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仏壇の話(星)

実は二十七日、二十八日と旅行に出掛けていました。
修業の旅と言うほどの旅行ではありませんが、竹生島と倶利伽羅不動に参拝してきました。波兎さんと耕心さんに連絡をとりましたところお二人とも管理人が祈願していたころに強烈な眠気に襲われていたとか・・・

α~ (ー.ー") ンーー
別に他の方を眠らせるために祈願している気持ちはなく、また自分の力を自慢するつもりもないのですがどうも管理人が祈願をしますと多くの読者の方が眠気に襲われるようです。

二十七日、二十八日の昼からやたらと眠かった方・・・
御迷惑をお掛けしました。m( _ _ )m

それはさておき・・・
昨日、仏壇屋の社長と話をしていました。
仏壇屋と言ってもお客さんは業者やお寺関係が中心であり、あまり小売には力を入れていないお店です。仏具や仏壇の知識も豊富であり、信頼できるお店であることから(線香などの消耗品は近くで求めますが仏具関係は以前からこちらで求めてます)あれこれ話をしていました。

話の流れの中にて管理人が霊障相談にてお伺いしたお宅の仏壇の多くが宗旨の仕来りを無視した無茶苦茶な状態になっていると嘆きましたところ、社長曰く、「素人が売っているから」との話でした。

これは他の店でも聞いた話なのですが家具調の仏壇が流行し始めて以降は仕来りを無視した仏壇が主流となり、専門知識のない業者が増えていることやお寺の住職も仕来りを無視することに関して容認する傾向が強いことから売る側としても口出し出来ないと嘆かれていました。

確かにネットにて仏壇や仏具について掲載されている仏壇店などでも「?????」と疑問符の山となるホームページが少なからずあります。そのため専門店と言っても信用できないのが本当のところのようです。価格にしても定価があってない世界であることから同じ商品を相場の倍以上にて売られているお店もあるとか・・・orz

これは仏壇や仏具に限られた話ではなく、墓石やパワーストーンなどにても似たような状況です。墓石やパワーストーンの世界も専門知識のない人間が売っていることが多いのが現状です。特に石に関しては五年や十年では見極めることが困難な世界であると聞いています。(管理人は気の感覚で見極めています)

管理人は仕事柄、悲惨な例に幾つか遭遇しています。仏壇や墓石はそう簡単に買い換えることはできない商品です。東海地区の方であるならば優良店を御紹介もできるのですが購入を検討されている方はくれぐれも御注意ください。

at 13:35, 星 良謙・子授け地蔵, 管理人のひとりごと

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信仰と理解 (波兎)

自分の性格と職業のせいでしょうか?
自分が信仰を持っている事をお話しするとよく驚かれます。
どうも自分は傍目には無神論者にして唯物論者に見える様でして…orz
そして稀に「え!?宗教やってるの?」と聞かれる方が居られるのですが、「宗教とは"やる"ものでしたっけ?」と悩んでしまう波兎です…orz

さて"信仰"とは信じ仰ぐと書きますが、多くの場合に「信じる」という意味合いでのみ使用されている様に感じます。
一応、ここで信仰について国語辞典で引いて見ますと、
【信仰】(しんこう)
- (名)スル
(1)神仏などを信じ崇(あが)めること。経験や知識を超えた存在を信頼し、自己をゆだねる自覚的な態度をいう。
とあります。

個人的には信仰とは本来「信じる事」と言うよりも「理解する事」なのではないかと感じています。
そして理解した結果として信じ仰ぐという態度や在り方に至るのではないかと思うのです。
つまり信仰の本質とは理解という状態であり、まずは信心するという行為や行動そのものがありきでは無いのではないかと考えています。

そして信仰が行為や行動そのものではなく態度や在り方という状態であるとするならば、信仰は直接的には現世利益には結びつかない事になるのではないかと思います。
しかしながら間接的には、より理に適った理解がより理に適った判断を生じる事で現実的な困難に対してより理に適った対応を選択することが可能となり、それが結果としては現世利益の一側面を為すのではないかと思います。

そうすると"理解"と言う事が重要な意味を帯びてくると思うのですが、
「では果たして何を理解しなければならないのか?」
という疑問が生じるべくして生じると思います。
一応、ここで理解について国語辞典で引いて見ますと、
【理解】(りかい)
-(名)スル
(1)物事のしくみや状況、また、その意味するところなどをわかること。納得すること。のみこむこと。
(2)相手の立場や気持ちをくみとること。
(3)道理。わけ。また、道理を説いて聞かせること。
とあります。

では果たして理解するべく事と言うのは一体何なのでしょうか?
経典なのでしょうか?教えなのでしょうか?言葉なのでしょうか?

