new entries
categories
archives
recent comment
recent trackback
links
mobile
qrcode
others
無料ブログ作成サービス JUGEM
search this site.

枉神の話4(星)

なんやかんやで、枉神の話3の続きを書くこともなく、他の話を書いておりましたが、今回は枉神の話の話を書こうと考えています。

最初にお断わりしておかなければならりませんが、掲載している「枉神の話」は枉神に対する個人的な考察であり、個人的な意見です。そのためすべては仮説であり、異なる意見を持たれている方があるとしても当然かと考えています。

さて、枉神の話3では「しかし、ここで疑問が生じます。神仏の慈悲の顕れとして現世利益があるとするならば、どうして慈悲の塊であるはずの神仏が参拝を継続しなかったから災いをもたらしたり、粗末に扱ったことを理由に災いを起こすのでしょうか。」との話で終わりました。

管理人の経験では、高い境地の神霊は、何を考えておられるかは見当がつきません。しかし、境地の低い神霊の場合には、普通の人間の発想に近いと感じています。そのため、前回の疑問を神霊ではなく、一般の人間に近い発想で考えるならば答えが得られるのではないかと思われます。

高い境地に到達していない一般的な人間であっても苦悩している人がいるならば、助けたいとの気持ちを持つことは多いのではないかと思います。しかし苦悩している人のために奔走して、その苦悩が解消したのに、相手から感謝の言葉の一つもないとしたならば、自分がこれだけしてやったのにと考える方は多いのではないでしょうか。

これと同じように高い境地に到達していない神霊は、自分がこれだけ奔走しているのに感謝の気持ちを持たないことに怒っている可能性があります。つまり慈悲の気持ちを持ち、衆生の苦悩を解消したいとの気持ちを持つとしても、そこには自分の働きに感謝して欲しいとの気持ちがあるのではないかと思われます。

そのため、祈願をした人間には神霊の働きに気付くこともなく、神霊の働きに感謝の心を持たないことから、人間的な気持ちを残している神霊は、警告として災いを起こしたのではないかと思われます。しかし、高い境地にない神霊のすべてが、自分の働きに感謝することを求めて災いを引き起こしているかと言えば、そのようなことはありません。

その違いは何かと考えるならば、神仏の手足として働いているとの自覚を持つ神霊があるか、その自覚がないかの違いではないかと思われます。神仏の手足として働いているとの自覚を持つ神霊は、一般的に眷属と呼ばれることが多いようですが、この眷属と言われる段階の神霊もその考え方は千差万別であり、同一ではありません。

自分たちは、神仏の手足として働いているだけであり、教えを説く立場にはないと教えを説くことを拒絶する神霊もいれば、教えを説くことも自分たちの役目であると考えている神霊もいます。ただいずれの神霊も神仏の手足として働かれているようです。

それに対して神仏の手足として働いているとの自覚がない神霊とは、どのような神霊であるかとなりますとよく分からないのが実情です。神仏の手足として働いている神霊と何回か話をしたことがありますが、神仏の手足として働いているとの自覚がない神霊とは話した経験が皆無近いからです。ただ厄介なことは、神仏の手足として働いているとの自覚がない神霊もその考えは千差万別であると思われます。

しかし管理人がまだ霊能力と言えるような力もなく、心霊現象に悩まされていた頃に、出会った霊能者や新興宗教の教祖たちが語る神仏の言葉の中には、自分のことを神仏であると名乗り、自分の言葉に従うことを求めたりすることが多いとの印象がありました。

それらに共通しているのは、自分は〇〇の神であるとか、自分は〇〇仏であると名乗ることでした。或いは自分が〇〇の生まれかわりであると自称する人もいました。勿論、それらの真偽を検証することはできませんが、それら人々の言動に疑問を抱くようになり、離れました。個人的には、それらの人々とは決別することになりましたが、その言葉を信じて教えを学ぶだけでなく、熱心に布教活動をしている人々もいるようです。

では自分は〇〇の神であるとか、自分は〇〇仏であると名乗る神霊がすべて新興宗教や霊能者を指導する神霊であるかと言えば、伝統的な教団に所属している方であっても自分は〇〇の神であるとか、自分は〇〇仏であると名乗る神霊をご本尊として祀り、多くの信者を抱えて祈祷を中心として活動されている祈祷師もおられます。

そのため、枉神とは何かとを考察しますと何が枉神であるかを判断する明確な基準は存在しないと言えます。しかし、枉神が神仏を名乗る資格のない段階の神霊が勝手に神仏を名乗っているとしても、苦悩する人々を救いたいとの慈悲の心を持つことを考えるならば、神仏ではないと否定することが難しいと言えます。

ただ管理人の過去の経験では、神仏の手足として働くべき祈祷師や宗教家が神仏の代理人となった場合に転落が始まる気がしています。神仏の言葉を伝えることが自分の役目ではあるとしても、自分が神仏の代理人となったならば、苦悩する人々を救いたいとの慈悲の心がなく、自分のことを神仏として崇めることを追い求める邪霊に支配される可能性が高くなります。そのため、神霊の問題と言うよりも生きている人間の問題であると言えるかもしれません。

しかし、この問題は実に根の深い問題であると思います。信仰熱心であると言われる人々の中には現世利益を追い求める人々や現世利益があるからこそ信仰を続けていると言われる人も少なくありません。しかし、これらの人々の信仰がご利益信仰であるとしても実際に参拝や祈願をしている対象となる神社仏閣は伝統的な神社仏閣であることが少なくありません。

結局ところとして多くの人が現世利益を追い求め、現世利益を与えてくれる神霊こそが神仏であると考える人々がいる以上は、神仏を名乗る資格のない段階の神霊が勝手に神仏を名乗ることはなくならないと思います。

また神仏を名乗る資格のない段階の神霊が勝手に神仏を名乗っていたとしてもそれを見破ることは非常に難しいことです。枉神が神仏を名乗る資格のない段階の神霊であり、人々を惑わす邪神であるとしても、慈悲を説き、人々に現世利益を与えることは珍しくありません。

