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霊界理論の危うさ20(星)

地域限定の話となりますが・・・・・

9月に茨城県水戸市で第11回「伊勢神宮展」が開催されます。

開催日 平成23年9月22日(木)〜27日(火)
会 場 水戸京成百貨店 7階催事場 入場無料

まだ、詳細な情報は掲載されていませんが・・・・

伊勢神宮 式年遷宮 遷宮ニュース こちらから


岐阜市歴史博物館で「国宝 薬師寺展」が開催されています。

開催日 平成23年月29日(金)〜10月2日(日)
会場 岐阜市歴史博物館

詳しくは こちらから

会場は少しばかりこじんまりとした印象がありましたが、薬師寺のお坊様の解説がありました。
通常は博物館などの公共の施設では、仏像も美術品扱いであり、拝んだりしますと不審者扱いされますが、お坊様が拝んでくださいとのお言葉があり、国宝の仏様を間近に拝むことができました。


それはさておき・・・

前回は神仏に近い神霊について投稿しましたが、今回は生きている人間の意識に近い神霊の働きについて投稿します。霊能者の多くは霊界を〇〇界、〇〇界、〇〇界と幾つかに区分けしているようですが、管理人はあまり厳密に考えないことにしています。もし、厳密に区分することを求めるのであるならば、仏教の説く霊界論が参考になるのではないかと思います。

詳細な話となりますと専門書などを参考にして頂くしかありませんが、簡単な概略だけならば、以前の記事を参考にして下さい。

悟りの段階と成仏4(星) こちらから

仏教で説かれている霊界の区分けは、そのまま悟りの段階であると言えますが、霊界が心の世界であると考えるならば、悟りの段階の違いが霊界の段階の差となっているとの考えは、十分に成り立つと思われます。勿論、高僧と呼ばれる方々が得られたような高い悟りを得ているはずもありませんので、個人的な経験の範囲での話となります。

さて、修行論としては悟りの段階を細かく区分することに意味があるとしても、生きている人間との関係を考える場合にはあまり意味がないと思われます。そのため、少なくとも神仏の手足として働かれてる段階にある神霊を神仏に近い意識の神霊と現世の人間に近い意識の神霊の二つに分けて解説することにしました。

前回紹介ました神仏に近い意識の神霊と現世の人間に近い意識の神霊の最大の違いとしてとしては、生前に学んだ教えに対するこだわりではないかと思います。更に生前に学んだ教えに対するこだわりとは何かを突き詰めますと、最終的には経典に書かれた内容に対するこだわりではないかと思えます。

他力門の教えにおいては、念仏を非常に重視します。これは無量寿経、観無量寿経の中で念仏を称えることで極楽に往生できることが書かれていることが根拠とされてます。また、法華経が尊いお経であるとされているのも法華経の中で尊いお経であると書かれていることが根拠とされています。

また、明治以前ならば、経典に書かれた内容はすべて真実であると考えられていたことから各開祖の教えも経典の内容がすべて真実であるとの前提となっています。そのため、教えを学ぶ者であるとするならば、経典の内容を真実であることを前提にすることは当然であると言えますが、神仏に近い神霊と比べますと微妙に異なります。

神仏に近い神霊の場合には、悟りの内容や教えを宗旨の教えに沿って自由に説く印象がありますが、現世の人間に近い神霊の場合には、経典や開祖の教えを根拠に教えを説く印象があります。これは説いている内容は同じような内容であっても、神仏に近い神霊は自分の言葉で教えを説いているのに対して、現世の人間に近い神霊は経典や教祖の言葉に頼って教えを説いている違いがあります。

このことを最初に感じたのは、自動書記が始まった当初のことでした。最初は修行らしい修行をした経験もなく、霊能者に対してあこがれもない人間なのに、どうして自動書記が始まったのかも分からず、戸惑いましたが、怒涛の如く押し寄せる神霊のお言葉を無視することもできず、自動書記を続けていました。当時は、占い師として開業する準備をしていた時期であったことから、比較的自由な時間がありましたが、あまりにも続く自動書記に閉口しました。

