new entries
categories
archives
recent comment
recent trackback
links
mobile
qrcode
others
無料ブログ作成サービス JUGEM
search this site.

不成仏霊の気持ち12(星)

今回のシリーズもとうとう11回目の投稿となってしまいました。

過去に書き溜めた自動書記を投稿するだけですので、負担は少ないのですが・・・・

これだけ、同じような内容ばかりを投稿していていも良いのかなと悩みます。
また、内容が内容だけに、なんとなく後ろめたさが・・・・

そんなわけで、「不成仏霊の気持ち」は今回で終了させて頂こうかと考えています。

それはさておき・・・

今回の自動書記は、西洋人に虐げられた人々の自動書記と民族神のお言葉です。
 

部族の心霊の言葉
約束を守らない
仲間を殺した
女、子供をすべて殺した
神は助けてくれなかった
信用できない

どうして私たちを無視するのか?
私たちは誇り高き部族

今の者たちは信用できない
白人に魂を売ってしまった者たち
部族の誇りを忘れた者たち
我らは子孫が部族の誇りを取り戻すのを待ち・・・・


ここまで書いたところで、民族神の神霊からお言葉がありました。
 

民族神のお言葉
違う、嘘をつくな。お前たちは迷っていただけた。そして現世にて得られなかった富や権力を求め続けていただけである。現世で得られなかった富や権力を得たいがために現世に執着し、現世に生きる者たちの肉体を利用したかっただけの話である。

だが、子孫の者たちにはお前たちが望むような富や権力を持つ者はおらず、富や権力を持つ者たちはお前たちを迫害した白人ばかりであった。しかし、お前たちは、生前に抱いていた白人に対する恐怖心から白人に近づくことすら出来なかった。

そのため、お前たちは自分たちの子孫よりも富や権力を持ちながらも白人ではない者たちに目を付けたのであろう。それがお前たちが苦しめている者たちの先祖である。(先祖=相談者の先祖)

なんと嘆かわしき話であろうか。子孫でもなければ、同じ民族でもない者たちまでも巻き込み、自分たちの欲望を満たそうとする気持ちを持つとは、あまりにも情けない話である。

お前たちは、生前に白人に迫害されたために、死後の世界においても白人を恐れ、白人たちから逃げ惑っている。そうでなければ、どうしてお前たちは自分たちの故郷とは遠く離れた地で、自分たちとは何の縁もない者たちに障りを起こしているのか。

お前たちの誇りとは、弱い者を虐めることであり、心優しい者たちを利用することであろうか。お前たちにとって部族の誇りとは、弱い相手を選んで勝つことだけであろうか。お前たちの誇りとは、敵に勝つことだけでしか保てないのであろうか。

我はあまりにも情けない。お前たちの先祖は本当の勇者であった。

中略

本当の勇者とは、困難を恐れず、恐怖に打ち勝ち、多くの者から信頼され、多くの者たちを導くことが出来る者たちである。それが出来てこそ本当の勇者である。だが、お前たちのやっていることは、生きている者たちを混乱させ、惑わしているだけのことでしかない。そして自分たちは闇に隠れ、勝ち誇った気持ちになっているだけである。それのどこが勇者であろうか。

勇者でありたいと思うのであるならば、どうして未だに恐怖に怯え続けている者たちを励まし、救おうとしないのか。そして彼らを我らの住む世界へと導こうとはしないのか。それが本当の勇者がなすべきことである。我らはお前たちが我らの世界に来ることを遠い先祖の者たちと待っている。

真の勇者となれ、それが迷いから抜け出す道である。


at 22:53, 星 良謙・子授け地蔵, 不成仏霊の気持ち

comments(0), -, pookmark

不成仏霊の気持ち11(星)

( ̄。 ̄)ボーーォ とやる気のない管理人です。

こんなことを書きますと、いつもはやる気があるのかと言われそうなのですが・・・

神仏のお言葉を紹介していますが、別に教祖になろうとの気持ちはありませんので、やる気がない程度で丁度のではないかと勝手に思っております。

α~ (ー.ー") ンーー 何か、怒られているような気がしないでもありませんが・・・・

それはさておき・・・・

今回は、神道系の神霊が西洋人に虐げられた人々について説かれたお言葉をご紹介します。
 

彼らが槍を向け、弓を射ようとしているのは、失われた誇りを取り戻したいとの気持ちなのです。彼らはそうすることでしか自分たちの誇りを取り戻すことしか出来ないのです。彼らはあなた方を傷つけたいのでもなければ、あなた方を殺したいのでもありません。彼らは自分たちの誇りを取り戻したいのです。彼らは霊界で迷っている自覚もなく、ただ生前に傷ついた誇りを取り戻したい気持ちが強いのです。それがあなたに槍を向け、矢を射る姿となっているのです。

