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神道の歴史9(星)

神道の歴史において仏教の影響が強かったことは比較的知られているのではないかと思いますが、儒教の影響の強い神道があったことは、あまり知られていないのではなかと思います。まず概略を「神道の常識のわかる小辞典 三橋 健著」から引用させて頂きます。

 

 江戸時代前期に発生した儒家(じゅか)神道は儒者の説いた神道説である。神仏習合思潮を厳しく攻撃し、神道から仏教を排除した神儒一致説を展開した。
 神儒一致説とは、神道と儒教は名前は異なるが、精神を同じくしているとの説で、そのような思想はすでに近世儒学(程朱学派・ていしゅがくは)の開祖である藤原惺窩(ふじわらせいか・1561-1619)に認められる。惺窩の弟子の林羅山(はやしらざん・1583〜1657)は理当心地(りとうしんち)神道を唱え、「神道とは王道なり」との神道即王道説を展開した。ついで注目されるのは、吉川惟足(よしかわこれたる・1616〜1694)の吉川神道、山崎闇斎(やまざきあんさい・1618〜1682)の垂加(すいか)神道などであり、それらは近世神道思想の主流となった。


神道の常識のわかる小辞典 三橋 健著 PHP新書 P227-228

少し補足しますと・・・

・理当心地(りとうしんち)神道
林羅山(はやしらざん・1583〜1657)が提唱した儒家神道。神道と儒学は一致するとの立場から、仏教的な要素の両部神道、神主仏従の吉田神道も退けた神道
また、「神道は王道なり」との神道即王道説を展開

・吉川神道
吉川惟足(よしかわこれたる・1616〜1694)が提唱した吉田神道に儒教思想を取り入れた神道
理学(りがく)神道、新吉田神道とも言われます
吉田神道の特徴としては、神道を行法(ぎょうほう)神道と理学(りがく)神道の2種類に分けた事です。神主が祭りや日常の神への奉仕を行うことを行法(ぎょうほう)神道、天下を治め、政治を行うことを理学(りがく)神道とし、理学神道を重視

・垂加(すいか)神道
山崎闇斎(やまざきあんさい・1618〜1682)の提唱した神道ですが、神道の常識のわかる小辞典 三橋 健著から引用させて頂きます。

 さて、儒家神道を完成させたのは、前述した山崎闇斎(やまざきあんさい)である。闇斎は少年時代、比叡山や京都の妙心寺(臨済宗妙心寺派の大本山)で仏道修行をしたが、二十五歳ころから朱子学を学び、それと並行して神道の研究をした。例えば、寛文(かんぶん)九(1669)念に河辺清長(かわべきよなが・1601-1688)より伊勢神道を学び、ついで吉川惟足から吉川神道を伝授している。寛文十一(1671)年、自分自身の心神(しんしん)を祭り、垂加霊社(すいかれいしゃ)を創設したことは有名である。

中略

闇斎は、天人唯一(てんじんゆいいつ)【天人合一(かんじんごういつ)】、すなわち天(神)とは理(り)を介在して一体だと説いている。そして、「神は即ち心の霊」であると述べた。これは人の心中には神が宿っているというのであり、前述の林羅山(はやしらざん)の説にも似ている。また、人々の心でもっとも大切なのは「敬」であるとし、これをツツシミと読ませ、そのことを人道の基本とした。


神道の常識のわかる小辞典 三橋 健著 PHP新書 p116-117

・その他の儒家神道
これも神道の常識のわかる小辞典 三橋 健著から引用させて頂きます。

 それはともかく、山崎闇斎の垂加神道は江戸中期の神道界に大きな影響を与え、その道統は闇斎の門人である正親公通(おおぎまちきんみち・1653-1733)に継承された。公通は闇斎著『中臣祓風水草(なかとみのはらえふうすいそう)』を後西(ごさい)上皇に伝え、以降、正親町神道(おおぎまち)神道とも称された。
 さらに江戸時代中期に橘三喜(たちばなみつよし・1635-1703)は、橘氏相伝の古神道を唱え、のちに玉木正英(たまきまさひで・1670-1736)は橘家(きっけ)神道(橘[たちはな]神道)を大成した。また吉見幸和(よしみゆき[よし]かず・1673-1761)は古典を実証的に研究し多くの実績を残した。そのほか多くのすぐれた学者が輩出したが、復古神道(ふっこしんとう・国学)が発展すると厳しい批判を受けることになり、儒家神道は次第に衰えていった。


