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理趣経のCD(星)

評価:
大栗 道榮
鈴木出版
¥ 2,100
(2008-01)

暫く前に理趣経の本を買いました。( ̄ー ̄)ゞ フフッ

理趣経と言っても一般の方にはあまり馴染みのないお経ではないかと思いますが、真言宗の各派の常用教典です。真言密教に少し詳しい方には、性的表現を含んでいることでも知られているお経です。もっともこの本を購入したのは、本の内容よりも付録についている読経用のCDが主な目的でした。(- .-)ヾ ポリポリ

何分にも浄土真宗の門徒ですのでブログでも浄土真宗の話を取り上げる機会が多いのですが、基本的にはあまり宗旨宗派にこだわることなく参拝しておりますし、色々な宗旨のお寺で祈願や供養を受けています。勿論、真言宗のお寺でも祈願や供養を受けたことは何回かありますが、理趣経を読まれるお寺は少なく、先祖供養や水子供養をお願いした際に理趣経を読まれるお寺が2か所ほどある程度です。

以前から理趣経のCDを探していたのですが、理趣経のCDは見つからないことから諦めていたのですが、書店に並んでいた本の付録として入手できるとは・・・・

もっとも、理趣経を自分で読もうとの意欲もなく、時々BGMのように流している程度なのですが・・・・

さて、肝心の本の内容と言いますと、理趣経の内容を一般の人間に理解しやすいように会話形式で書かれた真言宗の入門書と言った内容となっています。また、高野山真言宗傳柴大阿闍梨 大栗 道榮と現役の僧侶の方が書かれていることから単なるお経の解説で終わっていないことから、アマゾンの書評でも高い評価を得ています。

個人的には、分かりやすい文章ではありますが、理趣経の教え自体が難解な教えであることから一般の方がどこまで理解できるかとなると少し疑問が残ります。しかし、CD付で2,000円と消費税であることを考えれば、お買い得の本です。

at 12:54, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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真宗大谷派の声明(星)

先日のことですが、真宗大谷派名古屋別院の法要に参列させて頂きました。
真宗大谷派名古屋別院では毎月親鸞聖人や蓮如上人などの命日に法要が行われています。
親鸞聖人や蓮如上人の法要ともなりますと十数人の僧侶の方が参列されることが多いようです。
参加費は無料なことから何度か参列させて頂いてます。

法要の日程と時間は、真宗大谷派名古屋別院のHPに記載されています。

お東ネット 名古屋別院 こちらから
TOP > 参加する > 今月のカレンダー

「一如さん」の日は縁日なども並びますので、かなりの人出となりますが、平日の法要となりますとさすがに参列者は少なく、二十人前後と言ったところでしょうか。
※「一如さん」とは真宗大谷派名古屋別院を開基された東本願寺第十六代法主 一如のことです。

何分にも真宗大谷派名古屋別院の本堂は二・三百人は参列できる大きさですので、二・三十人の参列は何とも寂しく感じますが、参列されている方は手に念誦(数珠)と経本を持ち、胸には半袈裟をかけている方が多く、熱心な方々が多いようです。

真宗大谷派の法要では浄土真宗独自のお経である正信偈が読まれます。そしてこの日の法要も正信偈と念仏、和讃でした。
正信偈は日々の勤行で唱えるべきお経とされていますので、少し熱心な門徒ならば、日々正信偈を唱えている方が多いようです。

この日は熱心な門徒の方が多いためか、僧侶の方々の読経に合わせてお経を唱える方が多かったのですが・・・・
ここで少しばかり問題が・・・
僧侶の方の読まれるお経とずれていると言うか・・・・α~ (ー.ー") ンーー

少し解説しなければなりませが、真宗大谷派では正信偈の唱え方が9種類あります。

1 句淘(くゆり)
2 句切(くぎり)
3 真四句目下(しんしくめさげ)
4 行四句目下(ぎょうしくめさげ)
5 草四句目下(そうしくめさげ)
6 中拍子(ちゅうびょうし)
7 真読(しんどく)
8 中読(ちゅうどく)
9 舌々(ぜぜ)

