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ルートセールスだった頃(星)

管理人は若い頃に、あるメーカーでルートセールスをしていた時期がありました。
どこの会社でもある話なのですが、よく営業部門と製造部門は対立しました。
管理人の働いていた業界は、流行が激しく、商品サイクルも短い業界であったことから、デザイン次第で売り上げが大きく左右されました。

営業からするならば、デザイン性の良さは、売り上げの要因でしかなく、どんなにデザインが良くても、売れなければ、何の意味もないと考えます。勿論、売れるならば、どんなデザインであっても、かまわないとは考えませんが、商品が売れるか、売れないかで成績が大きく左右されしまうことから奇麗事を言ってもいられません。

小売店にしても問屋にしても事情は同じであり、デザインが良いか、悪いかよりも売れるか、売れないかが重要な問題でした。売れるとなれば、飛ぶように売れますが、飽きられてしまうならば、見向きもされなくなってしまうことから、流行の少ない業界に比べると深刻な影響がありました。

しかし、デザインを担当する企画の社員は、売れるか売れないかよりも、自分たちの好みを優先しているのではないかと思えることや、どうして売れてもいない商品を作るのかと思うことがありました。そのときに営業は、売れる商品を作れと言っていました。

勿論、何が売れるを予測することが、非常に難しい業界であることから、確実に売れる商品ばかりを作ることは、最初から期待していませんでした。つまりその時の流行よりも自分たちの好みを優先することは、やめてくれとの意味であり、また他社製品の真似をするならば、もっと調べてから企画してくれとの意味でした。

当時から管理人は、理屈っぽい人間であると言われていましたので、新製品が売れるか、売れないかをどうしたならば、予測できるかを考えました。試行錯誤はありましたが、ある程度の予測は可能となりました。ある程度の予想が可能となりましたので、商品によってやや強引とも言える販売をするか、積極的に売り込むことを控えるかを決めてから営業をするようになりました。

その時に感じたことは幾つもありました。爆発的に売れる商品を別にするならば、地域性や客層などの違いで売れる、売れないが左右されることや爆発的に売れる商品は飽きられることも早いことなどかありました。更に商品が良くても売り方や発売のタイミングを誤るならば、売れる商品でも売れなくなることなどがありました。

振り返って考えるならば、この当時に得た教訓がその後の考え方に大きく影響したように感じます。誰しも同じであると思いますが、新製品を企画するときには、売れると信じて企画すると思います。しかし現実には全く売れないこともあれば、売れ残ることもあります。

これは人生でも同じだと思います。誰しもが失敗しようとは考えていないと思います。大きな成功は得られなくても、小さな幸せを得たいと考える人は、多いのではないでしょうか。しかし、現実には人生には、多くの挫折があります。仕事で失敗する、病気になる、恋人ができないなど、悩みは千差万別ではありますが、大半の人は悩みを抱えています。

ではどうしたら良いのかと言えば、傾向と対策を考えるしかないと言えます。流行が激しくて、何が売れるかが分からないと言っても、ある程度の傾向性を見出すことは可能でしたし、一定の法則もあることも分かりました。その傾向性や法則を無視したならば、売れる可能性は極端に落ちます。

しかし、管理人がいた会社に限らず、経営者や製造部門にいる人は、商品が売れない理由を商品以外に求める傾向があり、また商品の欠点を指摘されるならば、言い訳を並べたる人も多くいました。それに対して商品の欠点を指摘されるならば、その意見を聞き、有益な意見であれば、改善に努力する人もいました。そして成功する人は、後者でした。

これは神仏のご加護も同じです。神仏は具体的な言葉では指摘して頂けませんが、気付きの機会を与えてくださります。ただそれが多くの人には、それが混乱や試練となることも多いようです。人生で挫折や苦悩が多いのであるならば、何かそこには原因が隠れているはずであり、その原因に気がつかないがために同じ失敗を繰り返すのではないでしょうか。

そして本来の占いの目的も事前に問題点を知り、人生の軌道修正を容易にすることなのです。そのため鑑定結果をどこまで活用できるかは、依頼者の気持ち次第になります。

at 00:10, 星 良謙・子授け地蔵, 管理人のひとりごと

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売れる本の条件(星)

中日ドラゴンズがオリックスに連敗してしまいました。
[壁]oT) エーンエーン
何故だ・・・
オリャー!!(ノ-o-)ノ⌒┳ ┫┻┣
とちゃぶ台返しをしたいところなのですが・・・

ちゃぶ台もなく・・・
|ヽ(〜〜。) 一人で落ち込んでおります。

それはさておき・・・
皆様、コメント有難う御座います。m(_ _)m
あまりコメントのご返事も書けないのにもかかわらず、数多くのコメントをお書き頂き感謝しております。