神道の常識のわかる小辞典 三橋 健著 PHP新書 P117-118

大半が引用の内容の投稿記事となってしまいましたが、江戸時代には儒教の影響の強い神道があったことはだけでも覚えて頂ければ良いかと思います。

at 23:30, 星 良謙・子授け地蔵, 神道

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神道の歴史8(星)

仏教色の強い神道について調べていたところ、「神道とは何か 鎌田 東二著」の中で曹洞宗や浄土真宗、時宗、日蓮宗などの鎌倉仏教との関係についての考察が取り上げられていました。真言宗や天台宗との関係は比較的紹介されることは多いのですが、曹洞宗や浄土真宗、時宗と神道の関係が論じられることは少ないことから少しご紹介させて頂きます。

ただ、面白い視点の内容ではありましたが、内容としては疑問を感じることが少なくありませんでした。しかし、考え方の異なる部分を切り捨てて共感する部分だけをご紹介するのは、著者に対して失礼なだけでなく、読者の方にも申し訳ないと思いますので、できるだけ引用させて頂くことにしました。

尚、引用した文章の冒頭が近代の仏教学者である鈴木大拙氏(だいせつ)の考えの批判から始まっていますので、引用した文章に至るまでの話をご紹介します。一般の方にはあまり馴染みのない名前ではあると思いますが、鈴木大拙氏は27才でアメリカに渡り、東洋思想の翻訳と講義を通じて、禅の思想を始めとする東洋の考え方を欧米各国に広めた著名な仏教学者です。

鈴木大拙氏(だいせつ)・1870年(明治3年) - 1966年(昭和41年)

この本の中で鈴木大拙氏が著書の『日本的霊性』において、禅が日本的霊性が知性方面において発現した姿であり、浄土教が情性方面において発現した姿であると主張し、空海の説いた密教、日蓮の法華経信仰、日本伝来の神道などは、日本的霊性の発現を妨げる未熟な思想であるとしていると紹介しています。

 この鈴木大拙の考え方には偏りがある。子細に見ていけば、道元や親鸞の思想には、きわめて日本的とも言える自然崇拝すなわち自然を神とも仏とも見るような自然崇拝が宿されており、また先祖崇拝ともつながる生き神信仰にも似た感覚が見られる。道元は如浄を師と仰いだが、その如浄への心酔ぶりにはその中に生き神信仰とも言えるものを見ることができる。
 また、親鸞も『歎異抄』で「よき人の仰せをかふりて信ずる他に、別の子細なきなり」、「たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさぶらう」と言い切っている。つまり、よき人=法然を信じて、たとえ地獄に落ちても後悔しないと言い切っている。よき人の仰せを「かふる」ということは、法然の人格を受け継ぎ一体化していくということである。そのような強烈な人間崇拝が見られ、そこには生き神や生き仏の信仰と共通する感覚が見られる。

神道とは何か 鎌田 東二著 PHP新書 P124-125

鈴木大拙氏の『日本的霊性』は読んだことがありませんので、どのような意味で日本的霊性と言った言葉を使用しているのか分からないことから鈴木大拙氏の主張に関しては意見を控えますが、鎌田東二氏の主張には少しばかり疑問を感じました。道元禅師と親鸞聖人が師に心酔して生き仏のように崇拝されたとしても、優れた師を崇拝することと先祖崇拝を結び付けるには無理があるのではないかと思います。