そのため多くの人間が神仏の言葉であると信じ、自分のやっていることは人々のためであると信じることが多いようです。ただその結果として自分が神仏の代理人であるかのように考え始めますと転落する危険性が非常に高くなります。管理人にしてもそれは同じであり、常に転落する危険は抱えています。

結局、枉神とは何かの結論と言えるほどの内容とはなりませんでした。悟りの段階に無限の段階がある以上は、明確な基準はありませんが自分が神仏の代理人であるかのように考え始めますと転落する危険性が非常に高くなると言えます。


at 01:59, 星 良謙・子授け地蔵, 心霊現象と神秘体験

comments(3), trackbacks(0), pookmark

久々に読者からのご質問

テンプル様、オカミ様、たく様、ピノ様、皆様、コメント有難う御座います。

テンプル様
【枉神が「自分自身を神仏とし、自分の教えこそこそが真実だとする神霊」とします。】【レイキヒーリングなど、伝授を受けると霊道が開かれ、ヒーリングパワーを発揮できるものがあります。この伝授系の神霊は、神様になりたかったけど神様になれなかった神霊たちが多いと聴きました。枉神のことでしょうか?】とのご質問ですが、レイキヒーリングがどのような物なのか知りませんのでお答えしようがありません。

以前に一度レイキのサイトにアクセスしたことはありますが、どのような内容であったかも記憶していません。そのため伝授と言っても宗教的な行為を前提にしているか、それとも気功やヨガのように宗教とは無関係な行為なのかも分かりません。

また「霊道が開かれる」との言葉が使われることがありますが、何をもって「霊道が開かれる」とするのかが分かりません。霊能力と言ってもその能力は様々であり、「霊視ができる」「心霊の声が聞こえる」「人の心が読める」「様々なことが予知できる」「行ったことのない場所の光景が見える」などの能力があるとされています。

「人の心が読める」「様々なことが予知できる」「行ったことのない場所の光景が見える」などは霊能力と言うよりも超能力と言うべき能力かもしれませんが、一般的には霊能力として扱われていることが多いようです。

また、霊視ができるようになることや心霊の声が聞こえようになることが霊道が開かれることであるとするならば、心霊の影響を受けやすくなることも霊道が開かれることになってしまいます。そのため霊道が開かれた状態がどのような状態であるかが分からなければ何とも言えません。

次に「伝授を受けると霊道が開かれ、ヒーリングパワーを発揮できるものがあります。」とありますが、「ヒーリングパワー」がどのような力かを体験したことがありません。その力が気功と同じような力であるとするならば、指導霊がいなくてもその力を発揮することは可能なはずです。

そのため主催者としては、参加者の自覚を促すための儀礼としての行為であり、伝授に宗教的な意味のない儀式であるかもしれません。しかし心霊の影響を受けやすい方が儀式を体験されることで自分が特別な人間になったと考えるならば、その心の隙を様々な心霊が利用する可能性はあります。

この場合には、指導者としての責任はあるとしても参加者の責任が大きく、もしその団体を神霊が指導していたとしてもその神霊が神様になりたかったけど神様になれなかった神霊であるとは言えません。つまり、精神世界においてはすべては仮説であり、より合理的な仮説を信じるしかないと言えます。

オカミ様
いつもコメント有難う御座います。
精神世界の厄介なことは、何が本当であり、何が間違いであるかを判断することが非常に難しいことだけでなく、何が本当であり、何が間違いであるかの基準も曖昧であることです。

その意味では、競馬の予想と同じではないかと思います。競馬予想は数多くの専門家がテレビ・ラジオ・専門誌などで活躍されているだけでなく、占い師が勝ち馬を予想したりしています。更に書店にはデータを分析する本から荒唐無稽とも言える本まで並んでいます。

競馬の予想の目的が順位予想であることを考えるならば、客観的なデータだけを利用して予想するのが本当であり、占いに近いような予想が間違いであるとは言えません。客観的なデータだけを利用した予想よりも占いに近いような予想の的中率が高いのであるならば占いに近い予想が信頼できることになります。

そのため何が正しく、何が間違いであるかを問題にしても意味はなく、何が信頼できるか、何が信頼できないかが問題となります。しかし、競馬の予想であるならば、的中したかどうかは客観的に判断できるのですが、精神世界ではその基準もないと言うところでしょうか。

たく様
【先日の訂正の記事はどこが矛盾しているのか間違っているのか、私には難しくてよくわからなかったのですが…】

天津神と国津神の違いが分かっていないと何が矛盾するのかが分からないかと思われます。専門用語の羅列で読者を煙にまくようなことはしたくないのですが、天津神と国津神の解説から始めようとしますと難解な話になることは避けられません。

ネットで検索したところ、下記のサイトに詳しい解説ので参考にしてください。
亀山神社 まめ知識 神様って何?

尚、続編を期待して頂きながらも今回も別の話題になってしまいました。m(_ _)m

ピノ様
【こんにちは。毎回楽しみに見ています。が、正直難しくて何度も読み返してます。】

心の問題や心霊現象・神仏の世界・占いなど、どの話も分かりやすく書くようには心がけているつもりなのですが、分かりやすくまとめることの方が難しいと感じます。

(- .-)ヾ ポリポリ

【自信過剰だったり、自分の知識をひけらかして満足している人を見ると逆に羨ましくなってしまいます】

自信過剰や自分の知識をひけらかして満足することは、不安感や自信のなさの裏返しではないかと思います。そんな人たちはいつも他人の視線を気にして生きいることから本当の心の安らぎを得ることは難しいと思います。

仏教の各宗旨の神霊や修験道や神道の神霊が説かれている話も本当の心の安らぎを得るための教えだと思います。

at 21:54, 星 良謙・子授け地蔵, 読者からの質問

comments(3), trackbacks(0), pookmark

絶対的な真理(星)

本当ならば、枉神の話4を書くべきなのですが・・・
枉神の話を書いていると脱線しそうなことから、別の話にしました。
何か、ご不満でも・・・
<(`^´)> エッヘン 管理人は気まぐれなんです。

それはさておき・・・
刑事ドラマの世界では、推理力の豊かな探偵が僅かな手掛かりから真犯人を突き止めるのが定番なのですが、現実の世界では、地道で丹念な捜査が必要です。そのためドラマのような活躍を現実の刑事に求めるならば、失望することになります。

