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心霊現象について書かない理由2(星)

昨日、新聞屋さんが置いて行った小冊子を読んでいたところ、ペットボトルのキャップを集めて発展途上国の子供たちにワクチンを送ろうとの活動が紹介されていました。


こちらから エコキャップ推進協会

また財団法人 日本ユニセフ協会から安全な水が飲めない子どもやトイレのない子どもを支援する活動への協賛依頼のDMが届いていましたので、ご紹介しようかと考えたのですが、「財団法人 日本ユニセフ協会」を検索したところ、「日本ユニセフ協会 詐欺」の文字が飛び込んできました。

そこで検索してみたところ、下記のサイトが詳しいようです。
野良里蔵狸−norakura−
http://tanukur.blog8.fc2.com/blog-entry-281.html

どうも黒柳徹子さんの開設されている口座に募金された方がお勧めできるようです。
トットチャンネル > お願いチャンネル

ヽ(^_^;))ソノハナシハコッチヘ((^_^;)ノ

前回の投稿では、修法が本当に効力を発揮するためには、悟りが必要であるとこや修行の目的が悟りを得ることを書きましたが・・・・・

少しばかり補足します。
自称『通りすがりの美女』様からのご質問で「在家が出家者の真似を為るのは大変危険等の事…私は密教の真言を脳が覚えている為知らずして、唱えてる事が有りますが此れは?いいのでしようか? 」とのご質問がありましたが、管理人の投稿記事が混乱させてしまったようです。

真言の意味について解説することは簡単ではなく、また真言宗の教えについて説く立場にもありませんので詳しい解説は避けますが、真言宗では日常の勤行で真言は唱えますので真言を唱えること自体には危険はありません。前回の投稿で危険性を書きましたのは、日常の勤行をではなく、呪術的な要素の強い場合です。

般若心経の中にも真言が含まれていることを考えるならば、神経質になる必要になるとも思えませんが、呪術関係の本には決まって色々な真言や印、護符の書き方などが紹介されています。それらの真言や印の中には、安易な気持ちで取り組むべきことではないと思われるものが少なくありません。

管理人が危惧するのは、真言を唱えることや印を組むことで様々な霊障などを解決する力を持つことができると錯覚することです。また真言や印を知らなければ神仏のご加護を得ることや不成仏霊を供養できないとの考えに陥ることです。

真言を唱えることや印を組むことに意味はありますが、法力の裏づけがなければ、形を真似していることにしかなりません。形を真似しているだけなのに行者と同じような気持ちで実践していたならば、低級霊の惑わしを受ける危険性が高くなります。その意味で危険性を説いただけです。

また、浪花の商人から「法力の話もお願いします。霊能力自体は、ない方が幸せな感じがします。法力とは、なんなんでしょうか?」とのご質問がありましたので少し解説します。法力とは何かを辞書で調べますと「仏道修行によって身につけた、祈祷・除災などの際に発揮される超人的な力」とあります。

しかし、管理人の個人的な意見としては、法力とは仏道修行によって身につけた力ではありますが、身に付けた力と言うよりも神仏から授かった力であり、また神仏の働きと不即不離の関係にある力である気がしています。このことについて書き始めますと非常に長くなり、一回や二回の記事で解説することは困難となります。

そのため、今回は簡単な説明しかできませんが、例えば同じ霊視でも霊能力で霊視する場合には、感性の鋭さや感受性の強さが大きく影響しているのではないかと思われるのに対して法力の場合には、神仏の視点で見ているのではないかと思われます。そのため神仏のお力で映像を見ている可能性が高いのではないかと思われます。

管理人がこのように考える理由の一つに真言宗の御神霊から「仏の姿を見ることも教えである」とのお言葉を頂いたことがあります。仏の姿を見ることで神仏が存在することを強く確信することや神仏の偉大さを実感するのではないかと思われます。

それに対して一般的な怪奇現象と言われる霊視の多くは、心霊が自分の存在を気付かせるために働きかけがあることから霊視が可能となるのではないかと思われます。つまり働きかけが前提となることの意味においては同じであり、心霊世界の法則なのかもしれません。

しかし、神仏の指導で霊視するのと心霊と意識が合うことで霊視するのでは大きく意味が異なります。管理人が心霊現象に悩まされている頃に何かが存在している気配を感じることは数多くありましたし、霊視も何度か経験しました。それで何かが解決した訳ではなく、逆に何が起きているのかも分からずに悩んでいました。そしてその当時は漠然とした閉塞感に悩まされ、どうしたならば心霊現象に悩まされることのない暮らしが出来るのかと悩んでいました。

