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申し訳ありませんが(星)

このところ、連日真夏日が続いています。 (^^;;;;;; アセガトマリマセン

連日の暑さで体調を崩されている人も多いようです。

(−−; ゲソ〜

海だ、プールだと出掛ける元気もなく・・・・

管理人は、ぐた・・・と元気なく過しております。

唯一の楽しみは、このところ中日ドラゴンズが好調なことでしょうか。

( ̄ー ̄)ゞ フフッ

それはさておき・・・

このところ、アクセス解析を見ていますと隈本 確氏の検索からこのブログにアクセスされている方が増えています。以前から少数ながら隈本 確氏の名前を検索からアクセスされている方がいましたが、このところ何故か急激に増加しています。

管理人も今から20年ほど前に隈本 確氏の著書を数冊ほど読ませて頂いた時期がありました。当時は、自分の周囲で何が起きているのかも分からず、試行錯誤を繰り返していました。そのため、隈本 確氏の本に限らず、精神世界の本を読み漁っていました。

その当時、管理人と同じように心霊現象に悩んでいた知り合いから隈本 確氏の浄霊を受けてみないかと誘われ、同じ悩みを持つ知り合いが集まって長崎道場で浄霊を受けたことがありました。しかし、何分にも20年も前のことであり、記憶も曖昧になっております。

また、個人的には浄霊を受けた後に隈本 確氏の教えや活動に関心を持つこともありませんでしたので、現在どのような活動をされているのかを知りませんし、現在どのような教えを説かれいるのかも存じません。

当時に読ませて頂いた著書が発売されているようですのでお考えが変わられていないのかもしれませんが、心霊世界においては、何が真実であるかを検証することは不可能であり、管理人の考えが隈本 確氏と違っていることを理由に批判する気持ちはありません。

心霊世界においては、何が真実であり、何が間違いであるかの検証できないことから、何を信じるかは個人の責任で判断するしかないと思います。個人的には、仏教経典で説かれている死後の世界観が真実であるとは思いませんが、、荒唐無稽な話であるとも考えてはいません。しかし、最終的には個人の責任で判断して頂くしかないのではないかと思います。

個人的には、仏教の各宗旨に教えの違いはありますが、どれも優れた教えであると考えています。また神社の持つ荘厳さや厳粛さは、言葉では伝えることができない教えであると考えていますので新興宗教の教えには、関心がありません。

いずれにしても隈本 確氏の活動に関心もなく、またその活動内容も知りませんので、隈本 確氏の情報を求められて検索された方には申し訳ありませんが、コメントは控えさせて頂きます。

最後に心霊現象についての個人的な意見は、カテゴリー「心霊現象と神秘体験」や「霊感・霊媒体質・霊能力について」をお読み下さい。

PS
「開運の方法・改訂版」を告知しながらも出版のご報告ができない状態が続いており、申し訳ございません。出版のご報告ができますように模索しておりますが、相変わらず返事待ちの状態が続いております。m(_ _)m

尚、現行版の「開運の方法」は電子出版で出版しております。そのため、PCをお持ちでない方には御求め頂けませんので、携帯で閲覧できる「開運の方法」の内容を掲載したブログを用意しております。

また出版社の都合でMacをお使いの方には御求め頂けませんが、本の内容をメモファイルでメールにて送らせて頂いておりますので御問い合わせ下さい。

ご連絡先は、「開運の扉」に掲載してあります。
御手数ではありますが、こちらよりお入り下さい。 開運の扉

at 06:53, 星 良謙・子授け地蔵, ご挨拶

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親を大切にする心(星)

管理人の手元には、未整理のままになっている自動書記のお言葉があります。大半は、出先で走り書きで書いたメモ程度のないようなのですが、気付けば随分とそんな走り書きが溜まってしまいました。

どれもが短い文章なので教えとしては、体系化されていませんが、読者の皆さんに参考になるのではないかと思う話が幾つかあります。今回、紹介させて頂くお言葉は、良縁を願われている方には、参考になるのではないかと思います。


忠孝の道を忘れた者がどのような気持ちで神を拝むのであろうか。
愛する者をめとりたいと思うならば、愛する者の親も自分の親も同じであるだけでなく、自分の親以上に大切にするのが人の道である。
自分の親以上に大切にしなければならない相手の親を蔑(ないがし)ろにしながら、相手をめとりたいと願う者を加護する気持ちは、我らにはない。
相手の者をめとりたいと考えるならば、相手の親に忠孝を尽くす気持ちを持たなければならないのは、当然のことである。それを忘れたならば、どんなに愛しき者と結ばれることを願ったとしても、その願いを我らが聞き届けることはない。

神を拝むとは何か。
そして神を拝む心の奥底にある気持ちとは何か。
それは仁であり、慈悲であり、忠孝であり、義であり、誠であり、すべての徳である。
その徳の心とは何か、それが何かを問うのが、神に向き合うことである。
大いなる存在に頭を垂れ、大いなる存在に畏怖し、敬う心こそが全ての始まりである。

神に頭を垂れることができぬ者が、神の子である人間に頭を垂れることができるであろうか。
神は、すべての人間にとっての親であり、すべての人間は神の子である。
神の子である人間が親である神を尊崇することが祈りである。
ならば子が親を敬い、尊ぶのもまた自然の道理である。
されば、愛する者にとって大切な親であるならば、我が身にとっても大切な親であるはずであり、愛する者にとって大切な親を大切にできぬのであるならば、どうして愛する者を大切にすることができるであろうか。

「神の子である人間が親である神を尊崇することが祈りである。」との考え方を現実の世界に置き換えるならば、親子関係になると言うことでしょうか。しかし、御神霊の真意は、杓子定規な儒教的な精神論ではなく、敬う心の原点を説くことであると思われます。

