霊界理論の危うさ20(星)
9月に茨城県水戸市で第11回「伊勢神宮展」が開催されます。
開催日 平成23年9月22日(木)〜27日(火)
会 場 水戸京成百貨店 7階催事場 入場無料
まだ、詳細な情報は掲載されていませんが・・・・
伊勢神宮 式年遷宮 遷宮ニュース こちらから
岐阜市歴史博物館で「国宝 薬師寺展」が開催されています。
開催日 平成23年月29日(金)〜10月2日(日)
会場 岐阜市歴史博物館
詳しくは こちらから
会場は少しばかりこじんまりとした印象がありましたが、薬師寺のお坊様の解説がありました。
通常は博物館などの公共の施設では、仏像も美術品扱いであり、拝んだりしますと不審者扱いされますが、お坊様が拝んでくださいとのお言葉があり、国宝の仏様を間近に拝むことができました。
それはさておき・・・
前回は神仏に近い神霊について投稿しましたが、今回は生きている人間の意識に近い神霊の働きについて投稿します。霊能者の多くは霊界を〇〇界、〇〇界、〇〇界と幾つかに区分けしているようですが、管理人はあまり厳密に考えないことにしています。もし、厳密に区分することを求めるのであるならば、仏教の説く霊界論が参考になるのではないかと思います。
詳細な話となりますと専門書などを参考にして頂くしかありませんが、簡単な概略だけならば、以前の記事を参考にして下さい。
悟りの段階と成仏4(星) こちらから
仏教で説かれている霊界の区分けは、そのまま悟りの段階であると言えますが、霊界が心の世界であると考えるならば、悟りの段階の違いが霊界の段階の差となっているとの考えは、十分に成り立つと思われます。勿論、高僧と呼ばれる方々が得られたような高い悟りを得ているはずもありませんので、個人的な経験の範囲での話となります。
さて、修行論としては悟りの段階を細かく区分することに意味があるとしても、生きている人間との関係を考える場合にはあまり意味がないと思われます。そのため、少なくとも神仏の手足として働かれてる段階にある神霊を神仏に近い意識の神霊と現世の人間に近い意識の神霊の二つに分けて解説することにしました。
前回紹介ました神仏に近い意識の神霊と現世の人間に近い意識の神霊の最大の違いとしてとしては、生前に学んだ教えに対するこだわりではないかと思います。更に生前に学んだ教えに対するこだわりとは何かを突き詰めますと、最終的には経典に書かれた内容に対するこだわりではないかと思えます。
他力門の教えにおいては、念仏を非常に重視します。これは無量寿経、観無量寿経の中で念仏を称えることで極楽に往生できることが書かれていることが根拠とされてます。また、法華経が尊いお経であるとされているのも法華経の中で尊いお経であると書かれていることが根拠とされています。
また、明治以前ならば、経典に書かれた内容はすべて真実であると考えられていたことから各開祖の教えも経典の内容がすべて真実であるとの前提となっています。そのため、教えを学ぶ者であるとするならば、経典の内容を真実であることを前提にすることは当然であると言えますが、神仏に近い神霊と比べますと微妙に異なります。
神仏に近い神霊の場合には、悟りの内容や教えを宗旨の教えに沿って自由に説く印象がありますが、現世の人間に近い神霊の場合には、経典や開祖の教えを根拠に教えを説く印象があります。これは説いている内容は同じような内容であっても、神仏に近い神霊は自分の言葉で教えを説いているのに対して、現世の人間に近い神霊は経典や教祖の言葉に頼って教えを説いている違いがあります。
このことを最初に感じたのは、自動書記が始まった当初のことでした。最初は修行らしい修行をした経験もなく、霊能者に対してあこがれもない人間なのに、どうして自動書記が始まったのかも分からず、戸惑いましたが、怒涛の如く押し寄せる神霊のお言葉を無視することもできず、自動書記を続けていました。当時は、占い師として開業する準備をしていた時期であったことから、比較的自由な時間がありましたが、あまりにも続く自動書記に閉口しました。
また、道徳論とも思えるような教えを説く神霊に対しては、現世に生きる人間の苦悩を知っているのだろうかとの疑問を抱きました。そこで現世に生きている人間の苦悩を解消するための教えを求めて質問するようにしました。すると質問に答えられなくなる神霊が少なくありませんでした。当時は、あまりにも続く自動書記に閉口しましたので、これで自動書記から解放されるとしか考えませんでしたが、次第に霊格の高い神霊が管理人の質問に答えるようになりました。
この時に感じたのが、現世の人間に近い神霊が説く教えは何処か教科書的なのに対して神仏に近い神霊の教えは、自由自在に教えを説いている印象がありました。つまり宗旨の教えを教科書を解説するように説いているときには、雄弁に語ることができても教えから離れると寡黙になることでした。
教えを学ぶ段階においては教えに忠実であることは求められますが、教えにこだわりすぎますと本質を見失います。また、宗教的な真実が確信から信念にまで高まりますと、経典に根拠を求める気持ちがなくなるのではないかと思われます。
例えば、他力門の神霊であるならば、阿弥陀仏の慈悲を確信されているのが当然であると言えますが、現世の人間に近い神霊は経典に念仏を称える者を阿弥陀仏が救われると書かれていることを説く傾向がありますが、神仏に近い神霊の場合には迷いの中にある衆生を救うことが阿弥陀仏の誓願であることがすべてであると考えているのではないかと思われます。
つまり、念仏を称える者を阿弥陀仏が必ず救われることを確信していても、経典に書かれているから間違いがないと考えるのが現世の人間に近い神霊であり、阿弥陀仏は迷いの中にある衆生を救うことを誓願としていることを確信され、経典に根拠を求める気持ちがないのが、神仏に近い神霊の境地であると言えます。
この違いは大きいのではないかと思います。経典に書かれているから間違いがないと考えている段階は、まだ知的に理解している段階であり、自分の中で確信から信念になったならば、経典に頼る必要はないと言えます。
これは何も他力門の教えに限られた話ではなく、禅宗や密教、日蓮宗などでも同じではないかと思われます。経典に書かれた教えは、悟りに至るための道筋ではありますが、悟りを得たならば教えに囚われるべきではなくなります。それが他力門においては、阿弥陀仏の慈悲をどこまで信じることができるかの差であると言えます。
星
at 00:32, 星 良謙・子授け地蔵, 霊感・霊能力について
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