戒律と布施7(星)
α~ (ー.ー") ンーー 戒律について取り上げてはみましたが・・・・
最初は具足戒のすべてを紹介出来ればとは考えたりもしましたが、本に書いてあるのは名前だけであり、内容の解説はないだけでなく、男僧250戒、尼僧348戒もあることから転記するだけでも大変ですので諦めました。
興味のある方は、八宗綱要 講談社学術文庫を参考にして下さい。
男僧250戒の名前が掲載されています。
さて、出家されているお坊さんでもあまり厳格に守られている方が少ないような気もします。浄土真宗は無戒をもって戒とする宗旨であることから戒律とは無縁な宗旨ではありますが、頭髪を伸ばされている方が少なくありません。法要に参列させて頂きますと、半数以上は頭髪を伸ばされています。坊主にされている方は少数派と言ったところです。菩提寺のご住職は剃髪(ていはつ)されていますが、菩提寺のご住職に聞くのも気が引けます。浄土真宗のお坊様が髪を伸ばされている理由は、開祖の親鸞聖人が愚禿親鸞(ぐとくしんらん)と名のられ非僧非俗(ひそうひぞく)の立場に立たれたことが理由なのでしょうが、少しばかり違和感も感じます。
また、現在は出家されても結婚されるのが当たり前であり、結婚されていないお坊さんの方が少ないのではないでしょうか。これは現在のお寺の制度の問題や檀家の方が実子の後継者を望むなど社会的な事情や要望などの様々な要因があるようです。そのため、管理人が安易に取り上げるべき問題ではないような気もします。しかし、僧侶に帰依することも戒律であり、僧侶が厳格に戒律を守っていないと在家が安易に批判すべきことでもないとも考えます。
お寺の現状を考えますと、経済的に安定しているお寺は一部であり、大半のお寺は経済的に苦しく、廃寺となるお寺も少なくないとのことです。ある名刹のお坊様も住職にならないかとのお話を何度か頂いたそうですが、とてもお寺を維持していけるだけの自信がないことからお断りしたと話されていました。今の時代は、それだけお寺を維持することが困難な時代の様です。それを考えますと出家することだけでも尊い行為と考えるべきではないかと思います。
しかし、気が付けば、戒と律の違いに触れていなかったことに気付きました。(- .-)ヾ ポリポリ
戒律と言われますが、戒律は「戒」と「律」の2つに分かれます。
違いは、戒は自己規律であり、律は集団切となります。簡単に書けば、違反した場合の刑罰の有無となります。
参考サイト
曹洞宗 東福寺 TOP > 波羅蜜 > 戒と律 こちらから
さて、今回は布施について取り上げたいと思います。
これまで何回か経済的な負担のない布施について取り上げましたが、今回はもう少し掘り下げた話を取り上げてみたいと思います。最初に少し長文となりますが、「中村元編著 仏教経典散策」から引用させて頂きます。
布施の原意は施与であるが、もっと宗教的実践からいえば、道元禅師の示した「貪(むさぼ)らないこと」の意味でなければならない。一人、あるいは少数のものが貪るから世間に不足するところがあり、潤(うるお)うところがなくなるのである。すべての人が貪らなければ必ずや世間は潤い、不足するということはなくなると考えられる。財施とは物を貪らないことであり、法施とは教えをわがものにしないことである。
物を貪らないことは、物を貪らず惜しまず与えることを意味するように考えられるが、実はこれは与えるという行為を意味しないのである。徹底して貪らないというところにあって、貪らないということによって布施の無限の行為がなされていることになっている。法施は教えを惜しまず、人に説き示すことではあるが、これも与えるというはからいかあり、真の法施ではない。教えるところは結局のところ、自ら行うことでなければならない。法施は自ら教えを実践することにあり、それが人々に自然に感銘を与え、安らぎを与えることに通ずるのである。教えるだけでは実践のすべてを知らしめることにはなり得ない。それが教えの施与である。
このように財施・法施が行われ、持続されてゆくところに布施の完成があるといえる。そこにはこれで終わりという完成がない。
また布施の完成には次のことが考え併せられなければならない。「すべての想いを捨てる」と経典の教えに従うならば、「私が」「誰々に」「何を」施与する、という跡づけした布施をしてはならないのである。このように跡づけし、あるいは印(しるし)をつけて施与することは、私・対手・物という三者にとらわれているということである。さらわれの心によって施与するならば、その行為の中に心のはからいがあるのである。それは心の惑(まど)いをもたらすことになる。
本来、「私」という実体も、施与される「あなた」という実体も、施与される「あなた」という実体も、施与するものの実体も存在しないのだから、そのようにな実態観念をもって布施してはしなければならないのである。実際に、貪る心がなければ、「私が」「誰々に」「何を」という観念さえ起こるわけがない。布施の完成とはこの三つの観念を離れたところで修業されていく布施をいうのである。
中村元編著 仏教経典散策 P112-114
これは金剛経の中の布施の完成についての解説内容です。道元禅師の話は僧侶のために説かれた教えであることから法施に話の重点があるのかと思われます。「物を貪らないことは、物を貪らず惜しまず与えることを意味するように考えられるが、実はこれは与えるという行為を意味しないのである。」とありますが、あまりにも抽象的であり、在家の者の立場としては、物を大切にすべることや必要以上に求めないことが貪らないことなのだろうかと考えます。
そして「本来、「私」という実体も、施与される「あなた」という実体も、施与される「あなた」という実体も、施与するものの実体も存在しないのだから、そのようにな実態観念をもって布施してはしなければならないのである。」とは、空の教えの実践と言った意味でしょうが、在家の者ができるのはお布施を惜しむ心を持たない様にする程度のことではないかと思います。
星
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