オカミ様のコメントにて神道の神霊からの霊界通信は、電子出版を考えています。一般の書籍の出版は現実の問題として簡単ではないこともありますが、それ以上に出版社に迷惑をかけたくないことから基本的には考えていません。

前回、前々回の記事にて書きましたが、除霊などの心霊現象の話は一切登場しませんし、また内容的にもあまり一般的な内容ではありません。そのため一般の書籍で発売したとしてもさして売れるとも思えないことから出版社に迷惑をかけないですむ電子出版にするつもりです。

勝明様のコメントに良い本が売れるとは限らないとの御言葉がありました。管理人の本が良い本であるかどうかは別として占いの本では一般の方に受ける本は売れても専門的な本は売れないようです。管理人の経験では、占い本は著者が最初に書いた本が一番内容があり、著作が増えるに従って内容が希薄になる傾向があります。

しかし、これはある意味避けられないことではないかと思います。管理人は一応、お金を頂いて占いをしていますので占いの専門書を揃えています。安い本ならば一冊千五百円程度の本もありますが、専門書の場合には一冊四・五千円の本も珍しくありません。また既に絶版となり、古本でかなりの高値で取引されている本も何冊かあります。

同じ専門書でも仏教書となると少しばかり事情が異なります。仏教書の場合には専門的な内容の本でも文庫本になっている本は数多くあります。管理人がこのブログで紹介しました、角川文庫ソフィアの仏教の思想シリーズのように、専門書が文庫本となっている場合があります。特に講談社学術文庫は、専門書して出版された本が数多くあります。また講談社現代新書も一般向きの本ではありますが、専門的な内容が含まれている本も数多くあります。

この違いは何かを考えるならば、やはり需要の違いではないでしょうか。占いの場合には幾ら占ないがブームになったとしても遊び感覚であり、売れるのは、おみくじ形式で自分の運勢を知ることができる本です。そのため専門的な内容を詳しく書くならば、内容としては充実しますが、内容が難しくなり、売れ行きは減少してしまいます。

例えば、星占いとして一般の書店の店頭に並ぶ本の大半は星座別の占いになっています。しかし、少し星占いを勉強されている人ならば、星座占いであって星占いではないと言いたくなりますが、どちらが売れるかとなれば圧倒的に星座占いの本です。

これが心霊世界の本となれば、その傾向はもっと顕著になります。書店の精神世界のコーナーで平置きされているのは、TVでお馴染みの霊能者の本やスピリッチュアルリズムの古典ともなっている霊言集のシリーズなどです。他に「トンデモ本の世界」でお馴染みの某出版社の本や赤い派手な表紙の某出版社のシリーズが並んでいます。

管理人もそれらの本を読んだことはありますが、さして参考になる本はありませんでした。スピリッチュアルリズムの古典ともなっている霊言集のシリーズにしても内容的には、仏教の入門書程度の内容にしか感じませんでした。

このような書き方をすると僧侶の方々からお叱りを受けるかもしれませんが、大乗仏教経典群の成立は、僧侶が瞑想体験の中で得られた知識を経典とし、その経典を学僧が理論化し、また僧侶が瞑想体験の中でそれを発展させることの繰り返しであったと思われます。

そのため大乗仏教経典とは、古い歴史を持つスピリッチュアルリズムであると言えます。そして思想的な天才とも言える学僧の方々が数え切れぬ程の量の注釈書を残されていますので比べること自体が無謀であるとも言えます。ただ悲しいかな、現代の仏教学は哲学となり、スピリッチュアルリズムの要素は排除されています。

話を戻しますと心霊世界の本で売れるのは、読者の興味を引くよな心霊現象の話や道徳論ではないかとも思えるような内容の本であり、専門的になればなる程売れないようです。またもう一つの傾向として専門的に勉強している人間からするならば、間違いだらけの内容であるとしても一般の人が信じたくなる内容の本が一番売れるようです。

分かっているならば、少しは売れる本を書けばよいのでしょうが・・・
神道の御神霊からの強い要望もあり、その次の本に期待と言うところでしょうか。



PS
オカミ様のコメントにて幸せ太りですかとのご質問でしたが・・・・
どちらかと言えば、一人暮らしが長かったことから不摂生と言うか、外食ばかりの生活が続いていたことが原因です。
少しは健康に注意しろと言われ、体重は減らしたのですが・・・
まずは食生活の改善に取り組んでいます。(- .-)ヾ ポリポリ

at 00:45, 星 良謙・子授け地蔵, 管理人のひとりごと

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少しばかりマニアックな本です2(星)

管理人は占いのサイトにアクセスすることはあまりないのですが、「陰陽師石田千尋の平成徒然草」だけは忘れた頃にアクセスしています。先日も久々にアクセスしてみたのですが、石田千尋氏ほどの方でも悪質な顧客に悩まされているようです。
2008年5月26日の記事「本来の業ムができません」