 一遍や日蓮においては、さらに自然崇拝は徹底する。一遍は『一遍上人語録』の中で、「吹く風、立つ風までもが南無阿弥陀仏の六字の名号である」という。自然万物のすべてが南無阿弥陀仏の声を放っているというのである。このような万物を阿弥陀仏の顕現とし、発現と考える見方には、自然の中に神を見、神の声を聞き取った古代人の感覚と共通するものが見いだせる。
 千葉県清澄山の頂上から朝日を前に手を合わせたとき、突如「南無妙法蓮華経」という題目が口をついて出たという日蓮の題目信仰には、朝日信仰と法華経の久遠実成(くおんじつじょう)の仏の信仰とが密接に結びついている。具体的に言えば、久遠実成の本仏とは、朝日として常に輝き生き返る永遠のいのちであった。永遠を象徴する自然現象としての朝日。その朝日は常に新生を意味し、新しく蘇る初々(ういうい)しい生命の誕生を象徴する。その常に新しき生命の永劫の誕生こそが永遠の生命につながる回路となった。久遠実成の本仏という法華経普遍思想は、日蓮において具体的な自然である朝日と結びつくことによって、日本人のよりリアルな身体感覚を通して受容されるものとなったのである。
 日蓮はまた独自の法華曼荼羅を作成し、南無妙法蓮華経という題目を中心とした髭(ひげ)曼荼羅の左に天照大御神、右に八幡大菩薩を掲げ、法華経に対する日本の神々の守護を曼荼羅の中に描き込んでいる。
 このように日蓮には仮面をかぶった神道家という一面がある。中世の新しい仏教を切り開いたと言われる祖師たちの中に、神道的な感覚と面影を読み取ることは不可能ではないのである。

神道とは何か 鎌田 東二著 PHP新書 P124-126

髭(ひげ)曼荼羅に日本の神々の名前を描き込んでいることを根拠に日蓮聖人を仮面をかぶった神道家と断定するのには無理があるのではないかと思います。ここまでは批判のための引用のようになってしまいましたが、一遍上人や日蓮聖人が自然の中に仏の働きを見出されたことは否定されるべきではないと思います。そのことは道元禅師や親鸞聖人でも同じではないでしょうか。

日本の仏教では、「山川草木悉皆成仏」が特徴であると言われます。これは仏性が満ちているこの世界では、草木も成仏するはずだとの考え方であり、天台宗を中心に広まった考え方です。この考えについて詳細に解説できるほどの知識もなく、また解説できたとしても専門用語の羅列となることは避けられないと思いますが、この考え方の根底にはすべての物に霊魂が宿っていると考える精霊信仰があるのではないかと思います。

これは自然崇拝と同じ精神であり、その意味では日本の仏教は自然を崇拝する神道の影響を受けているのではないかと思います。神道が仏教の影響を受けたように日本の仏教も神道の影響を受けていると考えるべきではないでしょうか。

日蓮聖人や一遍上人だけでなく、多くの高僧が自然の中に仏の姿や仏の慈悲を見出したことと自然の中に神の姿や神の息吹、神の働きを見出すことは、共に自然の中に偉大な存在の働きを感じ取ることであり、同じことを感じているのではないかと思います。

at 12:29, 星 良謙・子授け地蔵, 神道

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神道の歴史7(星)

今回は仏教の影響の強い神道をご紹介させて頂きます。仏教色の強い神道としては、真言密教と結びついた両部神道、天台宗と結びつきの強い山王神道、日蓮宗と結びつきの強い法華神道などがありますが、詳しく解説できるほどの知識はありませんので、手元の資料を要約してご紹介させて頂きます。

両部神道
通説では平安時代末期に密教系の僧侶などによって教説が整えられ、鎌倉時代に成立した神道とされています。真言宗の金剛界曼陀羅と胎蔵曼陀羅の教義や儀規に基づいて神道の神々や神事を説明することから真言神道とも言われます。
伊勢神宮の内宮・外宮の諸神を仏・菩薩を本地とし、日本の神々を垂迹として解釈するなど、その根底には本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)があります。

三輪(みわ)流神道・三輪神道
真言宗の教理や儀式、陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)を融合した神道

雲伝神道
江戸中期に高貴寺の慈雲(1718〜1804)が唱えた神道

山王(さんのう)神道
比叡山の地主神(じしゅんしん)の日吉(ひよし・元はひえ)大社を中心として発展した神道であることから日吉(ひえ)神道とも言われます。また、天台宗の教理を基本としいることから天台神道とも言われます。