という風に考えてみたものの、人にはそれぞれの事情とその背景がある訳ですから理解するべく事はその時々によって異なると思われます。
結局の所は、それぞれの事情に於いて理解するべく事を積み重ねて行く事でやがて大成するのかもしれませんね。
そしてそこには何も特別の事が求められるとは限らず、例え一時的に後退しても良いのです、日々の実践の中でほんの小さな理解であったとしても理解を積み重ねて行くことこそが大切なのではないかと思う今日この頃の波兎でありました。

波兎

at 02:02, 星 良謙・子授け地蔵, -

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出会い(子)

出会いは突然にやって来ます。

人との出会い・本との出会い・物との出会い・出来事との出会い。

しかし、そこには偶然はないのです。全て必然なのです。
今の貴方に必要な時に、必要なものと出会うのです。
貴方に必要なものは、すでに用意されているのです。
ただし、貴方がいくら望んでも、本当に必要で無い時には出会うことはできません。
逆に、何も思っていない時に出会えます。

例えば、人からある本を薦められても、あまり興味が湧かなかったりします。
ところがしばらく経って、何気なく本屋で買ったものが、以前あの人から薦められたものだった、ということはありませんか?

それがその本と貴方が出会う時期だったのです。

人との出会い・物との出会い・出来事との出会いも同じことです。

今の貴方だから出会えたのです。
それが良くても悪くてもです。

良ければそれで良し、悪ければそれが貴方の学びなのです。

何故だぁ〜!と怒るのではなく、素直に学びだと受けとめましょう。

学びだと気付けば、明日はきっと貴方にとって素晴らしい日になるでしょう。

合掌

子授け地蔵

at 23:49, 星 良謙・子授け地蔵, 子授け地蔵

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降魔折伏2 (星)

このところ何故か、真面目な記事ばかり投稿しています。
こんなことで良いのかなどと悩んでいます。ウーム (; _ _ )/

管理人としては軽い記事を投稿したいと考えたりもするのですが
何分にも御質問が遅れていますので・・・(- .-)ヾ ポリポリ

と言うわけで前回の続きを書きます。
前回は降魔折伏と呪いとは異なることを書きましたが今回は神霊がどのような働きをされるのかについて少し書きたいと考えています。

ただいつものことではありますが映画や小説のような手に汗握るような霊能者と怨霊の対決の話はありませんので御了承ください。m( _ _ )m

さて今回は過去に管理人が降魔折伏を祈願した場合の神仏の働きについて少しお話したいと思いますがこれは管理人の体験でしかありません。そのため管理人が体験したことが神仏の働きのすべてであると考えないでください。また管理人が体験した内容に関しても管理人が認識できる範囲の動きであり、管理人の推測で書くことも含まれます。

これは今回の記事だけでなく心霊現象全般に共通していることです。管理人からするならば別に恐ろしさも感じない程度の邪霊であっても別の霊能者からするならば魔王と感じることもあるでしょうし、その逆の場合もあるかもしれません。

つまり心霊の世界は個人の主観でしかないことから霊能者がどのような表現にて悪霊や怨霊との闘いを描写したとしてもそれが客観的な事実であるとは考えないでください。

さて前回、神仏からするならばどんなに極悪非道な人間も救済の対象でしかないと書きましたが神仏が具体的に動かれる場合もその前提は同じです。そのためどんな相手であるとしてもその根本的な精神としては慈悲であり、憎しみではありません。つまり罪人であるから抹殺してしまおうとか、罪をあがなわせるために苦しめようとのお考えはありません。

しかし神仏が如何に慈悲の存在であるとしても自分の欲望のために多くの人に迷惑をかけ続ける人間や多くの人を苦しめ続けている人間を許されるとは考えるべきではないと思われます。神仏の慈悲は迷いの中にある者を仏教で言うところの悟りの世界に導くことであってただ誰でも許すことではないのです。

では現実に神仏は極悪非道な行為を繰り返す人間に対して如何に動かれるかを書きますと管理人の過去の経験では最初にその人間を陰で操っている悪霊や怨霊などを引き剥がしにかかられました。

