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土偶の神霊のお言葉(星)

今回は、縄文時代の神霊と思われる方からのお言葉を紹介します。神道が成立する以前の精霊信仰の時代を生きた神霊と思われる方のお言葉であり、現代人の感覚からしますと理解することが難しいとも言えますが、信仰の原点とも言える内容ではないかと思います。


呪術とは何か知っていますか。しかし、呪術について語る前に神や精霊の存在について語らなければなりません。今の世の中では笑い話と考える人も多いと思いますが、私たちが生きていた時代には、神の存在や精霊が存在することは常識であり、誰も疑う事はありませんでした。しかし、今の時代の人々は神の存在や精霊の存在を迷信と切り捨ててしまうことが科学的な考えであり、神の存在や精霊を否定することが文明であると考えているのではないでしょうか。

また、あなた方が江戸時代と呼んでいる時代よりも前には、神の存在や精霊を信じている人々は数多くと言えますが、神とは何か、精霊とは何かを知っている人々は少なく、呪術とは何かを知っている人々は更に少ないと言えるのではないでしょうか。私たちからするならば神や精霊について知らぬ者が呪術について語ることは、それは冬の寒さを知らぬ者が雪や氷について語っているのと同じであり、何の意味もないと思います。

見えない世界の存在を信じることもなく、目に見える物だけを信じることしかできない者には呪術だけでなく、祈りすらも無意味な行為としか思わないでしょう。そしてその者たちにとっては、呪いや祈りも自分の心の持ち方次第であると考えるでしょう。しかし、目に見える物だけしか信じられない者たちは、何を信じているのでしょうか。

私たちには、目に見える物だけしか信じることがられない者たちは、自分の力だけを頼りにしか生きることができない不毛な人生を生きている者たちにしか見えないのです。神の存在を信じることもなく、精霊の存在を信じる事もできない者たちには、自然の息吹すら感じることができないのではないのかと思います。

目に見える物だけしか信じることができない者たちが見ているのは、物としての自然であり、自然の息吹ではあると思えません。しかし、大自然の本当の美しさとは、自然の息吹であり、自然の持つ生命力なのです。それを感じることができなければ、人間の英知を超えた神秘に触れることもできなければ、本当の感動も知らないのではないかと思います。

あなたは私が呪術について説くことを目的としながらもどうしてこのような話をしているのかと疑問を抱いているはずです。しかし、目に見えない物の存在を信じるとは単に神や精霊、死後の世界の存在を信じることではないのです。目に見えない物が存在することを信じるのではなく、人間の英知を超えた存在や自然の息吹を感じることなのです。

 


 

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at 20:25, 星 良謙・子授け地蔵, 神仏の御言葉

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二分法の考え方の危険性5(星)

意外と知られていないことですが、易の教科書として利用されている易経は、本来は儒教の聖典である四書五経の中の一冊です。四書五経とは、四書は、「大学」「中庸」「論語」「孟子」、五経は、「詩経」「書経」「礼記」「易 経」「春秋」となります。

 

詳しくは こちらから 中国まるごと百科事典

 

最初に易の本を読んだのはいつだったかは明確に覚えてはいませんが、今から30年以上前の話です。当時は占いとしての易にし興味もありませんでしたし、その思想的な背景にも興味もありませんでしたが、書かれている内容が非常に古臭い印象がありました。また、困難に遭遇したならばひたすら忍耐を説く内容にも少しばかり反発していました。

 

占いに関しては、中学時代に始めたトランプ占いが始まりであり、主にヨーロッパの占いを中心に勉強していましたので、易経にはあまり関心がありませんでした。しかし、ヨーロッパの占いでは方位術や風水と言った占いと言うよりも開運の術に近い分野の占いがないことから漠然と占い師になろうかと考え始めた頃から方位術や風水などの中国の占いを勉強しましたが、中国の占いを勉強しますと易経を深く知る必要がありました。

 

一般の方からますと少し意外に思われるかもしれませんが、占いは基礎的な鑑定方法を学んだら、占いの背景にある思想を学んだ方が理解が早くなります。逆に占いのテクニックばかりを勉強していても効率が悪くなります。勿論、中国の陰陽五行説にしても西洋の神秘思想にしても難解であり、その全貌を知るだけでも容易ではありませんが、概要を知るだけでも理解は早くなります。

 

話を戻しますと易経は道教でも重視されていますが、儒教の聖典であることから内容は儒教色が強い内容です。儒教とは何かを簡潔に要約することは難しいのですが、周王朝の政治を理想として、五常(仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することにより五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持することを説きます。簡単に書くと、君主に徳があれば、国は自然に治まり、世の中は平和になることを説き、家臣は君主に忠誠を誓うべきことが家臣としての道であることを説きます。

 

これは君主と家臣の関係だけでなく、親子関係、夫婦関係にも適用され、子供は親に従い、妻は夫に従うべきとの封建主義体制を維持するためには非常に都合の良い教えでもあります。そのため、日本でも幕府が儒教を推薦した歴史があります。しかし、儒教には欠点もあります。それが人間関係を上下関係で定義することです。

 

この考えには、目上の者は敬えの考え方が根底にあります。忠孝の説くを説くことは悪いことではありませんが、上の者が徳を積む気がなければ、地位に安住して目下の者に際限のない要求をすることになります。勿論、上に立つ者は、自分の徳を積むことで尊敬されるべきことは説かれていますが、安易に解釈するならば、目上の者は尊敬されるべきであるとの考え方に陥りやすくなります。これの弊害が更に強くなりますと、自分は何をしても許されるとの考え方となります。

 

勿論、易を占いとして利用する場合には、儒教の考え方で答えを導くことはありませんので、人生の指針として参考にする場合と少し異なります。しかし、基本的には儒教の一派である朱子学の解釈を採用していますので、影響は避けられないかとは思います。易経に書かれた言葉は短いだけでなく、ある程度の専門知識がないと意味不明となります。

 