このことは霊能者でも同じではないかと思います。映画や小説の中では、霊能者が魔物や魔王を苦難の末に倒すなどの派手な活躍していますが、現実の霊能者の活動には程遠いのではないかと思います。

映画の世界で正義の味方が悪の組織に乗り込み、次々と敵を倒すような活躍を霊能者に求めたとしてもそんな活躍ができるはずもありません。その理由の一つとしてどんな悪霊であるとしても神仏からするならば倒すべき敵ではなく、救うべき者となります。

しかし、精神世界に足を踏み入れた人の多くは、正義の味方になったような錯覚に陥る方が多いようです。ここで霊能者ではなく、精神世界と書きましたのは、正義の味方になったような錯覚に陥る人は霊能者に限られた話ではないからです。

精神世界に限らず、武道でも占いでも少しばかり色々なことが分かり始めますと、人を指導したくなったり、自分の知識や技を自慢したくなったりするようです。宗教や哲学、心理学などを学ばれるならば、見識が急激に拡大して自分が知的な巨人になった錯覚に陥りやすくなります。

これが武道などの誰にも結果の分かることであるならば、自分の自信過信を知る結果となりますが、精神世界は客観的な判断が困難です。そのため先入観で決め付けてすべてが分かった気になっていたり、考えが破綻しても気付かない人が多いと感じます。

精神世界においては正解がない問題が珍しくなく、また仏教においてもどの宗旨の教えが本当の仏教であるかと考えたとしても答えはなく、大乗仏教を否定して上座部仏教(小乗仏教)に釈迦の姿を追い求めたとしても釈迦の教えが忠実に残されている保障は何もありません。

つまりどの宗旨も自分の宗旨が釈迦の真意を伝える教えであると主張することが可能であると同時にどの宗旨の教えであっても釈迦の真意を伝える教えであるとの証明をすることはできないと言えます。

同じように心霊世界にては、何が本物であり、何が贋物であるか判断することは非常に困難なことです。また何が本物が本物であるかを判断する基準も明確でなく、最終的には自分が納得できるかできないかでしかないと考えます。

日本仏教の歴史を考えるならば倶舎宗・成実宗・三論宗・律宗・華厳宗・法相宗などの奈良仏教があり、天台宗・真言宗の平安仏教、浄土宗、浄土真宗、時宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗の鎌倉仏教、その後に成立した融通念仏宗、黄檗宗などが様々な宗旨があります。蛇足ながら奈良仏教の倶舎宗・成実宗・三論宗は宗旨としては現在は存在していません。また達磨宗のように衰退してしまった宗旨もあります。

話を戻しますと当然の話ではありますが、弘法大師にしても伝教大師(最澄)にしても奈良仏教は学んでいましたし、法然上人などの奈良仏教の各開祖は奈良仏教や平安仏教の教えに精通されていました。つまり各宗旨の開祖はそれまでの教えに納得できなかったがために新しい教えを求め、宗旨を開いたと言えます。

では奈良仏教は間違いであり、平安仏教が正しいと言えるのでしょうか。また平安仏教が間違いであり、鎌倉仏教が正しいと言えるのでしょうか。管理人にはどの宗旨の教えにしても優れた教えであるとしか言えません。

精神世界においてはこのような例は珍しくないと思います。他力門の立場から禅宗の教えを批判することや禅宗の立場から他力の教えを批判することはできます。同じように密教の立場から禅宗を批判することはできます。しかし、他の宗旨を論破したとしてもそれで結論が得られる問題でもありません。

最終的にはどの教えを信じるかの問題であり、その教えを信じる人が少なくなればその宗旨は衰退することになり、やがてその教団は消滅することになります。そのため数百年の歴史を持つ教団はそれだけ支持され続けたと言えますが、数百年の歴史を持つから間違いのない教えであるとは断言もできません。

つまり相対的な正しさを求めることは可能かもしれませんが、絶対的な正しさを追い求めたとしても得られないと考えます。しかし、多くの人はその絶対的な正しさの基準を追い求めているのではないかと思うことがあります。

絶対的な正しさの基準と言える教えがあるならば楽なのですが、そんな教えがあったとしても難解すぎて理解できないと考えます。管理人も神仏は何を考えているのかさっぱりわからないと思うときばかりであり、疑問の山です。そしてそのことを一度尋ねてみたいと思いますが、神仏のお話をお聞きすることは肉体的な負担も大きく、また時間の束縛も馬鹿になりません。

またこれが心霊世界の法則となると事情は更に厳しくなります。資料となるような文献と言っても魑魅魍魎の世界と言えるような状況であり、すべてを疑わなければならないと考えています。そのためこのブログの記事にしても個人的な体験の積み重ねから得られた推論が大半です。

それは民間療法の実践者が自分の経験から医療について語っているのと同じであり、普遍的な法則について自由自在に語るにはデータがあまりにも不足しています。そのためある程度の確信を持てる内容だけを投稿していますが、一つの仮説ではあるとしても絶対的な真実であると断言できません。

前世の問題でも同じですが、心霊の世界では、何が真実であるかを追い求めたとしても正解はなく、すべては仮説であると考えています。多くの神霊は自分が生前に信仰していた教えこそが本当の神仏の教えであると信念を持っていても、他の神霊の教えを否定しない理由も同じではないかと思います。それに対して自分の教えこそが真実であると断言するのが枉神ではないかと考えます。

ある著名な霊能者は、勉強しなくても神霊がすべて教えてくれると言われていましたが、管理人はそれが枉神の惑わしでないと断言する自信もありません。

at 12:34, 星 良謙・子授け地蔵, 心霊現象と神秘体験

comments(4), trackbacks(0), pookmark

枉神の話3・訂正とお詫び(星)

昨夜、2008.06.19 Thursdayの記事・枉神の話(星)に間違いがあるとのご指摘を受けましたのでお詫びして訂正します。

また、大国神甲子祝詞では「天(あま)の広戈(ひろほこ)を振(ふりたて)て邪鬼(あしきもの)を撥平(はらいむけ)語問(こととひ)し」とあります。

邪鬼とありますので魔物と言った印象を受けてしまいますが、「鬼」を辞書で調べますと「(天つ神に対して)地上の国つ神。荒ぶる神。」と言った意味があります。そのため邪神と言った意味と解釈されるべき言葉と思われます。


