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見当はずれな批判(星)

いつもの如く悩んでおります。

 

α~ (ー.ー") ンーー

 

儒教の歴史について投稿しようと考えていたのですが、簡潔にまとめることが容易ではありません。

 

(・_・。)) マイッタナァ

 

一応、易経や風水を学んでいますので、一般の方よりは、中国思想について少しは詳しいはずなのですが、本の内容を理解するのが精一杯であり、簡潔にまとめることができないでおります。

 

本当は朱子学までの流れと朱子学を簡潔に要約した記事を書き、朱子学のもたらした弊害と霊障の関係について書く予定でしたが、考えていた以上の難しさです。朱子学の成立のでの流れや時代背景などを無視して朱子学の弊害を書くことも考えましたが、朱子学とは何かを書かずに批判だけすることには抵抗があります。しかし、無味乾燥な話を長々と書くことにも意味がないような気もして悩んでいました。そこで何回にも分けて投稿しなければならないようなテーマに関しては、別のブログを立ち上げてそちらにまとめようかと考えています。記事を書きかけのままで頓挫している「儒教の呪縛3」を含め、「儒教の呪縛」に関しては別のブログに投稿させて頂きます。

 

長く霊障の問題と取り組んできましたが、儒教や朱子学に限らず、思想や宗教と霊障は密接な関係があると考えるようになりましたので、可能な限り管理人の考察を残しておきたいと思っていますが、一般の方にはつまらない内容ではないかと思います。世の中のオカルト好きの方の多くは、心霊現象や霊界の構造と言った話には関心を持っても思想と霊障の関係には興味がない印象があります。その意味では、管理人の自己満足になると思いますが、新しいブログを立ち上げた際には改めてご連絡します。

 

それはさておき・・・・

 

暫く前のことですが、参議院議員の青山繫晴が発表された現代アートの作品が批判を浴びているようです。

 

青山繁晴 個展「現代アートに挑戦する青山繁晴展」 ユーチューブ こちらから

 

管理人もその批判を少し読みましたが、何とも見当はずれな批判が多いようです。弁当箱を作品として高額な価格で販売していると言った批判に関しては、現代アートを何も理解していないと思いました。このような批判が起きる理由の一つに現代アートの分かりにくさがあると思います。一般の方には抽象画は理解不能な芸術と思いますが、現代アートは更に難解な芸術分野となります。

 

現代アートを解説するためには、近代美術から解説するのが早いかと思います。美術の世界も社会の反映であり、西欧社会で中世の絶対王権の崩壊などの社会体制の変革が大きく影響しています。それまでの古典的な絵画が王侯貴族や教会のための絵画であったのが、画家が自由なテーマで描くようになりました。この流れが画家たちは宗教画などのように過去の歴史ではなく同時代の出来事をえがいたロマン主義、歴史画ではなく、同時代の社会のありのままの現実を描こうとした写実主義、都会にはない自然の美しさを描いたバルビゾン派となり、この流れが初期印象派となりました。

 

印象派はそれまでの古典的な絵画の技法とは大きく異なりますが、専門的な話となりますので割愛します。しかし、この頃から絵画の世界は大きく変わり始めたと言えます。それまでの写実的な表現方法を離れた独自の表現方法で描かれた作品が登場するようになります。野獣派(フォービズム)、キュビスム、象徴主義などそれまでの表現方法とは大きく異なる表現方法がありますが、いずれも子供の落書きと言えるような作品であり、何が描いてあるのか理解不能な作品が大半です。

 

ピカソが鳥のさえずりを聞いて何を言っているのかを考えないのに、どうして何が描いてあるのかを理解しようとするのかと言った内容の発言を読んだことがありますが、その作品から何を感じるかが重要であり、写実的な表現方法の作品と抽象芸術の作品を同じ感覚で評価するのは、近代芸術を何も理解していないのと同じことでしかありません。更に現代アートは、近代芸術の発展と言える芸術分野ですので近代芸術よりも難解となります。

 

管理人にしても近代芸術までは、何とか理解できると思いますが、現代アートとなりますと、自信がありません。管理人からするならば、それが芸術と言えるのかと疑問を持つこともあるような作品があるのが現代アートです。しかし、これは個人的な感想であり、現代アートを否定する気持ちはありません。これは何も現代アートに限られた話ではなく、他の芸術分野でも同じです。管理人には、書の作品に関しては素人であり、作品の良し悪しに関しては分かりませんので、好きか嫌いか程度の感想となります。

 

管理人が危惧するのは、自分に理解できないからその価値を否定することです。管理人からするならばガンプラやアニメキャラのフィギュアに価値は感じませんが、否定する気もありません。また、そのことを否定されるべきでもないと考えています。世の中には自分とは異なる価値観を持つ人間がいることを認めなければ、自由な言論は成立しません。自分とは異なる考えをしているからと相手の人格否定までする風潮には少し疑問を抱いています。

 

蛇足ながら青山氏の作品に関しては・・・・・

作品への熱意は分かりますが、論評は控えます。

 

画商の画廊で作品の発表をされるのではなく、貸画廊で作品の販売を目的としない展覧会にされるべきではなかったかと思います。

画商は作品を売って手数料を頂く商売であり、作品の販売価格を高値に設定するのは、画商にとっては当然の話となります。

そのことも青山氏が批判される理由にもなっているのではないかと思います。

 

 

ご相談は こちらから

at 16:20, 星 良謙・子授け地蔵, 心の健康

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皇室弥栄(星)

皇室弥栄と言う言葉を御存じでしょうか。あまり聞き慣れない言葉かとは思いますが、神社によっては、祈祷の願目に書かれている言葉です。

 

弥栄(いやさか)とは、「一層栄える」「益々栄える」と言った意味であり、お目出度い言葉とされています。日常生活ではあまり使わない言葉ではありますが、結婚式などのお祝いの席で「ご両家の弥栄を祈り」と言った使い方をされる言葉です。

 

天皇陛下のご譲位の日も間近となりましたが、神社に参拝された際に「皇室弥栄」と絵馬に書き、奉納されては如何でしょうか。

「皇室弥栄」と書くことに気恥ずかしさや抵抗を感じられるのであるならば、「神恩感謝」もお勧めです。

 

実は、これが霊障対策としては効果的な対策でもあります。不成仏霊は感謝する心を嫌うことから「開運招福」「災難消除」などと書かれるよりも効果があることがあります。

 

ご譲位もあることですし、一度試されては如何でしょうか。

 

 

ご相談は こちらから

at 23:58, 星 良謙・子授け地蔵, 神道

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炎上商法と毒舌2(星)

前回はもう一つのテーマである「毒舌」に入る前に終わってしまいましたので、今回は前回の続きの「毒舌」を取り上げます。

今はテレビをほとんど見ない生活をしていますが、以前はたまにはテレビを見ていました。その頃の記憶ですので時期も番組名も覚えていませんが、毒舌を売り物にしているタレントの有吉が自分を売り出すために売れている優しい先輩を選んで毒舌を吐くと言っていたことがありました。それから有吉の毒舌を注意してみていると毒舌を吐く相手を選んでいるのではないかと思うようになりました。

 

その基準は、高圧的な威嚇や暴言をすることで相手を黙らせることができる相手や自分よりも弱い立場にある人間に対しては容赦のない暴言の嵐であり、相手が自分よりも売れている人間であり、本気で反論してこないであろう人間に対しては、暴言と言うよりは毒舌と言った言い方をしていることに気付きました。つまり何を言っても自分が傷つかないと思う相手には、情け容赦なく暴言を吐き、自分よりも売れている人間に対しては、本気で怒らない相手を選んで毒舌を吐いていると思いました。

 

