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ご神仏の御言葉・5(影)

何故か今日はやけに御神霊のお言葉を載せたいと思ったので載せます。(((((_´ω`)

昨年、私が過去のある事が忘れれず、なかなか消化できないと悩んでいた時に降りたお言葉です。
よくドライブで通っていただけで、この時点まで参拝したことがなかった神社の御神霊です。ただ通り過ぎているだけの私を何年もずっと見守っていてくださったようです。


忘れようとするのではない。
忘れようとするならば心に闇を作る。
忘れようとするのではない。
大神様の境地を目指せ、そなたの心がより大神様のお心に近づくならば、もはや過去のできごとにとらわれはなくなる。
大神様はすべての者の親、親が子供を見る様に親の気持ちに少しでも近づくならば、幼子が悪戯をするのを咎めぬ心を持つように、たとえそのことで心を痛めるとも心を乱されることはなくなる。
されば無理に忘れようとするよりも大神様の近づくようにするにいたせ。
それは我らが教え。


消化できない過去もあります。しかし、無理に忘れることは自分を偽り、枷をして心に負担をかけることだと思います。
その後、自然体でいるようにしました。思い出して悲しくなったり怒れても、その感情に翻弄されている自分がいることを知っていても自分を偽らず、湧き上がった怒りや悲しみをどう鎮めようかと考えるようにしていました。
ここぞとばかりにご神仏に縋ろうと思い、怒りや悲しみのまま念仏や真言を称えていました。
気がついたら消化できない過去が少しずつ消化し、またその悩みの元になった方に思い切って会い、ようやく肩の荷がおりました。

勿論、まだ他のことで消化出来ていないこともありますが、自分は自分らしく、「過去を受け入れれない自分」も自分であると認めていっています。しかし向上心を忘れる気持ちはありません(笑)
こんな私たちをご神仏は忍耐強く見守ってくださっていると思うと、本当に人間はご神仏の大きな懐に抱かれているんだなあ、と感じます。(^人^)




影武者

at 21:52, 影武者, 神仏の御言葉

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続・風水の話2(星)

このところ、少し暖かい日が続いていますので、鉢植えの手入れをしています。
去年はろくに水やりすらしていなかったことから悲惨な状態になってはいますが、それでも何とか生き延びてくれましたので遅まきながら手入れしています。

バラは冬の剪定が何もできぬままに終わってしまいましたが、アジサイに関しては庭師さんが適当に剪定してくれたと言うか、切り過ぎと思えるほどばっさり剪定されてしまいましたのでどうなるのかと心配しております。

それにしても南天はよほど管理人の家と相性が良いのか、勝手に増殖しております。最初に一鉢だけ買い求めたのですが小鳥が種を運んだのか、いつの間にか庭のあちこちから芽を出し、大きくなっております。南天は比較的成長が早いことから鉢上げをしているのですがこのことろ南天の鉢が増え続けて少しばかり頭を痛めています。

それはさておき・・・
今年もいよいよペナンレースが開幕しました。(o^^o)ふふっ♪
中日・巨人・阪神の三球団が優勝候補と言われていますが・・・・
何やら明暗の差が、大きく異様な・・・

あれだけの補強をした巨人がまさかの三連敗、同じく補強をした阪神は三連勝、中日はと言えば二勝一分けとなりました。

と言う訳で、今年も中日が連敗しますと投稿内容が難しくなるかと思います。

それはさておき、その2・・・
この何年かは、車で走っていてもテナント募集が目立つ気がします。また半年前に開店したのにもう閉店したかと思うこともよくあります。そんなときにいつも経営者の方はどれだけの損失をされたのだろうかと考えてしまいます。

お店を出店されるとなればかなりの金額が必要であり、ちょっとした内装工事だけでも数十万になると聞いています。そのため開店となれば通常は数百万の資金が必要となることは珍しくもなく、比較的小資金で開業できる仕事と言っても二・三百万は必要なはずです。そのため、開業前に相談していてくれたならば大きな損をせずに済んだのだろうかと考えてしまいます。

勿論、管理人も開業前に相談を受けたことや建築前に相談を受けた経験はありますが設計図の出来上がり、大幅な変更などできない状態で相談を受けることや予算などの条件からこの物件以外にないとの前提にて相談を受けたことが何度かありました。

しかし、占いでもそうですが事前に相談をして頂けるならば色々とアドバイスもできるのですがすべてが決まった後で相談してもらっても実質的なアドバイスは何もできません。風水の場合には立地条件から始まりますので物件が決められている場合にはできることは大きく制限されてしまいます。特に賃貸物件やマンション、建売の物件などの場合にはできる対策はそれほど多くはありません。

これは気学でも同じだと思いますが玄関、台所や厨房、浴室やトイレなどの水周りなどを一番重視しますが賃貸物件やマンション、建売の物件などの場合にはこれらの変更や移動などができないことが多いことから物件の選定の段階にて良い物件を選ぶしかありません。

それでも一般住宅の場合には寝室や収納スペースの変更など部屋の活用を変更することで対応できますがこれが店舗となると対応策は限定的となります。また風水では周囲の環境を重視しますので物権選びが一番大切な仕事であると言えます。

先日、ご紹介しました三年間にて四回、経営者がかわってしまったお店とコンビニの外観のままで営業を始めたお店の話を例に解説しますとこの二軒はどちらもお店の北側に道路がありますので共に離宅となります。