そして念仏と和讃には8種類の唱え方があります。
1 十二淘(じゅうにゆり)
2 十淘(とゆり)
3 八淘(やつゆり)
4 五淘(いつつゆり)
5 五三淘(ごさんのゆり)
6 三淘(みつゆり)
7 二淘(ふたつゆり)
この他に同朋奉讃式と言う唱え方があります。

以前に菩提寺のご住職に聞いたお話では、法要の重要度で唱え方が変わるそうです。
それぞれの唱え方に抑揚の付け方や速さの違いがあるそうなのですが、在家の唱え方は、正信偈は草四句目下(そうしくめさげ)、念仏と和讃は同朋奉賛式か、三淘(みつゆり)とされています。

お経に抑揚をつけた唱え方は声明と呼ばれる読み方ではありますが、歌の練習の様に指導を受けなければ唱えられる唱え方ではありません。

さてこの日の法要では、正信偈は舌々(ぜぜ)と呼ばれる非常に早い唱え方でした。そして念仏と和讃は五淘でした。そのため、一般の門徒が僧侶の方と一緒にお経を読むのは非常に難しいと言えます。

管理人はお経の冒頭で草四句目下(そうしくめさげ)でないことが分かれば、黙ってお経を聞く事にしています。それが良いことなのか悪いことなのかは分かりませんが、無理して読んでも不協和音になるだけであり、他の方の迷惑になると考え、お経を聞く事にしています。

しかし、同じ浄土真宗でも浄土真宗本願寺派となりますと事情は大きく変わるようです。
浄土真宗本願寺派の正信偈は「真譜(しんぷ)」「行譜(ぎょうふ)」「草譜(そうふ)」と呼ばれる3種の唱え方となりますが「真譜(しんぷ)」は親鸞聖人の祥月命日に本山でしか唱えられないことから実質的には「行譜(ぎょうふ)」「草譜(そうふ)」の二種類となります。

参考サイト
西法寺@芦屋の公式ページ
色んな正信偈。 こちらから

寺子屋NET 浄土真宗本願寺派 蓮浄寺 こちらから
TOP > 茶室 > 正信偈を唱えよう

◆京都生まれの気ままな遁世僧、「今様つれづれ草」。◆
弥陀成仏のこのかたは…。(六首引和讃より)  こちらから
「正信偈和讃」の旋律に関して こちらから


 
JUGEMテーマ:仏教

at 23:51, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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古墳時代の神霊のお言葉2(星)

前回の続きとなりますが、神道における祈りとは何かをついて説かれた内容となっています。

 

あなたが気付かなくてもこの世の中は神の働きに満ち溢れているのです。その神の働きに気付く事なく生きているのが人間なのです。そのため、祈りとは神の働きに感謝する時間でもあるのです。多くの者たちは自分が神に守られていることに気付くことが出来ないでいます。

人間が大自然の脅威の前に怯えて暮らすことしかできなかった時代には、神を畏怖して暮らすことしかできせんでした。そのため、その頃の人々にとっては神とは自然そのものであり、太陽も月も雨もすべてが神の働きとして受け入れていたのです。しかし、やがて農業技術が伝わり、集団で暮らすようになってからは自分たちの部族の長を神の代理人のように崇めるようになりました。そして人々は自分たちの部族の長を通して神を崇めるようになりました。それがのちの時代になり、神格化された人々が神として祀られるようになりました。

私はそのことが間違っていると言うつもりはありません。多くの人々にとっては生きている人間を通して神の姿を見ることもあれば、生きている人間の言葉を通して神の真意を知ることもあります。それが巫女や神職の役目であり、生きている人間と神を取り次ぐ役目であることを否定するつもりもありません。

