転落した行者の霊8(星)
このところ、投稿が出来ないでおりました。
その原因の一つが今回取り上げたテーマについて何処まで書くべきかとの悩みです。
世の中にはあまりにも怪しげな話が多いことから管理人が分かる範囲で書き残しておきたいと思うのですが・・・
安易に書きますと、弊害の方が大きくなってしまうのではないかと危惧しています。
例えば、護符の書き方の本は数多く出回っていますし、コピーして使える護符の本も少なくありません。
それらの本の全てが偽物であり、何の効果もないとは言いませんが、本当に効果のある護符は非常に限られます。
本来は護符を作成するためには、煩雑な手続きが必要であるとされています。
しかし、素人が護符を作成するための手順を知ることだけても困難であることから道士にお願いする方が現実的ですが、道士が作成された護符となりますと安くはありません。
結論としては、素人が書いた護符にご利益がある可能性は低いことから護符に頼ることよりも神社仏閣で御守りを求められることをお勧めすることになりますが、本当に修業された道士の方が作成された護符は本の付録のような護符であっても力を感じます。そのため、本当の事を書くと逆に読者を混乱させてしまうことになります。
う・・ん、何とも厄介な話なのです。
そんな悩みを抱えながらの投稿となります。
さて、転落した行者の霊の対策をしていて色情因縁との関連性が強いのではないかと思うようになりました。言葉として他に適当な言葉がありませんので、色情因縁との言葉を使用していますが、個人的には俗に色情因縁とは堕落した人生を生きた不成仏霊が起こしている障りではないかと考えています。考えてみますと、厳しい修業しながらも行者が転落したした理由として考えられるのは、自分が特別な存在であるとの傲慢さや思い上がりからの転落と酒や女に溺れたことからの転落ではないかと思われます。
行者に限らず、指導的な立場に立つ人間は、自分が特別な存在であると錯覚しやすくなります。これは経営者でも同じであり、急成長を成し遂げた経営者や一代で会社を成長企業にまで育てた経営者は、その実績から自分の能力を過信しやすく、傲慢や思い上がりに陥りやすいと言えます。
また、教師など指導的な立場にある職業も傲慢や思い上がりに陥りやすいと言えます。蛇足ながら占い師も人を指導する立場にあることから傲慢や思い上がりに陥りやすい職業であると言えます。勿論、これらの職業をされている人々がすべて傲慢であり、思い上がっているとは言えませんが、少なくとも常に自戒していませんと転落しやすい職業であると言えます。
慢心するとどうなるかと考えますと、自分は特別な存在であると思いあがった気持ちが強くなります。自分は特別な存在であるとの気持ちが強くなりますと、自分の考えに間違いがあるはずもないと考えるようになり、他の人間は自分の考えに従って当然であるとの考えに陥り、批判を許さなくなるようになります。このようになりますと、前回取り上げたました支配欲や権力欲に取りつかれるようになりますが、この次の段階が酒や女となります。
これは修行者においても同じです。修行者の場合には、飲酒や異性との交わりは禁じられている場合が大半ですが、自分は特別であるとの意識が強くなれば、自分は戒律を守る必要がないと考えるようになります。こうなると修業の道から完全に逸脱してしまうのですが、自分は特別な存在であるとの気持ちが強いと、歯止めが利かなくなるようです。悲しい話ではありますが、これはどの宗旨でも昔からある話であり、出家した当初は悟りを求める強い気持ちを持ち、高い理想を追い求めていても、慢心から転落する僧侶は少なくないようです。
管理人からするならば、どうして血のにじむような厳しい修業をされた方が転落するのか不思議でしたが、荒行と悟りは必ずしも一致していないのではないかと思うようになりました。勿論、荒行の価値を否定する気持ちはありませんが、高い悟りを求める気持ちが欠落しているならば、厳しい修業を積んでもスポーツで体を鍛えているのと同じことでしかないのではないかと思うようになりました。