園城寺(おんじょうじ)流神道
天台寺門宗の総本山 長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)の鎮守(ちんじゅ)の新羅明神(しんらみょうじん)を基礎に展開した神道

山王一実(さんのういちじつ)神道
徳川家康の参謀であった天台宗の天海僧正が山王神道を再編成した神道

法華神道(ほっけ)神道
日蓮宗で唱えられた神道で室町時代に山王神道を基礎に吉田神道を取り入れた神道
日本の神が一ヶ月三十日、毎日交代で国家と人を守るという山王神道の三十番神を徹底化して法華経守護の法華経三十番神を編み出しました。

他力門と神道
神道の歴史について調べていたところ、他力門の教えと神道の関係について触れられていたことから少し引用させて頂きます。

 鎌倉仏教も神祇信仰と習合した。浄土真宗(じょうどしんしゅう)の存覚(ぞんかく)(1290〜1373)が源空(げんくう)[法然(ほうねん)の諱(いみな)、1132-1212]の著作を訂正・増補したとされる『諸神本懐宗(しよじんほんがんしゆう)』は、日本の神を権社(ごんじや)の霊神(れいじん)と実社(じつしや)の邪神(じやしん)に分け、「権社(ごんじや)ノ霊神(れいじん)ヲアカシテ、本地ノ利生ヲタトフベキコト」と説いた。権社[権者(ごんじや)]の神は仏・菩薩が権(か)りに現れたもの[化現(けげん)]、実社[実者(じつしや)]の神は悪鬼・悪霊が迷界をさまよっているもので、人を悩ますので尊敬してはいけないと説いている。
 また、時宗(じしゆう)を開いた一遍(いつぺん)[1139-1289]は『一遍上人語録(いつぺんしようにんごろく)』に、「我法門(わがほうもん)は熊野権現夢想(くまのごんげんむそう)の口伝(くでん)なり」と記すように、時宗は熊野権現の口伝によって成立したいわば、「神偈念仏宗(しんげねんぶつしゆう)」である。つまりそこには神道によって深い他力の世界へと誘われた一遍の思想をうかがうことができる。そして日蓮宗においては三十番神説を中心にした法華神道が形成された。

神道の常識がわかる小辞典 三橋健著 PHP新書


『時宗は熊野権現の口伝によって成立したいわば、「神偈念仏宗(しんげねんぶつしゆう)」である。』とありますが、これは一遍上人が体験された神秘体験が元になっています。この話はあまり知られていないと思いますので「一遍聖 大橋俊雄著 講談社学術文庫」より少し引用しながら紹介させて頂きます。

一遍上人は踊念仏で有名な時宗の開祖です。その布教活動は旅をしながら念仏札と呼ばれる「南無阿弥陀仏 六十万人決定往生」と書かれた札を配る方法でした。この念仏札は高野聖や善光寺で用いていた極楽往生を保証する「御印文」をヒントに考案した札であり、四天王寺に居合わせた人に念仏を勧めて念仏札を与えたのが始まりでした。

一遍上人が熊野を旅しながら布教をしていた際に一人の僧侶に「一念の信をおこして、南無阿弥陀仏ととなえて、このふだをうけ給(たもう)べし」と言って念仏札を渡そうとしたところ、一念の信心が起らないからと受け取りを固辞されました。押し問答の末に一遍上人はその場しのぎに「信心おこらずも、うけ給へ」と頼み込み、受け取ってもらいましたが、融通念仏の功徳を信じて疑わなかった一遍上人は悩まれました。また信心を起こすことなく、念仏も称えていないのに念仏札を渡したことに悩まれました。

そこで一遍上人は自分の布教方法に間違いがあれば正したいと熊野本宮の証誠殿に参籠され、熊野神の啓示を仰がれました。熊野本宮は本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想の影響で熊野神の本地は阿弥陀仏であり、熊野の地が阿弥陀仏の浄土であると考えられていました。そのため、本宮に参籠するならば阿弥陀仏から直接に教えを受けることができると考えられたと思われます。