自分にとって大切な人であるならば、その親も大切な人であると考えるのが、人としての道であり、愛する人は大切であると考えても、愛する人の親はどうでもよい人であり、赤の他人であると考えるようでは神を拝むことの意味を何一つとして理解していないのと同じであると言いたいのではないかと思われます。

しかし、親であると言っても現実には親としての義務を放棄したようや親や親を名乗る資格がないような親もいます。神霊は、そのことを無視されているいるわけではありません。当事者にとっては限りなく不幸なことであり、辛いことであることを無視されているわけではありません。

不幸にして愛する人の親が親を名乗る資格もない場合であっても、愛する人のは親であることには違いがありません。その愛する人の親をでどうでもよい人間であると考えるべきではないと神霊はお考えのようです。勿論、親の言いなりになることが親孝行ではなく、どのように対処すべきかは難しい問題となると思われます。

そのことについて神霊は、教えを説きたいとのお気持ちがあるようですが、霊格が高すぎて意識を合わせることができません。ただ感じるのは、自分の愛する人の不幸や苦悩であるならば、自分も共に背負うべきであり、自分が愛する人の苦悩を共に背負う気持ち気持ちがあるならば、親を名乗る資格もない親だからどうでもよいとの気持ちにはならないはずであるとのお考えがあるようです。


at 22:26, 星 良謙・子授け地蔵, 神仏の御言葉

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矛盾する真理2(星)

年末年始になりますとお笑い番組の特番が多くなります。そんなお笑い番組とは無関係でなのですが、毎年楽しみにしている番組があります。もっとも特定の番組ではなく、イチロー選手の対談番組です。 野球が好きと言っても自分が野球少年であったこともなく、単純に応援しているだけであることから野球の技術的な話となれば、分からないことが多いのですが、そんな素人でもイチロー選手の技術の高さには驚かされることが何度かありました。

野球の解説者の話を聞いているだけの素人ではありますが、野球のバットには芯と呼ばれるスィートスポットがある程度のことは知っています。これはバットの反発力が強い部分であり、その限られた狭い範囲でボールを打つことで鋭い打球を打つことが出来ます。

鋭い打球ならば、ボールはより遠くに飛びますし、打球も早いことから野手が打球に追いつけず、ヒットになる確率が高くなります。しかし、バットの芯を外してボールを打つと力のないとなり、ボールは遠くに飛ばす、また打球も遅くなることから野手が打球に追いつき、アウトになる確率が高くなります。

当然のことながらバッターは、その芯でボールを打つことを狙い、ピッチャーはその芯をはずして打たせるために工夫します。例えば、バッターの手元で少し変化する変化球があります。バッターからするならば、ボールを的確に捉えたつもりでも、ボールが僅かな変化した分だけ、芯を外れ力のない打球となります。

この程度の話は、野球の常識であり、知っていても何の自慢にもならない話です。しかし、イチロー選手の凄いのは、この野球界の常識を覆すことです。つまり、バットの芯を外してヒットを打つ技術を持っていることです。その話を最初に聞いたときには、「?」の山となりました。

????(-"-)???? こんな状態でした。

勿論、番組の中では技術的な解説をされていましたが・・・・

(_ _ ??)/◇ ワカラン・・・

しかし、もっと訳のわからなかったのが、「動体視力」ならぬ「動体体」の話でした。「動体体」はイチロー選手の造語と思われますが、話を要約しますと、ピッチャーが投げたボールを打てると身体が判断して動き出す、しかし実際には打っても凡打になってしまうボールであることを頭で判断して身体の動きを止めることができなければならないと言った内容でした。

長年の練習の積み重ねで身体が勝手に反応して動くと言った話は聞きます。また打てると思ったボールが思わぬ変化をしたことから瞬時にその変化に対応すると言った話も聞いたことがあります。それだけでも充分に凄い話だと思います。しかし、ピッチャーが投げたボールを打てると身体が判断して動き出すことだけでも凄いのに、頭でそれが打てないボールであると判断して身体の動きを止めるとなれば、あまりにも凄すぎると言うか、凄すぎます。

一般的に解説者が話している内容は、打ってもヒットにならないボールとヒットになりやすい甘いボールを見極めることの大切さであり、今のボールに手を出してはいけなかったとか、今のボールは甘かったから手を出すべきであったと言ったことです。そのため、瞬時に打つべきボールか、打つべきでないボールかを判断できるだけでも選球眼が良い選手であると言われます。

そして、身体が勝手に反応して動く、つまり頭ではなく身体で覚えるまで練習することは大変なことであり、その境地を目指して多くの選手が練習していますが、プロの選手であったとしても簡単には到達できる境地ではありません。更に打てると思ったボールが思わぬ変化をしたことから途中で軌道修正することができる選手となれば、限られた選手となります。

しかし、イチロー選手は、更にその上の境地の話をしていますので、もうその境地は、前人未到とも言うべき境地となります。勿論、管理人にそんな境地が理解できるはずもなく、話として聞いているだけのことでしかありません。

(?_?)(?_?)(?_?)(?_?)