彼らにとって最大の苦悩は傷つけられたことや仲間が殺されたことではなく、自分たちの誇りが奪われたことなのです。そして彼らにとっては、その失われた誇りを取り戻す唯一の方法が敵から恐れられることなのです。彼らは決して平和を愛して穏やかな暮らしをしていた者たちではありません。彼らは部族間の闘いを繰り返していのです。

あなた方からするならば、小競り合い程度の闘いであっても命がけであり、その闘いに勝ち抜くことが彼らの誇りであり、彼らは自分たちを勇敢な戦士であると信じていたのです。しかし、彼らは海から来た者たちに完膚なきまでに負けたのです。彼らはそのことに深く傷つき、自分たちの誇りを取り戻した気持ちに凝り固まっているのです。

あなたに彼らが槍を向け、弓を射ようとしているのもあなたが彼らの姿を霊視することが出来るからであり、彼らはあなたを恐れさせたいだけであり、他に他意はありません。しかし、あなたは彼らが槍を向け、弓を射ようする姿を見ても何も動じません。それどころか、神仏のお力で彼らの敵意を消し去ってしまうことから彼らは困っているのです。

彼らが障りを起こしているのも同じ理由からなのです。彼らは自分たちの力を誇示することでしか自分たちの誇りを取り戻せないと考えているのです。そのため、自分たちを恐れさせたいのです。そのことが我らの説得を拒絶するだけでなく、神仏の救いすらも拒絶する結果となっているのです。

私たちは、彼らに和の大切さを説き、平和で穏やかな生活を取り戻すことこそが幸せであることを説いているのですが、彼らは全く聞く気持ちがありません。彼らにとって私たちが異国の神であるとしても、私たちが高い霊格を持つ神であることは彼らにも分かるはずなのですが、彼らには敵意しかありません。そのことが彼らを救うことを難しくしているのです。



 

at 21:27, 星 良謙・子授け地蔵, 不成仏霊の気持ち

comments(1), -, pookmark

不成仏霊の気持ち10(星)

中日ドラゴンズが快調に首位を走っております。( ̄^ ̄)えっへん

┌( ̄0 ̄)┐ウオーホッホッホッホ

シーズンに入る前は、何かと言われておりましたが・・・・

けが人が多くても首位、それだけ若手の選手の元気がいいと言いたいところですが・・・

ドミニカの選手頼りが少し寂しい気もします。

それはさておき・・・

今回は前回に続きです。霊界は心の世界であることから言葉が異なる外国の心霊でも自動書記は可能ではありますが、考え方や価値観があまりにも違いすぎる場合や生きている人間に言葉を伝えた経験がない場合には、イメージや感情は伝わってきても明確な言葉にはならないことが少なくありません。

そのため、アイヌの神霊に状況を解説して頂く結果になりました。
 

アイヌの神霊の解説
今、彼らは混乱しています。そして意見が分かれています。生前に部族の長をしていた者が集まり、それぞれの意見を述べていますが、まとまっていません。彼らは、それぞれが独立した部族であり、生前にはそれぞれの部族が集まり話し合う機会は非常に少なかったのです。

そのため、彼らは統一された意思で動いていたわけではなく、お互いの思惑で行動していただけなのです。彼らの大半は論理的な思考が出来ない者たちであり、彼らを支配しているのは怒りや憎しみの感情と恐怖と悲しみ、そして消すことが出来ない劣等感なのです。

その生前から続く怒りや憎しみ、そして劣等感を消し去ることができないことが、神仏の言葉が彼らの心に届かない原因なのです。それは、彼ら自身が気付かねばならないことなのですが、あまりにも生前の続く怒りや憎しみ、劣等感が強いために彼らは気付けないのです。

それでも、一部の者たちは、憎しみや怒りを捨てるべきだと思い始めているのですが、彼らの意見はまとまっていません。また、彼らは自分たちに教えを説いているのが、本当に神なのかと疑っています。民族神であっても精神的に高い境地に到達している神霊ならば、彼らにも偉大な存在である程度のことは分かりますが、彼らにとって神とは、自分たちに豊かさや勝利を与えてくれる存在であり、教えを説く存在ではなかったのです。

そのため、彼らは民族神の説く教えを信じるべきかとどうかで意見が分かれているのです。

 
詳細は書けませんが、生前に暮らしていた地域は分かっていましたので、彼らが生前に信仰していたと思われる民族神に指導して頂けないかとお願いしていましたところ、彼らが生前に信仰していたと思われる民族神からのお言葉がありました。
 