つまり霊視とは、神仏の働きかけや低級霊の働きかけであり、その働きかけに敏感に反応する結果として起きる現象ではないかと思われます。しかし、その働きかけを受け止めることは両者では大きく異なります。

神仏の働きかけが具現化して霊視などの神秘体験となるには、感受性と悟りが必要となります。それに対して低級霊の働きかけの場合には、感受性の強さが条件となります。管理人の経験としては、鋭すぎる感性も持ち主や念の強い人などは、神仏や低級霊の区別なく影響を受けやすいようです。

随分と前にオカミ様から「直感・胸騒ぎ・などの感類総てが霊感体質になるのかな 聴こえた見えた 啓示を受けた 憑されたが霊媒体質かな」とのご質問がありましたが、「直感・胸騒ぎ」なども心霊の働きかけである可能性がありますのであまり頻繁に、「直感・胸騒ぎ」などが起きる場合には、感受性が強すぎて制御することが難しい可能性があります。

これは程度の問題であり、どこからが霊媒体質であり、どこまでが霊媒体質ではないと決められることではないと思いますが「聴こえた見えた 啓示を受けた」となると心霊の働きかけがある可能性が非常に高くなります。

しかし、重要なのは働きかけている心霊が神仏か低級霊なのかの問題です。低級霊でも少し力があるならば、神仏を名乗り、神仏の姿で現れます。そのため、神仏を霊視したとしても素直には喜べないのです。神仏の姿を見たと喜んでいても、実は低級霊の惑わしであったとするならば、低級霊に翻弄される人生になってしまう可能性があります。

神仏の姿やお言葉が聞けなくても神仏はご加護して下さりますが、多くの人は自分も神仏の姿を見たいとか、お言葉を聞きたいと願われます。しかし、それは常に低級霊の惑わしを受ける危険性と隣り合わせなのです。その危険性があることから神霊のお言葉は紹介しても心霊現象に関して取り上げないようにしています。

神霊のお言葉は教えであり、多くの人の心の指針となります。またその内容に矛盾があるかないかなどを考察できます。しかし、心霊現象は心霊世界の存在を啓蒙することには役立つとしても多くの人を惑わすのではないかと危惧します。


at 15:59, 星 良謙・子授け地蔵, 心霊現象と神秘体験

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心霊現象について書かない理由(星)

お彼岸と言う事で彼岸団子をお供えしました。


子供の頃から写真のような丸く押しつぶしたような形の彼岸団子を見慣れていたことからこれが当たり前だと思っていたのですが、他の地域では丸いのが普通なのでしょうか?
また同じ形でも砂糖入りもありますが、昔は砂糖入りなどなかったような気が・・・

最近ではスパーの店頭には丸いのが当たり前のように並んでいますが、管理人は昔からの形を選んでしまいます。しかし、売れ残っているのは、丸い彼岸団子や砂糖入りの彼岸団子ですのでやはり昔からの馴染みのある品を選ぶ人が多いようです。

ヽ(^^ヽ)ワダイヲカエテ(/^^)/

このブログでは霊能力や心の問題について取り上げることは多いのですが、心霊現象については取り上げる機会はほとんどなく、神仏のお言葉は取り上げても基本的に不成仏霊について取り上げないことにしています。その理由は、いつも書いていることではありますが、心霊現象は個人的な体験として書くことはできますが、検証することが不可能なことです。

例えば、氏神は家族でも異なると主張される方がいます。氏神は家族でも異なるとの主張の根拠は、「四魂」および「一霊」の説ではないかと思われます。この「四魂」とは「荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)・奇魂(くしみたま)・幸魂(さきみたま)」のことであり、そして「四魂」のそれぞれが別々の働きをしているとされています。そして「一霊」とは「四魂」を統括主宰する霊とされています。

この「四魂」および「一霊」の説は古神道における霊魂論の中核概念であり、本田親徳(ほんだちかあつ)氏が最初に説いたと思われますが、多くの古神道家の理論的な背景となっているようです。
※本田親徳(1822-1889) 鎮魂帰神法とよばれる古神道の行法を提唱した人物

この理論が正しいのか、間違いであるかを検証することはできません。その真偽について論争するならば、際限のない水掛け論となります。そのため、心霊現象に関して取り上げないことにしています。

しかし、これまでブログでは書かなかったもう一つの理由は、心霊現象論に関して安易に取り上げることは非常に危険性を感じることです。その気になれば供養や祈願、除霊、浄霊だけでなく、呪術などの具体的な方法が、紹介されている本は数多くあります。また行者によっては相談に訪れた人に対して各種の修行の実践を勧めるだけでなく、修法の実践を勧めることもあるようです。