ご指摘を頂いたのは、大国主命は当然のことながら国津神とされていますので、鬼を「(天つ神に対して)地上の国つ神。」であると定義をするならば、国津神が国津神を打ち破り、問いただすとのことになってしまいます。そのため「荒ぶる神」と解釈することが可能ではあるとしても「国津神」と解釈するのは矛盾していました。

皆様に誤った情報をお伝えして申し訳ありませんでした。尚、鬼に関しては詳しいことが分かりましたらご報告させて頂きます。

また下記の一文にも疑問を抱くとのお話がありました。
神道の本を読んでいますと、これは大和朝廷が日本を統一する過程において他の部族を征服し、支配下に組み入れた歴史を表しているとの説があります。


また花守り様から「枉神は大和朝廷側の神々にとっては従わない神だったけれど、人に対しては神であったということでしょうか。」とのご質問を頂きましたが、大和朝廷の成立当時の信仰に関しては限られた資料しかなく、真実は歴史の闇の中にしかないと思われます。そのため、「大和朝廷が日本を統一する過程において他の部族を征服し、支配下に組み入れた歴史を表している」との説とは一つの仮説であり、定説ではありません。

言葉足らずにて定説であるかのような書き方をしたことを改めてお詫びします。尚、古代史に関しては何が定説であると紹介できるほどあまり詳しくありませんので参考文献を掲載しておきます。

アマテラスの誕生 (講談社学術文庫)

アマテラスの誕生 (講談社学術文庫)
筑紫 申真

日本神話と古代国家 (講談社学術文庫)
日本神話と古代国家 (講談社学術文庫)
直木 孝次郎

出雲神話 (講談社現代新書 444)
出雲神話 (講談社現代新書 444)
松前 健
上記の三冊は専門的過ぎて一般の方には難しいかもしれません。

また神道に関する一般向きの本があまり見かけませんので、お勧めの本を紹介させて頂きます。
神道の常識がわかる小事典
神道の常識がわかる小事典
三橋 健
入門書としてお勧めの一冊です。

日本神道入門―21世紀の危機を救うミソギの原理
日本神道入門―21世紀の危機を救うミソギの原理
本田 総一郎
古い本ではありますが、神道の入門書としては良書であると思います。

神道とは何か―自然の霊性を感じて生きる
神道とは何か―自然の霊性を感じて生きる
鎌田 東二
学術的な裏づけのある本ではありませんので異論も多いかとは思いますが、参考になる一冊であると思われます。

at 13:28, 星 良謙・子授け地蔵, 心霊現象と神秘体験

comments(1), trackbacks(0), pookmark

枉神の話2(星)

梅雨入りとは言うものの・・・・
どこが梅雨かと言いたくなる様な天気が続いていたのですが・・・
:::( ^^)T ::: 雨だ となったら土砂降りとなりました。

それはさておき・・・
前回の続きを書きます。前回は「神霊が自分のことを神仏と考えているか、考えていないかの違いではないでしょうか。」と書きましたが、その違いについて書こうと考えていたのですが本題に入る前に終わってしまいました。

管理人の住む地域から、さほど遠くない場所にこの地域では有名な稲荷神社があります。この神社では毎月、月末の深夜に参拝をするとご利益があるとされ、数多くの方の参拝者で賑わいます。また週末には多くの参拝者で賑わい、参道には数多くの商店が並ぶ活気のある神社です。

この地域の経営者や営業関係の人間ならば一度は参拝したことのあるのではないかと思います。管理人も管理人も何度も参拝している神社なのですが、毎月の参拝をやめると祟りがあるとの話もあります。管理人も一時期、祈願のために参拝を継続していた時期がありましたが、参拝をやめたからと言って災いがあったわけではありません。

同じような事例としてお稲荷さんを自宅で祀るとご利益は大きくても、粗末に扱うと災いがあるとの風評を聞いたことがあります。管理人は個人的にはそのような経験をしたことはありませんが、そのような体験をされた方がいるようです。

ではどうして参拝をやめたことで災いが起きると言われるを考えますと、その理由が前回に投稿しました「自分のことを神仏と考えているか、考えていないかの違い」になるとのではないかとなります。

そのことを考える前に災いを起こした神霊が悪霊であるか、それとも神霊であるのかについて考えて見たいと思います。神仏に助けを求めて参拝する人からするならば自分の祈願が聞き届けられ、自分の苦悩が解消されるのであるならば、神仏のご利益であると考えたとしても不思議ではありません。

また、神仏の慈悲とは衆生や国民(くにたみ)の苦悩を解消することであると考えるならば、現世利益も神仏の慈悲の顕れであり、神仏の働きであると言えます。しかし、現世利益を追い求める行為は、ご利益信仰であり、本来の信仰から逸脱している行為であるとの考え方もあります。

ではどのような内容の祈願であるならば、神仏に聞き届けられ、どのような内容の祈願の場合には神仏に聞き届けられないのでしょうか。祈願の内容が病気平癒や良縁祈願ならば聞き届けられるべきであり、商売繁盛であるからご利益信仰であると批判されるべきことなのでしょうか。しかし、個人的には、どんな祈願であるとしても本人には切実な苦悩であることが多く、その祈願の内容に優劣を持ち込んでも意味のないことではないかと思います。

祈願する人々にとって神仏とは奇跡を起こしてくれる不思議な力を持つ存在であると考えるならば、自分の苦悩を解消して自分に利益を与えてくれる神仏こそが神仏であり、祈っても祈っても自分の願いを聞き届けてくれることがないのであるならば、鰯の頭を拝んでいるのと同じことであると言えます。

そのため現世利益を期待できる神仏こそが多くの人が求める神仏であるとするならば、冒頭に紹介しました神社は現世利益で有名であり、多くの人が参拝に訪れるのも当然であると言えます。また現世利益も神仏の慈悲の顕れであり、神仏の働きであると考えるならば現世利益で有名な神社こそが本来の神社であると考えることができます。

