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戒律と布施7(星)

α~ (ー.ー") ンーー 戒律について取り上げてはみましたが・・・・

 

最初は具足戒のすべてを紹介出来ればとは考えたりもしましたが、本に書いてあるのは名前だけであり、内容の解説はないだけでなく、男僧250戒、尼僧348戒もあることから転記するだけでも大変ですので諦めました。

 

興味のある方は、八宗綱要 講談社学術文庫を参考にして下さい。

男僧250戒の名前が掲載されています。

 

さて、出家されているお坊さんでもあまり厳格に守られている方が少ないような気もします。浄土真宗は無戒をもって戒とする宗旨であることから戒律とは無縁な宗旨ではありますが、頭髪を伸ばされている方が少なくありません。法要に参列させて頂きますと、半数以上は頭髪を伸ばされています。坊主にされている方は少数派と言ったところです。菩提寺のご住職は剃髪(ていはつ)されていますが、菩提寺のご住職に聞くのも気が引けます。浄土真宗のお坊様が髪を伸ばされている理由は、開祖の親鸞聖人が愚禿親鸞(ぐとくしんらん)と名のられ非僧非俗(ひそうひぞく)の立場に立たれたことが理由なのでしょうが、少しばかり違和感も感じます。

 

また、現在は出家されても結婚されるのが当たり前であり、結婚されていないお坊さんの方が少ないのではないでしょうか。これは現在のお寺の制度の問題や檀家の方が実子の後継者を望むなど社会的な事情や要望などの様々な要因があるようです。そのため、管理人が安易に取り上げるべき問題ではないような気もします。しかし、僧侶に帰依することも戒律であり、僧侶が厳格に戒律を守っていないと在家が安易に批判すべきことでもないとも考えます。

 

お寺の現状を考えますと、経済的に安定しているお寺は一部であり、大半のお寺は経済的に苦しく、廃寺となるお寺も少なくないとのことです。ある名刹のお坊様も住職にならないかとのお話を何度か頂いたそうですが、とてもお寺を維持していけるだけの自信がないことからお断りしたと話されていました。今の時代は、それだけお寺を維持することが困難な時代の様です。それを考えますと出家することだけでも尊い行為と考えるべきではないかと思います。

 

しかし、気が付けば、戒と律の違いに触れていなかったことに気付きました。(- .-)ヾ ポリポリ

戒律と言われますが、戒律は「戒」と「律」の2つに分かれます。

違いは、戒は自己規律であり、律は集団切となります。簡単に書けば、違反した場合の刑罰の有無となります。

 

参考サイト

曹洞宗 東福寺 TOP > 波羅蜜 > 戒と律 こちらから

 

さて、今回は布施について取り上げたいと思います。

 

これまで何回か経済的な負担のない布施について取り上げましたが、今回はもう少し掘り下げた話を取り上げてみたいと思います。最初に少し長文となりますが、「中村元編著 仏教経典散策」から引用させて頂きます。

 

 

 布施の原意は施与であるが、もっと宗教的実践からいえば、道元禅師の示した「貪(むさぼ)らないこと」の意味でなければならない。一人、あるいは少数のものが貪るから世間に不足するところがあり、潤(うるお)うところがなくなるのである。すべての人が貪らなければ必ずや世間は潤い、不足するということはなくなると考えられる。財施とは物を貪らないことであり、法施とは教えをわがものにしないことである。

 物を貪らないことは、物を貪らず惜しまず与えることを意味するように考えられるが、実はこれは与えるという行為を意味しないのである。徹底して貪らないというところにあって、貪らないということによって布施の無限の行為がなされていることになっている。法施は教えを惜しまず、人に説き示すことではあるが、これも与えるというはからいかあり、真の法施ではない。教えるところは結局のところ、自ら行うことでなければならない。法施は自ら教えを実践することにあり、それが人々に自然に感銘を与え、安らぎを与えることに通ずるのである。教えるだけでは実践のすべてを知らしめることにはなり得ない。それが教えの施与である。

 このように財施・法施が行われ、持続されてゆくところに布施の完成があるといえる。そこにはこれで終わりという完成がない。

 また布施の完成には次のことが考え併せられなければならない。「すべての想いを捨てる」と経典の教えに従うならば、「私が」「誰々に」「何を」施与する、という跡づけした布施をしてはならないのである。このように跡づけし、あるいは印(しるし)をつけて施与することは、私・対手・物という三者にとらわれているということである。さらわれの心によって施与するならば、その行為の中に心のはからいがあるのである。それは心の惑(まど)いをもたらすことになる。

 本来、「私」という実体も、施与される「あなた」という実体も、施与される「あなた」という実体も、施与するものの実体も存在しないのだから、そのようにな実態観念をもって布施してはしなければならないのである。実際に、貪る心がなければ、「私が」「誰々に」「何を」という観念さえ起こるわけがない。布施の完成とはこの三つの観念を離れたところで修業されていく布施をいうのである。

 

中村元編著 仏教経典散策 P112-114

 

これは金剛経の中の布施の完成についての解説内容です。道元禅師の話は僧侶のために説かれた教えであることから法施に話の重点があるのかと思われます。「物を貪らないことは、物を貪らず惜しまず与えることを意味するように考えられるが、実はこれは与えるという行為を意味しないのである。」とありますが、あまりにも抽象的であり、在家の者の立場としては、物を大切にすべることや必要以上に求めないことが貪らないことなのだろうかと考えます。

 

そして「本来、「私」という実体も、施与される「あなた」という実体も、施与される「あなた」という実体も、施与するものの実体も存在しないのだから、そのようにな実態観念をもって布施してはしなければならないのである。」とは、空の教えの実践と言った意味でしょうが、在家の者ができるのはお布施を惜しむ心を持たない様にする程度のことではないかと思います。

 

 

ご相談は こちらから

at 23:41, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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戒律と布施6(星)

気が付けば、「戒律と布施」の記事が6回目となりました。

 

( ̄〜 ̄;)ウーン・・・

 

悩むようなことではないのですが、戒律を守ろうとの意識もなく生きている人間が、戒律について書いて良いのだろうか?

そんな疑問を感じております。

 

小乗仏教(南伝仏教・上座部仏教)では虫も殺すべきではないとされているようです。以前に日本人が蚊を殺したところ、タイの僧侶から蚊を殺したならば、千回蚊として生まれ変わらなければならないと言われたとの話を聞いたことがあります。管理人は、昨年の夏に捕虫灯を利用して大量の蚊を殺しましたので、二度と人間に生まれ変われないのでしょうか?

 

あたふた (((^^;)(;^^) ))あたふた

 

実際の話としては、生き物を全く殺さずに生きることなどは不可能な話であり、無用な殺生は避けるべきではあるとしても戒律を厳格に守ることには無理があるのではないかと思います。

 

また、お釈迦様が定めた戒律では、僧侶は金銭を保持してはならないと定められていますが、現代社会においては金銭をまったく持たずに生活することは、現実的ではありません。無人島のような場所で自給自足の生活でもしなければ、金銭を持たずに生活することは不可能であり、無人島で暮らしたとしても年金や保健料、各種税金の支払いは義務はありますので、現実的な話ではありません。

 

しかし、小乗仏教(南伝仏教・上座部仏教)では今も守るべき戒律とされてます。そこで人を雇ってお金を預け、その人にお金の管理を任せていると聞きました。笑ってしまうような話ではありますが、本当にある話だそうです。

 

いずれにしても戒律を厳格に守ろうとするならば、色々と無理が生じるようです。

 

そんなわけで、今回は戒律を守れなかった場合の話を前回に続き、修証義から引用させて頂きます。

 

現代語訳の方が分かりやすいのでが、今回も原文をご紹介します。分かりにくい言葉は、可能な限り調べましたが、現代語訳は下記のサイトを参考にして下さい。

 

現代語訳 曹洞宗 貞昌院 こちらから

 

お経として聞けるサイト

曹洞宗 東海教区 教化センター こちらから

 

修証義 第二章 懺悔

 

 仏祖憐(あわれ)みの余り広大の慈門(じもん)を開き置けり、是れ一切衆生を証入(しょうにゅう)せしめんが為なり、人天(にんてん)誰(たれ)か入らざらん、彼(か)の三時の悪業報(びっぽう)必ず感ずべしと雖(いえど)も、懺悔(さんげ)するが如きは重きを転じて軽受せしむ、又滅罪清浄ならしむるなり。