多くの場合には極悪非道な行為を繰り返す人間の陰にはその人間を操っているとも言えるような悪霊や怨霊がいることが多いのです。これは卵が先か鶏が先かの話と同じで邪悪な心を持つがために悪霊や怨霊を引き寄せているのか、それとも悪霊や怨霊がその人物に影響を与えているから非道な行為を繰り返すのかは分かりませんが結果としては多くの場合には悪霊や怨霊に影響されているようです。

もっとも神仏が具体的にはどのように働かれているかは管理人にも良く分かりません。管理人に分かることは神仏が働かれ始めるとその人物に影響を与えていた悪霊や怨霊が排除されることからその人物はそれまで持っていた力を急速に失い始めることです。

これは少し解説しなければならないのかもしれませんが霊能力を持たれていない方でも相手に何らかの指導霊がいる場合には何か言葉では説明することが困難な威圧感やオーラのような物を感じるていることが多いのです。また本人の意思とは無関係に心霊が働く場合もあります。

一般的には神仏の働きとして解説されることが多いのですが霊的な法則ですので別に神仏の働きだけに適用されるだけでなく、悪霊や怨霊など邪悪な存在であるとしても事情は同じです。神仏は人々の幸せのために働かれるのとは逆に悪霊や怨霊は自分の自己顕示欲や自分の感情のままに働くと言う事でしょうか。

つまり何故、こんな人間が社会的に力を持ち、権力を維持しているのかと悩む方も多いのではないかと思いますがその人間に力を与えている存在がいると言う事です。言うなればその力の源とも言える存在が排除されてしまうことからその人間は急速に力を失い始めることになります。

またそれだけでなくその人間の取り巻きとも言うべき人間にも神仏が働かれる場合もあると力の失い方はより加速されます。その結果として本人は自分の過去の言動を振り返らなければならないような状況に陥ると言えます。

如何に神仏の力が偉大であるとしても人間の心は支配できません。そのため神仏の導きとは気付きであり、また気付きを与えるための導きてあると言えます。その導きが時には本人には試練となる場合があるとも言えます。その気付きを与えるための祈願が降魔折伏なのです。

at 23:07, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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感情表現について(子)

みなさま、ご無沙汰ばかりで申し訳ありません。

何とか仕事も落ち着いたのかと思いますが、この先はどうなることか・・・。

影武者殿の投稿を受けて、いぶっきー様のご質問にもお答えしたいと思います。
喜怒哀楽を表現することと、わがままを言うことは、明らかに違いますよね。

喜怒哀楽(感情)を表現するのに感情は要りません。決して感情的になってはいけないのです。
あくまでも自分の今の気持ちを、冷静に表現することが大切です。

そのためには、まず自分の心が何を感じているのか、客観的に把握しなければなりません。
そして、「私は今、こう思っています。だから嫌です」とか「つらいです」と言えば良いのです。
特に嫌なことに対して感情的になると、必ず軋轢が生じます。
感情を語るのに、感情を介入させては、自分自身も混乱してしまいます。
あくまでも、冷静に且つ客観的に自分の心を分析しましょう。
そして、論理的に話すのです。
そうすれば、会話も成立するでしょう。
会話が成立すれば、お互いの妥協点も見つかります。
わがままとは、自分の思いを押し通そうとして、感情が出てくることです。
例え言葉にしなくても、頭の中に感情が渦巻いている状態です。

そうであるならば、尚更冷静に表現する必要があります。

ただ、今まで感情表現ができなかった人は、まずは喜怒哀楽を感情的に表現することから初めましょう。
泣いて怒って、感情とは何か を理解しましょう。

どちらにしても、今自分自身はどう感じているのか、把握することが大切です。
潜在意識はわかっています。表層意識との乖離がストレスとなって、やがて体調も崩すことにもなりかねません。

感情をきちんと表現しましょう。

子授け地蔵

at 22:41, 星 良謙・子授け地蔵, 子授け地蔵

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素直に生きる1(影)

早いもので今年も半年を過ぎました。今年の元旦は自分がこのようになるとは考えてもいませんでしたが・・・・・(汗)
近頃隙あらば自動書記が始まり、その後はグッタリしてしまう影武者です。(_ _;)/~~~~"