しかし、本来は個々の人間が神の世界に橋をかけることが祈りなのです。そのことはいつの世でも同じことのはずなのですが、人々が自然の中に神を意識することが少なくなるにつれ、人々は祈りの本質を忘れ去り、日々の暮らしの中で神を意識することが少なくなってしまったのです。それは今の世の中でも変わらないのではないでしょうか。

どんなに文明が発展したとしても、人間は自然の恵みを離れては生きられないのです。人間が自然の恵みを離れて生きられないように、人間は神のご加護がなくては生きられないのです。今の時代を生きる人々からするならば、このような考え方を受け入れることはできないのではないかと思いますが、この世の中に神の働きが満ち溢れていることに気付くことが出来るならば、人間は神のご加護がなくては生きることができないと自然に思うようになれるのです。

しかし、私がこのように語りますと私たちは神がこの大地を創り、神が空を創ったと考えていたと思われるかもしれませんが、私たちにとって神とは敬うべき存在であるとしても神がどのような存在であるかの定義には関心がありませんでした。私たちにとっては、この世の中が神の働きで満ち溢れていると感じることができるだけで充分だったのです。

神の息吹を感じながら神と共に生きることだけで充分であり、神がこの大地を創り、神が空を創ったと考えることに意味があるとは考えませんでした。ある者は天空に輝く太陽こそが神の象徴であると考え、ある者は雷鳴をとどろかす雷を神の威厳と考えるましたが、それぞれの者がそれぞれに自然の中に神の働きを見出していたのです。

多くの人々は、文明と言う名前の便利さを享受する生活の中で自然に対する畏怖を忘れ去りました。そして高度に発展した文明を享受する生活の中で自然のもたらす脅威を克服することが、人間の英知であると考えるようになりました。私は高度に発展した文明の価値を否定する気持ちはありません。高度に発展した文明の中にも神の働きはあり、人々の生活をより便利にしたいと願う気持ちがあればこそ高度に文明が発展したとも言えるのです。

しかし、人々が便利さを求める過程の中で人々は神を敬う気持ちを忘れ去ってしまったのです。そのことを私は危惧しているのです。市井の暮らしにあっても神の働きを知ることはできますが、多くの人は自分の器で推し量ることのできる神を崇めているように思えてしまうのです。

現代を生きる人々からするならば、荒れ狂う海や嵐を神の怒りであると思う事は迷信であると考えるのでしょう。私も自然の脅威を神の怒りであると説くつもりはありませんが、人間は自然の脅威の前には、無力であることを忘れてしまったときに、神の偉大さも忘れ去ってしまったように思えるのです。

自然は神の息吹が満ち溢れています。それが人間にとっては大きな災いをもたらす力であったとしても、私たちはその自然の中に神の働きを見出したのです。どんなに文明が発展したとしても、人間は自然の恵みを離れては生きられないのです。それが現代の人々からするならば精霊信仰と言われる信仰であるとしても私たちは神と共に生きていたのです。

それが私たちの誇りであり、私たちの輝きなのです。人間が自然の恵みを離れて生きられないように人間は神の働きを離れては生きられないのです。たとえその人が神の働きに気付いていなくても、神はすべての人を慈しみ、加護しているのです。
祈りとはそのことの感謝であり、神と共に生きることの誓いなのです。

平成二十五年七月十一日


投稿を再開してからは神仏のお言葉ばかりを投稿してますが、そろそろ管理人のひとりごとなどを投稿しようかと考えています。

at 12:33, 星 良謙・子授け地蔵, 神仏の御言葉

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古墳時代の神霊のお言葉1(星)

このところ、神霊のお言葉ばかり投稿しておりますので、そろそろ一般的な記事を投稿しようかとも考えたのですが・・・・
管理人の寝言よりも神霊のお言葉を紹介しろと言われそうなので・・・
神霊のお言葉をご紹介します。

今回ご紹介するお言葉は、ある古墳を訪れた日の夜に降りたお言葉であり、古墳時代を生きた神霊のお言葉です。
そのため、神道以前の古い信仰について説かれた内容となっています。