※証入 正しい智慧(ちえ)によって真意を悟ること

※人天 人間界の人と、天上界の神

※業報 善悪の業ごうを原因として、それに応じて受ける報い。特に、悪業による報い


 然(しか)あれば、誠心(じょうしん)を専らにして前仏(ぜんぶつ)に懺悔すべし恁麼(いんも)するとき前仏懺悔の功徳力(くどくりき)我を拯(すく)いて清浄ならしむ、此(この)功徳能(よ)く無礙(むげ)の浄信(じょうしん)精進を生長(せいちょう)せしむるなり。浄信一現(いちげん)するとき、自佗(じだ)同じく転ぜられるなり、其(その)利益(りやく)普(あまねく)く情非情に蒙(ごう)ぶらしむ。

※前仏 お釈迦様のこと

※拯 救う、助ける

※無礙 妨げのないこと

※浄信 心が清らかに澄み、明るく静かなる喜びに満ちあふれた心

※自佗 自他のことのようです

※非情 草木土石など、感情のないもの


 其(その)大旨(だいし)は、願わくは我れ設(たと)い過去の悪業(あくごう)多く重なりて障道(しょうどう)の因縁ありとも、仏道に因りて得道(とくどう)せりし諸仏諸祖我を愍(あわれ)みて業累(ごうるい)を解脱せしめ、学道障(さわ)り無からしめ、其(その)功徳法門(くどくほうもん)普(あまね)く無尽法界(むじんほっかい)に充満弥綸(みりん)せらん、哀みを我に分布すべし、仏祖の往昔(おうしゅく)は吾等(われら)なり、吾等(われら)が当来は仏祖ならん。

※障道 仏道を障げが起きること

※得道 仏道を修行して悟りを開くこと

※諸祖 諸々の祖師(一つの宗派を開いた人)のこと。諸仏の正法を伝持している列祖(代々の祖先)のこと

※業累 我々の行為について、その原因と報いとが、累々と続いていくこと

※弥綸 ひろがりゆきわたること

※仏祖 お釈迦様のこと

※法門 真理へ向かう門、仏の教え

※法界

仏教の真理の立場では万物は平等で無差別とされるところから,特別な関係にあるべき人との間に,その関係を認めない場合や,無縁の他人を縁故のある人と同様に扱う場合に用いる。

※往昔 過ぎ去った昔

※当来 必ず来るはずの世、来世

 

 我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)、皆由無始貪瞋癡(かいゆうむしとんじんち)、従身口意之所生(じゅうしんくいしょしょう)、一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいざんげ)、是(かく)の如く懺悔(ざんげ)すれば必ず仏祖の冥助(みょうじょ)あるなり、心念身儀(しんねんしんぎ)発露(ほつろ)白仏(びゃくぶつ)すべし発露(ほつろ)の力罪根(ちからごんざい)をして銷殞(しょういん)せしむるなり。

 

※我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋癡、従身口意之所生、一切我今皆懺悔

これは懺悔文(ざんげもん)と言われるお経であり、曹洞宗以外の宗旨でも読まれます。

 

現代語訳
私が昔からなしてきた様々な悪しき行いは、
すべて始まりもない太古からの貪りと怒りと愚かさを原因として、
身体と言葉と心によってなされたものである。
それら全てを私は今みな懺悔する。

 

※冥助 神仏の目に見えない助け

※心念身儀発露白仏 心に想い、身は威儀を正し、言い表して仏に申し上げること

※罪根 深く根ざして抜き去ることのできない罪

※銷殞 消滅すること

 

現代語訳をお読み頂ければ、要約の必要もないと思いますが、心から懺悔することで罪は消滅し、懺悔することで罪の苦しみが解消することが説かれています。さらに懺悔することで清浄な気持ちになれると説かれています。つまり、戒律と懺悔は表裏一体の関係にあると言う事ができると思われます。

 

 

ご相談は こちらから

at 18:23, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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戒律と布施5(星)

他力門の戒律に対する考え方をご紹介しましたが、今回は聖道門(自力)の戒律に対する考え方をご紹介します。今回ご紹介する修証義は、曹洞宗の常用経典であり、開祖道元禅師の主著「正法眼蔵」を中心に引用し、明治23年に編纂されたものです。修証義の第三章に受戒について説かれた内容がありますので、ご紹介したいと思います。

 

現代語訳の方が分かりやすいのでが、今回は原文をご紹介します。分かりにくい言葉は、可能な限り調べましたが、現代語訳は下記のサイトを参考にして下さい。

 

現代語訳 曹洞宗 貞昌院 こちらから

 

お経として聞けるサイト

曹洞宗 東海教区 教化センター こちらから

 

修証義 第三章 受戒入位

 

次には深く仏法僧の三宝(さんぼう)を敬(うやま)い奉(たてまつ)るべし、生(しょう)を易(か)え身を易えても三宝を供養し敬い奉らんことを願(ねご)うべし、西天東土(さいてんとうど)仏祖正伝(ぶっそしょうでん)する所は、恭敬(くぎょう)仏法僧なり。

※西天 天竺(インド)のこと 東土 東の土地・この場合には中国のこと

※仏祖 お釈迦様の事 正伝

※恭敬 つつしみうやまうこと


若し薄福少徳(はくふくしょうとく)の衆生(しゅじょう)は三宝の名字(みょうじ)猶(な)お聞き奉(たてまつ)らざるなり、何(いか)に況(いわん)や帰依し奉(たてまつ)ることを得んや、徒(いたづら)に所逼(しょひつ)を怖れて山神鬼神等に帰依し、或は外道(げどう)の制多(せいた)に帰依すること勿れ。

※所逼 押しつけられ、強要されること

※外道 仏教徒の立場から見て)仏教以外の教え。異端。また、これを信奉する人。

※制多 宗教的な建物のこと


彼は其(その)帰依に因りて衆苦(しゅく)を解脱すること無し、早く仏法僧の三宝に帰依し奉(たてまつ)りて、衆苦を解脱(げだつ)するのみに非(あら)ず菩提を成就(じょうじゅ)すべし。

※菩提 煩悩(ぼんのう)を断って悟りえた無上の境地


其(その)帰依三宝とは正(まさ)に浄信(じょうしん)を専(もっぱら)にして、或は如来現在世にもあれ、或は如来滅後にもあれ、合掌し、低頭(ていず)して口に唱えて伝(いわ)く南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧、仏は是(こ)れ大師なるが故に帰依す、法は良薬なるが故に帰依す、僧は勝友(しょうゆう)なるが故に帰依す、仏弟子となること必ず三帰に依る、何(いづ)れの戒を受くるも必ず三帰を受けて其後(そののち)諸戒を受くるなり、然(しか)あれば則ち三帰に依りて得戒(とくかい)あるなり。


此(この)帰依仏法僧の功徳、必ず感応道交(かんのうどうこう)するとき成就するなり、設(たと)い天上人間地獄鬼畜なりと雖(いえど)も、感応道交すれば必ず帰依し奉(たてまつ)るなり、已(すで)に帰依し奉(たてまつ)るが如きは生生世世在在処処に増長し、必ず積功(しゃくく)累徳(るいとく)し、阿耨多羅(あのくたら)三藐(さんみゃく)三菩提を成就するなり、知るべし三帰の功徳其れ最尊最上甚深(じんじん)不可思議なりということ、世尊已(すで)に証明(しょうみょう)しまします、衆生当(まさ)に信受すべし。

※阿耨多羅三藐三菩提 最高の理想的な悟りのこと

※甚深 境地などが深遠であること

※積功累徳 修行に励み、功徳を積み重ねること

※世尊 お釈迦様のこと

 

次には応(まさ)に三聚浄戒(さんじゅじょうかい)を受け奉るべし、第一摂律儀戒(しょうりつぎかい)、第二摂善法戒(しょうせんぼうかい)、第三摂衆生戒(しょうしゅじょうかい)なり、次には応に十重禁戒を受け奉るべし、第一不殺生戒、第二不偸盗戒(ふちゅうとうかい)、第三不邪婬戒、第四不妄語戒、第五不酒戒、第六不説過戒、第七不自賛毀佗戒、第八不慳法財戒、第九不瞋恚戒(ふしんいかい)、第十不謗三宝戒なり、上来三帰、三聚浄戒、十重禁戒、是れ諸仏の受持したまう所なり。