また、道徳論とも思えるような教えを説く神霊に対しては、現世に生きる人間の苦悩を知っているのだろうかとの疑問を抱きました。そこで現世に生きている人間の苦悩を解消するための教えを求めて質問するようにしました。すると質問に答えられなくなる神霊が少なくありませんでした。当時は、あまりにも続く自動書記に閉口しましたので、これで自動書記から解放されるとしか考えませんでしたが、次第に霊格の高い神霊が管理人の質問に答えるようになりました。

この時に感じたのが、現世の人間に近い神霊が説く教えは何処か教科書的なのに対して神仏に近い神霊の教えは、自由自在に教えを説いている印象がありました。つまり宗旨の教えを教科書を解説するように説いているときには、雄弁に語ることができても教えから離れると寡黙になることでした。

教えを学ぶ段階においては教えに忠実であることは求められますが、教えにこだわりすぎますと本質を見失います。また、宗教的な真実が確信から信念にまで高まりますと、経典に根拠を求める気持ちがなくなるのではないかと思われます。

例えば、他力門の神霊であるならば、阿弥陀仏の慈悲を確信されているのが当然であると言えますが、現世の人間に近い神霊は経典に念仏を称える者を阿弥陀仏が救われると書かれていることを説く傾向がありますが、神仏に近い神霊の場合には迷いの中にある衆生を救うことが阿弥陀仏の誓願であることがすべてであると考えているのではないかと思われます。

つまり、念仏を称える者を阿弥陀仏が必ず救われることを確信していても、経典に書かれているから間違いがないと考えるのが現世の人間に近い神霊であり、阿弥陀仏は迷いの中にある衆生を救うことを誓願としていることを確信され、経典に根拠を求める気持ちがないのが、神仏に近い神霊の境地であると言えます。

この違いは大きいのではないかと思います。経典に書かれているから間違いがないと考えている段階は、まだ知的に理解している段階であり、自分の中で確信から信念になったならば、経典に頼る必要はないと言えます。

これは何も他力門の教えに限られた話ではなく、禅宗や密教、日蓮宗などでも同じではないかと思われます。経典に書かれた教えは、悟りに至るための道筋ではありますが、悟りを得たならば教えに囚われるべきではなくなります。それが他力門においては、阿弥陀仏の慈悲をどこまで信じることができるかの差であると言えます。

at 00:32, 星 良謙・子授け地蔵, 霊感・霊能力について

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霊界理論の危うさ19(星)

先日のことですが・・・・

クーラーが不調・・・・・・

早速、修理を依頼したところ、場合によっては数万円の修理代が必要とか・・・

(゜◇゜)~ ガーン

最悪の場合には、買い替えか・・・

(TT; )( ;TT) オロオロ・・・・

何分にも古いエアコンのため、点検は有料・・・・・・o( _ _ )o ショボーン

点検して頂いたところ、機械的な故障はないとのこと ( ̄〜 ̄;)??

送風のファンに埃が溜まっていたことが原因でした。

結局、点検代の数千円の支払いだけで終わりました。

(ー’`ー;) ウーン

大事にならずに終わったことが不幸中の幸いと言うべきか、日頃から掃除をしなかったことが招いた災いなのでしょうか?

それはさておき・・・・・

前回は、神仏についての考察を投稿しましたが、今回は神霊の働きについての考察を投稿します。神霊と言っても段階があり、神仏に近い段階の神霊ともなれば、神仏に近くなります。そのため、あまり両者を区別する意味はないとも言えます。しかし、精神的な境地が低くなるに従って人間の意識に近くなります。そのため、今回は少し人間的な意識を残した段階の神霊を取り上げることにします。

さて、少し人間的な意識を残した段階の神霊、そして人間的な意識のある神霊の特徴としては、生前に学ばれた教えに対するこだわりがあることです。勿論、高い悟りを得られた神霊は、生前に学ばれた教えに対して強い自負心を持たれてはいますが、他の宗旨の教えを否定されることはありません。但し、新興宗教に対して批判的な考えを持っている神霊は多いようです。