○○の民族神の教え
どうして飢えに苦しむこともない食べ物に満ち溢れた世界に帰ろうとしないのか。争いのない平和な世界に帰ろうとしないのか。お前たちは、生前に信じた神の言葉が信じられないのか。お前たちは、いつまで争いを続ける気持ちなのか。

争いをやめよ。もうお前たちを迫害する者たちはいない。それがどうして分からないのか。お前たちが真の勇者ならば、我の言葉を信じよ。お前たちが真の勇者ならば、我が言葉に偽りのないことは分かるはずである。お前たちが自分たちの家族を愛するならば、我が言葉を信じよ。お前たちは、自分たちの家族を守るために闘っていたのではないか。本当に自分たちの家族のために闘っていたのであるならば、お前たちの家族の幸せを考えよ。

自分たちの周りを見渡してみよ。何処にお前たちを迫害した者たちの姿があるのか。お前たちは何を恐れているのであろうか。お前たちはいつまで生前の恐怖に怯えているのであろうか。もう槍を下せ、弓を手にすることは止めよ。

私たちの世界の者たちは、誰も相手を傷つけたりはしない。私たちの世界の者たちは、誰も相手を憎むこともない。誰も相手を傷つけず、誰も相手を憎まない。誰も相手を傷つける必要もなく、誰も相手を憎む必要がない世界である。もし、誰かを傷つけたいと願い、誰かを憎む心があるならば、我らの世界には住めないのだ。誰も相手を傷つける気持ちがなく、誰も相手を憎む気持ちがないならば、どうして争う必要があろうか。

食べ物はいつも豊かにあり、人々は穏やかに暮らす。争いのない世界にどうして帰ろうとしないのか。お前たちがその豊かな世界に帰るためには、争いを止めなければならないのだ。争いを止め、人を憎むことを止めなければならない。争いを止め、人を憎むことを止め、人を傷つけることを止めなければ、我らの世界には帰れないのだ。

お前たちにも家族があったはずだ。年老いた親がいたはずである。その者たちのことを考えるならば、出来るはずである。いつまで自分たちの誇りにこだわるのか、いつまで白人の恐怖に怯え続けるのか。

お前たちが守ろうとした部族の誇りとは、敵から恐れられることではなかったはずである。敵から恐れられることを誇りと考えたのは、敵から恐れられることで敵からの闘いを防ぐことであり、それは部族の者たちを守る為であったはずである。敵から恐れられたとしても、部族の者たちを守ることが出来ないならば、敵からいくら恐れられても部族の誇りなどない。

今のお前たちの家族を見よ。年老いた両親や女子供は恐怖に怯えているではないか。或いは飢えに苦しんでいるではないか。それなのにどうしてお前たちは、部族の誇りを言うのであろうか。本当に部族の誇りを大切にするならば、自分たちの家族を大切にするはずである。自分たちの家族を大切に出来ない者に部族の誇りを言うことは我が許さぬ。

家族が大切ならば、家族の幸せを願うならば、槍を下し、弓を手にすることは止めよ。そして部族の者たちが大切ならば、槍を下し、弓を手にすることを止めよ。そしてお互いに助け合え、相手が困っているならば相手を助けよ。その心があれば、我らはお前たちを喜んで我らの国に迎える。


少し補足しますと、「槍を下し、弓を手にするのを止めよ」とありますが、これは自動書記をしようとすると威嚇するように槍を構え、弓を手にしていた姿を霊視しましたので、民族神がこのようなことを説かれたと思われます。

さて、精霊信仰には体系的な教えは残されていない可能性が高いと思われますが、この神霊はそれなりに高い霊格を持つ心霊であるとの印象を受けました。難しいことは言われてはいませんが、成仏するためには何をすべきかを端的に説かれています。

宗教は異なっても精神的に高い境地に到達することは、可能と言うことなのでしょうか?

at 11:30, 星 良謙・子授け地蔵, 不成仏霊の気持ち

comments(1), -, pookmark

不成仏霊の気持ち9(星)




先週のことですが、桜が散りかけているのに、梅が咲いていました。
別の場所では、桃の花が咲いていました。
梅と桜と桃の花が同時に咲いていることに不思議な気がしています。
これも異常気象が原因なのでしょうか?