例えば、一流のプロ野球選手は一般の人間にはとても出来ないような激しい練習をしているだけでなく、体調管理にも充分に気を使っていますが、プロ野球選手として一流であったとしても人格者とは限りません。賭博や暴力行為などの反社会的な行為をして犯罪者となる選手もいれば、不倫などで騒がれる選手もいます。そのため、修業においては精神性を高めるための修業が不可欠であり、肉体を虐めぬくような厳しい修業だけでは、高い悟りを得ることは困難であると思われます。しかし、厳しい修業に耐えるには、強い精神力や忍耐力が不可欠であり、修業に耐える過程で精神力や忍耐力も鍛えられるのではないかとも考えられます。
そのため、厳しい修業をしながらも転落した行者に何が欠けていたのかを考えますと、克己心や自制心ではないかと考えるようになりました。克己心は何かと言えば、自分に打ち克つ力であり、自分の欲望を抑えることであると言えます。勿論、厳しい修業の過程で克己心や自制心も鍛えられるはずなのです。しかし、現実には、慢心から転落する行者がいる理由を更に考えますと、環境の違いではないかと考えます。お寺と言う社会から隔離された閉鎖的な空間の中では、真摯に神仏と向き合うことが出来るとしても、誘惑の多い俗世間の中では転落する可能性が非常に高くなるのではないかと思われます。
以前に聞いた話ですが、臨済宗ではお寺の中で悟りを得た弟子に対して慢心しないように厳しく指導するそうです。これはお寺と言う閉鎖的な空間の中で得られた悟りは、実社会では通用しないことが多く、社会常識を身に着けさせることで慢心しないように指導するとの話でした。また、同じような話ですが、お寺で泊まり込みで念仏三昧の生活することで、鬼のような顔つきの方が仏のような穏やかな顔になった方が数多くいたそうです。しかし、そんな方々も家に帰り、以前の生活に戻ると苦悩に満ちた顔つきに戻ってしまう方が多いと聞いたことがあります。
それだけ、世俗は誘惑も多く、転落しやすいと言えますが、慢心から自分は特別な存在であると考えるようになりますと、自分に甘くなり、酒や女に溺れることになると思われます。その結果が生前に厳しい修業をしながらも転落したと思われますが、自分は特別な存在であるとの増上慢な気持ちがあるだけでなく、念が強く、教学や術に精通しているだけに厄介となります。力で抑え込もうとしても余程の修業された僧侶の祈祷でもなければ、抑え込めない事も少なくありません。
そのため、転落した行者の対策は、力技ではなく、心理戦が中心となります。心構えとしては、翻弄されないこと、焦らないこと、あきらめないことが大切となりますが、具体的な対応としては障りを起こしている不成仏霊の正体を知り、不成仏霊の目的を見極めることから始まります。これは相手が強い力を持つ不成仏霊であればあるほど詳細な情報が必要となります。勿論、一般の方に不成仏霊の正体を見極めろと言うのは無理な話ですが、霊障鑑定や霊視だけで相手の正体を見抜くことも難しいと言えます。
通常は過去の宗教遍歴や親族やご先祖に新興宗教に入信されていた方がいないか、霊能者や拝み屋を頼っていた方はいないかに始まり、手掛かりになりそうなことをあれこれお尋ねすることがあります。最終的には、易で確認することは多いのですが、正体が分かってみると依頼者は、過去の経緯が納得出来ることが出来たり、自分の心の中にあった疑問が解ける経験をされたりすることが多いようです。
対策としては、供養や祈願祈祷が中心となりますが、場合によっては少し怪しげな方法を使用することがあります。少し怪しげな方法ではありますが、不成仏霊の心理を利用します。いつも書いていることではありますが、心霊と言っても考えることは生きている人間と同じてあり、生前の意識のまま止まっている場合が大半です。そのため、不成仏霊が何にこだわり、何をしようとしているのかを知ることが出来るならば、解決策が見つかることが少なくありません。
方法論だけが独り歩きすると困りますので、ブログでは具体的な方法を公開することは出来ませんが、深刻な行者の障りがある場合には、詳しい対策をご紹介させて頂いています。ただ、少しだけ書きますと、生きている人間でも問題を起こしている人間がいれば、相手の性格に応じて対応するのと同じであるように不成仏霊も対応策が変わると言うことです。
星
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at 08:20, 星 良謙・子授け地蔵, 霊障
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