しかし、ここで疑問が生じます。神仏の慈悲の顕れとして現世利益があるとするならば、どうして慈悲の塊であるはずの神仏が参拝を継続しなかったから災いをもたらしたり、粗末に扱ったことを理由に災いを起こすのでしょうか。

α~ (ー.ー") ンーー またまた本題に入る前に話が長くなってしまいました。
この話の続きは、次回に投稿します。

at 11:47, 星 良謙・子授け地蔵, 心霊現象と神秘体験

comments(0), trackbacks(0), pookmark

枉神の話(星)

季節の変わり目と言うことで・・・
普段にもましてやる気もなく、怠惰にすごしております。
( ̄。 ̄)ボーーォ

本当は少しばかり暇になってしまったのですが・・・
と言う訳で、久々に開運の扉の鑑定例を書いていました。

実は鑑定例をどうしようかといつも悩みます。実際に鑑定した結果が一番参考になると思われますが、秘密厳守の仕事ですので勝手に公開もできません。そのため若い頃に占った古い記録を引っ張り出し、その中の何枚かを入れ替えて鑑定例としていました。

ただ、それも面倒な作業であることから、何かいい方法はないかと考えていましたが、会ったこともない有名人物を占ってみました。実際の鑑定がどんなものなのかを紹介することが目的ですので誰を占ったのかは、推測してください。

記事は こちらから

それはさておき・・・
今回は枉神の話を取り上げたいと思います。しかし、枉神と言っても何のことかと思われる方も多いのではないかと思います。この言葉は、稲荷祝詞に登場する言葉ですが、邪神と言った意味で使われています。

稲荷祝詞に関してはこちら

管理人は素朴な疑問として邪悪な存在であるのであるならば、どうして枉神と呼ぶのかとの疑問です。つまり枉神と言っても一応は神として扱っていることの疑問です。神道の本を読んでいますと、これは大和朝廷が日本を統一する過程において他の部族を征服し、支配下に組み入れた歴史を表しているとの説があります。

これは他の祝詞の文章を読んでいると説得力があると感じます。例えば、枉神と同じような言葉としては大祓詞の祝詞の中に「荒ぶる神等(かみとも)」との言葉があります。

大祓詞では「国中(くぬち)に荒ぶる神等(かみとも)をば。神(かむ)問(とは)しに問(とは)し賜(たま)ひ。神掃(かむはら)ひに掃(はら)ひ賜(たま)ひて語問(こととひ)し」とあります。

現代語訳
「このように神々がおっしゃったにもかかわらず、この国にはいまだ荒れ狂う(恭順を示さない)神々がいた。そこでニニギ命はそうした神々に「なぜ従わないのか」ということを幾度も問われたあと、それでも従わなかった神々は徹底して追い払われた。」

神道行法の本―日本の霊統を貫く神祇奉祭の秘事 (New sight mook―Books esoterica)
神道行法の本―日本の霊統を貫く神祇奉祭の秘事 (New sight mook―Books esoterica) P71

祝詞を素直に読むならば、交渉が最初にあり、交渉を繰り返した末に交渉が決裂した場合に武力を行使したことになります。

また、大国神甲子祝詞では「天(あま)の広戈(ひろほこ)を振(ふりたて)て邪鬼(あしきもの)を撥平(はらいむけ)語問(こととひ)し」とあります。

邪鬼とありますので魔物と言った印象を受けてしまいますが、「鬼」を辞書で調べますと「(天つ神に対して)地上の国つ神。荒ぶる神。」と言った意味があります。そのため邪神と言った意味と解釈されるべき言葉と思われます。

いずれにしても魔物や魔王と言った悪の象徴ではなく、神として扱われいます。その理由に関しては、管理人は古代史に精通しているわけでもなく、また当時の状況を知る手掛かりを知る資料も少ないので本当はどのような状況であったか誰にも分からないのではないかと思います。

そんな古代史の謎は専門家にお任せするとして、心霊現象として考えるならば、管理人の体験としては枉神との名称に素直に納得します。管理人は幸か不幸か、数多くの神霊とお話をさせて頂いていますが、神霊と言ってすべて同じ考えをされているわけではなく、宗教が異なれば考えが異なり、同じ仏教でも宗旨が異なれば、考え方も異なります。

更に悟りの段階が異なるならば、同じ宗旨の神霊であるとしても考え方が同一であるとは限りません。そのため神霊の数だけ教えがあるとも言えます。そして神霊の定義を慈悲の心を持つ心霊であると規定するならば、枉神も神霊である考えます。

勿論、生きている人間を意のままに操ろうとする心霊がいることを否定する気持ちはありませんが、この場合には枉神と言うよりも邪霊と呼ぶべきではないかと思われます。生きている人間を惑わす存在であり、神と呼べる存在ではありません。

しかし、枉神となると事情が少し変わります。枉神と言っても積極的に人を惑わそうと意志はなく、また枉神と言っても慈悲も説けば、力のある神霊であることも少なくありません。そのため、枉神を邪悪な存在として扱うべきではないと言えます。

では管理人は枉神と一般的な意味での神仏の違いをどのように考えているかを書きますと、神霊が自分のことを神仏と考えているか、考えていないかの違いではないでしょうか。過去の経験では、神霊が生前の名前を名乗られることは皆無に近いことです。

その理由に関しては「霊界通信 南無阿弥陀仏」の冒頭に浄土宗の神霊の御言葉を掲載していますが、真宗の神霊も同じ趣旨のことを語られました。神霊は、「自分たちに名前を問うことは郵便配達人に名前を問うのと同じことであり、大切なことは誰が語ったではなく、何を語ったかではないか」と語られました。そして「私たちは阿弥陀仏の手足として働いているのだから手足に名前を尋ねるのと同じであり、名乗るとしたならば阿弥陀仏でしかない」と名前を語ることを拒絶されました。

そこにあるのは、個の意識を捨て去った境地であり、これはどの宗旨の神霊でも同じであるだけでなく、神道の神霊でも同じでした。そのため、神霊が神仏の名前を名乗られたとしても、神霊は神仏との意識を持たれてはいませんでした。つまり不動明王を名乗られたとしても不動明王の手足として働いているとの意識でした。