 

ことほぐことの意味すら忘れ去られた今を生きる人々にことほぐことの大切さを説くことは難しいことです。ことほぐとは単に喜ばしいことを述べることではなく、おめでたいことを述べることではありません。ことほぐことで神と心が結ばれるのです。
ことほぐとは神と人間をつなぐ言葉であり、ことほぐことで神と心が通うのです。そのことを知らぬままにことほいだとしても日常の生活の中でかわす言葉と何も変わらなくなります。

※ことほぐ(寿ぐ/言祝ぐ)  〔上代は「ことほく」〕言葉で祝福する。祝いの言葉を述べて、幸運を祈る。

しかし、あなたが神を意識してことほぐことができるならば、あなたの言葉は神と人間を繋ぐ架け橋となるのです。それを後の世の人々は言霊(ことだま)と言っているようですが、言葉に力があるのではなく、神を意識して神に向かってことほぐからこそ言葉に力が宿るのです。それは神と人間を繋ぐ言葉であるからこそ言葉に力が宿るのであって最初から言葉に力が宿っていると考えるべきではありません。

祈りもまた同じなのです。今の人々は自分の願い事を神の前で述べ、願い事の成就を願う事が祈りであると考えている人が大半ではないでしょうか。しかし、私たちからするならば、願い事の成就を願う事が祈りではありません。それも祈りであっても本来の姿ではありません。祈りとは本来は神と共に生きていることを確認することなのです。

日々の生活の中でいつも神と共に生きているのであるならば、日々の生活が祈りとなります。日々の生活とは別に祈りのための時間を持つのではなく、常に神と共に生きることが理想なのです。しかし、それは難しいことでもあります。私たちが生きた時代であっても常に神と共に生きることが出来ることは限られていました。

多くの者たちは、神を意識しながらもある者は神を畏(おそ)れ、神の前に跪(ひざまず)くことが神を敬うことであると考え、ある者は神に供え物をすることが神を敬うことであると考える者が少なくありませんでした。しかし、神の前に跪(ひざまず)くことや神に供え物をすることが神を敬うことであるとしても神と共に生きることができる者は少なく、多くの者たちは神を特別な存在と考え、自分たちとは遠く離れた世界に住まう方々であると考えたのです。

そのため、彼らは神の前に跪(ひざまず)くことや神に供え物をすることでしか、神を意識することができなかったのです。そして彼らにとって神とは敬い畏(おそ)れるべき存在であったのです。そのことが祈りとは何かが分からなくなってしまった原因ではないでしょうか。

祈りとは神と人間を繋ぐ架け橋なのです。神をことほぐことで人間は神の世界に橋をかけることができるのです。それが祈りの本質なのです。神の世界に橋をかけることで人間は神と共に生きることができるのです。それが祈りの本質なのです。しかし、多くの者たちは神を遠い世界に住む方々であると考えたために、特別な日や特別な場所に神を迎え、神をもてなすべきであると考えたり、特別な人間だけが神の意志を知ることができると考えたりするようになったのです。それが巫女となり、豪族の王が祭祀を取り仕切るようになった原因でもあるのです。

私はそれが間違っていると言うつもりもありませんが、祈りとは神と人間を繋ぐ橋であり、人間ならば誰であっても神の世界に橋をかけることができるのです。神に橋をかけること特別な人間にだけ許されたことでもなければ、特別な場所や特別な時間だけに許されたことではありません。祈りはいつどんな場所でもすることができるのです。


次回に続きます。

at 12:53, 星 良謙・子授け地蔵, 神仏の御言葉

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女性の逞しさ4(星)

世の中は三連休とか・・・・
管理人の様な仕事はカレンダー通りに休みがある訳でもなく・・・・
依頼がなければ自動的に休みになると言いたい所なのですが・・・・
何かと雑用に追われております。