それはさておき・・・・

今回は、少し変わったお言葉を投稿します。

管理人は自動書記が出来ると言っても自由自在に言葉が聞けるわけでもなく、誰かが何かを伝えようとしていると感じても、実際には何を伝えようとしているのか、全く分からないときも少なくありません。

今回ご紹介する自動書記も、最初は断片的な言葉だけが伝わってくるだけであり、何を言いたいのか分かりませんでした。

 

言いたくても言えないこと
上手く説明できないこと

すべてを破壊された
多くの者たちが死んだ
助けて欲しい

言葉では説明できない心があることを理解して欲しい。
難しい話は分からないが、人間が人間として誇りを持って生きることが悪いのか。だが、ある日見知らぬ者たちが、我々からすべてを奪い去った。我々の生活も我々の誇りもすべてを奪い尽くした。
誇りを奪われた者たちの怒りと悲しみ


少し補足しますと、西洋人に征服され、奴隷として扱われた人々の言葉でした。
これまでに数多くの自動書記を経験しましたが、西洋人に征服され、奴隷として扱われた人々の自動書記は初めての経験であり、戸惑っていましたが、アイヌの神霊と思われる方に、彼らの気持ちを解説して頂けました。
 

あなたに、彼らの気持ちを理解するとは難しいと思います。彼らは、自分たちの暮らしも、自分たちの部族としての誇りも、すべて奪われた者たちなのです。彼らは文明を非常に憎んでいます。そして文明を敵視しています。

彼らにすれば、文明が自分たちのすべてを奪い、文明が自分たちのすべてを破壊したと考えています。また、彼らにとっては、神仏も文明なのです。彼らにとっては、神とは自然であり、神とは精霊なのです。そこには、あなた方が考えるような信仰の世界はありません。

また、忘れてはならないことは、彼らの世界が現代人の考えるような○○の楽園ではなく、良くも悪くも人間的であり、部族間の争いもあれば、激しい闘いも繰り広げられていたのです。ただ、部族間の闘いであるならば、彼らの暮らしのすべてを破壊しつくことはなかったのです。

あなたからするならば、彼らは精霊信仰に生きたと言えるでしょうが、それはあなたが考えるような精霊信仰ではないのです。もっと泥臭いと言うべき精霊信仰であると言えるのです。そのため、あなたは、彼らの気持ちを理解することが難しいのです。

私たちは、良くも悪くも日本人の精神の影響を受けましたが、自分たちの信仰や自分たちの誇りを忘れたことはありません。私たちの信仰は、神社のような立派な祭殿もなく、荘厳さを感じさせるような作法もありませんが、私たちは自分たちの信仰を恥じる気持ちはありませんでした。

しかし、彼らは、その誇りさえ奪われ、部族としての誇りも、人間としての誇りすらも、奪われたのです。彼らにあるのは、文明に対する怒りと憎しみ、そして自分たちの信仰を奪われた悲しみと怒り、部族としての誇りだけでなく、人間としての誇りすら、奪われた者たちの悲しみと絶望なのです。彼らは文明社会の恩恵を何一つとして受け取ることなく、文明社会にすべてを奪われたのです。

彼らはあなたと異なり、論理的な思考を学んではいません。また何の教育も受けていないことから、難しい話をしても通じる相手ではありません。そのため、筋道を立てて話すように求めても無駄なのです。彼らに筋道を立てて話をするように求めても、彼らは、自分たちの感情のままにしか話すことしか出来ないのです。

勿論、あなたは、相手が感情のままに話をしたとしても、相手の感情の洪水を整理して、相手の本音を見抜くことが出来る方ではありますが、彼らの心の中にあるのは、失われた部族としての誇りと失われた人間としての誇り、そして絶望感だけなのです。それ以外には何もないと言えるのです。そのため、彼らは何をどのように話せばよいのかも分からないのです。

しかし、彼らは文明を憎んではいますが、あなた方を憎んではいません。正確には、日本人を憎んではいないと言うべきです。彼らにとっては欧米人も日本人も同じ異国の人間であり、文明人ではあっても、日本人を憎んではいません。彼らは自分たちを迫害したのが日本人ではないことを分かっています。そのため、彼らは同じ文明人でありながら、自分たちを迫害しなかった日本人である、あなた方ならば、自分たちの苦悩を理解してくれるのではないと期待しているのです。

彼らは、自分たちが平和を愛し、争いもなく暮らしていたと言うつもりはありませんが、自分たちの暮らしを奪われ、自分たちの信仰を奪われ、部族としての誇りだけでなく、人間としての誇りすら奪われてしまったことに激しい怒りと悲しみ、そして絶望感を抱いているのです。

そのことを理解して欲しいのと、自分たちを救ってくれる者が現れるのを待ち続けているのです。ただ、彼らの悲しみや怒り、そして絶望感があまりにも激しすぎるだけでなく、彼らは自分たちの気持ちを上手く伝えることが出来ないが為に、誰も気づかなかったのです。