管理人とは異なり、何度もテレビにて出演され、大手のサイトで占いのサイトを開設ていますので、対策を講じることは可能と思えるのですが、対応は難しいようです。

その話はこっちにおいといて\(^^\) (/^^)/

前回は「霊界通信 南無阿弥陀仏」を取り上げましたので、今回は「霊界通信 法華経のこころ」を取り上げることにします。法華経と言いますと、日蓮宗の専売特許の印象がありますが、この本は天台宗の神霊からの霊界通信の記録です。

実はこの本を書いた当時は、天台宗の教えをあまり学んではいませんでした。勿論、今でもさして詳しくもないのですが、霊界通信が始まった当初から、天台宗の神霊からの霊界通信が比較的多くありました。

そのため天台宗の教えを学ぼうと専門書を読みましたが、さっぱり理解できませんでした。最初は空の思想が全く理解できなかったことから、中論などを読みましたが、余計に混乱しただけでした。結局、何冊かの入門書を読み、何とか少しは理解できたものの、天台宗の教えを理解するためには、唯識や華厳、具舎論、原始仏教と大乗仏教の歴史を学ぶ結果となりました。

管理人が天台宗の教えを学ぶために原始仏教にまで遡って学ばなければならなかったのは、天台宗の教えが総合仏教の性格が強いことに理由があります。そのため、天台宗の教えとは何かを簡潔に説明するのは非常に困難なのですが、特徴として四宗融合や教観二門、顕密双修などがあります。

四宗融合の四宗とは、円(具体的には法華経の理念)、密教、禅、戒(大乗菩薩戒)の異なった思想、信仰などをどれも重視することであり、教観二門は、法華経を中心とした教義と止観の実践を均しく重視することです。そして顕密双修は顕教と密教を共に学ぶことです。つまり総合的な仏教であると言えます。

そのため天台宗の教えは何かと説明しようとしても、非常に難しいと言えます。その中心的な教えを羅列しても天台本覚論、一念三千、四種三昧、五時教判など解説するならば専門用語の羅列となってしまうことばかりです。

管理人は、天台宗の神霊が説く内容を理解したいことや、その内容が天台宗の教えから逸脱した内容ではないかの確認をしたいことから、天台宗の教えを学んでいたのですが、天台宗の神霊からは、管理人が残された人生のすべてを費やしたとしても、我々の学びに及ぶはずもないと言われてしまいました。

神霊が伝えたいと考えたのは、天台宗の教えではなく、菩薩の精神であったようです。当時は、そのことの意味が今一つ分かりませんでしたが、「山家学生式」の一文を読んで天台宗の神霊が何を伝えたかったのか理解できた気がしています。

山家学生式(さんげがくしょうしき:修行僧の守るべき規則と心得の書)
国宝とは何物ぞ 宝とは道心なり。道心あるの人を名づけて国宝となす。故に古人言(いわ)く、径寸十枚、これ国宝に非ず 一隅を照らす 此れ則ち国宝なりと。古哲また言わく、能(よ)く言いて行うこと能(あた)はざるは国の師なり 能(よ)く行ひて言うこと能(あた)わざるは国の用(ゆう)なり 能(よ)く行ひ能(よ)く言ふは国の宝なり 三品(さんぼん)の内(うち) 唯(ただ)言うこと能(あた)わず 行うこと能(わた)わざるを国の賊となすと乃(すなわ)ち道心あるの佛子 西には菩薩と稱(しょう)し 東には君子と号す 悪事を己に向(むか)え好事を他に与え 己れを忘れて他を利するは、慈悲の極みなり

最初に「国宝とは何物ぞ 宝とは道心なり。道心あるの人を名づけて国宝となす。故に古人言(いわ)く、径寸十枚、これ国宝に非ず 一隅を照らす」とありますが、これは下記の故事ことです。
中国の故事で、魏王が斉王に、私は径寸の宝玉十個を有するが、斉王はどのような宝を持っているかと問うた。斉王は、自分はそのような宝はないが、他国に使すれば平和を保ち、社会の秩序を守れば人心をおさめ盗み心をおこさせない臣下を有する。彼らはそれぞれ役割を果たし社会の一隅を照らしていると答えたという。

天台宗の神霊は菩薩の精神の大切さを繰り返し説かれましたが、この「山家学生式」で説かれている内容がすべてであった気がしています。ただ結果としては、多くの人が期待するような霊界の話もなければ、ご利益を期待できるような内容でもなく、この本もやはりマニアックな本になってしまいました。

at 00:01, 星 良謙・子授け地蔵, 本の紹介

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少しばかりマニアックな本です(星)