管理人は、修行や修法の価値を否定する気持ちもなければ、その効果を否定する気持ちもありませんが、安易な気持ちで在家の人間が出家者の真似をすることに関しては少しばかり疑問を抱きます。特に密教の場合には、神秘体験を前提とした修行ではないかと思われることが多いことから安易に真似すべき事ではないと考えます。

その理由として各種の修法が本当に効力を発揮するためには、法力が必要となります。その法力を得るためには悟りの力が必要となります。例えば、格闘技において色々な技を覚えたとしても求められる筋力やスピードがなければ、試合では何の役に立たないのと同じではないでしょうか。つまり、在家の人間が出家者の真似をするならば、形だけを真似しているだけの結果になります。

しかし、行者の中には法力と霊感の鋭さを区別できない方がいるのではないかと感じるときがあります。管理人の体験では、それらの行者に共通しているのが、教えを説く事よりも修行や修法を重視することでした。また極端な場合には、出家者がすべきことを在家の人間に実践することを求めることもあるようです。

α~ (ー.ー") ンーー
これから本題に入ると言ったところなのですが・・・・
次回に続きます。m(_ _)m

at 00:55, 星 良謙・子授け地蔵, 心霊現象と神秘体験

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救う側と救われる側(星)

このところ、世の中は何かと騒がしい日々が続いていますが・・・・
そんな世の中の動きを書く気持ちもなく・・・・
と言うよりも、自分の生活の心配の方が大変と言ったところでしょうか。
つまり人の心配をしているよりも自分の心配をしなければならないと言ったところでしょうか?

しかし、占い師は人の心配の相談に乗ることが仕事のような・・・
α~ (ー.ー") ンーー 冒頭から墓穴を掘ってしまったような・・・

この話はこっちにおいといて\(-_\)(/_-)/

管理人は新興宗教に対して疑問を持つ事が多いのですが、その理由の一つが新興宗教の信者とお話をしていますと、自分は救われた人間であり、自分はあなたを救ってあげると言った態度の方が多かったことがです。

自分はこの教えを学ぶことで幸せになれたのだからと、その教えを人に伝えたいとの気持ちは悪い事でなく、また苦悩している人に苦悩を解消するためのアドバイスをすることは悪い事ではありません。しかし、自分は救われた人間であり、あなたはまだ何も分かっていない人だから、あなたを救ってあげると言った態度には疑問を感じます。

これが花の育て方や料理など技術的なアドバイスであるならば、話は大きく異なります。考え方の違いなどはありますが、教える側も教わる側も比較的素直になれるのではないかと思います。

その違いは何かを考えるならば、自尊心の問題ではないかと思われます。花の育て方や料理など技術的なアドバイスであるならば、教える側も教わる側も比較的素直になれると言っても、本職の園芸農家や料理人が、素人からあれこれ言われたら、気分を害するのではないかと思います。

心の問題は人生観も問題であり、誰しもが自分の人生観を否定されることや自分の生き方を批判されることに不快感を感じることが、多いからではないかとも言えます。ただ管理人が感じるのは、それ以上に新興宗教の信者の方の態度に、自分は特別な人間であるとの傲慢さを感じるからではないかと思うことがあります。

このように書きますと、意外に思われるのではないかと思いますが、管理人は多少なりとも神霊のお話を聞くことができますが、多くの人を救う使命があるとの自覚はありません。もしも管理人に使命があるとするならば、管理人に限られた話ではなく、すべての人に使命があると思います。

管理人が神霊のお言葉を聞くことができるとしても神霊の説く教えだけですべての問題が解決するとも考えませんし、神仏の働きだけですべての問題が解決するとも考えてはいません。管理人の体験としては、現実的な問題を心の問題として考えることには無理があることも多く、また心の悩みを解決する分野に関しても臨床心理学の医師にお任せすべきことも多いと感じています。

少し考えて頂ければ分かると思いますが、数多くの人生経験を積み重ねた人でもその体験や知識には限界があり、経験を積まれた臨床心理学の医師や心理学者などには及ばないと思います。また仏教の知識に関しても、管理人がどれだけ仏教に精通ようと努力したとしても本職の僧侶の方々に及ばないと思います。

つまり、管理人が心の問題に精通しているとしても、それは非常に限られた分野の話でしかなく、管理人にできることも限られたことでしかないと思います。そのため、かりに管理人が世の中の人々を救う役目があるとしても、それは数多くの仕事や役目の中の一つでしかないと思います。確かに心霊現象や神仏の教えに精通する方々は少ないとしても、それは法律や医学に精通している人が少ないのと同じではないかと思います。