それはさておき・・・
今回は前回の続きとなります。
 

私は競争をすることが悪いとは言っているのではありません。また力の強い者が勝ち残ることが悪いと言っているのではありません。競争に勝たなければ価値がないと考えるべきではありません。世の中の多くの者は競争に勝ち抜いた者だけを賞賛する風潮があるのです。私はそのことを危惧しているのです。

ありのままの自分を受け入れることを大切なことなのです。自分の器に見合った生き方をすることも大切なことなのです。それは努力を否定することでもなければ、努力しなくても良いと言っているのではありません。ありのままの自分を否定することなく受け入れて、自分に見合った生き方をすることも大切なことなのです。

多くの者たちはありのままの自分を受け入れることができないがために苦しんでいるのです。ありのままの自分を受け入れることができないがために、自分には価値がないと悩み苦しんでいるのです。そして努力して自分を磨かなければ自分には価値がないと考えているのです。

その結果として何が起きているのでしょうか。何々でなければならないと自分を追い詰めている者で溢れているのではないでしょうか。これは何も力の強い者に限られた話ではなく、選ぶ立場にある者に限られた話ではありません。逆に力の弱い者たちが何々でなければ生き残れないと恐怖にお怯え、選ばれる者たちが何々でなければ、自分が選ばれないのではないかとの不安感から自分を追い詰めているのです。

努力している者たち大半は、力の弱い者や選ばれる立場にある者達が恐怖心や不安感から自分を追い詰めているのではないでしょうか。更に自分を追い詰める者たちは、自分が弱いならば、努力して自分を磨き、努力して自分が強くなればいい、努力できない者は怠け者であるとの烙印を押したがるのです。しかし、それが本来の努力の価値なのでしょうか。恐怖心や不安感から自分を追い詰めることが努力することの価値なのでしょうか。

自分を磨くことは大切であるとしても、自分を磨き続けなければ自分には価値がないと思うことが大神様の望まれている生き方なのでしょうか。自分を追い詰め、自分を苦しめることが大神様の望まれている生き方なのでしょうか。

しかし、本当にそうでしょうか。多くの者たちは、自分の弱さを認めることができないがために努力することで自分が強くなったかのように錯覚しているのです。そして努力しない者たちを蔑むことで自分が強くなったかのように錯覚しているのです。
努力することは大切なことではありますが、それは競争に勝ち抜くためだけの努力であってはならないのです。競争に勝ち抜くことだけの努力であるならば、勝ち残らなければ努力することに価値はないとの考えに陥るのです。しかし、勝ち残らなければ努力する事に価値はないと考えることが大神様の願いなのでしょうか。

努力して自分を磨くことは大切なことではありますが、勝ち残ることだけを目的とするならば、力の弱い者は怠け者であると決めつけるようになります。そのような殺伐とした心となることを私は危惧します。

平成25年7月3日 水曜日



 
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at 12:05, 星 良謙・子授け地蔵, 神仏の御言葉

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女性の逞しさ3(星)

久々に連日の投稿となります。
投稿と言っても神霊のお言葉の紹介ですので、コピペするだけの話なのですが・・・・・(- .-)ヾ ポリポリ
お休みを頂いていた間に幾つかのお言葉を頂いていますので、暫くは神仏のお言葉のご紹介をさせて頂きます。

さて、今回は前回のお言葉と同じ神道系の女性神の神霊のお言葉です。
弱い立場に立つ女性らしい視点からのお言葉ではありますが、男性にも参考になる内容ではないかと思います。
 

誰しもが不安を抱えながら生きていることを忘れてはいけません。不安だからこそ自分が守られていることを確認したくなるのです。また不安だからこそ常に自分が守られていることの保障を求めたくなるのです。それが力の弱い者の心であり、それが力の弱い者の行動なのです。そのため、女性は相手に愛されていることを繰り返し確認しなければ落ち着かないと言えます。これは心の奥底に常に見捨てられるのではないかとの不安があるからであり、常に自分が選ばれないのではないかとの不安感が消えないことが原因なのです。