このところ、神道の神霊の御言葉を整理しているですが・・・・
遅々として進んでおりません。(- .-)ヾ ポリポリ

その理由として基本的に話し言葉で書かれた文章を書き言葉にするために文章を多少修正しなければならないのですが・・・
修正をしていると指導が入ることから暫く続けていると
へろ へろへろ〜 (;@_@)ノ となり・・・
o( _ _ )o...zzzzzZZ となってしまいます。

そんな調子ですので、ちっとも完成しません。
それでも何とか、今月中には完成させたいとは考えていたのですが、この調子では今月中は少し厳しいかとも考えています。

しかし、苦労しながらも何とか出版したいとは考えている本ではありますが、著名な霊能者の本のようにベストセラーになることはないと考えています。出版する前は、少しは期待していたのですが、読んだ人の感想が多少なりとも届き始めてからは、そんな期待感は消えました。

少しばかり心霊世界に興味を持つ人は、本の内容を馬鹿にしました。別に何の内容を馬鹿にされるのはかまわないのですが、黙って聞いているとそれらの人たちが素晴らしい内容であると考えるのは、心霊現象の話が満載の本や呪文や修法が満載の本ではないかと感じました。その意味では管理人の本は実につまらない本だと思います。

そして多少なりとも伝統的な宗教に興味を持つ人は、霊界通信の題名を見ただけで怪しげな霊能者の本と考えて手にとってもらえないであろうとの声も聞きました。結局、二冊の本を評価してくれるのは、心霊現象に対して偏見がなく、何らかの信仰歴を持たれていた方が多いようです。

また「霊界通信 南無阿弥陀仏」の本に関しては、当たり前のことが書いてあるだけだとの意見や同じことを繰り返し書いてあるだけだとの意見もありましたが、これはある意味当然の意見であると考えるようになりました。

他力の教えとは実に単純な教えです。要約してしまうならば法然上人が最後に残された言葉である一枚起請文や蓮如上人の残された御文(大谷派での名称であり、本願寺派では御文章)となります。

一枚起請文
唐土(もろこし)我朝にもろもろの智者達の沙汰(さた)し申さるる観念の念にもあらず。また学問して、念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思いとりて申す外(ほか)には別の仔細(しさい)候(そうら)わず。ただ三心四修と申すことの候(そうろ)うは、皆決定(けつじょう)して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにもり候(そうろ)うなり。この外(ほか)に奥ふかき事を存ぜば、二尊のあわれみにはずれ、本願にも候(そうろ)うべし。念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。
証のために両手印(りょうしゅいん)をもってす。
浄土宗の安心起行(あんじんこうぎょう)この一紙(いつし)に至極せり。源空が所存、このほかに全く別義を存ぜず、滅後の邪義をふせがんがために所存をしるす畢(おわ)んぬ。
建暦(けんりやく)二年正月二十三日 大師在御判

少し解説します。最初に「唐土(もろこし)我朝にもろもろの智者達の沙汰(さた)し申さるる観念の念にもあらず。」とありますが、これは称名念仏と観仏の違いのことです。
浄土宗成立以前にも天台宗においては念仏が修行として重視されていましたし、今でも天台宗では念仏が重視されています。

しかし浄土宗成立以前には「南無阿弥陀仏」と称える称名念仏は、修行ができない者のための方便の教えであるとされていました。そして本来の念仏とは、観仏と言われる瞑想して極楽浄土の様子を心の中に思い浮かべる方法であると考えられていました。

観無量寿経には、上品上生から始まり、上品中生、上品下生、中品上生、中品中生・・下品下生までの九種類の極楽往生の方法が説かれています。そして下品下生で戒律を守ることや修行ができない者は、死ぬ直前に阿弥陀仏の名前を十回称えれば、極楽往生できると説かれています。そのため念仏を称えることだけで極楽往生できるとの教えは方便の教えであるとされていました。

それを否定して南無阿弥陀仏と称えるだけで極楽往生できると主張されたのが法然上人であり、浄土宗の教えです。「また学問して、念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。」とは、教えを学ばなければ極楽往生できないとの考え方の否定です。つまり阿弥陀如来の慈悲を信じて念仏を称える以外に別の教えはないと説かれています。

「ただ三心四修と申すことの候(そうろ)うは、皆決定(けつじょう)して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにもり候(そうろ)うなり。」を意訳しますと、三心四修などと言う事はありますがそれらはすべて念仏を称えて必ず極楽浄土に往生できると思う心の中に含まれいるとなります。

三心
至誠心・真実心、まことの心
深心・深く信じる心
廻向発願心・極楽浄土に生まれたいと願う心

四修
恭敬修・阿弥陀仏にうやうやしく敬いの心で接してお供え物をする
無余修・念仏以外の行いをまじえない
無間修・絶え間なく念仏を称える
長時修・上記の「恭敬修・無余修・無間修」を命のある限り続ける