具体例

天風姤 初爻変

鉄製の車止めにしっかりと繋ぎとめる。貞正で吉である。勝手に先へ進ませるならば、凶になる。やせ細った豚はぴょんぴょん跳ね回ってじっとしておらず、ほっておけば終わりには手におえなくなる。

 

天風姤は一陰の上に五陽が重なっています。易では陰は女性を表し、陽は男性を表しています。そのため、一人の女性が5人の男を相手にしている状況を表しているとされています。そして初爻変は5人の男を相手にしている女性を表すと解釈します。


「鉄製の車止めにしっかりと繋ぎとめる。貞正で吉である。」とは、小人の勢いが強いことからこれ以上勢いが強くならないように貞正を守らせるべきことを表します。


「勝手に先へ進ませるならば、凶になる。」とは、小人の勢いが強くなるならば凶となるとこを表します。


「やせ細った豚はぴょんぴょん跳ね回ってじっとしておらず、ほっておけば終わりには手におえなくなる。」とは、放置していれば、ついには大害を起こすことから、しっかり備えをすべきことを表します。

 

まとめますと大勢の男を手玉に取るような女は駄目だと言う時点で、封建的な思想とも言えますが、占いの場合には自分や自分の周囲の人間を利用しようと下心を持って近付く者がいるから用心しろとの警告と解釈します。そのため、易経の説く吉凶はすべて儒教の教えの観点からの吉凶となります。

 

話を戻しますと、滅私奉公の奨励と言った時代遅れても言うべき考え方や権力を持つ者は何をしても許されると言った考えに陥る危険性が高いと言えます。そのため、儒教は優れた教えではあっても欠点もあると言えるのではないかと思います。

 

蛇足ながら儒教の強い影響を受けている国から盛んに日本叩きがなされていますが、根底には儒教の弊害があるようです。特に儒教の強い影響を受けている国の大統領は大変なことになっているような・・・・

 

また、日本叩きをしている理由も儒教の本家が親であり、どこかの国は自分たちが兄、そして日本は弟との認識があるようです。そのため、弟は兄の言うことに黙って従えば良いのだとの意識だとの話もあるようです。

 

 

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at 23:05, 星 良謙・子授け地蔵, 心の健康

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二分法の考え方の危険性4(星)

 スーパーの売り場は既にクリスマスの飾りつけが・・・・・

暫く前のハロウィンよりは良いのですが、一年が早いと言うか、少しばかり焦らされている気がします。

 

蛇足ながらハロウィンのお祭りは好きになれないと言うよりも頼むから止めてくれと言った気分です。

売り上げが伸びるならば何でも利用しようとする魂胆が見え見えと言った気分です。

それよりも日本の伝統的な文化を大事にしてくれと言いたいのですが、日本の伝統的な文化は忘れ去られてしまっている気がします。

 

冬至のかぼちゃや柚子湯もすっかり忘れ去られているような気が・・・・

 

それはさておき・・・・

 

白か、黒かの二者択一の考え方は、差別主義の根幹ではないかと思う事があります。二者択一型の考え方は、正しいか、間違いか、正義か、悪か、の考え方であり、そこには多様性を認める考えはありません。現実の社会では、正しいか、間違いか、正義か、悪かと分けることができない問題は数多くあります。

 

確かに善か、悪か、正しいか、間違いかで考えることは多いのですが、個人的には善か、悪か、と言った考え方はあまりしていません。その原点を考えますと大学時代まで遡ることができるのではないかと思います。大学時代は美術部で油絵を描いていました。文科系の倶楽部と言いますと仲良しグループの印象を持つ方も多いのではないかと思いますが、雰囲気は体育会系の少しばかり変わった倶楽部でした。今はアニメが全盛であり、絵をかく人間も昔に比べますと大幅に増えている気がしますが、当時は少数派でした。それが原因かどうかは分かりませんが、良く言えば個性が強い人間の集まりでした。

 

集団生活と言った意味では、上下関係が厳しい倶楽部ではありましたが、絵画技術に関しては厳しい指導はありましたが、技法や表現方法に関しては自由でした。具象画であろうが、抽象画であろうが、静物画であろうが、風景画であろうが、人物画であろうが基本的にテーマは自由であり、技法に関しても自由でした。そこには価値観の多様性がありました。また、先輩から後輩を指導する際の注意として特定の表現を押し付けるべきではなく、本質的なことだけを指導しろと言われました。絵画の世界においては正解は一つではありません。正解は無数にあると考えることもできる世界です。

 

そのため、どのような表現方法を選ぶかは本人が決めることであり、他人が決めることではありません。つまり多様な価値観を認めた上で指導なければ、その絵の良さを殺すことになります。また、働き始めてからは主に営業の世界にいたことも大きいかも知れません。営業の世界も正解は一つではなく、人によって営業の方法は異なります。ある人が成功した方法でも別の人がやって失敗することもあります。管理職は夜討ち朝駆けの高度成長期の営業方法を言うばかりでしたが、既に時代遅れであるといつも思っていました。そのため、最終的には自分のスタイルの営業を模索しなければなりませんでした。

 

しかし、その真逆が宗教の世界ではないかと思います。宗教においては、教えに忠実なことが求められます。そのことが本来は寛容と慈悲を説くはずの宗教が排他的な考え方になるのではないかと思われます。今でも一部の宗旨では、神社への参杯は禁じられていたり、他の宗旨のお寺への参拝が禁じられていたりします。個人的には、これも宗教は寛容性を失うと弊害が目立つようになるのではないかと考えています。

 

話の趣旨は少し異なりますが、以前からご紹介したかった話をご紹介します。隠れキリシタンについて調べていたところ、日本に来た宣教師が日本人女性を奴隷として売っていたとの記事を見つけました。

 

日本の歴史教科書はキリシタンが日本の娘を50万人も海外に奴隷として売った事は教えないのはなぜか?