以前、宗旨の教えの違いを山登りで説明していました。山の登山口は違っていても頂上は一つしかないように、宗旨の教えに違いはあっても最終的な到達地点は同じであると説明していました。このことに関しては今も同じです。管理人は日蓮聖人、法然上人、親鸞聖人、一遍上人、道元禅師などの各宗旨の開祖の悟りの高さに大きな違いないとお考えています。どの開祖も同じような悟りを得ても筋道の違いから教えの差が生まれたのではないかと考えています。

神仏と呼ばれる方々の境地は自分と他人、善と悪などの対立する概念を超越した境地ですが、この境地は言葉では説明できない境地となります。その理由として、言葉は区別を前提としています。例えば、「善」と言う言葉は「善」と「善以外」を区別することが前提となります。そのため、善悪などのように対立する概念を超えた境地を説明するために区別を前提とした言葉を使用しなければならない難しさがあります。

しかし、現実に教えを説くとなれば、何をすべきかが問題となります。お釈迦様の説かれた教えに忠実であろうとするならば、戒律を守り、禅定し、教えを学ぶことが大切であるとなります。それを具体的に説かれたのか、四諦八正道や中道の教えとなります。他にも四無量心などの修行徳目などもありますが、説かれている教えは非常に抽象的であり、実践するのは容易ではありません。

これはお釈迦様の説かれた教えが出家を前提にした教えの体系であるからであるとも言えます。世俗を離れて信仰の日々を生きるならば、厳しい戒律を守ることは可能でも、仕事を持つ在家の人間は、戒律を守りたいと思っていても戒律を守ることはできないと言えます。例えば、漁業関係者や畜産関係者か不殺生戒を守ろうとするならば、仕事ができなくなります。そのため、仕事を辞めて信仰の道を選ぶか、信仰の道を捨てるかの二者択一を迫られることになります。

今でこそ自分の意志で職業の選択をすることはできますが、厳しい身分制度のある時代には、職業選択を自由に選ぶことは難しく、また難しい教えを学びたくても文字を読むことすらできない庶民には仏の教えに触れる機会を得ることすら難しい社会情勢がありました。そのため、念仏を称えるだけで救われることを説く他力の教えが求められいたとも言えます。

しかし、戒律を守る努力や教えを学ぶを放棄することは、仏の教えを歪めることであると批判することはできます。お釈迦様が説かれたのは、戒律を守り、禅定し、教えを学ぶことであり、それを忘れるべきではないと考えるのも当然の話ですが、戒律を守ることや教えを学ぶことが難しい人間は、見捨てられて当然だと考えるならば、一部の出家者のための教えでしかなくなります。

本来は、この対立していると思える考え方を超越するのが仏の悟りです。そのため、両者は対立すると考えるべきではありませんが、そこに至る手前の段階では対立が起きます。例えば、戒律を守ることは大切なことではありますが、理想は戒律を守るための努力をしていなくても戒律を破ることのない生活であり、意識して禅定をとなくても常に心の乱れることなく暮らすことです。また経典や先人の残した教えを学ぶことは大切ではありますが、理想はすべての人や自然から学ぶことです。つまり、日常生活が修行そのものになったときには、修行を意識する必要もなくなります。

但し、これは理想論でしかありません。具体的な修行論となった場合には、何を重視すべきかや悟りに至る方法論で考え方の差が生まれます。そのことが分かっている神霊は、他の宗旨の教えを否定されることはありませんが、同時に自分たちの教えこそがお釈迦様の真意を伝える教えであると強い自負心を持っています。しかし、悟りが低い神霊の場合には、他の宗旨に対して批判的である考え方や自分たちの教えでしか悟れないとの考え方が強くなる傾向があります。

また、過去の経験では何か悩み事に対して教えを説く場合には、宗旨の教えに沿った説法をされる傾向があります。その傾向が極端なのが他力門の神霊です。何を説いても結論は、いつも念仏を称えなさいとなります。以前に浄土真宗の神霊が「浄土真宗の教えは平易な教えであり、阿弥陀仏の慈悲を説くことがすべてである。そのため、私たちの教えとは、念仏の大切さを説くための教えでしかない。」と語られたことがあります。つまり、浄土真宗の神霊からするならば、何を説いても結論は、いつも念仏を称えなさいとなるのは当然のことになります。