そして近くに大きな建物がありますがこの建物の位置関係が大きく影響すると考えます。具体的には三年間にて四回、経営者がかわってしまったお店との位置関係は西南ですので坤山となり、コンビニの外観のままで営業を始めたお店の話の方は南になりますので離山となります。

基本的にはどちらも悪くはないのですが離宅と坤山の関係では大きな飛躍は期待できないと言えます。それでも店舗の風水さえよければ手堅く着実な利益を得ることができる物件なのですがあまり飲食店向きではないと言えます。

それに対してコンビニの外観のままで営業を始めたお店は離宅と離山の関係ですが、この関係は大吉であり、大きな名声や発展が得られるとされています。更に火を扱う仕事には向いていることから飲食店にも向いていたのかと思われます。そのためこのお店は最初から運を味方にしていたと言えるかと思います。

尚、暫く前にオカミ様から玄関先に瓶を置いてあるのも風水の対策だろうかとのお問い合わせがあったと記憶していますので風水の対策について少し書いておきます。風水の対策にて瓶を使うとの話は聞いたことがありませんが丸い物で邪気を跳ね返すとの考え方はありますのでもしかしたならば風水の対策かもしれません。

中国では中華鍋を邪気の方角に向けて軒先にぶら下げておく風習があると本で読んだことはあります。ただ風水の対策は書き始めますと長くなりますのでまた機会を改めて投稿します。

at 14:25, 星 良謙・子授け地蔵, 占いの話

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続・風水の話(星)

世の中は花見と言えば桜なのですが・・・・
偏屈な管理人は彼女とかたくりの花の群生を見に行きました。





もっとも管理人も近くの桜の名所に立ち寄っては見たのですが、まだ三部咲き程度でした。そこで新聞で紹介されていたかたくりの群生地に行ってみました。さして期待もしていなかったのですがこれだけ咲いていると壮観でした。

それはさておき・・・
昨日、ラジオの番組で「風水の元になった気学を研究されて〇〇年の〇〇先生・・」との話がありました。管理人は (?_?)(?_?)(?_?)(?_?)

このブログでも何回か書きましたが、管理人は気学を覚えようか、風水を学ぼうかと迷いました。ただ管理人も多くを学ばせて頂いてる鮑黎明氏が気学に対して非常に批判的な立場であることから管理人も気学について少しばかり調べてみたのですが、大正時代に園田真次郎氏が広められたことまではわかるのですがそれ以前の歴史が分かりません。

もっとも気学について書かれた本は多いのですが、気学の歴史に触れられた本が皆無にも近く、その実態がよく分かりません。それに対して中国で風水が一般的な名前となったのが十二世紀とされています。ただ、体系的な術として確立されたのがこの頃であり、その原型は更に遡ることが可能なようです。

そんなことから「風水の元になった気学」との表現はいくら何でも無理があると言えるのではないかと思われます。

と言う訳で・・・・
暫く前に頂いたオカミ様のコメントにも少しお答えします。

開運がしにくい方々は開運の方法を実践しにくかったり 風水も悪かったりするのでしょうね… 負の連鎖を断ち切るのは容易では無いようです〜

いやらしい話ですが 風水に使う費用と
その費用をお布施に使用した場合 どっちらが開運に効率的なんだろうっと、フッと思いました。

( ̄0 ̄; あっ、 星様は風水鑑定もするようになったのかな


実は風水も数年前から鑑定はしています。ただ風水の鑑定となると現地を調べなければならないことが多いことからご紹介していませんでした。しかし衛星写真でかなり正確な鑑定が可能となりましたので暫く前に「開運の扉」の方にご案内を投稿しました。

また、お布施と風水のどっちらが開運に効率的かとのご質問ですが・・・・
鮑黎明氏がこんな中国の成語を著書に掲載されていますので管理人の回答に代えてご紹介します。
「一命、二運、三風水、四積陰徳、五念(正確には口偏です)書」
人生における成功も失敗も、天命に一番左右され、二番目にはめぐりめぐってくる運をつかみとれるかどうかであり、三番目には風水によって決まる。そして陰徳を積むことは四番目に効果があって、勉強することは五番目に有用なものであるというのです。

でも別の視点から読むこともできます。
一所懸命に勉強し、ひたすらに陰徳を積み、さらに良い風水の地に住んで地の利を得れば、やがて好運を掌握することもでき、天命を改善することも可能なのである−と。
どう読むかはその人の心眼にかかっているように思います。

徳間書店 黄帝占術 風水篇 鮑黎明 P5

at 00:03, 星 良謙・子授け地蔵, 占いの話

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神霊の考え(星)

昨年の秋に神道の神霊からの霊界通信の記録を電子出版しようかと考えていたのですがあれやこれやでお蔵入りしてしまいました。α~ (ー.ー") ンーー

お蔵入りした最大の理由が解説を書けないことでしたので、解説をあきらめて原文のままで出版しようかと考えと思いています。ただ厄介なのが神道の神霊からの霊界通信を整理したい頃に原稿を整理しようとするといつも神霊からの霊界通信が再開されて、原稿の加筆や修正がありました。

時には全く別の神霊からの霊界通信が始まったりしたことからどの記録がどの神霊からの記録であったのかすら分からなくなったりしたいます。そのため最初の記録と照合をしなければならなくなったので未整理になっていたデータを整理しておりました。