これは芸能界で自分を売り出すための手段として考えたであろうことであり、そのことを批判するつもりもありません。毎年大量の新人がデビューし、大量の人間が忘れ去られていく業界の中で生き残るためには、手段を選んでいられないと言えます。また、有吉が鳴かず飛ばすの時期から再び注目されるようになったのは、悪意に満ちたあだ名であり、それから暫くして毒舌を売り物にするようになったことを考えるならば、計算して作り上げたキャラクターではないかと思うようになりました。

 

それから暫く後の事ですが、あるトーク番組でゲストのタレントが激怒して有吉を問い詰めたことがありました。テレビの番組ですのでゲストもどこまで本気で怒っていたかは不明ですが、迫力だけはありました。すると有吉は借りてきた猫の様に大人しくなった末に同席していたタレントに責任転嫁して逃げました。これを見ていて有吉は本当は小心者であり、本心から毒舌を吐いていたとしても恐怖感の裏返しと思いました。

 

基本的に毒舌キャラはあまり好きではありませんが、これも一つの芸風であり、批判する気持ちはありませんが、どうして毒舌を吐くことで人気を得たのかを考えてみますと、視聴者が心の中で思っていることを有吉が代弁していてくれるとの共感があるのではないかと思います。職場の仲間の集まりなどでは、上司の悪口が一番盛り上がるのと同じで普段は言えないことを代弁してくれるだけでも溜飲が下がるのではないと思われます。

 

さて毒舌に似た言葉として、中傷があります。これは意図的に対象となる人物評価を下げることを目的としていると言えますが、中傷と批判の区別は非常に曖昧であると思います。本人は真っ当な批判であり、誹謗中傷ではないと言っていても第三者からするならば、誹謗中傷にしか見えないことは珍しくありません。このことについて考察し始めますと、長い記事になってしまいますので、簡単に書きますと目的と手段の正当性に違いがあるのではないかと思います。

 

暫く前の事ですが、ユーチュバーのKAZUYA氏が参議院議員の青山繁晴氏を批判して話題になりました。管理人もその動画を拝見しましたが、青山繁晴氏の話の中に誇張や嘘があるとの話には、少し疑問を抱きました。管理人はKAZUYA氏について虎ノ門ニュースにゲスト出演された際に拝見した程度であり、どんな人物かは存じませんが、青山繁晴氏については著書を何冊か読み、青山繁晴氏が出演されている虎ノ門ニュースは何度か拝見しています。KAZUYA氏が誇張や嘘であると断定されていた話の中の幾つかは虎ノ門ニュースの番組内での話でしたので、一部は管理人が記憶していた話もありました。


最初に感じたのは、話の趣旨のすり替えではないかとの疑問と話の一部分だけを抜粋して誇張しているのではなかとの疑問でした。また、KAZUYA氏が嘘であると断定している話にも本人の思い込みが多分にあり、少し調べればおかしな話ではないことが分かるのにとも感じました。別に青山繁晴氏を擁護するつもりもなく、ユーチュバーのKAZUYA氏を批判しようとも思いませんが、わざわざYouTubeに動画を投稿されるのであるならば、投稿前に事実関係を調べなかったのだろうかとの疑問を感じました。KAZUYA氏は動画の中で青山氏が誇張した話や嘘を話に混ぜるならば、青山氏の話の信憑性も低くなることを心配して忠告の意味であるとの発言されていましたが、意図的に話の趣旨のすり替えや話の一部分だけを抜粋して誇張しているとするならば、自分を売り出すための手段ではないかとの疑惑が生じます。勿論、管理人にはKAZUYA氏の本心は分かりませんので、全ては憶測でしかありません。

 

実は、他人を批判することで自分を売り出すことは珍しいことではありません。これは毒舌キャラの変則とも言える方法論ですが、基本的に方法は同じです。何を言っても自分が傷つかないと思う相手には、情け容赦ない批判をし、自分よりも売れている人間に対しては、本気で怒らない相手を選んで批判することが常套手段となります。しかし、この場合の批判は、自分を売り込むための批判でしかなく、議論としては不毛に近い議論となりますが、本人は自覚していない事も少なくないようです。これは自分が他の人間の中に埋没してしまうことの恐怖心から他人を批判することで自分の存在をアピールしたいとの気持ちが根底にあると思われます。

 

いずれにしても批判は難しい問題だと思います。サラリーマン時代に商品や販売方法の改善の要望書を何度も書きましたが、会社に対する批判と言った受け取られ方をしたことが何度かありました。商品や販売方法の改善して欲しいだけであり、個人攻撃をしている訳でもなければ、相手の人格を否定している訳でもありませんが、自分の仕事を批判されたと感情的になる人間が多かった気がします。これとは逆に部下を指導していると言いながら部下の仕事内容を批判するのではなく、部下の人格を否定する上司も数多くいました。

 

このことに関しては、いずれ機会を改めて考察してみたいと思います。

 

 

ご相談は こちらから

at 09:35, 星 良謙・子授け地蔵, 心の健康

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炎上商法と毒舌(星)

ブログやツイッターなとが炎上した際や芸能人のスキャンダルの際に炎上商法ではないかと言われる事があります。しかし、ブログやツイッターが炎上した場合には、大半の場合にはブログやツイッターの閉鎖に追い込まれるだけでなく、芸能人なとでも話題になるのは一時期であり、大半は暫くすれば忘れ去られるようです。そのため、方法論として考えるならば、炎上商法は成功する確率が低い方法であると言えます。しかし、世の中には、この成功する確率の低い方法論を得意としている方もいます。その一人が高須クリニックの院長である高須 克弥氏であり、もう一人が憲法学者、作家、大学講師など多彩な活動をされ、明治天皇の玄孫としても有名な竹田 恒泰氏です。

 

高須 克弥氏は「炎上上等」 (扶桑社新書) との何とも挑戦的な題名の本を出版されていますが、この本の中でツイッターが炎上することを楽しんでいるかのような書き方をされていますので少しご紹介します。

 

ツイッターは"釣り"、炎上は"大漁"

 僕は、ツイッターは大海原での"釣り"だと思っているんだよ。まき餌(え)をポッと投げてやって、どんなものが掛かるかなって待つ。で、餌を目掛けてパーッとみんなが来ると、どれを釣ろうかなって選ぶ感じ。何もいない時は、雑魚かそこら辺でピチャピャ跳ねているのを捕まえて、「おい、おまえ」ってやる。

 それを、漫画家で僕のパートナーの西原理恵子(サイバラ)はすごく嫌がる。フォロワーが5人しかいないようなカスを捕まえて、いたぶって、そんなのを相手にするだけアナタの値打ちが落ちるって。

 でも、別にいいの。雑魚が偉そうなことを言うと、勝手に他の魚が来て、そいつを攻撃してくれるしね。そうすると、だいたい雑魚はみんなブロックして逃げる。

 僕は絶対にブロックしない。サメが来ても、クジラが来ても戦う。あ、「戦う」っていうのは、こちらも倒される心配がある場合だね。他は「いたぶり」だね。だってこっちは船の上に乗って、絶対に安全なところからルアーを飛ばしているようなもんだから。

 ただ、僕も時々引っ掛けられる。ツィッターのフォロワーから、「院長、そいつは"ツリ"ですよ!」って教えてもらったりしてして、釣るつもりで来たのに、偽の情報を流しているヤツに釣られていた、なんてこともある。

 

炎上上等 高須 克弥著 P15-P16

 

高須 克弥氏は確信犯と言うべきでしょうか。しかし、高須 克弥氏は誹謗中傷や脅迫されても自分は言うべきことを言うとの立場を貫かれているだけでなく、誹謗中傷してくる相手をブロックしない、考え方が異なる相手ではあっても弱い者いじめをする気はないとこの本の中で書かれています。

 

また、竹田 恒泰氏は毎週木曜日20時から竹田恒泰チャンネルでニュース解説の番組を配信されていますが、左翼の活動家と思われる人びとからの通報でユーチューブのアカウントが閉鎖されたことがありました。竹田恒泰チャンネルは登録者が10万人を超える人気サイトであったことから狙われたと思われますが、直ぐにサブアカウントで竹田恒泰チャンネル2を開始されました。その際に竹田氏は番組内で自分は炎上商法で大きくなったと言われていました。事実、竹田恒泰チャンネル2の登録者は再び10万人を超え、現在の14万人を超える人数となっています。