ここまでは、過去にも何度か書いた話なのですが・・・
話が長くなってしまいましたので、次回に続きます。



at 23:28, 星 良謙・子授け地蔵, 心霊現象と神秘体験

comments(3), trackbacks(0), pookmark

開運の術・雑感(星)

この二・三日は何やらバタバタとしていました。
あたふた (((^^;)(;^^) ))あたふた

別に仕事が忙しいと言う訳でもなく・・・・
いつものことですが、雑用に追われていました。
管理人はどうもテキパキと仕事をこなすのが苦手と言うか・・
落ち着いて仕事に取り組まないと何もできないタイプです。

そのため、「ドジー」と怒られることもしばしば・・・
血液型には詳しくはないのですが、典型的なO型人間であると言われてます。

それはさておき・・・
暫く前より、時間があると風水の勉強をしております。
風水と言っても流派の違いから書かれている内容に違いがありますが、風水の本には、風水と子宝や病気、事故などの関係について書かれていることがあります。つまり風水を改善することで子宝に恵まれ、病気やを防ぐことができるとされています。

また移転や改名などをすることで同じような効果を得ることができるとされている術もあります。方位術としては気学が有名なのですが、他に方位術としては奇門遁甲があります。奇門遁甲に関してはあまりご存じない方も多いかと思いますが、最近は幾つかのサイトで紹介されてますので興味のある方は検索してみてください。

他にも祈願や祈祷、護符、気学のお砂取りやお水取り、各種のまじない、縁起物なども災いを防ぎ、幸運を招くことができるとされています。また除霊や浄霊もその目的は災いを防ぎ、幸運を招くことであると言えます。勿論、管理人の「開運の方法」も災いを防ぎ、幸運を招くことを目的としています。つまり開運の術は数多くあります。

更に視点を変えるならばカウンセリングを受けることや同じ悩みを持つ人のサークルに参加することなども悩みの軽減する方法であり、また育毛や整形手術など自分の容姿を変えることも人生を好転させるための一つの方法であると言えます。

このように考えますと世の中は開運の方法に満ち溢れていると言えます。ではどの方法が一番効果的かとなると一概には言えません。どの方法にも一長一短があり、またどれか一つの方法ですべての問題を解決できるとは思えません。しかし、すべてを実践しようと考えるならば、平安時代の貴族のように朝から晩まで一日の行動のすべてが規制されることになり、社会生活を維持することは絶望的となります。

できれば、持って生まれた運の強さが何パーセント、風水の影響が何パーセント、心霊の影響が何パーセントと分かれば良いのですが、そんな統計もなく、統計調査をしたとしても何をもって幸福と考えるのかの定義も困難です。

では個人的にどのように考えているかを書きますと、以前に紹介した鮑黎明氏が著書の中で紹介されている「一命、二運、三風水、四積陰徳、五唸書(読書)」になるかと思います。ただ一の命は、天命を意味しますので、管理人のような凡人には、あまり関係のない話かもしれません。

そんな話は別にしてこの言葉を天地人に置き換えることができるかと思います。天を自分の意志とは無関係に働く持って生まれた運と考えることもできれば、神仏の働きと考えることも可能かと思います。地を環境と考えるならば、地域社会の影響や制約、勤務先、そして風水も含めることができます。そして人を人間の努力と考えることができるのではないでしょうか。

当たり前の話ではありますが、天地人の三つの要素が揃わないと社会的に成功するのは難しいと思います。何をもって幸福と考えるかは別にして衣食住が足りることが人間らしい生活の前提であると考えるならば、天地人の要素が揃うことが大切ではないかと思います。

勿論、運や環境を努力で克服される方もいますし、信仰心や神仏のご加護で艱難辛苦を克服される方もいます。これは天地人のどれか一つで残りを補っていると言えますが、同時に天地人はそれそれが影響しているとも言えます。そのため、これが成功の秘訣であると言うこともできますが、逆にどんな方法を実践したとしても成功の鍵となるとも言えます。

これは健康法と同じではないでしょうか。世の中には数多くの健康法があり、それぞれその健康法で病気を克服された方がおられ、逆にその健康法を実践されても何の効果もなかったと批判される方がいるのと同じではないでしょぅか。

結論としてはありきたりの話となってしまいますが、「一命、二運、三風水、四積陰徳、五唸書」であり、天地人のどれもが大切となってしまいます。ただ「一命、二運、三風水、四積陰徳、五唸書」に関しては、積極的に人生を生きようとしたならば、順番は逆となり、「一唸書(読書)、二積陰徳、三風水、四運、五天命」になるのではないかと思います。

at 20:51, 星 良謙・子授け地蔵, 管理人のひとりごと

comments(3), trackbacks(0), pookmark

霊視について(星)

恵み様、オカミ様、コメント有難う御座います。
お二人からご質問を頂いていますが、まず恵み様からのご質問にお答えします。

恵み様のご質問
もしよろしければ教えていただきたいのですが…
霊能者の方々が相手を読みとるときは、相手から何らかの形で気づかれているのでしょうか?私にはまったくわからない感覚ですが、特に心霊ならば、同調するからには、何らかの影響を受けるのではないだろうかと思いました。念を受けたり頼られたりしないのですか?


最初に「霊能者の方々が相手を読みとるときは、相手から何らかの形で気づかれているのでしょうか?」とのご質問ですが、個人的には霊能力を使用して誰かの心を読むことはしていませんので断言することはできませんが、相手次第ではなかと思います。

過去に霊視をしたことを相手に気付かれたとの話を聞いたことはありませんが、霊感の強い人は人の想念を感じやすいと言えます。そのため、念の強い人が霊感の強い人のことを想うと霊感の強い人は念の強い人の想念を感じ取るとの話は聞いたことがあります。

これは一般的には生霊と言われる現象ではありますが、念の強い人の場合には怨みや憎しみなどの強い憎悪の感情ではなく、相手のことを心配したりしている場合でも生霊となってしまう場合もあります。勿論、相手が霊感が強いことが前提となりますが、極端な場合には幽霊のように相手の姿が見えたりすることもあるようです。