何分にも右も左も分からぬままにPCを買い求め、無謀にも始めたブログを始めました。そんな状態でしたのでワープロで記録を残してあった神霊からお言葉も一部が未整理になっていました。

暫く前に買い換えたPC少しばかり慣れてきましたことや作業効率や向上したこともあり、過去のデータを少し整理していましていましたところ、この二回ほど取り上げていました記事の内容に関連した霊界通信の記録を見つけました。前回の投稿にて終わりにするつもりでしたが神仏の世界には偶然はないと言いますので掲載することにしました。

このお言葉は個人的な内容が含まれることからその全文は公開できませんが周囲の人々に迷惑を掛け続ける人のことについて尋ねたときのものです。

 まず最初に断っておかなければならないのは、我らはただ自分たちの感情のままに現世に生きる者を裁くことはない。また我らは怒りの神でもなければ、たたりの神でもないことである。我らは神仏の手足として働くことこそが本来の役目であり、一人でも多くの者が、神仏の心を自分の心として生きることができるように導くことこそが我らの使命である。
 されど現世に生きる者たちの多くは神仏の心を顧みることもなく、欲望のままに生きる者は多い。そなたが指摘するまでもなく、老人を騙して老後の蓄えを巻き上げることに何のためらいを覚えることもない者や鬼畜にも劣る行為に明け暮れて何の罪の意識すら持たぬ者など数多くいることは承知している。
 我らとしてそれらの者たちの悪行の数々を放置しておくつもりもなく、鬼畜にも劣る者たちを如何に導くかと苦汁しているが、鬼畜にも劣る生き方しかできなくなってしまった者たちを導くことは実に困難なことである。そなたからするならば我らの力をもってするならば、鬼畜にも劣る者たちを一掃してしまうことなど簡単なことであると考えるであろう。されど我らとて神仏の手足として働く者であることを忘れてはならない。
 神仏は如何に鬼畜にも劣る者であるとしても限りなき、深き慈愛の心にて見守られている以上は我らはその意向を無視することはできない。我らは如何に鬼畜にも劣る者であるとしても、神仏が深き慈愛の心にて見守られているのであるならば、それに従うだけである。


お答えくださった神霊は修験道の方ですが基本的には他の宗旨の方でも同じと思われます。

at 22:03, 星 良謙・子授け地蔵, 神仏の御言葉

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釈迦の捨置答(星)

暫く前に小鳥がみかんを啄ばむ写真を投稿しましたが、小鳥があまりにも見事な食べ方をしていましたので投稿します。



うーん、さすが・・・小鳥、お見事

それはさておき・・・
前回は、りか様のご質問にお答えしたのですが、本質的な問題に入る前の段階にて話が終わっているとの印象があり、質問から体裁よく逃げたと思われても仕方がないのではないかと思われます。

しかし神仏がこの世の中の悪に対してどのように考えているのか、死後の世界とはどのような世界であるのかなどについて何を書いたとしても検証ができない話となります。そのためどんな主張であるとしてもそれが正しいと断言する根拠もなければそれは間違いであると断言する根拠もありません。

管理人としてはこれらの問題に関しては論じる意義を感じません。最終的には本人が納得できるかできないかだけの問題であり、他人からするならばそれがどんなに矛盾だらけの考え方であるとしても本人がそれを真実であると考えるならばそれがその方にとっての真実であることになります。

ご存知の方も多いのではないかと思いますがお釈迦様も同じ立場であったと思われます。

一つ経(中部経典、六三、「摩羅迦小経」。漢訳同本、中阿含経 二二一、「箭喩経」)によれば、ブッタ・ゴータマは、ある種の問題については、いつも、はっきりした解答を与えることを拒んだという。その問題というのは、たとえば、この世界は常住であるか無常であるかとか、霊魂と身体とは一つであるか別であるかとか、あるいは、人は死してのちも存するか存しないかというような問題であって、それがどうやら、当時の思想家たちの間での流行の論題であったらしい。
補足 ブッタ・ゴータマとはお釈迦様のことです。
中略
しかも、彼らが解答を与えなかった理由は、けっして愚鈍にして答えなかったからではなかった。そこには、もっと積極的な理由があった。彼らは、その論題が、今日の哲学的用語をもっていえば、二律背反のそれであることを知っていたにちがいないのである。たとえば、もし「他世ありや」と問うものがあれば、ある者は「あり」と答え、またある者は「なし」と答えるであろう。だが、その二つの答えは、いずれも一つの憶断にすぎないのであって、いずれが真であるかは誰もこれを証することができない。いや、さらにいえば、その二つの解答は、それぞれ同じ権利をもって主張しえられるのである。とするならば、そこではむしろ「判断の中止」をこそ主張すべきではないかとするのが、この二人の思想家のとった立場であるにちがいないのである。
補足 二人の思想家とはお釈迦様とお釈迦様と同時代の思想家のサンジャヤ・ヴェラィプッタのことです。
知恵と慈悲「ブッダ」―仏教の思想〈1〉 増谷 文雄,梅原 猛 P84−86

