new entries
categories
archives
recent comment
recent trackback
links
mobile
qrcode
others
無料ブログ作成サービス JUGEM
search this site.

信仰について(星)

今日は大晦日・・・・

結局、大晦日に年賀状を書いておりました。(- .-)ヾ ポリポリ
元旦には、届かないだろうとも思いながらも地域で一番大きな郵便局まで投函しに行きました
駐車場に机を前にした職員の方が・・・・・

(@_@) パチクリ

大晦日なのに年賀状を販売していました。
最近は、年賀状を書く人が減っているとか・・・
郵便局も懸命と言ったところでしょうか?

それはさておき・・・

間もなく年が明けようしていますが、今年の最後の記事として浄土宗の神霊のお言葉を紹介します。

私たちはあなたが如何なる教えを学ばれたのかは知りません。しかしあなたはその学びから何を得たのでしょうか。あなたがその教えから学ばれたのは人生の目的なのでしょうか。それとも人生の喜びであったのでしょうか。それとも神仏の慈悲を学ばれたのでしょうか。

私たちは、あなたが学ばれた教えを批判するつもりもなれば、あなたが学ばれた教えを否定しようとしているのではありません。ただ、私たちは、あなたがその教えから人生の目的や喜び、あるいは神仏の慈悲を学ばれたのであるならば、あなたの今の悩みは、既に解決されているのではないかと思えてしまうのです。

信仰とは、人々の心を酔わせる言葉に酔いしれることが信仰ではないのです。ある意味、信仰とは残酷な一面もあることを知らなければならないのです。神仏の前に立つならば、自分の一番醜い姿をさらけださなければならなくなってしまうからなのです。自分の一番醜い姿をさらけだすとは、利己主義の自分や虚栄心に満ちあふれた心を恥ずかしいことであると自分を責め苛むことではありません。

あなたが利己主義とは無縁な自分の姿を追い求め、あなたが虚栄心とは無縁な自分の姿を追い求めたとしても、それは無限の階段を上り詰めた、その先にしかないことなのです。それはあなたが学ばれた教えを否定していることではありません。人間は何の罪もなく生きることもできなければ、完全無欠な慈悲の心にて生きることなどできないことなのです。

すべての教えとは、人間は完全無欠な人生を生きることができないことを前提に説かれているのです。あなたが学ばれた教えとはだからこそ反省が必要であると教えているかもしれません。しかし、私たちからするならば、何を基準に反省しようとしているのかがわからないのです。

あなたにとって善とは何ですか。あなたにとって悪とは何ですか。ある人は自分の正義を振りかざして相手を傷つけながらも、それが自分が神仏から与えられた使命であると考えています。また、別の人は自分たちの信仰を強要することが自分たちの使命であるかのように考えています。しかし、それが本当に神仏の心なのでしょうか。

神の心とは愛であり、仏の心とは慈悲であると言うことは簡単なことではあるとしても、その神の愛とは仏の慈悲とは如何なることを意味するのかと問われるならば、そのことあなたにを説明するのは大変なことなのですがあたながそのことを知ることはもっと大変なことなのです。

私たちは、あなたに特定の神仏の教えを説くつもりはありません。残念なことではありますが、今のあなたにどんな神仏の教えを説いたとしても、あなたには、その教えの意味を知ることはできないとしか思えないのです。それはあなたが自分の心の奥底に眠る心と向き合うことができないからなのです。自分の心の奥底に眠る心と向き合うには善悪を離れて考えなければならないのです。

法然上人は苦悩する衆生を救う教えを求め続けられました。法然上人にとっては、悟りとは無縁に生きなければならぬ衆生の苦悩が自分の苦悩でもあったからなのです。そして、親鸞聖人は自分の罪深さに苦悩しました。それは自分の心の中にある煩悩の炎を消し去ることなどできないことを知っていたからなのです。

そのことは、どの宗門の開祖であるとしても同じなのです。また仏教だけでなく、神道にしても修験道の者たちにしても皆、同じなのです。多くの者たちが自分の苦悩を解消することを求めて修行したのです。そして、その修行にて得られた悟りにて多くの者たちを救うことを願ったのです。