しかし、世の中には、心霊現象に精通することや神仏の教えを学んでいることで自分に特別な使命があると考える人は多いようです。神仏と呼ばれる存在は、誰に対しても平等であることを前提とするならば、心霊現象に精通することや神仏の教えを学んでいることで自分に特別な使命があると考えるべきではないと思います。

そのことを忘れて自分には人を救う使命があると考えるならば、他人に自分の考えを押し付けて相手を自分の考えに従わせることが、相手を救うことだと錯覚する傾向が強くなると感じています。その意味で自分には人を救う使命があると考える前に、自分が救われることを考えるべきではないかと思います。

at 22:50, 星 良謙・子授け地蔵, 管理人のひとりごと

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信仰の原点(星)

暫く前にとある神社に参拝しました。
その神社は山の山頂に上社、そして麓には下社が祀られていました。また幾つかの神社においては高い山の山頂に奥の宮が祀られていることが良くあります。管理人が参拝した神社は山頂付近まで車で行くことができましたが、昔の人は大変であったのではないかと思います。

これは古代の信仰においては、山そのものを神と考えていたことから、古い時代の信仰形態を保っている神社ではないかと考えます。古代においては神は山に住むと考え、山を聖地と考えることが多かったようです。

そんな聖地で修行することで神仏と一体となることを目指したのが修験道であることから修験道では霊山での修行は必須のようです。管理人は高所恐怖症ですので山での修行をお誘い頂いても丁重にお断りしますが・・・orz

それでも岩場を登るとか、つり橋をとか言った肝試しのような場所を通らなければならないような神社仏閣でなければ、参拝させて頂いていますが、山奥にある神社仏閣は修行を重視される傾向が強いようです。

しかし管理人が20代の頃にはそんな修行に疑問を抱いていました。その当時は心霊現象に悩まされていたことから、ご縁のあった行者の方の勧めで修行の真似事をしていましたが、これと言った実感もなく、何のための修行であったのかとの疑問だけが残りました。

当時、勤務していた会社には、高度成長期の生き残りのような社風があり、売り上げ至上主義の雰囲気がありました。そんな雰囲気の会社であったことから帰宅も遅い日が続き、休日も疲れ果てていました。

そんな状態の中での修行でしたので最後にはやってられるか・・・
オリャー!!(ノ-o-)ノ⌒┳ ┫┻┣ となりました。

当時の疑問を箇条書きにしますと・・・
仕事に追われて身も心も疲れ果てているのに、経済的にも肉体的にも負担の大きい修行をしなければ救われないのだろうか?
神仏は修行をしなければ、苦悩する人々を救われないのだろうか?
先祖の因縁や先祖の業などは、本当に存在しているのだろうか?
神仏が本当に人々の苦悩が解消されることを願われているのであるならば、生きている人間に修行を求めないのではないか?
もし修行をしなければ、救われないのであるならば、日々の生活に追われる続ける者は、救われる可能性がないことになるのではなか?

つまり当時、ご縁のあった行者から聞いたことの数々に疑問を抱いたと言うことでしょうか。その疑問は解消されることもなく、二十年程抱き続けることになりました。
勿論、そのすべての疑問が解消されたとも考えていませんし、また管理人が知り得たことだけですら言葉で伝えることは非常に難しいと感じていますが、この時に抱いた疑問が管理人の信仰の原点であると言えます。

そのため、管理人は印や真言などの修法にはあまり興味もなく、日常の生活での心の持ち方が大切であると考えています。しかし、修験道などの厳しい修行や修法を無駄だとも考えません。また素朴な信仰心があれば、作法を無視してもかまわないとか、神社仏閣に参拝する必要もないとも考えていません。

逆に神仏の心が多少なりとも知ることができるようになりますと、印や真言などの修法の意味や修行の意味が、何となく分かるようになります。ただ管理人は修法に関しては師から伝授されるべき物ではないかと考えていますが、伝授された経験もありません。また自宅の宗旨も真宗であることから、印や真言には無縁な宗旨であることから馴染みがないと言ったところです。

神仏のご加護を受けるためには、心の持ち方を含めた広義の修行は不可欠ではあるとしても、印や真言などの修法の意味や特別な修行が不可欠であるとは考えていません。大切なことは神仏の境地に少しでも近付くことであり、神仏の境地に近い心で生きることができることができてこそ印や真言などの修法の意味や修行が意味を持つのではないでしょうか。

at 22:45, 星 良謙・子授け地蔵, 管理人のひとりごと

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ご神仏の御言葉・8(影)

久しぶりにご神仏の御言葉を載せたいと思います。(_´ω`)