しかし世の中には、この答えに不満な方が多いようです。ある新興宗教の信者の言葉に「人間は如何に生きるかについて説かれた教えは数多くあったが、自分がどうして生まれてきたのかを探し続けていたが見つからなかった。しかしこの教えに出会ってやっと見つけた。」とありました。

管理人からするならば自分が生まれてきた理由を求める気持ちの裏側には自分の存在意義を求める気持ちがあるのではないかと思えます。自分の存在理由が分からないがためにその理由を見えない世界に求め、自分を納得させる理由を探しているのではないかと思えます。

同じように宗教界における聖職者の腐敗やの矛盾、政界の腐敗や矛盾などを神仏はどのように考えておられるのかとの答えを求めるのは、宗教界における聖職者の腐敗やの矛盾、政界の腐敗や矛盾などをどのように考えるべきかとの指針を求めているのと同じことではないかと思います。

それに対して一部の新興宗教の教祖や霊能者、占い師は明確に断言することで多くの信奉者を集めているようですがそれは一つの意見でしかないと言えます。それが神仏を名乗る神霊からの教えであるとしてもその言葉を降ろした神霊が本当に神仏であるのかは誰にも証明ができないことであり、最終的にはその言葉を信じるか信じないかの判断でしかありません。つまり自分が納得できるかできないかの判断でしかありません。

そのためこれらの問題は自分で答えを求めるべきことであり、幾つもの考え方の中から自分の責任で選ぶべきことであると思われます。このことについて論じているのが著書である「霊界通信 古代ギリシャの神霊の霊言 責任論」です。そのため詳しくはこの本をお読み頂きたいのですが・・・宣伝になっているような (- .-)ヾ ポリポリ
結論としては誰かに決めてもらうべき問題ではないと言えます。

これは信仰の本質の問題ではないかと思います。例えば自分の悩みを解消するためにはどんな教えを学ぶべきか、または自分の悩みを解消するためには何をすべきか神仏に聞いて欲しいと依頼されたとするならば他力門の神霊は念仏の功徳を説き、禅宗の神霊は坐禅の功徳を説き、日蓮宗の神霊はお題目の功徳を説かれることになると思います。

ではどれが正しく、どれが間違いであるかと問われても管理人にはどれもが正しいとしか言えません。しかし現実にはどれかの教えを選び、その教えを忠実に実践するならば他の教えを捨てることに捨てなければならなくなります。またどの教えも尊い教えであると尊重するならば教えの矛盾を自分で克服しなければならなくなります。

これは何を意味しているかと言えば、宗旨や宗派にて教えが異なり、それが対立するからこそ宗旨や宗派が分裂した現実があります。宗旨宗派に教えの違いがなければこれほど多くの宗旨宗派に分裂する必要もなかったのではないかと思われます。

繰り返しになりますが答えのない疑問の答えを探すのは自分が納得できる答えを探す行為でしかなく、それは自分の心の中にある考えを認めてくれる人を探しているのか、自分の気持ちの代弁者を探しているだけでしかないのではないかと考えます。

at 13:53, 星 良謙・子授け地蔵, 読者からの質問

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神仏の考え(星)

いよいよ春本番と言う事で・・・・
久々に鉢植えの手入れをしていました。
毎年、この時期は秋蒔きの花の苗の植え替えの時期なのですが、ブログを投稿し始めて以降は種まきすらしておりません。

昨年は秋植えの球根すら手抜き・・・・
うーん、これでは趣味がガーデニングとはとても書けないような・・・

それはさておき、いつものことではありますが皆様にコメントを頂きながらも滅多にお返事も書けないでおります。しかし、このところ幾つかのご質問が溜まってしまいましたのでお答えできる内容に関してはお答えしたいと考えています。

本来ならば遡って順番にお答えすべきなのですが、りか様のご質問は誰しもが抱かれる疑問ではないかと思いますので最初に取り上げさせて頂きました。

素朴な疑問です、気を悪くされたらごめんなさい!
例えば比叡山、石山本願寺などです。歴史上、都でのあのような動き・・・。
僧兵として働き、大量の殺戮もあり、時代だと言ってしまえばそれまでなのですが、どこかの「原理 主義」等と変わらないんじゃないか?と・・・。
この歴史をご神仏はどう感じていらすのか、考えてしまいました。どうお感じですか?


ご質問を少しばかり整理しなければならないかと思います。
日本の歴史を考えるならば宗教が原因にて戦乱が起きているは否定できない事実であると思われます。慈悲を説く仏教教団が自分たちの権力を確保するために時の権力者と対立や宗旨間の対立、天台宗における山門派と寺門派との対立のように同一の宗旨内の争いなど数多くの争いの主役となっています。

そのことを神仏はどのように考えているかとのご質問ですが、ご質問の前提に管理人が神仏に意見を求めることができることができる人間であるとの認識があると思われます。しかし管理人が霊界通信として交信可能な神霊を神仏であると断言することは困難ではないかと思われます。

確かに霊界通信においては稀に神霊が特定の神仏の名前を名乗られることはありますが基本的に神霊が名乗られることはありません。その理由は著書「霊界通信 南無阿弥陀仏」に掲載してありますので引用します。