「この外(ほか)に奥ふかき事を存ぜば、二尊のあわれみにはずれ、本願にも候(そうろ)うべし。」を意訳しますと「この外に説くべき教えがあるならば、二尊(阿弥陀仏・釈迦如来)の慈悲からはずれ、阿弥陀仏の願いにも背くことになります。」

「たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。」とは「お釈迦様が説かれた教えのすべてを学んでいるとしても愚かな身であると考えてひたすらに念仏しなさい。」と言った意味となります。

つまり阿弥陀仏の慈悲を信じて極楽往生をすることを願ってひたすらに念仏を称えなさいとの教えであり、他に説くべき教えはないとの内容です。

当然のことながら他力門の神霊も同じ立場であり、阿弥陀仏の慈悲を信じて極楽往生をすることを願ってひたすらに念仏を称えなさいとの教えであり、他に説くべき教えはないとの立場を守られます。そのため霊界通信の内容も同じことの繰り返しとも言えます。

しかし、いくら教えを信じたとしても念仏を称え続けることに何の意味があるのだろうかと、疑問を持たれる方も多いのではないかと思います。病気やお金のことで悩んでいるならば、死後の心配よりも目の前の問題が切実であり、死後に極楽往生が約束されると言っても実感がない方が大半ではないかと思います。

「霊界通信 南無阿弥陀仏」の中で取り上げている神霊とのやり取りは、そんな疑問ばかりです。つまり信仰を継続した過程の中で抱く疑問なのです。そのため、念仏の教えを実践されている方には、評判が良かったのです。要は少しばかりマニアックすぎて、売れなかったと言うことでしょうか。

at 00:00, 星 良謙・子授け地蔵, 本の紹介

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生き神と生き仏(星)

どうも、このところ不調と言うか・・・・α~ (ー.ー") ンーー
少しばかり元気のない管理人です。
管理人は肥満と言うほどの体型ではありませんが、最近は少しばかりお腹の肉が気になり始めました。

そこで今日、黒烏龍茶なる物を買い込んできました。
うーん、何やら虚しい抵抗のような気が・・・
いっそこのまま太り続けて和服でも着れば、管理人の著書も少しは売れるようになるのでしょうか?

それは、さておき・・・
前回の記事を投稿しようと「加持祈祷の本」を読み直していましたところ、「経典を絶対視する僧侶と生き神・生き仏にすがる民衆」のタイトルが目に入りました。
加持祈祷の本 (NSMブックスエソテリカ宗教書シリーズ)
加持祈祷の本 (NSMブックスエソテリカ宗教書シリーズ)
藤巻 一保 P32−33

内容としては、僧侶や行者は経典を絶対視して経典に書かれている加持を行うことから、霊験が得られることは当然であると考え、民衆には経典の内容を理解することもできないために、法力を持つと考えられた僧侶や行者を生き神・生き仏として崇め、すがったとの内容です。

内容としては十一世紀半ばに書かれた「法華験記」が引用されていますので、古い時代の話として書かれていますが、管理人には今も昔も何一つとして変わっていない気がします。管理人は密教の修行僧でもなければ、行者ではありませんので加持祈祷をすることもありません。

そのため加持祈祷の根拠を経典に求めても、知識以上の価値はありませんが、僧侶や行者の方は、今でも経典を絶対視されているようです。また苦悩の中にある人の多くが、自分の苦悩を解消してくれる生き神様や生き仏を求めています。

現実の問題として多くの人が宗教に求めるのは、心の教えではなく現世利益です。そのため、ご利益信仰・葬式仏教と批判されたとしても祈願や供養がなければ、伝統的な教団であるとしても教団を維持することは困難であると思われます。また様々な問題で苦しむ人々の苦悩が、解消されるを神仏に祈願することや他界された方を供養することが悪いことであるとも思えません。

そして在家の人間には出家者や神職に布施をする機会となり、僧侶や神職は布施を受けることで修行を継続できるだけでなく、祈願や供養をすることで神仏との縁を深めることや教えを学ぶ機会を得ることができると言えます。

しかし、ここで一つの疑問が生じます。それは神仏と衆生の間に仲介者は必要なのかとの疑問です。管理人はこの疑問に対する明確な答えを得られないでいます。ただ現時点において到達した考えは、僧侶や神職の方に祈願や供養を依頼したとしても、神仏のお力を受け止めることができるか否かは、本人の心次第であることです。

そのため僧侶や神職の方、或いは祈祷師や行者の方が、神仏と衆生の間に立つとしても僧侶や神職の方を生き神様や生き仏としてその法力や神通力にすがるとなれば、少しばかり問題があるのではないかと思います。僧侶や神職の方が、神仏の仲介者であるとしても代理人ではなく、僧侶や神職の方を神仏の代理人と考えるならば、僧侶や神職の方に依頼することが神仏への祈願となります。