以前から、よく行者やイタコ、霊能者などの末路は悲惨とか、行者などの霊魂ほど成仏が厄介だと聞くことが多くあります。
しかし、何故神仏に仕えているのにもかかわらず、悲惨な末路であると言われたり、実際にそういう方がいるのはどうしてだろうかと、ある時星さんと話しになりました。
どうやら星さんも同じ様に疑問だったようで、後日御神霊にお尋ねされて、そのお答えを下さったので掲載します。(^^;)

問い
行者の末路が悲惨であると言われていますが、どのような理由にてそのような結果になるのでしょうか。また行者が転落した場合には救われることが難しいと言われていますが行者が救われることが難しいのはどのような理由からでしょうか。

 神に仕える者の末路が悲惨であるとするならば、それは大神様の心を誤解して大神様の心に背を向けていたと考えるべきなのです。大神様の心を誤解して大神様の心に背を向けていたのであるならば、末路が悲惨であるとしても不思議ではありません。

問い
行者であるならば日々大神様に祈りを捧げることを仕事にしているはずであり、大神様のご加護を受けることができるはずではないでしょうか。

 神を名乗る神霊がすべて大神様の心を自分の心として生きることを願う者であるとは限らないことをあなたは承知しているはずです。そのことを承知しているが為に本当に大神様の心を具現化しようとする心を持つ神霊であるか否かを見極めようとの気持ちを持ち続けているのでありませんか。

問い
神に仕える気持ちを持ちながらも大神様の心に背を向けてしまう結果となるのは、どのような理由からなのでしょうか。

 それには数多くの理由があり、個々の事例で判断することしかできません。しかし、大神様の心を見失うのには、理由があるはずなのです。その理由を挙げるとするならば、自分が神に仕える者であることを忘れて自分が神の代理人であるかのように振舞うことを当然であると考えた者、大神様はすべての国民を愛でられていることを忘れて、自分は選ばれた者であるとの錯覚に陥った者など大神様の心を自分に都合よく考えることが大きな理由なのです。

問い
大神様の心を自分に都合よく考える者が大神様の心に背を向けることであるとしても行者を惑わす神霊も多いのではないでしょうか。

 神に仕える者であるならば常に大神様に心を向けていることが求められます。大神様に心を向け続けているならば、神の名前を名乗りながら神の名前を名乗る資格のない神霊の惑わしを受ける危険性は限りなく少なくなります。
 そのため神に仕える者の心を惑わす神霊がいることに理由を求めることよりも大神様に仕えながらも大神様に心を向け続けることができなかったことに理由を求めるべきなのです。


補足
今回の御言葉を下さったのは、ある神社の女性神の方です。


影武者

at 00:56, 影武者, 神仏の御言葉

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霊能力と鞘12(星)

世の中は連休のようですが・・・
浮き草家業の占い師には連休は関係なく、仕事がなければ自動的に休みとなりますが、仕事があればお仕事となってしまいます。
α~ (ー.ー") ンーー 何故、こんな仕事を選んでしまったのかと、少しばかり後悔をしております。

考えてみれば、最初に占い師を志したのが、20代の後半でした。当時はタロット・カードの研究書も多くなく、星占いの本に至っては、初心者向きの本が僅かにあった程度だったと記憶しています。

その後、会社勤めをしながらも占いの研究は継続していたのですが、自律神経失調症(正式な医学用語ではありません)を発病したことから、会社勤めに限界を感じて占いの道を選びました。その頃は、自宅療養をしながら占いをもう一度勉強しなおそうと考えていたのですが、そんな時期に自動書記が始まってしまいました。

若い頃から行者や霊能者から「あなたは30を過ぎたならば必ず心霊世界の仕事をする人間だから早めに弟子入りしろ」とか、「俺がお前の才能を伸ばしてやる」とか言われていましたが、やたらと前世や先祖の因縁、不成仏霊に不幸の原因を求める姿勢に疑問を感じていました。

そして、「あなたは先祖の期待を一身に背負って生まれてきた」と言われたときには、少しばかりげんなりとしました。C= (-。- ) フゥッ

当時は管理人も若かったことから・・・
そんなこと知るか・・・・
(ノ`´)ノミ┻┻がっちゃ〜ん! と言ったところでした。

そんな気持ちでしたので自動書記ができるようになっても嬉しくもなく、なけなしのお金をはたいて買い揃えた占い専門書を読むのを邪魔されているとの気持ちしかありませんでした。しかし、無視し続けていますと、常に耳元で何かをささやかれているような状態が続きましたので、落ち着いて本も読めず、自動書記を始めれば、洪水のように文章が続きましたのでげんなりとしました。