野球の経験など皆無にも近いのに長々とイチロー選手の話を書きましたが、イチロー選手の本当の凄さを理解できるのは、やはり野球選手ではないかと思います。管理人は、ただ淡々と話をするイチロー選手の中に道を究めた人間の凄さを見る気がしています。

その話はこっちにおいといて\(^^\) (/^^)/

日本人は野球に限らず、〇〇道と言った表現が好きですが、個人的にはイチロー選手にそんな修行者にも似た姿を求める気持ちはありません。イチロー選手にしても修行のために野球を続けているとも思われませんし、イチロー選手もそんな扱いを望んではいないのではないかと思います。イチロー選手は、一人の野球選手として自己鍛錬をしているだけであり、他には関心もないと思います。

しかし、高い技術レベルでは、矛盾が矛盾でなくなることは同じであり、一般の常識で考えたとしても理解できないことは同じではないかと思います。また矛盾を超えた境地の価値を知ることができるためには、高い境地に到達する必要であると思われます。

at 12:48, 星 良謙・子授け地蔵, 管理人のひとりごと

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矛盾する真理(星)

プロ野球球団が春季キャンプをしていたころにある野球解説者にアナウンサーが若手選手へのアドバイスを求めましたところ、「自分にできることをやればいい。首脳陣にアピールしようとできないことをやろうとするから怪我をする。」と語っていました。

若手選手は、春季キャンプで首脳陣に少しでもアピールしようと無理をして怪我をしてしまうことが多いようです。春先に怪我をしてしまうと首脳陣にアピールするどころか、出遅れてしまいます。解説者からするならば、シーズンは長いことから無理をして怪我をしてしまっては意味がなく、また首脳陣は選手の実力を見抜くことが仕事であることから自分の現在の実力を充分にアピールすることに専念すべきであると言いたかったのではないかと思います。

またマラソンのレースなどでは、レース前の練習量が多すぎると蓄積した疲労が抜けずに好成績を得ることができない場合があり、レース前のコンディションの管理が大切であると聞いたことがあります。

しかし、競争に勝ち抜くためには、人の二倍三倍の練習すべきであると語る解説者も少なくなく、豊富な練習量でレギュラーを獲得した選手の話が紹介されるとこがよくあります。また試合前の豊富な練習量こそが試合を勝ち抜くための貯金であり、豊富な練習量の貯金がなければ、勝ち続けることは難しいと語る解説者もいます。

勿論、それぞれの解説者の語る話の前提条件が異なることから同一に考えることはできませんが、各分野で実績を残された方の話ですので一つ一つの話には、それぞれ説得力があります。しかし、話を聴く者にとっては、混乱の原因となります。プロ野球などでも新人選手が異なるコーチから異なる指導を受けて選手が混乱したり、コーチが変わるたびに指導方針が変わったことが原因で成功することなく引退することは多いようです。

では、指導者の言うことなど聞かずに自分の考えだけを貫けば良いのかと言えば、そうでもありません。引退した元大リーグ選手である伊良部投手は、元中日の抑えのエースであった牛島投手の指導を受けてからそれまでの不振が嘘であったかのように活躍できるようになったそうです。

以前のことですが、ラジオに牛島氏が出演されていたときに電話で伊良部元投手が対談され、そのときのことを話されていました。当時、牛島投手は落合選手との交換トレードでロッテに移籍、そして期待されて入団しながら全く活躍できずにいた伊良部投手に出会ったそうです。

しかし、牛島氏は、当時まだ自分が現役の投手であったこともあり、伊良部投手の不振の原因に気付きながらも黙っていたそうです。ただ、牛島氏としては、伊良部投手が指導して欲しいと頭を下げてきたらば、指導するつもりであったそうです。そして伊良部投手が試合である試合で滅多打ちになり、牛島氏に指導を求めたことから指導が始まったそうです。

そのことを伊良部元投手は非常に感謝されていましたが、その内容は投球技術だけでなく、野球に取り組む姿勢や心構えなど非常に多岐にわたっていたそうです。そのため、指導された内容を短い時間で語ることなどできないと言われていました。

牛島氏は、謙遜されてか、当時の伊良部投手は、自分の指導を受けるまでに試行錯誤を繰り返して何をすれば良いのかも分からないぼとに混乱状態にあったことが成功した理由であり、タイミングが良かったと語られていました。

これは優れた指導者に巡り会えたことで成功できた例と言えますが、これとは逆に指導者が才能のある新人を潰してしまうことも珍しくないようです。その理由の一つが自分の成功体験を頼りに指導することがあるようです。これは、スポーツの世界に限られた話ではなく、自分の成功体験を絶対的な真理のように考えて押し付ける人は少なくありません。

しかし、時代背景や社会情勢などが異なるならば、過去に成功できたとしても現時点で成功出来るとは限りません。また、前提条件が異なるならば、全く違った結果になることも珍しくありません。そのため、答えは一つではないと考えるべきなのですが、多くの方は自分の成功体験から抜け出せないようです。

その理由として多くの人が絶対的な真理を追い求めていることではないかと思います。蛇足ながら管理人は、絶対的な真理が存在しているとするならば、お釈迦様の説かれた諸行無常、諸法無我、涅槃寂静ではないかと思うことがあります。そんな哲学的な考察は別にすれば、真理は一つではなく、また真理は矛盾すると考えるべきではないかと思うことがあります。

これは言葉では理解できても実践できる人は少ないようです。互いが自分の体験にこだわり、自分の経験の枠を外れて考えることができません。その結果として自分の考えを押し付けることや干渉することが親切であると考えようになったり、相手を支配することが指導であると考えるようになったりします。

そのため、相手が自分を考えを受け入れなかったり、相手が反発すると感情的になることも少なくありません。そのことについて神霊は、穴の中で争っていることが理由であり、穴から抜け出せば、簡単であると説かれたことがありました。これは、同じ認識力の段階にある者同士が争っていているのは、価値観の対立となります。しかし、相手よりも高い認識力を持つならば、争いにはならないと言うことです。

優れた指導者は矛盾する真理が存在することを認識し、その矛盾を高い次元で認識することができるのではないかと思います。それを仏教の観点から表現すれば、悟りとなるのではないかと思います。また別の表現をするならば、人間としての器の大きさであり、見識の広さと言うことでしょうか。

