心霊現象について書かない理由2(星)
こちらから エコキャップ推進協会
また財団法人 日本ユニセフ協会から安全な水が飲めない子どもやトイレのない子どもを支援する活動への協賛依頼のDMが届いていましたので、ご紹介しようかと考えたのですが、「財団法人 日本ユニセフ協会」を検索したところ、「日本ユニセフ協会 詐欺」の文字が飛び込んできました。
そこで検索してみたところ、下記のサイトが詳しいようです。
野良里蔵狸−norakura−
http://tanukur.blog8.fc2.com/blog-entry-281.html
どうも黒柳徹子さんの開設されている口座に募金された方がお勧めできるようです。
トットチャンネル > お願いチャンネル
ヽ(^_^;))ソノハナシハコッチヘ((^_^;)ノ
前回の投稿では、修法が本当に効力を発揮するためには、悟りが必要であるとこや修行の目的が悟りを得ることを書きましたが・・・・・
少しばかり補足します。
自称『通りすがりの美女』様からのご質問で「在家が出家者の真似を為るのは大変危険等の事…私は密教の真言を脳が覚えている為知らずして、唱えてる事が有りますが此れは?いいのでしようか? 」とのご質問がありましたが、管理人の投稿記事が混乱させてしまったようです。
真言の意味について解説することは簡単ではなく、また真言宗の教えについて説く立場にもありませんので詳しい解説は避けますが、真言宗では日常の勤行で真言は唱えますので真言を唱えること自体には危険はありません。前回の投稿で危険性を書きましたのは、日常の勤行をではなく、呪術的な要素の強い場合です。
般若心経の中にも真言が含まれていることを考えるならば、神経質になる必要になるとも思えませんが、呪術関係の本には決まって色々な真言や印、護符の書き方などが紹介されています。それらの真言や印の中には、安易な気持ちで取り組むべきことではないと思われるものが少なくありません。
管理人が危惧するのは、真言を唱えることや印を組むことで様々な霊障などを解決する力を持つことができると錯覚することです。また真言や印を知らなければ神仏のご加護を得ることや不成仏霊を供養できないとの考えに陥ることです。
真言を唱えることや印を組むことに意味はありますが、法力の裏づけがなければ、形を真似していることにしかなりません。形を真似しているだけなのに行者と同じような気持ちで実践していたならば、低級霊の惑わしを受ける危険性が高くなります。その意味で危険性を説いただけです。
また、浪花の商人から「法力の話もお願いします。霊能力自体は、ない方が幸せな感じがします。法力とは、なんなんでしょうか?」とのご質問がありましたので少し解説します。法力とは何かを辞書で調べますと「仏道修行によって身につけた、祈祷・除災などの際に発揮される超人的な力」とあります。
しかし、管理人の個人的な意見としては、法力とは仏道修行によって身につけた力ではありますが、身に付けた力と言うよりも神仏から授かった力であり、また神仏の働きと不即不離の関係にある力である気がしています。このことについて書き始めますと非常に長くなり、一回や二回の記事で解説することは困難となります。
そのため、今回は簡単な説明しかできませんが、例えば同じ霊視でも霊能力で霊視する場合には、感性の鋭さや感受性の強さが大きく影響しているのではないかと思われるのに対して法力の場合には、神仏の視点で見ているのではないかと思われます。そのため神仏のお力で映像を見ている可能性が高いのではないかと思われます。
管理人がこのように考える理由の一つに真言宗の御神霊から「仏の姿を見ることも教えである」とのお言葉を頂いたことがあります。仏の姿を見ることで神仏が存在することを強く確信することや神仏の偉大さを実感するのではないかと思われます。
それに対して一般的な怪奇現象と言われる霊視の多くは、心霊が自分の存在を気付かせるために働きかけがあることから霊視が可能となるのではないかと思われます。つまり働きかけが前提となることの意味においては同じであり、心霊世界の法則なのかもしれません。
しかし、神仏の指導で霊視するのと心霊と意識が合うことで霊視するのでは大きく意味が異なります。管理人が心霊現象に悩まされている頃に何かが存在している気配を感じることは数多くありましたし、霊視も何度か経験しました。それで何かが解決した訳ではなく、逆に何が起きているのかも分からずに悩んでいました。そしてその当時は漠然とした閉塞感に悩まされ、どうしたならば心霊現象に悩まされることのない暮らしが出来るのかと悩んでいました。
つまり霊視とは、神仏の働きかけや低級霊の働きかけであり、その働きかけに敏感に反応する結果として起きる現象ではないかと思われます。しかし、その働きかけを受け止めることは両者では大きく異なります。
神仏の働きかけが具現化して霊視などの神秘体験となるには、感受性と悟りが必要となります。それに対して低級霊の働きかけの場合には、感受性の強さが条件となります。管理人の経験としては、鋭すぎる感性も持ち主や念の強い人などは、神仏や低級霊の区別なく影響を受けやすいようです。
随分と前にオカミ様から「直感・胸騒ぎ・などの感類総てが霊感体質になるのかな 聴こえた見えた 啓示を受けた 憑されたが霊媒体質かな」とのご質問がありましたが、「直感・胸騒ぎ」なども心霊の働きかけである可能性がありますのであまり頻繁に、「直感・胸騒ぎ」などが起きる場合には、感受性が強すぎて制御することが難しい可能性があります。
これは程度の問題であり、どこからが霊媒体質であり、どこまでが霊媒体質ではないと決められることではないと思いますが「聴こえた見えた 啓示を受けた」となると心霊の働きかけがある可能性が非常に高くなります。
しかし、重要なのは働きかけている心霊が神仏か低級霊なのかの問題です。低級霊でも少し力があるならば、神仏を名乗り、神仏の姿で現れます。そのため、神仏を霊視したとしても素直には喜べないのです。神仏の姿を見たと喜んでいても、実は低級霊の惑わしであったとするならば、低級霊に翻弄される人生になってしまう可能性があります。
神仏の姿やお言葉が聞けなくても神仏はご加護して下さりますが、多くの人は自分も神仏の姿を見たいとか、お言葉を聞きたいと願われます。しかし、それは常に低級霊の惑わしを受ける危険性と隣り合わせなのです。その危険性があることから神霊のお言葉は紹介しても心霊現象に関して取り上げないようにしています。
神霊のお言葉は教えであり、多くの人の心の指針となります。またその内容に矛盾があるかないかなどを考察できます。しかし、心霊現象は心霊世界の存在を啓蒙することには役立つとしても多くの人を惑わすのではないかと危惧します。
星