しかし、加持祈祷にしても祈願にしても神仏に対する働きかけであり、僧侶や神職の方、或いは祈祷師や行者の方が、どれだけ熱心に祈られたとしても神仏に対する働きかけであると言えます。そのため加持祈祷や祈願を受ける側は、神仏と向き合う心が求められるのではないかと思われます。

そして加持祈祷や祈願を行う側は、現世利益を約束するだけでなく、少しでも苦悩する人を導けるように心掛けることが求められるのではないかと思われます。

at 10:39, 星 良謙・子授け地蔵, 開運祈願

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祈る心と三密加持(星)

古代の神霊の御言葉は、前回で終わる予定でしたが解説を書いていて密教の加持祈祷の原理との共通点があるのではないかと考えました。

そこで記憶をたどりながら、参考文献を探したのですが・・・・
どの本に書いてあったか見つからず・・・
ウロチョロ へ(^^へ)))(((ノ^^)ノウロチョロ
密教関連の本を調べなおしているだけで、昨夜は投稿できませんでした。orz

誰ですか、管理人がもう呆けたのかと疑っているのは!
管理人が呆けているのは、昔からです。( ̄^ ̄)えっへん
と威張るようなことではないのですが・・・

結局、いつものブックス・エソテリカから少し引用することにします。
蛇足ながらこのブックス・エソテリカのシリーズは専門書とは言えませんが、入門書としてはどの本も良くまとまっている本です。

「加持とは、如来の大悲(加)と、人々の信心(持)を表している。あたかも陽光のような仏の力が、一日度との心の水に映しだされて現れてくることを<加>といい、行者の心の水が、よくその仏の陽光を感じとることを<持>と名づける」―『即身成仏義』で、空海は加持をこう説明している。
 仏は、その広大な慈悲によって、陽光を惜しみなく降りそそいでいる。その陽光をしっかりと感じとれるかどうかは、信心による。よく信心を持して、心を散らさずに仏とひとつになるべく修行に努め、三密加持を成就すれば、行者はその身そのままで仏となる(即身成仏)。自身が仏とひとつ身であるならば、彼の行う加持は、仏の加持でもあることになる。

加持祈祷の本 (NSMブックスエソテリカ宗教書シリーズ)
加持祈祷の本 (NSMブックスエソテリカ宗教書シリーズ)
藤巻 一保 P27

尚、即身成仏義についてはこちらを参考にしてください。
密教経典入門
松本 照敬

古代の神霊のお言葉を再度、掲載します。

しかしあなたがあなたの愛する者の幸せを願い、あなたの大切な者の幸せを願い、あなたの身近な者の幸せを願い、あなたの知り合いの者の幸せを願い、多くの者の幸せを願うならば、あなたの願いは聞き届けられるでしょう。
その心は民の幸せを願う神の気持ちと同じだからです。
あなたが神と同じ気持ちになることができたならば、あなたの祈りは神に届くのです。
それはあなたと神が一つの心で結ばれた証であり、あなたの心と神の心が一つになることなのです。
祈りとは神と心を一つにすることであり、偉大な人智を超えた神と心を一つにすることなのです。
それが祈りなのです。それが祈りの本質なのです


読み比べて頂ければわかると思いますが、基本的には同じことを言われている気がします。

仏は、その広大な慈悲によって、陽光を惜しみなく降りそそいでいる。その陽光をしっかりと感じとれるかどうかは、信心による。よく信心を持して、心を散らさずに仏とひとつになるべく修行に努め、三密加持を成就すれば、行者はその身そのままで仏となる(即身成仏)。自身が仏とひとつ身であるならば、彼の行う加持は、仏の加持でもあることになる。

しかしあなたがあなたの愛する者の幸せを願い、あなたの大切な者の幸せを願い、あなたの身近な者の幸せを願い、あなたの知り合いの者の幸せを願い、多くの者の幸せを願うならば、あなたの願いは聞き届けられるでしょう。
その心は民の幸せを願う神の気持ちと同じだからです。


つまり最終的にはどちらも神仏の境地に到達した場合に神仏の働きと行者や祈る人間が一体となり、行者や祈る人間の働きが神仏の慈悲の働きとなることを言われています。

では何が違うかとなりますと、「弘法大師は、よく信心を持して、心を散らさずに仏とひとつになるべく修行に努め、三密加持を成就すれば、行者はその身そのままで仏となる(即身成仏)。」と修行を重視されています。

それに対して古代の神霊は作法よりも「まずは神を敬う心こそが大切なのです。」と説かれています。

作法にこだわる必要もなく、作法にこだわるべきではありません。
まずは神を敬う心こそが大切なのです。
その心を忘れるならば作法には何の意味もありません。

神を敬う心を忘れたときに神の心を見失うのです。
その心こそが大切であり、その心を忘れないことが神に仕える者には大切なのです。

しかし多くの者はそのことを忘れて作法にこだわるのです。
私からするならば神を敬う心を忘れた作法には何の意味もありません。
それは仏と呼ばれる方々でも同じ心のはずです。