力の強い者からするならば、不安があるからこそ努力すべきであり、不安を解消するために努力すれば良いと言えるのかもしれません。それは正論であり、自分の努力の積み重ねが自信となり、努力を積み重ねることで不安を解消できます。しかし、努力することだけが正しいと考えるならば、常に努力する者だけが正しく、努力できない者は怠け者であるとの烙印を押す考え方となります。

勿論、努力し続けることは尊いことではありますが、努力しない者は怠け者であるとの考え方は力の弱い者を責めさいなみ、弱い立場にある者を追い詰める考え方となるのです。その弊害を忘れてはならないのです。力の弱い者や立場の弱い者には力の弱い者の生き方があり、立場の弱い者には立場の弱い者の生き方があるのです。

自分が力の弱い者であり、自分が立場の弱い者であると考えるならば、ありのままの自分を受け入れることも一つの方法なのです。努力しなければならないと考えることは、理想に向かって努力し続けなければならないと考えることであり、努力できない者は生きる価値もないと切り捨ててしまう考え方でもあるのです。

不安があるからこそ努力すべきであり、不安を解消するために努力することが正論であるとしても努力しない者は生きる価値がないと切り捨てることが正しいのでしょうか。私は何も極論を言っているのではありません。世の中には努力しない者は去れ、努力できない者に価値はないと切り捨てる者は数多くいるのです。

その結果として何が起きているでしょうか。勝ち残ることだけに価値を見出し、勝ち残ることができなければ負け犬であるとの競争社会を生み出しているのではないでしょうか。そのことはあなたも承知しているはずです。実績を残せなければ価値はなく、勝ち残ることができなければ価値はないと考える者は数多いのではないでしょうか。

そのような社会が生まれた結果として何が残ったのでしょうか。誰しもが勝ち残ることを求め、誰しもが勝ち抜くことを願う。それが競争だけが支配する社会の現実なのです。誰しもが勝ち残ることを願うことは当然であるとしても勝ち残る者がいれば、負けて去らなければならない者がいるがいることも忘れてはならないのです。

では競争に負けた者には価値がないのでしょうか。本当に競争に勝ち残らなければ価値はないのでしょうか。競争に明け暮れて勝ち負けを争うことだけが大神様の望まれる社会なのでしょうか。


次回に続きます。


 
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at 19:06, 星 良謙・子授け地蔵, 神仏の御言葉

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女性の逞しさ2(星)

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前回、中日の次期監督が決まっていないと嘆いていたところ・・・(◎_◎;) おっ!
朝刊のスポーツ欄に谷繁捕手の名前が踊っていました。
選手兼任の監督とか・・・・
そしてGMに落合元監督が就任・・・・
チームの再建は容易ではないと思いますが、取りあえずはコーチ陣の顔ぶれを楽しみにしております。

それはさておき、今回は前回のお言葉の続きです。

殿方は自分の意志で生きることに慣れていると言えるのかもしれませんが、長い人類の歴史の中で、女性は常に男性に従うことを求められ続けたことを忘れてはならないのです。また、男性であっても自分の意志で生きることができない者が多いことを考えるならば、女性に自分の意志で生きることを押し付けるべきではありません。女性が自分の意志で自分の人生を逞しく生きることは賞賛(しょうさん)されるべきことであるとしても多くの女性の目標であると考えるべきではないのです。女性は女性として逞(たくま)しく生きることも許されるべきなのです。

女性が女性として逞(たくま)しく生きるとは、如何にして力の強い者に選ばれ、如何にして力の強い者から守られ続けるかなのです。それも一つの逞(たくま)しさであり、力の弱い者が生き抜く知恵なのです。力の弱い者が厳しい環境の中で生き抜くことは不安との戦いであり、その不安の解消方法が力の強い者から守られることなのです。そのことを無視して力の弱い者に力の強い者と同じ生き方を求めるべきではないのです。力の弱い者には力の弱い者としての生き方があり、力の弱い者としての逞しさが求められるのです。