これは何も浄土真宗の神霊に限られた話ではなく、日蓮宗や曹洞宗、真言宗、天台宗などの神霊であっても同じです。本当は、これらの神霊のお話を紹介できるとよいのですが、具体的な悩みの相談に対する指導となりますと個人情報の問題があり、ご紹介できません。しかし、基本的には自由自在に対機説法をされる印象があります。

また、忘れてはならないことは、神霊が説かれるのは心の教えであり、現世利益を得るための方法論でもなければ、天上界の秘密でもありません。つまり、衆生を悟りへと導くための教えであることから多くの人が期待するような内容ではないことは少なくありません。これは何も仏教の神霊に限られた話ではなく、修験道や神道の神霊でも同じです。

他に教えを説かれる場合には専門用語を避けて平易な言葉で説かれることや日常の生活に密着した教えを説かれることも共通しています。これはどの宗旨の神霊であっても日常の生活を離れて仏の教えを学んでも意味はなく、日常の生活に活かすことができてこそ、仏の教えに価値があるとの考えがあると思われます。

更に付け加えますと、かなり霊格の高いと思われる神霊でも生前の名前を名乗られることは皆無に近いことがあります。その理由をお尋ねしたところ、自分は神仏の手足であって自分の説く教えは自分の考えではなく、神仏の心を伝えているだけにしかすぎないとの気持ちが強いことが理由でした。また、神霊が神仏の手足として働くことに喜びを感じているだけでなく、生前の名前を名乗られることで自分たちの考えであることを恐れていると思われます。

神仏の手足として働くことに喜びを感じ、神仏と一体となることに喜びを感じていると書きますとカルト教団の信者のように個の意識を失っているような印象を持たれる方もいるのではないかと思われますが、個性を持ちながらも神仏と一体になる解説に困る境地です。これも一体感と個性と言う対立を超えた境地と言うべきなのかもしれません。

at 11:01, 星 良謙・子授け地蔵, 霊感・霊能力について

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霊界理論の危うさ18(星)

気付けば、もう8月・・・・・ 

α~ (ー.ー") ンーー

例年ならば、ペナントレースに一喜一憂している時期なのですが・・・・

さして成果を残せぬままに時間だけが過ぎ去ってような・・・・・・

オールスター後は、すっかり低迷しているような・・・・

春には、中日ドラゴンズを応援しないことにしたのですが・・・・

このところ、目につくのは中日ドラゴンズの低迷・・・

オリャー!!(ノ-o-)ノ⌒┳ ┫┻┣

少しばかり機嫌の悪い管理人です。

それはさておき・・・・

古い読者ならばご存じかと思いますが、以前はこのブログの記事は中日ドラゴンズの成績に連動しておりました。中日が連勝しますと投稿記事が分かりやすく、中日が連敗しますと投稿記事が難しくなっていました。

何が書きたいか・・・・

管理人は機嫌が悪い → 話が難しくなる → 復活!

さて、前回は心霊の分類について書きましたが、今回から少し詳しく書こうかと思います。そこで今回は神仏についての考察となります。

前回の投稿で神仏の定義について「人間的な意識で理解することが困難な高い精神性を持ち、非常に大きなお力を持つ存在を神仏としています。」としました。管理人は神仏を人間の理解を超えた存在であると考えています。そのため、神仏とは何かについて議論する気持ちもなく、またどんなに詳細に神仏について説いたとしてもすべては仮説であると考えるべきであると考えています。

実はこの考え方は神道の考えであり、神道においては神とは何かについての議論を拒絶する立場です。これは神とは人間の英知を凌駕していることから人間の考える枠で神とは何かを考えたとしても神を理解することはできないとされています。そのため、神道においては神を祀ることを伝えるが重視されます。

また、お釈迦様は悟りを得ることに関係のない形而上学(けいじじょうがく)的な議論は取り扱わないという態度を取ったとされています。これは「捨置」、「無記」、「置答」、「十四無記」など言われます。