それが宗教の本質なのです。あなたが自分の心の奥底に眠る心と向き合うことなく、自分の考える善悪にて自分の心を考えている限りは、如何なる教えを学んだとしても、あなたは本当の神仏の心を知ることはできないのです。私の言葉を書き留めているこの者も、あなたの話を聞いて、すぐにそのことに気が付きました。

しかし、この者はそのことを何も話さなかったはずです。それは話をしたところで、簡単には説明できることでもなければ、また自分が宗教家ではないと考えているからなのです。

中略

そして、この者があなたにとって必要なのは教えではなく、神仏に手を合わせることの実践であると考えました。それはあなたにとって御利益信仰でしかないとしても、この者は信仰とは神仏に手を合わせる心からしか始まらないと考えているからなのです。

その言葉の意味を知るときはあなたがあなたが自分の心の奥底に眠る心と向き合うことができるようになったときなのです。
 
                                                                        合掌
平成十六年十二月十二日

at 21:11, 星 良謙・子授け地蔵, 神仏の御言葉

comments(0), -, pookmark

自らの不運を嘆く者よ(星)

今年もあと残りを僅かとなりました。
そろそろ、一年を振り返る時期とはなりましたが・・・・

( ̄〜 ̄;)ウーン・・・

気が付けば、まだ年賀状も書いていない・・・・
正月用品も何も買っていない・・・

あたふた (((^^;)(;^^) ))あたふた

何とも慌ただしい年末です。

それはさておき・・・・

前回の投稿の流れで霊障の話を投稿しようかとも考えたのですが、年末年始に霊障の話もどうかと思いますので、修験道の神霊のお言葉を投稿します。このお言葉は、10年以上前に知り合いに宛てて降りたお言葉です。
今読み返しても含蓄のある言葉だと思います。
 

自らの不運を嘆く者よ。我は汝のために涙を流す。哀れなる者よ。愚かなる者よ。心して聴くがよい。
汝は「人生は無常なり」と言葉で知るもその意味を解せず。そなたは多くの師を求めながら何を学んだのであろうか。汝は師に何を求めたのか。

汝は師に利を求め、甘き言葉を求め続けたのではないか。されば自らの不幸を嘆いてはならない。自らの知恵にて生きることを学ぶことなく、自らに利を与える者を求め続けた結果にしかすぎないことを知らねばならない。

今、汝は自らの知恵にて生きることができずに、自らの歩むべき道を他の者に尋ねようとしている。何と哀れなる者よ。何と愚かなる者よ。我は汝のために涙を流す。

賢者は如何なる苦境の中に生きるとも、その志を忘れることなく、学ぶことを忘れず。春遠ければ如何に力強きとてもその穴からでることなく春を待ち、賢者は逆境を耐え忍びながら世に出ることなく時期を待つ。されど、賢者が逆境の中にて耐えて忍ぶとも、愚かなる者たちはその姿をあざ笑い、その志を知る者は少ない。

小人は、その志低き故に利にさといことを知恵と考え、愚かなる者たちは、利を与えると約束する者を賢者と考える。されば、雌伏の時を過ごす賢者に巡り合えども愚鈍なる者としか考えず、その知恵を学ぶ好機を逃す。

高貴なる神仏であるならば安易に利を説くとは考えてはならず。聡明なる知恵を持つ医者であるならば病に苦しむ者にはまず良薬を与えるであろう。その良薬が如何に苦くとも、その薬を服用することを求めるであろう。

されば、高貴なる神仏であるならば安易に利を説くはずもなく、高貴なる神仏に安易に利を求めるべきではない。如何に良薬を与えたとしても、一時的に快癒できるともその心に濁りあるならば、自らの災厄を招き、再び病に苦しむであろう。それこそが縁起の理法であり、諸行無常の教えである。

そなたの苦境は自らの心を耕す事なく、収穫だけを追い求め続けた結果でしかない。汝は多くの師を求め、その師より学んだつもりかもしれぬがその学びには志なく、自らの利を追い求める方法を学んだにすぎない。