今回は素直に生きる事に関して書きます。
私の過去のモットーは喜怒哀楽を素直に出し自分の感情を偽らない事でした。その性格が時に災いして周囲と衝突する原因にもなりました。
昔はそれでも良いと思っていましたが、ある事をキッカケに私はそのモットーを止めていくよう努力しました。そうしていく内に人に悩みや本音を言えない、人の顔色を伺い続け、楽しい状況な筈なのに笑えない、笑っても楽しいと思っていない、どん底に落ちて泣きたくても涙すら出ない・・・・・、人間として大事な物を失ったような状態をさ迷い続けました。
後に周囲の支えもありその状態から抜ける時は無理矢理抑えていた感情の反動は大きさに驚いたものでした。
さ迷っている最中の自分が思っていた事は、そこまで自分に無理を強いていた等とは夢にも思わず、ただ“周りは簡単に出来ているのに自分には何故出来ないんだ?自分は劣っているんだ”と思い続け自己卑下し続けていたのです。

そして最近色々な方と話していて思うのですが、自分の悩み事や本音を人に話せない方があまりにも多いんだと。
人に言えないと言う事は、言わないように自分が心にブレーキをかけ続けて麻痺させてしまっているのではないかと思うのです。

言えなくなってしまった要因は人それぞれあると思います。
ショックな出来事を始め、言えない環境、周囲の無理解・・・・・・等。

言えない環境や周囲の無理解。そう言った環境に居続けると何時しか、“人はそう言うものだ、言うべきではない、言ってはいけないものなのだ・・・・”等と心の何処かで思ってしまい、それが何時までも自分の心の枷になっているように思います。その枷が自分で自分を追い込んでしまう原因になるのです。
そして自分の内側に感情を押し殺していく様になってしまい、感情を上手く出せなって冷静に物事を判断しにくくなるのでは無いでしょうか。


今宵も遅いので続きは次回にします。( _ _ ).。oOグゥー・


影武者

at 23:56, 影武者, -

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降魔折伏

このところ少しばかり難しい話が続いています。(- .-)ヾ ポリポリ
別に難しい話が良いとも考えてはいないのですが・・・

質問にお答えしているとどうしても記事が難しくなります。投稿する側としては難解な記事を書いている方が楽とも言えるのですが、理解していただけなくては意味もありませんので少し困っています。ウーンo(;-_-メ;)o

耕心さんや子授けさんが記事を投稿してくれるといいのですが・・・
早く帰ってきて・・・と叫ぶ管理人 orz

それはさておき、その一
今日、尾張徳川藩の菩提寺である建中寺(浄土宗)より盆施餓鬼会の御案内をいただきました。

平成十九年七月二十三日(月曜日) 午前九時から  施餓鬼会開白法要
午前九時半から 説教 午前十一時から 大施餓鬼法要 十二時 中食の御供養
会費 三千円 塔婆供養の方は別途二千円とのことです。

それはさておき、その二
以前にserenity様から頂いた御質問と言うよりも依頼にお答えしようかと考えています。

ところで、「過去に降魔折伏の祈願をしたときの神仏の働きを書くことは可能ではあります」とのことですが、具体的な事例に興味があります。ぜひ書いてください!


が、しかし・・
管理人が小説や映画に登場するような怨霊や悪霊と手に汗握るような対決の話を書くと考えた貴方は甘い・・v(ー_ー)チッチッチッ
と言っても以前からの読者ならばそんな期待もされないのでしょうがへそ曲がりの管理人がそんな話を書くはずもなく、現実は至って地味と言うかつまらない話です。

多くの人が勘違いされているのではないかと思うのですが降魔折伏の祈願は呪いではありません。我々からするならばどんな極悪人に思える人間であるとしても神仏からするならば救いの対象となります。そのため降魔折伏と言っても怨霊を地獄の底に封じ込めるための祈願でもなければ相手を死に至らしめるための祈願ではありません。

もしも怨霊を地獄の底に封じ込めるための祈願や相手を死に至らしめるための祈願であるならばそれは降魔折伏のための祈願ではなく、呪いであり、神仏に祈願すべき内容とは言えなくなります。一般の方からするならば同じように見えたとしてもこれは信仰の世界とは別の世界の術であり、それなりの理論体系がありますが公表できるような内容でもなく、一子相伝の世界の話です。

そのため一般の方が目にすることができる呪術は気休めだとお考えください。ただそれでも念の強い人が実践されますとそれなりの効果があることもありますので御注意ください。

