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専門家と言う名前の素人1(星)

仏教の話を投稿するのは、苦痛ではありませんが、本の内容を転記が中心では自分の記事ではないような気がします。

やはり、自分の言葉で書かないと書いた気分にはなりません。

そのため、今回は以前から気になっている事を取り上げます。

 

以前にも専門家と呼ばれる方の話でも信用できないこともあることを書きましたが、最近は以前よりも酷くなっている気がします。しかし、これは以前よりも酷くなったのではなく、ネット社会となり、情報を得やすくなったことから専門家の語る嘘を見抜きやすくなったことが原因かもしれません。これが30年前ならば、個人が世の中に何らかの情報を発信しようとしても、これと言った手段はありませんでした。

 

逆に情報を得ようとしても占いなどのように専門的な内容の場合には、情報を探すことが非常に大変でした。一般的な書店に占いの専門書が置いてあることは非常に少なく、見つけた場合には取り敢えず買うしかなくい状況でした。占いの専門書が揃っている書店を見つけてからも苦労は続き、信頼できる著者を見つけた場合には、著書の紹介に書かれた本を取り寄せていました。その当時に比べますと、本を探すのは非常に簡単になっただけでなく、ネットだけで調べられることも少なくありません。しかし、個人的には、書店の店頭で手にとって内容を確認しながら買う方が安心ですので、なるべく本屋で買うようにしています。

 

話は変わりますが、管理人が若い頃には、毎朝朝刊を読むのが当たり前の時代でしたが、一昨年の11月に新聞の定期購入を中止しました。購入を中止する1年以上前から記事の内容に疑問を抱くことが増え、政治関係の記事は見なくなり、次に一面もどうでも良い話が多いことから無視するようになっていました。次第に経済関係とスポーツの記事しか読まなくなりました。最終的には、玄関先に読むことのない新聞が溜まるようになり、新聞の定期購入を中止しました。

 

新聞記事に興味を失った理由を考えますと、新聞から得られる情報の価値が以前に比べますと相対的に低くなったことが理由ではないかと思います。インターネットが充実する前は、社会情勢を知る手段はマスコミに頼るしかありませんでした。情報を握る者が権力を持つと言いますが、その意味ではマスコミは巨大な権力を持っていたと言えますが、情報源が分散したならば、相対的に地位が低下するのは当然と言えます。

 

勿論、新聞から価値ある情報が得られるならば、情報源が増えても影響はないのでしょうが、個人的には、今の新聞に何の魅力も感じません。銀行などで時間待ちの際に新聞を読んでも何も変わっていないなと思うだけであり、お金を払ってまで読む気にはなれません。しかし、テレビやラジオも新聞と大差がないと思うことも少なくありません。

 

以前の事ですが、ワイドショー番組の皇室の話題の際に解説者が「歴代の天皇は政治に関わってこなかった」と言った内容のことを言ったことがありました。

 

(@@?(?@@(@@?@@)@@?)(@@;)

 

何を言っているのかと、一瞬思考停止しました。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施した後醍醐天皇(ごだいごてんのう)、壬申の乱で大友皇子と戦った天武天皇(てんむてんのう)は政治に関与しなかったとでも言う気か、天皇家が政治に関与しなくなったのは、武家政権が実権を確立した以降であり、近世になってからの話です。鎌倉幕府の崩壊に後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が関与していることを考えるならば、「歴代の天皇は政治に関わってこなかった」とはとても言えないはずです。そんなことは高校生でも歴史で習うことなのに、何を言っているのかと思いました。

 

近現代となりますと、政治的な問題にもなりますので触れませんが、少なくとも戦後に限定して「天皇は政治に関わってこなかった」と言うべきではなかったと思います。少なくとも解説者ならば、その程度の配慮はできて当然であり、その程度の配慮ができないならば、解説者を引き受けるべきではないと思いますが、テレビ番組に登場する解説者の話には、疑問を感じることは少なくありません。その繰り返しで、テレビ離れも進んでいます。

 

似たようなことは、経営コンサルタントなどの企業相手のコンサルタントと呼ばれる方々にも感じます。以前の事ですが、ある経営者の方から経営書の執筆を依頼されました。結局、原稿が8割ほど完成した段階で話は流れてしまいましたが、いずれ電子出版で出版しようかと考えています。その頃に、原稿を執筆していた当時に経営コンサルタントの本を何冊か読みましたが、あまり参考になりませんでした。

 

経営コンサルタントの方は、軍事学を引用されることが多いのですが、軍事学の基本を理解していないのに軍事学について書いていることから支離滅裂な解説になっていることが少なくありません。勿論、管理人も軍事学については素人ではありますが、高校の頃から軍事学に興味があった事やジェット戦闘機が好きで航空雑誌を毎月購入していた時期もありましたので、一般の方に比べるならば多少は詳しい程度です。しかし、そんな素人にも分かるような間違いが少なくありません。

 

以前に購入した経営コンサルタントの書かれた本には、戦略と戦術の違いを明確に区別することは困難であると言った内容があり、軍事学のいろはとも言える程度のことが分からずに戦略や戦術について書いているのかと愕然としました。軍事学の素人であるならば、軍事学を引用することなく、経営理論を駆使して解説すれば済む話なのですが、本の中には戦略や戦術と言った言葉が溢れていました。当然のことながら書かれている内容はもっともらしくても空理空論ばかりであり、支離滅裂な内容でした。

 

戦略と戦術の言葉の意味ならば辞書にも書いてあります。

戦略 戦争の総合的な準備・計画・運用の方策。

戦術 戦闘を行う上の方策。

 

戦略の定義は時代・地域・分野によってその意味は異なりますが、基本的な考え方としては辞書の内容であると言えます。つまり戦略とは、戦闘部隊が優位を確保できるように全体的な観点からの作戦であり、戦術は戦闘において勝利を得るための部隊の運用となります。そのため、戦略は基本方針、戦術は具体策とも言えますが、戦術あっての戦略であり、戦略あっての戦術ですので、どちらが重要かと言うべき問題ではないと思います。

 

しかし、この本の中では戦術的ではあっても戦略的でない企画が悪いことの様に書かれています。この著者は、戦略と戦術の区別が全く分かっていないと思いました。例えば、1つの部署が特定の商品の販売の方法を検討している際に会社全体に与える影響を考慮しなければならないのでしょうか。もし、会社全体に影響するような問題であるならば、末端の部署が扱う問題ではなく、経営陣が扱うべき問題となります。

 

会社の方針ならば、部署の扱うことができる問題ではなく、経営陣の扱うべき問題となります。そのため、同じ企画と言っても戦略的な企画なのか、戦術的な企画なのかでは目的も異なります。そのため、戦術と戦略を区別して考えなければ混乱を起こしますが、著者は、そのことを理解していないのでないかとか思いました。また、この本の著者は戦略的であることが良いことであるとの前提で書かれていましたが、優れた戦術は戦略の失敗を補うことはできますが、戦略が優れていても戦術の失敗を補うことはできないことをご存知ないのかと思いました。

 

優れた戦略は、優れた戦術なくして成り立たない話なのですが、このような事例は、少なくありませんでした。別に軍事学に精通していなければ、経営について語るべきではないとは考えませんが、軍事学を引用して経営について語られるのであるならば、最低限の知識は必要となります。また、経営コンサルタントの方は、戦国武将の話を引用されることも多いようですが、経営コンサルタントの方が紹介する戦国武将の話には俗説が多く閉口しました。

 

管理にも経営書を執筆中に戦国武将については多少調べましたが、小説や映画で取り上げられている話は俗説が多く、史実は異なることが少なくありませんでした。しかし、経営コンサルタントの方の多くは、小説や映画の話を史実と考え、戦国武将の戦術や戦略を語られていました。戦国武将の軍略について解説されるならば、当時の社会情勢を調べるのは最低限の義務だと思うのですが、俗説を下敷きにして解説されているようです。当然のことながら導き出される結論も見当はずれなないようとなります。経営コンサルタントの方は経営のプロかも知れませんが、軍事学や歴史家ではないことをもう少し自覚して欲しいと思います。

 

 

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at 11:48, 星 良謙・子授け地蔵, 管理人のひとりごと

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極楽往生8(星)

先日のことですが、牡丹の花が咲いていました。

 

こんな時期にと少しばかり驚きましたが、綺麗に咲いていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それはさておき・・・

 

今回の「下品中生(げぼんげしょう)」には、称名念仏を称えることで極楽往生できることができることが説かれていますので、他力門では重視されています。今回は、経典のご紹介が目的ですので深入りしませんが、浄土宗と浄土真宗では、解釈が異なる箇所もあります。

 

 

 仏、阿難(あなん)および韋提希(いだいけ)に告げたもう、「下品中生(げぼんげしょう)とは、あるいは衆生ありて、不善業の五逆・十悪を作り、(その他)もろもろの不善を具す。かくのごとき悪人、悪業をもってのゆえに、まさに悪道に堕(だ)し、多劫(たこう)を経歴(きょうりゃく)して、苦を受くること窮(きわ)まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終わる時に臨みて、善知識の、種々に安慰(あんに)して、ために妙法(みょうほう)を説き、教えて仏を念ぜしむるに遇(あ)わん。

 

浄土三部経(下) 中村元・早島鏡正・紀野一義訳註 岩波文庫 P78

 

※経歴 経過すること、過ぎ去ること。時の移り変わり。

※五逆 極楽往生4に詳しい解説があります。こちらから

※十悪 殺生・偸盗・邪婬・妄語・綺語・悪口・両舌・慳貪・瞋恚・邪見

※かくのごとき悪人 生死輪廻する者

 

 この人、苦に逼(せま)られて、仏を念ずるに遑(いとま)あらず。(かの)善友(ぜんぬ)、告げていう、『汝よ、もし(仏を)念ずることあたわざれば、まさに無量寿仏(むりょうじゅぶつ)[の名(みな)]を称うべし』と。かくのごとく、至心(ししん)に、声をして絶えざらしめ、十念(じゅうねん)を具足(ぐそく)して、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)を称えしむ。仏の名(みな)を称うるがゆえに、念々の中において、八十億劫の生死(しょうじ)の罪を除き、命終わる時、金蓮華(こんれんげ)の、なお日輪(にちりん)のごとくにして、その人の前に住するを見ん。

 

浄土三部経(下) 中村元・早島鏡正・紀野一義訳註 岩波文庫 P78

 