発信者としての心霊の、生前の名前については、次のような心霊からの回答があった。
 一向宗(浄土真宗)の者たちが話したように、わたしたちも弥陀の本願をわが心として
生きる者である。わたしたちの心の中には弥陀の慈悲だけが満たされている。その弥陀の
心こそが、わたしたちの言葉である。わたしたちは、その弥陀の言葉をすべての衆生に伝
える以外のことには何も関心がない。仮にわたしたちが生前の名前を語るならば、わたし
たちの言葉を聴く者たちは、それをわたしたちの言葉として受け取るであろう。しかし、
それはわたしたちの願いでもなく、わたしたちの心でもない。
 わたしたちの願いは、慈悲深い弥陀の心を伝えることがすべてであり、わたしたちの名
前を残すことではない。だから、わたしたちの生前の名前をあかすことは無駄である。
 わたしの語る言葉は、すべて阿弥陀如来からお教えいただいている教えを伝える言葉で
ある。わたしたちの言葉が、わたしたちの言葉でなく、阿弥陀如来からお教えいただいた
お言葉であると考えれば、わたしたちの名前などあかすことに意味はない。わたしたちの
言葉は、すべて阿弥陀仏の言葉である。


お読み頂ければお分かりになるかと思いますが、神霊が仏の名前を名乗られたとしてもそれは仏の手足として働いているとの意識からです。著書には掲載していませんが真宗の神霊は自分たちは阿弥陀仏の手足でしかなく、手足に名前を求めたとしても何の意味があるのかと説かれています。

では御神霊が手足として働かれている仏と直接に交信ができるかとなれば管理人の心の段階では交信ができません。またもしも交信が可能であるとしてもその意思を言葉にてお伝えすることは非常に困難なことではないかと思います。

霊界通信と言っても伝わってくるのは言葉だけではありません。感情や想念と言った言葉では表現することが困難なこともあります。そして悟りが高い神霊になりますと言葉は短くともその言葉に圧倒的な力を感じるようになり、更に一定の段階を超えますと言葉がなくなりね圧倒的な力しか感じなくなります。

例えば阿弥陀仏となれば圧倒的な慈悲を感じるのですがその慈悲とは我々の考えるような慈悲ではなく、善悪の区別すら無意味に感じるような崇高な境地です。管理人が認識できるのはそれが限界であり、それ以上の境地の仏が存在されていることは分かってもその心を知ることはできません。

これは他力門の仏だけでなく、真言宗や天台宗などの他の宗旨でも同じであるだけでなく、神道の神様においても同じことです。伊勢神宮に代表される日本でも有数の神社の御神霊ともなれば人間の意識とはあまりにも掛け離れ過ぎて、そのお考えを言葉で表現することはできないのではないかと思われます。

これは何も神仏の世界に限られた話ではないと思います。例えばテレビの番組にて日本の数学者が発見した理論にて伊藤の補題(伊藤の定理)の話題を取り上げていたことがありました。確率解析学において革命的な公式であり、この公式無しでは確率解析における計算はほぼ不可能と言えるほどの偉業だそうです。

そこで番組でこの数学教授をインタビューした際に番組のスタッフがこの公式を本人から解説してもらったそうですがあまりの難解さに一時間以上説明してもらっても全く理解できなかったそうです。勿論、管理人も数学音痴なのでお手上げです。

つまり確率解析学の公式を理解するためには数学の知識が必要であるように神仏の考えを知るには神仏の考えに近い境地に到達する必要があります。しかし管理人は神仏の考えに近い境地には到達していませんので神仏は分かりません。管理人が分かるのは神仏の手足として働かれている神霊の言葉であり、それらの神霊の説かれる教えでしかありません。

at 23:39, 星 良謙・子授け地蔵, 読者からの質問

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霊能者の落とし穴(星)

お彼岸も今日で終わりと言う事で、昨日は参拝に出掛けました。
途中、木蓮の花が咲いているのを見かけました。あまりにもきれいでしたので写真を写しました。とっても駐車スペースもない場所でしたので彼女に頼みました。(- .-)ヾ ポリポリ








木蓮が咲き始めると春を実感します。
管理人は桜よりもこの木蓮の花が好きなのですがへそ曲がりと言われそうな・・・・

ヽ(^^ヽ)ワダイヲカエテ(/^^)/

一般の方からするならば御神仏と云われる神霊から直接に言葉を聞けることは特殊な能力であり、限られた人間にだけ与えられた力であると思われているのではないかと思います。現実の問題としてはどんなに偉大な神仏がそこにおられても何も感じない方が大半であり、意識が朦朧とするほどの強烈な神霊スポットであるとしても大半の方は何も感じることもなく、日常の暮らしをされています。

すべては心の世界であることから何処にいても神仏に心は通じることも事実ではありますが多くの人々が信仰の対象としてきた聖地や修行の場所として受け継ぎ守られてきた聖地は神仏に心が通じやすい何かがあります。それが何かは管理人にも明確に分かるわけではありませんが参拝する意義もそこにあるのではないかと思います。

ただ前提として神仏に心が通じなければ何も感じることもなく、参拝しただけで終わりますが何かを感じなければ参拝する意義がないと考えるべきでもないと思います。参拝することで特に神仏のお力を感じることがなくとも継続することで自分の中で何かが変わり始めることは多いのではないかと思います。

参拝したときに何も感じなくとも日常の中にて神仏の働きを実感できるようになることの方が大切であり、日々の生活の中で神仏の働きを実感したときにこそ本当の感謝の気持ちを持つことができると思います。それができるならば神仏の言葉が聞けることにそれほどの意味はないのではないかと思ってしまいます。