嗚呼、何と哀れなる者よ。如何に泡沫の如き人生であるにせよ。自らの徳を積む心なく、人生の大半を自らの利を追い求めることに費やすとは何と哀れなる者よ。

されど、僅かな陰徳あれば我が言葉を得る機会に恵まれたのである。生身の身体を持ちながら、我が言葉を得ることは奇瑞なり、汝が死して後であるとしても、我が前に立つことは許されざることを知らねばならない。
※奇瑞 めでたいことの前ぶれとして起こる不思議な現象。吉兆。

汝が心改めて陰徳を積む日々をおくるとしても、打ち捨てられた田畑を再び耕すが如く、労多くして実りは少ないであろう。如何なる名医が良薬を与えたとしても、体力尽きた患者を快癒させることが困難であるが如く、高貴なる神仏が加護したとしても、徳なき者を救うことは困難であると知らねばならない。まして汝は混迷の中にあり、我が教えを語ったとしても理解することはできず。また諸仏の教えを学んだとしても理解できるはずもなかろう。

されど、汝がこれまでの人生を悔悟して、その心にて陰徳を積むことである。その悔悟の深さにて、汝の今後の人生が決まるであろう。汝に賢者の如く、困窮の中にて心穏やかに生きることを求めたとしてもできるはずもないであろうが如何なる困窮の中にても志を失うことなく、心穏やかに生きることこそが最大の陰徳である。

陰徳とは神社仏閣に金銭を布施することや不遇なる者たちを助けることが陰徳ではない。自らの陰徳ではない。自らの困窮を嘆くことなく、心穏やかに生きることも陰徳である。苦境の中にて自らの苦悩を語り、自らの不運を嘆くことは容易い。されど、それは自らの徳を削り、自らの心を濁すことでしかない。

苦境の中にあるとも、心穏やかに生きる者でならば、有徳の者に引き立てられることもあろうが、自らの苦悩を語り、自らの不運を嘆く者が引き寄せるのは、覇気なき者だけである。覇気なき者ばかりが如何に集まるとも、誰が汝を引き立てるのであろうか。

清き水の湧きいでる井戸であるならば、その周囲に衆生が集まり、集落ができるであろう。また、清き水の湧きいでる泉であるならば、その水は多くの田畑を潤して衆生を養うであろう。さらに清き水の流れる大河であるならばその恵みははかりしれず。

されど、水腐り、水濁るならば、清き水に住むことができぬ生き物たちだけが住むことしかできないであろう。汝が今の苦境から脱することを求めるのであるならば、まず、心に沈みたる心の泥を取り去ることが王道であろうが、それは衆生が考えるほど安易なことではない。何が泥であるかは十年、二十年の修行の後に知り得ることである。

されば、まず今日の一日が無事であったことを喜びとせよ。住むべき家があることを喜びとせよ。それは忍耐や我慢と考えてはならない。忍耐や我慢が大切であると考えるならば、心の苦しみが増すことでしかない。また希望にすがることが大切なのでもない。愚かなる者たちは自らの徳を積むことも忘れて安易な希望にすがり、新たな苦しみの種を蒔く。

今の汝に何を語ったとしても理解することは困難なことであろうが、汝が心を改めるならば我が教えもわかるであろう。我は開運の秘法については語らず。それは我が役目にあらず。汝が僅かでも後悔する気持ちがあるならば、その役目を担う神仏の使いの者たちがその心に応じて加護するであろう。



at 13:19, 星 良謙・子授け地蔵, 神仏の御言葉

comments(0), -, pookmark

引きこもりの段階・解決編3(星)

強い寒波が襲来とのニュース・・・・・w(@。@;)w オウ〜

ここで先日のディーラの方の言葉が・・・・・

「タイヤの溝が残り少ないことから、早急にタイヤの交換を・・・・」

あたふた (((^^;)(;^^) ))あたふた

管理人の住む地域は、積雪の心配は殆どないのですが、真冬の深夜には路面が凍結していることがあります。
特に橋の上は要注意です。

そこで急遽タイヤの交換を決意・・・(~ ^~)エッヘン

最初に訪れたお店で激安を発見・・・(@_@) パチクリ

輸入品ならば、4本セットで10,000円以下 ヽ(;^o^ヽ))) (((/^o^;)/ナントー

さすがに心配なことから国産(有名メーカー品)を見ると、それでも20,000円以下 (◎_◎;) おっ!