※無量寿仏 阿弥陀仏の異名

浄土真宗の常用経典である正信偈の冒頭に「帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい) 南無不可思議光(なむふかしぎこう)とありますが、無量寿如来も不可思議光如来も阿弥陀仏の異名です。

※仏を念ずる 次に称名とあることから称名念仏とは異なると解釈できますが、宗旨によって解釈が異なります。

 

 一念の頃(あいだ)ほどに、すなわち極楽世界に往生することをえ、蓮華の中において、十二大劫を満たし、蓮華まさに開く。(その時)観世音・大勢至・大悲(だいひ)の音声(おんじょう)をもって、それがために、広く諸法の実相(じっそう)と、罪を除滅する法を説く。(この人)聞きおわりて歓喜(かんぎ)し、菩提の心を発(おこ)す。これを<下品中生(げぼんげしょう)の者>と名づく。[下品(げほん)の三種類の往生の観想(かんそう)]これを下輩(げはい)の生まるる想いと名づけ、第十六観と名づく。

 

浄土三部経(下) 中村元・早島鏡正・紀野一義訳註 岩波文庫 P77-78

 

諸法の実相 すべてのもののありのままなる真実の姿

 

「この人、苦に逼(せま)られて、仏を念ずるに遑(いとま)あらず。(かの)善友(ぜんぬ)、告げていう、『汝よ、もし(仏を)念ずることあたわざれば、まさに無量寿仏(むりょうじゅぶつ)[の名(みな)]を称うべし』と。」とおりますが、本来の念仏とは、文字通り仏を観想する念仏であったと思われます。

 

観無量寿経の前半には、極楽浄土を観想するための方法として日想観・水観・地観・宝樹観・宝池観・宝楼観・華座観・像観・真身観・観音観・勢至観・普観・雑観の方法が説かれています。観想とは、あまり聞きなれない言葉ですが、特定の対象に向けて心を集中し、その姿や性質を観察することであり、簡単に言えば、心の中で明確にイメージすると言ったことでしょうか。

 

しかし、命が終わろうとしているときに、心を静めて仏を心に思い浮かべるゆとりもないことから仏の名前を称えることを勧め、十念仏を称えた功徳で罪が取り除かれるとされています。ただ、極楽浄土の蓮華(ハス)の花の中に往生できても花が開くまでに十二大劫が必要とありますので、地球最後の日まで蓮華(ハス)の花の中にいると言うことでしょうか。

 

先日、菩提寺のご住職にこのことをお話したところ、蓮華(ハス)の花の中と言っても極楽浄土であることから一切の苦しみはないとされているとのお話でした。そうすると孤独も苦悩ではなくなると言う事なのかと考えていました。

 

いずれにしても観無量寿経を素直に読みますと、極楽往生は簡単な話ではないとの話となります。法然上人や親鸞聖人がこの程度のことを知らないはずもなく、阿弥陀仏の真意は別にあると解釈します。つまり、観無量寿経を素直には解釈されないからこそ、念仏を称えるだけで往生できると説かれています。そのことについてはいずれ機会を改めて取り上げさせて頂きます。

 

今回の「下品中生(げぼんげしょう)」で一応一区切りとさせて頂こうかと考えていますが、極楽往生の方法論が説かれているのは、観無量寿経だけではないことに今頃気づきました。α~ (ー.ー") ンーー

 

阿弥陀経の中にも極楽往生の方法が説かれていますし、無量寿経の中にも説かれていますので、触れておくべきなのでしょうが、次回からは少し他力門の話を離れたいと考えています。

 

 

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at 23:44, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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極楽往生7(星)

春2番が吹き荒れているようですが、早咲きの梅が咲いていました。

 

 

 

 

 

 

今は桜が春の花の主役ですが、奈良や平安時代には梅の花が主役であったと聞いています。

 

それはさておき・・・・

今回は、下品中生です。難解な話ばかりが続いており、申し訳ありません。

次回の下品下生が最後となりますので、もう暫くお付き合いください。m(_ _)m

 

 

 仏、阿難(あなん)および韋提希(いだいけ)に告げたもう、「<下品中生(げぼんちゅうしょう)>とは、あるいは衆生ありて、五戒、八戒および具足戒(ぐそくかい)を毀犯(きぼん)す。かくのごとき愚人、僧祇物を偸(ぬす)み、現前僧物(げんぜんそうもつ)を盗み、不浄説法(ふじょうせっぽう)をして、慚愧(ざんき)あることなく、もろもろの悪業(あくごう)をもって、みずから荘厳す。かくのごときの罪人、悪業(あくごう)をもってのゆえに、まさに地獄に堕(だ)すべし、命終わらんと欲する時、地獄の衆火(しゅか)、一時にともに至るに、善知識の、大慈悲をもって、ために阿弥陀仏の十力の威徳を説き、広くかの仏の光明の神力を説き、また戒・定・慧・解脱・解脱知見(げだつちけん)を讃(たた)えるに遇わん。

 

浄土三部経(下) 中村元・早島鏡正・紀野一義訳註 岩波文庫 P76-77

 

※毀犯 調べてみましたが、意味不明です。現代語訳では犯し破る意味として訳されています。

※僧祇物 比丘・比丘尼の出家教団に所属する財物・物資のこと

※現前僧物 施主から同一の結界内にいる現前僧たる比丘・比丘尼に施(ほどこ)された生活物資

※不浄説法 自己の名声や利益のために、仏の法を説くこと

※衆火 もろもろの猛火

※慚愧 自分の見苦しさや過ちを反省して、心に深く恥じること

※善知識 出家・在家を問わず、正しい道理を教えて仏道に導く人

※戒・定・慧・解脱・解脱知見 五分法身(ごぶんほっしん)のこと

戒をたもち、禅定(ぜんじょう)に入り、智慧(ちえ)をひらき、すべての煩悩(ぼんのう)から解放されて、心の安らかさを自覚するという五つの功徳(くどく)

 

 この人、聞きおわりて、八十億劫の生死(しょうじ)の罪を除く。地獄の猛火、化(け)して清涼(しょうりょう)の風となり、もろもろの天華(てんげ)を吹く。(その)華の上に、みな化仏(けぶつ)・[化(け)]菩薩ありて、この人を迎接(こうしょう)したもう。一念の頃(あいだ)ほどに、すなわち七宝の池中の蓮華の内に往生することをう。六劫を経て、蓮華すなわち敷(ひら)く。華の敷(ひら)く時にあたりて、観世音・大勢至、梵音声(ぼんおんしょう)をもって、かの人を安慰(あんに)し、ために大乗の甚深(じんじん)の経典を説きたもう。この法を聞きおわりて、ただちに、すなわち無上道の心を発(おこ)す。これを<下品中生(げぼんちゅうしょう)>と名づく。

 

浄土三部経(下) 中村元・早島鏡正・紀野一義訳註 岩波文庫 P77

 

※梵音声 清らかな声

※安慰 人の心をやすらかにし,なぐさめること

※甚深 はなはだ意味深遠であること。神秘であること

 

下品中生が前提にしているのは、悪人と呼ばれる人を前提にしていると思われます。賽銭泥棒をしたこともなく、お寺の金品を盗んだことはないと思いますが、無意識に自己の名声や利益のために、仏の法を説くことはあるかもしれません。自分は仏教に関心もなく、何も知らないことから仏の教えを説く機会などないと言うのも問題かもしれませんが、聞く人間が「???」と言った印象を抱く話をするよりは良いのかもしれません。

 

暫く前に出家すると宣言して所属事務所との契約を一方的に破棄した女優もいましたが、宗教活動に専念する前に社会常識を守るべきであり、一方的に契約破棄して多くの方に迷惑をかけながら宗教活動をすることには疑問を抱きます。また、この教団の教祖は。この女優の守護霊の霊言を出版して出家を決断するように促したとか、この女優の行動は教祖の意志でもあると言うことでしょうか。そうであるならば、信者に社会常識を守らせるべきであり、それができない教祖を信用することはできませんが、そんな教祖が説く教えは、「不浄説法」なのでしょうか。

 

話を戻しますと、今回も危篤時に教えを聞くことが前提になっていますが、生きている間に教えを学ぶことの大切さを説いていると解釈すべきでしょうか?

 

それにしても「六劫を経て、蓮華すなわち敷(ひら)く。」とありますので、極楽に往生したとしても無限とも言える時間を蓮華(ハス)の花の中で過ごさなければならないならば、それはそれで大変かと思います。

 

 

ご相談は こちらから

at 12:09, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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極楽往生6(星)

九種類の極楽往生について書いてきましたが、正直な気持ちとしてはそろそろ他の話題を取り上げたい気分です。

細かいことを取り上げるならば、迎えに来られる仏の違いや待遇の違い、得られる悟りや悟りを得るまでの期間の違いなどはありますが、極楽に往生できるだけで充分ではないかと思ってしまいます。

 

この記事を投稿した理由は、最初に書きましたが、比叡山で修業していた性救と言う僧侶が極楽往生は至難の業であると語られたことが理由ですが、天台宗の本を読んでいますと極楽往生に関する話に触れられていないことを疑問に感じて調べていたときに見つけた話でした。天台宗では、念仏を称えますし、念仏を熱心に勧めた空也上人や源信僧都は天台宗の僧侶であることを考えるならば不思議でした。

 

あれこれ調べていましたところ、八宗綱要の中に天台宗における極楽浄土の位置づけについて書かれた話はありました。このことについては、いずれ機会があればご紹介したいと思います。

 

さて、今回は下品上生となります。

 

読み下し文が苦手な方は下記のサイトを参考にして下さい。

個人的には、微妙な違いが気になりますので、岩波文庫から引用しました。

 

現代語訳 ウィキアーク 現代語 観無量寿経 こちらから

 

 仏、阿難(あなん)および韋提希(いだいけ)に告げたもう、「<下品上生(げぼんじょうしょう)>とは、あるいは衆生ありて、もろもろの悪業(あくごう)を作る。方等経典(ほうどうきょうてん)を誹謗(ひぼう)せずといえども、かくのごときの愚人、多くのもろもろの悪を造りて、斬鬼(ざんき)あることなし。命終わらんと欲する時、たまたま善知識、(その人の)ために大乗十二部経(だいじょうじゅうにぶきょう)の首題(しゅだい)の名字を讃(たた)えん。かくのごときの諸経の名を聞くをもってのゆえに、千劫(せんごう)の悪業(あくごう)を除却(じょきゃく)す。

 また、(その人に)教えて、合掌・叉手(しゅしゅ)して、<南無阿弥陀仏>と称えしむ。仏の名を称うるがゆえに、五十億劫の生死(しょうじ)の罪を除く。

 