力強く生きることだけが逞(たくま)しさなのでしょうか。自分の意志を貫く事が逞(たくま)しさなのでしょうか。それは男性の考える逞(たくま)しさであり、男性の考える力強さではないのでしょうか。女性には女性の逞(たくま)しさがあり、女性には女性の力強さがあります。それは男性でも同じではないでしょうか。男性であってもしたたかに生き抜く強さを持つ者がいますし、男性であっても力の強い者に守られて生きる者も少なくないのです。そのため、力強く生きることだけが逞(たくま)しさではなく、自分の意志を貫くことだけが逞(たくま)しさではないのです。

女性であっても男性であっても常に不安なのは同じことなのです。不安だからこそ勝ち抜くことを願うのが男性だとするならば、不安だからこそより強い者に頼ろうとするのが女性であると言えます。しかし、これは画一的な考え方であると言えます。正確には力の強い者は不安だから勝ち抜くことを願い、弱い者は不安だから力の強い者を頼ろうとすると言えます。力の強い者は不安から逃れるために自分の力を誇示し、自分への賞賛を求め、力の弱い者は不安から逃れるために自分が守られていることを確認しようとします。そして自分が守られていることを確認することで不安を解消するのです。それが選ばれる者の立場なのです。

力の強い者は選ぶ立場にあると言えますが、常に不安であることに違いはありません。力の強い者は常に力を失うのではないかとの不安に怯(おび)えるが為に自分の権威を確認することを求めます。その意味では力の強い者も常に不安に怯(おび)えていると言えます。しかし、あなたは弱い立場のはずの女性が家庭で権勢を誇っているではないかと思うかもしれません。世の中には弱いはずの女性が亭主を蔑み、亭主を蔑ろにしていることがありますが、これも亭主を蔑み、亭主を蔑(ないがし)ろにすることで不安を解消しているのです。

亭主を蔑み、亭主を蔑(ないがし)ろにしている女性も本当は主人に守ってもらうことを願っているのです。しかし、守ってもらうことを求めることは、自分の弱さを相手に見せることであると考えることしかできない者たちは、自分の力を誇示することで自分の不安感を解消しようとしているのです。その意味では力の強い者と同じことをしていると言えますが、違いは選ばれる立場にあることです。選ばれる立場にある者にとっては、相手が自分以外の者を選ぶことに恐怖にも似た不安感を抱くのです。そのため、相手が自分以外の者を選ばないように相手を畏怖(いふ)されることで不安を解消しようとします。それに対して選ぶ立場にある者は、自分の力を誇示することで相手を従わせようとします。つまり、選ぶ立場にある者は、自分の力を誇示し、賞賛(しょうさん)を求めることで自分の不安感を解消しようとするのに対して、選ばれる立場にある者は、相手を畏怖(いふ)させて自分以外の者を選ばせないようにすることで不安を解消します。

平成25年7月2日 火曜日

次回に続きます。

at 23:24, 星 良謙・子授け地蔵, 神仏の御言葉

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女性の逞しさ1(星)

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ご無沙汰しております。m(_ _)m
久しく投稿していなかったのでしたが、9月のアクセス数は平均1日300件以上もありました。
更新をしていないブログにアクセスして頂き、誠に有難う御座います。

それはさておき・・・・・

今年の中日ドラゴンズは、怪我人だらけ・・・o( _ _ )o ショボーン

当然のことながら成績は・・・(ノ-_-)ノ ~┻━┻ こんな飯食えるか!

