霊界理論の危うさ24(星)
いわゆる見性(けんしょう)体験、世間でいう<悟り>であるが、そういうことが存在しているにしても、人々はその一面だけをかまびすく語りすぎているのではなかろうか。確かに真剣に坐禅修行すれば、根強い自我への執着が木端微塵(こっぱみじん)に粉砕されてしまうような痛快な体験をもちえる。鈍根の私にも、全身の関節という関節が黄金色に光り出すような痛快な体験をもちえる。鈍根の私にも、全身の関節という関節が黄金色に光り出すようなたいけんがなかったわけでもない。
しかし、禅堂という人工保育器の中で開かせてもらった<悟り>では、人生の荒波にたたない場合がほとんどである。私も、お布施をもらって過ごす生活に終止符を打って、海外で疾風怒涛のような生活を始めてからやっと、いかに自分が実力のない人間なのか思い知らされた。第一、強欲の塊であるわれわれ凡夫が、仏陀やキリストでもない限り、一度や二度の宗教体験で、悟り澄ました心境にいたれるはずがないではないか。
それに<悟り>といえど、いってみれば気分がハイの状態になるようなものだから、そこには必ず心理的反動があることを忘れてはならない。それが鮮やかな体験であるほど、その揺り戻しには、ひどい落ち込みがあるかもしれないのである。落ち込みどころか、場合によっては、発狂してしまうことすら可能である。
何にせよ。物事には二面性があるにもかかわらず、禅を語る人たちが、禅体験の建て前を修飾することに躍起になるだけで、もっとどろどろした本音のところに触れたがらないのは、なぜだろう。矛盾だらけの人間が、とうてい建て前だけで救われるとは思えないのたが・・・・・・・。
<狂い>と信仰 町田宗鳳著 PHP新書081 P20-21
この著者は修行中に不思議な体験をされたようです。坐禅に限らず、厳しい修行を重ねていると不思議な体験をされる方が少なくないようです。また、一般の人間でも「開運の方法」を実践されていますと不思議な体験をされる方は少なくないようです。勿論、全身の関節という関節が黄金色に光り出すような体験は管理人も体験したことがありませんが、不思議な体験をされることで神仏の存在や働きを実感される方は少なくないようです。
しかし、不思議な体験をすることで人生観が変わったとしても、それでお釈迦様のような高い精神的な境地に到達できるはずもありませんが、不思議な体験をすることで、自分が選ばれた人間になったような錯覚に陥ることも少なくないようです。ここでは坐禅修行中に体験する精神的な高揚感とその揺り戻しても言える落ち込みの危険性が取り上げられてますが、これは何も坐禅修行に限られた話ではなく、精神修行の世界に共通した話ではないかと思います。
一般的な社会生活の中で暮らしているのであるならば、不思議な経験をすることで一時的に精神が高揚したとしても、現実の壁に打ち砕かれる可能性が高いのですが、宗教などの精神世界の場合には精神的な高揚感だけが取り上げられ、揺り戻しに関しては取り上げられない傾向があります。
これではダイエットの宣伝と同じであると言えます。同じで短期間でこんなに痩せましたと派手な宣伝文句は並んでいますが、急激に痩せると急激なリバウンドに陥る可能性が高くなります。そのため、ダイエットの理想は適切な食事と運動で少しずつ痩せることだと言われているようですが、修行においても大切なことは日常生活において自分の心をコントロールすることではないかと思われます。
禅僧には、修行中に抑え込まれていた自我が、道場を離れると同時に、かえって膨張してしまい、増上慢(ぞうじょうまん)に陥る者が多い。いわゆる天狗になってしまうわけである。これは心理学でいえば、自我の中に無意識のイメージが入り込み、自分の姿を実像以上のものとして錯誤してしまう<自我インフレ>にほかならない。<狂い>と信仰 町田宗鳳著 PHP新書081 P45
いわゆる野狐禅(やこぜん)と呼ばれるのも、そのような悪平等、自我膨張の傾向を見せる修行者によって、歪曲された禅のことである。現代の禅僧の中にも、通常の人間なら誰でももっている羞恥心を欠き、臆面(おくめん)もなく金儲けのことや鄙猥(ひわい)なことを口にする人物がいたりするが、禅宗の長い歴史の中には、そのような野狐禅者がいくらでもいたはずである。そして、そのようなことも禅定修行を反復するうちに、「前頭連合野」の<ワーキングメモリー>がマヒしてしまい、通常の思考に障害が起きた現象であると、脳科学者なら診断するであろう。
このように世俗的執着を乗り越えて、精神の新天地を求める禅者には、ひとつ間違えれば、常識的判断を欠き、非道徳的な行為に走ってしまう危険性がつきまとう。瞑想によって自己同一性(ego idenity)が確立されても、それは社会的同一性(social identity)の確立を保証しないのである。
本の中では、引用した部分の前に瞑想時に体験する精神的な状況と洗脳の条件の比較をされ、実は瞑想時に体験する精神的な状況と洗脳の条件が非常によく似ていると主張されています。厳しい修行に励む僧侶は、慢性的な睡眠不足や栄養不足、感覚の遮断、繰り返される同一のメッセージなど洗脳時に意図的に作り出される環境と類似点が多いそうです。
詳しくは、ご紹介した「<狂い>と信仰 町田宗鳳著 PHP新書081」をお読み頂きたいと思いますが、厳しい修行の裏に潜む危険性を指摘される方は少ないと思いますが、この問題は何も禅の修行者に限られた話ではなく、すべての修行者に共通する危険性ではないかと思います。
厳しい修行を重ね、教えを求めて学び続けた僧侶や神職なのに社会常識が欠落しているのではないかと思うことがあるのは、、「前頭連合野」の<ワーキングメモリー>がマヒしてしまい、通常の思考に障害が起きた現象なのかもしれません。
ただ、厄介なことは死後も生きていた当時の意識を継続して持ち続けることです。つまり、生前に厳しい修行を重ねた修行者が常識的判断を欠き、非道徳的な行為に走ってしまった場合には、生前の意識のままで生きている人間を指導することがあります。
これが転落した行者の心霊の正体ではないかと思いますが、生前に厳しい修行を重ねたとの自負が強い分だけ、救われにくいと思われます。また、本人は生きている人間を惑わしながらも指導しているつもりになっていることも多いようです。
星
at 15:51, 星 良謙・子授け地蔵, 霊感・霊能力について
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