浄土三部経(下) 中村元・早島鏡正・紀野一義訳註 岩波文庫 P75-76

 

※方等経 大乗仏教経典の総称

※斬鬼 自分の見苦しさや過ちを反省して、心に深く恥じること

※善知識 出家、在家を問わず、正しい道理を教えて仏道に導く善き人

※大乗十二部経 仏教の経典の形態を形式,内容から 12種に分類したもの

※首題(しゅだい)の名字

※除却 取り除くこと

※叉手 仏教で、合掌に次ぐ礼法。礼拝のとき、握った右手を左手でおおい、またはその逆をし、胸に当てる。

 

 その時、かの仏、すなわち化仏(けぶつ)化観世音(けかんぜおん)・化大勢至(けだいせいし)を遣(つか)わして、行者の前に至り、讃(たた)えていいたもう、『善男子(ぜんなんし)よ、汝、仏の名(みな)を称えうるがゆえに、もろもろの罪消滅す。われ、来りて汝を迎う』と。この語のなしおわるに、行者、すなわち化仏(けぶつ)の光明の、その室に遍満(へんまん)せるを見る。見おわりて、歓喜し、すなわち命終わる。

 

 (そのとき)宝蓮華に乗り、化仏(けぶつ)の後(しりえ)に随って、宝池の中にうまる。七七日を経て、蓮華すなわち敷(ひら)く。華の敷(ひら)く時にあたりて、大悲(だいひ)の観世音菩薩および大勢至(だいせいし)菩薩、大光明を放ちて、その人の前に住(じゅう)[立(りゅう)]し、ために甚深(じんじん)の十二部経(じゅうにぶきょう)を説きたもう。(かれ、これを)聞きおわりて信解(しんげ)し、無上道の心を発(おこ)す。小十劫を経て、百法明門(ひゃっぽうみょうもん)を具し、初地(しょじ)に入ることをう。これを<下品上生(げぼんじょうしょう)>と名づく。(かれ)仏の名(みな)と法の名を聞き、および僧の名を聞くことをうればなり。三宝(さんぽう)の名を聞かば、すなわち往生をうるなり。

※百法明門 明とは明らかな智慧のことで、それへ到る教えを門といい、それの百を数えたもの

※初地 菩薩の悟りの段階「十地」のうちの初地 歓喜地のこと。全五十二位の第四十一位にあたる。

 

浄土三部経(下) 中村元・早島鏡正・紀野一義訳註 岩波文庫 P76

 

前回は、危篤状態で善知識から阿弥陀仏の四十八願について聞くことが条件でしたが、今回は大乗十二部経のお経の題名を聞くことが条件となります。しかし、大乗十二部経と言っても「大乗十二部経」と言う名前のお経があるわけではなく、大乗経典を12に分類した名前です。そのため、具体的なお経の名前が分かりません。学者によっては、「大乗十二部経」とは、すべてのお経のことと解釈されている方もいるようです。

 

すべてのお経となりますと、仏教学者や僧侶の方でもすべてを暗記している方は限られると思います。現実的に考えるならば、目録でもない限りは、すべての大乗経典の題名を読み上げることは不可能な話ではないか思います。いずれにしても文字通りに解釈するならば、かなりの幸運に恵まれなければ、極楽往生できないことになります。

 

 

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at 12:05, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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極楽往生5(星)

寒い日が続いております。

東京では、春一番が吹いたとの話がありましたので、春も近いと言ったところでしょうか?

 

本題に入る前に・・・

 

白ギツネ様、コメント有難う御座います。

 

ところで、率直に言って星様は菩薩スレスレでしょ。でなきゃこんなブログもやらないし、開運の方法で読者のために祈願して回るとか、そんな出超丸出しの酔狂なこともやらないでしょw菩薩スレスレだからご心霊が総がかりでサポートしてるんじゃないんですかね?

 

菩薩と言っても小乗仏教の時代には、悟りの段階としての定義は明確でしたが、大乗仏教の時代になりますと定義は次第に曖昧となります。小乗仏教では菩薩になれる人は限られた人だけであり、一般の人間は阿羅漢までとされていました。しかし、大乗仏教になりますと「仏様になろうと永遠に努力しつつ、常に他の人のことも考えて、大慈悲の心を持つ人」と解釈されるようになり、定義が拡大します。悟りの完成者ではないことから歴史上の人物の称号、高徳の修行者の尊称としても使われるようになっただけでなく、時代が下るにつれ、悟りを目指す在家信者も含めて菩薩とされるようになりました。

 

事務的ではありますが、読経の際に四弘誓願を読んだことはあります。四弘誓願は菩薩の誓願とされていますので、広義の意味では管理人も菩薩と言うことになります。

 

四弘誓願

1.衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)
2.煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん) 
3.法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)
4.仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)

尚、宗旨によって多少異なるようです。

 

さて、今回は、引用の文章量が少ないことから中品中生と中品下生を取り上げます。

 

読み下し文が苦手な方は下記のサイトを参考にして下さい。

個人的には、微妙な違いが気になりますので、岩波文庫から引用しました。

 

現代語訳 ウィキアーク 現代語 観無量寿経 こちらから

 

 <中品中生(ちゅうぼんちゅうしょう)>とは、もし衆生ありて、もしは一日一夜、八戒斎(はっかいさい)を受持し、もしは一日一夜、沙弥戒(しゃみかい)を持(たも)ち、もしは一日一夜、具足戒(ぐそくかい)を持(たも)ちて、威儀(いぎ)欠くることなければ、この功徳をもって、廻向して極楽国に生まれんと願求す。戒香熏修(かいこうくんじゅ)せる、かくのごとき行者、命終わらんと欲する時、阿弥陀仏、もろもろの眷属とともに、金色(こんじき)の光を放ち、七宝の蓮華を持ちて、行者の前に至りたもうを見る。

 行者、みずから聞くに、空中、声ありて、(かれを)讃えていう。『善男子(ぜんなんし)よ、汝がごときは善人なり。三世の諸仏の教えに随順するがゆえに、われ、来たりて汝を迎え』と。行者、みずから見れば、蓮華の上に座せり。蓮華、すなわち合して、(この人)西方の極楽世界に生まれ、宝池の中に在(あ)り。七日を経て、蓮華、すなわち敷(ひら)く、華、すでに敷(ひら)きおわれば、(この人)目を開き、合掌して世尊を讃歎(さんだん)す。法を聞きて歓喜し、須陀洹(しゅだおん)をえ、半劫(はんこう)を経ておわりて、阿羅漢(あらかん)となる。これを<中品中生(ちゅうぼんちゅうしょう)>と名づく。

 

浄土三部経(下) 中村元・早島鏡正・紀野一義訳註 岩波文庫

 

※沙弥戒 十戒のこと 沙弥(二十歳未満の出家の男子)の守る戒(いまし)めで、八斎戒に不畜金銀宝戒を加えている。沙弥尼戒も同じ。

※具足戒 出家した比丘(びく)、比丘尼(びくに)の守る戒(いまし)め。部はによって数を異にするが、総じて比丘の二百五十戒(びく)、比丘尼(びくに)の五百戒をいう。

※戒香熏修 戒律をたもてば、その功徳がおのずから身にそなわり、やがて広く人々に伝わって徳高き人と尊敬されることを、芳香(ほうこう)が四方にかおるに譬(たと)えていう。「修」は習に同じで、くりかえしなされることによって、それが身について離れないことをいう。修業の本旨(ほんし)もこれである。

※須陀洹 小乗の聖者の修業階位を四種に分けた最初のもの。四諦の道理をさとって聖者の流れに入った位であることから、預流(よる)と訳す。

※劫 仏典では、四十里四方の大石を、天人の羽衣で百年に一度払い、その大きな石が摩滅して無くなってもなお「一劫」の時間は終わらないと譬えている。また、方四十里の城に小さな芥子粒を満たして百年に一度、一粒ずつ取り去り、その芥子がすべて無くなってもなお尽きないほどの長い時間が一劫であるという。

 

中品中生(ちゅうぼんちゅうしょう)の条件ではありますが、かなり厳しい条件です。「もしは一日一夜、八戒斎(はっかいさい)を受持し、もしは一日一夜、沙弥戒(しゃみかい)を持(たも)ち、もしは一日一夜、具足戒(ぐそくかい)を持(たも)ちて、」とありますが、八戒斎(はっかいさい)と沙弥戒(しゃみかい)の違いは、不畜金銀宝戒の有無の違いですが、この違いは大きく、沙弥戒(しゃみかい)を守ろうとするならば、すべての財産を放棄する必要があります。

 

勿論、このことは具足戒でも同じであり、古代インドの修行者のように托鉢用の器と三着の服だけを持って放浪生活をする必要があります。そのため、日本では出家したとしてもとても守ることができる戒律ではなく、托鉢すれば食料を確保することが容易であり、防寒の必要もないインドでなければなければとても守れない戒律であると思います。また、貨幣経済の発達した時代には、在家からの金銭の布施を受け取ることを認めるべきであるとの意見があったとありますが、日本でも鎌倉時代や室町時代にはお寺であってもお金の蓄えなしではお寺を維持することは困難であったのではないかと思われます。

 

 

 <中品下生(ちゅうぼんげしょう)>とは、もし善男子(ぜんなんし)・善女人(ぜんにょにん)ありて、父母に孝養(こうよう)し、世の仁慈(じんじ)を行わん。この人、命終わらんと欲する時、たまたま善知識(ぜんちしき)ねその(人の)ために法蔵比丘(ほうぞうびく)の四十八願を説かん。(その人)この事を聞きおわりて、すなわち命終り、譬(たと)えば壮士の、臂(ひじ)を屈伸する頃(あいだ)ほどに、西方浄土の極楽世界に生まる。

 生まれて七日を経(へ)、観世音および大勢至に遇(あ)い、法を聞きて歓喜す。一小劫(しょうこう)を経(へ)て、阿羅漢(あらかん)となる。これを<中品下生(ちゅうぼんげしょう)の者>となづく。(中品の三種の往生の観想)これを<中輩(ちゅうはいの生まるる想い)>と名づけ、<第十五観>と名づく。

 

浄土三部経(下) 中村元・早島鏡正・紀野一義訳註 岩波文庫

 