そこで管理人は、霊界通信を送ってる神霊に疑問を提示しました。その当時は仏教知識や神道に関する知識もありませんでしたので、神霊が説く教えの内容の矛盾や過去の経験から感じていたことの疑問でした。そして話の矛盾や疑問に答えられない神霊にはお引取りをお願いしました。

管理人の質問に答えられぬ程度の神霊の話であるならば、書き残す価値もないとの考えからでしたがかなりの数の神霊にお引取り願った記憶があります。ではそれらの神霊が低級霊かと言えばそうでもなくそれなりの悟りを得られていました。また神仏の手足として働かれている神霊であるようでした。

つまり神仏の手足として働かれている神霊と言ってもすべてが高い悟りを持つわけでもなく、また神仏を名乗る神霊が本当に神仏を名乗ることだけができるほどの高い悟りを持つ神霊とは限りません。そのためその悟りの高さをどこまで見抜くことができるかが問題となります。

それは審美眼と言える力ではないかと思われます。何が本物であるかを見抜くのは簡単ではありませんが、何が本物であるかを見抜くには、自分が見る目を養うしかありません。これが美術品の鑑定であるならば、一流の美術品を数多く見ることで審美眼を養うことができると言えます。

しかし、これが神霊の言葉となると自分で考える力を養うことしか思い浮かびません。世の中には神仏から人類救済の使命を授かったと自称される人が数多くいますが、それらの人々が説く教えが本物であるか、贋物であるかを判断するにも明確な基準があるわけではなく、最終的には自分が納得できるか、できないかだけの問題となります。

それは管理人も同じであり、管理人が納得した教えをご紹介していますが、ここでご紹介しているのは、一つの考えであり、どの教えを選ばれるかは、自己責任で選ぶしかないと考えます。

「霊能力と鞘」との題名にてあれこれ書いてきましたが、低級霊に振り回されるのを防ぐ決め手と言える物はなく、低級霊の影響を受けにくい環境で生きることや低級霊の影響を受けにくい生活をする。そして低級霊の惑わしを見抜くだけの洞察力を磨くことであるといえるのではないでしょうか。

at 22:36, 星 良謙・子授け地蔵, 心霊現象と神秘体験

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霊能力と鞘11(星)

今年は、何故か秋の虫が賑やかのような・・・
これも地球温暖化の影響でしょうか?
α~ (ー.ー") ンーー と悩んでみたのですが・・・
考えてみれば、庭は見事な雑草のジャングルとなっています。

単なる手抜きなのですが、昆虫には優しい庭となっているのでしょうか?
とは言うものの・・・
毎晩、虫の音を聞きながら秋の訪れを実感しています。

それはさておき・・・
「霊能力と鞘」の話が中断したままになっていましたので、久々に続きを書こうかと考えています。「霊能力と鞘」では低級霊の影響を遮断する方法について書いてきましたがそろそろ終わりにしようかと考えています。

低級霊の影響を遮断する方法と言っても何か決定的な方法があるわけでなく、感情的に翻弄されない心を地道に訓練することしかないと思います。その具体的な方法論が戒律を守ることや禅定などの自分の心と向き合う訓練、学びなどになるのではないかと思われます。そのことに専念する生活をしようとするならば、出家するしかありません。

しかし現実の問題を考えるならば、出家は限られた人間にしかできることではなく、また単純に意欲があれば、出家できることでもありません。ただ出家者の生活が低級霊の影響を遮断する方法の手掛かりが数多くあるのではないかと思われます。

修行と言いますと人里離れた山奥で厳しい戒律を守り、厳しい修行に明け暮れるイメージがあります。これを低級霊の遮断の観点から考えますと人里離れた山奥で暮らすことは非常に有効な方法です。また厳しい戒律を守ることや厳しい修行に明け暮れることも自分の欲望に翻弄されない自分を形成するのに有効な手段であり、低級霊の影響を受けにくくなります。

在家の生活を続けているならば、人里離れた場所で生活することはできませんが、人との接触を制限した環境で暮らすならば、低級霊の影響を受ける可能性はかなり低くなります。また日々神仏に心を向けて暮らすならば、低級霊の影響を受ける可能性は、かなり低くなります。

しかし、在家の生活をしているならば、人との接触を避けることは難しくなります。そのため、次善の策としては低級霊の憑依を受けやすい環境を避けることかあります。これは具体的にどんな環境かとお問い合わせ頂いてもお答えするのは難しいのですが、危険と思われることには近付かないのが一番かと思います。