詳しくは こちらから

この記事の中で宣教師が日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいていたとの話を紹介しているだけでなく、高山右近、大友宗瞬などキリシタン大名が神杜仏閣の破壊、焼却をしていたとの話が紹介されています。

 

念のために検索してみましたが、1560年代以降、イエズス会の宣教師たちは、ポルトガル商人による奴隷貿易が日本におけるキリスト教宣教の妨げになりると考えたていたようです。そしてポルトガル国王に日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を求めており、1571年には当時の王セバスティアン1世から日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布させることに成功しています。また、1596年(慶長元年)、長崎に着任したイエズス会司教ペドロ・マルティンスは、奴隷貿易に関係するキリシタンがいれば、例外なく破門すると通達していることから当時の宣教師が積極的に奴隷貿易に加担していたとは言えないようです。

 

しかし、秀吉が日本人が奴隷として売買されていることに激怒して1587年(天正15年)にバテレン追放令を発布しています。結論としては、一部の宣教師の行為であったのではないかと思われますが、一部ではあっても聖職者が奴隷貿易に加担していたとは驚かされました。

 

日本人女性を奴隷として売買することに罪悪感はなかったのかと疑問を感じますが、異教徒を人間扱いしていなかったのではないかと思えてしまいます。また、高山右近、大友宗瞬などキリシタン大名が神杜仏閣の破壊、焼却をしていたとするならば、当時のキリスト教徒は非常に排他的な考えであり、仏教や神道を信仰している日本人は、悪魔手先としか考えていなかったのではないかと思えてしまいます。

 

悪魔の手先であるならば、人間扱いする必要もなく、家畜同然に扱って何が悪いとの話となります。勿論、これは推論であり、奴隷貿易に加担した宣教師や奴隷商人の考えは分かりませんが、異教徒や有色人種に対して激しい差別意識がなければ、一部であっても宣教師が人身売買に加担するようなことはなかったのではないかと思われます。

 

自分たちの教えを信じない者は悪魔の手先と考えるべきではないと思いますが、根底にあるのは白か黒かの考え方ではないかとおもいます。この考え方は、敵か味方か、上か下かの考え方に陥りやすく、寛容さが欠落しています。つまり寛容さとは多様な価値観が前提にあるのではないかと思います。

 

 

ご相談は こちらから

at 16:27, 星 良謙・子授け地蔵, 心の健康

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二分法の考え方の危険性3(星)

前回の投稿では、占いの話から離れて書くつもりだったのですが、気付けば占いの話から離れていなかったような気が・・・・

 

(- .-)ヾ ポリポリ

 

と言うわけで、今回はUFOの話から入ってみたいと思います。

 

管理人はUFOの実在を信じるかと言われても答えに困ります。可能性としてはゼロではないとしても信用できるだけの証拠も見たことがありませんので、基本的には信じていないと言うべき立場に近いのかもしれません。しかし、UFOや宇宙人の話を考える場合に信じるか、信じないかの二者択一の質問には無理があるのではないかと思います。

 

まず、UFOと言いますと、一般的には空飛ぶ円盤のことを意味していますが、正確には未確認飛行物体(みかくにんひこうぶったい、英: unidentified flying object、UFO)とは、何であるか確認されていない飛行する物体のことであり、空飛ぶ円盤のことではありません。そのため、未確認飛行物体の正体が風船か、気球か、どこかの国のミサイルかは別にして確認できない飛行物体ならばUFOとなります。

 

しかし、空飛ぶ円盤が実在しているかとなりますと話は別となります。一般的に空飛ぶ円盤は、地球外生命体が操縦する宇宙船とされていることが多いようですが、空飛ぶ円盤が実在しているかを論ずるのであるならば、幾つかの問題を整理する必要があります。

 

宇宙人が地球に来ているかの疑問には下記の疑問があります。

 

1 地球以外の星に生命体はいるのか?

2 その生命体は高度な知性を持つのか?

3 その生命体は高度な科学技術を持つのか?

4 その生命体は地球の科学力を凌駕しいるのか?

5 その生命体は宇宙旅行をする技術を持つのか?

6 その生命体は地球に来ているのか?

 

「地球以外の星に生命体はいるのか?」に関しては、銀河系には、2000億個の星があると言われています。そして、宇宙には銀河が1000億個以上もあると考えられていますので、地球以外の星に生命体がいないと考えることには無理があると思います。同じ理由で2から5までも可能性は高いと言えます。逆に言えば、地球以外の星に高度な知性を持ち、宇宙区間を移動できる手段を持つ生命体がいないと考える方が無理な話ではないかと思います。

 

しかし、地球に宇宙人が来ているかとなりますと、疑問が残ります。宇宙人が地球に来ている証拠だとされている写真は数多くありますが、その多くは捏造写真であったり、気球などであったりと信用できない物が多いようです。また、UFOとされている写真や動画は、映像や画像の使用料が期待できることから捏造する人間は後を絶たないようです。そのため、もっともらしい写真や動画であるとしても信用できない可能性も高いと言えます。

 

UFOの写真や動画は信用できないとしても自分もUFOを見たと言われる方も少なくありません。飛行機にしては動きがおかしかったとか空中で止まっていたと思ったら考えらない動きをしたと言った話を聞いたことがあります。勿論、その方が嘘を付いているとは思いませんが、本来の意味での未確認飛行物体と言うべきと思われます。つまり飛行機や鳥とは明らかに違う動きをしていたとしも空飛ぶ円盤であるとは限らないと言えます。

 

UFO事件簿 UFOと誤認しやすいもの こちらから

 

しかし、UFOの実在を信じている方は、未確認飛行物体と空飛ぶ円盤を同一に考えているのではないかますが、あまりにも単純な発想ではないでしょうか。確かに地球に宇宙人が訪れている可能性は否定できません。その意味では空飛ぶ円盤が実在している可能性はありますが、自分には理解できない動きをする飛行物体を空飛ぶ円盤と考えることには問題があります。

 

世の中には、解明されていない謎は数多くあります。現代の科学で全ての謎が解明されているはずもなく、病気でも原因の分からない病気や治療法が確立されていない病気も数多くあります。管理人が仕事にしている占いにしてもどうして当たるのかは不明です。また移転や旅行などで運気を向上させる方位術もどうして効果があるのかの理由は不明です。似非科学の批判書では占いは迷信扱いされていますが、一定の技術を持つ占い師ならば、それなりの的中率はあります。また、方位術も何人かの方に試していただきましたが、限界はありますが、一定の効果はありました。

 

その意味では、科学にも限界があり、宇宙人が存在しているかどうかも現代の科学では、解明されていないことの一つですが、分からないことが、この世の中には数多くあると考えるへきではないでしょうか?