即決しようかと考えたのですが、取り替え費用などを確認してから・・・・

近くのタイヤショップをはしご・・・(@@;))))〜〜(((((;@@) うろうろ

結局、最初に訪れた店で購入しました。

これで暫くは安心と言ったところです。

それはさておき・・・

個人的には「憑依」とは言わないようにしています。その代りに使用しているのが不成仏霊の悪影響です。どちらも同じではないかと思われる方も多いのではないかと思いますが、使い分けるようにしています。

これは「憑依」をどのように定義するかの問題でもあると言えますが、個人的には心霊が生きている人間にとりつき、身体や心に影響力を与える状態が「憑依」であり、生きている人間の身体や心に影響を与えいる状態ではあっても、身体にとりついていない状態ならば、憑依とは言えないのではないかと思います。

どちらも似たような話なのですが、霊視した感覚は異なります。憑依の場合には、不成仏霊が身体にへばりつくように憑りついているように感じますが、身体にへばりつくようにとりついていない不成仏霊であっても悪影響があることは少なくありません。比率から言えば、身体にとりついてない不成仏霊の方が圧倒的に多いと思います。

心霊現象については検証できないことばかりであり、何が真実であるかを検証することは困難ではありますが、憑依と呼ばれる現象には、幾つかの法則性があるのではないかと思います。しかし、この法則性について書き始めますと長くなりますので、今回は引きこもり状態の不成仏霊の影響と憑依の関係についての推論をご紹介したいと思います。

ここで改めて憑依とは何かとの定義をしておきたいと思います。心霊世界においては、言葉の定義が曖昧なのにイメージで言葉だけが独り歩きして気がしています。そのため、ここで憑依を本人の意志とは異なる人格を持つ心霊が本人の意識を支配したり、本人の意識に多大な影響を与えたりしていることと定義したいと思います。勿論、これは話の内容を整理するために便宜的に定義しただけのことであり、一つの仮説であるとお考え下さい。

憑依される場合の条件として憑依する不成仏霊と憑依される人間には、何らかの縁が必要であると思われます。通常は血縁や地縁などが多いのですが、何らかの信仰を縁として憑依された事例や過去世からの深い縁で憑依された事例など色々な事例はありました。しかし、全く無関係な不成仏霊に憑依された事例は知りません。

・何らかの縁がある
憑依する不成仏霊と憑依される人間には、共通する心の闇があると思われます。このように書きますと憑依される人間に問題があるとの印象を持たれる方が多いのではないかと思われますが、誰しもが心の闇を抱えているのが普通であり、お釈迦様でもない限りは、誰しもが苦悩を抱えているのが普通だとおもいます。

・共通する心の闇
憑依している不成仏霊の心の闇と憑依されている人間の心の闇が共通する度合いと不成仏霊の影響力は比例すると思われます。つまり、自分と同じような心の闇を抱えている不成仏霊に憑依されやすいだけでなく、不成仏霊に翻弄されやすくなります。逆に自分の心の闇が解消に向かいますと憑依している不成仏霊の意識とのずれが生じます。憑依している不成仏霊と意識がずれますと不成仏霊に翻弄されにくくなる傾向があります。

・影響
引きこもり状態と言えるような不成仏霊に憑依されている場合には、憑依霊自体は引きこもり状態にありことから憑依している人物に対して意識を支配して乗っ取るようなことをする可能性は低いのですが、悲観的な感情に支配されやすくなる傾向があると思われます。そのため、引きこもり状態にある不成仏霊の影響が強くなりますと鬱病や引きこもりの要因になると思われます。

・二次被害
引きこもり状態の不成仏霊に憑依されますと、心の中に深い闇を抱えている状態になりますが、このことが成仏できないで迷っている心霊を呼び寄せてしまうことになります。これは少し理解しにくい話と思いますが、引きこもり状態の不成仏霊の作り出している深い闇が地獄に通じていると考えて頂ければ分かりやすいのではないかと思います。これは一つの比喩であり、本当に地獄絵図に描かれているような地獄が存在しているとは思いませんが、引きこもり状態にある不成仏霊の作り出した闇を通じて暗い想念を抱えている不成仏霊が集まってくるようになります。