また修行僧の方のように一日中神仏に心を向け続けることは困難ではありますが、なるべく神仏に心を向けられることが大切かと思います。

当たり前のような事ばかりを書きましたが、低級霊の惑わしを受けない方法は日々の地道な努力の積み重ねと言う事でしょうか・・・・

at 22:48, 星 良謙・子授け地蔵, 心霊現象と神秘体験

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苗木の植え替え(星)

ご無沙汰しております。m(_ _)m
仕事が忙しいわけではないのですが・・・・
御神仏のお言葉を整理することを優先していましたところ、すっかりご無沙汰してしまいました。

何となく、ブログを投稿するのを日課にしていたのが、記事を投稿するのをやめてしまうと投稿するのが少しばかり面倒になってしまいました。(- .-)ヾ ポリポリ

などと考えながらネットを検索していましたところ・・・
8月26日に東京の一ツ橋で開催された女性セブン主催の「江原啓之さん公開質問会」にて江原氏は「私の人生のスローガンは霊能者撲滅」と語ったそうです。

詳しくはこちら

α~ (ー.ー") ンーー コメントは控えさせてもらいます。

その話はこっちにおいといて\(^^\) (/^^)/

とある駐車場の植え込みに苗木が何本か植えられていました。
気づけば、一本の苗木の根元にアンプルのような容器に入った液体肥料が挿してありました。一緒に植えられたと思われる何本かの苗木は、比較的順調に育ってるようでしたが、その苗木だけは枯れかけていました。

恐らくは枯れかけた苗木を助けたいと考えて、液体肥料を与えたのではないかと思われますが、助からないだろうなと見ていました。専門家ではありませんので断定的なことは言えませんが、こんなときに肥料を与えてもあまり意味はありません。

苗木を植え替えた経験のある方ならば、分かるのではないかと思いますが、植え替えをするとどうしても根を痛めます。そのため植え替えした直後の苗木は、充分に水や栄養を吸い上げることができない状態にあると言えます。

根が痛められて栄養を吸い上げることが出来ない状態の苗木に肥料を与えてもあまり効果は期待できません。ではどうすべきかと言えば通常は強めの剪定をします。これは苗木が水や栄養を吸い上げれない分だけ、水の蒸発を減らすことで対応しようとの考え方だと思います。

強めの剪定をしても植えた苗木が根を張れば新芽が伸びることからそれほど心配することはありません。勿論、植え替えは適した時期もありますし、木の種類によっては植え替えると枯れてしまう物もありますのでご注意を・・・

苗木の植え替えの話を取り上げたのは、苗木の元気がないから肥料を与えようとしているのを見て問題を抱えているから神仏に祈願する方々を思い起こしたからです。

神仏に祈願することは悪いことではなく、また神仏に祈願することで事態が好転したことは何度もありますが、場合によっては一所懸命に祈願しても事態がまったく好転しないこともあります。

そんなときには神仏のご加護がないのではなく、祈願する人間の側に問題があるのではないかと疑うのも一つの方法かと思います。単純に時期を待つしかない場合や祈願の内容に問題がある場合など色々な可能性があります。

一所懸命に祈願しても事態がまったく好転しないならば、自分自身の生活を省みるのも一つの解決策かと思います。



at 10:37, 星 良謙・子授け地蔵, 管理人のひとりごと

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神道の参考書(星)

いつものことではありますが、基本的にコメントに対するご返事をほとんど書かない状態が続いてます。またご質問に関してはお答えすることもあれば、そのままスルーさせて頂くことも少なくありません。

これはコメントに対するご返事を書いていますとブログの記事を書いている時間がなくなってしまうことが大きいのですが、ご質問に関してはお答えしようとしますと話が専門的になりすぎて一般の読者には無味乾燥な話となる危険性が高いことや正解のない話となることが多いことが理由です。

先日も「りか」様より祟りについてご質問を頂きましたが、そのご質問にお答えすることは容易ではありません。祟りについて書くとするならば、前回は意図的に無視した仏教だけでなく、道教や陰陽道の影響なども考慮すべきかと思われます。

また前回は神道と祟りの関係を前提に書きましたが、神道は仏教なのどのように体系的な教えが残されていないだけでなく、仏教や道教、陰陽道、儒教などの影響を受けていることは否定できませんので何をもって神道とするのかも問題となります。

更に教派神道や明治以降の古神道も無視することはできませんので、このブログで扱うには不適切な問題ではないかと思います。そのため、ご質問に関してはここでのお答えを控えますが、管理人が過去に読みました神道関連の本の中でお勧めできる物をご紹介しておきます。