私には、彼らの気持ちは分かりますが、私には彼らを救うだけの力はありません。また、私たちとは考え方も異なるだけでなく、信仰も違いすぎるのです。しかし、あなたたちならば、出来るのではないかと彼らは期待しているのです。


考えてみれば、世界には数多くの宗教があります。そして今回のように生前に自然や精霊を神として崇めていた人々がいること分かっていてしたが、そんな人々の自動書記があるとは考えてもいませんでした。

次回に続きます。

at 11:14, 星 良謙・子授け地蔵, 不成仏霊の気持ち

comments(0), -, pookmark

他力と成仏3(星)


自動書記ばかりを投稿してきましたが、そろそろ終わりにしようかと考えています。
そこで不成仏霊の自動書記や不成仏霊に対しての神霊のお言葉を改めて見直したところ、幾つかご紹介しておきたい神霊のお言葉が見つかりましたので、ご紹介させて頂きます。

今回のお言葉は真言宗のお寺の神霊のお言葉ではありますが、他力の救いにも言及されていますので、ご紹介させて頂きます。
 

心を閉ざす者に対しては、限りない慈悲が必要なのです。しかし、それは単純に優しくあれば良いと考えるべきではありませんが、同時に厳しくあれば良いと言うべきではありません。大切なことは、迷いの中にある者を救いたいと願う心であり、悟りへと導きたいと願う心なのです。

あなたにはそれが出来るはずなのです。どんなに苦しくてもどんなに悲惨な状況であっても神仏の慈悲を信じ続け、神仏の働きを信じ続けることが出来たならば、他人の幸せも願い続けることが出来るはずなのです。大切なことは、その心であって苦悩する者を救う力ではありません。

あなたがどんなに法力を誇ったとしても、不動明王の法力を凌駕できるはずもなく、あなたがどんなに知恵を誇ったところで文殊菩薩の知恵に及ぶはずもありません。あなたがどんなに慈悲深くとも、阿弥陀如来の慈悲に比べるべくもありません。

あなたは、目の前にいる苦悩する者を救えないと嘆くべきではありません。迷いの中にある者を救いたいと願い、悟りへと導きたいと願うことが大切なのです。その心を持ち続けることが大切であり、その心を持ち続けことが全てであると言えるのです。あなたは、多くの者が陥りやすい落とし穴にはまっているのです。その落とし穴とは、自分には祈ることしか出来ないと言う落とし穴なのです。

日々の勤行は僧侶ならば、当然の務めではありますが、そのことに安住してはならないのです。どんなに経を上手く読んだとしても褒められるべきことではなく、どんなに威厳をもって護摩を焚いたとしても、自慢にはならないのです。大切なことは、迷いの中にある者を救いたいと願う心であり、悟りへと導きたいと願う心なのです。

迷いの中にある者を救いたいと願う心と悟りへと導きたいと願う心と人々の幸せを祈る心は、似ているようで違うのです。そこに落とし穴があるのです。自分は祈ることしか出来ないと考えるのであるならば、それは自分の心の中にある仏性を否定する考えとなるのです。しかし、私は他力の教えを否定しているのではありません。

他力の教えにおいては、自分を捨てて、阿弥陀如来にすべてを委ねることが大切であると説かれているはずです。小さな自分の自我を捨て去り、阿弥陀如来にすべてを委ねることこそが真の他力の境地なのです。しかし、多くの者はそれが出来ないのです。小さな自分の自我にとらわれたままで、阿弥陀如来に救いを求めているのです。

私たちからするならば、小さな自分の自我を捨て去るとは、自分の仏性を目覚めさせることなのです。小さな自分の枠にとらわれているならば、衆生の為に祈ることは出来ても衆生を救うことは出来ないのです。そのためには、迷いの中にある者を救いたいと願う心が大切であり、悟りへと導きたいと願うことが大切なのです。

○○寺 観音


少し解説しますと、このお言葉は供養を継続していても成仏が困難な心霊の対応に苦悩していた時期に降りたお言葉です。管理人は在家の人間ですので出来ることは限られています。その時に自分に何が出来るのかと疑問に感じていた時のお言葉ですが、内容を理解することは簡単ではありません。

神霊は「迷いの中にある者を救いたいと願う心と悟りへと導きたいと願う心と人々の幸せを祈る心は、似ているようで違うのです。」と説かれていますが、自分の心の中に「迷いの中にある者を救いたい」との気持ちが何処まであるかとなれば疑問なのに「迷いの中にある者を悟りへと導きたい」との気持ちを持つことは更に難しいと言えます。