 

 

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at 16:15, 星 良謙・子授け地蔵, 心の健康

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二分法の考え方の危険性2(星)

いよいよ冬将軍の到来と言ったところでしょうか。

このところ、寒い日が続いています。

 

{{(>−<)}}サムイ・・・

 

インフルエンザが流行しているとか・・・・

 

健康には充分にご注意下さい。

 

それはさておき・・・

 

前回は占いの話を書きましたが、今回は占いを離れてお話をしたいと思いますが、前回の続きから話を進めさせて頂きます。前回は占いの際に陥りやすい間違いをお話させて頂きましたが、どうしてプロであるはずの占い師が間違いをするのかを考えてみたいとおもいます。勿論、占い師の勉強不足や経験不足があると思いますが、無意識に曖昧な判断を避けることがあるのではないかと思います。多くの方は、曖昧さを嫌い、何らかの結論を求めます。

 

Aであるか、Bであるかを断定することができない状況であるとしてもAなのか、Bなのか、はっきりとした明確な答えを求めようとします。特に占い師のように、その場で何らかの答えを出さなければならない立場では尚更と言えます。それが正解であるかどうかを別にしてAはBである、BはCであると考えるならば、話は明確となります。

 

例えば、タロット・カードのワンド4は、目的の到達や実現を表します。そこから様々な意味が生まれます。手元の解説書には、幸福、繁栄、交際、愛情、やすらぎ、平和、満足、労働の後の休息、個人的な関係、コミュニケーション、参加、旅行などの様々な意味を表すとされています。

 

以前のことですが、テレビである占い師がタレントの今後の人生を占っていた際にこのカードから結婚を予言しました。確かに幸福、繁栄、交際と言った意味はありますので、結婚の予言は不可能ではありませんが、かなり無理があります。専門的な解説となりますが、交際期間が長く、周囲も結婚して当然と言った雰囲気があれば、結婚の予言は可能ですが、常識的に考えれば、新しい出会いと言った解釈となります。

 

これと似たような話は多いのではないでしょうか。同僚のAさんは私にいつも優しくしてくれる、だからAさんは好意を持っているはずだと食事に誘ったところ、残念ながらAさんは職場の人間関係を良好に保つために優しく接していただけと笑うに笑えない話もありました。逆に同僚のAさんは私にいつも冷たい、だから私を嫌っていると思ってたら意識しすぎて、緊張から思うように話せなかっただけであり、好意を持っていたとの話もありました。

 

そのため、好きな人には優しく接することはが正しいとしても、優しく接してくれるからと言って好意を持ってくれているとは限らず、嫌いな人には冷たく接することが正しいとしても、冷たい態度で接するからと言って嫌いだとは限りません。しかし、多くの方は、優しく接してくれるから好意を持っているに違いないと考えることが多いようです。

 

では、どうして、安易に決めつけるかを考えますと、曖昧なままにしておくよりも、間違っていたとしても、答えを出すことの方が楽だからではないかと思われます。これに対して曖昧なままにしておきますと、いつまでも答えを出せない状態が続くことになります。この状態が続きますと、どちらだろうかとあれこれ悩むことになります。それよりは、自分なりに答えを出してしまった方が楽と言うことになります。

 

先ほどの占いの事例では、占い師としては、ワンド4を結婚と解釈した方が楽だったと思われます。結婚と解釈して話す方が、相談者は喜びますし、スタジオは盛り上がると良いことずくめであり、他の解釈を考えなくて済みます。但し、占い師としては無責任に感じますが・・・・

 

管理人は、このような状態であっても精神的な負担をあまり感じないことから人と違うのかなと思う事があります。答えを出すことが出来るだけの判断材料が揃わないならば、判断を保留することにしています。イメージとしては、棚の上にしまっておくような状態です。あれこれ考えてみたところで決め手がないのであるならば考えても仕方がないと考えます。判断材料が揃わない状態や確認ができない状態で考えても推論でしかありません。

 

推論でしかないならば、判断を保留しておくのが良いのではないかと思います。但し、判断を保留するここと現実逃避とは異なります。現実逃避をして問題を先送りにすることは、問題の解決を遅らせる結果となり、安易に決めつけるのと同じく弊害の方が大きくなります。判断を保留するとは、問題から目を背けるのではなく、問題の本質を見抜く為の作業です。つまり、色々な可能性を考えることができることから判断を保留するのであって、決断したくないから問題を先送りするのとは異なります。

 

逆に判断を保留するとは、まだ知らない問題が隠れている可能性を疑うことであり、黒か白かと単純に考えることや問題から逃げて先送りすることも精神的なストレスは大きくなりますが、よりよい人生を生きるためには大切なことではないかと思います。

 

 

ご相談は こちらから

at 19:11, 星 良謙・子授け地蔵, 心の健康

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二分法の考え方の危険性(星)

浄土真宗本願寺派と真宗高田派を除く、浄土真宗各派の本山で報恩講が開催されています。

 

浄土真宗本願寺派    西本願寺    1月9日〜16日
真宗大谷派    東本願寺    11月20日〜28日
真宗高田派    専修寺    1月9日〜16日 
真宗佛光寺派    佛光寺    11月21日〜28日
真宗興正派    興正寺    11月21日〜28日
真宗木辺派    錦織寺    11月21日〜28日
真宗出雲路派    毫摂寺    11月22日〜28日
真宗誠照寺派    誠照寺    11月21日〜28日
真宗三門徒派    専照寺    11月21日〜28日
真宗山元派    證誠寺    11月21日〜28日

 

残念ながらライブ中継はありませんが、真宗大谷派のHPで真宗本廟両堂等御修復完了奉告法要の動画がありました。

 