こんなことを考えてしまうのは御神霊からの言葉に安易に頼ってしまうことの危険性を感じるからです。確かに御神霊のお言葉は的確であり、納得せざるを得ない内容です。もっともいい加減な内容ならば追い返してしまいますが(笑)

最初の頃は常に本当に御神仏の言葉なのだろうかと常に不安を感じていました。そのため以前は専門書を読み、その内容を検証していたのですが会話の中で唐突に降りてくることばの場合には検証しているゆとりもなく、言葉にしています。確かに言われている内容は高い見識を感じますので納得してしまうのですがこんなことを繰り返していたならば自分が慢心してしまうのではないかとの危惧を感じます。

ある著名な霊能者は神仏がすべて教えてくれるから何も学ぶ必要がないと言われてがその時には漠然とした疑問を感じましたが今考えると非常に危険な気がします。これは多くの霊能者が陥る落とし穴ではないか思います。

神霊の言葉を検証していたときには、宗旨の教えと神霊の語られた内容に矛盾がないかを調べていましたが、これは宗旨の教えと矛盾するならば神霊のお言葉を公開することで多くの人を惑わすことになってしまうのではないかと危惧したからでした。

しかし、宗教や心霊世界においては何が正しく、何が間違いであるかと決めることができない問題があまりにも多いと考えます。また心の問題においても正解を求めたとしても正解はなく、また百人いれば百通りの正解がある問いも多いのではないかと思います。そのため法然上人のお言葉であるから間違いがないとか、日蓮上人のお言葉であるからと間違いがないと考えるべきでもないと考えます。

神仏の働きは融通無碍であり、言葉で表すことができることができることには限界があります。しかし言葉にするならば言葉が独り歩きして言葉に囚われて本質を見失う危険性が常にあると考えます。同じ内容のことを異なる宗旨の神霊がそれぞれの立場から教えを説かれたことは何回かありました。

それはどの宗旨も本質的には同じ内容であり、その説き方が異なるだけであるとの実感は得られましたが言葉で教えを伝えることの難しさも痛感します。迷いの中にある人に対して説かれた神霊の教えは確かに適切であり、悩みの核心を突く言葉であるといつも感心します。しかし心の問題の多くは、答えを知ることが大切なことではなく、自分が気づくことが大切であると思われます。そのため神霊の教えもその気づきための言葉ではありますが、それを語っている自分はどこまで理解できているのだろうかと考えてしまいます。

神霊の語られた言葉はどれも悟りの言葉であり、貴重な教えではありますが、いつしか自分は神の代理人であるとの慢心となり、自分の説く教えに間違いがあるはずがないとの考えに陥り、転落する危険があると思います。その危険性を自分で説きながらもそのことに気づくことなく、慢心した新興宗教の教祖は数多くいます。そのため自分は神の代理人であるとか、神に選ばれた人間であるとか考えは持たないことにしています。

at 15:30, 星 良謙・子授け地蔵, 心霊現象と神秘体験

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売り上げと風水(星)

夕方に車を走らせていましたところ、ラーメン屋が改装工事をしていました。
看板を入れ替えていたようですので店が替わるようでした。
それを見て管理人は ( ̄~ ̄;) ウーン またか、と考えてしまいました。
実はこの場所、この三年ほどで四軒目のお店です。
そしてその近くにはお蔭様で三周年の看板を掲げたラーメン屋が・・・・

店構えだけならば入れ替わりの激しい店の方がラーメン店らしく、三周年の看板を掲げた店はコンビニの外観そのままのお店です。経営者の経営努力が違うと言ってしまえばそれまでなのですが・・・

管理人は入れ替わりの激しい店には、二・三回入ったことがありますので家に帰ってから二軒のお店の風水の違いを調べてみました。何分、依頼もされていませんので「ああ、やっぱり」と一人で納得していました。

どちらの店も同じ道路沿いであり、距離も歩いても五分もかからない距離なので立地条件は互角と言えるのですが風水にて考えると近くの建物の関係で大きく異なります。また入り口の向きや厨房やトイレの配置が異なることから当然の如く風水も異なります。

この店の場合には入り口の位置を替えるだけでも風水としては改善できるのでもったいないとは思いますが・・・・

開運の方法を実践して頂いてもなかなか運気が好転しない可能性の一つが風水が原因ではないかと考えるようになりました。基本的には開運の方法も風水も環境整備の観点では同じであると言えます。

管理人は不成仏霊の影響も人間の悪想念も同じような働きをするのではないかと考えていますが、風水における気の流れの調整も基本的には同じ考え方である思われます。以前にも書きましたが開運の方法は実践される方の努力や才能が報われるように環境を整備することを目的にしています。

これは風水でも同じです。風水とは住人にとって悪い影響のある気は避け、良い影響のある気をできる限り取り入れることを目的にしていると言えますがもっと大きく考えるならば大きな気の流れを読み、龍穴と言われる気のスイートスポットを探すことが風水であると言えます。

そんな壮大な話は別としても風水では周囲の環境から気の流れを判断しますが都心の場合には交通量の多い道路や高速道路、鉄道、巨大な建築物の乱立などがありますので風水としての優れた環境を得ることは困難ではないかと思います。それでも繁盛されているお店は風水の観点から見ても条件が調っている場合が多いようです。