また念の強い人と霊感の強い人の組み合わせの場合には、念の強い人が霊感の強い人の噂話をしているだけでも相手に噂をしていることが伝わってしまう事例はありました。最初は管理人も半信半疑でしたが、現実に起こった現象でした。

そのため、霊視の対象人物が霊能者である場合には、相手は自分が霊視されていることに気付く可能性があると思われます。ただ管理人は霊視の経験も少なく、霊能者を霊視した経験もありませんので推論とお考えください。

「特に心霊ならば、同調するからには、何らかの影響を受けるのではないだろうかと思いました。」とのご質問ですが、霊視をしますと影響を受ける可能性は非常に高くなります。管理人が霊視をお断りしている最大の理由が悪影響を懸念するからです。

占いも依頼者の心や依頼された方の心を覗き見る行為であることから一種の霊視であるとも言えます。そのため、タロットカードを使用している場合などには、対象となる人物の想念が伝わってくることがあります。それでも占いの場合には道具を使用していることからその影響は限定的となります。

しかし、霊視や心を探った場合には、相手の想念が流れ込んでくる状態になります。そのため、対象となる方が強い怒りや不満などの悪想念を溜め込まれていた場合には、非常に危険となります。また不成仏霊の悪影響を強く受けていた場合には、さらに危険性が増すと言えます。

では悪想念や不成仏霊の影響を防ぐにはどうしたら良いかと書きますと、霊視しないことが一番効果的な方法であり、それ以外には有効な対策はないと言えます。つまり霊視することや相手の意識を探るとは、意識的に相手の想念が流れ込んでくる状態にすることであり、悪想念や不成仏霊に対して無防備な状態になることなのです。

そして「念を受けたり頼られたりしないのですか?」とのご質問ですが、神霊からはよく頼まれています。管理人や影武者さんが神霊からの御言葉を投稿しているのも一種の依頼であると言えます。

ただ亡くなられたお父さんがとか、亡くなられたご主人がと言った言葉の取次ぎのようなことはしていませんし、また取り次ぐ気持ちもありません。生前にお会いしたこともない方の言葉を取り次いだとしても本当に本人からの言葉であるか責任が持てないてないことや悪想念や不成仏霊に対して無防備な状態になりますのでお断りしています。

オカミ様
滅多にご返事も書けないのにいつもコメント有難う御座います。

「風水で亡消水は気の入口〜出口の事なんでしょうか。」とのご質問ですが、お答えしようとしますとかなり専門的な話となってしまいます。管理人がここで書くよりも専門書を読んで頂いた方が早いと思います。

ただ簡単に書きますと「気の入口〜出口の事」と言うよりも気の流れのことです。大きく考えるならば、国、市、区、町と色々な段階で考えることが可能です。基本的には風水は大地の気の力を利用することから気がどのような流れになっているのかを調べるのが本来の風水です。

羅盤には幾層もの目盛が刻まれているのもその気の流れを調べるためですが、専門的な話に終始することになります。

at 00:46, 星 良謙・子授け地蔵, 読者からの質問

comments(2), trackbacks(0), pookmark

指揮官と参謀(星)

前回の投稿記事は、マニアックだとの声もありますが・・・・
このブログは管理人の気分次第で内容が変わるのが基本方針です。
誰ですか、中日が連敗すると投稿内容が難しくなると言っているのは・・・

今年は阪神が調子が良いと言うか、差が開く一方・・・・
あたふた (((^^;)(;^^) ))あたふた

あっーーどうなってしまうのか、今年の中日は・・・
o( _ _ )o ショボーン

その話はこっちにおいといて\(^^\) (/^^)/

前回は、政治と戦略と戦術について書きましたが、今回は指揮官と参謀の関係について少し書こうかと考えています。基本的に軍隊の最大の使命は戦争の遂行にあるのではなく、戦争を未然に防ぐことにあると言えます。それが武力を背景にした外交的な圧力であるとしても交渉の手段としては強力な切り札となります。その意味で常に政治が主役です。

しかし、その原則が崩れてしまったならば、軍隊の暴走が始まります。これは開発途上国では珍しい話ではありませんが、その典型と言えるのが戦前の日本ではないかと思われます。第二次世界大戦での日本の敗戦の理由は、日米の国力の差を始めとして数多くのことが言われていますが、その理由の一つに戦前の憲法に欠陥があったからであるとの意見がありました。これは制度として軍部の暴走を抑えることができなかったのは憲法の欠陥が理由であるとの説でした。

ただこれは政治と軍部の関係だけでなく、戦略と戦術でも同じことが言えます。本来の戦略は政治がその前提にあり、権益の確保などの政治目標を達成することを目的して戦略が決定されます。そしてその戦略を前提にして戦術が決定されると言えます。この原則が崩れたならば戦略は崩壊し、政治も混乱します。

また同じような混乱の原因として指揮官と参謀の関係があります。指揮官は作戦計画に従って任務を遂行する立場にあり、その指揮官を補佐するのが参謀の役目です。そのため参謀は指揮官に正確な戦況の分析や具体的な作戦の修正や提言するのが役目であり、指揮官はその情報を参考にして命令を下します。しかし、指揮官が参謀の操り人形になってしまったならば、組織は混乱します。

これは占いでも同じではないかと思われます。占い師の中には依頼者にああしなさい、こうしなさいと指示したり、あなたはこうしないと不幸になると断言される方がいます。また混乱の最中にある方は自分が何をすべきかがわからなくなっているために具体的な指示を与えてくれる占い師に依存する方もいるようです。しかし、これでは自分の人生の選択を占い師に委ねているのと同じことになります。

混乱の最中にあるならば、希望を与えてくれる言葉にすがりたくなる気持ちを持たれることは当然ではありますが、占い師に指示されるままに生きるならば、誰の人生であるか分からなくなります。これは指揮官に助言を提言すべき立場にある参謀が指揮官に指示をしているのと同じことですが単純に越権行為では済まない問題です。

占い師が依頼者に的確な助言をすることが可能であっても、占い師が依頼者の人生を生きることもできなければ、占い師が依頼者の人生に対して責任を負うこともできません。依頼者の人生を生きることができるのは、依頼者であり、その責任は依頼者が負わなければなりません。