真宗本廟両堂等御修復完了奉告法要 こちらから

 

それはさておき・・・

 

占いの際に注意しなければならないことに先入観を持たないことがあります。先入観を持ちますと、無意識に自分の考えに沿うような解釈をする結果となります。そのため、できる限り心を白紙の状態にして鑑定結果を解釈するようにしています。また、もう一つ心掛けていることに安易に結論を導き出さないことがあります。しかし、これは占い師を仕事にする者にとっては両刃の剣となります。一般的に占い師は曖昧な回答をするよりも断定的な回答をする方が、お客様は占い師を信頼する傾向があります。

 

但し、これは鑑定が的中していることが前提であり、見当外れなことを言っていた場合には、お客様は内心で腹を抱えて笑っている場合があります。以前の事ですが、知り合いが友人と2人でショッピングモールに出店していた占い師の鑑定を受けられたそうです。ところがその内容がとんでもない見当はずれであり、友人の方は笑いをこらえるのに必死だったと笑っていました。

 

「あたたはどうにもならない人間だ。」「あなたは仕事を何回替わったのか?」「身内にもこれまでお金のことで迷惑をかけたはずた」と占い師は、断言されたらしいのですが、本当は複数の企業を経営しているやり手の経営者であり、資産家でもあります。その方は、いつもラフな格好をされているだけでなく、意識的に高級品は避けていることから占い師の方はお金に困っている中年男性と思い込んだのかもしれません。

 

個人的にも似たような経験は何度かしています。占い師なろうかと考えていた当時に営業トークの勉強もかねて何人かの占い師に鑑定してもらいましたが、こちらが聞きもしない事を「あなたは〇〇だ。」と延々と話されたのには閉口しました。別に聞いてもいないことをあれこれ言われても興味もありませんでしたし、こちらの質問にも見当はずれな内容が多かったことから、これで商売になるならば、何とかなりそうだと思ったことを記憶しています。

 

占いが当たるか、当たらないかは、占いの技術の未熟さと言ってしまえばそれまでですが、過去の経験では占いが外れる場合の多くが解釈の間違いです。これは易やカード、四柱推命、西洋占星術、手相などでも同じだと思います。過去に鑑定して頂いた占い師の多くは、こちらが「ちょっと違うのですが?」と言っても聞く耳を持たない方が大半でした。そのため、こちらの話と鑑定結果の矛盾に悩まないのかと疑問を抱きました。

 

どんな占いでも鑑定結果は常に抽象的です。特にタロットやトランプの場合には、1枚のカードには幾つかの意味があることから10枚とか、20枚と言ったカードを使用しますと、一見何の関連のないキーワードが並ぶことになります。その一見関連性のないキーワードの羅列から何を読み解くかが、占い師の技量となりますが、この時に先入観を持ってしまうと無意識にその先入観で答えを導き出してしまいます。

 

先入観を持たないようにしてカードの意味が矛盾なく解釈することができるならば、理想なのですが、解釈に悩む場合も少なくありません。その原因の多くが、こちらが予想していない事情が隠れている場合です。対面で鑑定させて頂いている場合などには、解釈に悩む場合には、事情をお聞きするように心掛けていますが、こちらが予想していない事情が隠れている場合が少なくなく、事情をお聞きして初めてカードが無理なく解釈できることも少なくありません。

 

以前のことですが、知り合いから会社の経営のことで相談を受けて鑑定した際に、「?」と思うカードが並びました。確かに仕事として解釈することはできますが、仕事のことと解釈するには無理があると感じました。そこで奥様が退席された後で、「お前もしかして不倫していないか?」と聞きました。すると知り合いは「実は・・・」と話し始めました。「それならそうと早く言え!」と言いましたが、依頼者はすべての事情を話して頂けるとは限らないことから占い師はあらゆる可能性を考えるべきと思います。また、依頼者も知らない事情が隠れている可能性も疑う必要があります。

 

このように書きますと占い師は実に因果な商売だと思いますが、次回はこの問題をもう少し掘り下げてみたいと思います。

 

 

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at 10:36, 星 良謙・子授け地蔵, 心の健康

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縁なき衆生は救い難し(星)

まだ、占い師と活動を始めた当時のことですが、飲食店を開業した友人から客足が伸びないと相談がありました。開業前から話は聞いていましたので、共通の友人と何度か顔を出していましたが、占い師としての相談にはその時が初めてでした。風水を調べたところ、少し問題がありましたので、対策を教えました。

 

対策を教え終わって雑談をしていたところ、「実は・・・」と言って厄介な話を切り出しました。友人の話では、常連のお客がこの店の数代前の店主が事故死した後からどの店も長続きすることなく、閉店したとの話でした。管理人は「それならそうと早く言え!」とと言いましたが、友人ですので改めて店舗を調べ直しました。

 

店舗内を調べましたところ、どうも階段付近で事故死された印象を受けました。そこで慰霊を兼ねて階段付近に小さな仏像をお祀りすることになりました。その仏像は、お母様が以前に旅先で求められた物でしたが、仏壇内にお祀りされていた物でしたが、ご自宅の宗旨とは、異なる宗旨の仏様であったことからお寺でお焚き上げをお勧めしていた物でしたが、仏像に宿られていた神霊がお祀りすればご加護を頂けるとのことでした。但し、厨子ではなくて良いから簡単な箱の中に収めて欲しいとのお言葉でした。

 

友人は快諾しましたが、1週間経っても2週間経っても忙しくて用意出来ないと一向に用意しませんでした。忠告はしましたが、忙しいからと言い訳を並べるばかりでした。そして1ヶ月を過ぎようかとしていた頃に仏像に宿られていた神霊が「縁なき衆生は度し難し」との言葉を残して帰られてしまいました。この友人は、お札をお祀りした翌日から売り上げが急激に伸びたなど、誰がどう考えてもご加護だろうと言いたくなるような結果を何度も経験しながらすべて偶然と考えていたと思われる言動を繰り返していましたので心配はしていたのですが、この件が致命傷となり、神仏のご加護を失いました。