・負のサイクル
このような状況に陥りますと引きこもり状態の不成仏霊に憑依されている方の周囲には、常に不成仏霊がさまよっているような状態となります。こうなってしまうと全く霊感のない方であっても引きこもり状態の不成仏霊に憑依されている方に会うと陰気な雰囲気を感じることが多くなります。こうなってしまうと引きこもり状態の不成仏霊に憑依されている方は、良好な対人関係を構築することが苦痛に感じるようになり、心の闇が増大する結果となります。心の闇が増大するならば、引きこもり状態にある不成仏霊の心境に近づき、益々引きこもり状態にある不成仏霊の感情に支配されるようになる悪循環が始まります。

この負のサイクルから抜け出すことは簡単ではありません。憑依された本人にも憑依されるだけの原因があると言えますが、引きこもり状態にある不成仏霊に憑依されることは、引きこもり状態にある不成仏霊の苦悩背負った状態になると言えます。そのため、本人が楽観的に物事を考えようとしても引きこもり状態にある不成仏霊の苦悩に押しつぶされてしまう可能性が高くなります。

更に引きこもり状態にある不成仏霊の作り出した心の闇を通じて不成仏霊が憑依された方のまわりをさまよっている状態となりますと、楽観的な考え方をしようとの意欲を持てなくなる傾向があるだけでなく、建設的な考え方や意見が頭に入らなくなることも珍しくないようです。また、このような状態に陥りますと考えがまとまらない傾向も顕著となります。

この段階にまでなりますと、本人の努力では抜け出すことは難しいだけでなく、霊障の解決も容易ではなくなります。そのため、現実的な対処としてはカウンセリングを受けられることをお勧めしますが、並行して霊障の対策も必要となります。具体的な対策は、個別の事情を考慮しなければなりませんので、霊障鑑定をお勧めしますが、一般論として書くならば、当面は障りを防ぐための祈願祈祷に重点を置き、徐々に供養に移行するをお勧めします。

過去の経験では、完全に憑依されてしまっている不成仏霊は、祈願祈祷だけで影響を排除することは容易ではありませんが、憑依には至っていないが、悪影響を受けている不成仏霊には、祈願祈祷が効果的でした。そのため、引きこもり状態にある不成仏霊に憑依された方の周囲をさまよっている不成仏霊の影響を排除することがお勧めとなります。

α~ (ー.ー") ンーー

解決遍と書きながらも、具体的な解決策が書けなかったような・・・・

(- .-)ヾ ポリポリ

at 15:34, 星 良謙・子授け地蔵, 心霊現象と神秘体験

comments(0), -, pookmark

引きこもりの段階・解決編2(星)

先日のことですが、自動車を定期点検に出しました。
特に異常もなく終わったのですが・・・・・
タイヤの溝が残り少なくなっていることから早急に買い換えられないと・・・・

☆=>=>=>(+_+。)ガーン

ああ・・・、また出費が・・・・orz

先月も玄関の鍵の調子が悪いことから鍵の付け替えを依頼したところ・・・・

見積もりを聞いて ????(-"-)????

あまりにも高額な見積もりでしたので、知り合いの元大工さんに頼んで付け替えてもらうからと断ったところ、上司に相談してみますと

(-_-)B モシモシ・・・・

無理なら自分で付け替えますから・・・・と言ったのですが、大幅値引きとなりました。

タイヤもあちこち安売りの店を探してみようかと思っています。

それはさておき・・・・・

引きこもり状態の不成仏霊の対策を考えていたとき、ランチェスターの法則を思い出しました。
このランチェスター法則は経営学に取り入れられていることから検索されるならば、詳しい解説は直ぐに見つかると思います。

このランチェスター法則を更に発展させた理論にランチェスター戦略モデル式があります。難しい話はすべて省略しますが、このランチェスター戦略モデル式とは、戦略と戦術が最大の効率となる比率を求める数式です。