また不思議と運の強い人は何故か、風水でも良い環境の物件を選ばれますし、相談を受けてもさほど手直しの必要のない原案をお持ちになられます。これとは逆に運気の低迷されている方は鑑定に入る前の段階で頭を抱えてしまう物件を選ばれることが多い印象があります。

或いは売り上げが低迷されているからと相談を受け、風水を鑑定しますと厨房・トイレ・入り口などが最悪であったりします。或いは他に条件に見合う物件がないからここで契約したいからと風水の調整を依頼されてもこうなると対策にも限界があります。

基本的は住宅でも同じであり、住宅の場合には健康や人間関係、精神的な安定などに悪影響があることが多いようです。そのため契約される前に相談して頂けるならば一番お役に立てるのではないかと思います。

at 23:54, 星 良謙・子授け地蔵, 占いの話

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立ち向かう心・解説2(星)

蘭と言っても派手さのない非常に地味な花のですが・・・・
毎年、この時期になると花を咲かせてくれます。
春蘭の仲間だとは思うのですが、正確な品種名まではわかりません。



何株があるのですが、昨年はほとんど手入れもできなかったのですがきれいな花が咲いてくれました。

それはさておき・・・
前回に続き、神霊のお言葉を少しばかり解説します。

そなたはそのことをどれだけ考えたことがあるであろうか。神仏が偉大な力を持つ存在であるならばそのお心も推し量ることなどできず、衆生にできることはただ偉大なる存在を前にして畏怖することであり、自分の本分をまっとうすることを願うことだけである。

自分の本分を全うすることとは何か、それは自分がなすべきことをなすことであり、画一的に説かれるべきことではない。大人には大人としてなすべきことがあり、子供には子供としてなすべきことがある。夫には夫としてなすべきことがあり、妻には妻としてなすべきことがある。

しかし世の多くの者は自分の本分をまっとうすることを嫌い、自分が立ち向かうべき試練から逃れることを願って神仏に助けを求める。それを神仏は悲しき心にて見守られていることをどれだけの者が知っているのであろうか。


お言葉の中に「自分の本分をまっとうすることを願う」とありますが「自分の本分」は誤解されやすい言葉ではないかと思います。神道には具体的な教えの体系が残されていませんので「自分の本分」と言われると儒教的な精神などにて考えてしまうことが多いのではないかと思われます。

しかしそれは神霊の本意ではないと思われます。以前のことですが神道の神霊は、世俗の学びと神の教えの学びを同一に考えてはならないと説かれたことがありました。

世俗の教えとは人生をよりよく生きるための知恵ではあり、それは大神様の教えではない。世俗の教えと大神様のお教えを同一に考えてはならない。大神様の働きとは教えとは人と人との繋がりの中にある働きである。

大神様はすべての國民の幸せを願い、すべての國民が幸せになることができるように働かれておられる。その働きを知るならば自然に頭をたれ、大神様を敬う。それが我等の教えであり、それを言葉に残したとしても何の意味もない。大神様の働きは國民の生活の中に溢れている。それを言葉にて説明したところで何の意味があろうか。


神霊は「世俗の教えとは人生をよりよく生きるための知恵ではあり、それは大神様の教えではない。」と説かれ、「大神様の働きとは教えとは人と人との繋がりの中にある働きである。」と説かれています。しかしこれでは具体的にどのように考えるべきかがわかりません。そのことをお訊ねしましたところ、下記のようなお言葉がありました。

イチローなる者は自分の技を磨くことで多くの者に感銘を与えているではないか。彼の者はその技を磨き、技を極めることで多くの者に感銘を与えているではないか。そこに言葉は必要であろうか。


つまり誰かのために何かをすることが大切ではなく、自分が最善を尽くし、自分を磨くみことが大切であるとのお教えではないかと思われます。そのため神霊の語られている「自分の本分まっとうすること」とは自分の抱えている人生の課題とも言うべき問題のことを言っているのであり、儒教的な教えを前提にした意味ではないと思われます。

例えば学生の本分は勉強であると考えることは可能であるとしても神霊のお言葉を借りるならばそれは世俗の知恵であるとしても大神様の教えではないと言えます。では学生は勉強しなくても良いのかと言えばそうではありません。大神様の教えとは勉強を通して自分を磨くことであり、自分の得た知識で多くの人のために尽くすことにあります。

勉強して優秀な成績を修め、社会的に成功することは賞賛されるべことではあるとしてもそれは大神様の教えではなく、世俗の知恵であると説かれています。それに対して大神様の教えとは勉強を通して自分を磨くことが目的であり、自分の得た知識で多くの人のために尽くすことであっても社会的な成功は結果でしかありません。

その多くの人のために尽くす働きの極致が神様の働きであり、その働きを知るならば自然に頭をたれ、神様を敬うのが神道の教えであると説かれています。

立ち向かうべき試練から逃れることを求め、苦悩から逃れることを求める者には神仏の加護は期待できないと考えよ。神仏は試練に立ち向かう者にはその気概に応じた加護を与える。それは神仏が自分の意思で自分の人生を力強く生きることを求めるからであり、神仏がその者の人生の主役となることを求めていないからである。