※三聚浄戒

摂律儀戒(しようりつぎかい)(一切の悪を捨て去ること)・摂善法戒(一切の善を実行すること)・摂衆生戒(一切の衆生にあまねく利益を施すこと)

 

受戒するが如きは、三世の諸仏の所証(しょしょう)なる阿耨多羅三藐三菩提金剛不壊の仏果を証するなり、誰(たれ)の智人(ちにん)か欣求(ごんぐ)せざらん、世尊明らかに一切衆生の為に示しまします、衆生仏戒を受くれば、即ち諸仏の位(くらい)に入(い)る、位(くらい)大覚(だいがく)に同じうし已(おわ)る、真(まこと)に是れ諸仏の子(みこ)なりと。

※所証 修行によって得られた悟り

※金剛不壊 きわめて堅固で決して壊れないこと

※智人 智慧をもった優れた人物

※欣求 喜び求めること

※仏果 仏道の修行によって得た仏の境地

※大覚 悟りを開くこと

 

諸仏の常に此中(このなか)に住持たる、各各の方面に知覚を遺(のこ)さず、群生の長(とこしな)えに此中(このなか)に使用する、各各の知覚(ちかく)に方面露(あらわ)れず、是(この)時十方法界(じっぽうほっかい)の土地草木牆壁(しょうへき)瓦礫(がりゃく)皆仏事を作(な)すを以て、其(その)起す所の風水の利益(りやく)に預る輩(ともがら)、皆甚妙不可思議の仏化に冥資(みょうし)せられて親(ちか)き悟りを顕(あら)わす、是を無為の功徳とす、是を無作の功徳とす、是れ発菩提心なり。

※住持 一寺を管理する主僧

※群生 すべての生き物。多くの衆生。

※知覚 感覚器官を通じて、外界の事物を見分け、とらえる働き

※十方法界 東・東北・北・西北・西・西南・南・東南・上・下の十界のこと

※牆壁 垣根と壁

※風水 吹く風、流れる水

※冥資 神仏の加護のこと

※菩提心 仏道にはいる心

 

詳しくは、現代語訳を参考にして頂きたいのですが、内容を要約しますと仏法僧の三宝に帰依することの大切さが説かれ、三方に帰依して悟りを得るべきことが説かれています。そして仏教外の教えに帰依しても苦悩から解消されることはないから仏教に帰依すべきであると説かれています。また、三宝に帰依することで悟りに至ることができると説かれています。

 

そして一切の悪を捨て去ること、一切の善を実行すること、一切の衆生にあまねく利益を施すことの戒律を受け、次に十善戒を受けるべきと説かれています。戒律を授かることは、悟りを得る喜びとなることを仏が既に証明されていることであり、戒律を授かることで悟りの位に入ると説かれています。その位は仏と同じであり、諸仏の子となると説かれています。

 

仏は常に戒律の中に安住されていることから戒律を破ってはいけないとか、戒律を守るべきと意識することもなく、このような境地に到達するならば、自然の土地や草木がお互いに助け合っているようにお互いを助け合うように助け合う事ができます。これは仏に導かれた不可思議な働きであり、仏の境地に到達できると説きます。

 

このようにして悟りを開かれる境地を無為の功徳、無作の功徳というのです。それは自然な働きであり、これにめざめさせて頂く受戒が仏道に入る心ですと説かれています。

 

戒律を授かることは、仏に帰依することであり、修業の始まりであるとの考えは、仏の教えとしては当然と言えますが、戒律を守るべきとか、戒律を破ってはいけないとか意識することもない境地になることで悟りが得られると説かれています。そして戒律を授かることで悟りに至ることができるとの教えも仏の教えの基本です。

 

これは道徳心と同じではないかと思います。人の物を盗んではいけない、落し物があったならば警察などに届けるなどは、多くの人にとって当たり前のことであり、別に法律を守っているとの意識もないと思いますが、戒律も守らなければならないと意識することもなく、自然な行為となるならば、お互いに助け合うことができるようになると説かれています。これは海外の方が日本は治安が良く、非常に安心して旅行ができると賞賛されているのと同じではないかと思います。

 

 

ご相談は こちらから

at 15:52, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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戒律と布施4(星)

寒い日が続いております。

{{(>−<)}}サムイ・・・

 

しかし、管理人は基本的に家の中で仕事をしています。

 

□_ヾ('_' ) カタカタ 

 

そのため、ストーブで暖をとることができますが、外でお仕事の方は大変かと・・・・

 

特にこのところは、インフルエンザが猛威を振るっているとか・・・・

 

体調にはご注意下さい。

 

それはさておき・・・・

 

前回は、親鸞聖人の教えと戒律について書きましたので、今回は法然上人の教えと戒律について書きたいと思います。

親鸞聖人を宗祖とする浄土真宗では戒律を授かることはありませんが、同じ他力の教えでも法然上人を宗祖とする浄土宗では戒律を授かります。これは親鸞聖人と法然上人の戒律に対する考え方の違いであり、戒律から親鸞聖人と法然上人の教えの違いについて書きたいと思います。

 

●三学の器でない

 法然は、「わがこの身には戒行において、一つの戒も持てず、禅定において、一つも此(こ)れを得ず、智慧においては、煩悩を断ちきってさとりを開く正しい智慧を得ない。(中略) 凡夫の心は物にしたがって移りやすく、集中して平静を保つことはむずかしい」(弁長[べんちょう]『徹選択集』[てつせんちゃくしゅう])と語る。仏道修行の第一歩の自戒ということも、いくら戒を持つ生活をし、行いや語る言葉や心の思いを調えようとしても、生身(なまみ)の人間である限り、いつもの心は散り乱れてしまうのである。たとえ散り乱れる心を統一できたとしても、いつまでも持統できる保証はない。そして、法然は、「ここに私のような者は、もはや戒・定・慧の三学の器ではない。この三学のほかに、わが心に相応(ふさわ)しい教えがあるのか、わが身に堪(た)えることのできる修業があるのか」と、悲痛な叫びを発する。三学の枠を外して仏教の教えなどあるはずもないのに。

 

図解雑学 法然 ナツメ社 P60

 

法然上人が天台宗の僧侶であり、比叡山で修業されていたことは良く知られていると思いますが、法然上人は厳しい修業をされながらも悟りを得ることができずに苦悩されました。「わがこの身には戒行において、一つの戒も持てず」とありますが、法然上人は終生戒律を破ることもなく生きられたとされています。そのため、法然上人は親鸞聖人と同じく、自分に対して非常に厳しく生きられたと思われます。また、「智慧においては、煩悩を断ちきってさとりを開く正しい智慧を得ない。」とありますが、法然上人は教学においても非常に優れた方です。

 

保元元年(1156年)、法然上人が24歳の春に行き詰まりを打開するために、愛宕山(あたごやま)の麓の嵯峨清凉寺(さがせいりょうじ)釈迦堂に7日間の参籠をされた後に、自分の学びに間違いがないかを確認するために興福寺に法相宗の学僧の蔵俊(ぞうしゅん)を訪ね、更に三論宗の学僧の寛雅(かんが)、華厳(けごん)宗の慶雅(けいが)を訪ねられていますが、いずれの方も法然上人の理解の深さと正しさを賞賛されたとされています。そのため、「智慧においては、煩悩を断ちきってさとりを開く正しい智慧を得ない。」とは、さとりに至るための知識が得られないことを嘆かれた言葉であると思われます。

 

補足

法相宗(ほっそうしゅう)、三論宗(さんろんしゅう)、華厳宗は、律宗、成実宗(じょうじつしゅう)、倶舎宗(くしゃしゅう)と共に南都六宗と言われる奈良時代に成立した宗旨です。現在残っているのは法相宗、華厳宗、律宗だけであり、三論宗(さんろんしゅう)、成実宗(じょうじつしゅう)、倶舎宗(くしゃしゅう)は学問としてだけ残っています。

 

 

●自戒・破戒にとらわれず

 一方、戒は阿弥陀仏が誓われた本願の行いではないとする。「持戒の行は仏の本願にはない行であるから、堪(た)えられるにしたがって、戒を持つべきである」と、また、「少々戒行が破れていても、極楽浄土に生まれることは、戒によらないことである」(『拾遺和語燈録』下)というように、戒を持つことは南無阿弥陀仏の救いのみ心にかなう本願の行ではないので、最重要としない。