※善知識 出家・在家を問わず、正しい道理を教えて仏道に導くひと。

※法蔵比丘 阿弥陀如来が世自在王仏のもとで修業されていた頃の名前

※四十八願 岩波の浄土三部経(下)には、<「魏(ぎ)訳」と「唐(とう)訳」の四十八願を予想しているから『観経』と『大経』の関係を知ることができる。>とありますが、これでは一般の方には分からないと思いますので、補足します。

「仏説無量寿経」(康僧鎧訳)に説かれた法蔵菩薩 が仏に成るための修行に先立って立てた四十八の誓願のことであり、この中の念仏往生の誓願と呼ばれる第十八の願が浄土門の教えでは非常に重視されます。

第十八の願では、「たとい我、仏を得んに、十方の衆生、至心に信楽 (しんぎょう) して我が国に生れんと欲し、乃至十念せん、若し生れずば正覚を取らじ」というものであり、衆生が心から極楽浄土に生まれることを願って十回の念仏を称えれば、必ず往生するようにさせるという誓願です。

 

※壮士 身体が立派で優れた男

※臂を屈伸する頃 僅かな時間のこと

※小劫 人間の寿命が8万歳から100年ごとに1歳を減じて10歳になるまでの間、または10歳から100年ごとに1歳を増して8万歳になるまでの間。また、両者を合わせて一小劫ともする。

※阿羅漢 小乗仏教では、一切の煩悩(ぼんのう)を断ち生死を離れた段階であり、仏教修行の最高段階とされています。

 

中品下生ではありますが、またまだ敷居が高すぎると言うべきでしょうか。要約しますと、両親に親孝行して、危篤状態の時に「仏説無量寿経」に詳しい方が阿弥陀如来の四十八願について説いてくれる幸運に恵まれれば、極楽浄土に往生できるとのことです。管理人の場合には、父は既に他界していますのでもう手遅れですが、親孝行していたとしても、危篤時に「仏説無量寿経」に詳しい方が阿弥陀如来の四十八願について説いてくれる幸運に恵まれる可能性は低いと思います。

 

身近に「仏説無量寿経」に詳しい方がいたとしても危篤時にかけつけてくれるのはかなりの幸運が必要であり、かけつけてくれたとしても危篤状態と言っても意識不明の状態では意味がありません。少なくとも意識が明確にあることが条件であり、聞き終わってから命が終わるとなれば、更に条件が厳しいと言うところでしょうか。

 

 

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at 15:30, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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極楽往生4(星)

このところ、難しい話ばかり続いており申し訳ありません。m(_ _)m

仏教の教えをご紹介しますと、どうしても専門用語の羅列になることは避けられません。

一応、現代語訳のサイトのリンクを貼ってありますので、細かいことを気にされないのであれば、リンク先の現代語訳をお読みください。

 

今回は、中品上生となります。

 

読み下し文が苦手な方は下記のサイトを参考にして下さい。

個人的には、微妙な違いが気になりますので、岩波文庫から引用しました。

 

現代語訳 ウィキアーク 現代語 観無量寿経 こちらから

 

 仏、阿難(あなん)および韋提希(いだいけ)に告げたもう、「<中品上生(ちゅうぼんじょうしょう)>とは、もし、衆生ありて、五戒を受持し、八戒斎(はっかいさい)を持(たも)ち、もろもろの戒を修業して、五逆(の罪)を造らず、もろもろの過患(かげん)なければ、この善根をもって、廻向して西方の極楽浄土に生まれんと願求(がんぐ)す。

 (この人)命終わるに臨んで、阿弥陀仏、もろもろの比丘(びく)とともに、眷属に囲繞(いにょう)せられ、金色(こんじき)の光を放ちて、その人の所に至り、苦・空・無常・無我(の法)を演説し、出家の、もろもろの苦しみを離るることを讃歎(さんだん)したもう。

 行者(これを)見おわりて、心、大いに歓喜す。みずから己が身を見れば、蓮華の台(うてな)に座せり。長跪(じょうき)合掌して、仏に礼をなす。いまだ頭(こうべ)を挙(あ)げざる頃(あいだ)に、すなわち極楽世界に往生することをえて、蓮華すなわち開く。華、敷(ひら)く時にあたりて、もろもろの音声を聞くに四諦を讃歎(さんだん)す。ただちに阿羅漢(あらかん)の道(どう)(果・か)をえ、三明(さんみょう)・六通(ろくつう)あり、八解脱(はちげたつ)を具す。これを<中品上生(ちゅうぼんじょうしょう)の者>と名づく。

 

浄土三部経(下) 中村元・早島鏡正・紀野一義訳註 岩波文庫 P75-76

 

※阿難 釈迦の十大弟子の一人、多聞第一(たもん・だいいち)と称せられた

※韋菩希 釈迦が存命の頃のマガダ国の頻婆娑羅(ビンビサーラ)王の妃。夫と共に仏教を信仰した

※五戒(ごかい)とは、仏教において女性・男性とを問わず、在家の信者が守るべきとされる基本的な五つの戒
不殺生戒・不偸盗戒・不邪婬戒・不妄語戒・不飲酒戒

※五逆 小乗の場合

父殺し、母殺し、阿羅漢殺し、仏身から血を出さしめ、および仏教教団を破壊する五つの罪

 

※五逆 大乗の場合

上記は小乗仏教の場合ですが、大乗仏教は異なる罪が五逆とされています。

1.搭寺を破壊し、経蔵を焼き三宝の財宝を盗むこと、2.声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)・大乗の教えをそしること、3.出家者の修行を妨げあるいは殺すこと、4.小乗の五逆、因果の道理を信じず、5.十不善行をすることとされています。

十不善行 殺生、偸盗、邪淫、妄語、両舌、悪口、綺語、貪欲、瞋恚(自分の心に逆らうものを憎み怒ること)、邪見

 

※過患 あやまち

※台 極楽に往生した者の座る蓮 (はす) の花の形をした台 

※長跪 両ひざを並べて地につけ、上半身を直立させる礼法

※八戒斎 毎月8日、14日、15日、23三日、29日、30日の6日間の斎日に守るべき戒
不殺生戒、不偸盗戒、不淫戒、不妄語戒、不飲酒戒、香油塗身戒、歌舞観聴戒、高広大床戒、非時食戒

※音声 人間の声

※四諦 迷いと悟りとの因果を苦諦・集諦・滅ひ・道諦の四つに分けて説明したもの

※阿羅漢 尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のこと、小乗仏教の信徒たちが目指すべき最高の境涯

※果 阿羅漢の段階を進み入る段階の「向」と成就した段階「果」に分ける 
※三明 自他の過去世の姿を明らかに知る智慧である宿命明(しゅくみょうみょう)、自他の未来の生・死を明らかに知る智慧である天眼明(てんげんみょう)、四諦の道理を知って煩悩を断ずる智慧である漏尽明(ろじんみょう)の三種類の優れた智慧

※六通 六神通力のこと 神足通、天耳通、他心通、宿命通、天眼通、漏尽通

※八解説 不浄観や四無色定(しむしきじょう)などの八種の心統一の方法によって、むさぼりを離れ阿羅漢のさとりをうること

 

経典を読んでいますと、時々矛盾した表現に悩むことがあります。この「五戒を受持し、八戒斎(はっかいさい)を持(たも)ち、もろもろの戒を修業して」もその一つです。五戒は仏教において女性・男性とを問わず、在家の信者が守るべきとされる基本的な戒でありむ、八戒斎は五戒の不邪婬戒を不淫戒とし、香油塗身戒、歌舞観聴戒、高広大床戒、非時食戒を加えた戒律であり、毎月8日、14日、15日、23三日、29日、30日の6日間の斎日に守るべき戒とされています。そのどちらの戒を守るべきと読むべきなのでしょうが、「もろもろの戒を修業して」とは更に別の戒律も守れと言うことになります。

 

更に五逆は小乗の五逆なのか、大乗の五逆なのかの疑問が残ります。観無量寿教は大乗仏教経典ではありますが、初期の大乗仏教経典ですので、小乗の五逆と読むべきかと考えています。岩波文庫の注釈でも小乗の五逆となっています。ただ、大乗の五逆はあまりにも厳格な基準ではないかと思います。最後の十不善行まで五逆ならば、大部分の衆生は五逆の罪を問われることになります。いずれにしても、八戒斎を守ることは難しいのではないかと思います。

 

管理人には、普段から虫一匹も殺さず、嘘も言わず、歓楽街とは無縁な生活をするだけでなく、酒も飲まず、月に6日は化粧品や整髪料の類は一切使用せず、音楽も聞かず、午後からは一切食事をしない生活をする自信はありませんが、更に諸々の戒律を守り通すことは、出家生活以上に禁欲的な生活となることだけは間違いがないと思います。

 

これでもまだ中品上生ですので、極楽浄土への道のりは厳しいと考えるのは無理もないと思います。

 

 

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at 17:54, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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悟りの段階3(星)

悟り段階の話は、2回で終わるつもりでしたが、弘法大師の説かれた十住心を忘れていたことに気付きました。(- .-)ヾ ポリポリ

 

今回も本からの引用を中心にご紹介します。

 

 10の心の世界とは次のとおりである。なお、『宝鑰(ほうやく)』には、これについておのおのの心の世界の内容を要約した詩がそえてあるので、現代語訳して示すことにしよう。

 

第一住心 異生羝羊心(いしょうていようしん)― 倫理以前の世界
 無知な者は迷って、わが迷いをさとっていない。雄羊のように、ただ性と食とのことを思いつづけるだけである。

 

第二住心 愚童持斎心(ぐどうじさいしん)― 倫理的世界

 他(ほか)の縁によって 、たちまち節食を思う。他(ほか)の者に与える心がめばえるのは、穀物が播(ま)かれて発芽するようなものである。
 
第三住心 嬰童無畏心(ようどうむいしん)― 宗教心の目覚め

 天上の世界に生まれて、しばらく復活することができる。それは幼児や子牛が母にしたがようなもので、一時の安らぎにすぎない。
 
第四住心 唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)― 無我を知る

 ただ物のみが実在することを知って、個体存在の実在を否定する。教えを聞いて悟る者の説は、すべてこのようなものである。
 

第五住心 抜業因種心(ばっごういんじゅしん)―おのれの無知を除く。
 いっさいは因縁よりなることを体得して、無知のものを取り除く。このようにして迷いの世界を除いて、ただひとり、さとりの世界を得る。

 
第六住心 他縁大乗心 (たえんだいじょうしん)― 人びとの苦悩を救う。
 一切衆生に対して計り知れない愛の心をおこすことによって、大なる慈愛がはじめて生じる。すべての物を幻影と観じて、ただ心のはたらきのみが実在であるとする。
 