その話に入る前に戦略と戦術の定義に触れておかなければなりません。暫く前に企画書の作り方と言った内容の本を買いましたが、戦略と戦術の定義があまりにも曖昧であったことに困惑しました。簡単に書くならば、戦争をどのように推し進めるかの構想が戦略であり、その構想に従って作戦を立てるのが戦術となります。そのため、どちらが重要であると考えるのもおかしな話なのですが、暫く前に購入した本の中では、戦略的であることが良く、戦術的であることが悪い事であるかのような書き方がされていました。

さて話を戻しますと、戦争においては相手の国の生産力が重要となります。相手の国の生産力が壊滅してしまえば、相手の国は戦争を継続する国力を失いますので戦争に勝利することができます。そこで活躍するのが第二次世界大戦の当時は、戦略爆撃機でした。相手の国の生産拠点を爆撃することで相手の国力を疲弊させることができるならば、戦争に勝利することができます。

しかし、戦略爆撃機が大活躍して相手の国力を疲弊させることができたとしても、最前線の兵士は目の前の敵と戦わなければなりませんので、戦車や大砲、機関銃と言った戦術兵器も重要となります。では戦略兵器と戦術兵器をどのような比率で生産すべきかの一つの答えがランチェスター戦略モデル式でした。

このブログは経営学のブログではありませんので、結論だけ書きますと戦略兵器を2/3、戦術兵器を1/3の比率で生産するときに最大の成果を得られるとのことです。
※正確な数字が書いてあった本があったはずなのですが、探しても見つかりませんでした。(- .-)ヾ ポリポリ

この戦略兵器2/3、戦術兵器1/3の比率の組み合わせは、霊障の解消にも参考になる話ではないかと考えていました。霊障の解消の基本は供養と祈願となりますが、問題の根本的な解消が戦略であり、当面の対処が戦術とするならば、供養が戦略であり、祈願祈祷が戦術となります。但し、ここで注意しなければならないのが、祈願祈祷も神仏の働きであることから迷っているご先祖や有縁無縁之霊などへの働きかけも含まれます。そのため、供養と祈願祈祷の違いは神仏の働きかけが迷っている心霊への働きかけが主となるか、生きている人間のご加護が主となるかの違いとなります。

引きこもり状態の非常に闇が深い段階には、対策としては迷っている心霊の正体が分かりませんので、祈願祈祷が中心になることは避けられません。しかし、多少なりとも段階が上がり、不成仏霊の正体が推測できる段階になりますと、現実の問題の解消されることを願う祈願祈祷に重点を置くべきか、正体が分かった段階で供養に重点を置くべきかで悩むことがあります。供養や祈願祈祷などの宗教の問題に効率を求めるべきではないとは思いますが、現実的な問題として限られた予算の中で供養と祈願祈祷の予算の振り分けに頭を痛めます。

管理人も迷っている不成仏霊を供養することで問題が解消に向かうことは分かっても、問題に直面している場合には、神仏のお力をお借りするために祈願祈祷をすることは良くあります。しかし、年間平均で考えますと、供養と祈願祈祷の比率は2:1程度になるのではないかと思います。勿論、これは年間の平均値であり、病気や仕事の悩み、試験などの現実的な問題の場合には祈願祈祷をしています。また、病気や仕事などの現実的な問題の原因が不成仏霊の障りであると分かっていても、状況が切迫している場合には、祈願祈祷で不成仏霊の障りを防ぐことを優先しています。また、霊障の原因が明確な場合には、祈願祈祷だけでなく、供養も同時に行う場合もあります。

そのため、あまり杓子定規に考えるべきではないと思いますが、基本的には供養と祈願祈祷の比率は2:1程度が目安となるのではないかと思います。

at 17:03, 星 良謙・子授け地蔵, 心霊現象と神秘体験

comments(0), -, pookmark

引きこもりの段階・解決編(星)

とうとう中田投手も中日ドラゴンズを去ってしまった。

<(T◇T)>わぁああああ!

また好きな選手が減ってしまった・・・・

(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)

FAは選手の権利なのですが・・・・

(>< )oダメーo( ><)oダメーo(><)oダメー

一人騒いでおります。

来年のドラゴンスはどうなるのでしょうか?