 しかし、その戒を持つことがまったく必要ないといっているのではない。「悪を排し善を行うのは、諸仏に共通の戒めである。しかし、現在の私たちは、すべてそのことに背いた身であるから、仏の本願を深く信じ、阿弥陀仏のみ名を称えさせてみもらっている。智慧ある者も、ない者も、戒を持つことができる者も、破る者も、区別することなく、阿弥陀仏は迎えに来て救ってくださる」(『和語燈録』5「百四十五箇条問答)」と、戒を持つ、持たないにかかわらず、念仏を称える者は救われるというのである。

 

図解雑学 法然 ナツメ社 P140

 

 

法然上人の教えは、親鸞聖人の教えに比べますと寛容である印象があります。法然上人は、阿弥陀仏以外の仏や神社に参拝しても極楽往生の妨げにならないと説かれています。そのため、この世のことを神仏に祈ることを否定されていません。そのため、浄土宗のお寺では阿弥陀仏以外の仏が祀られていることは珍しいことではありません。それに対して親鸞聖人は、末法の世においては阿弥陀仏だけを信じる他に助かる道はないと説かれています。そのため、浄土真宗のお寺では阿弥陀仏以外の仏が祀られていることは珍しく、僅かに親鸞聖人や歴代の高僧が祀られること程度です。

 

このことについては、書きたいことが多いのですが、このことについて書き始めますと戒律の話から逸脱することになりますので、機会を改めて取り上げたいと思いますが、少なくとも浄土宗においては戒律を否定されていません。また、法然上人は多くの方に戒律を授けているだけでなく、自らも戒律を守り続けられました。その意味では、法然上人は戒律を守ることを否定されていないと言えます。

 

 

ご相談は こちらから

at 21:15, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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戒律と布施3(星)

白ギツネ様コメント有難う御座います。

 

2015.04.03 Friday 他力と成仏1(星) 元記事 こちらから

 

阿弥陀仏がどのような存在であるか、所詮我々凡人には知覚不可能なわけです。知覚不可能なものを徹底的且つ全面的に信じ、一切合切を任せきるというのは、瞑想で悟りを開くのと同程度、或いはそれ以上に難しいことではありませんか?

 

今回は、他力門と戒律の話を書こうかと考えていましたので、どこまでご質問にお答えできるか分かりませんが、この問題を取り上げたいと思います。

 

さて、浄土真宗においては阿弥陀仏の本願を信じることが重視しています。乱暴な言い方をするならば、浄土真宗の教えはこの一点に尽きるとも言えます。教えとしては、阿弥陀仏は非常に慈悲深い仏であり、極悪人であっても念仏を一回称えるだけで極楽往生が確定すると説かれています。厳しい修業をしなくても阿弥陀仏の救いを信じるだけで救われることを説くことから易行道とされていますが、実際は簡単ではありません。

 

では、宗祖親鸞聖人がこのような教えを説かれた背景を考えますと、親鸞聖人の深すぎる罪の意識と神秘体験が影響しているのではないかと考えます。勿論、これは個人的な見解であり、真宗教団や宗教学者の見解は異なると思います。

 

さて、親鸞聖人の六角堂での夢告(むこく)はご存知の方も多いのではないかと思いますが、建久2年(1191)親鸞19歳の時に大阪府・旧磯長(しなが)村(太子町)にあった聖徳太子廟に参籠された際にも夢告を体験されていることはあまり知られていないのではないかと思います。

 

親鸞聖人は、比叡山での修業に行き詰まりを感じ、日頃から崇敬していた聖徳太子に尋ねようと、聖徳太子廟に参籠されました。そして不思議な体験をされました。

 

磯長(しなが)の夢告(むこく)で親鸞に告げられた太子の言葉は、次のような意味だった。

「我が三尊は塵沙界を化す。日域は大乗相応の地なり。諦らかに聴け、諦らかに聴け、我が教令を。
汝が命根は、まさに十余歳なるべし。命終わりて速やかに清浄土に入らん。善く信ぜよ、善く信ぜよ、真の菩薩を」
(阿弥陀仏は、すべての者を救わんと、力尽くされている。日本は、真実の仏法が花開く、ふさわしい所である。よく聴きなさい、よく聴きなさい、私の言うことを。そなたの命は、あと、十年なるぞ。命終わると同時に、清らかな世界に入るであろう。よく信じなさい、深く信じなさい、真の菩薩を)」

 

図解雑学親鸞 ナツメ社 P18

 

尚、「大乗院の夢告」といわれるものもありますが、後世の創作とされています。

 

そして2度目の夢告が有名な六角堂での夢告です。

 

 磯長の夢告で聖徳太子から、「おまえの命はあと10年」と告げられてから、ちょうど十年。決死の祈願は百日間続きました。その95日めの夜明け、救世観音が顔かたちを整え、立派な僧の姿を現しました。そして親鸞に、こう告げた。

「そなたがこれまでの因縁によって、たとえ女犯があっても、私(観音)が玉女という女の姿となって、肉体の交わりを受けよう。そしておまえの一生を立派に飾り、臨終には引き導いて、極楽に生まれさせよう。これは私の誓願である。すべての人に説き聞かせなさい」

 

図解雑学親鸞 ナツメ社 P30

 

この後に親鸞聖人は、法然上人の教えに出会い、法然上人に弟子入りすることになります。そして31歳の時に肉食妻帯を断行されました。それは阿弥陀仏の本願は、出家者も在家も関係なく、老いも若きも男女の差別もなく、一切の衆生をありのままの姿で救われることを信じたことが理由とされています。しかし、それは当時の常識からするならば、あり得ないことであり、ありとあらゆる非難を浴びたとされていますが、親鸞聖人は全く動じなかったそうです。これは親鸞聖人が念仏を称えた者は、必ず極楽浄土に生まれることができると固く信じていたためであり、それだけ阿弥陀仏の誓願を信じ抜いていたことからできた行動であると言えます。

 

親鸞聖人がそこまで阿弥陀仏の救いを信じ抜くことができた理由を考えますと、根底には比叡山で厳しい修業をしていても死後の不安が解消されなかったことがあります。当時は、お経に書かれたことは真実であると信じられていた事から親鸞聖人は自分が地獄に堕ちると考えられていたとされています。その理由が戒律ではないかとと思われます。大乗仏教の場合には、戒律を破っても破門になる訳ではありませんが、忠実に戒律を守ることは非常に難しく、罪の意識に苦しみ続けることになります。

 

その中でも女性を恋慕する気持ちを捨てきれなかったことに親鸞聖人は苦悩され続けたとあります。当時の常識からするならば、出家者でありながら女性と肉体関係を持つことは許されざることであり、破戒僧となります。その執着を断ち切ることこそが悟りへの道であり、その執着を断ち切るための修業ではありますが、厳しい修業に明け暮れても執着は解消されることがなかったことから絶望的な気持ちになられていたとあります。

 

そのような自分を追い詰めた状況の中で磯長(しなが)の夢告(むこく)を受けたことで更に追い詰められた気持ちとなり、六角堂での夢告、そして法然上人の教えの出会いがあったことから阿弥陀仏の救いを全面的に信じることができたのではないかと思われます。親鸞聖人が無条件に阿弥陀仏の救いを信じる気持ちになることができた理由をまとめますと、厳しい戒律を守ることができない自分には悟りを得ることができないだけでなく、死後の世界において待ち受けているのは苦しみしかないと確信していたからこそ、そんな罪深い身である自分を救って下さるのは阿弥陀仏しかいないと確信できたのではないかと思われます。

 

また、親鸞聖人が体験された夢告が本当に仏の言葉であったかどうかの真偽は誰にも分かりませんが、親鸞聖人が夢告(むこく)を仏の意志と信じられたと思われます。そして六角堂での夢告を仏の言葉であると信じたからこそ、法然上人の教えに帰依され、肉食妻帯を断行されたのではないかと思われます。親鸞聖人の体験と管理人の体験を同一に語ることは不遜ではありますが、管理人も仏のお姿を霊視したことやお言葉が降りたことで神仏の存在が観念の存在でなく、確信に変わりました。そのため、六角堂での夢告が親鸞聖人の背中を押したとしても不思議ではありません。

 