第七住心 覚心不生心 (かくしんふしょうしん)― いっさいは空(くう)である。
 あらゆる現象の実在を否定することによって、実在に対する迷妄(めいもう)を断ち切り、ひたすら空を観ずれば、心は静まってなんらの相(すがた)なく安楽である。
 
第八住心 一道無為心(いちどうむいしん)― すべてが真実である。

 現象はわけへだてなく清浄(しょうじょう)であって、認識における主観も客観もともに合一している。そのような心の本性(ほんしょう)を知るものを称して仏(大日如来)というのである。 

第九住心 極無自性心 (ごくむじしょうしん)― 対立を越える
  水にはそれ自体の定まった性(しょう)はない。風があって波が立つだけである。さとりの世界はこの段階が究極ではないという戒(いまし)めによって、さらに進む。
 
第十住心 秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)― 無限の展開

 密教以外の一般仏教は塵(ちり)を払うだけで、真言密教は庫(くら)の扉(とびら)を開く。そこで庫(くら)の中の宝はたちまち現れて、あらゆる価値が実現されるのである。

 

仏教の思想9 生命の海<空海> 宮坂宥勝・梅原猛著 角川ソフィア文庫 P122-124

 

十住心体系

第一住心 異生羝羊心(いしょうていようしん)― 倫理以前の世界 
第二住心 愚童持斎心(ぐどうじさいしん)― 倫理的世界(例、儒教・仏教の倫理道徳)  
第三住心 嬰童無畏心(ようどうむいしん)― 救世的宗教 (例、道教・バラモン教・インド諸哲学) 
第四住心 唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)― 声聞の教え 小乗仏教

第五住心 抜業因種心(ばっごういんじゅしん)― 縁覚の教え 小乗仏教 
第六住心 他縁大乗心 (たえんだいじょうしん)― 法相宗 大乗仏教に準ずるもの 
第七住心 覚心不生心 (かくしんふしょうしん)― 三論宗 大乗仏教に準ずるもの 
第八住心 一道無為心(いちどうむいしん)― 天台宗 真実の大乗仏教 
第九住心 極無自性心 (ごくむじしょうしん)― 華厳宗 真実の大乗仏教 
第十住心 秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)― 真言宗 ― 秘密仏教 ― 密教

 

仏教の思想9 生命の海<空海> 宮坂宥勝・梅原猛著 角川ソフィア文庫 P125

 

特に補足するような内容もありませんが、弘法大師の説かれたこの「十住心」は、心の世界を10に分けた物であり、「大日経」の「住心品(じゅうしんぼん)」にちなんだとされています。真言宗の教えは簡単に解説できるような内容ではなく、詳しくは今回ご紹介した「仏教の思想9 生命の海<空海>」をお読み頂きたいのですが、専門書と言えるような内容です。分かりやすい入門書があれば良いのですが、これと言った良書を知りません。

 

さて、この「十住心」の特徴は、前回と前々回にご紹介した悟りの段階が仏道修行の段階であり、仏教の学びを前提にしていたのに対して儒教や道教、バラモン教、インド諸哲学も含めていることです。また、「十住心体系」の「第二住心 愚童持斎心」の「仏教の倫理道徳」とは具体的には十善戒のこととされています。

 

仏教学者の方は経典や教えの内容については専門家だけあって詳しいのですが、日々の生活に仏教の教えを活かすと言った内容の話となりますと、この人は仏教を理解しているのかと疑問を抱くことが少なくないことを前回も書きましたが、これは何も仏教学者に限られた話ではなく、僧侶の方の中にも時々見受けます。

 

本人は自分がどの程度の段階の悟りを得ていると自覚されているかは分かりませんが、個人的には「第二住心 愚童持斎心(ぐどうじさいしん)」である倫理的世界の話ではないかと思うことが少なくありません。これは本人の悟りの問題なのだろうと思いますが、仏の教えを知識として知るだけでは悟れないと言うことでしょうか?

 

さて、この本の中では、各段階の内容について解説がありますので、第四住心 唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)以降を引用します。

 

 


第四住心 唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)
 ここではすべての物は実在するけれども、自我という実体的な個体存在は実在しない。これはインドの部派仏教のなかでもっとも有力な有部(うぶ) [説一切有部(せついっさいうぶ)の略]という実在論的な一派が主張したところであり、奈良の六宗(ろくしゅう)のうたでは倶舎宗(くしゃしゅう)や成実宗(じょうじつしゅう)がこれにあてはめられるであろう。したがって、この無我を説く心の世界をもって仏教にすすんでゆく初入の門とするのである。これは声聞乗(しょうもんじょう)という小乗仏があてはめられる。 (中略)
 

第五住心 抜業因種心(ばっごういんじゅしん)
 これは我々の悪業煩悩(あくごうぼんのう)の原因を取り除いて、根源的な無知を断ち切る段階である。われわれの現実生存は根源的な無知を原因としてさまざまな条件によって成立していることを認識する。これは独覚(どくかく)[縁覚(えんがく)]乗(じょう)という小乗仏教があてられる。 独覚(どくかく)は仏の教えによらないでみずからさとる者であるが、人びとの利益(りやく)し教化(きょうか)することがない。孤高の聖者といったらよいであろう。

 

第六住心 他縁大乗心 (たえんだいじょうしん)
 まえの第四、第五の心の世界はみずからの利益だけを求めて努力する段階であり、まだ生きとし生けるものを利益し救済する慈悲の愛がはたらかない。だから小乗にあてはめる。 中略 そこで、第六の段階では無我の精神を徹底させて利他の慈悲にいたる。これは生きとし生けるものすなわち衆生の存在を発見したことであって、大乗仏教である。もちろん、第七以下第十の秘密仏教(密教)に至るまで、すべて自利利他の大乗仏教であることには変わりない。第六の住心は唯識(ゆいしき)哲学を説く法相宗に相当する。
 
第七住心 覚心不生心 (かくしんふしょうしん)
 まえの心の世界は慈悲すなわちすべての生命あるものをいつくしむ衆生愛を説くが、なおそこには人びとの素質に区別があるとし、心の実在だけを主張する唯心論(ゆいしんろん)を説く。したがって、第七の心の世界では人間みな平等であること、また心の本性(ほんしょう) のみならず、いっさいのものは固定的なものではないとして、いっさいの実在を否定する空(くう)の哲学を説く。これは三論宗(さんろんしゅう)に相当する。
 
第八住心 一道無為心(いちどうむいしん)
一切は空であるとする世界観をさらに乗り越えて、一切の存在は本来清らかなものであるという道理に到達する。そして、そこにおいて真に自由な実践がおこなわれる。一道というのは唯一絶対の仏の教えという意味で、『法華経(ほけきょう)』の生命的世界観をさす。これは最澄が開いた天台宗の立場である。

 

第九住心 極無自性心 (ごくむじしょうしん)
 顕教では最高の心の世界である。華厳哲学を説く華厳宗の立場である。あらゆる存在は重々に組み合わさって成立しており、それがそのまま絶対の真実の世界だとする。万有において一者を見、一者において万有を見る。
 
第十住心 秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)

 秘密荘厳心というのは、要するに、みずからの心の根底を覚知(かくち)し、ありのままにみずからの体の数量を証悟(しょうご)するものであり、いいかえれば無限無量の内容をもつ曼荼羅(まんだら)世界のことである。そして秘密の真理はおのずから存在している永遠の真理であること、そしてその真理世界の人格を象徴する梵字(ぼんじ)[種子(しゅじ)]が説かれたところで、未完で終わっている。

 第九住心は壮大なる生命的世界観が説かれるが、それはけっきょく観想の哲学にとどまるものである。この華厳哲学の上にたって、実際に生命の世界を実現するのが密教である。

 

仏教の思想9 生命の海<空海> 宮坂宥勝・梅原猛著 角川ソフィア文庫 131-134

 

少し補足しますと、第四住心 唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)の中に登場する倶舎宗(くしゃしゅう)や成実宗(じょうじつしゅう)は奈良仏教の六宗ですが、現在は宗旨としては存在していません。ただ、当時は宗旨が意識されることはなく、現在の学派に近い感覚であったようです。

 

個人的には、声聞乗が第四住心で独覚が第五住心である理由が良く分かりません。声聞乗は仏の教えを聞いて悟ることであり、仏教としては王道であるのに対して、独覚は仏の教えを聞くことなく、縁起の法則を悟る者であることから仏教の教えからするならば、王道とは言えません。そのため、どうして声聞乗が第四住心で独覚が第五住心なのかと思っています。

 

蛇足ながら自動書記が始まった当時に天台宗の神霊から「縁覚(独覚のこと)の悟りである」と言われたことがあります。今でこそブログなとで仏教の教えをご紹介していますが、当時は仏教に関しては、一般向きの入門書を何冊か読んだことしかなく、仏教に関しては詳しくもありませんでした。その意味では、仏の教えを学ぶことなく、悟ったと言えるのかもしれませんが、今でも悟っているとの自覚はありません。

 

ただ、どうして何の修行もしていない人間に言葉が降りるのかも疑問でした。そのため、神霊の語る教えを検証するために仏教を学びましたが、最初に空の理論が全く分からず、随分と苦労したことを覚えています。今でも空の理論がどこまで分かっているかとなればまったく自信がなく、知識として漠然と理解している程度ではないかと思います。また、法相宗の唯識の理論も非常に難解であり、ほとんど理解できていないと思います。

 

その意味では、「縁覚(独覚のこと)の悟りである」と言われたことに納得できますが、戒律を守る意識もなく、瞑想もしていないのに悟っていると言われても実感はありません。しかし、自分の考え方の根底には、縁起の教えに近い考え方があることは自覚していますので、結果的に「縁覚(独覚のこと)の悟りである」と言われたのかもしれません。

 

さて、第六住心 他縁大乗心の唯識(ゆいしき)哲学に関して少し補足しますと、唯識(ゆいしき)哲学は仏教の心理学とも言うべきものであり、唯心論を説く教えです。唯心論であることから全ての物は、心の投影であるとの極端な教えではありますが、厳密な分析的思考法の認識論を基本としています。しかし、西洋哲学とは異なり、空の思想を基礎としています。

 