しかし、菩薩の精神からするならば、自分が悟りを得ることよりも、迷いの中にある人を悟りへと導くことが大切とされていますので、神霊の説かれていることに間違いはありませんが、自分が悟ってもいないのにと少しばかり戸惑います。

ただ、仏教における救いとは、悟りであり、心の平静であることを忘れてはならないと説かれたいのではないかと思います。
 

苦悩の海に沈み、絶望で心が固まっている者の心を開くのは、仏であっても容易ではありません。大切なのは慈悲の心なのです。苦悩の海に沈み、絶望で心が固まっている者は、自分の世界に閉じこもり、周囲が全く見えていないのです。そのため、自分が周囲にどれだけ大きな迷惑を掛け続けているのかに気付くこともありません。苦悩する者にとっては自分がすべであり、周囲のことなど考えられなくなっているのです。

あなたを苦しめている者もあなたを苦しめている自覚もありません。あなたを苦しめている者は、自分の孤独感と絶望感、そして強い猜疑心から耳を塞ぎ、目を覆っているのと同じなのです。しかし、本人にはその自覚もないのです。本人は、周囲の状況を見ているつもりでも、何も見ていないのと同じであり、本人は周囲の者の話を聞いているつもりでも、何も聞いていないのと同じなのです。その意味で時間が止まっているのです。

○○寺 観音


これは生きている人間でも同じではないかと思います。苦悩の最中(さなか)にあれば、周囲の状況を冷静に判断できるはずもなく、猜疑心から周囲の人間の言葉を素直に聞き入れないことは多いのではないでしょうか。これは心霊世界でも同じであり、神仏の働きかけがあっても、その声が迷っている心霊に届かないことは多いようです。

蛇足ながら他力門の教えは、極楽浄土に往生することを目的としていますので、本来ならば「他力と往生」とすべきなのでしょうが、他力の教えですべての心霊が救われると思われませんので、「他力と成仏」との題名にしました。

at 12:03, 星 良謙・子授け地蔵, 神仏の御言葉

comments(0), -, pookmark

他力と成仏2(星)

せっかくペナントレースが始まっても中日ドラゴンズは開幕3連敗と絶不調・・・・
開幕前から順位予想の多くは下位と言うこともあり、あまり期待はしておりませんでしたが、3連敗とは・・・

あたふた (((^^;)(;^^) ))あたふた

しかし、先週は巨人・広島を相手に6連勝・・・

ルンルン♪~♪ d(⌒o⌒)b ♪~♪ルンルン

少しは期待・・・オネガイ ( ><)//

それはさておき・・・・

今回は「霊界通信 南無阿弥陀仏」から浄土真宗の神霊のお言葉をご紹介させて頂きます。
 

当然であると考えていたことが、当然ではないと知る時に、初めて生かされている自分を知るのです。農民が、野菜を育てたと言ったところで、それは野菜が育つのを手助けしたにすぎないのです。無から有を創り出したのではありません。太陽の恵みがなくては野菜は育たないのです。たとえ、工場で育てたとしても、自然の恵みと全く無関係に、すべてを創り出すことなど出来ないのです。

人間が、どんなに自分の力を誇ったところで、創造主ではないのです。ただ自然の恵みを利用して、新たなる価値を生み出しているにすぎないのです。すべての材料は仏より与えられているのです。その与えられた材料の中で生きているのです。仏のつくられた箱庭の中に生きている、そのことを知らねばなりません。

学校の先生が、時には生徒をしかることもあるでしょう。しかし、先生は許すことを前提に、しかっているのではないのですか。絶対に、こいつだけは許さないという気持ちでしかっているのでしょうか。親が子供をしかる時には、許すことを前提にしかるのではないですか。先生が生徒を、親が子供を殺すことがあれば、人々はどのように言うでしょうか。

語るまでもないことではありませんか。ならば、肉体を持つ現世に生きる者には、考えることも出来ない程の深い慈悲を持つ仏であるならば、いかに考えるでしょうか。

自分の手に持てる程度の物差しで、日本の国土を測り続けても、一生かかったとしても、測りきれるものではないでしょう。ならば、どうして、仏の慈悲を自分の心の物差しで測ろうとするのでしょうか。生きとし生ける者すべてを救おうとする決意を持って、日々、精進したとしても、一生かかっても、とても足元にすらおよぶことなど出来ない存在なのです。

皆、自分の物差しで測ろうとするから理解出来なくなってしまうのです。子供が二人、富士の山の前に立って、わたしはお前より背が高いと言ってみたところで、富士の山から見れば、どれほどの差があるでしょうか。それが仏の目から見た人間の姿です。