 

「縁なき衆生は度し難し」を少し解説しますと、ここでいう「縁」とは仏縁のことであり、「度」とは悟りの彼岸に渡ることを意味しています。そのため、慈悲深い仏であっても、仏縁のない人は救えないと言った意味となります。一般的な意味としては、人の忠告を聞かない人は救いようがない、といった意味として使用される諺(ことわざ)です。

 

この諺(ことわざ)を少し調べましたところ仏教用語ではありませんでした。 江戸後期の国学者で仏教排斥運動の思想的背景の急先鋒の一人である平田篤胤の講義を 門人が筆記した 「出定笑語講本(しゅつじょうしょうご)のようです。日本では天台宗を中心に誰でも仏になれるとする天台本学思想が中心であり、仏縁がなければ救われないとの考えとは矛盾することから仏教の教えではないことは当然であると言えます。

 

しかし、仏教の教えの中に「縁なき衆生は度し難し」と同じような考え方がないかと言えばそうでもありません。ご存知ない方の方が多いのではないかと思いますが、断善根とか、一闡提(いちせんだい、いっせんだい)と言った言葉があります。この言葉は、仏教上における非道者を指す言葉で、成仏が不可能な者、あるいは仏性のない者とされています。

 

実はこれが暫く前の投稿記事の中で触れました法相宗の僧侶・徳一(生没年不明)と日本天台宗の祖・最澄(767年 - 822年)との間で行われた「三一権実諍論(さんいちごんじつ の そうろん)」の背景でもあります。法相宗の教えでは、成仏が不可能な者がいるとの立場であり、天台宗の最澄はすべての者が成仏できるとの立場で論争がありました。

 

これは現実論と理想論の論争とも言える話であり、どちらが正しいと言うべき話ではありませんが、すべての者が成仏できると言っても可能性があるだけであり、何もしなくても悟れる訳ではありません。そのため、悟ることができる可能性が限りなく低いならば、実質的に悟ることができないと言っているのと同じではないでしょうか。

 

どんな者でも悟ることができるとの立場で考えるならば、今世の人生で悟ることができなくても来世に悟ることができるかも知れない、来世に悟ることができなくとも来々世ならば悟ることができるかも知れないと何とも気の長い話が前提となります。そのため、悟りに至るには途方もない歳月が必要となることになります。

 

勿論、そんな長い歳月の修業など必要なく、浄土真宗のように1回の念仏を称えるだけで極楽往生が決まり、極楽に往生するならば、阿弥陀仏のお力で弥勒菩薩と同じ悟りを得ることができると説く教えなど、今世において悟りを得ることができると説く教えもありますが、悟りを得ることは簡単ではありません。

 

いずれにしても念仏を称える、真言やお題目を唱えるなどの簡単なことから始めなければ、救われることは難しいと言えます。冒頭にご紹介した友人もできることから始めていたならば、結果も違っていたのではないかと思いますが、それができなかったことから神霊のご加護を失う結果となったと思われます。

 

 

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at 12:39, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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思い込みと気遣い(星)

このところ、なるべく毎日投稿させて頂いていますが、もう少し短時間で内容をまとめられたらと考えております。

以前ならば、一時間程度で書いていましたが、最近は時間がかかっています。

 

鑑定のお問い合わせなどで日常的に文章を書いていますが、事務的に書くことと自由に書くのとでは微妙に異なります。

もう少し早く書けるようにと思ってはおりますが、これも慣れなのでしょうか?

 

それはさておき・・・・

 

暫く前のことですが、ラジオでフラッシュ・モブでプロポーズしようとしたところ、相手の女性が激怒して帰ってしまった場面に偶然居合わせた方の話をしていました。フラッシュ・モブが始まって間もなく、女性は帰ってしまったものの、ダンサーは踊り続け、最後に残された男性を取り囲んだそうです。それを見ていた男性の老人が「そんなこともある」と言われたと内容でした。

 

この話を取り上げようとネットで検索したところ、同じような失敗は何件かあるようです。ラジオで取り上げられていた話の女性は、大勢の人前で恥をかかされたと激怒されたようですが、気持ちは分かります。勿論、管理人がフラッシュ・モブをされる可能性は皆無ですが、間違ってもされたくはありません。

 

確かに女性の7割は、サプライズ的なプロポーズを期待しているとのアンケート結果があると聞いたことはありますが、逆に言えば残りの3割はサプライズ的なプロボースを望んでいないと考えることもできます。勿論、アンケートの問いでアンケート結果は変わりますし、アンケート結果の詳細も分かりませんので、断定的なことは書けませんが、少なくとも派手な演出のプロポーズが嫌いな女性がいることに間違いはないと思います。派手な演出のプロポーズよりも落ち着いた雰囲気の中で静かにプロポーズして欲しいと思う女性がいたとしても不思議ではなく、それを咎めることなどできないと思います。

 

もし、間違いがあるとするならば、男性の相手の女性が必ず喜んでくれるはずとの思い込みではないかと思います。お笑い芸人のレーザーラモンが誕生日のプレゼントをもらったときに嬉しくなくない物をもらっても喜ばなければならないことが苦痛になることから自分がお祝いを渡す際には、一律5000円の現金を渡していると話していていました。誕生日のお祝いに現金を渡すのは、どうなのかとは思いますが、言いたいことは分かる気がします。

 

随分前のことですが、友人が台湾のお土産として激辛の干し肉を持ってきたことがありました。個人的には激辛は苦手であり、そのことは知り合いも知っていたはずなのですが、辛いけどおいしいから持ってきたと言っていました。パッケージ越しにいかにも辛そうな印象を受けましたので食べる気にもなれず、もらい物なので捨てるのも申し訳ないことから会社に放置してあったとがありました。結局、食べることもなく人に貰って貰いましたが、何とも苦痛でした。

 

