜怒哀楽をきちんと表現しましょう。

特に、【喜】と【楽】を出すことで、免疫力が高くなることは、医学的に証明されています。
顔の表情だけでも効果はあります。

喜怒哀楽をきちんと表現しましょう。
だんだん元気になるはずです。

子授け地蔵

at 04:24, 星 良謙・子授け地蔵, 子授け地蔵

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邪気の鬱積と生気の枯渇13(星)

このシリーズも気が付けば13回目 (-_-)ゞ゛ウーム
いいのか、悪いのかはわからぬままに書き続けているような・・・
が、しかし・・・
邪気の鬱積ばかり書いていのに気の枯渇に関しては何も書いていないような気も・・
などなど悩みながら書いております。

前回の続きと言っても間隔が開きすぎてしまっているのですが・・・
前の話を誰も覚えていないような気も?
\(^-^\) (/^-^)/ソレハコッチニオイトイテ...
と言うか、都合の悪いことはすぐに忘れる管理人

確か前回に心に壁を作っている人が身近にいる場合について書いたような気が・・
と言うわけで心に壁を作っている人が身近にいる場合について書きますとこれが実にやっかいとなります。

これまでに数多くの人の開運の相談に応じてきたのですが、身近に新興宗教の熱心な信者や怪しげな霊能者に強度の依存をされている方、自分の信念や行動に間違いがあるはずがないと堅く信じて人の話を聞く気持ちがない人がいる場合には問題を解決することが非常に困難となります。

その理由として一つには霊的な原因がありますがもう一つは心の問題があります。つまり相手が人の意見を聞きいれる気持ちがなく、自分の考えの間違いを認めようとしない人がいる場合には話し合いの余地が全くなくなります。

別に人の性格や考え方が変る可能性を否定するつもりもなく、また人間の学習能力を否定するつもりもないのですが、人間の思考の根幹の部分について大きく変わることは非常に難しいと感じることがあります。それを理論的に説明するとなれば非常に難解な話となりますので少し分かりやすく書きますと反省の段階にて説明できるのではないかと思います。

管理人はこのブログにて一度も反省について説いたことがありません。その理由として管理人は反省について疑問を感じることが多いからです。どうも日本人の反省とは感情的なレベルにて善悪を考えているだけであり、問題の本質を探究することよりも感情的なレベルにて問題を解決しようとしてしまう傾向があります。

これは今に始まったことではなく、日本においては明治まで論理学がなかった事実を考えればお分かりになるのではないかと思います。では日本人は何を反省の基準にしているかと言えばその多くが情であり、感情です。

しかし感情の段階にて反省することは問題の本質を見失ってしまいます。これは何を意味しているかと言えば相手が何を怒っているのか、相手に何を迷惑をかけたのかすら理解できずにただ相手を怒らせたことだけを反省する結果になります。

これでは何の問題の解決にはありません。相手を怒らせたことを反省するだけであるならばそれは問題の本質を解明することを放棄しているのとおなじでしかありません。相手が何を怒っているのかを考えることが反省の第一歩であり、相手の意見との相違を認識する出発点となります。

これが出来なければ失敗に学ぶことはできず、また過去の清算や決別も困難となります。
「(ーヘー;) え〜と
ここまで書いたのですが、深夜になってしまったことから続きは次回とします。


at 01:05, 星 良謙・子授け地蔵, 邪気の鬱積と気の枯渇

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第六感について(子)

ベンキーマン様のコメントからお話を広げたいと思います。

確かに自分の五感を以て体感したことしか、納得できないのが普通の方達でしょう。
センスも重要な要素だと思います。

では、ひらめきだったり第一印象は、あるいは胸騒ぎや虫の知らせなどはなんでしょう?

これが第六感というものです。
私が常々言っているのは、第六感を大事にしましょう、鍛えましょうということなのです。
魂の声を聴くことも、第一印象を大事にすることも、突き詰めれば第六感なのです。

始めから、そんなことは無理だと決め付けていては、自分の成長はありません。
五感だけに頼っているから、上手くいかなかったり失敗したりします。
五感をフルに使いましょうと、以前言いましたが、さらに第六感を鍛えれば、少なくとも今の自分からは脱却できるはずです。

また、体験していなくても、想像力があればイメージトレーニングはできます。
なぜ成功した経験の無い人が、成功するイメージを持てるのでしょう?
【想像】と【イメージ】は日本語と英語の差だけです。
イメージはできないけど、想像はできる、なんてばかなことはありません。
どちらも同じです。

【想像力】を働かせましょう!
想像力こそが、明日に希望を繋ぐエネルギーなのです。
想像することが、第六感を鍛えることになります。

皆さん、想像しましょう!
子授け地蔵

at 00:07, 星 良謙・子授け地蔵, 子授け地蔵

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私の場合3(耕心)

私の場合シリーズ第3弾です。

私は、得度したいと思いはじめて少したった時、「自分は僧にならなければ生きていけないのではないか」という気持ちに気付きました。
他人のためにとか、親友のためという誓願が全く無くなっていたわけではありませんが、なぜか「生きていけない」という思いのほうが強かったです。しかし、決して自殺や死を予感したわけではありません。

この焦りにも似た気持ちを分析してわかったのが、「自分の心に沿わない生き方をするのは本当に不幸だ」という心です。
では、自分の心に沿うこととは何か?それは幸せと感じること。では幸せとは何か?
おいしいものを腹いっぱい食べること、人から賞賛されること、お金持ちになること…。
でもそうなった後は…繰り返すだけだ。欲は新たな欲を呼ぶ。
欲の輪廻の苦しさはイヤというほど思い知っています。
じゃあ、いったい何をするば幸せになるんだろう。
うん?
そもそも自分だけの幸せを本当の幸せと呼べるのか?そんな幸せは虚しいです。
いったい何が本当の幸せと言えるのか…。

こんな問答を時間をかけて繰り返した結果「本当の幸せとは何か」がわかったのです。

自分だけの幸せなんて有り得ない。それはただの満足に過ぎない。
人も幸せだからこそ自分も幸せなのではないか。
人を幸せにしようとすること、そこに自分の役割を見出すこと、人の幸せを心から願うこと、それが「本当の幸せ」に繋がるのではないか。

私の焦りは晴れました。そして、本当の幸せを思いっきり追求するために得度したくて仕方が無いのだと気付きました。結局私は自分の幸せを貪欲に追求するために、得度を望んだのです。
皆様が思っているほど崇高な心では決してありません。
しかし、欲の輪廻から解き放たれた気がしました。

at 20:25, 耕心, -

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