自分は、あいつよりも陰徳をこれだけ積んでいるのだから、あいつよりも尊いと言えるのでしょうか。あいつは、毎日怒ってばかりいるから、地獄に落ちて当然だと言えるのでしょうか。

それは、富士山の前で背の高さをくらべているのと同じなのです。仏の前では、その差などないも同じなのです。人は他人との比較で、自分の存在の評価を求めます。しかし、仏を知る者には、その評価などは、さしたる意味はないのです。

幼稚園児であっても、優秀な子供もいれば愚鈍な子供もいるでしょう。だからといって、大人から見れば、その差はどれだけの差でしょうか。あなたの感じる差などは、子供同士の言い争いにしかすぎないのです。

皆、守られているのです。幼稚園という塀に囲まれた建物の中にいることを忘れているのです。子供の目で世の中を見ているから、わからないのです。

背伸びをして大人の目で見ることは出来ませんが、上を向くことは出来るのです。そうすれば、太陽のように、わたしたちを、日々、守っていてくださる仏に気付くことが出来ます。



他力の信仰において自分の罪深さを知ることは重要なことですが、もう一つ重要なことが阿弥陀仏の偉大さを知ると言うことではないかと思います。以前のことですが、知り合いと話をしていた際に阿弥陀仏を偉大な存在と考えることができるかどうかが他力の信仰において非常に重要ではないかと感じました。

神だ、仏だとっても多くの人は、生きている人間の延長上に神仏を考えているのではないかと思います。これは他力の信仰に限られた話ではありませんが、神仏を等身大で考えるならば、神仏の心を知ることは限りなく難しいのではないかと思います。勿論、自分が神仏の心を何処まで分かっているかとなれば、自分にも分かりませんが、少なくとも分かっていることよりも分からないことの方が遥かに多いことは分かっています。

これは教えを学ぶことで知的に理解して分かることではなく、念仏三昧の日々を過ごしたならば、分かることかることなのかもしれませんが、禅の悟りと同じで、気付きのようなものではないかと思います。そのため、言葉で説明しようとしても限界があり、言葉で説明すればするほど、分からなくなってしまうもどかしさを感じています。

at 09:17, 星 良謙・子授け地蔵, 読者からの質問

comments(2), -, pookmark

他力と成仏1(星)

fumi様と龍様、コメント有難う御座います。

今回は龍様からご依頼のありました、前回の自動書記の内容の解説をさせて頂きます。

さて、読者の方が疑問を持たれたのは、迷っている心霊が念仏を称えても、阿弥陀仏の慈悲に救われなかったのかと言うことではないかと思います。管理人が他力の僧侶であったならば、このような内容の自動書記をご紹介するのは、自殺行為とも言えます。他力の教えは、念仏を称えることで極楽往生が出来ることが前提であり、念仏を称えても極楽往生出来ないとなれば、他力の教えが否定されたのと同じことになります。

そのため、どのような解説が良いのかと悩ましたが、この問題は、自動書記が始まった当時に自分でも抱いた疑問であり、浄土宗の神霊にお聞きした疑問でした。神霊からのお答えは、管理人の著書「霊界通信 南無阿弥陀仏」の中でご紹介していますので、少し引用させて頂きます。

 

あなたの言いたいことはわかる。念仏を称えながらも、念仏の心を理解する者が少ないではないか。あるいは、念仏を称えながらも、自分の生活を改める心がなければ、何のための念仏なのか。そのことを否定しようとは思わない。念仏とは許しの教えでもあるのだ。罪深き者、悟りに生きることがむずかしい者に対する、救いの教えである以上、それはさけて通れない問題でもある。

どれだけ、わたしたちが許しの気持ちを持っていても、自分の罪の自覚のない者に許しを与えることは出来ないのも確かなことだ。

言い訳としか聞こえないかもしれないが、まず、許されることが前提の教えがあってもよいとは考えられないだろうか。人は罪なくしては生きられないのだ。生きている限りは罪を犯すのだ。

神仏は許しの存在でもある。許しを乞えば、いつでも許して下さる存在なのだ。まして、弥陀は、他の仏が見捨てる程の罪深い者であっても、許すと言われている。(阿弥陀仏とは、生きとし生けるものを支える力であり、智恵であり、慈悲であると考えられるが、阿弥陀仏は、浄土門の所依『しょえ』の教典の中心になっている仏で、一切の差別を超えて、すべての衆生を救おうという誓願をもつと考えられている。)だから私は、まず許しを説いたのだ。

あなたがたは、すでに許されているのですと言いたかったのだ。自分を苦しめてはならない、自分の罪の意識に苦しまなくてもよいのだと、言いたかったのだ。多くの者は自分の罪の重さに苦しんでいる。だから、自分の罪を認められない。そして他人の罪も許せない。