参考サイト

取り扱わなかった質問の具体的な内容は下記のサイトに紹介されています。

不生不滅−変化する事象− 無記説の考察 こちらから

過去に管理人もこの問題を取り上げていますので参考にして下さい。 こちらから

尚、少し長くなりますが、宗教学者の中村 元氏の著書 「原始仏教 その思想と生活」から引用させて頂きます。


原始仏教では、解脱(げだつ)した人がいかなる状態になるかと言うことに関しては、完全な沈黙を守っている。「修行を完成した人」は死後に生存するか、あるいは存在しないか、という質問を釈尊に向けたところが、釈尊はそれに対していずれとも答えなかったということが、聖典のうちに伝えられている。初期の仏教は、このような形而上学(けいじじょうがく)的な問題については、沈黙を守っていたのである。

『滅びてしまった者には、それを測(はか)る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがすっかり絶(た)やされたき、あらゆる論議の道は絶(た)えてしまったのである。』

ところで、修行を完成した人の死後の状態に関して、原始仏教が全く沈黙を守っていたのは何故であろうか。それについて経典のうちには、深い反省が述べられている。

コーサラ王パセーナディが、
「修行完成者(如来)は、死後に存在するのでしょうか」と問うたのに対して、ケーマ尼は答えていった。−
『大王よ、修行完成者のすがたは、捨てられ、根を絶(た)たれ、根のない棕梠(しゅろ)の樹のごとくになされ、未来に生じないものとされます。大王よ。修行完成者はすがたの数量から解放せられ、あたかも大海のごとくに深遠であり、無量であり、測(はか)り難いからであります。修行完成者が死後に存在するということは適合せず、修行完成者が死後に存在しないということも適合せず、修行完成者が死後に存在しかつ存在しないということも適合せず、修行完成者が死後に存在するのではなく、存在しないのでもないということも、適合しないのであります。』

次に修行完成者であることを知らしめているかれの感受作用(受)、表象作用(想)、形成作用(行)、識別作用(識)についても、同じような教説を繰り返している。すなわち修行完成者という一個の人格的個体存在を構成している五つの要素の一つ一つについて、このような吟味を行っているのである。

この対話からも知られるように、修行を完成した人(如来)は絶対的な境地に到達しているのであるが、それは絶対的な境地であるが故に、有・無などの対立を超えたものである。深遠無量にしてはかりがたいものである。だからかれが死後に存在するとか、存在しないとかいう概念的把握は成立し得ないのである。

われわれの認識能力は極めて限られたものであり、われわれが日常生活において、常識的に把握し理解しているものは、極めて限られたものであり、われわれが日常生活において、常識的に把捉(はそく)し理解しているのは、真の実在の一側面にすぎない。あるいは真実の実相とはよほど異なったものであるかもしれない。われわれにはそれはわからない。絶対の実在は、われわれの認識能力を超えたものである。だから修行完成者の到達する死後の世界を、無量・不可測なる絶対者として仰ぐことは、永遠の真実であるといわねばならぬ。


原始仏教 その思想と生活 中村 元著 NHKブックス

補足
形而上学
現象を『超越』してその背後にある本質や根本的な世界、存在を純粋な思考(理性)、あるいは直観によって探求・研究する学問。

把捉 しっかりとつかまえること。また、理解すること。

偉大な仏教学者である中村 元氏のお話であり、書き加えるべきことなと何一つとしてないと言えますが、少し補足するらば、原始仏教において、どうして解脱(げだつ)した人がいかなる状態になるかと言うことが問題となったのかと書きますと、悟りの目的が輪廻転生から抜け出すことであったことにあります。

仏教においては、人間は天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六つの世界を生まれ変わり続けているとされます。人間が生きている間に行った行為によって行き先が決まり、善行を重ねた者は、天に生まれ変わり、悪行を重ねた者は地獄に生まれ変わるとされています。また、善行を重ねた者も生前に積んだ陰徳が尽きるならば、再び生まれ変わらなければならないとされています。

人間世界も苦しみの多い世界ではありますが、餓鬼や地獄は人間世界とは比較にならない苦しみが待つ世界であるだけでなく、苦悩のない世界である天も生前に積んだ陰徳が尽きるならば、再び生まれ変わらなければならないとされています。つまり輪廻転生から抜け出さない限り、永遠の幸福を得ることはできないことになります。