 

このお2人に共通しているのは何かと考えますと、共に強い信念があるのは当然として、自分とは異なる意見であっても排除しないことがあります。過激な意見で人気を得るサイトは数多くあるようですが、批判的なコメントを残す読者をブロックされる方は少なくないようです。またブロックされないとしても反論のコメントに関しては無視して自分の意見に賛同してくれる読者のコメントだけにコメントを返す方が多いようです。このことが更に火に油を注ぐことになり、最悪の場合にはサイトの閉鎖などに繋がるようです。

 

では、どうしてこのお2人が炎上することを気にされていないのかを考えますと、自分とは異なる意見を持つ方に対する考え方にあるのではないかと思います。多くの方は自分の考えに対して同調を求め、自分の考えと異なる考えを持つ人間を排除する傾向があります。これは自分の意見を否定されることを恐れるのに対してお2人は共に論争を恐れないからではないかと思います。

 

以前に動画の中で竹田 恒泰氏は、コアナ賛同者が2割、中立的な視聴者が6割、頑なな反対意見の視聴者が2割いることが理想であり、視聴者が賛同者ばかりでも、視聴者が反対意見でも良くないと言われていました。竹田 恒泰氏は、自分に対して反対意見を持つ視聴者が自分の動画を見ることで考えを変える可能性があると述べられていました。また、過去に多数の左翼思想の持ち主を保守的な思想へと変えた実績があると言われていました。

 

竹田 恒泰氏は、左翼思想の何が間違っているのかを説明して納得させるならば、左翼思想の持ち主も考え方を変えると言われていました。勿論、そのためには、左翼思想について知る必要があることから蔵書の6割が左翼思想の本であるとも言われていました。それだけ、左翼思想について精通しているからこそ左翼思想の何が間違いなのかを指摘できるとの話でした。

 

同じようなことをジャーナリストであり、編集者でもある有本 香女史も言われていました。有本 香女史の場合には、朝日新聞の捏造記事の問題を長年取り組んでいるが、自分は朝日新聞の愛読者でもあると言っておられました。日々の新聞だけでなく、古い記事を読むために図書館に行って古い朝日新聞を読んでいる読者は他にいないのではないかと話されていました。そこまで調べないと巨大企業に立ち向かうことは難しいのかもしれません。

 

また、お2人が炎上を恐れない理由は、フォロワーや視聴者の側にもあるのではないかと思われます。そのことについて高須 克弥氏が本の中で触れられていますので、少し引用させて頂きます。

 

 そういうのを真に受けて、僕のところにヘンな質問がくるんだよ。都市伝説は都市伝説。「信じるか信じないかはアナタ次第」ではなく、「そんなもん信じるな!」って言いたいね。

 すべてを疑えとは言わないけど、いろんなことを真に受け過ぎる人が多いのかもしれないな。だって、僕が冗談で、「僕はネトウヨです」ってつぶやいたら、「高須はネトウヨなのか!」って思っちゃう人がいるんだよ。僕は保守だし、愛国者ではあるけど、別に誰かを差別したりなんかはしない。僕のツイッターをちゃんと見ていれば、それが分かると思うんだけど、どうしても断片的な情報だけで決めつけちゃう人が多いんだよ。

 今のネットを見ていると、一つの情報だけでその人や物事を判断して、それが自分の受け入れられないことだと、その対象を全否定して攻撃してくるヤツが多いからね。むしろ、攻撃するネタ探しで、都合のいい情報だけを見ているのかもな。

 

炎上上等 高須 克弥著 P19-P20

 

お2人にしてみれば、誹謗中傷としか言えないようなコメントを恐れる気持ちはないと言うところでしょうか。高須 克弥氏は、本の中で高須 克弥氏に対して誹謗中傷をした方のツイッターが炎上してしまった話を書かれていますが、別のページには汚い言葉で罵るだけで中身のないツイートが多いと嘆かれています。また、リベラルを自称する人びとは、安倍政権を批判するためならば何をしてもいいと思っているのか、凄い罵声を浴びせていると嘆かれています。そんな風潮だからこそ高須 克弥氏は、戦うと本の中で書かれています。

 

結局、お2人が炎上を恐れないのは、世の中を良くしたいとの強い気持ちがあることが最大の理由ではないかと思います。では、管理人はどうかと言われると、そこまでの情熱はないと言ったところでしょうか。これが不成仏霊ならば、どんな大物が相手でも逃げる気持ちはありませんが、面倒な話には巻き込まれたくない気持ちが大きいと言ったところです。

 

炎上商法に続けて毒舌商法について書くつもりでしたが、長くなりましたので、毒舌商法については次回とさせて頂きます。

 

 

ご相談は こちらから

at 12:07, 星 良謙・子授け地蔵, 心の健康

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儒教の呪縛2(星)

日に日に暖かくなっているとは言え、寒い日も有ったり・・・

三寒四温との言葉を思い出しています。

 

そろそろバラ園が満開の時期でしょうか?

 

たまには仕事を忘れて花でも見に行きたいと考えております。

 

それはさておき・・・

 

今回は、石平著の『なぜ「論語」は善なのに、「儒教」は悪なのか』のご紹介の続きとなります。

前回は、論語とは人生の英知に溢れた本ではあっても思想書でもなければ、哲学書でもなく、論語と儒教は別物として考えるべきであるとの話でしたが、今回はどうして論語と儒教を別に考えるべきかとの話がテーマとなります。石平氏はこの本の中で儒教の成立の時期と孔子の生きた時代に差があり過ぎることを指摘されています。

 

儒教の成立した時期は諸説ありますが有力な説に漢代成立説があります。著者も漢代成立説の立場とされていますが、経典の確定とそれをめぐる教学の成立が漢代であることを根拠のようです。儒教が最初に王朝の体制教学となったのは前漢であり、孔子が没したのは、紀元前479年であり、前漢王朝が成立したのは、紀元前206年ですので、孔子が亡くなってから273年後となります。更に儒教が教学として成立したのは紀元前141年に漢の武帝が即位後の事であり、孔子が亡くなってか三百数十年後となると著者は指摘されています。

 

当然のことながら孔子が生きた時代と儒教が成立した時代では時代が大きく異なり、孔子が生きていた春秋時代の政治体制は、封建体制であり、周王朝を宗主国として認める格諸侯が天下を分割統治していましたが、漢王朝は皇帝一人が官僚を使って全国の土地と人民を直接支配する中央集権の制度です。そのため、孔子が生きた時代と儒教が成立した時代とでは、政治体制が全くことなっています。そして孔子が政治制度としてもっとも推奨しているのは、周王朝の制度であることから「もし孔子が前漢の時代に蘇って皇帝独裁の中央集権体制の政治を目にしたら、もう一度憤死するに違いない。」と書かれています。それに続き、「結局のところ、漢代に成立した儒教は、「孔子と『論語』の思想を継承した」云々というよりも、むしろ孔子の名声を悪用して、孔子・『論語』とはほとんど関係のないところで自分たちの教学を作り上げただけのことである。」と結論付けています。

 

では、誰が儒教を作り上げたのかを著者は儒教の成立の歴史に触れることで解説されています。著者の石平氏は儒教の成立の歴史として性善説を説いた孟子を最初に取り上げています。孟子は孔子が亡くなられて百数十年後の思想家であり、若い頃に孔子の孫である子思の門人に学んだことから孔子の弟子を自認していました。孟子が説いた教えは、性善説であり、人間の本性はもともと善であり、惻隠(そくいん)[あわれみ]、羞悪(しゅうお)[恥の意識、不義を憎む心]、辞譲(じじょう)[へりくだり]、是非(ぜひ)[正・不正の判断]の四端(したん)[徳に向かう四つの根源的感情]を持っているとし、四端(したん)をよく養えば「仁・義・礼・智」の四徳が完成し、四徳が完成すれば、社会が良くなることから政治は力ずくで人民を抑制するのではなく、「四徳」を基本にして人民を教化すべきとの教えです。