元の記事

これはどちらが正しいと言うべきことではないと思います。
密教においては、修行の過程を重視しますが修行をして心が忘れられたならば手段である修行が目的となってしまいます。そして神を敬う気持ちが大切であるからと作法や修行を安易に否定するならば、ご都合主義に陥りやすいと思われます。

補足しますと、「三密加持」の三密とは、身密・口密・意密であり、身に印を結び(身密)、口に真言を唱え(口密)、心に本尊を観ずる(意密)のことですが、これらを行えば誰でも簡単に即身成仏できるわけではありません。

具体的には多くの修行の段階があり、その段階を無視することはできません。またその前の段階として発願得度・誓願と受戒があります。つまり多くの者の幸せを願う気持ちを持つことが最初に問われています。そのため、その心を忘れてしまったならば三密には何の意味もなくなってしまうのではないかと思われます。

at 11:43, 星 良謙・子授け地蔵, 神仏の御言葉

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古代の神霊の御言葉・解説5(星)

今回も古代の神霊の御言葉を解説します。

しかし多くの人たちは、祈りとは現世利益を求めるための行為としか考えていないのです。
そのことに神は心を痛めておられるのです。
祈りとは神と心を一つにするための聖なる時間なのです。


管理人は二十代の頃から霊感はありましたが、自分ではそれをあまり霊感とか、霊能力とは考えてはいませんでした。その理由は、管理人が霊の存在を漠然と感じることはできるものの、明確に霊視ができるわけでもなく、またオーラも見ることができなかったからです。

更に霊夢なのどの能力や予知能力、人の考えていることがわかるわけでもなく、言うならば一般の方が抱くような霊能者が持つ能力は何一つとして持っていませんでした。そのため、自分では気の感覚が鋭い程度に考えていました。

しかし霊視であろうと気の感覚であろうと、不成仏霊の存在を感じることには違いがなく、その感覚をどうしたならば遮断できるのか、そしてその影響をどうしたならば遮断できるのかと悩んでいました。

一般の方は、霊能力に憧れを持つ方も多いようですが、実際に霊能力を持つ人の多くは、霊感体質や霊媒体質と言う名の病気でしかないと考えています。勿論、自分の霊能力を自慢する人もいますが、悩んでいる人の方が遥かに多いとの印象があります。

世の中では、心霊写真や心霊スポットが人気を集めているようですが、それは一般の方には心霊現象が非日常的な出来事であるからでしかなく、多少なりとも霊感のある人間には、不成仏霊は野良犬や野良猫と同じ程度の感覚となります。つまり心霊現象が日常の生活の一部になったときには、苦痛でしかありません。

そのため、何人かの霊能者や宗教家に救いを求めましたが、少なからぬ時間とお金を無駄にしただけでなく、宗教に対する不審感が強くなりました。そのため一時期、宗教や神仏に背を向けて生きていた時期もありましたが、それで何かが解決できるはずもありませんでした。

そんな、人に話したとしても理解されることもない悩みを抱え、またそれを解決する手段も見つけられずにいた頃に、ある大きな神社に参拝するようになりました。そこで何を求める気持ちもなく、ただ参拝して帰るだけではありましたが、その時間は自分にとって大切な時間であったと言えます。

それが神霊の説かれる「神と心を一つにするための聖なる時間」であったと言うつもりもありませんが、心の休まる静かな時間でした。振り返って考えるならば、神霊は無論のこと、神社に植えられた木々も疲れきった気持ちを癒してくれていたと思います。

at 01:03, 星 良謙・子授け地蔵, 神仏の御言葉

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古代の神霊の御言葉・解説4(星)

ご迷惑をお掛けしましたが、無事に戻ってまいりました。m(_ _)m
と言う訳で・・・・
またぼつぼつと投稿させて頂きます。

さて、今回も古代の神霊の御言葉を解説させて頂きます。

しかしあなたがあなたの愛する者の幸せを願い、あなたの大切な者の幸せを願い、あなたの身近な者の幸せを願い、あなたの知り合いの者の幸せを願い、多くの者の幸せを願うならば、あなたの願いは聞き届けられるでしょう。
その心は民の幸せを願う神の気持ちと同じだからです。
あなたが神と同じ気持ちになることができたならば、あなたの祈りは神に届くのです。
それはあなたと神が一つの心で結ばれた証であり、あなたの心と神の心が一つになることなのです。
祈りとは神と心を一つにすることであり、偉大な人智を超えた神と心を一つにすることなのです。
それが祈りなのです。それが祈りの本質なのです。