さて話を戻しますと降魔折伏と言っても迷いの中にある者を救うための手段の一つでしかなく、その前提は慈悲なのです。例えば大威徳明王と言う仏様がおられますがこの方のお姿は顔が六つ、手が六本、足が六本の憤怒の姿をされ、更に牛に乗られている何とも異様とも言える恐ろしげな仏ですがこの仏は慈悲の塊のような阿弥陀如来の化身とされている仏様です。つまり慈悲の顔だけでは通用しない衆生には憤怒の姿にて現れると言う事でしょうか。

ではそれらの仏、神様も同じなのですがどのように働かれるのかと言いますと迷いの中にある者に対して気付きを与えようとされます。ただ神仏と言っても段階がありますので一概に語ることはできないのですが一般的には霊格の低い神霊は仏罰、神罰と明確に分かるような指導をされることが多いと言えます。

しかしこれが霊格の高い神霊となると事情は少し異なります。霊格の高い神霊が動かれた場合には誰しもが気付くようなちょっとした怪我や火傷などはありませんが直接的な神罰や仏罰の方が遙かに軽く済むとも言えます。

つまり低い霊格の神霊が罰を与えた場合には警告とも言えるような災いで済みますが高い霊格の神霊が動かれた場合にはその人間の生活の基盤が根底から崩れることがあります。これは何もその人間を苦しめることが目的ではなく、その人間が自分の心を省みなければならない状況に追い込まれるとも言えます。

例えば権力に溺れている人間はその権力を失い、財力に溺れている人間はその財を失うなどその人間の力の拠りどころを失うことになりやすいのです。それは本人には耐えられない苦悩となりますが逆に自らを省みる好機ともなります。

しかし本人が自らの人生を省みることができなけば事態は更に悪化し続けることになります。それは自らが蒔いた種であるとも言えますし、また神仏が与えた罰であるとも言うことができるかと思います。

尚、霊的な話も書こうかと考えていたのですが長くなりましたので次回とします。

at 23:36, 星 良謙・子授け地蔵, 心霊現象と神秘体験

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反省と仏法・道徳・法律(星)

今回も452jp様からのご質問にお答えすることにします。

また、「つまり過去の半生を振り返るとは今、この瞬間の自分の心について考えるのと同じである」との事ですが、過去を省みることによって、少なくとも同じ過ちをしないように学習は出来ると思うのです。

過去を振り返る自分は、その頃のその出来事の中にいる自分とは違うのではないでしょうか。過去を振り返る事は今の自分の心について考える事と同じである、というお言葉をどう理解したら良いのでしょうか。


本題に入る前に・・・

先日、長年内観を実践されている方とお話をしていたところ、内観を反省行であると考える方が多いと嘆かれていました。

内観について御存じない方は こちらから 奈良内観研究所

その方の話を要約すると仏法(仏の教え)・道徳・法律の区別ができないがために内観を反省と考えてしまうのではないかとのことでした。その方の説明では内観は自分の人生を遡って思い出すことではありますがその目的は反省ではないとの話です。つまり内観とは過去を振り返ることで気付きを得ることであり、過去を反省することが目的ではないとの話でした。

ではどうして仏法(仏の教え)・道徳・法律の区別できないことが内観を反省と考えてしまう理由となるのかを書きますと仏法・仏の教えの教えに限るべきではないと言えますが宗教は心の教えであり、道徳は社会規範であり行動の制限です。そして法律は強制的な行動の制限であると言えます。

つまり一般的に言われている反省とは道徳や法律を基準としているがために本当の自分の心の奥底に眠る心を知ることができないのではないかと言うことです。

話を戻しますと愛染明王が説かれているのは仏の教えであって道徳論ではありません。そのため一般的な道徳論や法律を基準とした反省と同一に考えるべきではありません。そのことを混同されると話が見えなくなってしまいます。

このことを前提にして考えていただければ愛染明王が何を説かれたいのかお分かりになるのではないかと思います。愛染明王は「つまり過去の半生を振り返るとは今、この瞬間の自分の心について考えるのと同じである」と説かれています。これは自分の心の奥底に眠る自分の心の闇を知るならば自分の半生を振り返るのと同じことであると言いたいのです。

逆に自分の心の奥底に眠る心を知ることなく、自分の過去の言動を反省したとしてもそれは道徳論や法律を前提とした反省でしかありません。つまり道徳論や法律を前提として反省とは対処療法であり、仏の教えは根本治療であると言う事です。