 

この孟子が残した書物が「孟子」であり、論語と同じように孟子の死後に編集された孟子の言行録ですが、石平氏は「論語」とは異なり、自分の思想体系の根本原理を掘り下げていることから思想と呼ぶにふさわしい内容であり「そういう意味で孟子は、まさに思想家・哲学者と称すべき人間であり、孟子思想の誕生をもって、政治思想・人間論としての儒教は初めて成立したといえよう。別の言い方をすれば、中国思想史上、学問あるいは思想としての儒教は孟子によって生まれた、ということである。」とされています。

 

そして孟子の半世紀後に生まれた荀子も儒教の学問的な体系化に貢献したとしています。著者である石平氏は、『このように「性悪説」に立脚して君主による道徳規範の制定と銀民に対する規制の重要性を説くのが荀子の学問と思想の基本であるが、その際、先輩の孟子と同じように、一つの根本原理に基づく学問の体系、あるいは思想の体系を築き上げ、一種の哲学・思想として儒学を打ち立てた。』と書かれています。この孟子と荀子による儒教の成立の背景には、時代の要望があったことから孟子の説く思想も荀子の説く思想も共に為政者が万民を導く必要性を説く思想であり、皇帝にとっては都合の良い学問でした。

 

そして前漢の皇帝権力の正当化と絶対化のために儒学者の董仲舒が打ち立てた理論が「天人相関説」です。この説では、自然災害や怪奇現象や世間の不祥事を含めて、人間界に起きているすべてのことが天の意志の表われとします。その一方で天が人間世界を直接に支配するのではなく、天の子供である皇帝を通して支配するとされます。この説では、天に絶対的な権威を置き、皇帝を天の意志の執行者としていますが、天の絶対的な権威を借りて皇帝の絶対的な権威を打ち立てる理論となっています。この他にも董仲舒は、孟子と荀子の思想の焼き直しと言える「性三品説※」を生み出して皇帝の権威を絶対化しました。つまり儒教は、皇帝の権威を打ち立てるための学問であり、儒家は皇帝権力を正当化することに成功したことで思想界を支配する独占的な地位を得ましたが、政治権力と持ちつ持たれつの卑しい関係になったと著者の石平氏は結論付けています。

 

※性三品説

人びとの性(性質)を上品・中品・下品に分け、「上品の性」は生まれつきの「善」であるのに対して、「下品の性」は生まれつきの「悪」であるとし、「中品の性」は善悪が入り混じっているとします。「上品の性」と「下品の性」は生まれつきのもので永久不変であるが、「中品の性」だけは教育や教化によってより完全な「善」に向かうとされます。そして「上品の性」と「下品の性」は少数であって大半は「中品の性」であることから皇帝が教育や教化して善へと導くべきであるとしています。

 

次に儒教の聖典である五経の成立にも著者の石平氏は懐疑的な意見です。

 

「詩経」 孔子が古代詩集・民話集を編纂したとされているが、孔子が編纂した史料は何もない。

「書経」 孔子によって編纂されたとされているが、偽書の可能性が高い

「礼書」 孔子によって編纂されたとされているが、偽書の可能性が高い

「易経」 孔子が十翼を書いたとされているが、孔子が易経を読んでいたかも疑わしい

「春秋」 孔子の著書とされているが、論語の中に一言も言及されていない

 

尚、漢代に成立した五経した後は、五経が儒教の基本経典となりましたが、孔子のかんがえを示す唯一の書物である「論語」は付け加えられることもなかったことを石平氏は「論語」と儒教は別物であるとの根拠の一つとされているようです。

 

この後、儒教は科挙(かきょ)制度の創設、孔子の神格化と続きますが、今回は此処までとさせて頂きます。

 

尚、次回は今回の続きではなく、別の話を取り上げさせて頂きます。

 

 

ご相談は こちらから

at 08:50, 星 良謙・子授け地蔵, 中華思想

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国防と霊障6(星)

前回の投稿が終わってから、国防と霊障のまとめに触れていないことに気付きました。

 

(@@;))))〜〜(((((;@@) うろうろ

 

あたふた (((^^;)(;^^) ))あたふた

 

実は、この問題は非常に根の深い問題であり、簡単にまとめられるような話ではなく、色々な視点から書くことが出来るのではないかとも考えています。しかし、ここで一区切りとしたいと思っています。

 

最初に取り上げました『「カエルの楽園」が地獄と化す日』に関しては、現実逃避と現状認識の甘さが招く危機の警告であり、事なかれ主義が招く悲劇が主題です。これは霊障にも言えることであり、宗教に対して関心がなく、自宅の宗旨すら知らない方も少なくありません。また、霊障の深刻さを知りながらも可能な限り触れたくないと考える方も少なくありません。管理人からすならば、経済的にも肉体的にもゆとりがある間に霊障の解消に取り組むならば、問題の解消は比較的容易なのですが、高齢となり、経済的にも厳しくなってからですと、ほとんど打つ手がなくなります。

 

しかし、管理人がご相談を受ける方の多くが、霊障が深刻化している方です。そのため、もっと早くご相談して頂けていたならば、と思うことが少なくありません。また、それと取り敢えず障りが落ち着くならば、やめられてしまう方も多いようです。管理人は、霊能者として活動していませんし、宗教家でもありませんので、霊障のご相談かあれば、占い師の立場からアドバイスさせて頂いています。そのため、基本的にご相談に対しては鑑定が前提となることから基本的にこちらからの連絡は控えていますが、大丈夫かなと心配することが少なくありません。

 

『「カエルの楽園」が地獄と化す日』の障りが外から押し寄せて来る障りとするならば、「韓国騒乱」は内側からの障りであり、自分から招き入れる障りと言えますが、外から押し寄せてくる障りの代表が迷っている先祖霊や水子之霊、恨みを抱いている有縁無縁之霊などとなります。ご先祖を押し寄せてくる障りとすることに抵抗を感じる方もいるのではないかと思いますが、仕事を求めて押し寄せる経済難民と考えると分かりやすいのではないか思います。

 

迷っているご先祖は苦しくて仕方がないことから救いを求めて子孫を頼ります。頼る先は本家であろうか、分家であろうが、母方の子孫であろうが、関係なく、僅かでも縁があるならば頼ります。これは難民と同じではないでしょうか。密入国であろうが不法移民であろうが彼らには関係ありません。自国にいたら経済的な困窮から抜け出せないことから豊かな国ならばどこでも良く、警戒の手薄な国への密入国を試みます。海があれば船で密入国を試みますし、砂漠があっても砂漠を踏破して密入国を試みます。

 

難民側には、相手国の事情などお構いなしに密入国を試みるように、本家であるか、分家あるかなどの事情は関係ありません。僅かな縁であっても苦しさから逃れることを求めて子孫を頼ります。しかし、生きている人間は、自分は分家だから関係ない、肉親は健在だから供養する必要はない、先祖が障りを起こすはずがない、あの世など存在するはずがない、経済的なゆとりがないなど様々な理由から供養に無関心な方が多いようです。

 

これに対して家系に恨みを抱く不成仏霊は、侵略を繰り返す隣国のような存在です。この土地は我が国の固有の領土であると不法占拠する国に対して話し合いで問題を解消しようとしても問題が解消する可能性は限りなく低いのが現実です。解消するとしたならば、軍事力を背景とした交渉であり、軍事力を持たない場合には、相手にもされないのが常識ですが、テレビなとでは兎に角、戦争はいけないと叫ぶ解説者が多いようです。しかし、それは不法占拠を容認するのと同じことになります。