 参籠していると、御殿の戸が開き、白髪で長頭巾(ながずきん)をかぶった山臥(やまぶし)[山伏]姿をした熊野権現があらわれ、歩みよって

融通念仏(ゆうずうねんぶつ)すすむる聖(ひじり)、いかに念仏をばうしくすゝめらるぞ。御房のすゝめによりて一切衆生はじめて往生すべきにあらず。阿弥陀仏の十劫正覚に一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と必定することろ也。信不信をえらばず。浄不浄をきらわず。その札をくばるべし

と告げた。ややあって眼を開いてみると「十二、三ばかり」の童子百人ばかりが来て手をさしのべ、「その念仏うけむ」といい、念仏札を受けとり、どこへともなく立ち去った。これは熊野権現の王子が受けとられたものかと思われた。

 智真の念仏札をとおしての布教は、「一念の信をおこして、南無阿弥陀仏ととなへて、このふだをうけ給うべし」と述べているように、「一念の信」をおこした(起信)のち、「南無阿弥陀仏ととなへ」(称名)、それを確認して「このふだをうけ」とらせることであった。起信と称名が前提で極楽往生できるという考えを熊野権現は否定し、智真に救済能力があると思ってはならない、救うのは阿弥陀仏である。ただ智真は念仏札を賦(くば)りさえすればよいのだ。賦(くば)られた念仏札を手にした人は往生できるというのである。
 ここに智真の回心(えしん)があった。このときの思いを「大権現の神託をさずかりし後、いよいよ他力本願の深意(じんい)を領解(りょうげ)せり」(以上『聖絵』第三)と述べている。

一遍聖 大橋俊雄著 講談社学術文庫 P125-126

智真 一遍上人のことです。 

星 

at 11:03, 星 良謙・子授け地蔵, 神道

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神道の歴史6(星)

本題に入る前に催事のお知らせです。

真宗高田派本山 専修寺で「開山聖人750遠忌報恩大法会」が行われます。

平成24年4月6日(金)〜16日(月)

詳しくは こちらから

真宗出雲路派本山 毫摂寺で「宗祖親鸞聖人 七百五十回報恩大遠忌」が行われます。

詳しくは こちらから

それはさておき・・・・・

今回は吉田神道についてご紹介したいと思います。一般の方はあまりご存じないかと思いますので、まず概略からご紹介します。

吉田神道は、卜部(うらべ)神道、元本宗源神道ともよばれ、律令官制の神祇官の下級官人卜部氏の諸伝承を集成してできた神道の一派である。

神道の逆襲 菅野覚明著 講談社現代新書 P116

 卜部氏が神道界で大きな勢力を占めるようになったのは、応仁・文明の乱の前後に活躍した吉田兼倶(かねとも)(一四三五〜一五一一)のときである。世間が混乱すると、往々にして常識離れした人物が活躍の場を与えられるようであるが、この吉田兼倶もそうした乱世が生んだ怪物のひとりであつた。伊勢神宮からは「神敵」と罵られ、また「偽書・造言・謀計はみなこの人の手になった」(平田篤胤『俗神道大意』)といわれる一方、「神道史上の豪傑」(村上典嗣『神道史』)と賞讃されるなど、兼倶の人物をめぐっては、毀誉褒貶(きよほうへん)まことにかまびすしいものがある。いずれにしても、彼が神道界のカリスマであったことは間違いがない。少なくとも、彼が吉田神道とよばれる特異な神道教説を実質的に創唱し、そのいかにも教祖的な奇想天外な策謀によって、以降数百年に及ぶ吉田家の神道界支配の道が開かれたのは確かである。

中略

 神道史上における兼倶の主な事績として挙げられるのは、次の三つである。第一に、『唯一神道名法要集(みようほうようしゆう)』『神道大意』等を著し、神道史上初めて本格的な理論体系を構築したこと。第二に、吉田神社内に斎場所大元宮(さいじようだいげんぐう)なる奇抜な施設を創建し、日本中の神の祭りを統一しようとしたこと。第三に、いわゆる三壇行事を作り上げたこと。こうした独自の行法を持つことによって、吉田神道は、伝統的祭祀とも、仏教の行法とも異なる新しい宗教としての基礎を得ることになる。
 これらの三つは、いずれも宗教的奇才吉田兼倶の描いた大きな戦略の不可欠の部分を形づくるものである。彼の構想は、部分的に挫折することはあったものの、総体として成功をおさめ、吉田家が神祗管領長上(兼倶の自称であったが、のちに公的な呼称とされた)として明治維新にいたるまで神道界に君臨する基盤が固められたのである。