ベテラン選手の高齢化と若手の選手の伸び悩みと何処のチームにもありがちな話なのですが・・・

後任の監督も決まらず・・・・(@@;))))〜〜(((((;@@) うろうろ

さて、今回はお休みを頂いていた間に書き溜めました自動書記をご紹介させて頂きます。
この自動書記は、神道系の女性神が女性の生き方について説かれた教えではありますが、社会的に弱い立場の方にも参考になる内容と思います。

尚、長文ですので数回に分けて投稿させて頂きます。
 

女性は常に選ばれる立場で生きてきたことを忘れてはなりません。そのことを忘れて殿方の生き方と同じように考えるならば、女性の気持ちを理解することは難しいのです。あなたからするならば、女性が殿方を助けることが神の定めた女性の使命であるかを問いたいのでしょうが、私はその問いに答えることが出来る立場にはありません。私は大神様から役目を与えられる立場の者であり、私に理解できることは限られたことでしかありません。そのため、私には大神様の御心を伝えることができる程の立場にはありません。

しかし、私の分かる範囲にてお答えするならば、女性は選ばれる立場で生きてきたのです。それは国の長い歴史の中で培われた女性の立場であると言えますが、それが大神様の望まれている姿であると私には断言することはできません。もしかしたならば、大神様は女性が殿方と同じような生き方をすることを望まれているのかもしれませんが、長い歴史の中で女性は家庭を守り、子供を育てることを求められていたのは事実であり、それが多くの女性にとって魂の記憶となっているのです。

女性が子供を産み、子供を育ていることが人生の大きな喜びなのです。しかし、女性が安心して子供を産み、安心して子供を育てるためには、自分よりも強い者に守ってもらう必要があるのです。そのため、女性は本能的に安心して子供を産み、安心して子供を育てるために自分よりも強い者に選ばれることを求めるのです。

あなたの心には女性も殿方を選んでいるのではないかとの疑問がありますが、基本的には選ばれている立場であることには違いがないのです。力が弱い者は力の強い者に選ばれるのであって、力の弱い者が力の強い者を選んでいるのではありません。これは女性が魂の記憶として刻み込まれた記憶であり、大神様の意向ではないかもしれません。しかし、多くの女性には殿方に選ばれた体験が魂の記憶として残っているのです。

あなたは知的な方ではありますが、女性の心理を理解することが苦手なのは、この部分が理解できないからではないでしょうか。あなたは、最悪の状況の中でも如何に生きるかを考えることができる方ではありますが、それは常に自らの意志で自分の人生を切り開く強い決意が求められる生き方なのです。それは非常に男性的な生き方ではあるとしても誰もができる生き方ではないことを知らなければなりません。力の弱い者が力の強い者に守られて生きることを求めて生きたとしても、それを咎めるべきでもなく、力の弱い者にとっては、それが人生を生き抜く知恵であり、自分の身を守る術(すべ)なのです。

私は女性を卑下しているのではありません。女性には女性としての生き方があり、女性としての生きる術を身に着けていると言う事なのです。それは魂の記憶であると言えるかもしれません。しかし、それが魂の記憶であるとしても女性は女性としての生きる術を身に着けているのです。女性に自らの意志で生きることを求める殿方は多いのですが、それは一面的な真理でしかありません。女性が自分の意志で力強く生きることは素晴らしいことであるとしても、その生き方を強制すべきではないのです。力の弱い者は力の弱い者としての生き方をすることも許されるべきなのです。しかし、力が弱い者が力の弱い者として生きるとは、ただ力の強い者に従順であることではありません。それが女性の逞しさであり、女性の逞しさとはどのようにすれば強い者に選ばれるかなのです。

そのことを殿方は女性のずるさと言うかもしれませんが、それは女性が女性として生きる知恵であり、女性が女性として生きる術なのです。そのことを理解できなければ、女性の心を理解できないのです。殿方は自分の意志で生きることに慣れていると言えるのかもしれませんが、長い人類の歴史の中で女性は、常に男性に従うことを求められ続けたことを忘れてはならないのです。また、男性であっても自分の意志で生きることができない者が多いことを考えるならば、女性に自分の意志で生きることを押し付けるべきではありません。


次回に続きます。

at 00:19, 星 良謙・子授け地蔵, 神仏の御言葉

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