 

これと同じように恨みを抱く不成仏霊も何もしなければ障りを起こし続けることになります。勿論、障りを起こしている不成仏霊にも言い分があり、障りを起こしているからと一方的に批難できない事情があることもありますが、軍事力を背景に交渉しないと交渉が成り立たないように神仏の仲介がなければ、障りの解消が難しいと感じています。特に激しい恨みや呪詛の場合には、障りは深刻となります。

 

次に取り上げました「韓国騒乱」は、左翼政権に乗っ取られた文政権の現状であり、文大統領が左翼思想の信奉者ならば、資本主義体制を崩壊させて社会主義体制の国家を作ることを目的とするのは当然とは言えますが、冷静に見るならば、国家を崩壊させるために邁進しているようにしか見えません。霊障に置き換えるならば、霊能者に依存されている方や新興宗教を盲信されている方に置き換えることができます。ご本人は、家族のためにと努力されているとしても破綻への道を邁進しているようにしか見えません。

 

霊障の観点から見ますと外からの霊障より恐ろしく、霊障が急激に悪化する傾向がありますが、本人は家族のためにと努力されていることから話は非常に厄介となります。特に霊能者に依存されていたり、新興宗教を盲信されていた場合には、当事者が霊能者や新興宗教と縁を切られたとても問題は解消しません。一度縁を持ってしまうと、霊能者や新興宗教を指導している低級霊が居座り続けるのが普通です。そのため、影響は霊能者に依存されていたり、新興宗教を盲信されていた方に留まらず、子孫にまで影響を与え続けることになります。これは何も霊能者や新興宗教に限られた話ではなく、政治カルトや経済カルトでも同じことです。

 

管理人も霊障の解消策が分からなかった頃には、霊能者や拝み屋、気功師、行者など色々な方にもお会いしました。その多くは妖しいと思いながらも打開策も見つからなかったことから何かの手掛かりが得られれば良いとしか考えていませんでした。しかし、この人は本物なのかと考えたことも何度かありましたが、お金を使っただけで終わりました。その経験から霊能者や新興宗教を頼られることはお勧めしていません。一般の方からするならば、管理人も霊能者なのでしょうが、少なくとも独自の教えを説いて教団を立ち上げる気持ちもなければ、自分で除霊や供養、祈願祈祷をしようとは考えていません。管理人がしていることは、霊障の鑑定と対策の鑑定であり、そこから先は神社仏閣にお任せしています。

 

ここまで色々書きましたが、ご自宅の宗旨での先祖供養と氏神の神社への参拝を心掛けていれば、大きな障りを未然に防ぐことができます。勿論、それだけで全ての障りを防ぐことは困難ではありますが、ご自宅の宗旨での先祖供養と氏神の神社への参拝をやめることが霊障の深刻化の始まりとなります。

 

 

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at 02:23, 星 良謙・子授け地蔵, 本の紹介

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儒教の呪縛1(星)

α~ (ー.ー") ンーー

 

どうせ、くだらなないことで悩んでいるのだろうとの声が・・・・

 

しかし、今回だけは真面目に悩んでいます。

ブログの投稿を休んでいた理由として呪術の対策を調べるのに追われていたことと、中国系と朝鮮系の不成仏霊の対策に頭を痛めていたことがあります。どちらも非常に厄介な問題であり、簡単ではありませんでした。

 

ネットを調べますと呪われた場合の対策があれこれ書かれていますが、素人が見よう見まねでかけた呪いならば、呪いを解くことは難しい話ではありませんが、プロが呪った場合には、非常に厄介となります。手順としては、どんな呪いかを調べることから始まりますが、先祖が恨まれて家系が呪われ、何代も障りを起こされ続けていた事例や過去世においてかけられた呪いが今世においても障りを起こしていた事例など実に様々でした。

 

その中でも中国系と朝鮮系の呪いは特に厄介であり、随分と苦労しました。術を破るためには、相手を知ることが大切なことから中国人と朝鮮人の国民性などを調べていましたが、驚かされるとの連続でした。同じ東洋の人間ではあっても日本人とは考え方が大きく異なり、日本人の常識と中国人や朝鮮人の常識が大きくことなっていることも改めて知りましたが、調べ始めると疑問も増えました。その一つが儒教の問題です。

 

中国や朝鮮においては儒教が大きく影響していることは分かりますが、儒教の弊害に触れている記述を見かけることが気になっていました。易経や論語を読む限り、時代的な制約は感じることは多いのですが、激しい男尊女卑の思想との印象は受けません。以前に儒教と言っても朱子学は、極端な理想主義であると書いてあった記憶はありますが、儒教がどうして多くの弊害を生みだすのとの疑問が解消されることはありませんでした。

 

しかし、少しずつ分かってきたことは、中華思想と儒教の組み合わせが多くの弊害をもたらすことや儒教の思想と社会主義思想には共通点かある事などでした。当然のことながらこれらのことは霊障と深く関係している話であり、このブログでも取り上げてみたいと考えるようになりましたが、儒教や中華思想、社会主義との関連などを理解して頂かなければ、霊障の話に入れません。そのため、暫くは退屈な話となるのではないかと思います。

 

さて、今回は、石平氏著の『なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか」』を参考に石平氏の儒教に対する考察をご紹介したいと思います。この本は発売前にタイトルに惹かれて予約した本ですが、期待に応えて頂けた内容でした。儒教と言えば四書五経※が有名ですが、まともに読んでいるのは易経だけであり、残りは論語が入門書を読んだ記憶がある程度です。他に春秋も解説書を読んだことはありますが、とても儒教を理解しているとは言えない状態です。

 

※四書五経 儒教の経書の中で特に重要とされる四書と五経の総称

 四書は「論語」「大学」「中庸」「孟子」、五経は「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」

 

易経や論語を読む限り、時代的な制約は感じることは多いのですが、激しい男尊女卑の思想との印象は受けません。この問題は、中国人であった石平氏にとっては日本人が感じる矛盾の比ではなく、非常に大きな葛藤であったと書かれています。その話に入る前に儒教がもたらした弊害がどれほど大きい物であるかについて書かれた記述を少し引用します。

 

 同僚の解説によると、礼教(すなわち南宋時代以降の新儒教)が支配する明朝や清朝の時代、女性が結婚して夫に先立たれた場合、原則的には再婚が許されなかった。礼教の「礼」がそう決めているからである。

 既婚の女性が夫に死なれたとき、彼女に残された道は二つだった。

 一つの道は、もし、夫の残した後継ぎの息子がいる場合、女性は嫁ぎ先の家にそのまま残って、寡婦(かふ)※の立場で夫の遺子(いし)を育て上げなければならない。それは普通「守節」というが、「守節」を貫いた女性は「節婦」と呼ばれ、社会一般に高く評価される。場合によっては朝廷からも表彰されるのである。

 だが、もし死んだ夫に遺子がいない場合、あるいは遺子がいても男の子でない場合、未亡人はどうするのか、残された道は一つしかなかった。すなわち、嫁ぎ先と実家の両方の家族と社会一般の圧力の下で、夫に殉ずる形で自らの命を絶つのである。

 このような行為は「殉節」と呼ばれて、それを成し遂げた女性はすなわち「烈婦(烈女ともいう)」と呼ばれる。「烈婦」は「節婦」よりもさらに高い評価を受け、「殉節」がよりいっそう名誉なこととして、朝廷より表彰されるのである。

 

なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか P23

 

寡婦 (読み)カフ デジタル大辞泉の解説

1 夫に死に別れて再婚しないでいる女性。やもめ。後家(ごけ)。未亡人。
2 夫と離婚し、そのまま再婚しないでいる女性。

 

 