また、天台宗なとでは「一切衆生悉有仏性」と誰でもお釈迦様と同じ悟りを開く種を持ってこの世に生まれて来たと説きますが、唯識では「五姓各別説(ごしょうかくべつせつ)」と言う衆生を5段階に区別し、仏性を持たない衆生があると言う考え方をしています。これは理想論に対する現実論とも言えますが、生まれつき良心を持たないとされるサイコパスがいることを考えますと、否定はできない考え方であると言えます。

 

第七住心の三論宗について補足しますと、唯識(ゆいしき)哲学を説く法相宗と三論宗は奈良仏教であり、インド中観派の龍樹の「中論」「十二門論」、その弟子提婆の「百論」を合わせた「三論」を所依の経典としています。三論宗の特徴は、独自の教えを説くことはなく、他の宗旨を否定することです。つまり、白を説明するのに黒ではなく、赤でもなく、青でも黄色でもないと言ったようにことごとく否定することで白を説明するのに似ています。

 

個人的には、「中論」しか読んだことはありませんが、その難解さには悲鳴をあげました。解説書を何冊か読んでも理解することが難しく、何冊目かでなんとなく理解できたのかなと言った程度でした。

 

少しご紹介しますが、全編こんな感じです。

 

第二章 運動(去ること来ることの)の考察

 

一 まず、すでに去ったもの[已去(いこ)]は、去らない。また未だ去らないもの[未去]も去らない。さらに<すでに去ったもの>と<未だ去らないもの>とを離れた<現在去りつつあるもの>[去時]も去らない。

 『第一詩の後半、「現在の<去りつつあるもの>が去らないということはいえないはずではないか」と反対者が第二詩を述べる』

二 動きの存するところには去るはたらきがある。そうしてその動きは<現在去りつつあるもの>[去時]に有って<すでに去ったもの>にも<未だ去らないもの>にもないが故に、<現在去りつつあるもの>のうちに去るはたらきがある。

 

龍樹 中村元著 講談社学術文庫 P324

 

一休さんのとんちのような文章が延々と続く内容です。内容としては縁起の説明であり、固定的な実在は存在しないことの論証なのですが、あまりにも難解な話です。

 

管理人が何とか解説できるのは、この段階までであり、この先の段階は管理人にも未知の領域となります。勿論、専門書の要約程度のことは可能ではありますが、自分の言葉で語れるのは、この辺までとなります。

 

最後に、白ギツネ様コメント有難う御座います。

 

そういうの担当する仏様とかお経とかないもんですかね?まぁそうすると星様には「私とて霊界の仕組みを知り尽くしてるわけではないのです」とかなんとかクールにスルーされちゃうんでしょうが。

 

記事にも書きましたが、人間関係や生き方について悩み、色々と読み漁っていたら結果的に縁起説と同じような結論に至りましたので、人の悩みの本質を見抜くことはできても人を指導するのは苦手なことだけでなく、何分にも仏教を学んだのは、自動書記が始まって以降であり、詳しくはありません。そのため、どんな仏様が良いのかとのご質問にお答えするには適切ではないかと思います。

 

また、各宗旨の神霊とお話させて頂きましたが、どの宗旨の神霊も他の宗旨の教えを批判されませんが、自分たちの教えこそが仏の真意であり、衆生を救うことができると絶対の自信を持てれているとの印象があります。そのため、何が良いかは分からないと言うのが答えです。しかし、その前に悟っているとしても縁覚の悟りの段階の人間が、菩薩の悟りについて語ることに無理があるのではないかと思います。

 

 

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at 21:02, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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悟りの段階2(星)

このところ、難しい話が続き申し訳ありません。

お経の話やお経の解説となりますと専門用語の羅列となることが避けられません。

管理人も専門用語の多さには泣かされましたが、何とか専門用語の壁を乗り越えますと、少しずつでも仏教の教えが見えて来ます。ただ、仏教は実践のための教えであり、知識だけで満足していますと、本質を見失うことになる危険性も高くなる難しさもありますが、知識が増えますとカルトの教祖が本来の教えを自分に都合よく、微妙にすり替えていることが分かるようになります。

 

さて、今回は、大乗の悟りの段階をご紹介します。

大乗の悟りの段階は、菩薩の五十二位が有名です。諸経論によって異なりますが、「菩薩瓔珞(ようらく)経」の十信・十住・十行・十回向・十地・等覚・妙覚の五十二位が有名であり、十地で凡夫の境を脱し,等覚位で仏に等しい境地に達するとされています。

 

少し調べてみたのですが、この菩薩の五十二位に関する資料は非常に少なく、「八宗綱要」の天台宗の解説で触れられている程度でした。何分にも天台宗の教えが前提となっていますので、一般論としては適していないと言えますが、他に信頼できる資料がありませんでした。そのため、天台宗の立場から説かれた解説を引用させて頂きます。

 

 

 第三に別教にもまた四門(しもん)があるが、亦有亦空門(やくうやくくうもん)を用いる。この別教では五十二位の階位を明らかにする。

※別教 小乗には別にして大乗の菩薩のみに説かれた教え

※門 教門のことと思われます。理論的分野、教義の構成を研究する方面 

※亦有亦空門 諸法は有とも空ともいわれていると説く法門

 

(1)十信(じゅっしん)、(2)十住(じゅうじゅう)、(3)十行(じゅうじゅう)、(4)十廻向(じゅうえこう)、(5)十地(じゅうじ)、(6)等覚(とうが)、(7)妙覚 (みょうかく)である。

 

(1)十信(じゅっしん)とは、外凡(げぼん)の位であり差別(しゃべつ)を出て平等な空に入る。

※外凡 一般的に凡夫とは「凡庸なる士夫」の意味で、十分に四諦の道理を知らない人

 

(2)十住(じゅうじゅう)は、習種性(しゅうしゅうしょう)の位で、第一住で見惑(けんわく)を断じ、次に六住で三界の修惑(しゅうわく)を断じ、後の三住で見惑(けんわく)と修惑(しゅうわく)の煩悩の因(もと)と、塵沙(じんじゃ)の惑(わく)をとり除くのである。この十住の位において空観(くうがん)が完成し、かねて仮観(けかん)と中観(ちゅうかん)も修する。

※種性 修行する人の素質

※習種性 ここでは空観を修習(しゅうじゅう)[修め習うこと]の種性

※見惑 仏教の説く真理を誤認するなどして生じる思想的な迷い

※修惑 生れながらにそなえている煩悩で、それは種々の正しい修行によってなくすことができるので修惑という

※塵沙 数の多いたとえ

※空観 この世のすべてのものが,固定的な実体をもつものでなく,本質的には空であるとする立場

※仮観 あらゆる存在や事象には実体はありえず、空であると説くが、世俗的な相対的立場からは、それらは存在するものとして肯定的にとらえられる。その肯定的にとらえる観想法をいう。

※中観 あらゆる事物が固定した本質をもっておらず、しかも現象としてあるがままに存在していることを観ずることにおいて,同時に絶対的な真理を観ずること

 

(3)十行(じゅうぎょう)は性種性(しょうしゅうしょう)の位であり、ここではまさしく仮観(けかん)を修し、かねて中観(ちゅうかん)も修し、塵沙(じんじゃ)のような煩悩を排斥する。

※性種性 機の本性において真空の理を証する種性

 

(4)十廻向(じゅうえこう)は道種性(どうしゅうしょう)であり、中道観(ちゅうどうかん)を修して無明(むみょう)を折伏(しゃくぶく)する。

※道種性 一切は中(ちゅう)であるとする中道を観ずる位、修中道観という。

 

(5)十地(じゅうじ)は聖種性(しょうしゅうしょう)である。

※聖種性 あらゆる煩悩の根本である無明を破却した悟りの境地。中道の一分でも悟った以上を聖地という。

 

(5)十地(じゅうじ)と(6)等覚(とうがく )の二つは無明(むみょう)を破斥(はしゃく)し、部分的に中道(ちゅうどう)を証(さと)るので分証位(ぶんしょうい)と名ける。

※等覚 悟りは妙覚に等しいが、実際には一歩手前にある。これから妙覚の仏果を得ようとする位

 

(7)妙覚 (みょうかく)は極聖(ごくしょう)の位であり、無明(むみょう)を破り、仏果(ぶっか)を証する。七宝(しっぽう)の菩提樹(ぼだいじゅ)を座(ざ)として成道する。

 

八宗綱要 仏教を真によく知るための本 凝然大徳/鎌田茂雄全訳注 講談社学術文庫 P334

 

 

参考までに五十二位の階位をご紹介します。

 

十信 外凡(げぼん)

信心、念心、精進心、定心、慧心、戒心、廻向心、護法心、捨心、願心


十住  内凡(ないぼん)・三賢(さんげん)

発心住、治地住、修行住、生貴住、方便具足住、正心住、不退住、童真住、法王子住、潅頂住

 

十行  内凡(ないぼん)・三賢(さんげん)
歓喜行、饒益行、無違逆行、無屈雪撓行、無礙乱行、常善現行、無着行、難得行、善法行、真実行


十回向  内凡(ないぼん)・三賢(さんげん)

救護衆生廻向、不壊一切廻向、等一切仏廻向、至一切処廻向、無尽功徳廻向、随順平等善根廻向、随順等観衆生廻向、真如相廻向、無縛無著廻向、法界無尽廻向

 

十地 十聖

歓喜地、離垢地、発光地、焔慧地、極難勝地、現前地、遠行地、不動地、善慧地、法雲地

 

等覚(とうがく)
妙覚(みょうかく)

 

天台の教えを専門的に学んだこともなく、仏教の専門的な教育を受けたこともない人間ですので、詳しい解説することもできませんが、少し補足しますと、最初の十信(じゅっしん)は、修業の最初の段階であり、見習い期間と言うべき段階です。十住(じゅうじゅう)から僧侶としての本格的な修業の段階となります。

 

十住(じゅうじゅう)の解説に「空観(くうがん)が完成し、かねて仮観(けかん)と中観(ちゅうかん)も修する。」とありますが、この空観、仮観、中観は、天台宗の一心三観と呼ばれる瞑想法のことです。詳しく解説しますと専門用語の羅列になりますので、興味のある方は、仏教書でお調べください。

 

尚、検索もしてみたのですが、浄土真宗のサイトに詳しいサイトはありましたが、何分にも他力の観点から解説となります。そのため、中立の立場からの解説が見つかりませんでした。

 

東本願寺 正信偈 歓喜地 こちらから

ホーム>真宗の教え>正信偈の教え−みんなの偈−

 

