神道の歴史11(星)
最初に明治政府の神社の改革について簡単にご紹介させて頂きます。
江戸幕府が崩壊して近代に入ると、明治維新政府が成立し、天皇を中心とする近代国家を創出した。新政府は神武創業を根本的な考えとし、復古思想を実現するために平田篤胤(あつたね)の神道説を継承した。ここに平田派の大国隆正(おおくにかたまさ・1792-1871)、隆正の門人の福羽美静(ふくばびせい・1831-1907)らによって神祇(じんぎ)官の復興、祭政一致、神仏分離、大教宣布(だいきょうせんぷ)の運動、さらに神社神道を国家護持とするなどの政策が推進され、従来の神道や神社の制度などは大きく改革されることになった。
まず慶応(けいおう)四(1868)年三月二十八日、神仏判然令(しんぶつはんぜんれい)[神仏分離令(しんぶつぶんりれい)]が公布され、奈良時代以降続いてきた神仏関係は外面上姿を消した。
神道の常識がわかる小辞典 三橋 健著 PHP新書 P230
明治政府が神仏判然令(しんぶつはんぜんれい)が公布したことで、それまでの本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)や神仏同体説(しんぶつどうたいせつ)は否定され、神社に付随して置かれていた神宮寺(じんぐうじ)や本地堂(ほんじどう)などの建物の廃絶や独立などを推し進められましたが、宗教としての神道としても改革されました。
日本近代化の中で、神道もまた同じような問いを突きつけられたが、しかし、仏教とは異なり、神社神道が国家管理の中に置かれ、神職は国家公務員のような官史となった。幹部職員は高級官僚のように転任、転勤をする体制となり、従来の神社を支えていた社家制度とは全く異なる官僚的な神職制度が誕生した。
また神社の祭式、作法も形式的統一化がはかられた。現在の多くの神社で見られるような参拝作法、すなわち二拝、二拍手、一拝などの拝礼作法は戦後に一般的となったが、それ以前に、明治八年に神社祭式が制定され、祭式、作法の統一化がはかられた。
社家 代々特定神社の神職を世襲してきた家
中略
こうした神社の国家管理の過程で、神社神道は宗教ではなく国家の祭祀であり、国家の道徳であるという主張がなされた。仏教やキリスト教はあくまでも宗教である。それに対して神道は宗教ではない。国家の祭祀、国民道徳という位置づけがなされることによって、一種の国教的な、また道徳習俗としての位置づけを得ることになる。が、そのことが神道の世俗化を促進させ、宗教的情熱を希薄化するものともなった。明治維新政府から追放された平田派の国学者たちは、こうした事態を嘆いた。
このような過程を経て明治政府における明治政府における官国幣社という社格制度が成立する。官幣大社、官幣中社、官幣小社、国幣大社、国幣中社、国幣小社、府県社、郷社、村社、無格社といった社格つまり神社の格付けが行政的に定められることになったのである。それと同時に村社・無格社などの維持困難な小規模神社や小祠(しょうし)の統廃合すなわち合祀(ごうし)の行政指導がなされ、各地で神社の統廃合が進むことになった。
神道とは何か 鎌田東二著 PHP新書 P136-137
この本の中で、著者は博物学者、生物学者(特に菌類学)、民俗学者であった南方熊楠(みなみかたくまぐす)が神社合祀政策の反対運動を展開したことを紹介した後に、地域にあった小さな社を統廃合することは、そこの地域に根差していた生命の感覚や存在感の破壊であったと書かれてます。
本の中では著者は南方熊楠(みなみかたくまぐす)の思想を紹介する形をとりながら明治政府の押し進めた神社の統廃合によって、民衆の中に息づいていた信仰が破壊されたと主張したいのではないかと思われます。
この一冊の本の内容を根拠に明治政府によって民衆の中に息づいていた信仰が破壊されたと断定する考えはありませんが、神仏分離令は日本人の神仏観に大きな変更を強いる出来事であったことは間違いないと思われます。
星
at 22:18, 星 良謙・子授け地蔵, 神道
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