 考えてみれば、彼女たち自身にとって、そうなったのは自由意志によるものでもなければ、名誉なことでもなんでもないであろう。「節婦」といわれる女性たちはただ、社会的圧力に屈して、女としての人生と幸せを捨てて「守節」しただけのことである。さらに「烈婦」と呼ばれる女たちに至っては、要するに、周りの人々に強制されてかけがえのない命まで捨てて「烈婦」になったのだ。そういう意味では、彼女たちは確かにその時代の「礼教」の犠牲者であり、「社会」によって殺されたようなものである。

 

なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか P25

 

 礼教といえば新儒教とも呼ばれて、伝統的儒教の発展型だと位置づけられる。つまり、本質的には儒教と同じであって、要するに儒教の一種である。そして一般的な定説と通念からすれば『論語』という書物こそが儒教思想の原型と源をなすものであり、孔子が儒教の始祖だとされる。

 だとすれば、『論語』という書物と孔子の思想は、儒教・礼教と当然繋がっており、両者の間には共通した理想理念があるはずである。そしてもし、「存天理、滅人欲」に象徴されるような「人間性の抑圧」こそが礼教の本領であるとすれば、礼教以前の儒教と『論語』にもこれと同じように思想的要素があねのではないか、ということになる。

 つまり、同じ儒教であるなら、『論語』にもやはり、いわゆる「礼教殺人」の思想と共通する思想的要素があるはずである。

 

なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか P28-P29

 

著者は、引用させて頂いた話に続き、「論語」の中には、人間性の抑圧や欲望の否定を唱える言葉などは一つも登場しないと断言され、人間性を否定する儒教の教えと「論語」の中に書かれている言葉との矛盾に疑問を抱き続けたことを書かれています。その疑問に対して著者は長年考え続け、到達した答えは、孔子が説いたとされる論語の教えと儒教の教えは別の教えであり、同一に考えるべきではないことです。一般的には、儒教は孔子の教えとされていますので、儒教を深く学んでいる方からするならば、暴論以外の何物でもないとしか言えない意見であり、清朝の時代ならば抹殺されたとしてもおかしくない過激な意見です。

 

では、どうして孔子が残したとされる「論語」と儒教が別物であるのかを丹念に解説しているのが、この本であり、孔子の人物像に対する考察、儒教の発展の歴史、儒教の残した弊害などを取り上げ、最後に「論語」はこう読むべきであるとの提言で終わっています。伝統的な儒教からするならば、異端の本と言う事も言えますが、儒教とは何かを知るには最適な本ではないかと思います。

 

著者の石平氏は、北京大学哲学部を卒業した後に四川大学哲学部講師をされていたためか、最初に孔子は思想家であるか、哲学者であるかの考察から始めますが、著者は孔子は思想家や哲学者としての要件を満たしていないことから思想家でもなければ、哲学者でもないと断言されています。そして論語に残された話から孔子は聖人とは言えないとまで書かれています。但し、著者は思想家でもなければ、哲学者でもなく、聖人とは言えない人物であるとしても偉大な人物と結論付けています。

 

まず、著者は論語が孔子の言動の記録でり、内容が整理されていないことを指摘されています。つまり一つの思想としてまとまった考え方を残していないとことから思想家として疑問が残ります。また、哲学者としては、哲学者に求められる根本原理の探求をしていません。例えば、孔子は天を説きながら天とは何かについて一切説いていません。また仁について何度も繰り返し説きながらも仁の内容については一貫していません。そのため、著者は孔子が哲学者でもなく、人生経験豊かな老人としています。

 

続いて論語に書かれた孔子が弟子に嫉妬したことや来客者に対して行った嫌味な言動を行ったことなどの孔子の生前の言動を紹介して孔子を聖人として呼ぶにふさわしくない人間的な面があったと結論付けています。しかし、著者には孔子を貶める意図なく、理想化された孔子像を打破することが重要であるとされ、孔子は思想家でもなければ、哲学者や聖人ではないとしても人生の達人であり、融通無碍の境地に到達した人物であるとされています。

 

そして石平氏は、論語は聖典でもなければ経典でもなく、常識論の書であると結論付けています。しかし、常識の書であるからと言ってその価値が否定されるのではなく、人生の教訓に満ち溢れた書であり、人生の指針として大いに役立つとしています。そのため、石平氏は論語を読むことを推奨されています。石平氏は論語に大きな価値を認めていると言うよりも論語を絶賛していると言えますが、論語の内容を批判している方も少なくないようです。

 

いずれにしても論語と儒教とは別物として考えるべきであるとの石平氏の意見には納得できると思います。では、儒教とは何かにが問題となりますが、これについては次回の投稿で取り上げたいと思います。ただ、他に取り上げたい話もありますので、気が変われば別の話となるかもしれません。

 

 

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at 11:03, 星 良謙・子授け地蔵, 中華思想

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遥拝所の話(星)

土曜日に神社に参拝した際に国旗が売られていましたので購入しました。

 

<(`^´)> エッヘン

 

威張るようなことではありませんが・・・

勿論、譲位に備えての準備です。

 

( ̄~ ̄;) ウーン

 

考えてみますと、管理人が子供の頃には祝日にはどの家も国旗を掲げていました。

それがいつの日からか国旗を掲げる事もなくなってしまいました。

今上天皇が即位された日は、祝賀ムードどころではありませんでしたが、今回は祝賀ムードですので、良い機会かと考えました。

 

明治天皇の玄孫で憲法学者の竹田恒泰(たけだ つねやす)氏は、当日の過ごし方として伊勢神宮への参拝して、日々国民の一人一人の幸せを願われている天皇陛下に対して感謝することを勧められていました。

 

伊勢神宮には毎年参拝させて頂いていますが、連休で伊勢自動車道は大渋滞が予想されますので、伊勢神宮の遥拝所で参拝させて頂こうかと考えています。

 

せっかくの機会ですので、今日は遥拝所のお話をさせて頂きます。

 

遥拝所(ようはいじょ)とは、遠く離れた所から神仏などをはるかに拝むために設けられた場所のことであり、神社によっては境内に伊勢神宮などの遥拝所があります。遥拝所と言っても石碑や石柱に〇〇神社遥拝所と刻まれているだけの場合や鳥居や柵がある遥拝所の場合もありますので、様式は一定していないようです。また、流石に伊勢神宮の遥拝所は一番よく見かける遥拝所ではありますが、管理人の経験では、遥拝所は伊勢神宮だけでなく、橿原神宮や富士山、皇居、御嶽山などの遥拝所がありました。

 

遥拝所とは言っても対象となる場所の方角を示す場所でしかなく、目の前には何もない事が多く、場所によっては壁に向かって拝礼したり、隣の家に向かって拝礼したりすることになりますので、何か落ち着かないこともあります。しかし、霊的な観点からしますと対象となる場所に繋がっていることが多いようです。

 

これは管理人の経験ではありますが、御嶽山の遥拝所を参拝をさせて頂いた際に目の前に見えるはずのない高い山が連なっている風景が見えたことがあります。考えてみれば、御嶽山の遥拝所なのですから霊的に繋がっていたとしても不思議ではないかと一人で納得はしていましたが、不思議な感覚でした。また、ある神社の本殿の脇に伊勢神宮の遥拝所がありましたので、参拝させて頂いたところ、本殿を参拝させて頂いたときよりも強烈なお力を感じました。

 

残念ながらいつもこのような体験をしているわけではないのですが、これは遥拝所に限られた話ではなく、本殿でも同じです。無心に近い状態で神様に御挨拶できたときだけ、不思議な体験をさせて頂いているとも言えますが、いつも同じようにしているつもりでも、時々強烈なお力を感じます。

 

話は少し脱線しますが、内宮の荒祭宮に参拝しようとしていた際に、神職の方が来られたことから近くで待っていました。神職の方は、ただ神前で拝礼されただけなのでが、次の瞬間に周囲が神仏のお力の洪水とでも言うべき状態となりました。流石は内宮の神職の方と言うべきか、管理人にはとても想像すらできない光景でした。やはり神職の方は格が違うと思い知らされました。