いずれにしても親鸞聖人は、自分の罪を過剰なまでに自覚されていたと思われます。また、自分の罪を自覚していることから厳しい修業をされましたが、修業に励まれても自分の心の平穏を得ることができないだけでなく、死後の不安も解消されなかったと思われます。その苦悩があったからこそ法然上人の教えを素直に信じることができたのではないかと思われます。

 

まとめますと親鸞聖人の教えは、厳しい修業を重ねても自分の心の中に湧き起る煩悩の炎を消すことができないことに悩み抜かれた末に到達された教えであることを前提に考えませんと、理解することが困難と思われます。その意味では真面目すぎるほど真面目であり、戒律を真剣に守ろうとされ、戒律を守れない自分を責め続けたのではないかと思われます。その苦悩があったことから煩悩のままに救われる教えに深く帰依されたと言えるのではないかと思います。

 

数年前に真宗高田派の僧侶の方が、親鸞聖人の教えは、人生で挫折を味わったことのない人間には分からないと言われていました。管理にも順調な人生とは程遠い人生ではありましたが、自分が親鸞聖人の教えを理解できているとは思えません。親鸞聖人の様に戒律を守れないことで悩んだこともありませんし、そこまで自分の罪を自覚できません。しかし、親鸞聖人の到達された境地は、親鸞聖人だからこそ到達できた境地であり、親鸞聖人の残された教えは親鸞聖人だからこそ、残すことができた教えではないかと思います。

 

その意味で白ギツネ様の「知覚不可能なものを徹底的且つ全面的に信じ、一切合切を任せきるというのは、瞑想で悟りを開くのと同程度、或いはそれ以上に難しいことではありませんか?」とのご意見は真っ当な意見であり、凡人が簡単に到達できる境地ではないと思います。

 

 

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at 23:59, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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戒律と布施2(星)

今回は大乗戒を取り上げたいと思いますが、本題に入る前に大乗仏教の戒律と小乗仏教の戒律の違いについて触れさせて頂きます。小乗仏教の戒律は、釈尊が出家修行者のために制定した戒とされ、具足戒と呼ばれます。具足戒を受けた場合、比丘は250戒、比丘尼は384戒を守ることが求められます。

 

これに対してこの大乗戒は正式な比丘・比丘尼となるための具足戒とは本質的に異なります。大乗戒は、菩薩戒とも呼ばれ、菩薩としての理想の生き方を示すべく制定された大乗仏教独自の戒です。特徴としては、心構えに重点が置かれ、罰則規定がありません。菩薩になろうとすることを望む人には男女や出家在家のちがいに関係なく等しく授けられ、小乗仏教のように、比丘・比丘尼・沙弥(しゃみ)・在家の信者の区別はありません。

 

これに対して出家者のための戒律とも言える具欲戒は、一般の法律と同じように罰則規定を備えた戒であるため、あいまいな部分が残らないように内容や適用範囲がきっちりと定義されています。例えば、小乗仏教の戒律である具足戒には、戒律を破った場合には、僧団から追放されて再出家も許されない四波羅夷法(し・はらいほう)と呼ばれる4つの重要な戒がありました。それは、性行為・盗み・殺人・悟ったと偽ることの4つとされていました。

 

そのため、出家者は当然のことながら結婚が許されないことになります。その意味では日本の僧侶の大半は破門されることになります。これに対して大乗戒は努力目標であり、明確な罰則はありません。その意味では大乗戒においては出家者であるか、在家であるかの違いはありません。

 

さて、大乗戒は、三帰戒、三聚浄戒、十善戒、、十重禁戒、四十八軽戒に分かれます。

 

三帰戒 ・帰依仏・帰依法・帰依僧                                

三聚浄戒 ・摂律儀戒(悪いことはしない)・摂善法戒(善いことをする)・摂衆生戒(全ての衆生を救う)

十善戒 ・不殺生・不偸盗・不邪婬・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見


十重禁戒
・不殺生戒(殺さない)
・不偸盗戒(盗まない)
・不貪婬戒(犯さない)
・不妄語戒(誤ったことをいわない)
・不酤酒戒(酒に溺れない)
・不説過戒(他人の過ちを説かない)
・不自讚毀他戒(自らを褒め他人を謗らない)
・不慳法財戒(教えも財産も他人に渡すことを惜しまない)
・不瞋恚戒(怒らない)                                                

・不謗三宝戒(仏法僧の三宝を謗らない)

 

四十八軽戒

01.軽慢師長戒・02.飲酒戒・03.食肉戒・04.食五辛戒・05.不挙教懺戒・06.不敬請法戒・07.不聴経律戒・08.背正向邪戒・09.不瞻病苦戒・10.畜諸殺具戒・11.通国入軍戒・12.傷慈販売戒・13.無根謗人戒・14.放火損焼戒・15.法化違宗戒・16.惜法規利戒・17.依官強乞戒・18.無知為師戒・19.闘謗欺賢戒・20.不能救生戒・21.無慈酬怨戒・22.慢人軽法戒・23.軽新求学戒・24.背大向小戒・25.為主失儀戒・26.待賓乖式戒・27.受別請戒・28.故別請僧戒・29.悪伎損生戒・
30.違禁行非戒・31.見厄不救戒・32.畜作非法戒・33.観聴作悪戒・34.賢持守心戒・35.不発大願戒・36.不起十願戒・37.故入難処戒・38.衆坐乖儀戒・39.応講不講戒・40.受戒非儀戒・41.無徳詐師戒・42.非処説戒戒・43.故毀禁戒戒・
44.不敬経律戒・45.不化衆生戒・46.説法乖儀戒・47.非法立制戒・48.自壊内法戒 

※真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺のサイトに具体的な内容が解説されていますので、参考にして下さい。

しかし、管理人にも意味不明な戒律も幾つかあります。

 

参考サイト

真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺 十善戒 こちらから

 

もう少し掘り下げた考察

つらつら日暮らし 受戒と持戒 こちらから

真言宗御室派 医王山 福楽寺 僧侶の結婚 こちらから

 

大乗戒について調べていましたが、戒律について書かれた本も少なく、日本では戒律があまり重視されなかったようです。管理人は無戒を掲げる真宗の門徒ですので、受戒はしておりませんが、管理人も戒律を守れるように心掛けたいと思います。

 

 

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at 16:27, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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戒律と布施1(星)

先日のことですが、Books Esoterica 9 釈迦の本を読み直していましたところ、お釈迦様が在家の者のために説いた教えが紹介されていました。

 

 サールナートに近いヴァラナシ(ペナレス)は、交易と商業の町として非常に栄えていた。ここにヤサ(耶舎・やしゃ)という豪商の息子がいた。たいそう裕福であったので、夏の涼しい別荘を持ち、美女と美食と、まばゆい宝石と装飾品に囲まれ、贅沢の限りを尽くした生活を送っていた。だが彼の生活は満たされていない。ある夜、床を出たヤサは郊外を歩いていた。

「ああ、辛(つら)い。ああ、煩(わずら)わしい。ああ、なんと日々が虚(むな)しいとか・・・」

 たまたま、坐禅の緊張を解くために歩んでいたブッタがこの声を聞いた。王子だったころの自分と同じ声、同じつぶやきだった。

 「若者よ、ここに来て座りなさい。辛いこと、煩わしいことのすべてを取り去ってあげよう」

 ブッタは、3つのことを説いた。

 一つ目は、与えることの大切さ。常に慈悲の心を持って困窮者や宗教家に衣食住の施(ほどこ)しを行うことの意義と理由をやさしく話した。

 二つ目は、戒律や道徳を守ることの大切さ。生き物を殺傷せず、他人の財物を盗まず、乱れた姦淫(かんいん)を行わず、嘘をいわず、常に他人の心に配慮した生活をする意義をくわしく話した。

 三つ目は、幸福と安楽を享受(きょうじゅ)できる天の世界に生まれること。前の2つを守って暮らせば、来世に天に生まれることを丁寧(ていねい)に話した。

 

Books Esoterica 9 釈迦の本 P70-71

 

まとめの必要もない教えですが、布施をして戒律を守るならば、来世は浄土に生まれることができると言うことでしょうか?

