中道について1(星)
モクレンの花が咲いていました。
春の訪れを感じさせる花であり、好きな花の一つです。
それはさておき・・・・
中道は仏教の基本的な教えではありますが、あまり詳しく語られることは少ないと思います。一般的には、お釈迦様は渇愛に基づく快楽や、極端な苦行のどちらにも偏っても、真理には到達できないことを悟られたことから、中道は極端な概念や姿勢に偏らないあり方とされていますが、あまりにも漠然としています。
少し参考になりそうな話を探しましたところ、下記の様な話がありましたので引用します。
【正見】(しょうけん) あるがままを見据える正しい見解
もし人が見解(けんげ)(概念化された誤った固定観念)によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が知識によって苦しみを捨てるのであるならば、それは煩悩(ぼんのう)にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によって清められることになるであろう。
何をもって正しいとするのか? われわれの日常生活は概念化された固定観念に支配されている。仏陀はこうした見解を誤った見方とした。初転法輪(しょてんほうりん)において説かれた中道論(ちゅうどうろん)とは、あるがままの姿を見きわめる見解であった。正見(しょうけん)はこの中道観を得るための智慧(ちえ)である。
Books Esoterica - 9 釈迦の本 学研 P143
※概念
思考において把握される、物事の「何たるか」という部分。抽象的かつ普遍的に捉えられた、そのものが示す性質。対象を総括して概括した内容。 あるいは、物事についての大まかな知識や理解。
※概念化
まだ概念的に説明されていなかったり、それを言い表すちょうど良い表現がないような特定の現象やものごとなどについて、新しい概念や用語などを作り出して言い表すこと。
極端な概念や姿勢に偏らないあり方との説明よりは、分かりやすいのですが、大半の方は、自分が概念化された固定観念に支配されているとの自覚もなければ、自分は現実をあるがままに見ていると考えているだけでなく、周囲からするならば、極端な考え方を持っていると思われる場合でも、自分は常識的な人間であると考えている場合が少なくありません。
特定の団体を中傷する気持ちはありませんが、市民運動出身の政治家は、落選しても落ち込まないと聞いたことがあります。市民運動の活動家は、社会から自分たちの意見が受け入れられなくても気にしていないだけでなく、社会から自分たちの意見が受け入れられなければ、社会を変えなければならないとの使命感を燃やすことから落選しても、次はもっと頑張らなければとしか考えないとの話でした。
勿論、すべての市民運動の活動家がこのような考え方をするとは限りませんが、極端な思想の持ち主にありがちな傾向ではあると思います。新興宗教の熱心な信者は、家族や友人などに反対されても、自分の信仰心が足りないから周囲に反対されると考えたり、自分がもっと熱心に信仰することで家族や友人を目覚めさせなければならないと考えることが少なくありません。
そのため、この概念化された誤った固定観念を捨てることは、実践しようとしますと簡単な話ではなく、何が中道かを理解するための理論的な説明にはなっていないと言えます。しかし、お釈迦様は中道についてあまり多くを語られなかったようです。
そのことについて参考になりそうな話をご紹介します。
そして、いま、ブッタ・ゴータマの場合にも、初期の経典の関する限りにおいては、さきの二つの極端な実践的立場に対する批判のほかには、「中道」に関する理論的な説明を試みた形跡は、まったく見当たらない。これは少しも不思議なことではない。けだし、この師は、伝道者として起って以降は、あまりおおく理論的なことは語らなかった。ことに、この「中道」のような実践的な原理は、それを理論の領域にまでひきもどして、その基礎づけを説くというようなことは、もつともその必要性のすくないことと考えらていたにちがいないのである。
だが、この人は、「私が証(さと)り知って、しかも汝らに説かないことはおおく、説いたことはすくない」と語って憚(たばか)らなかった人である。理論的な基礎づけを説き示さなかったということは、けっして、それがそのまま、理論的な基礎のない、単なる体験であることを意味するわけではない。では、その理論的根拠はいかに。わたしもまた、理屈っぽい現代人の一人であるから、そのように追及してみることがある。そのとき、思いおよぶのは、とうぜん、縁起の法のほかにない。けだし、縁起の法こそは、ブッタ・ゴータマのよって立つ思想の基底であるとともに、また、この「中道」の理論的基礎づけとしてまことにふさわしいものである。
仏教の思想1 知恵と慈悲<ブッタ> 増谷文雄・梅原猛著 角川ソフィア文庫 P177-178
※ブッタ・ゴータマ お釈迦様のことです。
この本の著者である増谷文雄氏は、続いて縁起の法は流動的な存在論であり、中道も固定的なものではないことを指摘されています。つまり、中道は優れたバランス感覚であるとの主張なのではないかと思われますが、理論的な根拠とするには、話があまりにも掘り下げられていないと思われます。この本の著者の増谷文雄氏は優れた宗教学者ではありますが、どうしてこのような内容を書かれたのかと少しばかり疑問を抱きます。
実は、大乗仏教中観派の祖であり、日本では、八宗の祖師と称される龍樹菩薩の代表的な著書である「中論」で、縁起と中道の関連が説かれています。しかし、縁起の教えを解説するだけでも大変であり、「中論」の内容となりますと、恐ろしく難解な話となります。そのため、どこまで解説できるか不安に感じてはおります。
いずれにしても縁起の話だけでも長くなりますので、次回に持ち越しとさせて頂きます。
星
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at 02:21, 星 良謙・子授け地蔵, 仏教
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