先に紹介した知り合いの言葉を借りるならば気付きがあったとしてもその大半は「仮安心」(かりあんじん)であって本当の「安心」(あんじん)ではないと語られていました。「安心」とは真宗における悟りの境地であるとも言えるのではないかと思われる境地のことですが例えば多くの人に支えられて生きていることに気付き、感涙の涙を流したとしてもその姿を冷静に見詰めているもう一人の人間がいることに気付くことができないといいます。

また仮にもう一人の自分の存在に気付くことができたとしても更にその自分を見詰めている自分がいると言われていました。これは際限なく続く話であることから終わりがないと話されていました。

管理人は内観の経験者ではないことからもう一人の自分について語ることは困難ではありますが感涙の涙を流す自分の姿に酔いしれているもう一人の自分ではないかと思いわれます。

at 22:20, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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大乗仏教の精神(星)

いつものことではありますが読者の方々のコメントに真剣さを感じています。
管理人としては宗教や心霊世界のサイトにありがちな重々しい雰囲気や堅苦しい雰囲気は避けたいと考えているのですが・・・

真面目なコメントに対する答えを茶化すこともできず・・ウーン /(-_-)\
と困っております。

と言うわけで今回は少し真面目に・・・

前回に記事に452jp様からのコメントが・・・
原因を突き詰めるのならば、究極は「自分が自分であったから」という事になります。
未熟で煩悩まみれの自分であったから、というのが原因です。
そういう自分を自分で無くするための知恵が仏の教えという事でしょう。
色々な しがらみや責任もあります。
一切合財捨てて、世捨て人になったり出家できる状態でもありません。


どの宗教でも同じだと思いますが教えに忠実に生きようとするならば最終的には出家するしかなくなってしまいます。特に仏教は出家主義の傾向が強い宗教です。これはお釈迦様の生きていた時代の印度の風習などの影響が強いのではないかと思われます。

原始仏教においては出家者は持ち物も厳しく制限されています。具体的にはタイなどの南伝仏教の修行僧が当時の姿に近いと思われます。これはこれで非難されるべきではないと思いますがどうしても在家の人間は悟りへの道が閉ざされているかのような印象があることも事実ではないかと思われます。

そこで仏教教団において在家主義を標榜する運動が生まれ、この運動がやがて後の大乗仏教の流れとなります。そのため大乗仏教においては在家の人間が実践しやすいお経の読誦や写経、礼拝などの功徳が重視されるようになりました。

そしてこの傾向は時代が下るに従って更に顕著となり、インドでは現世利益色の強い密教が生み出さたり、他力門の教えが生み出されました。つまり大乗仏教の精神とは在家主義であり、また如何に在家の人間が実践できる教えとするかの精神が根底にあると言えます。

原因を突き詰めるのならば、究極は「自分が自分であったから」あり、未熟で煩悩まみれの自分であったから、というのが原因であるとしてもそれを如何に克服するかの方法が出家しなければ克服できないと考えるならば大乗仏教の精神を否定する考えであると言う事になります。

ただ現実も問題として自分の未熟さを克服することは簡単ではありません。それが簡単にできるのであるならば何も数十年の修業など必要もないことになります。しかし多くの先人が苦労されたのは如何に多くの人が実践できる教えを説くかであり、また如何に多くの人が自分の苦悩を解消できる教えを説くかであったことではないかと思います。

数多くの神霊からお話は聞きましたがどの神霊も日常生活から遊離した教えを説かれたこともなければ実践が困難な教えも説かれませんでした。どの神霊も日常生活の中で実践できる教えばかりのはずです。

at 17:22, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (波兎)

自分はここ十年来ほど自宅にTVの無い生活を送るようになったのですが、先日久々にTVをゆっくりと見る機会を得ました。
いつの間にやらデジタル放送に切り替わりアナログ放送は数年後には停波されるとの事ですが、デジタル放送とアナログ放送を見比べると画質が全く異なっており驚きました。
人の肌なども間近で見ている程にはっきりとした映像が放送できるまでに技術は進歩したのですね。

