2007.09.28 Friday
邪気の鬱積と生気の枯渇20(星)
中日ドラゴンズが負けてしまいました。
ヾ(@† ▽ †@)ノうわーん
なぜだ・・・((T_T))ウウウッ(((ToT)))ワァァーン
僅かな望みもこれで消えてしまったのか・・・
と言う訳で・・・
管理人の機嫌がいいはずもなく、当然の如く、記事は難しくなります。
さて、前回の記事に書きました古代ギリシャの神霊の教えについてご質問がありましたので少し補足の記事を書いておきます。
本当はコメントにて書けば良いのでしょうが、コメントにて手短にお答えできるような内容ではありません。この古代ギリシャの神霊の教えに関しては一部を来月に電子出版にて発売を予定していますが全四刊程度になると思います。
何せ、あまりの難解さに読み直す度に加筆となり、何回加筆されたすらかも自分でも分からなくなってしまいました。これは管理人自体が神霊の考えを理解しきれていなかったことが原因であり、理解できる範囲を超えた教えは如何に自動書記といえども受けられないのではないかと思われます。
そのため最初の自動書記から約三年後にほぼ完成となり、その教えの体系を自分の思想として理解するのに更に二年が必要でした。そんな教えの体系であることから手短に要約することは非常に困難であり、詳しくは発売された新刊をお読みください。
ただご質問への回答を兼ねて少し解説しますと古代ギリシャの神霊の説く教えの根幹は評価と価値を厳密に区別することです。一般的には評価と価値は同一に考えられることは多いのですが厳密には異なります。それを厳密に区別して考えることに古代ギリシャの神霊の説く教えの特徴があります。
では評価とは何かを考えるならば評価とは一つの価値基準に基づく相対的な優劣であると言えるのではないでしょうか。例えばブログやHPではアクセス数が一つの評価の基準とはなりますがそれでそのサイトの価値が決まると言えるでしょうか。如何にアクセス数が多くとも読む価値のないサイトであると考える人もいるでしょうし、アクセス数が少なくとも読む価値のあるサイトであると考える人もいるのではないかと思われます。
これは読者がそのサイトに何を求めるかによってその評価が決まることを意味しているのではないでしょうか。そのためアクセス数が多いか少ないかはそのサイトの人気の目安とはなってもそのサイトの価値を決めるとは言えません。
しかし、記事の内容ではなく、宣伝広告の媒体として考えるならばそのサイトのアクセス数は商品価値そのものとなります。つまり評価とは基準が変わるならばその評価も変わると言えます。そのため評価とは一つの価値基準を前提とした相対的な価値を表すのであって一つの評価で価値が決まると考えることは無意味であると言えます。
ここまでならば多くの人に理解していただけるのでしょうがこれから先がややこしくなります。では自分の価値をどのように認識しているかとなると話が非常に難しくなってきます。一番簡単なのは人から褒められることで自分の価値を認識することです。
例えば学校の成績が優秀である、役員をしている、営業成績が優秀である、平均所得を遙かに超えた収入があるなど他人との比較にて自分の価値を認識することです。しかしこれらの価値は他人との相対的な優劣の比較でしかなく、評価と価値との関係にて考えるならぱ一つの価値基準による評価です。そのため前提となる価値基準が変わるならばその評価も異なることになります。
しかし他人との優劣にて自分の価値を認識するならばそれは非常に都合の悪いことになります。優劣の比較にて価値を認識するならば評価の基準は常に一つでなければ判断の基準としては成立しないことになります。つまり複数の評価が存在することを前提にしていたのでは判断基準になりません。
そのため複数の評価が存在することを前提にしたならば相対的な評価に依存して価値を認識することはできなくなります。つまり相対的な評価に依存して価値を認識する人は常に一つの価値基準だけにしか価値を認識できないのです。もしもそれが否定されてしまったならばその人は何を判断の基準にすればよいのかもわからなくなります。
星
ヾ(@† ▽ †@)ノうわーん
なぜだ・・・((T_T))ウウウッ(((ToT)))ワァァーン
僅かな望みもこれで消えてしまったのか・・・
と言う訳で・・・
管理人の機嫌がいいはずもなく、当然の如く、記事は難しくなります。
さて、前回の記事に書きました古代ギリシャの神霊の教えについてご質問がありましたので少し補足の記事を書いておきます。
本当はコメントにて書けば良いのでしょうが、コメントにて手短にお答えできるような内容ではありません。この古代ギリシャの神霊の教えに関しては一部を来月に電子出版にて発売を予定していますが全四刊程度になると思います。
何せ、あまりの難解さに読み直す度に加筆となり、何回加筆されたすらかも自分でも分からなくなってしまいました。これは管理人自体が神霊の考えを理解しきれていなかったことが原因であり、理解できる範囲を超えた教えは如何に自動書記といえども受けられないのではないかと思われます。
そのため最初の自動書記から約三年後にほぼ完成となり、その教えの体系を自分の思想として理解するのに更に二年が必要でした。そんな教えの体系であることから手短に要約することは非常に困難であり、詳しくは発売された新刊をお読みください。
ただご質問への回答を兼ねて少し解説しますと古代ギリシャの神霊の説く教えの根幹は評価と価値を厳密に区別することです。一般的には評価と価値は同一に考えられることは多いのですが厳密には異なります。それを厳密に区別して考えることに古代ギリシャの神霊の説く教えの特徴があります。
では評価とは何かを考えるならば評価とは一つの価値基準に基づく相対的な優劣であると言えるのではないでしょうか。例えばブログやHPではアクセス数が一つの評価の基準とはなりますがそれでそのサイトの価値が決まると言えるでしょうか。如何にアクセス数が多くとも読む価値のないサイトであると考える人もいるでしょうし、アクセス数が少なくとも読む価値のあるサイトであると考える人もいるのではないかと思われます。
これは読者がそのサイトに何を求めるかによってその評価が決まることを意味しているのではないでしょうか。そのためアクセス数が多いか少ないかはそのサイトの人気の目安とはなってもそのサイトの価値を決めるとは言えません。
しかし、記事の内容ではなく、宣伝広告の媒体として考えるならばそのサイトのアクセス数は商品価値そのものとなります。つまり評価とは基準が変わるならばその評価も変わると言えます。そのため評価とは一つの価値基準を前提とした相対的な価値を表すのであって一つの評価で価値が決まると考えることは無意味であると言えます。
ここまでならば多くの人に理解していただけるのでしょうがこれから先がややこしくなります。では自分の価値をどのように認識しているかとなると話が非常に難しくなってきます。一番簡単なのは人から褒められることで自分の価値を認識することです。
例えば学校の成績が優秀である、役員をしている、営業成績が優秀である、平均所得を遙かに超えた収入があるなど他人との比較にて自分の価値を認識することです。しかしこれらの価値は他人との相対的な優劣の比較でしかなく、評価と価値との関係にて考えるならぱ一つの価値基準による評価です。そのため前提となる価値基準が変わるならばその評価も異なることになります。
しかし他人との優劣にて自分の価値を認識するならばそれは非常に都合の悪いことになります。優劣の比較にて価値を認識するならば評価の基準は常に一つでなければ判断の基準としては成立しないことになります。つまり複数の評価が存在することを前提にしていたのでは判断基準になりません。
そのため複数の評価が存在することを前提にしたならば相対的な評価に依存して価値を認識することはできなくなります。つまり相対的な評価に依存して価値を認識する人は常に一つの価値基準だけにしか価値を認識できないのです。もしもそれが否定されてしまったならばその人は何を判断の基準にすればよいのかもわからなくなります。
星