贈り物を選ぶには、単刀直入に相手に欲しい物を聞くのが一番無難ではありますが、ちょっとしたお祝いやお中元、お歳暮などですと気遣い無用と断られてしまうこともあり難しい問題です。しかし、相手への気遣いは大切ではないかと思います。冒頭に紹介したフラッシュ・モブでプロポーズしようとした男性にしても相手を喜ばせようと考えて時間とお金をかけて準備したと思われます。また、台湾のお土産を持ってきた友人にしても現地で買い求め、会社まで届けてくれたのですから気遣いはしていてくれたと思います。

 

しかし、フラッシュ・モブをされた女性は激怒し、管理人は貰ったお土産の扱いに困りました。両方に共通しているのは、相手の気持ちを無視した思い込みではないかと思います。海外旅行のお土産程度ならば笑って済ますこともできますが、人生の記念日ともなるプロポーズであるならば、もっと相手の気持ちを考えるべきではなかったかと思います。少なくとも相手が普段から派手なことを嫌う女性であったならば、論外であり、もっと別のプロポーズを考えるべきであったと言えます。

 

このようなことは日常生活や仕事でも多いのではないかと思います。ちょっと確認すれば済むことでも「〇〇は△△だから」と考えて行動して相手を不快にさせてしまうことは多いのではないでしょうか。ちょっとした確認作業ではありますが、思い込みで判断するよりは有益と思います。

 

 

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at 10:27, 星 良謙・子授け地蔵, 心の健康

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メンタリズムの罠(星)

評価:
ダレン・ブラウン,メンタリストDaiGo (訳者)
扶桑社
¥ 1,728
(2013-02-27)

暫く前のことですが、ダレン・ブラウン著の「メンタリズムの罠」を読みました。

アマゾンのレビューの評価には、ばらつきがありましたが、読んでみて評価が分かれる理由が分かりました。

まず、口述筆記でもしているのかと思う程、文章にまとまりがなく、思い付きのままに話が進みます。レビューには翻訳の不味さが指摘されていましたが、これは翻訳が悪いと言うよりも原書の文体に問題があるのではないかと感じました。

 

さて、本の内容はと言えば、文体以上にまとまりがなく、各章で内容がバラバラであり、本全体としては実にまとまりの悪い本となっています。後書きで翻訳者であるメンタリストのDaiGoが一冊の本にまとめるために原文を割愛したことや章立てを変更したことを書かれていましたので、そのことが一層まとまりを悪くしているのかもしれません。

 

しかし、この本の帯に著者の言葉として「私のパフォーマンスは、トリック、暗示、心理学、誤認誘導、そしてショーマンシップでできている」とありますが、この本の内容もほぼこの内容に即した内容となっています。第1章 幻覚からの目覚め・第2章 マジック・第3章 記憶・第4章 催眠術と被暗示性・第5章 無意識のコミュニケーション・第6章 反科学、疑似科学、まずい考えと2っています。

 

第1章はこの本を執筆するまでの経緯や著者の基本的考えの紹介、第2章はマジックについて、第3章は記憶術、第4章は催眠術、第5章は仕草から読み解く心理、第6章はオカルトに対する批判となっています。確かにメンタリズムとは何かを知るための入門書としては適した内容であると言えますが、どの分野の解説も入門書的な内容となっていることから全体しては少しばかり物足りない内容となっています。

 

そのため、より深く知るためには、各分野の入門書を改めて読み直す必要があります。これはメンタリズムが幾つもの分野のテクニックを利用していることから避けられないことであると思われます。メンタリズムの入門書としては物足りない内容ではありますが、メンタリズムに関する知識を離れて面白い話が幾つか登場します。

 

その1つがスプーン曲げで有名なユリゲラーがメンタリストとして扱われている事です。管理人はユリゲラーがテレビに登場した際にリアルタイムで見ていた人間です。当時から超能力ではなくトリックであるとの批判は数多かったのですが、完全に納得できるような解説はありませんでした。当時は家庭用のビデオもなかったことから当時の映像を再確認することは今となっては非常に難しいと思いますが、単純に曲げていたのではなく、やすりで削られたように切れていました。

 

勿論、手にやすりややすりの代用となる物は持っていませんでしたし、記憶では手元を映し続けていたことからどのようにしたのか全く分かりませんでした。その後にマスコミで取り上げたのは、すべてスプーン曲げであり、ユリゲラーの行ったことの再現ではありませんでした。しかし、一流のマジシャンが行っているマジックも素人には、全く分からないことからユリゲラーの行ったことがマジックであったとしても不思議はないと言えます。

 

2つ目がイギリスでは霊能者の行うショーが人気であることです。そのショーは観客を舞台に上げ、本人しか知らない秘密を言い当てたり、亡くなられた近親者からの伝言を伝えると言った内容の様です。

 

う・・・ん、以前に同じようなことをテレビでやっていたような気が・・・・

 

そしてイギリスには霊能者訓練学校があるとことであり、その内容を少し引用させて頂きます。

 

 こうした「正直な」霊能者を見ていると、彼女たちがコールド・リーディングのテクニックを何も知らないことがハッキリわかった。彼女たちとむしろ、毎週集まってお互いのエゴを愛撫(あいぶ)し合いながら(彼女たちは実際のクライアントよりもお互いの指摘を積極的に「当たり」にしようとしていた)、曖昧な話し方、直感を神格化する術、失敗を正当化するテクニックを学んでいた。他人が時間とお金を費やして偽りのテクニックを学びたがっても私がとやかく言う筋合いではないが、明らかな自己欺瞞を目の当たりにすることは悲しいものだ。

 

ダレン・ブラウン著 メンタリズムの罠  P455

 

そういえば、誰かもイギリスで霊能者としての勉強をしていたとか言っていたような・・・

 

話を戻しますと、上記の文章でも分かるようにダレン・ブラウン氏は、懐疑論者であり、レイキ・霊能力などに関しては懐疑的と言うよりも否定的であり、挑戦的と言うべき批判をされています。しかし、批判の為の批判ではなく、霊能者の手口や錯覚などを解説してあります。その意味では良心的な本だと思いますが、個人的には、内容に疑問を抱く解説もあります。

 