 

話を戻しますと、遥拝所であっても霊的には繋がっていると言えますので、譲位の日には遥拝所を参拝されては如何でしょうか。

 

愛知県にある伊勢神宮の遥拝所

犬山市 大縣神社(おおあがたじんじゃ) 通称 姫ノ宮神社

豊橋市 安久美神戸神明社(あくみ かんべ しんめいしゃ)

一宮市 酒見神社 (さかみじんじゃ)

 

名古屋市 洲崎神社(すさきじんじゃ) ※石柱のみです。

 

 

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at 11:19, 星 良謙・子授け地蔵, 神道

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国防と霊障5(星)

先日のことですが、熱田神宮に参拝しました。

 

いつもはあちらこちらのお社を参拝するのですが、久々に本殿だけを参拝した後、池のほとりでぼんやりしていました。

 

( ̄。 ̄)ボーーォ

 

過ぎゆく時間・・・・・

 

霊障に翻弄されていた時期には、よくこんな時間を過ごしていました。

 

しかし、現実に戻ると・・・

 

ああ、納期が・・・あたふた (((^^;)(;^^) ))あたふた

 

いつもの生活に戻ってしました。

 

それはさておき・・・・

 

今回も引き続き、「韓国壊乱」から引用させて頂きます。前回は文化の破壊でしたが、今回は建築物の破壊の話です。

 

 文在寅一派は、韓国における自由・民主の西欧文明を「積弊(せきへい)※」として徹底的に破壊することをめざしています。現在、韓国で行われているのは企業を潰して徹底的に破壊することをめざしています。現在、韓国で行われているのは企業を潰して会社を解体して社会を解体し、原始経済に後退させるという野蛮な社会改革です。まさにポル・ポトの妄想の産物である原始共産制というディストピアの再現に他ならない。

 その最大の象徴が李明博政権時代に整備工事を行った四大河川(漢江、洛東江、錦江、栄山江)をすべて自然河川に戻す、という非科学的な、紅衛兵のような計画です。

 いま世界中で、不足する水の有効活用として河川に堤防を築き、水を管理する河川工事が行われています。李明博大統領は当時、ドイツのライン川を参考に四大河川の堤防を補強し、水中に堰(せき)をつくって水量を増やし貴重な水資源を確保しました。ところが、文在寅大統領は文明社会の流れに逆流して韓国の川を自然に戻そうとしているのです。

 

韓国壊乱 P110

 

※積弊(せきへい) 長い間つもり重なった害悪。

 

前任者の実績を否定したい気持ちになるのは世の常なのかもしれませんが、治水工事された河川を自然の状態に戻すのは、防災や水資源の確保の観点からも大丈夫なのかと思ってしまいます。いくら大統領の権限だと言ってもそれに反対しない国民も国民であると思います。それともここに書かれていない何らかの事情があるのでしょうか。いずれにしてもここに書かれている話が本当であるならば、正気の沙汰とは思えませんが、景気が悪いのに景気対策よりも最低賃金の引き上げを先にした政権ですので、不思議ではないのかもしれません。

 

念のために補足しておきますが、景気が悪いのに景気対策よりも最低賃金の引き上げた結果、失業率が上がりました。これは企業にとっては、不景気で人件費を抑えたい状況なのに人件費が上がったならば、人件費を抑えるために従業員を解雇しなければならない状況に追い込まれます。当然のことながら仕事量が変わらないのに人手だけが減ることから解雇されなかった従業員の労働条件も悪化します。

 

これは最初から分かっていることであり、知らなかったとしたならば、経済について何も知らない素人が大統領をしていと言う恐ろしい結論になります。逆に知っていて行ったとするならば、もっと恐ろしい事ではありますが、今回引用させて頂いた話も勝るとも劣らないような政策と言えます。管理人には国家破綻に脇目も振らずまっしぐらに突き進んでいるのではないかと思えてしまいます。

 

さて、管理人からするならば、韓国の大統領は韓国を破滅へと導くための政策を行っているとしか思えないことは多いのですが、不成仏霊に翻弄されている方も同じ様な傾向が多い印象があります。これは不成仏霊に翻弄されている方にも共通している話であり、例えば引っ越しされると最悪の時期に最悪の物件を選んでいることは珍しくありません。引っ越しをされた方は、色々と考えた末に選ばれたと思いますが、鑑定してみますと大凶でした。勿論、方位術や風水をご存知ない場合には当然と言えますが、運の良い方は不思議と吉相の物件を選ばれる傾向があります。

 

これらは運不運と言ってしまえば、それまでの話ではありますが、不成仏霊に翻弄されている方は、破壊的な行動をされる傾向があります。それは本人が自覚して行動しているのか、無自覚に行動されているのかを判断することは困難なことが多いのですが、その場の感情で行動しているのではないかと思われることが少なくありません。また、もう一つの特徴として必要以上に悲観的であり、否定的な考えに囚われる傾向もあります。常に理性的であり、建設的な考え方でなければならないとは考えていませんが、必要以上に悲観的であり、否定的な考えに囚われることには問題があります。

 

しかし、否定的な考え方をすべきではないと言って、すべてを楽観的に考えることにも弊害はあります。この場合には、問題の解決に取り組むことなく、楽観的に考えることで現実の問題から逃避している場合が少なくありません。何とかなると言い続けていていることで問題が解消するならば良いのですが、問題の解決を先送りしていることで、問題がより深刻化する場合が少なくありません。そのため、必要以上に悲観的に考える事も良くなければ、必要以上に楽観的に考えることも良くありません。

 

そのどちらにも偏らない考え方が理想なのですが、簡単ではありません。大半はこのどちらかに偏る傾向がありますが、不成仏霊に翻弄されている方は、極端に偏る傾向が強くなりますが、悲観的な考え方の人が常に悲観的な考え方に囚われているかと言えば、そうでもなく、時として真逆に振れることも少なくありません。例えば、いつも悲観的な考え方をしていた方が幸運に恵まれ、社会的に成功するならば、急に強気になることもあります。これとは逆に楽観的な考え方をしていた方が大きな問題に直面するならば、悲観的な考え方から抜け出せなくなることもあります。

 

これは誰にでもあることと言えますが、不成仏霊に翻弄されている場合には、これが極端になり、一つの考え方に囚われると、その考え方から抜け出せなくなります。一つの考え方に囚われますと、別の考え方をすることが困難となり、周囲の意見も耳に入らなくなります。そして極端な考え方のまま、突き進むことになります。この状態は、冷静な判断ができなくなっている状態ですので、幸運に恵まれていなければ、自滅への道を突き進むことになります。勿論、不成仏霊が生きている人間を翻弄して、破滅への道へと突き進むように仕向けている可能性があります。

 

では、不成仏霊の影響が解消されるとどうなるかと言いますと、多くの方は焦りが消えると言われます。現実の状況は何一つとして変わっていないのに、不思議と焦りが消え、気持ちが落ち着くと言われます。焦りが消えて気持ちが落ち着くと、自分の置かれた状況を冷静に考えられるようになり、一つの考え方に囚われなくなります。一つの考え方に囚われることなく、冷静に人の意見を聞くことができるようになれば、自分が何をすべきかも的確に判断できるようになります。

 

実は、この状態になることが神仏の指導を受けやすくなる状態であり、この状態をいつも維持できるならば、常に神仏のご加護を受けることができると言えます。勿論、常に神仏のご加護を受けられると言っても、その方の悟りの高さやと魂の傾向性などによって指導する神霊が異なると思われますが、一般的には大きな失敗を未然に防ぐように指導されます。最初に書きました「不思議と吉相の物件を選ばれる方」と「最悪の物件を選ぶ方」との違いは、指導霊の違いとも言えます。残念ながら管理人の指導霊は、経済活動に関心がないと言うか、あまり金儲けには働いて頂けませんが、成功されている経営者には過去世において社会的に成功されていた方がいる事が多いようです。

