枉神の話4(星)
最初にお断わりしておかなければならりませんが、掲載している「枉神の話」は枉神に対する個人的な考察であり、個人的な意見です。そのためすべては仮説であり、異なる意見を持たれている方があるとしても当然かと考えています。
さて、枉神の話3では「しかし、ここで疑問が生じます。神仏の慈悲の顕れとして現世利益があるとするならば、どうして慈悲の塊であるはずの神仏が参拝を継続しなかったから災いをもたらしたり、粗末に扱ったことを理由に災いを起こすのでしょうか。」との話で終わりました。
管理人の経験では、高い境地の神霊は、何を考えておられるかは見当がつきません。しかし、境地の低い神霊の場合には、普通の人間の発想に近いと感じています。そのため、前回の疑問を神霊ではなく、一般の人間に近い発想で考えるならば答えが得られるのではないかと思われます。
高い境地に到達していない一般的な人間であっても苦悩している人がいるならば、助けたいとの気持ちを持つことは多いのではないかと思います。しかし苦悩している人のために奔走して、その苦悩が解消したのに、相手から感謝の言葉の一つもないとしたならば、自分がこれだけしてやったのにと考える方は多いのではないでしょうか。
これと同じように高い境地に到達していない神霊は、自分がこれだけ奔走しているのに感謝の気持ちを持たないことに怒っている可能性があります。つまり慈悲の気持ちを持ち、衆生の苦悩を解消したいとの気持ちを持つとしても、そこには自分の働きに感謝して欲しいとの気持ちがあるのではないかと思われます。
そのため、祈願をした人間には神霊の働きに気付くこともなく、神霊の働きに感謝の心を持たないことから、人間的な気持ちを残している神霊は、警告として災いを起こしたのではないかと思われます。しかし、高い境地にない神霊のすべてが、自分の働きに感謝することを求めて災いを引き起こしているかと言えば、そのようなことはありません。
その違いは何かと考えるならば、神仏の手足として働いているとの自覚を持つ神霊があるか、その自覚がないかの違いではないかと思われます。神仏の手足として働いているとの自覚を持つ神霊は、一般的に眷属と呼ばれることが多いようですが、この眷属と言われる段階の神霊もその考え方は千差万別であり、同一ではありません。
自分たちは、神仏の手足として働いているだけであり、教えを説く立場にはないと教えを説くことを拒絶する神霊もいれば、教えを説くことも自分たちの役目であると考えている神霊もいます。ただいずれの神霊も神仏の手足として働かれているようです。
それに対して神仏の手足として働いているとの自覚がない神霊とは、どのような神霊であるかとなりますとよく分からないのが実情です。神仏の手足として働いている神霊と何回か話をしたことがありますが、神仏の手足として働いているとの自覚がない神霊とは話した経験が皆無近いからです。ただ厄介なことは、神仏の手足として働いているとの自覚がない神霊もその考えは千差万別であると思われます。
しかし管理人がまだ霊能力と言えるような力もなく、心霊現象に悩まされていた頃に、出会った霊能者や新興宗教の教祖たちが語る神仏の言葉の中には、自分のことを神仏であると名乗り、自分の言葉に従うことを求めたりすることが多いとの印象がありました。
それらに共通しているのは、自分は〇〇の神であるとか、自分は〇〇仏であると名乗ることでした。或いは自分が〇〇の生まれかわりであると自称する人もいました。勿論、それらの真偽を検証することはできませんが、それら人々の言動に疑問を抱くようになり、離れました。個人的には、それらの人々とは決別することになりましたが、その言葉を信じて教えを学ぶだけでなく、熱心に布教活動をしている人々もいるようです。
では自分は〇〇の神であるとか、自分は〇〇仏であると名乗る神霊がすべて新興宗教や霊能者を指導する神霊であるかと言えば、伝統的な教団に所属している方であっても自分は〇〇の神であるとか、自分は〇〇仏であると名乗る神霊をご本尊として祀り、多くの信者を抱えて祈祷を中心として活動されている祈祷師もおられます。
そのため、枉神とは何かとを考察しますと何が枉神であるかを判断する明確な基準は存在しないと言えます。しかし、枉神が神仏を名乗る資格のない段階の神霊が勝手に神仏を名乗っているとしても、苦悩する人々を救いたいとの慈悲の心を持つことを考えるならば、神仏ではないと否定することが難しいと言えます。
ただ管理人の過去の経験では、神仏の手足として働くべき祈祷師や宗教家が神仏の代理人となった場合に転落が始まる気がしています。神仏の言葉を伝えることが自分の役目ではあるとしても、自分が神仏の代理人となったならば、苦悩する人々を救いたいとの慈悲の心がなく、自分のことを神仏として崇めることを追い求める邪霊に支配される可能性が高くなります。そのため、神霊の問題と言うよりも生きている人間の問題であると言えるかもしれません。
しかし、この問題は実に根の深い問題であると思います。信仰熱心であると言われる人々の中には現世利益を追い求める人々や現世利益があるからこそ信仰を続けていると言われる人も少なくありません。しかし、これらの人々の信仰がご利益信仰であるとしても実際に参拝や祈願をしている対象となる神社仏閣は伝統的な神社仏閣であることが少なくありません。
結局ところとして多くの人が現世利益を追い求め、現世利益を与えてくれる神霊こそが神仏であると考える人々がいる以上は、神仏を名乗る資格のない段階の神霊が勝手に神仏を名乗ることはなくならないと思います。
また神仏を名乗る資格のない段階の神霊が勝手に神仏を名乗っていたとしてもそれを見破ることは非常に難しいことです。枉神が神仏を名乗る資格のない段階の神霊であり、人々を惑わす邪神であるとしても、慈悲を説き、人々に現世利益を与えることは珍しくありません。
そのため多くの人間が神仏の言葉であると信じ、自分のやっていることは人々のためであると信じることが多いようです。ただその結果として自分が神仏の代理人であるかのように考え始めますと転落する危険性が非常に高くなります。管理人にしてもそれは同じであり、常に転落する危険は抱えています。
結局、枉神とは何かの結論と言えるほどの内容とはなりませんでした。悟りの段階に無限の段階がある以上は、明確な基準はありませんが自分が神仏の代理人であるかのように考え始めますと転落する危険性が非常に高くなると言えます。
星