今回は、戒律について少しご紹介したいと思います。お釈迦様が2番目に説かれた、「生き物を殺傷せず、他人の財物を盗まず、乱れた姦淫(かんいん)を行わず、嘘をいわず」までは、仏教の基本的な戒律である五戒と言えます。

 

五戒(ごかい)とは、仏教において女性・男性とを問わず、在家の信者が守るべきとされる基本的な五つの戒です。
不殺生戒(ふせっしょうかい) 生き物を故意に殺してはならない。
不偸盗戒(ふちゅうとうかい) 他人のものを故意に盗んではいけない。
不邪婬戒(ふじゃいんかい) 不道徳な性行為を行ってはならない。
不妄語戒(ふもうごかい) 嘘をついてはいけない。
不飲酒戒(ふおんじゅかい) 酒などを飲んではいけない。

 

この五戒の次に厳しい戒律が八斎戒となります。これは五戒の「不邪淫戒」の代わりに 「不淫戒」を差し替え、香油塗身戒(こうゆずしんかい)、歌舞観聴戒(かぶかんちょうかい)、広大床戒(こうこうだいしょうかい)、非時食戒(ひじじきかい)を加え、て、毎月8日、14日、15日、23三日、29日、30日の6日間の斎日に守るべき戒とされています。


八斎戒
不殺生戒(ふせっしょうかい) 殺さない。
不偸盗戒(ふちゅうとうかい) 盗みをしない。
不淫戒(ふいんかい) あらゆる性行為を行わない。
不妄語戒(ふもうごかい) 嘘をつかない。

不飲酒戒(ふおんじゅかい) 酒を飲まない。

香油塗身戒(こうゆずしんかい)  化粧や香水、宝飾品などで身を飾らない。

歌舞観聴戒(かぶかんちょうかい) 音楽や演劇等を為さず、故意に鑑賞しない。

高広大床戒(こうこうだいしょうかい) 天蓋付きで足が高くゆったりとしたベッドに寝ない。

非時食戒(ひじじきかい)  正午から日の出まで、固形物を口にしない。

 

一応、鎌倉時代の東大寺僧凝然 (1240〜1321) の著書である八宗綱要(はっしゅうこうよう)を参考しましたが、付け加えられる戒の名称には、不塗飾香鬘(ふずじきこうまん)、不歌舞観聴(ふかぶかんちょう)、不坐高広大牀(ふざこうこうだいしょう)、不非時食(ふひじじき)などとされることもあるようです。

 

全部で九戒となってしまいますが、香油塗身戒(こうゆずしんかい) と歌舞観聴戒(かぶかんちょうかい)を1つと解釈されているようです。

 

この次が、比丘(びく)の資格を得ていない男子の出家者と比丘尼の資格を得ていない女子の出家者が守るべきとされる戒律の十戒(じっかい)には、捉金銀宝戒(さくこんごんほうかい)が加わります。

 

捉金銀宝戒(さくこんごんほうかい) お金や金銀・宝石類を含めて、個人の資産となる物を所有してはならない。

 

尚、八戒については別の内容の記述もありました。

 

八戒
不殺生戒    いかなる生き物でも、故意に殺傷しない。
不偸盗戒    故意に他者の所有物を我が物としない。
不邪淫戒    売買春、不倫しない。不適切な性関係を、誰であれ結ばない。
不妄語戒    偽りの言葉を語らない。
不両舌戒    二枚舌を使わない。離間語(仲違いさせる言葉)・陰口を言わない。
不悪口戒    他者を誹謗・中傷しない。荒々しい言葉を使わない。
不綺語戒    噂話・世間話など、無駄口をたたかない。
不邪命戒   「非法」の職業・生業に従事しない。

 

真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺 1.八戒とは こちらから

 

これが出家者となりますと、比丘二百五十戒、比丘尼三百四十八戒となります。

 

さて、在家の守るべき五戒と言っても簡単に守ることができるとは思えません。漁業や畜産などをされている方は、不殺生戒を守っていたならば、仕事にならなくなります。また、管理人は飲酒は滅多にしませんので、不飲酒戒は気になりませんが、お酒好きの方には辛いだろうな思います。勿論、修業と言ってしまえばそれまでなのですが、多くの人が八斎戒を守ったならば、世の中の景気は悪くなるだろうななどと考えてしまいます。

 

そのため、戒律に関しては少しばかり疑問を感じる事もありますが、戒律を守り、禁欲的な生活することが陰徳を積むことになるとされています。戒律を守ることはお金もかからないことから戒律を完全に守れなくても少しでも守れるように心掛けることも大切なことではないかと思います。

 

参考サイト

瑞雲院法話のページ 77 具足戒の話 こちらから

 

何故か、「講談社学術文庫 八宗綱要」の内容が無料で公開されています。

だるま文庫 八宗綱要 こちらから

 

次回は大乗仏教の戒律をご紹介したいと思います。

 

 

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at 22:26, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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霊能者のタイプ3(星)

大型の寒波が襲来しています。

 

{{(>−<)}}サムイ・・・

 

朝から雪模様でしたが、この程度の雪ならば積もることもないだろうと車で外出したのですが・・・

夕暮れには道路に積雪が・・・・

雪国の方ならば、この程度の雪で慌てることないのでしょうが・・・

 

何分にもスノータイヤも装着していませんので、運転は慎重に帰宅しました。

 

夜間は、路面凍結が怖いのですが、雪に慣れていない方が多いようです。

数年前に元旦の夜のことでしたが、路面が光っていたことから凍結していると慎重に入っていたのですが、脇を一台の車が抜き去っていきました。危ないなと思っていたら直後にスピンして陸橋に激突しました。

 

幸いにも対向車線に車はなく、単独事故でしたが、正月早々から事故とは何とも縁起の悪い話であり、運転者に同情しました。真冬の陸橋は路面凍結することがあることを知らなかったことからスピードを落とすこともなく、走り抜けたのだと思います。いずれにしても路面凍結には充分にご注意下さい。

 

それはさておき・・・・

 

前回は、自己愛性性格と妄想性性格と霊能者について考察してみましたが、個人的には霊能者や新興宗教の教祖に多いのは、前回ご紹介した性格が多いのではないかと思います。残る性格としては、サディスト性格・反社会性性格・抑鬱性性格・自虐性性格・依存性性格・強迫性性格・失調型性格・境界性性格・中心性性格・拒絶性性格・回避性性格・ジゾイド性(統合失調型)性格となります。勿論、これが性格の全てではないと思いますが、性格の分類としては役に立つのではないかと思います。

 

改めて少し調べ直してみますと、失調性性格も霊能者に多いタイプなのだろうかと考え直しました。失調性性格は直観力や創造力が豊かなことから常識の枠を越えたアイデアを思いつく能力があるとされていまます。そのため、暫く前にご紹介したアスペルガー症候群と同じようにIT企業で活躍されている人も多いようです。しかし、このタイプは精神世界(スピリチュアル)にのめり込みやすいとも言われています。

 

また、不思議体験をすることも多く、自分には霊感や超能力があると信じている方も少なくないようです。そのため、一般常識とはかけ離れた考え方を持つ人も多く、精神世界(スピリチュアル)のリーダーや宗教家として活躍することもあるようです。しかし、このタイプの人は世間から見るならば、理解されることのない考え方をしていることから他人との協調性に欠けた変人と扱われることも多いようです。

 

最初に失調型性格について読んだ際には、こんなタイプの人間は周囲にはいないと思ったのですが、少し考えれば、神は宇宙人であると真剣に語っていた方や自分が各地に結界を張っていると真剣に話していた方がいることを思い出しました。確かに妄想性性格の特徴である猜疑心は見受けられなかったことから失調性性格と考えるべきではないかと思われます。

 

さて、ここで管理人はどのタイプのかと書くべきかと思いますが、一番近いのがジゾイド性性格(統合失調型性格)にではないかと思います。しかし、幾つかの点で異なります。統合失調型性格の人は外見や持ち物など、目に見えるところはどうでもよい反面、内面的・精神的な世界には深い関心を持ち、その中で生きてゆくという本質があると考えるのが特徴であり、外観や持ちにこだわりがないとされてます。しかし、管理人が高校生から大学生にかけてはVANのブランドに代表されるアイビーリーグモデルの全盛期であり、管理人もその洗礼を受け、当時の男性ファッション誌であるメンズクラブを読み漁っていました。

 