言葉としては簡単なのですが、実践となると非常に難しいことです。そのため、管理人にできることは、真理とは矛盾することを忘れないようにすることだけではないかと考えています。

at 00:58, 星 良謙・子授け地蔵, 管理人のひとりごと

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救われる身(星)

管理人は自動書記で書いた文章を公開していますが、管理人の他にも自動書記で書かれた神仏の言葉を公開されている方は少なくありません。それらの言葉の多くは、人に優しくしなさい、親に感謝しなさいと言った愛や感謝について説かれている印象があります。

それらの言葉の一つ一つには間違いがないとしても、人に優しくしなければならない、親に感謝しなければならないとの義務になってしまうと、水戸黄門の印籠のように弊害が生まれるのではないかと思うことがあります。人に優しくしなさい、親に感謝しなさいと言った愛や感謝の心を持つことは大切なことですが、それがすべてではないと思います。

当然のことながら、人に優しくしなさいと言っても時と場合であり、親に感謝しなさいと言われても素直に親に感謝する気持ちになれない場合もあるのではないか思います。そのため、愛や感謝の心を持つことが大切でありますが、それを義務として考えてしまうようになると人に優しくできないことや親に感謝できないことを罪悪であると考えるようになります。

感謝や優しさを義務と考えるようになりますと、誰かに感謝されないと自分の存在価値を感じることができないようになることが多いようです。こうなると本人は、世のため人のためと考えて人助けのために奔走しているつもりでも、本当は自分の存在価値を感じられなくなることの恐怖心からの行動となることが多いようです。

今回、ご紹介するお言葉は、そんな人たちに向けた教えではないかと思われます。

自分の働きや自分が動くことで相手を救うことができると考えてはならない。
すべては阿弥陀仏の働きであることを忘れてはならない。
他の宗旨の者からするならば、阿弥陀仏だけが仏ではないと言うであろうが、同じである。
現世に生きる者が相手を救うことはできないと考えよ。
相手が話を聞く心を持たぬならば、話をすることはできず、相手が阿弥陀仏の慈悲を信じる気持ちがなければ、阿弥陀仏の慈悲を信じさせることはできない。
それが法華経であろうが、禅であろうが同じことである。
相手を変えることができないと知るならば、相手に変わることを求めるべきではない。
山門は常に開け放けよ。されど引き込むべきではない。
それが我らの教え、阿弥陀仏の慈悲は説けど強制するつもりはない。
されば教えを説き、阿弥陀仏の慈悲を伝えるのは報恩感謝の心なれど、(阿弥陀仏に帰依することを)相手に求めてはならない。
相手が阿弥陀仏に帰依しないことに怒ってはならない。
追ってはならない、追い詰めてはならない、威かしてはならない、静かに見守るべきである。

山門 お寺の門のことです。
そして「山門は常に開け放てよ。」とは、教えを求め者に対していつでも教えを説くべきであることの意味であり、「されど引き込むべきではない。」とは無理強いしてはならないことの意味です。

「現世に生きる者が相手を救うことはできないと考えよ。」との言葉に反発を抱かれる方もいるのではないかと思います。しかし、浄土真宗においては、すべての者が阿弥陀仏に救われる身であると考えます。つまり自分は阿弥陀仏に救われる身であり、自分の力で誰かを救うのではないとの考えが徹底しています。

蛇足ですが、親鸞聖人の教えでは、極楽浄土に生まれ変わることができるならば、高い悟りを得ることができるため、まずは極楽浄土に生まれ変わり、高い悟りを得た後に現世に生まれて多くの人を救うべきであるとされています。

話を戻しますとここで説かれていることは、苦悩する人を救うことができるのは、阿弥陀仏のお力であり、生きている人間にできることは阿弥陀仏への感謝と阿弥陀仏の慈悲を伝えることだけであるとの考えです。この教えに異論を持たれる方もおられるのではないかと思いますが、自分は阿弥陀仏に救われるべき身であると考えますと自分が誰かを救うことができると考えるのは、思い上がりであるとの考えとなります。

自分には誰かを救うことができないと考えるならば、主役は阿弥陀仏であり、何かをすることで自分の存在価値を見出す必要はなくなります。しかし、この考え方にも落とし穴があります。自分は既に救われた身だから周囲の人たちにも、この喜びを伝えるべきであると考えると喜びを伝えることに自分の存在価値を見出すようになります。

こうなると信仰の喜びを伝えられないと自分の存在価値を見出せなくなります。そのため、「現世に生きる者が相手を救うことはできないと考えよ。」の言葉に大きな意味があるのではないかと思われます。自分たちは救われた身であり、教えに帰依できないでいる人々は、救われてない哀れな人間であるとの考えに陥ると周囲の人々を見下した心となり、仏の慈悲を見失うことになると思われます。

この教えを説かれた神霊は常に「自分は仏に救われる身である」と考えることの大切さを説きたいのではないかと思われます。しかし、今回紹介した教えも一つの教えでしかなく、この教えにとらわれるならば、また別の弊害が生まれてしまうことになると思います。

at 16:59, 星 良謙・子授け地蔵, 神仏の御言葉

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答えを求めること(星)

久々に神仏のお言葉を投稿することにします。
お読み頂ければ分かりますが、内容から推察しますと禅宗の神霊ではないかと思われます。
しかし、この言葉を降ろされた神霊は宗旨について何も語られなかったことから詳細は不明です。


人間の心のすべてを知ることができるとでも考えているのであろうか。
自分の心のすべてを知ることができるとでも考えているのであろうか。
それともすべてを知ることができなければ不安で仕方がないのであろうか。