いつも思うことなのですが・・・
心霊世界のことは謎だらけです。
管理人にしても分かっているの僅かなことだけであり、大半のことは分かりません。
ただ幾つかの法則があると言えるのではないかと思うことはあります。
その一つの法則が波長同通の法則と言われる法則です。

管理人は宗教家ではありませんので、人の道を説く気持ちはありませんが、神仏に願いが聞き届けられることを願われるのであるならば、神仏と同じ心で生きることが効果的であると思われます。しかし、それが分かっていてもできないのが凡人の悲しさであり、聖人君子のような心で生きることは、簡単なことではありません。

ただ、愛する人の幸せを願い、身近な人の幸せを願うことならば、凡人であっても実践することはできるのではないでしょうか。神仏に多くの人の幸せを願うことは難しいかもしれませんが、純粋に愛する人の幸せを願い、身近な人の幸せを願うことができるならば、その分だけ神仏の心に近付くことができると言えます。

それは無限に続く階段を上り続ける行為であり、古代の神霊が説かれている「祈りとは神と心を一つにすることであり、偉大な人智を超えた神と心を一つにすることなのです。」とは、その極致の御言葉であると思われます。

at 23:50, 星 良謙・子授け地蔵, 神仏の御言葉

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留守にします。(星)

5月17日の土曜日から19日の月曜日まで所用で留守にします。
出先でのメールの確認などはセキュリティーの不安でありますので、メールの確認やご返事を控えたいと考えています。
そのため、鑑定やご相談、お問い合わせ、記事の投稿が3日間ほどできなくなります。

ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。m(_ _)m


at 13:02, 星 良謙・子授け地蔵, ご挨拶

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古代の神霊の御言葉・解説3(星)

世の中は色々と騒がしいのですが・・・
そんな世の中の動きとは無関係に

ああっっ・・・エース川上が打たれてしまった。(T_T) ウルウル
o(>ロロ<)oバタバタo(>ロロ<)o
と騒いでおります。

そんなわけで・・・
今日も気が重いままに御神霊の御言葉の解説します。

自分がこれだけ一所懸命に祈ったのに神は自分の願いを聞き届けてくれなかったと神を恨むのであるならばそれは神と対等の気持ちを持っていた証なのです。
自分が神と対等であるとの思いがあるならば、その祈りは神に届かないのです。


目に見えない御神仏の存在をどのように考えるか、これが今回、取り上げた御神霊の御言葉のすべてであるような気がします。

これは人間対神仏ではなく、人間対人間として考えるならば、少し理解しやすいのではないでしょうか。例えば野球に興味のない人間ならば松井選手やイチロー選手が、どれだけ偉大な選手であるかを説明されたとしても実感がないのではないかと思われます。しかし、野球選手を目指して努力している人が、松井選手やイチロー選手の前に立ったならば、緊張を通り越してしまうのではないでしょうか。

野球選手ならば、マスコミに登場する機会も多いことから、野球を知らなくても松井選手やイチロー選手の偉大さは伝わるかもしれません。しかし、ロックやジャズの世界では超有名人であったとしても知らない人は多いのではないでしょうか。ファンからするならば、偉大すぎて近寄りがたい人であっても関心のない人間には、一人の人間でしかないと言えます。

それと同じように神が偉大な存在であると言っても、それをどこまで実感として感じることができるかが大きな差となります。しかし、これは言葉で説明することは非常に困難なことです。

神が天地を創造したとか、神が人類を絶滅されるだけの力があるとか、神は人間の運命を自由自在に決定できるとか言うことは簡単ではありますが、管理人は天地を創造した神が存在しているのか、神が人類を絶滅される力を持つのかと言ったことに関しては、何も断言できません。

ただ過去の経験の中で神仏のご加護を実感し、そのご加護に感謝しているだけです。その経験の中で、神仏と言われる方々の圧倒的な力を感じたことや巨大なお姿を拝見したことはあります。ではそれが神仏の偉大さの証であるかとなれば、少し違う気がします。

御神仏の偉大さは、その働きの中にあると思います。しかし、その働きは気がつかなければそれまでです。傍からするならば御神仏のご加護であると思えることでも、本人が自分の実力や努力の成果であると考えるならばそれまてです。

雨が降っても雨水をどれだけ利用できるかは別であるように、御神仏のご加護はすべての人間にあるとしても、そのご加護をどれだけ受け止められるかは別の問題です。多くの方は神仏のご加護やお力と言えば、奇跡を思い浮かべられると思います。しかし、管理人の経験では、奇跡の連続ではなく、小さな修正の積み重ねが半年後、一年後に人生を大きく好転させると思います。

そのため日常の生活の中で神仏のご加護に気付くことが人生を大きく好転させる秘訣ではないかと思います。

at 13:00, 星 良謙・子授け地蔵, 神仏の御言葉

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