それは別としてコールド・リーディング(Cold reading)とホット・リーディング(hot reading)の手口を具体的に紹介されています。コールド・リーディングとは、外観の観察や曖昧な話し方などを駆使することで相手のことを言い当てる話術であり、ホット・リーディングとは、対象となる人物の情報を事前に調査しておき、霊能力で言い当てたように装う方法です。

 

この本のP32には、メンタリズムの技術を修得した方の中には、占い師や霊能者として活躍している人がいることがと書かれています。確かにメンタリズムのトリック、暗示、心理学、誤認誘導などの技術を応用すれば、霊能者として活躍することや占い師として活躍することは充分に可能ではないかと思います。但し、その場合には、霊能者や占い師と言うよりも詐欺師と言うべきかもしれませんが、商売としては成り立つと思います。

 

コールド・リーディングとホット・リーディングは、興味深い話であり、悪徳霊能者や悪徳占い師などに騙されないためにも知っておいて損はない話ですので、改めてご紹介したいと思います。

 

 

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at 06:09, 星 良謙・子授け地蔵, 本の紹介

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浄土真宗の教え3(星)

今回も浄土真宗の教えのまとめですが、今回で一応終了となります。

宗教が人々の悩みにどこまで答えてくれるかとなりますと、難しい問題だと思います。

管理人も若い頃に仕事で悩み、宗教書を読みましたが、自分の悩みの回答を見つけることはできませんでした。

 

当然、親鸞聖人の教えも学びましたが、そこには自分の探し求めるような答えはありませんでした。

仕事のことで悩んでいるのに念仏を称えても極楽に往生できると説かれても嬉しくないと言ったところでした。

今から考えますと、宗教書の多くは学問的な解説が多く、人々の苦悩から遊離しているのではないかと思います。

 

親鸞聖人が教えを説かれた時代には、平均寿命が今に比べるならば遥かに短く、人間の死が現代人よりも遥かに身近であり、死後への不安も大きかったのではないかと思います。当時の一般民衆からするならば、戒律を守ることから出来ず、お経を読むことも出来なかったことから念仏を称えるだけで、極楽往生が約束されることは大きな喜びであったかもしれませんが、今の時代にそれがどこまで通用するのか疑問です。

 

そのことを無視して念仏を称えることで極楽往生が約束されることばかりを説かれてもと思ってしまいます。

 

以下、浄土真宗の教えのまとめです。

 

 人間は誰しもが罪悪感を持ちながら生きています。また、罪悪感が適当でないならば、不安感と言い換えても良いのではないかと思います。アダルトチルドレンや共依存なども不安感が原因でないかと思います。本来であるならば、幼少期に両親からの充分な愛情を受けることで形成される健全な自我が形成されていない場合には、特に常に不安感を抱えながら生きることになります。

※アダルトチルドレン 機能不全家庭に育ってしまったために、成長してからも心の中にトラウマを持つ状態

※共依存 特定の相手に対して過剰な依存をしてしまう人間関係


 念仏を称えることの意味は、その不安感の解消ではないかと考えるようになりました。つまり、念仏を称えることで阿弥陀仏に許されているとの安心感を実感できるならば、不安感は解消することができます。勿論、阿弥陀仏の許しと言っても阿弥陀仏の声が聞こえるわけでもなければ、姿が見えるわけでもありませんが、少しずつ自分の得体のしれない不安感が解消されるようになります。これは何も阿弥陀仏に限られた話ではなく、他の神仏でも信仰を継続することで得られる心境ですが、これは幼少期に充分に得られなかった両親の愛情に代わる安心感となります。


 しかし、念仏を称えながらも阿弥陀仏の慈悲を実感できない方は少なくなく、念仏を称えながらも安心感を得られない方は少なくありません。その理由が真剣さの欠落ではないかと思います。これは言葉で説明することは非常に難しいことなのですが、親鸞聖人は地獄に堕ちなければならない身でありながらも自分は修業に耐えられない身であることから阿弥陀仏に救いを求める以外に救いはなく、阿弥陀仏に裏切られたとしても後悔する気持ちはないと説かれています。


 それに対して多くの方は、阿弥陀仏に救いを求めながらも自分が救われないと分かったならば、文句を言うのではないでしょうか。神社仏閣で祈願祈祷を受けながらも祈願祈祷のご利益を感じることができなければ不満を抱くのが普通です。信仰は取引ではありませんが、多くの方は信仰を神仏との取引のように考えているのではないかと思います。信仰を神仏との取引と考えるならば、信仰を持っても安心感も得られなければ、神仏に対する感謝の心も生まれません。


 苦悩の仲にある方の多くが求めているのは、神仏との取引をしようとします。自分の苦悩の解消や自分の願いが成就を求めて必死に祈られても自分が許されることを祈られる方は少ないのではないでしょうか。そこにあるのは、自分は不幸な人間であり、神仏であるならば、自分のような不幸な人間を救って下さるはずだとの気持ちがあるのではないでしょうか。


 親鸞聖人のように罪の意識に苦しむ必要はありませんが、自分の心に向き合うことは大切ではないでしょうか。自分では、周囲の人に気を使っているつもりでも、人を傷つけるような言動があるかもしれません。人間は誰しも罪を犯すものであり、罪なくして生きることは難しいと言えます。そのため、厳しい修業に明け暮れて、悟りを得ることで悟りを得るべきではありますが、煩悩のままに生きることしかできないのであるならば、阿弥陀仏にすがりなさいと説くのが浄土真宗の教えです。


 多くの方は、苦悩の中にあるならば、周囲が見えなくなっています。そして心の中に不平不満で一杯になっているのではないでしょうか。心にはゆとりもなく、周囲への配慮もできなくなっているのではないでしょうか。心の中が不安や不満、焦りで一杯ならば、人に感謝することもできず、人の親切にも気付かなくなります。そのため、先ずは仏に許しを求め、自分が救われることを求めることが大切となります。自分が救われ、心にゆとりが生まれると自分の至らなさに気付くことができます。それが仏のお導きなのです。

 

 

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at 16:01, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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