いずれ機会があれば、この話を取り上げたいとは思いますが、今でも洋服選びに関しては当時からあまり変わっていませんと言うか、変えられませんでした。しかし、海外製品は買っていた時期はありますが、ブランドにはあまりこだわりはありません。また、ジゾイド性性格(統合失調型性格)の人は、常に頭の中で自分や架空の誰かと「会話」し、完結しているため、現実世界の他人の意見に左右されにくい傾向があるとありますが、これもありません。但し、人の意見に左右されにくいことはあると思います。

 

では、どうしてジゾイド性性格(統合失調型性格)に近いのかと言いますと、会社員として勤めていた時代には、他人に心霊世界の話をすることは滅多になく、心霊世界の話をするのは、同じ様な悩みを持つ人に限られていました。そのため、社会人としての顔と心霊世界の探求者との顔の両面を持っていた。また、友人は何人もいますし、個人的な交遊もありましたが、一人でいることにもそれほどの苦痛はありません。ただ、物事の本質を探究したい気持ちはあります。また、流行や人気商品などにはあまり関心もなく、芸能界にもほとんど興味がないことからジゾイド性性格(統合失調型性格)が一番近いのではないかと思います。

 

いずれの性格であっても極端な性格の偏りがあれば、人格障害になりますし、更に酷くなれば心の病気と診断されることになります。人格障害を抱えているからと言って社会不適合者であると決めつけるべきではなく、人格障害であっても活躍されている方は数多くいますが、自分の性格や他人の性格を知ることがより良い人生を生きる秘訣ではないかと思います。特に霊能者や新興宗教に関しては、誠実で真面目な人物であるとしても心の病気を抱えているのではないかと疑われる必要があります。

 

特に自己愛性性格と妄想性性格、失調型性格は霊能者や新興宗教の教祖に見受けられることが多い性格であり、本人も自分が選ばれた人間であり、偉大な使命を与えられた人間であると信じ込むことが多いようです。しかし、社会に適応して生きることは、低級霊に翻弄されないために必要な事であり、社会から孤立して自分の世界に浸っていますと低級霊に翻弄されやすくなります。

 

 

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at 12:07, 星 良謙・子授け地蔵, 心霊現象と神秘体験

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霊能者のタイプ2(星)

先日のことですが、大槻義彦教授がテレビ番組のやらせを暴露されています。

大槻義彦教授と言えば、UFOの否定論者として有名であり、過去にUFO研究科との論争で有名な方です。

個人的には、大槻教授とUFO件研究家のどちらの意見にも賛成しかねるだけでなく、大槻教授とUFO件研究家の論争は議論になっていない印象があります。また、どちらの意見も決めつけであることからバラエティー番組か、お笑い番組としか考えていませんでした。

 

その大槻教授は、2016年12月24日に放送された「ビートたけしの超常現象(秘)Xファイル」で相手の心を読むことができるとする超能力者の検証実験でやらせがあったとのブログに書かれています。

 

大槻義彦の叫び、カラ騒ぎ 科学に限らず何でも叫ぶぞ

『たけしの超常現象特番』のヤラセ、ウラのウラ こちらから

 

番組の内容の参考サイト そよかぜ速報 こちらから

 

超能力者と自称している方が行っているショーは、トリックであると語る方は多いのですが、テレビ局がトリックに加担しているとなりますと、視聴者を騙していることなり、大きな問題です。超能力を肯定するにしても否定するにしても報道としては中立の立場であることを願います。

 

それはさておき・・・

 

前回の投稿で霊能者や新興宗教の教祖を幾つかのタイプに分類してみましたが、心理学の性格分類を利用してみたいと思います。霊能者や新興宗教の教祖に多いのではないかと思われる性格について最初に考えたのが自己愛性性格でした。自己愛性性格は、自分は他人よりも優れている、人とは違うと思い込み、自分の能力を過大評価する傾向を持つ性格です。このタイプは、自分は特別な存在であり、人とは違うとの思い込みが激しく、僅かな批判も許さないタイプです。これらの特徴は、霊能者や新興宗教の教祖、人気占い師などに当てはまるのではないかと思います。

 

どの性格でも同じですが、これらの特徴が激しくなり、社会生活に問題が起きるようならば、自己愛性人格障害となります。しかし、社会生活に問題がない程度の範囲ならば、自惚れが強い自信家と言えるのでしょうが、宗教家や霊能者、占い師となりますと、少しばかり問題があります。特に宗教家や占い師の場合には、一般の方以上に謙虚でなければ、低級霊に翻弄されやすくなります。

 

また、もう一つの問題としてこのタイプの方は、僅かな批判も許さないことです。その分、言葉は自信に満ちた印象があり、断定的となりますが、相手の話を聞かないことがある印象があります。特にお告げがあった場合には、神仏が「〇〇であると言われている」と話を打ち切る傾向があり、それが現実と大きく食い違っていても全く聞く耳を持たないのではないかと思うことがありました。しかし、霊能力は実に不安定な能力であり、お告げを降ろしている神霊の霊格を見極めることは容易ではありません。そのため、神仏を名乗る神霊の言葉であるとしても無条件に信じるのは危険なのですが、その危険性を自覚していないのではないかと思うことが少なくありませんでした。

 

例えば、自分には霊障とは思えないとしても、あなたは霊障ではないと断言することは危険ですが、何の躊躇もなく霊障ではないと断言する霊能者は少なくないようです。しかし、実際には障りを起こしている不成仏霊を自分には見つけることができないだけの話であることが少なくありません。過去に何人かの霊能者を頼られても霊障ではないと言われ続けた方からのご相談もありましたが、霊能者が見抜けなかった不成仏霊が隠れていることが大半でした。

 

霊障に関しては、霊障ではないことを証明することは非常に困難であり、基本的には相談者の話の内容から判断するしかないと思っています。勿論、人生の不幸の原因を霊障に求める気持ちもなく、脳の機能障害なとが生き難さの原因であることも少なくないのではないかと思います。暫く前に取り上げましたアスペルガー症候群にしても30代・40代になってから検診を受けて分かることも多いようです。

 

しかし、相談者の話をお聞きしていて霊障が疑われる場合には、疑ってみます。そして霊障が解消したはずなのに状況が大きく好転していない場合には、更に何かが潜んでいるのではないかと疑います。特に深い恨みを抱く不成仏霊は、注意深く占いませんと容易には見つかりません。そのため、自分が占っても問題がないと思われても相談者の悩みが解消していないならば、それが霊障ではないとしても何らかの問題が隠れていると考えることにしています。

 

自己愛性性格の次に考えたのが、妄想性性格でした。妄想性性格は、猜疑心が強く思い込みの激しい性格ですが、妄想の内容は人によって異なるようです。

 

1.被愛型
自分は特定の人から愛されている妄想

2.誇大型
自分はすごい才能や知識を持っているとか、自分は重大な発見をした妄想

3.嫉妬型
自分の配偶者や恋人が浮気している妄想

4.被害型
自分が被害を受けている妄想

5.身体型

自分の身体に異常が生じている妄想

 

いずれのタイプも深刻な悩みとなりますが、霊能者や新興宗教の教祖に多いのが「誇大型」ではないかと思います。自分に神仏が降りて偉大な使命を授けられたと語っている霊能者や新興宗教は少なくありません。それが真実なのか、単なる妄想なのかは誰にも分かりませんが、妄想である可能性は常に疑う必要があります。過去に何度も書きましたが、心霊からの言葉と潜在意識の作り出した話を区別することは容易ではありません。

 

本人は神仏からの言葉であると確信していても潜在意識が作り出した別人格の言葉である可能性があるだけでなく、潜在意識が作り出した別人格の言葉ではないとしても低級霊が神仏を名乗っている可能性もあります。そのため、神仏を名乗る心霊からの言葉があったことだけで自分に使命があると考えるのは非常に危険です。また、自分の周囲に奇跡と思われるような現象が続発したとしても素直には信用できません。転落した行者の霊などの霊の中には、奇跡とも思えるような現象を起こす力を持っている場合があります。

 

そのため、最終的には語る教えの内容で判断するしかありません。しかし、転落したと言っても生前に多少なりとも神仏の教えを学んでいる行者が相手となりますと、教えの矛盾を指摘するのは容易ではありません。管理人の場合にも自動書記が始まった当初は、数多くの神仏を名乗る神霊が教えを説きましたが、かなりの数の神霊を追い返しました。霊能者として生きる気持ちもなければ、宗教家になるつもりもありませんでしたので、自動書記は煩わしいだけでしかありませんでした。

 