それはさとおき・・・

神霊の解説の紹介、引きこもりの状態の心霊の影響を取り上げてきましたが、引きこもり状態にある不成仏霊の悪影響を受けてしまっている場合の対策について考えてみたいと思います。

随分と前の話となりますが、管理人がブログを立ち上げた当初は、「霊能者のひとりごと」の名前で始めました。心霊現象や霊能力に関して思いつくままに書き残そうと考えてたことから、このような名前を選びましたが、自分のことを霊能者と言って良いのかとの疑問がありました。確かに心霊現象のことで知り合いから相談を受けることもありましたし、既に自動書記で書いた本を出版しておりましたが、霊能者の自覚は全くありませんでした。

基本的には今もその当時と大差はありません。霊視は苦手であり、霊能者の方のように相手の考えていることを見抜くことや相手の個人情報を見抜くと言った芸当もできません。それができるならば、もっと鑑定の予約が1ヶ月待ち、2か月待ちと言った売れっ子の占い師になっていると思います。しかし、幸か不幸かそんな器用な芸当はできませんので、何とか生活できる程度で終わっています。orz

それでも霊視ができる場合があります。その経験で書きますと、「大きすぎる悲しみと失望の支配する世界」と「大きすぎる悲しみと劣等感の支配する世界」の段階の場合には、限りなく深い闇しか感じません。そのため、それが不成仏霊なのか、不満や怒りなど感情が鬱積した悪想念なのか、それとも単純に病気と考えるべきなのかが分かりません。

いずれにしても、迷っている心霊であることから供養することは有効なのですが、何も分からない状況では、誰を供養すべきかすらも分かりません。そのため、対策として神社仏閣で祈願祈祷や自宅での読経、神社仏閣への参拝などを繰り返すことをお勧めしています。

祈願祈祷をする場合には、どのような名目ですへきかと訊ねられることも多いのですが、基本的には何か抱えている悩みがあれば、その願目で申し込まれれば、良いと思います。例えば、病気で悩まれていれば、病気平癒であり、仕事で悩まれているならば、事業繁栄や商売繁盛で良いと思います。或いは、災難除災と言った願目でも構いませんが、大切なことは、自分の心の中にある心の闇が消えることを願われることです。

過去の経験では、漠然と祈願祈祷を受けるよりも自分も心の中で祈願された方がより効果であり、可能ならば具体的なイメージを持つ方がより効果的な傾向があります。そのため、漠然とした閉塞感や不安感があると自覚されている場合には、祈願祈祷を受けられた際や神社仏閣への参拝した際などには、自分の心の中にある心の闇が消えることを願われることをお勧めします。

自分の心の奥底に解消されていない何らかの心の闇があり、その心の闇に潜んでいることから、自分の心の闇が解消されるならば、不成仏霊の居場所がなくなり、不成仏霊の悪影響が解消されることになります。これは本来は修行して、神仏に心を向けて生きることが大切となりますが、それが簡単にできるならば、誰も霊障で悩むことはありません。そこで神仏にご加護頂くことで少しでも心の闇が解消するようにお願いされることをお勧めしています。

特に「大きすぎる悲しみと失望の支配する世界」と「大きすぎる悲しみと劣等感の支配する世界」の段階にある不成仏霊の影響を受けている場合には、本人が自覚していない心の闇に潜んでいる傾向があることから、内観などで自分の心と向き合う訓練をされていも、自分の心の闇に気付かない方も少なくないようです。

具体的には、幼少期に両親から充分な愛情を受けられなかった心の傷や本人が自覚してないトラウマなどが考えられますが、これらはカウンセラーの指導を受けるか、心理学を学ばなければ、本人が自覚するのは簡単ではないと思われます。その意味では心理学を学ばれることで自分でも気付かない自分の心を知ることは、心の闇を解消する方法として有効ではないかと考えています。

この他に、過去世から繰り返された心の傷とも言えるような魂の傾向性が、原因であった事例もありますが、根底にあるのは、幼少期に両親から充分な愛情を受けられなかった心の傷や本人が自覚してないトラウマなどが原因であることが多い気がしています。そのため、最終的には、その心の傷を癒すことが心の闇の解消となり、心の闇を解消することが霊障の解消となります。

at 12:28, 星 良謙・子授け地蔵, 心霊現象と神秘体験

comments(0), -, pookmark