とはいえ出張でホテル等に宿泊してもTVの電源をONするという発想すら出て来なくなった自分にはあまり関係の無いかもしれない波兎です…orz

先日立ち寄った写真屋の方との世間話でお伺いしたのですが、その方も含めて写真屋の方はデジタルカメラではなくアナログカメラを愛用する方もまだまだ多いのだそうです。
「デジタルの方が加工や現像の手間も掛からず何かと便利そうですし、デジタル化まっしぐらの昨今に何故アナログを愛用されるのですか?」
と素朴な疑問をそのまましたところ、そのお答えのひとつには画素の特性があるそうです。
写真というのは小さな色の点が集まってひとつの画像を構成しており、この小さな色の点を画素と言うのですが、大雑把に言ってしまえばこの画素の数が多いほどより画質の高い画像が得られるそうです。
(デジカメ等を買いに行くと「○○○万画素」という表示がされ、高価な品物ほど画素の数が多かったりしますよね)

ところが同じ画素でも、デジタルカメラの画素とアナログカメラの画素を比較すると大きな違いがあるそうです。
デジタルカメラにおけるひとつの画素は均一な単一色になり、アナログカメラにおけるひとつの画素は単一色でありながらも画素内において微妙な濃淡が存在するのだそうです。

結果的に、同じ画素数で同じ被写体をデジタルカメラとアナログカメラで撮影して同じ画像を得たとしても、アナログカメラの方が色の深みを秘めた画像を得られるんだそうです。
余談ですが、医療の世界でもデジタル化が進みデジタルレントゲンの使用も増えてきたそうですが、デジタルレントゲンでの画像で診断に迷った時には、アナログレントゲンで撮影し直すというお話を聞いたことがあります。

デジタルというのはご存知だとは思いますが【0】と【1】で情報の処理が行われます。この時【0.1】や【0.9】は【0】あるいは【1】に切り捨てあるいは切り上げされます。
対してアナログは【0.1】は【0.1】であり【0.9】は【0.9】としてそのまま情報の処理が行われます。

さて、自分はこの現実の世界においては、白あるいは黒とはっきりと白黒付けられる物事は実はあまり多くは無いのではないかと感じています。
もっと言えば、(無論、例外も存在しますが)絶対的に白あるいは黒という物事は稀有で、その中間である灰色ではないかと思える事がほとんどではないかとも思います。
そして灰色と一口に言っても、その濃淡には無限とも言える段階があり、結論から言えば様々な要素が複雑に絡み合った上で表面的に見える灰色を成してはいますが、ひとつとして同じ灰色があるケースは非常に少なく個々の状況においてその濃淡が大きくも小さくも異なるものではないでしょうか?
つまり、その意味ではこの現実の世界は極めてアナログ的な世界ではないでしょうか?

「ある」あるいは「なし」や「善」あるいは「悪」や「白」あるいは「黒」といったある種デジタル的な発想、つまり二元論で全てを判断しようとされる方が居られます。
確かに二元論で断じる事が出来る事象もありますが、この世には二元論だけでは断じられない事象も数多く存在するのではないでしょうか?

またある一面だけを見てそれが全てであると断じる事も出来ますが、別の視点から見つめると異なる一面や複数の側面が現れるかもしれません。
むしろ、表面的に見えるものが全てであるという事象は少なく、表には見えない側面や事情が隠されている事象が多いのではないでしょうか?

例えば、神仏や霊の存在は単純にあるなしの二元論で断じる事が可能でしょうか?
「あるともないとも言えない、今は判断するには自分の知識が不足している、判断材料が少ないので判断出来ない、結論を出せない」といった第三の選択肢もまたあるのではないでしょうか?

そして実は過去の自分がそうであった様に、二元論的な発想に全ての判断を頼り、結論の無い状況に苛立ち即座に結論を求めようとする傾向が強い方ほど、二元論ではない一部現実との乖離を生じて結果的に苦悩してしまう事例が多いのではないかと感じています。

例によって神道では教えは説かれておりません。
ですが、今回もまた神道とは直接は関係のない内容でしたね…orz

あくまで自分の感じている事をご紹介させて戴いたわけなのですが「自分とは何だ?どういった存在なのだ?」と問われても答えられない、自分自身の事ですら理解しているとは言い難い波兎でした…orz

波兎


諸行無常、そもそも常に変わり行く存在たる自分自身、そして視点が変われば見え方もまた異なるであろう自分自身を完全に定義する事が可能であるのかという疑問もあったりもしますが…

at 03:22, 星 良謙・子授け地蔵, -

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