「立ち向かうべき試練から逃れることを求め、苦悩から逃れることを求める者には神仏の加護は期待できないと考えよ。」とは厳しいお言葉ではありますが、これは人生の主役は自分であると自覚せよとのことです。人生の主役は自分であり、自分の意思で自分の人生を生きようとの気概がなければ、神仏を頼られたとしても神仏はその願いには応えてはくれないと説かれています。


神仏に苦悩が解消されることを求めるのであるならば神仏に苦悩に立ち向かうことを誓え、神仏の力にて苦悩が解消されることを求めるのであるならば神仏に苦悩に立ち向かう力が与えられることを求めよ。

さすれば神仏は苦悩に立ち向かう勇気を与え、苦悩に立ち向かう力を与えるであろう。そして苦悩に立ち向かう者を加護し、その苦悩が解消されるようにと働かれるであろう。


自分の意思で自分の人生を生きようとの気持ちを持つことが一番大切であると説かれたいのだと思われます。

at 21:50, 星 良謙・子授け地蔵, 神仏の御言葉

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試練に向かう心・解説1(星)

猫の額ほどの庭しかなく、特に餌台などがあるわけでもないのですが、春先になると小鳥が集まって来ます。



管理人も知りませんでしたが小鳥はみかんが好きなようです。みかんを輪切りにて置いておくと小鳥が器用についばんでいます。ただ管理人は小鳥の種類に詳しくないことから小鳥の名前がわかりません。orz

それはさておき・・・
前回に投稿しました御神霊の言葉を少し解説します。
大神様のお心に背を向け、大神様のその限りなき慈悲の働きを知ることもなく生きる者よ
汝らは憐れなり、その憐れさに我は限りなき涙を流す。


冒頭に「大神様のお心に背を向け、大神様のその限りなき慈悲の働きを知ることもなく生きる者よ」とありますがこれは特定の方を前提にしている言葉ではありません。よくこの話は自分のことを言われていると思われる方は多いのですが、少なくともこの言葉は特定の人を対象にはしていません。

何ゆえに目の前の苦悩が解消されなければ神仏が存在しないと考えるのであろうか。

目の前の苦悩が解消されなければ神仏が存在しないと考えるのは天地を創造した根源の神がすべての存在を意のままに操っていると考えるからであろうか。
もしも天地を創造し、この地上のすべての存在を創造した神仏が存在しているのであるなら人間の苦悩など一瞬にて解消することは可能であろう。

されど天地を創造し、この地上のすべての存在を創造した神仏が存在しているか否かは我には分からず。我に分かるのは日々、衆生の苦悩を解消することを願い、日々衆生の苦悩を解消するために働かれている偉大な方が存在していることだけである。


神仏がどのような存在であると考えるかは、人によって千差万別ではありますがここでは神霊は神仏をどのように考えるのかと問いかけられています。それは神とは何かの根源的な問いかけです。

神仏とは天変地異を自由自在に起こし、人間の運命など簡単に変えることができるとしてもそんな神仏が存在しているかどうかは分からないと神霊は説かれていますが管理人にも分かるはずがありません。管理人にしても言葉が聞くことができる神霊は自分の心境に近い神霊だけであり、霊格が高すぎればその存在は分かっても何を考えておられるかは分かりません。またもしも分かったとしてもそのお心を言葉にて伝えることは不可能であると思います。

それらの方々がすべてを創造された否かを我が知ることはできず、またその方々がいつから存在されているかを知ることもできない。我が知ることができるのはそれらの方々が多くの者たちの苦しみが解消されることを願い、多くの者たちが心穏やかに生きることができるようにと働かれていることだけである。

しかしその限りなき深き慈悲の心も知らず、多くの者たちは自分の苦悩を解消されぬがために神仏の存在を疑い、その心を疑う。それは多くの者が神仏の存在を自分の都合だけで動いてくれる存在であることを願い、自分の願いだけを叶えてくれる存在であることを願うからではないか。

もしも全知全能の神仏が存在し、人間の思考が及びも付かないほどの力を持つとするならばそなたの抱えている苦悩を瞬時に解消できるとしても同時にそなたの存在を瞬時に消すことができる力を持つはずである。


管理人が分かると言ってはあまりにも恐れ多いのですが感じることができた最高の神霊の前では人間の考える善悪や慈悲と言った言葉は全く通用しないのではないかとすら感じました。これは感覚の世界ですので言葉では伝えようがないことです。

勿論、御神仏のお姿が霊視できたわけでなく、お言葉が聞けたわけではないのですが圧倒的な力に触れたときにはすべての言葉が虚しく感じてしまいます。そしてただ平伏すことしかできない自分がそこにいます。

今回、掲載した言葉を降ろされた神霊は霊格の高い方なのですが神道の神霊であるためか、言葉では説明することが困難な教えばかりです。ただ神霊が説かれたいのは神を自分の願いを実現してくれる便利屋のように考えてはならないことではないかと思います。

神が人間の苦悩を簡単に解消できるとするならば、それは同時に人間の運命を左右でき、天変地異も起こせるほどの力を持つことになります。神に自分の苦悩を解消して欲しいと求めるのは、神が人間の運命を左右できる力を持つと認めているのと同じこであり、神が人間の運命を左右できる力を持つと認めているのならばそれだけの敬意を持って神の前に立ちなさいと言われたいのではないかと思われます。


at 23:16, 星 良謙・子授け地蔵, 神仏の御言葉

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