時宗の者がすでに説いているはずである。人生の目的を知ったはずならば、その時には何の意味もなくなると、その言葉をどのように考えているのであろうか。

そなたは自分の中の不安に怯えているだけでしかない。その不安の正体を追い求めたとしても、その正体を知ることに何の意味もない。その自分の影を追い求めているのと同じ、影を追い求め続けたとしても何の意味しないことである。
されば何ゆえに自分の影を追い求めるのか。

中略

不安を解消するのは、知ることではなく答えを求めることでもない。それは自分の心を安心させるための答えでしかない。そのような答えをいくら追い求めたとしても何の意味もない。

不安を解消したいのであるならば、答えを探すことをやめることこそが仏の智恵、それはその心を不安から解消するための智恵である。

何のために坐るのか、坐り続けることに何の意味があるか、無念無想にて坐ることに何の意味があるのか、その答えを追い求めるのをやめること(は)、自分の心の不安を解消する答えを追い求めることをやめることと同じである。

生老病死の不安を解消しようと答えを追い求めたとしてもその答えはなく、その不安は解消されることはないであろう。何人であろうとも生老病死の不安から解放される者は誰一人としてなく、何人であろうともその事実から逃れることができる者はいない。

されどその不安を解消しようと答えを追い求めることをやめるならば、不安は不安でなくなる。不安がなくなるならば、残るのは生老病死の事実だけである。それと同じである。

〇〇にしたところで生老病死の理由を追い求めているのと同じく、自分の心の中の不安を解消したいがために答えを求めている。それをやめたときに不安は不安でなくなるであろう。
()の中の文字は、管理人の補足です。

尚、時宗の方の説かれた教えとは、下記の内容です。

人生の目的について
人生の目的や生まれた理由を考えることは、悟りへの入口に立つことです。
その理由を知った時には、その理由は意味のないものとなっていることが多いのです。
人生の途上で大病を経験する、そんな人生の経験もあります。しかし、大病を患いながらも健康を取り戻し、その大病の経験によって何かを悟ったならば、もはや、その大病を経験しなければならなかった理由を知ること、意味はないのです。
目的を知った時には、目的そのものに意味がなくなることが多いのです。逆説的ではありますが、それが人生の目的なのです。
考えてみてください。多くの人は、人生の目的を考えることなく、一生を終えるのです。
自分の生まれてきた理由を考えないのです。ただ、その日その日を、いかに暮らすかだけを考えているのです。
お気づきでしょう。わたしは生前に弥陀の教えを学びました。悟ることのできない自分は、弥陀の救いにすがるより他にないと、ただひたすらに、弥陀の教え、弥陀の救いにすがりました。
人生の目的を考える、それもまた悟りなのです。
                           (平成十一年十月十二日)


霊界通信 南無阿弥陀仏 時宗の霊言 人生の目的 P144 星 良謙著 潮文社

含蓄の多い言葉ではありますが、解説は不要ではないかと思います。

at 00:05, 星 良謙・子授け地蔵, 神仏の御言葉

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情報の洪水(星)

このところ、中日ドラゴンズが低迷しております・・・・・(-_-)ゞ゛ウーム

勝ったり、負けたりの繰り返しは、勝負の世界の宿命ではありますが、二桁得点や二桁失点のゲームが続くと、どうなってしまったのかと、少しばかり不安になっています。

投手王国と言われていたのが、遠い昔になってしまったような・・・

o( _ _ )o ショボーン

巨人とのゲーム差も開くばかりです。
オールスターを前にこんなにゲーム差が開いてしまうと、ペナントレースの興味も半減してしまいます。

とは言うものの・・・

やっぱり大リーグに行ってしまった川上投手に「早く帰って来て」とお願いしたくなります。


それはさておき・・・

管理人の読書は、話題の小説や文学書には無縁であり、昔から専門書や雑学に偏る傾向がありますので、本棚は園芸・経済・歴史・似非科学の批判・心理学・気功・民俗学・精神世界・宗教・占いの本が雑然と並んでいます。それらの本とは無関係に架空戦記の小説が本棚の一角を占領しています。

そんな本棚を見た知り合いが酷い乱読だとあきれていましたが、これには理由があります。管理人が最初に覚えた占いがトランプ占いであり、その流れでタロット・カードを覚えました。やがて宗教に対する疑問もあって占いを研究するようになりましたが、占いを研究していますと占いの背後にある西洋の神秘思想の方が面白くなりました。

別にオカルトの世界にのめり込んだ訳ではなく、西洋の神秘思想とは民俗学や宗教、哲学、心理学のごった煮と言った世界であったことが理由でした。そのため、西洋の神秘思想を理解しようとしたことと自分の身に起きている心霊現象について知りたい気持ちもあり、色々な分野の本を読み漁っていたところ、間口が広がり過ぎて挫折し全てが中途半端となってしまいました。

また、精神世界の本ばかりを読んでいますと考え方に偏りが生まれることから経済の本や歴史書、似非科学を批判する本などを読むように心掛けていました。その結果が一見すると何の統一性のない分野の本が並ぶ結果となりましたが、占いの仕事をしていますと雑多な知識が求められることが多いことから怪我の功名と言った感があります。

しかし、ブログを投稿するようになって読書量が大幅に減少してしまいました。振り返って考えるならば、数多くの本を読むことができた時期は、隔週でありましたが週休二日であったサラリーマン時代や病気で療養中の時期でした。それが自営業となってからは仕事と休みの区別が曖昧となり、読書量が大幅に減りました。

それでも以前は、睡眠前の少しの時間で本を読むことを習慣にしていましたが、ブログを投稿するようになって、その習慣もいつまにかなくなりました。やはり限られた時間の中でやりたいことが増えると何かの時間を削るしか方法がないと言えます。さすがに占いの本だけは、時間をやりくりしてでも読むようにしています。