最後の十地(じゅうじ)に関しては、華厳経の「十地品(じゅうじぼん)」が詳しいことから「華厳の思想」から少し引用させて頂きます。しかし、宗教学者にありがちな話なのですが、学問的な解説には問題はなくても個人的な見解になると疑問を抱く内容です。

 

 さて、「十地品(じゅうじぼん)」というのは菩薩が、究極の悟りに到達するための十地の体系を書いたものである。

 十地とは大乗仏教の菩薩が、究極の悟りの修道の過程を十段階に整理したものである。十地の名称をあげるとつぎのようである。
第一 歓喜(かんぎ)地、第二 離垢(りく)地、第三 発光(はっこう)地、第四 焔慧(えんね)地、第五 極難勝(なんしょう)地、第六 現前(げんぜん)地、第七 遠行(おんぎょう)地、第八 不動(ふどう)地、第九 善慧(ぜんね)地、第十 法雲(ほううん)地

 

 この十地の中で重要なのは「第一 歓喜地(かんぎじ)」「第六 現前地(げんぜんじ)」「第十 法雲地(ほううんじ)」である。歓喜地は十地の第一段階に入るわけだが、それまでに大乗仏教では十信(じっしん)、十住(じゅうじゅう)、十行(じゅうぎょう)、十廻向(じゅうえこう)と四十段階のステップを踏んでいく。そして初めて十地に入るのである。これを見道位(けんどうい)ともいうが、宗教的歓喜が初めてわかった段階という意味である。

 

華厳の思想 鎌田茂雄著 講談社学術文庫 P61-62

 

「宗教的歓喜が初めてわかった段階という意味である。」とありますが、実際の修業では十地に至るまでには、長い修業が必要なことを考えるならば、一般の人間が味わう宗教的歓喜と同じように考えるべきではなく、法然上人や親鸞聖人が阿弥陀仏の救いを確信されたような心の底から沸き起こるような歓喜ではないかと思われます。

 

 第六地までは般若の智慧をみがく、そのために禅定をおこなって智慧をひらいていく。自分の智慧ができたら、今度は衆生を救う行願(きょうがん)にてんぜられていかないといけない。それが完成したのが智である。智のなかに悲が含まれていないといけない。智のことを別の言葉で大悲(だいひ)というが、仏の愛であり、人間はそれに包まれていきていくわけである。仏の愛のいちばんの特色は平等の愛である。

 

華厳の思想 鎌田茂雄著 講談社学術文庫 P64

 

教えとしては、間違いないと思いますが、内容に少し疑問を抱きます。「仏の愛であり、人間はそれに包まれていきていくわけである。」とありますが、これが実感できたならば、一つの悟りです。勿論、お釈迦様の悟りと比べられるような悟りではないとしても仏の慈悲を実感することは容易ではなく、まして仏の慈悲に包まれて生きていることが実感できたならば、かなりの悟りだと言えます。

 

仏の慈悲を説くことは簡単ですが、仏の慈悲を実感するのは容易でありません。仏の慈悲を実感してないのに仏の慈悲を雄弁に語っている場合には、慈悲の強制や強要でしかないと感じます。

 

 第一歓喜地にインドの菩薩で入りえたのは弥勒と無着(むじゃく)の二人で『摂大乗論(しょうだいじょうろん)』の注釈や『唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)』を書いた世親菩薩でさえ、死んでから第一地にはいったという。それほどインド的な知性でいう修行の道はたいへんなものであり、無限の中に生きていくわげである。法雲地とは法[真理]の雲のたなびいているところで、そこまでいかなければいけない。

 宗教的にはたいへんであるが、日常生活的に考えれば、第一歓喜地は喜びをもって生きること、すなわち感謝をもって生きること、ということになる。

 

華厳の思想 鎌田茂雄著 講談社学術文庫 P65

 

※弥勒 弥勒菩薩の事ではなく、古代インドの僧侶 270頃から350頃
仏教の唯識説を説くインドの唯識派の開祖。後世の伝説では,兜率天上の弥勒菩薩と同一視された。

 

弥勒と無着についてはほとんど知りませんが、共にインドの唯識派の僧侶とあります。唯識思想の難解さは半端ではないことは知っていますが、唯識思想の大成者と言える世親菩薩ですら死後に第一地(歓喜地)に入ったとされるならば、第一地(歓喜地)は一般の人間には全くの無縁な話となります。

 

そのため、最後の「宗教的にはたいへんであるが、日常生活的に考えれば、第一歓喜地は喜びをもって生きること、すなわち感謝をもって生きること、ということになる。」との内容には、疑問を抱きます。感謝の気持ちで生きることも仏道修行ではあるとしても第一歓喜地の修業ではなく、外凡(げぼん)の修業であり、十信の修業と考えるべきではないかと思います。

 

 

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at 13:36, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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悟りの段階1(星)

白ギツネ様、コメント有難う御座います。

 

「無上道の心を発す」ことが何故「千日回峰行に挑む覚悟」になるのか、その論理の飛躍がちょっとわかりませんでした。

 

「無上道の心を発す」ことの意味を解説するためには、悟りの段階について解説しなければならないと思います。極楽往生の話の中にも悟りの段階の話が登場することから悟りの段階の話を取り上げさせて頂きます。尚、悟りの段階と言っても小乗仏教と大乗仏教では異なりますので、今回は小乗仏教の悟りとして倶舎宗の悟りの段階をご紹介します。

 

倶舎宗と言ってもご存知ない方が大半ではないかと思います。宗旨としては現在残っていないのですが、南都六宗の1つです。大乗仏教の祖とされている世親(浄土真宗では「天親菩薩」と尊称)が著した『アビダルマ・コーシャ』とその漢訳本である真諦訳『阿毘達磨倶舍釋論』(略称『倶舎論』)・玄奘訳『阿毘達磨倶舍論』(略称『倶舎釈』)、それらの注釈書を中心として諸経論を研究・講義し、師資相承する教えです。

 

世親について少し補足しますと、四世紀頃インド大乗仏教の僧侶であり、初め小乗仏教を研究し「俱舎論」を著したが、兄の無著(むじやく)の指導で大乗仏教に転じたとされています。著書には「唯識三十頌」「摂大乗論釈」「十地経論」「浄土論」などがあり、浄土真宗では、浄土真宗では七高僧の第二祖とされ「天親(てんじん)菩薩」と尊称されています。浄土真宗の常用経典である正信偈の中にも「天親菩薩造論説」と登場しますが、一般の方には、奈良の興福寺の木像無著・世親立像の方が分かりやすいのではないかと思います。世親は法相宗の開祖であり、興福寺は法相宗の本山です。

 

さて、倶舎論は、世親が小乗仏教時代に所属した説一切有部の思想を中心にまとめた論書ですが、めまいがするほど難解な話です。管理人は「仏教の思想2 存在の分析<アビダルマ>」を読んだ程度であり、倶舎宗について解説できるような知識はありませんが、「仏教の思想2 存在の分析<アビダルマ>」からの教え聞いて、主に四諦(したい)を修習して悟りを目指す声聞(しょうもん)の悟りの段階について少し引用させて頂きます。

 

 

道に志した者は、まず戒(修行者の生活上の自律)を守ってその生活を正しく、節度あり、きよらかに保つよう努めるところから出発する。次には、良い教えを聞くこと、みずから思索すること、三昧を修めることによって、知恵(有漏[うろ]であるが善である知恵)をみがく。そのためには、衆人(しゅうじん)の中にまじわり住むことを避け、善(よ)からぬ心の動くのを避けねばならぬ。こうしてもし、修行者が欲望の旺盛(おうせい)でない、みずから足ることを知る人であったなら、そのような生き方を持することが容易であろう、と論書は教える。

 

仏教の思想2 存在の分析<アビダルマ>  櫻部建・上山春平著 角川ソフィア文庫 P144-145

 

この次の段階として死体が次第に腐敗してついに白骨化するまでの姿を心の中に観想する「不浄観」や呼吸法の訓練である「持息念」を修めることで高い精神的な境地を目指します。

 

準備段階の最後は「四善根(しぜんこん)」と呼ばる。苦・集・滅・道の四諦(したい)を、有漏の知恵をもって、分析的にそしてくり返しさまざまに、観察することである。その無数にくり返される観察のあいだに、修行者の心はしだいに養われ高められて、無漏の知恵を起こしうる状態に近づいてゆく。そしてその極地において、ついに修行者は無漏の知恵を起こすことを得て、より説一切有部的にいえば、修行者の心相続の上に有漏の知恵を等無間縁(とうむけんねん)とする無漏の知恵がはじめて生起(しょぅき)して、「見道」に入るのである。

 

仏教の思想2 存在の分析<アビダルマ>  櫻部建・上山春平著 角川ソフィア文庫 P145-146

 

※有漏 迷いやけがれをさす。迷いを有する状態

※無漏 漏泄する不浄なものが尽きていること。けがれがない,煩悩がないこと

※説一切有部 部派仏教時代の上座部から分派した一部派

 

迷いを離れた段階は、まだ修業の前段階であり、迷いを離れてからが修業と言うことの様です。

 

 

四向四果

 修業の道を進む者が「見道(けんどう)」にはいったときから、貴(とうと)い人[聖者(しょうじゃ)]と呼ばれるのは上述のとおりであるが、その聖者は四つの段階に分かれる。預流(よる)[はじめて法の流れにはいった者]・一来(いちらい)[一度だけこの世に還(かえ)ってくる者]・不還(ふげん)[もはや二度と欲界に還(かえ)らない者]・らかんあるいはあらかん(供養を受けるにふさわしい者)である。これをふつう四果(しか)と呼ぶ。修業道の四つの成果という意味である。

 

仏教の思想2 存在の分析<アビダルマ>  櫻部建・上山春平著 角川ソフィア文庫 P154

 

修業に入っても修業には、四段階の階梯が待ち受けますが、実際には悟りに至るには、果てしない道のりとなります。

 

 

修道―心の長い修練

 修所断の煩悩の場合にはこれとまったく異なる。これは情・意の面での煩悩であるから単にその不当なことを理性の上で了解しただけではそれを離れることにならない。ここで知ることと断つことは別である。分かっていてなおやめられないというのが、情・意の面で起こる煩悩に共通な性格である。そこでそれを断ち捨てるには、三昧を修め四諦の真理の観知をくり返し行うことによって、倦(う)まずたゆまず心を養い高めて、断ちがたい煩悩を徐々に断ち切ってゆかねばならない。