しかし、途中からもしかして本当に霊格の高い神霊の教えなのかと考えるようになりました。そこで仏教の教えを学び、神道の基本的な考え方や歴史などを調べました。そのため、専門書を数多くそろえる結果となりましたが、それでも半信半疑でした。その姿勢は今でも同じです。ブログや著書で公開している自動書記は自分なりに本物であると考える内容の物に限定しています。勿論、本当に霊格の高い神霊の言葉であることを証明することはできませんが、潜在意識が作りあげた人格の言葉であってもそこに何らかの真理があるならば、公開すべきであると考えています。

 

慎重すぎると言えるかもしれませんが、自分の妄想で書いた文章で人を惑わすよりは良いと思います。しかし、自分の妄想を神仏の言葉と信じて多くの人を惑わしている霊能者や宗教家は少なくないようです。

 

 

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at 13:01, 星 良謙・子授け地蔵, 霊感・霊能力について

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霊能者のタイプ1(星)

このブログでも管理人が20代の前半から霊障に悩んでいたことは何度も書きましたが、当時は漠然と不穏な空気に取り囲まれていると感じていました。その不穏な空気の正体も分からず、何が起きているのかも分かりませんでした。酷い場合には、意思を持つ不穏な力の塊のような印象を受けました。不穏な空気は感じるだけで霊視はできませんので、自分に霊感があるとも考えませんでしたが、霊感が強いは言われました。しかし、今も霊視は苦手であることに変わりありません。やがて霊障を疑うようになり、長い試行錯誤の始まりでした。そんな人生でしたのでいつしか自分と同じような悩みを持つ人や霊能力と知り合うようになりました。

 

今も霊能力を持つ知り合いや友人はいますが、霊能者として活躍している方は一人もなく、霊能力とは無関係な仕事をしている方が大半です。しかし、過去には霊能力で人を集めていた方や僧侶ではあっても霊能力を隠さない方とも交友があった時期もありました。当時は、少し怪しいなと感じながらも霊障を解消したいとの気持ちが強く、つかず離れずと言った距離を保っていました。

 

これらの経験から書きますと、霊能者と言っても色々なタイプの人がいると思います。一般の方からしますと、霊感や霊能力があると言えば、特殊な能力を持つ人間である憧れるかもしませんが、霊能力に煩わしさしか感じていない人も少なくありませんでした。管理人もそんな人間の一人であり、霊感を持つ人が集まると病人が病気の話で盛り上がるように、霊感の話で盛り上がっていました。話の最後は、いつもどうしたら霊感がなくなるかであり、霊感をなくす方法を探していました。

 

管理人は霊視が苦手であったからまだ良かったのですが、霊視ができる人の悩みは切実であり、事故死した方が見えたり、見たくもない物が見えると悩んでいました。他にも先祖が煙草を供えて欲しいと言った声が聞こえるなど一般の方からするならば、信じられないような話ばかりでした。いずれも普通の仕事をしている方や普通の主婦であり、普段は人に話せない悩みだからこそ、切実でした。尚、このタイプの方の中には、自分は逃れられない運命を背負っていると考えて正式に得度され、出家された方もいるようです。

 

これかの方々が逃避タイプとするならば、これとは逆に自分には特殊な能力があると自慢するタイプもいました。このタイプの方は、逃避タイプとは異なり、自慢話が多い傾向がありました。このタイプは、こんなことをして人を助けたとか言った自分の霊能力の自慢や地震や人の死を予知したとの予知能力の自慢話は良く聞されましたが、人を騙そうとすることはあまりありませんでした。

しかし、管理人からしますと自分の能力に自信を持ち過ぎて霊能力を過信しているのではないかと思う事も少なくありませんでした。

 

それでもこのタイプあたりから少しずつ危ない世界に入り始めます。これは本人がどれだけ常識の力で自分を抑えられるか次第とも言えますが、自分は歴史に名を遺した人物の生まれ変わりであると自称する方が表れ始めます。勿論、過去世が詳細に分かった方は稀にいることは事実であり、一概に本人の思い込みであると一笑できないことも少なくありませんが、この場合にはご本人が過去世の影響を受けている場合が大半でした。

 

勿論、高い身分の過去世を持つ方が今世においても高い身分に生まれるとは限りませんが、過去世の人生観が今世の人生に影響を与えていたことが大半です。浪費癖のある方には、江戸時代に大店の息子として生きた過去世がありました。また、別の事例では生きている実感が希薄な方には、平安時代のお姫様の過去世がありました。そこで当時の貴族の暮らしを調べたところ、貴族の娘は外出することは滅多になく、日常生活の大半は部屋の中であり、外部の人には顔を見せることもなかったとありました。これらの事例の場合には、何となく納得出来ましたが、自分の過去世は誰でも知っているような武将であると言われていた方が2人いました。しかし、どちらの方からも、武将としての気迫や気高さを感じませんでしたので、信用する気にはなれませんでした。

 

これが霊能力を職業として利用しているタイプとなりますと、この傾向が更に激しくなります。自分を指導しているのは、誰もが知るような高僧であると自称しているのは、まだ謙虚な方であり、自分の過去世は釈迦であると自称している新興宗教の教祖が管理人の知っているだけでも2人ほどいました。その教祖の本は共に読みましたが、今から考えますとお釈迦様の教えを理解しているとは到底思えません。多少なりとも仏教の教えを学ばれていたならば、説かないであろう教えを説かれていますので、とても信用できる話ではありません。

 

この他にも自分の指導霊は大日如来であるとか、釈迦が降りてきて教えを説いたとか言う霊能者や新興宗教の教祖は珍しくないようです。しかし、霊能者や新興宗教の教祖が信者を騙そうとして〇〇の生まれ変わりであると語っているかとなれば別です。霊能者や新興宗教の教祖に騙す気持ちはなくても背後で低級霊が本人を操っている可能性があります。自分の過去世は誰でも知っているような武将であると言われていた方にしても低級霊に翻弄されていた可能性が高いのではないかと思われます。

 

低級霊と言っても生前に多少なりとも修業をしていた行者ならば、奇跡とも言える現象を起こす場合もありますし、もっともらしい教えを説くことも可能ですが、道徳論に毛の生えた程度の教えしか説けないようです。しかし、霊能者や新興宗教を頼る方には、そのことは大きな問題ではなく、霊能者や教祖の持つ霊能力に魅力を感じているのではないかと思います。現世利益を追い求めた結果と言えるとは思いますが、現世利益を離れて純粋に心の教えだけを説いていても人は集めることは難しくなります。

 

そのため、現世利益を否定する気持ちはありませんが、現世利益を与えるための法力や霊能力を追い求め始めますと、転落した行者の影響を受けやすくなります。最初は善意から生まれ持った霊能力を利用していても気付けば転落の道を歩んでいたことになってしまった方は多いようです。これは何も霊能者に限られた話ではなく、占い師でも同じです。霊感や霊視を謳われている占い師は多いのですが、霊感や霊視に頼っているならば、霊能者と同じであり、低級霊に翻弄される可能性は高くなります。

 

過去に良く当たると評判の占い師の多くは、狐や蛇が後ろで教えていると言った話を何度か聞きました。個人的には霊視は得意ではありませんので何とも言えませんが、過去に占いのブースなどに近寄りたくないと感じたことは何回かありました。ただ、過去の経験から書きますと、占い師に相談される方は、相手が知らないはずのことを言い当てられることで占い師を信用される傾向があるのではないかと思います。

 

管理人が占い師になる前に、仕事のことで占い師に相談したことがありました。その占い師の方は、こちらの相談内容を聞こうとすることもなく、手相を見ながらあれこれ話し始めました。内心は「そんなことはどうでいい」と思いながらも黙って聞いていましたが、今から考えますと客の心をつかむための方法ではなかったかと思います。そのため、客の心をつかむためにも霊感や霊視に頼るようになるのではないかと思います。

 

こんなことを書いていますと「お前はどうなのだ」と言われそうですが、厳密に言えば占い自体が直感や霊感とは無関係な世界ではありません。ましてタロット・カードは魔術の道具としても利用されていましたので、改めて霊感と謳う必要もないと思いますが、霊能力は主に低級霊の惑わしを防ぐことに使っていると言えます。

 

次回もこの話が続きます。

 

 

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at 11:36, 星 良謙・子授け地蔵, 心霊現象と神秘体験

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