神道の常識がわかる小事典
神道の常識がわかる小事典
三橋 健

神道とは何か―自然の霊性を感じて生きる
神道とは何か―自然の霊性を感じて生きる
鎌田 東二

日本神道入門―21世紀の危機を救うミソギの原理
日本神道入門―21世紀の危機を救うミソギの原理
本田 総一郎

神道の成立 (平凡社ライブラリー)
神道の成立 (平凡社ライブラリー)
高取 正男

日本神話と古代国家 (講談社学術文庫)
日本神話と古代国家 (講談社学術文庫)
直木 孝次郎

アマテラスの誕生 (講談社学術文庫)
アマテラスの誕生 (講談社学術文庫)
筑紫 申真

日本人の言霊思想
日本人の言霊思想
豊田 国夫

憑霊信仰論―妖怪研究への試み
憑霊信仰論―妖怪研究への試み
小松 和彦

神と仏―日本人の宗教観 (講談社現代新書 (698))
神と仏―日本人の宗教観 (講談社現代新書 (698))
山折 哲雄

出雲神話 (講談社現代新書 444)
出雲神話 (講談社現代新書 444)
松前 健

日本書紀の謎を解く―述作者は誰か (中公新書)
日本書紀の謎を解く―述作者は誰か (中公新書)
森 博達

at 21:58, 星 良謙・子授け地蔵, 本の紹介

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天変地異と神仏(星)

管理人の住む地域では、台風一過ならぬ集中豪雨一過の晴天となりました。
全国的に集中豪雨の被害が大きく、床上浸水や床下浸水だけでなく、不幸にしてなくなられた方も何人かおられるとのこと・・・
一日も早く復旧されることをお祈りもうしあげます。

お蔭様で管理人の自宅付近は、一部の道路が冠水した程度で大きな被害もなく終わりました。

それはさておき・・・・
大きな天変地異が起きますと神仏の警告であるとか、人間の悪想念が天変地異を引き起こしたと話が流布します。それが真実であるか、単なる妄想であるのかの真偽は誰にも断言できないことではありますが、個人的にはあまり気にしていません。

天変地異が神仏の警告であると考えることで人々を啓蒙しようとの意図があるのかもしれませんが、人々の暮らしを破壊するだけでなく、多くの人々の命を奪うことを神仏がされるだろうかとの疑問を抱きます。また人間の悪想念が原因であるとの考えにも疑問を抱きます。

もしも天変地異が神仏の警告であるとか、人間の悪想念が原因であるとするならば、ナチスドイツのユダヤ人の大量殺戮や旧ソ連での粛清、中国の文化大革命での粛清、カンボジアのポルポト政権下での虐殺が行われていた時期にどうして大きな天変地異が起きなかったのかとの疑問を持ちます。

人間の悪想念が天変地異の原因であるとの考えは、日本でも古くからある考え方のようです。比較的有名なのが菅原道真公がなくなった後に平安京で雷などの天変が相次ぎ、清涼殿への落雷で大納言の藤原清貫が亡くなったことから祟りを恐れて天満宮として祀られた話です。

詳しくはこちら 伝奇伝説研究所

しかし、神社の由来を改めて調べてみますと大神(おおみわ)神社の大物主神様のように祟りの神とされている神様もおられますが、多くの神社は疫病や天災などが続いた際に神を祀ることで災いが収まることを祈願して建立されているようです。勿論、どこまで本当のことが伝わっているかの真偽は不明であり、本当は神様の祟りを恐れたことが理由なのかもしれません。

ただ、神の祟りとなると西洋文明の影響が強いのではないかと思うことがあります。旧約聖書のノアの箱舟やムー大陸、アトランティス大陸は神の怒りに触れて文明が滅ぼされた伝説と言えるのではないでしょうか。

そんな訳で旧約聖書の伝説やムー大陸とアトランティス大陸に関する伝説の検証を試みた本を紹介します。かなり説得力のある本なのですが、悲しいかな既に絶版となってしまっています。それでも古本が流通しているようです。

聖書の起源 (講談社現代新書 448)
聖書の起源 (講談社現代新書 448)
山形 孝夫
ムー大陸の謎
ムー大陸の謎
金子 史朗
アトランティス大陸の謎 (講談社現代新書 328)
金子 史朗

管理人が知ることができる御神仏の意思など限られた範囲でしかありませんが、管理人が御神仏から感じるは、常に限りない慈悲であることから御神仏が人間に対する警告として天変地異を起こすとは思えません。また、人間の悪想念が生きている人間に悪影響を及ぼすことはできるとしても、天変地異を起こすことができるかとなれば疑問です。

管理人は能天気なのかもしれませんが、御神仏は限りない慈悲の塊であり、また人間の想念が天変地異を起こすほど凶悪ではないと信じています。

at 15:17, 星 良謙・子授け地蔵, 管理人のひとりごと

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