しかし、多忙なことの弊害は読書量の減少だけではありません。満足に睡眠時間が確保できない過酷な労働環境が長期間続くと記憶が残らないことを聞いたことがあります。深夜まで働き続け、早朝から働かなければならない状況が続きますと、その期間に働いていた記憶はあっても詳細な記憶がほとんど残らないそうです。

そこまで過酷な労働環境の中で働いたことはありませんが、気が休まることがないほど忙しい状況が長期間継続しますと思考能力や判断能力、集中力などが大幅に低下することは体験しています。これは一日の中にもあり、午前中と午後から夕方まで、夕方から深夜と疲れが溜まるに従って判断能力が低下すると思います。

このことを巧みに利用したならば、洗脳となります。管理人も新興宗教に入会していた時期がありますが、振り返って考えるならば、気の休まることがないほど多忙な状態が続いていた時期でした。振り返って考えるならば、どうして入会したのかを考えますと生活に疲れ果て冷静な判断能力を失っていたからではないかと思います。

特に出口の見えない絶望感が半年、一年と続きますと心が折れそうになる日が続くようになり、2年3年と続くなるならば、身も心も疲れ果てます。そしてその状態が5年6年と続くならば、感情が麻痺したり、思考能力が大幅に低下するようです。感情が麻痺するほどの状態ではなくても出口の見えない状況では、現世利益を説く宗教に魅力を感じて入信される方や問題の解決を約束する霊能者を頼られる方が少なくないようです。

個人的な経験では、現世利益を求めて新興宗教に入信される方や霊能者を頼る理由の背後には、判断能力が大幅に低下している状態であることが要因の一つではないかと思います。そして新興宗教の場合には、入信した後に待ち構えているのが、情報の洪水です。教祖の著書や月刊誌などの文字情報だけでなく、講演会や集会への参加など気付けば、一般社会からの情報が遮断され、教団の情報に取り囲まれていることが多いようです。

そのため、情報の洪水と時間の束縛の二つで冷静な判断能力を失わせているのではないかと思うことがあります。勿論、すべての新興宗教や霊能者がこのようなことを行っているとは思いませんが、身も心も疲れ果てているときほど判断能力が低下している危険性が高いことから慎重に行動されることをお勧めします。

at 19:22, 星 良謙・子授け地蔵, 心の健康

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矛盾する指示(星)

暫く前のTV番組で生き残りの道を模索している運送会社を取り上げていました。
その会社では、燃費向上のために会社の方針として高速道路を80キロに制限していましたが、ある運転手が配達指定時刻に間に合わないからと80キロを超えて走行したことから問題となっていました。

運転手は速度制限を守っていては、配達指定時刻に間に合わないから早く走るのは当たり前ではないかと反論していました。確かに指定された速度を守って走っていたら配達指定時間に間に合わず、間に合わなければ、間に合わなかったと怒られ、配達時間に間に合わせれば、今度は速度を出し過ぎていると怒られては、運転手としてはたまらないと思います。
蛇足ながらトラックの場合には、速度などの運転記録を残すことが義務化されていますので時速何キロで走ったかは、記録を見れば分かります。

社長は怒鳴り散らすことが仕事であり、社員は怒鳴られることが仕事であると割り切って考えていなければ、勤まらないのが中小企業の社員の宿命と言えるのかもしれませんが、ストレスが溜まります。

管理人も中小企業に長く勤めていましたので、この運転手の気持ちが良く分かります。残念ながら中小企業の社長は、自分がいなければ会社が成り立たないとの考えや自分以外は信用できないと言った考え方の持ち主が多く、従業員の意見を素直に聞く方はあまりいない印象があります。

「配達指定時間に間に合わせろ」「制限速度を守れ」の指示に間違いはありませんが、その2つの指示が同時に成立しない場合にどちらを優先すべきかを指示していなければ、何も指示していないことと同じことになります。

しかし、中小企業の社長の多くは、どちらも守るのが当然であるとしか言わないことが多いようです。どちらも守ろうとするとするならば、休憩時間を削る他になく、労働条件の悪化となります。それが大事故の要因となりますが、就職難であることから無理を重ねている運転手の方が多いようです。

これに似た話が宗教や精神世界においてもよくあります。特に経典至上主義のように、現実よりも理論を優先した場合には、その傾向が顕著となります。例えば、法華経の行者の中には、法華経には様々な功徳が書かれていることを根拠に、法華経を信じることで多くの苦悩や困難が解消されると説く方がいます。

しかし、いくら法華経を信じることや法華経を説くことに功徳があるとしても、現実には法華経を信じることですべての苦悩が解決されるはずもありません。当然のことながら熱心に法華経を信じていても苦悩が解消しない場合もあります。このような場合にどのように考えるかが重要になります。

法華経を信じることで、すべての苦悩が解決されないと考えるのが、常識的な考えではないでしょうか。しかし、経典至上主義のように教えが絶対的な真実であると考えるならば、現実の苦悩が解消されないのは、自分の信心が足りないためであることが原因であるとされてしまうことがあります。

当然の事ながら生活を維持するためには、労働や雑用の時間が必要となります。そのため、部外者からするならば、熱心に信仰していると思っても生活のすべてを信仰に捧げることは、出家しない限りは絶望的となります。そのため、どんなに熱心に信仰していたとしても、これで充分であるとの限界はないことになります。

しかし、実際には自由になる時間は限られていることから、信仰を優先するならば、日常生活に使える時間を減らすしかありません。多くの新興宗教などにおいて問題となっているのも主婦が家事よりも教団での活動を優先することや学生が学業よりも教団の活動を優先することのようです。

その一方、どの宗教団体でも家族の絆の大切さや家事の重要性、学業の大切さ、仕事を通して奉仕の精神の実践などを説いているようです。しかし、家事や学業、仕事を優先したならば、教団の活動に費やす時間を減らさなければなりません。