そのため、占い師が依頼者に対してあなたは私の言うことを聞かなければ不幸になるとか、私の言うことを聞かなかったために不幸になったとかは言うべきでもないと考えます。しかし、不安の最中にある人は、断言的な言葉に弱いようです。

また政治・戦略・戦術の観点から考えるならば、政治が迷走している状態にも近いと言えます。政治が混乱していては、戦略が迷走するのは当然であり、戦術は成り立ちません。同じように依頼者がどうしたらいいのか分からない状態では、占いをする側としては何を占なえばよいのかすらも分からなくなります。

勿論、管理人もこのような状態に陥っている依頼者からの相談を受けることはありますが、依頼者にあなたはこうすれば幸せになりますと言ったことは言わないようにしています。このような場合に管理人がすることは、基本的に問題点の整理です。現状を客観的に分析することや混乱の原因を調べます。つまり依頼者が自分で方針を決定するための判断材料を提供することです。

世の中には占い師を利用することを自分の人生を占い師に委ねることのように考える方もいますが、占いは頼るべきものではなく、利用すべきものです。

at 23:38, 星 良謙・子授け地蔵, 占いの話

comments(0), trackbacks(0), pookmark

政治と戦略と戦術(星)

管理人の趣味はガーデニングと架空戦記を読むことのなのですが、最近はそのどちらもご無沙汰気味となっています。ガーデニングは自宅療養をしていた頃に始めた趣味ですが、架空戦記はもう二十年以上読み続けています。

男の子ならば戦車や飛行機に憧れると言うか、子供の頃には男の子ならば、戦争の善悪を考えることもなく、憧れると言えるではないかと思います。その意味では管理人は子供と同じでしょうか?

管理人は高所恐怖症なのですが、何故か飛行機が好きです。
当然の如く、下から見上げるのは好きでも小型機には絶対に乗りたくないと考えています。(@@;;;) はて?

ただ、管理人の性格としてへそ曲がりと言うか、戦闘機の性能だけでなく、戦闘機の運用や設計思想に興味があり、戦闘のシステム全体に興味があります。これは少し解説が必要かもしれませんが、どんな兵器であってもどのような目的でどのような使い方をするかを前提に設計されています。

例えばハリアーは垂直離陸が可能な戦闘機で有名ですが、実際には垂直離陸を前提にした運用はされないと言われています。その理由としては、戦闘機を運用しようと考えるならば、整備の施設や格納庫、弾薬庫、司令室、通信設備、戦闘員や整備員のための宿舎など、小さな空港並みの施設は必要となります。

そのため滑走路の有無は大きな問題ではなく、燃料効率の悪い垂直離陸をするよりも滑走路を使用して離陸することのメリットの方が大きくなります。つまり漫画などで描かれるように森の中にある秘密基地から戦闘機が飛び立ち、敵を迎撃する話は現実を無視した話であると言えます。

では垂直離陸が可能な戦闘機にメリットはないのかと言えば、一般の戦闘機に比べるならば短い距離で離陸が可能であり、小さな飛行場でも使用可能となります。また滑走路が爆撃などて使用不能となっても離陸できるなどのメリットがあります。

話を戻しますと、兵器は常にどのような使い方をするかを前提に開発され、その前提となるのが、戦術であり、戦略となります。戦術とは、任務達成のために戦闘力を運用する術であり、戦略はより大局的な観点から判断される戦闘力の調整であり、運用であると言えます。更に戦略の前提となるのが、政治であると言えます。

これは戦争が政治の延長であり、政治問題を解決するための最終手段であるからです。そのため政治が迷走するならば、戦略が決められず、戦略が決まらなければ、戦術も迷走することになります。このように書きますと一般の人間には無関係な話のように感じる方も多いのではないかと思いますが、祈願や占いにも置き換えることができます。

管理人のお客さんである経営者の方は祈願は戦略であり、占いは戦術であると言われました。管理人は上手い表現をされるなと感心していました。少し補足するならば、風水は戦略に近いと言うべきでしょうか。

例えば、結婚したいと考えられる方を例にしますと恋愛対象となる相手もない状態であるならば、占いができることは限られます。占いでできることは、恋愛対象となる異性との出会いの可能性の高い時期やより良い相手と出会うために何をすべきかを調べることはできますが、占なうことで結婚相手との出会いの可能性が高まることはありません。

しかし、意中の方がいる場合には、相手の気持ちや相手の抱えている事情、恋愛に発展する可能性など様々なことを鑑定することが可能であり、また相手の気持ちや事情を知ることで何をすべきかを知ることが可能となります。その意味で占いは戦術であり、具体的に何をしたならば、目的を達成できるかを知るための手段であると言えます。

それに対して祈願は、神仏のお力で問題が解決されることを願う行為であるとも言えますが、御神仏の指導が入り始めますと問題が噴出することは珍しくありません。祈願された方からするならば、問題の解決を祈願しているのに問題が噴出しては、何のための祈願かと思われるのも当然かととは思います。

しかし、問題が起きるのには何らかの原因があり、その原因を解決しなければ、問題も解決しません。そのため、神仏が問題を解決するためには、これらの問題を先に解決しろと教えて頂いていると考えることができます。その意味では、祈願は戦略であり、より大局的な観点から判断される人生の修正であると言えます。

では戦略の前提となる政治は何に置き換えられるかと考えますと、人生の目的であり、人間関係ではないかと思われます。占い師がどれだけ占いに精通していたとしてもどうしたら私は幸せになれますかと聞かれても答えようがありません。幸福とは、それぞれの人によって異なり、その人にとっての幸福は本人にしか分からないことです。

また自分の人生の主役は自分であり、他の誰かではありません。それは神仏であるとしても例外ではなく、応援はして頂けますが、本人が困難に立ち向かう気概を持たなければ問題が解消されることは難しくなります。政治は交渉であり、利害関係の調整であると言えますが、対立や関係の悪化を恐れて交渉から逃げ回っていたならば、譲歩の繰り返しとなるように、困難から逃げ回っていたならば、流されるだけの人生となります。

at 00:36, 星 良謙・子授け地蔵, 戦略と戦術

comments(1), trackbacks(0), pookmark