神道の逆襲 菅野覚明著 講談社現代新書 P117-118

ここで紹介されているように、吉田兼倶(かねとも)は、良くも悪くも神道の世界で大きな影響力を及ぼした人間であり、体系的な教えが残されていなかった神道において大きな足跡を残した人物であると言えます。吉田神道の特徴としては、仏教や儒教の教えを混じえることのない我が国固有の教えとして神道を提唱したことがあります。また、それまでの密教の入り混じった両部神道や各神社の由緒や伝承にもとづく社伝神道を批判して吉田家の神道はより根源的な元本宗源であると主張します。

しかし、その内容となるとこじつけ的な解釈が大半であると批判されているようです。このことは、「東洋の魔術書 藤巻一保・岡田明憲著」の中でも鋭い批判がされています。

 この神道は、仏教・儒教・陰陽道から思想と修法(しゅうほう)・祭祀(さいし)などの実践法をとりこみ、それらを神道説にもとづいて再編・整形した、キライマ(ギリシャ神話に出るライオンと牝山羊と龍が合成された怪獣)のごとき神道で、密教流の護摩(ごま)を焚(た)いたり、印を結んだり、霊符を用いたりと、異端色がきわめて濃い。
 とくに異形なのは、神道の教えに"表裏"があるとする説だ。
 表の教え(顕露教<けんろきょう>)は、『旧事本記(くじほんき)』『古事記(こじき)』『日本書紀(にほんしょき)』の三部によって公開されているが、裏の教え(隠幽<おんゆ>教)は深秘(じんぴ)の神伝である『天元神編妙経(てんげんじんぺんみょうきょう)』『地元(じげんじんりき)神通妙経』の三部の神経(しんきょう)に秘されており、それを伝えてきたのはト部家のみだと兼倶は主張する。けれども、この三部は、じつは日本仏教でもっとも重んじられてきた浄土(じょうど)経・大日(だいにち)経・法華(ほっけ)経の三部になぞらえた兼倶の創作なのである。

東洋の魔術書 藤巻一保・岡田明憲著 P20-21

菅野覚明氏は中世においては古事記・日本書紀の解釈や古典文学の解釈に見られる一般的な傾向であるとしていますが、仏教においても強引な解釈やこじつけ的な解釈は多いことから中世においては珍しいことではなかったようです。

また、「この神道は、仏教・儒教・陰陽道から思想と修法(しゅうほう)・祭祀(さいし)などの実践法をとりこみ、それらを神道説にもとづいて再編・整形した」とありますが、これは何も吉田神道に限られた話ではなく、日蓮宗の祈祷も真言宗に行われていた修法(しゅうほう)・祭祀(さいし)などの実践法をとりこみ、それらを日蓮宗の教えにもとづいて再編・整形したと言えます。更に密教の護摩も元々はバラモン教・ヒンドゥー教の儀礼であり、仏教が取り入れて再編・整形したものです。

そのため、吉田神道が仏教・儒教・陰陽道から思想と修法(しゅうほう)・祭祀(さいし)などの実践法をとりこみ、それらを神道説にもとづいて再編・整形されたものであるとしても神道史上初めて本格的な理論体系を構築したことは神道の歴史においては重要なことであると思われます。

しかし、吉田兼倶(かねとも)は、吉田神社内に創建した斎場所大元宮(さいじようだいげんぐう)を権威づけるために策略を行うなど色々と問題のあったようですが、良くも悪くも神道の世界で大きな影響力を及ぼした人物であり、仏教や儒教の教えを混じえることのない我が国固有の教えとして神道を提唱したことには間違いはないようです。また、吉田家が神祗管領長上として明治維新にいたるまで神道界に君臨していたことは事実であったようです。


at 10:12, 星 良謙・子授け地蔵, 神道

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