 修所断の煩悩は、先に図示したように、三界に分かって十種であるが、見所断の煩悩と違って情意的な煩悩はその一個一個を弁別して断ち切ってゆくというわけにはいかないので、煩悩の種類によって差別を建てない。ただ、その力の強弱によって上上、上中、上下、中上、中中、中下、下上、下中、下下の九種[九品(くほん)]に分ける。また色・無色の二界に属する煩悩はそれぞれさらに次下に述べるような四段階に分けられるから、それによって八段階の区別が立てられ、その上に欲界と合わせて三界において合計九段階[九地(くじ)]に分けられることになる。

 結局、九品・九地によってすべての修所断の煩悩は、欲界の上上の煩悩から始めて下下の煩悩に至り、次に色界初禅地(しきかいしょぜんじ)の上上の煩悩に進むていうようにして、最後に無色界(むしきかい)非想非々想処地(ひそうひひそうじょじ)の下下の煩悩に至るのである。

 

仏教の思想2 存在の分析<アビダルマ>  櫻部建・上山春平著 角川ソフィア文庫 P149

 

 

欲界  貧 瞋 痴 慢  欲界地 九品

色界  貧 瞋 痴    初禅地 九品・第二禅地 九品・第三禅地 九品・第四禅地 九品

無色界 貧 瞋 痴    空無辺処地 九品・識無辺処地 九品・無所有処地 九品・非想非々想処地 九品

 

※見所断 仏法を理解して断ち切れる煩悩

※修所断 修行で断ち切れる煩悩

※空無辺処地 (物質的存在がそこに皆無である)空間の無限性についての三昧の境地

※識無辺処地 認識の無限性についての三昧の境地

※所有処地 いかなるものもそこには存在しない三昧の境地

※非想非々想処地 観念があるのでもなく観念がないのでもない三昧の境地

蛇足ながらお釈迦様の悟りは、「非想非々想処」よりもさらに高い境地である「滅尽定」です。

 

 

ざっと読まれただけでも悟りまでには、長い修業が必要となるとされていることが分かると思いますが、わかりやすくまとめられた文章がありましたので引用します。

 

問い この倶舎(くしゃ)宗の中では、声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)・菩薩(ぼさつ)の三乗の修業のやり方とその結果をどのように組織しているのか。

 答え。三乗の中では、声聞乗(しょうもんじょう)は速い者は、三生(さんしょう)の間修業して涅槃(ねはん)を得、遅い者は六十劫の長い時間修業して仏果を得るのである。その修業の階級には、煩悩を断(だん)ずるまでに予備方便(よびほうべん)の位には七つあり、聖者(しょうじゃ)の位に入った果位には四つの階級がある。

 縁覚(えんがく)は速く悟る者は四生、遅く悟る者は百劫の時間がかかって、因行(いんぎょう)を修し、直ちに無学位に登って煩悩を断尽(だんじん)する。縁覚には方便位も果位もなく、声聞のように多くの階級がなく、因位修業の間の向位(こうい)と、煩悩を断滅した果位とがあるだけで、向位果位、ともに一つあるだけである。

 菩薩は縁覚に比べてさらに長く、三大阿僧祇劫という無限の間、六度を修業し、その後、百劫の間、三十二相八十種好(しゅこう)の仏の円満な姿を具(そな)える修業をし、この世に身を現じて、菩提樹の下の金剛座の上において、煩悩を断じ尽くして成仏し、衆生を教化する因縁が尽きれば、やがて無余涅槃(むよねはん)に入って空寂(くうじゃく)に帰するのである。

 以上のべたように声聞(しょうもん)は四諦(したい)の里を観察し、菩薩は六度を修して等しく生死を脱し、成仏するのである。

 

八宗綱要 仏教を真によく知るための本 凝然大徳/鎌田茂雄全訳注 講談社学術文庫 P104-105

 

※三乗 悟りの世界に入るための3種の教え,実践あるいは道を乗物にたとえたもの

※縁覚 さまざまなものごとを縁として、独力で仏法の部分的な覚りを得た境涯

※涅槃 一切の煩悩(ぼんのう)から解脱(げだつ)した、不生不滅の高い境地

※方便 予備の修業

※果位 仏道修行によって得られた悟りの位

※四つの階級 預流果(よるか)・ 一来果(いちらいか)・不還果(ふげんか)・阿羅漢果(あらかんか)

※因行 仏果を得るための因となる行

※三大阿僧祇劫 無数劫 尚、仏教の思想2 存在の分析<アビダルマ>では、3×10の59乗×12億8千万年になっています。

※金剛座 仏が成道[悟りを開くこと]した時の座処

※無余涅槃 仏陀が悟りを得た後、さらに寿命が尽きて業報(ごうぽう)[善悪の業(ごう)を原因として受けるむくい]の果として身体も捨て去ってしまうこと

※四諦 迷いと悟りとの因果を苦・集・滅・道の四つに分けて説明したもの

※六度 六波羅密多(ろくはらみた)のこと 菩薩の修すべき布施,持戒,忍辱,精進,禅定,智慧の6種の徳目

※三十二相八十種好 仏の身体に備わっている見てすぐに分かる三十二相と、微細な特徴である八十種好

※空寂 宇宙のすべての事物は実体がなく、その本性は空であることを悟った境地

※成仏 無上の悟りを得ること

 

倶舎宗では菩薩の修業は、3×10の59乗×12億8千万年(もう桁が分かりません)も必要とされているのですから、最高の悟りを求めることは、半端な覚悟ではないことだけは、ご理解頂けるのではないかと思います。

 

最後に、大乗の場合には悟りの段階が異なることから次回は大乗の悟りの段階をご紹介します。

 


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at 19:14, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教

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極楽往生3(星)

今回は、九種類の極楽往生の中から上品下生を取り上げます。

 

極楽往生の条件と往生の違いの話は、興味のない方には、無味乾燥な話ですので、アクセス数は大きく減るだろうなと予想していました。また、長文の引用が続くことや読み下し文と注釈が大半ですので、始めてはみたものの、どうしようかと迷っていましたが、アクセス数が伸びている・・・・

 

α~ (ー.ー") ンーー

 

興味のない方には、申し訳ありませんが、もう少し続けます。

 

読み下し文が苦手な方は下記のサイトを参考にして下さい。

個人的には、微妙な違いが気になりますので、岩波文庫から引用しました。

 

現代語訳 ウィキアーク 現代語 観無量寿経 こちらから

 

 <上品下生(じょうぼんげしょう)>とは、また因果を信じ、大乗を謗(そし)らず、ただ無上道(むじょうどう)の心を発(おこ)す。この功徳をもって、廻向して極楽国に生まれんと願求(がんぐ)す。(この)行者、命、終わらんと欲する時、阿弥陀仏および観世音、大勢至、もろもろの眷属とともに、金蓮華を持ち、五百の化仏を化作(けさ)し、来りてこの人を迎えたもう。五百の化仏(けぶつ)、一時に手を授(さず)け、讃(たた)えていいたもう。『法子よ、汝、いま、清浄にして、無上道(むじょうどう)の心を発(おこ)せり。(ゆえに)われら来たりて汝を迎う』と。

 (行者)この事を見る時、すなわちみずから身を見れば、金蓮華に坐す。坐しおわれば、華、合し、世尊の後(しりえ)に随(したが)って、すなわち七宝の池中に往生することをう。一日一夜にして、蓮華、すなわち開き、七日の中に、すなわち仏を見たてまつることをう。仏身を見るといえども、もろもろの相好(そうごう)において、心明了(みょうりょう)ならず。三七日の後において、すなわち了々に見たてまつる。

 もろもろの音声(おんじょう)を聞くに、みな、妙法(みょうほう)を演(の)ぶ。十方に遊歴(ゆうやく)して、諸仏の前(みまえ)において、甚深(じんしん)の法を聞く。三小劫(しょうこう)を経て、百法明門(ひゃっぽうみょうもん)をえ、歓喜地(かんきじ)に住す。これを<上品下生(じょうひんげしょう)の者>と名づく。(上品の三種の往生の観想)これを<上輩(じょうはい)の生まるる想い>と名づけ、<第十四観>と名づく。

 

浄土三部経(下) 中村元・早島鏡正・紀野一義訳註 岩波文庫 P71-72

 

※無上道 この上ないさとりを求める心

※金蓮華 仏前に供える金色の蓮華(れんげ)の造花

※七宝の池 金・銀・瑠璃・水晶・珊瑚・赤真珠・深緑色の玉の七種類の宝石でできており、池には金の砂が敷かれている

※蓮華 ハスの花

※相好 かおつき 表情

※明了 はっきりしていること

※了々 物事が明らかなさま

※音声 人間の発する声

※妙法 霊妙不可思議な法 仏法を形容する語

※演ぶ ひろめる

※遊歴 諸国をめぐり歩くこと

※甚深 非常に奥が深いこと

※小劫

きわめて長い時間をいう単位。人間の寿命が8万歳から100年ごとに1歳を減じて10歳になるまでの間、または10歳から100年ごとに1歳を増して8万歳になるまでの間。また、両者を合わせて一小劫ともする。

※百法明門 初地(しょじ)の菩薩の通達する法門に百を数え、初地に達すれば無漏智(むろち)をえてこれらの法門に明らかとなるから、初地における智慧を百法明門という。百を実数としない学者は、あらゆる法門に通達した智慧と解する。

※歓喜地 菩薩の階位「十地(じゅうじ)」のうち初地。全五十二位中の第四十一位にあたる。

 

上品上生、上品中生の必要条件に比べますと、「因果を信じ、大乗を謗(そし)らず、ただ無上道(むじょうどう)の心を発(おこ)す。」とありますので、最初は条件が緩いのかと考えましたが、「無上道(むじょうどう)の心を発(おこ)す。」の無上道が曲者です。悟りを求めて厳しい戒律を守り、厳しい修業に励むことができるかと問われても、とてもそんな覚悟はありませんと言うしかない管理人に、この上ないさとりを求める覚悟を持つことができるはずもありません。

 

具体的に言えば、千日回峰に挑む覚悟を持つことができると問われているのと同じではないかと思います。それだけの決意と覚悟があれば、極楽往生することができると言うのが、この上品下生ではないかと思います。

 

尚、「七宝の池中に往生する」とありますが、極楽浄土には、金・銀・瑠璃・水晶・珊瑚・赤真珠・深緑色の玉の七種類の宝石でできた池があり、池には金の砂が敷かれているとされています。ここでは、その池に咲くハスの花の中に生まれるとされています。また、もろもろの相好とは、お釈迦様には三十二相と、微細な特徴である八十種好があるとされています。

 

 

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