罪が許されていると信じることが出来るならば、自分の罪を認めることも出来る。あなたの罪は許されている。それが弥陀の誓願でもある。許された自分がそこにある。

仏は許されている。彼らに、あなたがたはすでに許された存在なのだと教えてあげたいのだ。現実には地獄に落ちる者たちはいる。それは事実だ。しかし、彼らとて許されているのだ。彼らは自分たちが許されていることを認めないのだ。


これは言葉の遊びではない。彼らは自分が悪いことをしたとは思っていないのだ。だから自分は許される必要などないと言っているのだ。

だから、まず、あなたは許されているのだと言いたい。だから、もっと素直に自分のおろかさを認め、ひたすらに弥陀にすがりなさいと、さとしたいのだ。

皆、本当は、心の奥底で苦しんでいる。それは自分が許されない存在であると思っているからだ。その苦しみが自分の心に闇をつくっている。彼らは、そのことに気付いていない。


最初から悪人として生まれる者などいない。しかし、人間は罪なくして生きることは不可能だ。母親の腕にいだかれた幼な子のように、常に母親の愛にいだかれていることを知る者は、常に心安らぎ、安心して眠ることも出来るはずだ。しかし、多くの者は、いつも母親が見守っていてくれることを忘れてしまう。自分が興味を持ったおもちゃで遊ぶうちに、母親の姿をみうしなってしまう。そして泣き叫んでいるのだ。

だから、わたしは母親の存在を教えてあげているのだ。安心しなさい。おかあさんは、ここにいるではありませんか、と、言っているのだ。

いたずらをして、転ぶ子供もいるかもしれない。しかし、母親は、時にはただ黙って見守ることもある。それは決して子供を見捨てたのではない。子供が自分で立ち上がることを覚えさせる必要があるからだ。しかし、子供にはそれがわからない。自分は親から見捨てられたとしか考えない。しかし、親は子供が立ち上がるのを待っているのだ。

わたしたちは、立ち上がりなさい、母親はあなたのそばにいるではないか、あなたには、涙で見えないかもしれないが、あなたのそばにいるではないか、と言っているのだ。

わたしは、仏を母親とたとえたが、しかし、仏と人間の関係は、母親と子供との関係ではない。仏はあまりにも偉大すぎて、他にたとえることが出来ないのだ。空を見たことのない者に、空の広さをどうやって教えるか。海を見たことのない者に、海の大きさをどう教えるか。

仏とは、それほど偉大な存在なのだ。
仏はすべての者を救おうとする慈悲の存在だ。わたしたちには、その心のすべてがわかるわけではない。しかし、その慈悲の心は伝わってくるのだ。

おわかりになるだろうか。その慈悲の心を知ったならば、その心を伝えたいと思うわたしたちの心が それがわたしたちの悟りでもある。


長い話から一部を抜粋していますので、読者の方の疑問に必ずしもお答え出来ていないかもしれませんが、浄土宗の神霊のお考えを要約しますと、念仏を称えるとは、阿弥陀仏に許しを求めることであり、念仏を称えても成仏できないとは、阿弥陀仏に許されていることを実感できないことであると説かれています。

では、どうして念仏を称えながらも、阿弥陀仏に救われないかとの問いに対する神霊の答えは、迷っている心霊が自分の罪を認めないことが原因であると説かれています。つまり念仏を称えながらも成仏できない理由は、阿弥陀仏に救いを求めながらも自分の罪を認めることが出来ないからであると説かれています。

自分の罪を認めていると言いながらも内心では、自分だけが悪いのではない、本当は自分は被害者なのだとの気持ちは、言い換えれば、自分は神仏に許される必要がないと考えていると言えますが、神霊はその原因を恐怖心であると考えていると思われます。つまり、自分は神仏から咎められるのではないかとの恐怖心があるから、自分は悪くないとの言い訳の心が生まれるとのお考えです。

神霊は、繰り返し阿弥陀仏の慈悲深さを説き、あなた方は既に阿弥陀仏に許されているのだと説かれていますが、これは神仏に咎められるのではないかとの恐怖心を消し去ることが目的です。神仏に咎められるのではないかとの恐怖心が消え去ったならば、阿弥陀仏の慈悲を実感することも可能となり、極楽往生も可能となると神霊は説かれたいのだと思われます。

次回は、「霊界通信 南無阿弥陀仏」より浄土真宗の神霊のお言葉をご紹介させて頂きたいと思います。

at 12:32, 星 良謙・子授け地蔵, 読者からの質問

comments(2), -, pookmark