但し、これは仏教独自の考えではなく、お釈迦様が生きていた頃のインドの常識的な考え方でしたので、正確には仏教が取り入れた考え方であると言えますが、お釈迦様が説かれたのも、この輪廻転生から抜け出すための教えです。

お釈迦様は、苦しみの原因は執着であり、執着を断ち切ることで輪廻転生から抜け出すことができると説かれました。そのため、修行が完成してすべての執着を断ち切ったならば、死後にどのような世界に帰るのか、それとも存在自体がなくなってしまうのかは、誰しもが抱く素朴な疑問であると言えます。

それに対する答えは、我々のような凡人が理解できるような話ではなく、凡人の理解を超えたことであると言ったところでしょうか。これは何も仏に限られた話ではなく、神に置き換えとも同じであると思いますが、このことを受け入れることが出来るか、出来ないかが、大きな分かれ道となるのではないかと思います。

勿論、管理人はお釈迦様の悟りは究極の目標であり、目指すべき境地ではありますが、今の自分がお釈迦様の悟りが理解できるはずもないと考えています。しかし、世の中には、お釈迦様の生まれ変わりを自称している宗教家や霊能者などもいるようです。また、その教えを信じている信者も少ない数ではありませんが、管理人にはお釈迦様の教えを自分が理解できる範囲に矮小化(わいしょうか)しているとしか思えません。

管理人は信仰とは何かを説く立場にもありませんが、引用させて頂いた文章の『絶対の実在は、われわれの認識能力を超えたものである。だから修行完成者の到達する死後の世界を、無量・不可測なる絶対者として仰ぐことは、永遠の真実であるといわねばならぬ。』が結論であり、この認識を忘れてはならないと思います。

この認識を忘れたときに自分が神仏の代理人と考えてしまうのではないかと思います。

at 11:46, 星 良謙・子授け地蔵, 霊感・霊能力について

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霊界理論の危うさ17(星)

蓮の花が咲いていました。




仏教では蓮の花の図柄が用いられることが多いのですが、これは蓮が泥の中で咲くのに奇麗な花を咲かせることから、穢れが多いこの世の中にありながらも悟りを得ることを表すと聞いた事があります。他にも異なる説はあるようですが、仏教によく登場する花です。

それはさておき・・・・

前回は、邪気についての考察を投稿しましたが、今回は死霊についての考察を投稿したいと考えています。さて死霊と言っても様々な分類をされることが多いようです。管理人も神仏、神霊、心霊、不成仏霊、低級霊と使い分けていますが、これも便宜的な区別であり、厳密な区別ではありません。勿論、神仏や神霊を死霊と同一に語ることは、不遜なことではありますが、大まかな区別としては、下記のようになります。

・神仏
人間的な意識で理解することが困難な高い精神性を持ち、非常に大きなお力を持つ存在を神仏としています。しかし、神仏が宇宙の始まり以前から存在しているか、それとも人類が生まれる以前から存在しているのかが管理人に分かるはずもありません。そのため、人間としての前世を持つと思われる神霊と同一に考えるべきではないのかもしれません。

・神霊
高い精神性を持ち、神仏の手足として働くことに喜びを感じている方々で、管理人がお言葉をお聞きすることができる段階の方々を神霊として表記させて頂いています。

・心霊
通常は、成仏されている故人を心霊として表記させてい頂いていますが、広い意味としては、亡くなられた方々を心霊と表記する場合もあります。

・不成仏霊
基本的には成仏することができない心霊を不成仏霊と表記させて頂いています。しか、成仏を明確に定義することは、簡単ではなく、その意味では曖昧な表現です。このことについては、解説しますと話が難しくなりますので補足で解説します。興味のある方は、補足を参考にして下さい。

難しい話を別にするならば、成仏とは死後の世界において生前の苦しみを解消していることであると定義できるのではないかと考えます。つまり、少なくとも死後の世界で苦しみを解消できないている心霊、苦しみから逃れるために子孫に障りを起こしている心霊、生前の怨みや憎しみを忘れることなく怨みや憎しみを抱き続けている心霊などは、成仏していないと定義しています。