そのため、限られた時間の枠の中でどちらを優先するかの問題になります。このときに信仰よりも日々の生活を優先するならば、新興宗教の問題で悩む方が大幅に減るのではないかと思いますが、日々の生活よりも信仰を優先される方が多いようです。その結果として家の中には、片付けられることのない荷物が山積みとなり、その傍らには配布用の教団の小冊子が山積みになっているとの話を聞きます。

これは、特定の新興宗教に限られた話ではなく、問題のあるとされている教団ならば、何処も似たような話があるようです。信仰を優先するのか、家族の絆や家事、学業、仕事などを優先するのかを説かないままに熱心に信仰することで問題が解決すると説くのは、「配達指定時間に間に合わせろ」「制限速度を守れ」と同じ話ではないでしょうか。

管理人は、一般の方に比べるならば、神仏を意識することは多いのではないかと思いますが、日常生活を破綻させるような信仰に対しては疑問を抱きます。しかし、何処まで信仰を優先するかの判断には、明確な基準はなく、個人の責任で判断するしかないのではないかとも思います。

at 19:41, 星 良謙・子授け地蔵, 管理人のひとりごと

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経典至上主義の弊害(星)

先週の週末に紫陽花祭りに出掛けました。

少し珍しい品種の写真を掲載します。












「柏葉ハーモニー」と言う名前の品種です。







ヽ(^^ヽ)ワダイヲカエテ(/^^)/

心霊現象の話を書くときにいつも迷うことは、検証不可能であることや管理人にも理由が分からないことが多いことなどがあります。また心霊現象について説明することは簡単なことではなく、ある程度の経験を積まなければ分からないことが数多くあります。

それだけならば、まだ何とかなるのですが、厄介なことは霊界学とでも言うべき知識体系があることです。ヨーロッパでは神智学、日本では古神道と言ったところでしょうか。またあまり取り上げられることはありませんが、仏教においても霊界の構造や輪廻転生などについて説かれています。

また現代においても色々な新興宗教の教祖が独自の説を唱えることもあります。そして、それぞれが自説こそが真実であると主張されているようですが、同時に知識だけが一人歩きして霊学の常識であるかのような知識体系ができあがっている気がすることがあります。どの話が真実なのか、どの話が真実に近いのかは、管理人にも分かりません。

例えば、動物霊の祟りや憑依と言った言葉は、当然の常識と言った使われ方がしていますが、管理人は明確に動物の霊であると判断したことは、過去に一度もないことから、本当に動物の霊が存在しているのかは、管理人には分かりません。管理人に分かることは、動物霊を霊視したことがないと言うことだけです。

では、動物の姿をした心霊を一度も見たことがないかと言えば、龍や狐の姿をした心霊を見たことはあります。しかし、龍や狐の姿をしているから龍や狐の心霊が存在しているかとなれば、別の話だと考えています。霊界が心の世界である以上は、人間の心霊が龍や狐の姿を表すことは可能なはずであり、龍や狐の姿を霊視したとしても何の根拠ともなりません。

また、一般に憑依と言われている現象についても疑問を感じることは多いのですが、管理人が書きたいのは、心霊世界を考える場合に必要な態度は、客観的な分析ではないかとの思いであり、霊能者に喧嘩を売ることが目的ではありませんので、やめておきます。

これは霊能者に限られた話ではなく、行者や祈祷師にも共通しているのではないかと思います。霊能者がその根拠としているのが霊界学とも言える知識の体系であるとするならば、行者や祈祷師が根拠にしているが経典であり、儀軌となります。
※儀軌(ぎき) 密教で仏・菩薩・諸天神などを供養や祈祷をするときの規則や作法を書いた本

これは密教に限られた話ではなく、仏教においては経典は絶対的な権威があり、教えの真偽や教えの正しさの証明においても経典に書かれていることを根拠に自説を展開するのが普通です。例えば念仏を称えることで往生できるとされている根拠も浄土三部(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)です。そのため、行者や祈祷師が経典や儀軌を根拠にすることは、ある意味当然のことではありますが、管理人には思考停止のような印象があります。

経典に書かれているのだから絶対に間違いがないとの思考は、妥協のない原理主義的な考え方となり、現実を無視した考え方に陥る傾向があります。これが更に開祖が書き残されているから間違いがないとなるとその傾向が強くなります。そして現実と教えの矛盾を無視するようになるとカルト集団となるのではないかと思います。

しかし、この経典至上主義には、悪い面ばかりではなく、絶対的な強い信念を生み出すのではないかと思うことがあります。その強い信念は、盲信と紙一重の危うさはありますが、苦悩する人々を救いたいとの強い気持ちと一緒になった場合には、法力となるのではないかと思うことがあります。

これは少し解説が必要となりますが、一般に法力と呼ばれる力は、悟りの力と念の強さの二つの要素から成り立っていると思います。悟りの力とは質的な要素であり、念の強さとは働きかけの力の強さであると言えます。また過去の経験では、病気平癒や商売繁盛、浮気封じなどの現世利益の分野に関しては、悟りの力よりも念の強さが必要となる傾向があると思われます。

管理人は現世利益を否定する気持ちはありませんが、行者や祈祷師を頼る人々の多くが求めるのは、神仏の教えではなく、行者や祈祷師の持つ力であることが多い傾向があります。その結果としてもたらされるのは、生き神様や生き仏として行者や祈祷師を信仰に陥る危険性が高くなります。

これは行者や祈祷師にとっても不幸なことであり、信者から生き神様や生き仏として崇められ続けるならば、慢心して転落する危険性が非常に高くなります。その転落を防ぐためには、高い悟りが求めらることになります。