 

 

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at 09:28, 星 良謙・子授け地蔵, 本の紹介

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国防と霊障4(星)

春の到来を感じさせる陽気が続いていたのに急に寒くなりました。

 

さむーいっ!((p(>_<)q))

 

まだまだ冬物をクリーニングに出せないでおります。

 

クリーニングに出せないのは貧乏性だからだろうとの声が聞こえるような・・・

 

良いんです。節約第一 ( ̄^ ̄)えっへん

 

α~ (ー.ー") ンーー

 

単純にクリーニング代が高いことが理由のような気が・・・

 

それはさておき・・・・

 

今回も前回に続き、「韓国壊乱」から少し引用させて頂いてから始めたいと思います。

 

洪 二〇一七年一二月、ソウルへ取材へ取材に行った際に『トランプを当選させたPC※1の正体』(未邦訳)という優れた書に出会いました。著者の洪知秀氏は長年、欧米のジャーナリズムを研究してきた人です。彼女の本を読み、なぜアメリカや韓国のような自由民主諸国が現在のような状態になってしまったのか、長年の謎が解けました。

 本書の指摘でまず驚くのは、「PCという言葉を最初に使ったのは誰か」という問い。答えは「レーニン」です。一九一七年十月のボリシェヴィキ革命※2が成功しましたが、この「階級革命」は西欧の資本主義諸国には波及しなかった。そこで当時の共産主義者たちが総括、検討して、新しい闘争方針を打ち出していく。

 マルクス主義の誤謬(ごびゅう)※3を分析したアントニオ・グラムシ(一八九十一〜一九三七年、イタリア共産党創設に携(たずさ)わったマルクス主義思想家)や、ルカーチ・ジェルジ(一八八五〜一九七一年、「西欧的マルクス主義」を唱えた政治家)などの共産主義者たちは、次のような考え方に至りました。

 「西欧文明が労働者階級の目を覆(おお)い、真の階級利益をわからなくさせている。共産主義革命を成功させるには、したがって西欧文明そのものを破壊せねばならない」。すなわち階級闘争から「文明・文化の破壊による革命」への転換です。新しい価値を生み出すための文化テロリズムが始まり、韓国の伝統的価値を破壊するとともに、子供たちに性教育を施(ほどこ)すことから文明・文化の破壊をスタートさせました。

 

韓国壊乱 P50-P51


※1ポリティカル‐コレクトネス(political correctness)

人種・宗教・性別などの違いによる偏見・差別を含まない、中立的な表現や用語を用いること。1980年代ごろから米国で、偏見・差別のない表現は政治的に妥当であるという考えのもとに使われるようになった。言葉の問題にとどまらず、社会から偏見・差別をなくすことを意味する場合もある。ポリティカリーコレクト。PC。政治的妥当性。
[補説]「黒人」を「アフリカンアメリカン(アフリカ系アメリカ人)」、「メリークリスマス」を「ハッピーホリデーズ」、「ビジネスマン」を「ビジネスパーソン」と表現するなどの例がある。日本語でも、「看護婦・看護士」を「看護師」、「保母」を「保育士」などの表現に改めたことが、これに相当する。

 

デジタル大辞泉より

 

※2ボリシェヴィキ革命(十月革命)

社会主義左派勢力ボリシェヴィキにより引き起こされた。一連のロシア革命のなかでは、帝政を崩壊させ、立憲民主党(カデット)主導の臨時政府を成立させた二月革命に次ぐ第二段階にあたる。

 

※3誤謬

思考内容と対象との一致しない思惟,判断など

 

日本でも気付けば、表現を改めた言葉が幾つかありますが、この本を読むまで深く考えることもありませんでした。「保母」を「保育士」などの表現に改めたことなどに関しては、昔は女性の仕事とされていた分野に男性が従事していることを考えるならば、当然かと考える程度でした。ただ、「メリークリスマス」を「ハッピーホリデーズ」に言い換えることに関しては、流石に「何それ・・・」と頭の中が「?」だらけになりました。

 

差別の解消の錦の御旗を掲げて重箱の隅をつつくような運動には以前から疑問を感じていました。国内の差別の解消を声高に叫ぶ前に中国で行われている人権侵害について少しは抗議する方が先だろうといつも思っていましたが、これも左翼の活動の一環かと変に納得しました。

 

さて、「西欧文明が労働者階級の目を覆(おお)い、真の階級利益をわからなくさせている。共産主義革命を成功させるには、したがって西欧文明そのものを破壊せねばならない」とありますが、左翼が自分たちの勢力を拡大するために伝統的な文化を破壊するように不成仏霊も自分たちの居心地を良くするために、生きている人間が神仏と縁を持たせないように仕向けます。これは伝統的な文化の破壊とも言えます。その意味では共通していると感じました。

 

菩提寺のご住職とお話をしていますと、葬儀の後に初七日を終えた後に二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日と七日毎の追善供養をされる方は少なく、初七日の次は七七日の四十九日で終わってしまう方が多いようです。また、百か日の法要も行わない方も多く、一周忌が終われば、後の三回忌以降をされない方も少なくないようです。管理人の父は、今年の年明けが三十三回忌でしたので、家族だけの法要をさせて頂きました。

 

父方の叔父や叔母は既に他界していることから親類と言っても従兄弟となっています。また、大勢の方に来て頂きますと駐車場を確保しなければならない問題もあります。そんな訳で家族だけの三十三回忌となりましたが、母の法事も家族だけの法事となりそうです。これも世の中の流れかと考えていましたが、それだけ仏縁を得る機会がどんどん減っているのではないかと考えます。確かに一般の人間からするならば、お経を聞いていても意味が分からず、その功徳を実感されることもないと思いますが、仏縁を頂く機会と考えることはできます。

 

また、住宅事情の変化もあり、仏壇や神棚のない家も増えていることも神仏の縁が薄くなっていると言えます。しかし、仏壇と神棚は、霊障対策を考えますと非常に重要であり、お勧めしたいところです。仏壇を祀ることが困難な場合には、簡易型の仏壇や三つ折り本尊などもありますし、神棚の場合には壁掛け式の神棚も販売されていますので、仏壇や神棚を祀られていない場合には、検討されることをお勧めします。尚、一部の宗旨では、神棚を祀るべきではないとされています。この場合には、ご自身で判断して頂くしかないと言えます。

 

さて、様々な事情から法事は簡素化され、仏壇や神棚を祀られる家が少なくなっています。これらのことがすべて不成仏霊の影響とは思いませんが、不成仏霊は生きている人間が神仏と縁を持たせないようにするのが常套手段です。特に不成仏霊に完全に支配されている場合には、神仏や宗教に対する反発が強くなる傾向があります。その意味では、法事を簡素化するように仕向ける、仏壇や神棚を祀らせないなどは、不成仏霊の嫌がらせなのかもしれません。

 

しかし、この説明は新興宗教が家族に信仰を反対されている場合に使われる常套手段です。つまりあなたの光が強くなっていることを嫌う不成仏霊があなたの活動を妨害しているから負けてはならないと言った説明をします。本人は、その教えを信じていることから家族のためにも頑張らねばとの気持ちとなります。その繰り返しが家族や友人とも疎遠となり、気付けば本人の周囲には同じ信仰を持つ人間ばかりとなります。その結果、社会的に孤立することになり、社会から孤立するならば、盲信から抜け出すことは更に難しくなります。

 

その意味では、親兄弟だけが集まる法事であっても継続する、簡易型であっても仏壇と神棚を祀る、それが困難な場合には、お彼岸やお盆には、自宅の宗旨のお寺で先祖供養をして頂くなど、生活に溶け込んだ文化としての信仰を守ることが大切であると思います。逆に言えば、生活に溶け込んだ文化としての信仰が崩れることが霊障の入り口ではないでしょうか。その意味では、左翼化の入口が文化の破壊なのと同じです。

 

 

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