・水子之霊
解説する必要もない言葉ではありますが、一般的な先祖霊とは少し異なることがあります。過去の事例では、水子の多くは幼い子供の意識のままであることが大半でした。また、もう一つの特徴として水子の多くは他の兄弟と同じように扱って欲しいとの気持ちが強いことがあります。

これはご両親の対応によって異なりますが、水子を供養されていない場合には、無事に出産した兄弟だけが大切にされ、自分たちは葬式もされることもなく、忘れ去られているとの意識が強く持つことが多くなります。そのため、亡くなられてすぐに生きている子供と同じように供養することが大切であると思われます。

しかし、水子供養をすることもなく忘れ去った状態が、十年、二十年と続きますと成仏が困難になることが多いようです。

・低級霊
基本的には、霊能者などの背後で生きている人間を操り、生きている人間を惑わしている心霊を低級霊と表記させて頂いています。その多くは、転落した行者の霊などが多く、神仏の手足として働く立場にありながら神仏として崇められることを求めていることが多いようです。

・動物霊
一般的には蛇や狐、狸と言った動物の霊を動物霊と言われることが多いようです。個人的な体験として龍や狐、天狗などの姿を霊視した経験はありますが、いずれの場合にも神仏のお使いの方々であり、人間に障りを起こしていると思われる動物霊を霊視した経験はありません。

そのため、断定的なことは書けませんが、本当に動物の霊なのかと疑問を感じています。その理由として心霊世界での姿は意識の投影であることから、動物の姿を霊視したとしても、心霊が動物の姿を見せている可能性があります。例えば、神仏の手足として働かれている神霊が神仏のお使いとして龍や狐、天狗などの姿として現れている可能性は高いと思われます。

障りを起こしている動物霊と神仏の手足として働かれている神霊を同一に語ることはできませんが、蛇のように執念深いとか狐のようにずるがしこいと言った表現をしますので、執念深い性格の心霊が蛇の姿として霊視される可能性があります。そのため、個人的には、一般的に動物霊と言われている心霊の大半は、人間の霊が動物の姿で現れているだけではないかと考えています。

但し、動物霊と呼ばれている心霊はすべて人間の心霊であり、動物には魂がないとは考えていません。動物であっても死んだ後には霊魂として存在してるのではないかと思われることもありますが、詳しいことは何一つとして分からないのが実情です。

・地縛霊
これも個人的にはほとんど使わない言葉です。過去の事例では、亡くなった場所や墓などの特定の場所に執着している不成仏霊はいましたが、対応策は他の不成仏霊と同じであることから言葉として使用することがほとんどありません。

・その他
この他にも餓鬼霊・色情霊などと言った言葉もありますが、区別して考える必要を感じていませんのでほとんど使っていません。


補足
仏教用語として成仏を考えるならば、すべての煩悩を断ち切って悟りを得ることの意味となります。しかし、悟りに対する考え方は時代によっても異なります。また、自分が仏になることよりも衆生が悟りを得ることを優先する菩薩、仏を守護する四天王や大黒天、弁財天などの天部なとも一般的には仏として扱われています。

簡単に解説しますと下記のようになります。

如来
本来の意味での仏
釈迦如来、大日如来、阿弥陀如来、薬師如来など

明王
仏教帰依しない民衆を帰依させようとする役割を担った仏
如来が仏教に帰依しない衆生を導くために憤怒の姿となった仏
不動明王、愛染明王、烏枢沙摩明王など 

菩薩
元々は悟りを求める修行者の意味
後に仏を目指して修行しながらも衆生救済を優先する修行者
聖観世音菩薩、勢至菩薩、文殊菩薩、地蔵菩薩など

天部
元々は古代インドのバラモン教の神々
仏教に取り入れられ、仏法の守護神となる
持国天・増長天・広目天・多聞天(毘沙門天)の四天王、弁才天(弁財天)、大黒天、吉祥天、歓喜天など

at 00:42, 星 良謙・子授け地蔵, 霊感・霊能力について

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