多くの神霊が経典や術を覚えることよりも悟りの大切さを説かれるのも転落の危険性を知り尽くされているからではないかと思います。

at 10:43, 星 良謙・子授け地蔵, 心霊現象と神秘体験

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怨霊の話(星)

このところ、TVや新聞で冤罪の話題が取り上げられていました。冤罪の問題は、安易に論じることができない問題ではありますが、冤罪被害者の「絶対に許さない」との言葉が印象に残りました。実際の問題として冤罪被害者が失った十数年の歳月や取調べの違法性を考えるならば、誰しもが抱く気持ちではないかと思います。

TVに登場された冤罪の被害者が取り調べをした刑事や裁判官、真犯人に対して激しい怒りを抱かれているとしても亡くなられた後に怨霊となることはないと思いますが、「末代まで祟ってやる」と言った言葉を残されて亡くなられた方の話を聞いたことがあります。

現代では、個人の尊厳が重視され、家柄や家系と言った家に縛られる考え方は、希薄となってはいますが、戦前までは家長制度が残っていたためか、相手に深い怨みを抱き、その家の子孫に対して災いを起こし続けていた不成仏霊がいたことがありました。この様な話を書きますと読者の方を威かしているような受け取られ方をするのではないかと思われ、今回の投稿を迷いましたが、実際に体験した話ですので投稿することにしました。

子孫からするならば、先祖の犯した罪であり、子孫には何の責任もないと言いたくなる話なのですが、心霊は怨みの塊となっている不成仏霊には、そのような道理も通用するはずもなく、問題を解決することが非常に困難となります。その理由として、一般的な不成仏霊ならば、供養を求めていることから供養を継続することで問題が解決することが多いのですが、心霊が深い怨みを抱いている場合には、求めているのが復讐であることから素直には成仏してくれません。

また自宅の宗旨で供養していても怨みを抱いている心霊が自宅の宗旨と仏縁を持つとは限らず、色々な宗旨で供養しても反発するばかりで、神道で供養してやっと成仏したこともありました。しかし、このような事例は数が少ないことから、ほとんど手探りで解決策を模索することの繰り返しでした。

では、このような事例では、「開運の方法」を実践しても効果がないのかとの疑問を抱かれる方も多いのではないかと思いますが、このような特殊な事例においても「開運の方法」の実践が基本となります。「開運の方法」を書いた際に負の想念や陰の気の排除、不成仏霊の影響の遮断、先祖の供養、神仏のご加護を基本的な枠組みとしました。

これは、霊障対策の基本であり、どのような霊障であったとしても負の想念や陰の気の排除、不成仏霊の影響の遮断、先祖の供養、神仏のご加護でしか解決できないと言えます。単純に〇〇の霊が憑依していたことが原因であり、〇〇の霊を除霊することができれば、霊障が解決すると言った事例は少なく、様々な要因が複雑に絡み合っていることが少なくありません。

また、復讐を求めている不成仏霊は、一般的に成仏を求めていないことから簡単には姿を表すことはほとんどなく、霊能者が霊視しても見つけることが困難な場合が多いようです。そのため、負の想念や陰の気の排除、不成仏霊の影響の遮断、先祖の供養と一つずつ問題を解決することでしか潜んでいる心霊を発見することができませんでした。

このように書きますと霊能者に頼らなければ、問題を根本的に解決することができないと考えられる方も多いのではないかと思いますが、最終的に問題を解決するのは、神仏の力であり、悟りの力であると考えています。しかし、そのことは分かっていても現実の苦悩を目の前にするならば、魔法の呪文がないかと考えてしまいます。

そんな思いにとらわれていたときにある神霊から術に頼るべきではないとお叱りを受けました。そのお言葉の中で「術に頼る者は術で身を滅ぼす」との言葉が印象的でした。印を組み、真言を唱える、護摩を焚く、護符を書くなどの術で迷いの中にある心霊を救うことができると考えるべきではなく、相手が怨霊であろうと行者の霊であろうとも本当に大切なのは、悟りの力であると神霊は説かれました。

ただ、この教えは一般向きではない気がしていました。悟りを求める心は、誰であっても大切ではありますが、苦悩の最中にある人には、別の道があっても良いのではないかと思ってしまいます。勿論、当事者がすべてを他人任せの気持ちでは、問題を解決できたとしても同じようなことを繰り返すことになります。

しかし、何代も祟り続けているような怨霊や行者の霊を救うことができるほどの悟りをを得るためには、どの宗旨の教えを学んだとしても大きな苦悩に立ち向かう覚悟と決意が必要となります。そのことは、苦悩の最中にある人には大きな試練となるだけでなく、良い指導者に巡り合うことができなければ、その試練を乗り越えることが難しくなります。

そのため、多くの場合には、霊能者や新興宗教に頼られる方も少なくありませんが、問題の解決をより困難にする結果になることが少なくありません。最悪の場合には、生活を破綻させてしまう場合もあります。また、優れた行者や祈祷師に巡り会えたとしても問題の解決は容易ではなく、少なくない御布施が必要となります。

管理人にしても右も左も分からぬ頃に人から勧められて行者や祈祷師に会いましたが、一回に十万、二十万と請求されたこともあれば、交通費や宿泊費で数万円が必要だったこともありました。中小企業に勤めていた人間には、痛すぎる出費でしたが、僅かな貯金を取り崩していました。それでも人生が大きく好転したならば、良かったのですが、どれだけ効果があったのかとなれば、疑問です。

しかし、管理人にしても妙案があるわけでもなく、現時点では霊障鑑定(易での鑑定)で対処しています。この方法が最善であるとは考えていませんが、試行錯誤は少なくなりました。

at 21:03, 星 良謙・子授け地蔵, 開運祈願

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